「収納がない家」に住む私が直面した想定外の事

これが慌てて購入した中古のタンス。近所の昭和家具屋で確か1万6000円くらいでした(写真:筆者提供)
疫病、災害、老後……。これほど便利で豊かな時代なのに、なぜだか未来は不安でいっぱい。そんな中、50歳で早期退職し、コロナ禍で講演収入がほぼゼロとなっても、楽しく我慢なしの「買わない生活」をしているという稲垣えみ子氏。不安の時代の最強のライフスタイルを実践する筆者の徒然日記、連載第7回をお届けします。
前回、会社を辞めて生きていくには、どうやら「キラキラ」生活を諦めねばならないかもしれないという現実に気づいたときのことを書いた。
稲垣えみ子氏による連載7回目です。
で、結論から言うと実際に諦めることになったわけなんだが、この「キラキラを諦めて生きる」とは具体的にどういうことなのか、いざ自分で実行するまで、私は何にもわかっちゃいなかった。直面してみて初めて、想像を絶する事態への予感に打ち震えた。
今回はそのことを書こうと思う。もちろんこれは私の個人的体験にすぎないが、何が起きるかわからない世の中であります。当たり前と思っていたことがまったく当たり前じゃなくなることもあるってことを我らコロナで思い知ったばかり。なので何はともあれ、「当たり前のものを失った」人間の体験を知っておくことは無駄じゃないと私は思う。というわけで、書く。最初は、そんなに深刻なこととは思っていなかったのだ。確かに会社を辞めて給料がもらえなくなるのは非常事態だが、前回書いたように自炊して食っていくだけなら月2万ほど。安いアパートを探して慎ましく生活すればなんとかなるはず。問題のキラキラも、服は今あるものを使い回し、化粧品もブランドにこだわらなければ安いものはいくらもあろう。つまりは暮らしのランクをそれなりに落とせば良い。実際には「ランクを落とす」と想像するだけでも当時の私には相当な胆力を要したが、何しろ会社を辞めるのだ。あれもこれもは無理である。そこさえ歯を食いしばって耐えれば、持続可能な人生が送れるはずだと自分なりに腹をくくった。甘かった。出だしからつまずいた。今までの半額以下の家賃でようやく見つけた築50年の極小ワンルームは、壁がシミだらけにせよ窓が大きく見晴らし最高というラブリー物件だったんだが、驚いたことに収納というものが一切なかった。クロゼットや押入れはもちろん、靴箱も洗面下収納もない。ついでに冷蔵庫置き場も洗濯機置き場もない。いやいやこんな家見たことないんですけど! 不動産屋さんも「ここで暮らすのは現実的じゃないかも」と苦笑いしている。なるほど。何かを取れば何かを失うのだ。この家賃にしては貴重すぎる「見晴らし」を得るには、それだけ大きな代償が必要だった。人魚姫が地上に上がるために声を失ったように、ここで暮らすには、私はいっさいの所有物をことごとく手放さねばならない。そして今後は収入が激減するわけだから、手放した同等のものを再び手に入れることは不可能と覚悟すべきであろう。つまりは、お金だけでなくモノも一気に失う。「ランクを落とす」どころじゃない。ランク外の暮らしへ転落すると言ってもいい。ずっと「買うこと」のために人生を費やしてきたいやね、正直、めちゃくちゃ悩みましたよ。何よりその先の人生ってものが、もうまったく想像がつかなかった。当然である。改めて考えてみれば、私はずっと「買うこと」のために人生を費やしてきたのかもしれない。洋服狂いであり、化粧品狂いであり、ついでに食狂いであった。一言で言えば「グルメとショッピング」ってやつですな。現代の典型的な消費者。毎シーズン山のように服を買い、流行の化粧品をチェックして、エステなんぞにも通っちゃったりして、話題の美味しいものを食べ歩いた。それこそが幸せであり、それを目一杯楽しむために、ストレス満載ながらも会社での競争に果敢に参入し、なんとかそこそこの位置につけ財力を手にした自分をイケていると思っていたんだよ当時の私は。だからこそ人様も自分に一目置いてくださるのだと信じて生きてきた。今にして思えば、実際にイケていたかどうかも一目置かれていたかどうかもまったく不明。でも肝心なのは客観的評価より自分の納得だ。私は間違いなく、そんな自分であることを心の拠り所にして生きてきた。改めて考えるとバカじゃないかという気もするが、実際にそうだったのだ。で、そんな幸せが一気に私の眼の前から消えると。そして人生100年とすれば、その状態であとの半世紀を生き続けると……。それって……どういう人生なのか?っていうか、それってそもそも「私」と言えるのかね。もちろん、いくら考えても答えは出なかったし、他に魅力的な選択肢があるわけでもなかった。限られた予算ではそれなりの物件しかないのであり、腰が引けるような家々を見まくって意気消沈していた身としては、多大なる欠点はあれど愛すべきジャジャ馬のようなこの家を乗りこなすしかないという心の声が勝ったのである。のるか、そるか。そんな切羽詰まった気持ちで不動産屋さんに電話したときのことを今も思い出す。「あの家に決めようと思います」。後には引き返せない三途の川を渡った気分であった。ナイフとフォークはなくていいというわけで、前代未聞の怒涛の「モノ捨て」開始である。何しろ収納ゼロということは、持ち物をゼロにしなきゃいけないということだ。さすがに裸で生きるわけにはいかないので小さな中古タンスを1つ買ったが、ここに服もコートも山の道具も仕事の資料も下着もパジャマもリネンもタオルも全部入れなきゃならんとなると、もうほとんど何も入らないに等しい。当時住んでいた高級マンションのウォークインクロゼットやらシューズインクロゼットやらから引っ張り出した我が持ち物は、実際に目前にすると小山のようであった。こんなんあのタンスになんて絶対入らない。これはもうマジでえらい事態だということに、私は改めて気づいたのである。いわゆる世間でいう「断捨離」とは、使っていないもの、要するにいらないものは処分してスッキリ生きようってことだと思うんだが、私が直面したのはそれとはまったく次元の違う事態である。私は要らないものじゃなく、要るものまで処分しなきゃならんのだ。というか、何が「要るもの」なのかという定義を大幅に変更しなければならないのであった。「これってときめく?」などという可愛らしい問いを発している場合ではなく、「これがなきゃ死ぬかどうか」という次元まで落として考える羽目になったのである。それがどういうことかと言いますと、例えばウンウン考えた挙げ句、私はフォークやナイフやスプーンをすべて処分した。さらにお玉やらフライ返しやら泡立て器やらの調理道具セットもすべて処分した。残したのは箸2膳と小さな木のスプーン1個のみ。ナイフとフォークがなくとも箸さえあれば、必要なら歯で食いちぎって食べれば良いし、料理するのも食べるの自分なんだから鍋をかき回したスプーンで食事すれば良いのである。タオル類は、薄いフェイスタオルを1枚だけ残すことにした。これで体も顔も拭き、毎日洗えば無問題。バスタオルがなくとも死ぬわけじゃない。キラキラを処分するとどうなる?もうほとんどボクサーの減量レベルの「減物」だった。当然、キラキラどころの騒ぎではない。我がキラキラはことごとく、即座に「要らない」世界へと落ちていった。何しろ「入らない」んである。ああ収納がないとはげに恐ろしき。洗面台の上に取り付けられた鏡の裏のわずかな収納スペース。我が山のような化粧品はとてもじゃないが入らない……(写真:筆者提供)例えばある日、私はポーチに入れた「爪のお手入れセット」の中身を点検し、途方に暮れていた。改めて見ると、爪にマニキュアを塗るだけでもさまざまな道具が必要なことに驚いてしまう。爪ヤスリ、ベースコート、トップコート、除光液、そしてマニキュア……何とか減らせないかと頭をひねるも、爪を傷めず色付けようと思えばどれも減らすことはできないのであった。でもどう考えても、こんな「ぜい肉」は我が新居に入る隙間などない。となると、私に残された選択肢は1つ……仕方ない。これ全部、処分するか……と思った途端、それが何を意味するかを考え、私は呆然とした。私はこれからの人生を、裸の爪で生きていくのだ。非常に具体的なことを言いますと、私、足の爪がまったくキレイじゃないので、夏のサンダルシーズンになるととてもじゃないが素の爪を人様にさらす自信はなく、濃い色でダメ爪を隠しオシャレふうに装ってきたのである。でもこれからは、我が灰色に濁った、薄汚れたようにしか見えないダメ爪を人様に堂々とさらして生きていかねばならない。うーん。想像するだに厳しい現実だった。台所用品やタオルを減らすのは、自分さえ納得してしまえば終わりである。何しろ人様には見えない。しかしキラキラを処分すると、これはもう人様に見えるのだ。輝いていたつもりの自分が確実にくすんでいく。だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
もちろんこれは私の個人的体験にすぎないが、何が起きるかわからない世の中であります。当たり前と思っていたことがまったく当たり前じゃなくなることもあるってことを我らコロナで思い知ったばかり。なので何はともあれ、「当たり前のものを失った」人間の体験を知っておくことは無駄じゃないと私は思う。というわけで、書く。最初は、そんなに深刻なこととは思っていなかったのだ。確かに会社を辞めて給料がもらえなくなるのは非常事態だが、前回書いたように自炊して食っていくだけなら月2万ほど。安いアパートを探して慎ましく生活すればなんとかなるはず。問題のキラキラも、服は今あるものを使い回し、化粧品もブランドにこだわらなければ安いものはいくらもあろう。つまりは暮らしのランクをそれなりに落とせば良い。実際には「ランクを落とす」と想像するだけでも当時の私には相当な胆力を要したが、何しろ会社を辞めるのだ。あれもこれもは無理である。そこさえ歯を食いしばって耐えれば、持続可能な人生が送れるはずだと自分なりに腹をくくった。甘かった。出だしからつまずいた。今までの半額以下の家賃でようやく見つけた築50年の極小ワンルームは、壁がシミだらけにせよ窓が大きく見晴らし最高というラブリー物件だったんだが、驚いたことに収納というものが一切なかった。クロゼットや押入れはもちろん、靴箱も洗面下収納もない。ついでに冷蔵庫置き場も洗濯機置き場もない。いやいやこんな家見たことないんですけど! 不動産屋さんも「ここで暮らすのは現実的じゃないかも」と苦笑いしている。なるほど。何かを取れば何かを失うのだ。この家賃にしては貴重すぎる「見晴らし」を得るには、それだけ大きな代償が必要だった。人魚姫が地上に上がるために声を失ったように、ここで暮らすには、私はいっさいの所有物をことごとく手放さねばならない。そして今後は収入が激減するわけだから、手放した同等のものを再び手に入れることは不可能と覚悟すべきであろう。つまりは、お金だけでなくモノも一気に失う。「ランクを落とす」どころじゃない。ランク外の暮らしへ転落すると言ってもいい。ずっと「買うこと」のために人生を費やしてきたいやね、正直、めちゃくちゃ悩みましたよ。何よりその先の人生ってものが、もうまったく想像がつかなかった。当然である。改めて考えてみれば、私はずっと「買うこと」のために人生を費やしてきたのかもしれない。洋服狂いであり、化粧品狂いであり、ついでに食狂いであった。一言で言えば「グルメとショッピング」ってやつですな。現代の典型的な消費者。毎シーズン山のように服を買い、流行の化粧品をチェックして、エステなんぞにも通っちゃったりして、話題の美味しいものを食べ歩いた。それこそが幸せであり、それを目一杯楽しむために、ストレス満載ながらも会社での競争に果敢に参入し、なんとかそこそこの位置につけ財力を手にした自分をイケていると思っていたんだよ当時の私は。だからこそ人様も自分に一目置いてくださるのだと信じて生きてきた。今にして思えば、実際にイケていたかどうかも一目置かれていたかどうかもまったく不明。でも肝心なのは客観的評価より自分の納得だ。私は間違いなく、そんな自分であることを心の拠り所にして生きてきた。改めて考えるとバカじゃないかという気もするが、実際にそうだったのだ。で、そんな幸せが一気に私の眼の前から消えると。そして人生100年とすれば、その状態であとの半世紀を生き続けると……。それって……どういう人生なのか?っていうか、それってそもそも「私」と言えるのかね。もちろん、いくら考えても答えは出なかったし、他に魅力的な選択肢があるわけでもなかった。限られた予算ではそれなりの物件しかないのであり、腰が引けるような家々を見まくって意気消沈していた身としては、多大なる欠点はあれど愛すべきジャジャ馬のようなこの家を乗りこなすしかないという心の声が勝ったのである。のるか、そるか。そんな切羽詰まった気持ちで不動産屋さんに電話したときのことを今も思い出す。「あの家に決めようと思います」。後には引き返せない三途の川を渡った気分であった。ナイフとフォークはなくていいというわけで、前代未聞の怒涛の「モノ捨て」開始である。何しろ収納ゼロということは、持ち物をゼロにしなきゃいけないということだ。さすがに裸で生きるわけにはいかないので小さな中古タンスを1つ買ったが、ここに服もコートも山の道具も仕事の資料も下着もパジャマもリネンもタオルも全部入れなきゃならんとなると、もうほとんど何も入らないに等しい。当時住んでいた高級マンションのウォークインクロゼットやらシューズインクロゼットやらから引っ張り出した我が持ち物は、実際に目前にすると小山のようであった。こんなんあのタンスになんて絶対入らない。これはもうマジでえらい事態だということに、私は改めて気づいたのである。いわゆる世間でいう「断捨離」とは、使っていないもの、要するにいらないものは処分してスッキリ生きようってことだと思うんだが、私が直面したのはそれとはまったく次元の違う事態である。私は要らないものじゃなく、要るものまで処分しなきゃならんのだ。というか、何が「要るもの」なのかという定義を大幅に変更しなければならないのであった。「これってときめく?」などという可愛らしい問いを発している場合ではなく、「これがなきゃ死ぬかどうか」という次元まで落として考える羽目になったのである。それがどういうことかと言いますと、例えばウンウン考えた挙げ句、私はフォークやナイフやスプーンをすべて処分した。さらにお玉やらフライ返しやら泡立て器やらの調理道具セットもすべて処分した。残したのは箸2膳と小さな木のスプーン1個のみ。ナイフとフォークがなくとも箸さえあれば、必要なら歯で食いちぎって食べれば良いし、料理するのも食べるの自分なんだから鍋をかき回したスプーンで食事すれば良いのである。タオル類は、薄いフェイスタオルを1枚だけ残すことにした。これで体も顔も拭き、毎日洗えば無問題。バスタオルがなくとも死ぬわけじゃない。キラキラを処分するとどうなる?もうほとんどボクサーの減量レベルの「減物」だった。当然、キラキラどころの騒ぎではない。我がキラキラはことごとく、即座に「要らない」世界へと落ちていった。何しろ「入らない」んである。ああ収納がないとはげに恐ろしき。洗面台の上に取り付けられた鏡の裏のわずかな収納スペース。我が山のような化粧品はとてもじゃないが入らない……(写真:筆者提供)例えばある日、私はポーチに入れた「爪のお手入れセット」の中身を点検し、途方に暮れていた。改めて見ると、爪にマニキュアを塗るだけでもさまざまな道具が必要なことに驚いてしまう。爪ヤスリ、ベースコート、トップコート、除光液、そしてマニキュア……何とか減らせないかと頭をひねるも、爪を傷めず色付けようと思えばどれも減らすことはできないのであった。でもどう考えても、こんな「ぜい肉」は我が新居に入る隙間などない。となると、私に残された選択肢は1つ……仕方ない。これ全部、処分するか……と思った途端、それが何を意味するかを考え、私は呆然とした。私はこれからの人生を、裸の爪で生きていくのだ。非常に具体的なことを言いますと、私、足の爪がまったくキレイじゃないので、夏のサンダルシーズンになるととてもじゃないが素の爪を人様にさらす自信はなく、濃い色でダメ爪を隠しオシャレふうに装ってきたのである。でもこれからは、我が灰色に濁った、薄汚れたようにしか見えないダメ爪を人様に堂々とさらして生きていかねばならない。うーん。想像するだに厳しい現実だった。台所用品やタオルを減らすのは、自分さえ納得してしまえば終わりである。何しろ人様には見えない。しかしキラキラを処分すると、これはもう人様に見えるのだ。輝いていたつもりの自分が確実にくすんでいく。だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
最初は、そんなに深刻なこととは思っていなかったのだ。確かに会社を辞めて給料がもらえなくなるのは非常事態だが、前回書いたように自炊して食っていくだけなら月2万ほど。安いアパートを探して慎ましく生活すればなんとかなるはず。問題のキラキラも、服は今あるものを使い回し、化粧品もブランドにこだわらなければ安いものはいくらもあろう。つまりは暮らしのランクをそれなりに落とせば良い。実際には「ランクを落とす」と想像するだけでも当時の私には相当な胆力を要したが、何しろ会社を辞めるのだ。あれもこれもは無理である。そこさえ歯を食いしばって耐えれば、持続可能な人生が送れるはずだと自分なりに腹をくくった。甘かった。出だしからつまずいた。今までの半額以下の家賃でようやく見つけた築50年の極小ワンルームは、壁がシミだらけにせよ窓が大きく見晴らし最高というラブリー物件だったんだが、驚いたことに収納というものが一切なかった。クロゼットや押入れはもちろん、靴箱も洗面下収納もない。ついでに冷蔵庫置き場も洗濯機置き場もない。いやいやこんな家見たことないんですけど! 不動産屋さんも「ここで暮らすのは現実的じゃないかも」と苦笑いしている。なるほど。何かを取れば何かを失うのだ。この家賃にしては貴重すぎる「見晴らし」を得るには、それだけ大きな代償が必要だった。人魚姫が地上に上がるために声を失ったように、ここで暮らすには、私はいっさいの所有物をことごとく手放さねばならない。そして今後は収入が激減するわけだから、手放した同等のものを再び手に入れることは不可能と覚悟すべきであろう。つまりは、お金だけでなくモノも一気に失う。「ランクを落とす」どころじゃない。ランク外の暮らしへ転落すると言ってもいい。ずっと「買うこと」のために人生を費やしてきたいやね、正直、めちゃくちゃ悩みましたよ。何よりその先の人生ってものが、もうまったく想像がつかなかった。当然である。改めて考えてみれば、私はずっと「買うこと」のために人生を費やしてきたのかもしれない。洋服狂いであり、化粧品狂いであり、ついでに食狂いであった。一言で言えば「グルメとショッピング」ってやつですな。現代の典型的な消費者。毎シーズン山のように服を買い、流行の化粧品をチェックして、エステなんぞにも通っちゃったりして、話題の美味しいものを食べ歩いた。それこそが幸せであり、それを目一杯楽しむために、ストレス満載ながらも会社での競争に果敢に参入し、なんとかそこそこの位置につけ財力を手にした自分をイケていると思っていたんだよ当時の私は。だからこそ人様も自分に一目置いてくださるのだと信じて生きてきた。今にして思えば、実際にイケていたかどうかも一目置かれていたかどうかもまったく不明。でも肝心なのは客観的評価より自分の納得だ。私は間違いなく、そんな自分であることを心の拠り所にして生きてきた。改めて考えるとバカじゃないかという気もするが、実際にそうだったのだ。で、そんな幸せが一気に私の眼の前から消えると。そして人生100年とすれば、その状態であとの半世紀を生き続けると……。それって……どういう人生なのか?っていうか、それってそもそも「私」と言えるのかね。もちろん、いくら考えても答えは出なかったし、他に魅力的な選択肢があるわけでもなかった。限られた予算ではそれなりの物件しかないのであり、腰が引けるような家々を見まくって意気消沈していた身としては、多大なる欠点はあれど愛すべきジャジャ馬のようなこの家を乗りこなすしかないという心の声が勝ったのである。のるか、そるか。そんな切羽詰まった気持ちで不動産屋さんに電話したときのことを今も思い出す。「あの家に決めようと思います」。後には引き返せない三途の川を渡った気分であった。ナイフとフォークはなくていいというわけで、前代未聞の怒涛の「モノ捨て」開始である。何しろ収納ゼロということは、持ち物をゼロにしなきゃいけないということだ。さすがに裸で生きるわけにはいかないので小さな中古タンスを1つ買ったが、ここに服もコートも山の道具も仕事の資料も下着もパジャマもリネンもタオルも全部入れなきゃならんとなると、もうほとんど何も入らないに等しい。当時住んでいた高級マンションのウォークインクロゼットやらシューズインクロゼットやらから引っ張り出した我が持ち物は、実際に目前にすると小山のようであった。こんなんあのタンスになんて絶対入らない。これはもうマジでえらい事態だということに、私は改めて気づいたのである。いわゆる世間でいう「断捨離」とは、使っていないもの、要するにいらないものは処分してスッキリ生きようってことだと思うんだが、私が直面したのはそれとはまったく次元の違う事態である。私は要らないものじゃなく、要るものまで処分しなきゃならんのだ。というか、何が「要るもの」なのかという定義を大幅に変更しなければならないのであった。「これってときめく?」などという可愛らしい問いを発している場合ではなく、「これがなきゃ死ぬかどうか」という次元まで落として考える羽目になったのである。それがどういうことかと言いますと、例えばウンウン考えた挙げ句、私はフォークやナイフやスプーンをすべて処分した。さらにお玉やらフライ返しやら泡立て器やらの調理道具セットもすべて処分した。残したのは箸2膳と小さな木のスプーン1個のみ。ナイフとフォークがなくとも箸さえあれば、必要なら歯で食いちぎって食べれば良いし、料理するのも食べるの自分なんだから鍋をかき回したスプーンで食事すれば良いのである。タオル類は、薄いフェイスタオルを1枚だけ残すことにした。これで体も顔も拭き、毎日洗えば無問題。バスタオルがなくとも死ぬわけじゃない。キラキラを処分するとどうなる?もうほとんどボクサーの減量レベルの「減物」だった。当然、キラキラどころの騒ぎではない。我がキラキラはことごとく、即座に「要らない」世界へと落ちていった。何しろ「入らない」んである。ああ収納がないとはげに恐ろしき。洗面台の上に取り付けられた鏡の裏のわずかな収納スペース。我が山のような化粧品はとてもじゃないが入らない……(写真:筆者提供)例えばある日、私はポーチに入れた「爪のお手入れセット」の中身を点検し、途方に暮れていた。改めて見ると、爪にマニキュアを塗るだけでもさまざまな道具が必要なことに驚いてしまう。爪ヤスリ、ベースコート、トップコート、除光液、そしてマニキュア……何とか減らせないかと頭をひねるも、爪を傷めず色付けようと思えばどれも減らすことはできないのであった。でもどう考えても、こんな「ぜい肉」は我が新居に入る隙間などない。となると、私に残された選択肢は1つ……仕方ない。これ全部、処分するか……と思った途端、それが何を意味するかを考え、私は呆然とした。私はこれからの人生を、裸の爪で生きていくのだ。非常に具体的なことを言いますと、私、足の爪がまったくキレイじゃないので、夏のサンダルシーズンになるととてもじゃないが素の爪を人様にさらす自信はなく、濃い色でダメ爪を隠しオシャレふうに装ってきたのである。でもこれからは、我が灰色に濁った、薄汚れたようにしか見えないダメ爪を人様に堂々とさらして生きていかねばならない。うーん。想像するだに厳しい現実だった。台所用品やタオルを減らすのは、自分さえ納得してしまえば終わりである。何しろ人様には見えない。しかしキラキラを処分すると、これはもう人様に見えるのだ。輝いていたつもりの自分が確実にくすんでいく。だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
確かに会社を辞めて給料がもらえなくなるのは非常事態だが、前回書いたように自炊して食っていくだけなら月2万ほど。安いアパートを探して慎ましく生活すればなんとかなるはず。問題のキラキラも、服は今あるものを使い回し、化粧品もブランドにこだわらなければ安いものはいくらもあろう。つまりは暮らしのランクをそれなりに落とせば良い。実際には「ランクを落とす」と想像するだけでも当時の私には相当な胆力を要したが、何しろ会社を辞めるのだ。あれもこれもは無理である。そこさえ歯を食いしばって耐えれば、持続可能な人生が送れるはずだと自分なりに腹をくくった。甘かった。出だしからつまずいた。今までの半額以下の家賃でようやく見つけた築50年の極小ワンルームは、壁がシミだらけにせよ窓が大きく見晴らし最高というラブリー物件だったんだが、驚いたことに収納というものが一切なかった。クロゼットや押入れはもちろん、靴箱も洗面下収納もない。ついでに冷蔵庫置き場も洗濯機置き場もない。いやいやこんな家見たことないんですけど! 不動産屋さんも「ここで暮らすのは現実的じゃないかも」と苦笑いしている。なるほど。何かを取れば何かを失うのだ。この家賃にしては貴重すぎる「見晴らし」を得るには、それだけ大きな代償が必要だった。人魚姫が地上に上がるために声を失ったように、ここで暮らすには、私はいっさいの所有物をことごとく手放さねばならない。そして今後は収入が激減するわけだから、手放した同等のものを再び手に入れることは不可能と覚悟すべきであろう。つまりは、お金だけでなくモノも一気に失う。「ランクを落とす」どころじゃない。ランク外の暮らしへ転落すると言ってもいい。ずっと「買うこと」のために人生を費やしてきたいやね、正直、めちゃくちゃ悩みましたよ。何よりその先の人生ってものが、もうまったく想像がつかなかった。当然である。改めて考えてみれば、私はずっと「買うこと」のために人生を費やしてきたのかもしれない。洋服狂いであり、化粧品狂いであり、ついでに食狂いであった。一言で言えば「グルメとショッピング」ってやつですな。現代の典型的な消費者。毎シーズン山のように服を買い、流行の化粧品をチェックして、エステなんぞにも通っちゃったりして、話題の美味しいものを食べ歩いた。それこそが幸せであり、それを目一杯楽しむために、ストレス満載ながらも会社での競争に果敢に参入し、なんとかそこそこの位置につけ財力を手にした自分をイケていると思っていたんだよ当時の私は。だからこそ人様も自分に一目置いてくださるのだと信じて生きてきた。今にして思えば、実際にイケていたかどうかも一目置かれていたかどうかもまったく不明。でも肝心なのは客観的評価より自分の納得だ。私は間違いなく、そんな自分であることを心の拠り所にして生きてきた。改めて考えるとバカじゃないかという気もするが、実際にそうだったのだ。で、そんな幸せが一気に私の眼の前から消えると。そして人生100年とすれば、その状態であとの半世紀を生き続けると……。それって……どういう人生なのか?っていうか、それってそもそも「私」と言えるのかね。もちろん、いくら考えても答えは出なかったし、他に魅力的な選択肢があるわけでもなかった。限られた予算ではそれなりの物件しかないのであり、腰が引けるような家々を見まくって意気消沈していた身としては、多大なる欠点はあれど愛すべきジャジャ馬のようなこの家を乗りこなすしかないという心の声が勝ったのである。のるか、そるか。そんな切羽詰まった気持ちで不動産屋さんに電話したときのことを今も思い出す。「あの家に決めようと思います」。後には引き返せない三途の川を渡った気分であった。ナイフとフォークはなくていいというわけで、前代未聞の怒涛の「モノ捨て」開始である。何しろ収納ゼロということは、持ち物をゼロにしなきゃいけないということだ。さすがに裸で生きるわけにはいかないので小さな中古タンスを1つ買ったが、ここに服もコートも山の道具も仕事の資料も下着もパジャマもリネンもタオルも全部入れなきゃならんとなると、もうほとんど何も入らないに等しい。当時住んでいた高級マンションのウォークインクロゼットやらシューズインクロゼットやらから引っ張り出した我が持ち物は、実際に目前にすると小山のようであった。こんなんあのタンスになんて絶対入らない。これはもうマジでえらい事態だということに、私は改めて気づいたのである。いわゆる世間でいう「断捨離」とは、使っていないもの、要するにいらないものは処分してスッキリ生きようってことだと思うんだが、私が直面したのはそれとはまったく次元の違う事態である。私は要らないものじゃなく、要るものまで処分しなきゃならんのだ。というか、何が「要るもの」なのかという定義を大幅に変更しなければならないのであった。「これってときめく?」などという可愛らしい問いを発している場合ではなく、「これがなきゃ死ぬかどうか」という次元まで落として考える羽目になったのである。それがどういうことかと言いますと、例えばウンウン考えた挙げ句、私はフォークやナイフやスプーンをすべて処分した。さらにお玉やらフライ返しやら泡立て器やらの調理道具セットもすべて処分した。残したのは箸2膳と小さな木のスプーン1個のみ。ナイフとフォークがなくとも箸さえあれば、必要なら歯で食いちぎって食べれば良いし、料理するのも食べるの自分なんだから鍋をかき回したスプーンで食事すれば良いのである。タオル類は、薄いフェイスタオルを1枚だけ残すことにした。これで体も顔も拭き、毎日洗えば無問題。バスタオルがなくとも死ぬわけじゃない。キラキラを処分するとどうなる?もうほとんどボクサーの減量レベルの「減物」だった。当然、キラキラどころの騒ぎではない。我がキラキラはことごとく、即座に「要らない」世界へと落ちていった。何しろ「入らない」んである。ああ収納がないとはげに恐ろしき。洗面台の上に取り付けられた鏡の裏のわずかな収納スペース。我が山のような化粧品はとてもじゃないが入らない……(写真:筆者提供)例えばある日、私はポーチに入れた「爪のお手入れセット」の中身を点検し、途方に暮れていた。改めて見ると、爪にマニキュアを塗るだけでもさまざまな道具が必要なことに驚いてしまう。爪ヤスリ、ベースコート、トップコート、除光液、そしてマニキュア……何とか減らせないかと頭をひねるも、爪を傷めず色付けようと思えばどれも減らすことはできないのであった。でもどう考えても、こんな「ぜい肉」は我が新居に入る隙間などない。となると、私に残された選択肢は1つ……仕方ない。これ全部、処分するか……と思った途端、それが何を意味するかを考え、私は呆然とした。私はこれからの人生を、裸の爪で生きていくのだ。非常に具体的なことを言いますと、私、足の爪がまったくキレイじゃないので、夏のサンダルシーズンになるととてもじゃないが素の爪を人様にさらす自信はなく、濃い色でダメ爪を隠しオシャレふうに装ってきたのである。でもこれからは、我が灰色に濁った、薄汚れたようにしか見えないダメ爪を人様に堂々とさらして生きていかねばならない。うーん。想像するだに厳しい現実だった。台所用品やタオルを減らすのは、自分さえ納得してしまえば終わりである。何しろ人様には見えない。しかしキラキラを処分すると、これはもう人様に見えるのだ。輝いていたつもりの自分が確実にくすんでいく。だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
実際には「ランクを落とす」と想像するだけでも当時の私には相当な胆力を要したが、何しろ会社を辞めるのだ。あれもこれもは無理である。そこさえ歯を食いしばって耐えれば、持続可能な人生が送れるはずだと自分なりに腹をくくった。甘かった。出だしからつまずいた。今までの半額以下の家賃でようやく見つけた築50年の極小ワンルームは、壁がシミだらけにせよ窓が大きく見晴らし最高というラブリー物件だったんだが、驚いたことに収納というものが一切なかった。クロゼットや押入れはもちろん、靴箱も洗面下収納もない。ついでに冷蔵庫置き場も洗濯機置き場もない。いやいやこんな家見たことないんですけど! 不動産屋さんも「ここで暮らすのは現実的じゃないかも」と苦笑いしている。なるほど。何かを取れば何かを失うのだ。この家賃にしては貴重すぎる「見晴らし」を得るには、それだけ大きな代償が必要だった。人魚姫が地上に上がるために声を失ったように、ここで暮らすには、私はいっさいの所有物をことごとく手放さねばならない。そして今後は収入が激減するわけだから、手放した同等のものを再び手に入れることは不可能と覚悟すべきであろう。つまりは、お金だけでなくモノも一気に失う。「ランクを落とす」どころじゃない。ランク外の暮らしへ転落すると言ってもいい。ずっと「買うこと」のために人生を費やしてきたいやね、正直、めちゃくちゃ悩みましたよ。何よりその先の人生ってものが、もうまったく想像がつかなかった。当然である。改めて考えてみれば、私はずっと「買うこと」のために人生を費やしてきたのかもしれない。洋服狂いであり、化粧品狂いであり、ついでに食狂いであった。一言で言えば「グルメとショッピング」ってやつですな。現代の典型的な消費者。毎シーズン山のように服を買い、流行の化粧品をチェックして、エステなんぞにも通っちゃったりして、話題の美味しいものを食べ歩いた。それこそが幸せであり、それを目一杯楽しむために、ストレス満載ながらも会社での競争に果敢に参入し、なんとかそこそこの位置につけ財力を手にした自分をイケていると思っていたんだよ当時の私は。だからこそ人様も自分に一目置いてくださるのだと信じて生きてきた。今にして思えば、実際にイケていたかどうかも一目置かれていたかどうかもまったく不明。でも肝心なのは客観的評価より自分の納得だ。私は間違いなく、そんな自分であることを心の拠り所にして生きてきた。改めて考えるとバカじゃないかという気もするが、実際にそうだったのだ。で、そんな幸せが一気に私の眼の前から消えると。そして人生100年とすれば、その状態であとの半世紀を生き続けると……。それって……どういう人生なのか?っていうか、それってそもそも「私」と言えるのかね。もちろん、いくら考えても答えは出なかったし、他に魅力的な選択肢があるわけでもなかった。限られた予算ではそれなりの物件しかないのであり、腰が引けるような家々を見まくって意気消沈していた身としては、多大なる欠点はあれど愛すべきジャジャ馬のようなこの家を乗りこなすしかないという心の声が勝ったのである。のるか、そるか。そんな切羽詰まった気持ちで不動産屋さんに電話したときのことを今も思い出す。「あの家に決めようと思います」。後には引き返せない三途の川を渡った気分であった。ナイフとフォークはなくていいというわけで、前代未聞の怒涛の「モノ捨て」開始である。何しろ収納ゼロということは、持ち物をゼロにしなきゃいけないということだ。さすがに裸で生きるわけにはいかないので小さな中古タンスを1つ買ったが、ここに服もコートも山の道具も仕事の資料も下着もパジャマもリネンもタオルも全部入れなきゃならんとなると、もうほとんど何も入らないに等しい。当時住んでいた高級マンションのウォークインクロゼットやらシューズインクロゼットやらから引っ張り出した我が持ち物は、実際に目前にすると小山のようであった。こんなんあのタンスになんて絶対入らない。これはもうマジでえらい事態だということに、私は改めて気づいたのである。いわゆる世間でいう「断捨離」とは、使っていないもの、要するにいらないものは処分してスッキリ生きようってことだと思うんだが、私が直面したのはそれとはまったく次元の違う事態である。私は要らないものじゃなく、要るものまで処分しなきゃならんのだ。というか、何が「要るもの」なのかという定義を大幅に変更しなければならないのであった。「これってときめく?」などという可愛らしい問いを発している場合ではなく、「これがなきゃ死ぬかどうか」という次元まで落として考える羽目になったのである。それがどういうことかと言いますと、例えばウンウン考えた挙げ句、私はフォークやナイフやスプーンをすべて処分した。さらにお玉やらフライ返しやら泡立て器やらの調理道具セットもすべて処分した。残したのは箸2膳と小さな木のスプーン1個のみ。ナイフとフォークがなくとも箸さえあれば、必要なら歯で食いちぎって食べれば良いし、料理するのも食べるの自分なんだから鍋をかき回したスプーンで食事すれば良いのである。タオル類は、薄いフェイスタオルを1枚だけ残すことにした。これで体も顔も拭き、毎日洗えば無問題。バスタオルがなくとも死ぬわけじゃない。キラキラを処分するとどうなる?もうほとんどボクサーの減量レベルの「減物」だった。当然、キラキラどころの騒ぎではない。我がキラキラはことごとく、即座に「要らない」世界へと落ちていった。何しろ「入らない」んである。ああ収納がないとはげに恐ろしき。洗面台の上に取り付けられた鏡の裏のわずかな収納スペース。我が山のような化粧品はとてもじゃないが入らない……(写真:筆者提供)例えばある日、私はポーチに入れた「爪のお手入れセット」の中身を点検し、途方に暮れていた。改めて見ると、爪にマニキュアを塗るだけでもさまざまな道具が必要なことに驚いてしまう。爪ヤスリ、ベースコート、トップコート、除光液、そしてマニキュア……何とか減らせないかと頭をひねるも、爪を傷めず色付けようと思えばどれも減らすことはできないのであった。でもどう考えても、こんな「ぜい肉」は我が新居に入る隙間などない。となると、私に残された選択肢は1つ……仕方ない。これ全部、処分するか……と思った途端、それが何を意味するかを考え、私は呆然とした。私はこれからの人生を、裸の爪で生きていくのだ。非常に具体的なことを言いますと、私、足の爪がまったくキレイじゃないので、夏のサンダルシーズンになるととてもじゃないが素の爪を人様にさらす自信はなく、濃い色でダメ爪を隠しオシャレふうに装ってきたのである。でもこれからは、我が灰色に濁った、薄汚れたようにしか見えないダメ爪を人様に堂々とさらして生きていかねばならない。うーん。想像するだに厳しい現実だった。台所用品やタオルを減らすのは、自分さえ納得してしまえば終わりである。何しろ人様には見えない。しかしキラキラを処分すると、これはもう人様に見えるのだ。輝いていたつもりの自分が確実にくすんでいく。だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
甘かった。出だしからつまずいた。今までの半額以下の家賃でようやく見つけた築50年の極小ワンルームは、壁がシミだらけにせよ窓が大きく見晴らし最高というラブリー物件だったんだが、驚いたことに収納というものが一切なかった。クロゼットや押入れはもちろん、靴箱も洗面下収納もない。ついでに冷蔵庫置き場も洗濯機置き場もない。いやいやこんな家見たことないんですけど! 不動産屋さんも「ここで暮らすのは現実的じゃないかも」と苦笑いしている。なるほど。何かを取れば何かを失うのだ。この家賃にしては貴重すぎる「見晴らし」を得るには、それだけ大きな代償が必要だった。人魚姫が地上に上がるために声を失ったように、ここで暮らすには、私はいっさいの所有物をことごとく手放さねばならない。そして今後は収入が激減するわけだから、手放した同等のものを再び手に入れることは不可能と覚悟すべきであろう。つまりは、お金だけでなくモノも一気に失う。「ランクを落とす」どころじゃない。ランク外の暮らしへ転落すると言ってもいい。ずっと「買うこと」のために人生を費やしてきたいやね、正直、めちゃくちゃ悩みましたよ。何よりその先の人生ってものが、もうまったく想像がつかなかった。当然である。改めて考えてみれば、私はずっと「買うこと」のために人生を費やしてきたのかもしれない。洋服狂いであり、化粧品狂いであり、ついでに食狂いであった。一言で言えば「グルメとショッピング」ってやつですな。現代の典型的な消費者。毎シーズン山のように服を買い、流行の化粧品をチェックして、エステなんぞにも通っちゃったりして、話題の美味しいものを食べ歩いた。それこそが幸せであり、それを目一杯楽しむために、ストレス満載ながらも会社での競争に果敢に参入し、なんとかそこそこの位置につけ財力を手にした自分をイケていると思っていたんだよ当時の私は。だからこそ人様も自分に一目置いてくださるのだと信じて生きてきた。今にして思えば、実際にイケていたかどうかも一目置かれていたかどうかもまったく不明。でも肝心なのは客観的評価より自分の納得だ。私は間違いなく、そんな自分であることを心の拠り所にして生きてきた。改めて考えるとバカじゃないかという気もするが、実際にそうだったのだ。で、そんな幸せが一気に私の眼の前から消えると。そして人生100年とすれば、その状態であとの半世紀を生き続けると……。それって……どういう人生なのか?っていうか、それってそもそも「私」と言えるのかね。もちろん、いくら考えても答えは出なかったし、他に魅力的な選択肢があるわけでもなかった。限られた予算ではそれなりの物件しかないのであり、腰が引けるような家々を見まくって意気消沈していた身としては、多大なる欠点はあれど愛すべきジャジャ馬のようなこの家を乗りこなすしかないという心の声が勝ったのである。のるか、そるか。そんな切羽詰まった気持ちで不動産屋さんに電話したときのことを今も思い出す。「あの家に決めようと思います」。後には引き返せない三途の川を渡った気分であった。ナイフとフォークはなくていいというわけで、前代未聞の怒涛の「モノ捨て」開始である。何しろ収納ゼロということは、持ち物をゼロにしなきゃいけないということだ。さすがに裸で生きるわけにはいかないので小さな中古タンスを1つ買ったが、ここに服もコートも山の道具も仕事の資料も下着もパジャマもリネンもタオルも全部入れなきゃならんとなると、もうほとんど何も入らないに等しい。当時住んでいた高級マンションのウォークインクロゼットやらシューズインクロゼットやらから引っ張り出した我が持ち物は、実際に目前にすると小山のようであった。こんなんあのタンスになんて絶対入らない。これはもうマジでえらい事態だということに、私は改めて気づいたのである。いわゆる世間でいう「断捨離」とは、使っていないもの、要するにいらないものは処分してスッキリ生きようってことだと思うんだが、私が直面したのはそれとはまったく次元の違う事態である。私は要らないものじゃなく、要るものまで処分しなきゃならんのだ。というか、何が「要るもの」なのかという定義を大幅に変更しなければならないのであった。「これってときめく?」などという可愛らしい問いを発している場合ではなく、「これがなきゃ死ぬかどうか」という次元まで落として考える羽目になったのである。それがどういうことかと言いますと、例えばウンウン考えた挙げ句、私はフォークやナイフやスプーンをすべて処分した。さらにお玉やらフライ返しやら泡立て器やらの調理道具セットもすべて処分した。残したのは箸2膳と小さな木のスプーン1個のみ。ナイフとフォークがなくとも箸さえあれば、必要なら歯で食いちぎって食べれば良いし、料理するのも食べるの自分なんだから鍋をかき回したスプーンで食事すれば良いのである。タオル類は、薄いフェイスタオルを1枚だけ残すことにした。これで体も顔も拭き、毎日洗えば無問題。バスタオルがなくとも死ぬわけじゃない。キラキラを処分するとどうなる?もうほとんどボクサーの減量レベルの「減物」だった。当然、キラキラどころの騒ぎではない。我がキラキラはことごとく、即座に「要らない」世界へと落ちていった。何しろ「入らない」んである。ああ収納がないとはげに恐ろしき。洗面台の上に取り付けられた鏡の裏のわずかな収納スペース。我が山のような化粧品はとてもじゃないが入らない……(写真:筆者提供)例えばある日、私はポーチに入れた「爪のお手入れセット」の中身を点検し、途方に暮れていた。改めて見ると、爪にマニキュアを塗るだけでもさまざまな道具が必要なことに驚いてしまう。爪ヤスリ、ベースコート、トップコート、除光液、そしてマニキュア……何とか減らせないかと頭をひねるも、爪を傷めず色付けようと思えばどれも減らすことはできないのであった。でもどう考えても、こんな「ぜい肉」は我が新居に入る隙間などない。となると、私に残された選択肢は1つ……仕方ない。これ全部、処分するか……と思った途端、それが何を意味するかを考え、私は呆然とした。私はこれからの人生を、裸の爪で生きていくのだ。非常に具体的なことを言いますと、私、足の爪がまったくキレイじゃないので、夏のサンダルシーズンになるととてもじゃないが素の爪を人様にさらす自信はなく、濃い色でダメ爪を隠しオシャレふうに装ってきたのである。でもこれからは、我が灰色に濁った、薄汚れたようにしか見えないダメ爪を人様に堂々とさらして生きていかねばならない。うーん。想像するだに厳しい現実だった。台所用品やタオルを減らすのは、自分さえ納得してしまえば終わりである。何しろ人様には見えない。しかしキラキラを処分すると、これはもう人様に見えるのだ。輝いていたつもりの自分が確実にくすんでいく。だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
出だしからつまずいた。今までの半額以下の家賃でようやく見つけた築50年の極小ワンルームは、壁がシミだらけにせよ窓が大きく見晴らし最高というラブリー物件だったんだが、驚いたことに収納というものが一切なかった。クロゼットや押入れはもちろん、靴箱も洗面下収納もない。ついでに冷蔵庫置き場も洗濯機置き場もない。いやいやこんな家見たことないんですけど! 不動産屋さんも「ここで暮らすのは現実的じゃないかも」と苦笑いしている。なるほど。何かを取れば何かを失うのだ。この家賃にしては貴重すぎる「見晴らし」を得るには、それだけ大きな代償が必要だった。人魚姫が地上に上がるために声を失ったように、ここで暮らすには、私はいっさいの所有物をことごとく手放さねばならない。そして今後は収入が激減するわけだから、手放した同等のものを再び手に入れることは不可能と覚悟すべきであろう。つまりは、お金だけでなくモノも一気に失う。「ランクを落とす」どころじゃない。ランク外の暮らしへ転落すると言ってもいい。ずっと「買うこと」のために人生を費やしてきたいやね、正直、めちゃくちゃ悩みましたよ。何よりその先の人生ってものが、もうまったく想像がつかなかった。当然である。改めて考えてみれば、私はずっと「買うこと」のために人生を費やしてきたのかもしれない。洋服狂いであり、化粧品狂いであり、ついでに食狂いであった。一言で言えば「グルメとショッピング」ってやつですな。現代の典型的な消費者。毎シーズン山のように服を買い、流行の化粧品をチェックして、エステなんぞにも通っちゃったりして、話題の美味しいものを食べ歩いた。それこそが幸せであり、それを目一杯楽しむために、ストレス満載ながらも会社での競争に果敢に参入し、なんとかそこそこの位置につけ財力を手にした自分をイケていると思っていたんだよ当時の私は。だからこそ人様も自分に一目置いてくださるのだと信じて生きてきた。今にして思えば、実際にイケていたかどうかも一目置かれていたかどうかもまったく不明。でも肝心なのは客観的評価より自分の納得だ。私は間違いなく、そんな自分であることを心の拠り所にして生きてきた。改めて考えるとバカじゃないかという気もするが、実際にそうだったのだ。で、そんな幸せが一気に私の眼の前から消えると。そして人生100年とすれば、その状態であとの半世紀を生き続けると……。それって……どういう人生なのか?っていうか、それってそもそも「私」と言えるのかね。もちろん、いくら考えても答えは出なかったし、他に魅力的な選択肢があるわけでもなかった。限られた予算ではそれなりの物件しかないのであり、腰が引けるような家々を見まくって意気消沈していた身としては、多大なる欠点はあれど愛すべきジャジャ馬のようなこの家を乗りこなすしかないという心の声が勝ったのである。のるか、そるか。そんな切羽詰まった気持ちで不動産屋さんに電話したときのことを今も思い出す。「あの家に決めようと思います」。後には引き返せない三途の川を渡った気分であった。ナイフとフォークはなくていいというわけで、前代未聞の怒涛の「モノ捨て」開始である。何しろ収納ゼロということは、持ち物をゼロにしなきゃいけないということだ。さすがに裸で生きるわけにはいかないので小さな中古タンスを1つ買ったが、ここに服もコートも山の道具も仕事の資料も下着もパジャマもリネンもタオルも全部入れなきゃならんとなると、もうほとんど何も入らないに等しい。当時住んでいた高級マンションのウォークインクロゼットやらシューズインクロゼットやらから引っ張り出した我が持ち物は、実際に目前にすると小山のようであった。こんなんあのタンスになんて絶対入らない。これはもうマジでえらい事態だということに、私は改めて気づいたのである。いわゆる世間でいう「断捨離」とは、使っていないもの、要するにいらないものは処分してスッキリ生きようってことだと思うんだが、私が直面したのはそれとはまったく次元の違う事態である。私は要らないものじゃなく、要るものまで処分しなきゃならんのだ。というか、何が「要るもの」なのかという定義を大幅に変更しなければならないのであった。「これってときめく?」などという可愛らしい問いを発している場合ではなく、「これがなきゃ死ぬかどうか」という次元まで落として考える羽目になったのである。それがどういうことかと言いますと、例えばウンウン考えた挙げ句、私はフォークやナイフやスプーンをすべて処分した。さらにお玉やらフライ返しやら泡立て器やらの調理道具セットもすべて処分した。残したのは箸2膳と小さな木のスプーン1個のみ。ナイフとフォークがなくとも箸さえあれば、必要なら歯で食いちぎって食べれば良いし、料理するのも食べるの自分なんだから鍋をかき回したスプーンで食事すれば良いのである。タオル類は、薄いフェイスタオルを1枚だけ残すことにした。これで体も顔も拭き、毎日洗えば無問題。バスタオルがなくとも死ぬわけじゃない。キラキラを処分するとどうなる?もうほとんどボクサーの減量レベルの「減物」だった。当然、キラキラどころの騒ぎではない。我がキラキラはことごとく、即座に「要らない」世界へと落ちていった。何しろ「入らない」んである。ああ収納がないとはげに恐ろしき。洗面台の上に取り付けられた鏡の裏のわずかな収納スペース。我が山のような化粧品はとてもじゃないが入らない……(写真:筆者提供)例えばある日、私はポーチに入れた「爪のお手入れセット」の中身を点検し、途方に暮れていた。改めて見ると、爪にマニキュアを塗るだけでもさまざまな道具が必要なことに驚いてしまう。爪ヤスリ、ベースコート、トップコート、除光液、そしてマニキュア……何とか減らせないかと頭をひねるも、爪を傷めず色付けようと思えばどれも減らすことはできないのであった。でもどう考えても、こんな「ぜい肉」は我が新居に入る隙間などない。となると、私に残された選択肢は1つ……仕方ない。これ全部、処分するか……と思った途端、それが何を意味するかを考え、私は呆然とした。私はこれからの人生を、裸の爪で生きていくのだ。非常に具体的なことを言いますと、私、足の爪がまったくキレイじゃないので、夏のサンダルシーズンになるととてもじゃないが素の爪を人様にさらす自信はなく、濃い色でダメ爪を隠しオシャレふうに装ってきたのである。でもこれからは、我が灰色に濁った、薄汚れたようにしか見えないダメ爪を人様に堂々とさらして生きていかねばならない。うーん。想像するだに厳しい現実だった。台所用品やタオルを減らすのは、自分さえ納得してしまえば終わりである。何しろ人様には見えない。しかしキラキラを処分すると、これはもう人様に見えるのだ。輝いていたつもりの自分が確実にくすんでいく。だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
いやいやこんな家見たことないんですけど! 不動産屋さんも「ここで暮らすのは現実的じゃないかも」と苦笑いしている。なるほど。何かを取れば何かを失うのだ。この家賃にしては貴重すぎる「見晴らし」を得るには、それだけ大きな代償が必要だった。人魚姫が地上に上がるために声を失ったように、ここで暮らすには、私はいっさいの所有物をことごとく手放さねばならない。そして今後は収入が激減するわけだから、手放した同等のものを再び手に入れることは不可能と覚悟すべきであろう。つまりは、お金だけでなくモノも一気に失う。「ランクを落とす」どころじゃない。ランク外の暮らしへ転落すると言ってもいい。ずっと「買うこと」のために人生を費やしてきたいやね、正直、めちゃくちゃ悩みましたよ。何よりその先の人生ってものが、もうまったく想像がつかなかった。当然である。改めて考えてみれば、私はずっと「買うこと」のために人生を費やしてきたのかもしれない。洋服狂いであり、化粧品狂いであり、ついでに食狂いであった。一言で言えば「グルメとショッピング」ってやつですな。現代の典型的な消費者。毎シーズン山のように服を買い、流行の化粧品をチェックして、エステなんぞにも通っちゃったりして、話題の美味しいものを食べ歩いた。それこそが幸せであり、それを目一杯楽しむために、ストレス満載ながらも会社での競争に果敢に参入し、なんとかそこそこの位置につけ財力を手にした自分をイケていると思っていたんだよ当時の私は。だからこそ人様も自分に一目置いてくださるのだと信じて生きてきた。今にして思えば、実際にイケていたかどうかも一目置かれていたかどうかもまったく不明。でも肝心なのは客観的評価より自分の納得だ。私は間違いなく、そんな自分であることを心の拠り所にして生きてきた。改めて考えるとバカじゃないかという気もするが、実際にそうだったのだ。で、そんな幸せが一気に私の眼の前から消えると。そして人生100年とすれば、その状態であとの半世紀を生き続けると……。それって……どういう人生なのか?っていうか、それってそもそも「私」と言えるのかね。もちろん、いくら考えても答えは出なかったし、他に魅力的な選択肢があるわけでもなかった。限られた予算ではそれなりの物件しかないのであり、腰が引けるような家々を見まくって意気消沈していた身としては、多大なる欠点はあれど愛すべきジャジャ馬のようなこの家を乗りこなすしかないという心の声が勝ったのである。のるか、そるか。そんな切羽詰まった気持ちで不動産屋さんに電話したときのことを今も思い出す。「あの家に決めようと思います」。後には引き返せない三途の川を渡った気分であった。ナイフとフォークはなくていいというわけで、前代未聞の怒涛の「モノ捨て」開始である。何しろ収納ゼロということは、持ち物をゼロにしなきゃいけないということだ。さすがに裸で生きるわけにはいかないので小さな中古タンスを1つ買ったが、ここに服もコートも山の道具も仕事の資料も下着もパジャマもリネンもタオルも全部入れなきゃならんとなると、もうほとんど何も入らないに等しい。当時住んでいた高級マンションのウォークインクロゼットやらシューズインクロゼットやらから引っ張り出した我が持ち物は、実際に目前にすると小山のようであった。こんなんあのタンスになんて絶対入らない。これはもうマジでえらい事態だということに、私は改めて気づいたのである。いわゆる世間でいう「断捨離」とは、使っていないもの、要するにいらないものは処分してスッキリ生きようってことだと思うんだが、私が直面したのはそれとはまったく次元の違う事態である。私は要らないものじゃなく、要るものまで処分しなきゃならんのだ。というか、何が「要るもの」なのかという定義を大幅に変更しなければならないのであった。「これってときめく?」などという可愛らしい問いを発している場合ではなく、「これがなきゃ死ぬかどうか」という次元まで落として考える羽目になったのである。それがどういうことかと言いますと、例えばウンウン考えた挙げ句、私はフォークやナイフやスプーンをすべて処分した。さらにお玉やらフライ返しやら泡立て器やらの調理道具セットもすべて処分した。残したのは箸2膳と小さな木のスプーン1個のみ。ナイフとフォークがなくとも箸さえあれば、必要なら歯で食いちぎって食べれば良いし、料理するのも食べるの自分なんだから鍋をかき回したスプーンで食事すれば良いのである。タオル類は、薄いフェイスタオルを1枚だけ残すことにした。これで体も顔も拭き、毎日洗えば無問題。バスタオルがなくとも死ぬわけじゃない。キラキラを処分するとどうなる?もうほとんどボクサーの減量レベルの「減物」だった。当然、キラキラどころの騒ぎではない。我がキラキラはことごとく、即座に「要らない」世界へと落ちていった。何しろ「入らない」んである。ああ収納がないとはげに恐ろしき。洗面台の上に取り付けられた鏡の裏のわずかな収納スペース。我が山のような化粧品はとてもじゃないが入らない……(写真:筆者提供)例えばある日、私はポーチに入れた「爪のお手入れセット」の中身を点検し、途方に暮れていた。改めて見ると、爪にマニキュアを塗るだけでもさまざまな道具が必要なことに驚いてしまう。爪ヤスリ、ベースコート、トップコート、除光液、そしてマニキュア……何とか減らせないかと頭をひねるも、爪を傷めず色付けようと思えばどれも減らすことはできないのであった。でもどう考えても、こんな「ぜい肉」は我が新居に入る隙間などない。となると、私に残された選択肢は1つ……仕方ない。これ全部、処分するか……と思った途端、それが何を意味するかを考え、私は呆然とした。私はこれからの人生を、裸の爪で生きていくのだ。非常に具体的なことを言いますと、私、足の爪がまったくキレイじゃないので、夏のサンダルシーズンになるととてもじゃないが素の爪を人様にさらす自信はなく、濃い色でダメ爪を隠しオシャレふうに装ってきたのである。でもこれからは、我が灰色に濁った、薄汚れたようにしか見えないダメ爪を人様に堂々とさらして生きていかねばならない。うーん。想像するだに厳しい現実だった。台所用品やタオルを減らすのは、自分さえ納得してしまえば終わりである。何しろ人様には見えない。しかしキラキラを処分すると、これはもう人様に見えるのだ。輝いていたつもりの自分が確実にくすんでいく。だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
なるほど。何かを取れば何かを失うのだ。この家賃にしては貴重すぎる「見晴らし」を得るには、それだけ大きな代償が必要だった。人魚姫が地上に上がるために声を失ったように、ここで暮らすには、私はいっさいの所有物をことごとく手放さねばならない。そして今後は収入が激減するわけだから、手放した同等のものを再び手に入れることは不可能と覚悟すべきであろう。つまりは、お金だけでなくモノも一気に失う。「ランクを落とす」どころじゃない。ランク外の暮らしへ転落すると言ってもいい。ずっと「買うこと」のために人生を費やしてきたいやね、正直、めちゃくちゃ悩みましたよ。何よりその先の人生ってものが、もうまったく想像がつかなかった。当然である。改めて考えてみれば、私はずっと「買うこと」のために人生を費やしてきたのかもしれない。洋服狂いであり、化粧品狂いであり、ついでに食狂いであった。一言で言えば「グルメとショッピング」ってやつですな。現代の典型的な消費者。毎シーズン山のように服を買い、流行の化粧品をチェックして、エステなんぞにも通っちゃったりして、話題の美味しいものを食べ歩いた。それこそが幸せであり、それを目一杯楽しむために、ストレス満載ながらも会社での競争に果敢に参入し、なんとかそこそこの位置につけ財力を手にした自分をイケていると思っていたんだよ当時の私は。だからこそ人様も自分に一目置いてくださるのだと信じて生きてきた。今にして思えば、実際にイケていたかどうかも一目置かれていたかどうかもまったく不明。でも肝心なのは客観的評価より自分の納得だ。私は間違いなく、そんな自分であることを心の拠り所にして生きてきた。改めて考えるとバカじゃないかという気もするが、実際にそうだったのだ。で、そんな幸せが一気に私の眼の前から消えると。そして人生100年とすれば、その状態であとの半世紀を生き続けると……。それって……どういう人生なのか?っていうか、それってそもそも「私」と言えるのかね。もちろん、いくら考えても答えは出なかったし、他に魅力的な選択肢があるわけでもなかった。限られた予算ではそれなりの物件しかないのであり、腰が引けるような家々を見まくって意気消沈していた身としては、多大なる欠点はあれど愛すべきジャジャ馬のようなこの家を乗りこなすしかないという心の声が勝ったのである。のるか、そるか。そんな切羽詰まった気持ちで不動産屋さんに電話したときのことを今も思い出す。「あの家に決めようと思います」。後には引き返せない三途の川を渡った気分であった。ナイフとフォークはなくていいというわけで、前代未聞の怒涛の「モノ捨て」開始である。何しろ収納ゼロということは、持ち物をゼロにしなきゃいけないということだ。さすがに裸で生きるわけにはいかないので小さな中古タンスを1つ買ったが、ここに服もコートも山の道具も仕事の資料も下着もパジャマもリネンもタオルも全部入れなきゃならんとなると、もうほとんど何も入らないに等しい。当時住んでいた高級マンションのウォークインクロゼットやらシューズインクロゼットやらから引っ張り出した我が持ち物は、実際に目前にすると小山のようであった。こんなんあのタンスになんて絶対入らない。これはもうマジでえらい事態だということに、私は改めて気づいたのである。いわゆる世間でいう「断捨離」とは、使っていないもの、要するにいらないものは処分してスッキリ生きようってことだと思うんだが、私が直面したのはそれとはまったく次元の違う事態である。私は要らないものじゃなく、要るものまで処分しなきゃならんのだ。というか、何が「要るもの」なのかという定義を大幅に変更しなければならないのであった。「これってときめく?」などという可愛らしい問いを発している場合ではなく、「これがなきゃ死ぬかどうか」という次元まで落として考える羽目になったのである。それがどういうことかと言いますと、例えばウンウン考えた挙げ句、私はフォークやナイフやスプーンをすべて処分した。さらにお玉やらフライ返しやら泡立て器やらの調理道具セットもすべて処分した。残したのは箸2膳と小さな木のスプーン1個のみ。ナイフとフォークがなくとも箸さえあれば、必要なら歯で食いちぎって食べれば良いし、料理するのも食べるの自分なんだから鍋をかき回したスプーンで食事すれば良いのである。タオル類は、薄いフェイスタオルを1枚だけ残すことにした。これで体も顔も拭き、毎日洗えば無問題。バスタオルがなくとも死ぬわけじゃない。キラキラを処分するとどうなる?もうほとんどボクサーの減量レベルの「減物」だった。当然、キラキラどころの騒ぎではない。我がキラキラはことごとく、即座に「要らない」世界へと落ちていった。何しろ「入らない」んである。ああ収納がないとはげに恐ろしき。洗面台の上に取り付けられた鏡の裏のわずかな収納スペース。我が山のような化粧品はとてもじゃないが入らない……(写真:筆者提供)例えばある日、私はポーチに入れた「爪のお手入れセット」の中身を点検し、途方に暮れていた。改めて見ると、爪にマニキュアを塗るだけでもさまざまな道具が必要なことに驚いてしまう。爪ヤスリ、ベースコート、トップコート、除光液、そしてマニキュア……何とか減らせないかと頭をひねるも、爪を傷めず色付けようと思えばどれも減らすことはできないのであった。でもどう考えても、こんな「ぜい肉」は我が新居に入る隙間などない。となると、私に残された選択肢は1つ……仕方ない。これ全部、処分するか……と思った途端、それが何を意味するかを考え、私は呆然とした。私はこれからの人生を、裸の爪で生きていくのだ。非常に具体的なことを言いますと、私、足の爪がまったくキレイじゃないので、夏のサンダルシーズンになるととてもじゃないが素の爪を人様にさらす自信はなく、濃い色でダメ爪を隠しオシャレふうに装ってきたのである。でもこれからは、我が灰色に濁った、薄汚れたようにしか見えないダメ爪を人様に堂々とさらして生きていかねばならない。うーん。想像するだに厳しい現実だった。台所用品やタオルを減らすのは、自分さえ納得してしまえば終わりである。何しろ人様には見えない。しかしキラキラを処分すると、これはもう人様に見えるのだ。輝いていたつもりの自分が確実にくすんでいく。だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
そして今後は収入が激減するわけだから、手放した同等のものを再び手に入れることは不可能と覚悟すべきであろう。つまりは、お金だけでなくモノも一気に失う。「ランクを落とす」どころじゃない。ランク外の暮らしへ転落すると言ってもいい。ずっと「買うこと」のために人生を費やしてきたいやね、正直、めちゃくちゃ悩みましたよ。何よりその先の人生ってものが、もうまったく想像がつかなかった。当然である。改めて考えてみれば、私はずっと「買うこと」のために人生を費やしてきたのかもしれない。洋服狂いであり、化粧品狂いであり、ついでに食狂いであった。一言で言えば「グルメとショッピング」ってやつですな。現代の典型的な消費者。毎シーズン山のように服を買い、流行の化粧品をチェックして、エステなんぞにも通っちゃったりして、話題の美味しいものを食べ歩いた。それこそが幸せであり、それを目一杯楽しむために、ストレス満載ながらも会社での競争に果敢に参入し、なんとかそこそこの位置につけ財力を手にした自分をイケていると思っていたんだよ当時の私は。だからこそ人様も自分に一目置いてくださるのだと信じて生きてきた。今にして思えば、実際にイケていたかどうかも一目置かれていたかどうかもまったく不明。でも肝心なのは客観的評価より自分の納得だ。私は間違いなく、そんな自分であることを心の拠り所にして生きてきた。改めて考えるとバカじゃないかという気もするが、実際にそうだったのだ。で、そんな幸せが一気に私の眼の前から消えると。そして人生100年とすれば、その状態であとの半世紀を生き続けると……。それって……どういう人生なのか?っていうか、それってそもそも「私」と言えるのかね。もちろん、いくら考えても答えは出なかったし、他に魅力的な選択肢があるわけでもなかった。限られた予算ではそれなりの物件しかないのであり、腰が引けるような家々を見まくって意気消沈していた身としては、多大なる欠点はあれど愛すべきジャジャ馬のようなこの家を乗りこなすしかないという心の声が勝ったのである。のるか、そるか。そんな切羽詰まった気持ちで不動産屋さんに電話したときのことを今も思い出す。「あの家に決めようと思います」。後には引き返せない三途の川を渡った気分であった。ナイフとフォークはなくていいというわけで、前代未聞の怒涛の「モノ捨て」開始である。何しろ収納ゼロということは、持ち物をゼロにしなきゃいけないということだ。さすがに裸で生きるわけにはいかないので小さな中古タンスを1つ買ったが、ここに服もコートも山の道具も仕事の資料も下着もパジャマもリネンもタオルも全部入れなきゃならんとなると、もうほとんど何も入らないに等しい。当時住んでいた高級マンションのウォークインクロゼットやらシューズインクロゼットやらから引っ張り出した我が持ち物は、実際に目前にすると小山のようであった。こんなんあのタンスになんて絶対入らない。これはもうマジでえらい事態だということに、私は改めて気づいたのである。いわゆる世間でいう「断捨離」とは、使っていないもの、要するにいらないものは処分してスッキリ生きようってことだと思うんだが、私が直面したのはそれとはまったく次元の違う事態である。私は要らないものじゃなく、要るものまで処分しなきゃならんのだ。というか、何が「要るもの」なのかという定義を大幅に変更しなければならないのであった。「これってときめく?」などという可愛らしい問いを発している場合ではなく、「これがなきゃ死ぬかどうか」という次元まで落として考える羽目になったのである。それがどういうことかと言いますと、例えばウンウン考えた挙げ句、私はフォークやナイフやスプーンをすべて処分した。さらにお玉やらフライ返しやら泡立て器やらの調理道具セットもすべて処分した。残したのは箸2膳と小さな木のスプーン1個のみ。ナイフとフォークがなくとも箸さえあれば、必要なら歯で食いちぎって食べれば良いし、料理するのも食べるの自分なんだから鍋をかき回したスプーンで食事すれば良いのである。タオル類は、薄いフェイスタオルを1枚だけ残すことにした。これで体も顔も拭き、毎日洗えば無問題。バスタオルがなくとも死ぬわけじゃない。キラキラを処分するとどうなる?もうほとんどボクサーの減量レベルの「減物」だった。当然、キラキラどころの騒ぎではない。我がキラキラはことごとく、即座に「要らない」世界へと落ちていった。何しろ「入らない」んである。ああ収納がないとはげに恐ろしき。洗面台の上に取り付けられた鏡の裏のわずかな収納スペース。我が山のような化粧品はとてもじゃないが入らない……(写真:筆者提供)例えばある日、私はポーチに入れた「爪のお手入れセット」の中身を点検し、途方に暮れていた。改めて見ると、爪にマニキュアを塗るだけでもさまざまな道具が必要なことに驚いてしまう。爪ヤスリ、ベースコート、トップコート、除光液、そしてマニキュア……何とか減らせないかと頭をひねるも、爪を傷めず色付けようと思えばどれも減らすことはできないのであった。でもどう考えても、こんな「ぜい肉」は我が新居に入る隙間などない。となると、私に残された選択肢は1つ……仕方ない。これ全部、処分するか……と思った途端、それが何を意味するかを考え、私は呆然とした。私はこれからの人生を、裸の爪で生きていくのだ。非常に具体的なことを言いますと、私、足の爪がまったくキレイじゃないので、夏のサンダルシーズンになるととてもじゃないが素の爪を人様にさらす自信はなく、濃い色でダメ爪を隠しオシャレふうに装ってきたのである。でもこれからは、我が灰色に濁った、薄汚れたようにしか見えないダメ爪を人様に堂々とさらして生きていかねばならない。うーん。想像するだに厳しい現実だった。台所用品やタオルを減らすのは、自分さえ納得してしまえば終わりである。何しろ人様には見えない。しかしキラキラを処分すると、これはもう人様に見えるのだ。輝いていたつもりの自分が確実にくすんでいく。だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
つまりは、お金だけでなくモノも一気に失う。「ランクを落とす」どころじゃない。ランク外の暮らしへ転落すると言ってもいい。ずっと「買うこと」のために人生を費やしてきたいやね、正直、めちゃくちゃ悩みましたよ。何よりその先の人生ってものが、もうまったく想像がつかなかった。当然である。改めて考えてみれば、私はずっと「買うこと」のために人生を費やしてきたのかもしれない。洋服狂いであり、化粧品狂いであり、ついでに食狂いであった。一言で言えば「グルメとショッピング」ってやつですな。現代の典型的な消費者。毎シーズン山のように服を買い、流行の化粧品をチェックして、エステなんぞにも通っちゃったりして、話題の美味しいものを食べ歩いた。それこそが幸せであり、それを目一杯楽しむために、ストレス満載ながらも会社での競争に果敢に参入し、なんとかそこそこの位置につけ財力を手にした自分をイケていると思っていたんだよ当時の私は。だからこそ人様も自分に一目置いてくださるのだと信じて生きてきた。今にして思えば、実際にイケていたかどうかも一目置かれていたかどうかもまったく不明。でも肝心なのは客観的評価より自分の納得だ。私は間違いなく、そんな自分であることを心の拠り所にして生きてきた。改めて考えるとバカじゃないかという気もするが、実際にそうだったのだ。で、そんな幸せが一気に私の眼の前から消えると。そして人生100年とすれば、その状態であとの半世紀を生き続けると……。それって……どういう人生なのか?っていうか、それってそもそも「私」と言えるのかね。もちろん、いくら考えても答えは出なかったし、他に魅力的な選択肢があるわけでもなかった。限られた予算ではそれなりの物件しかないのであり、腰が引けるような家々を見まくって意気消沈していた身としては、多大なる欠点はあれど愛すべきジャジャ馬のようなこの家を乗りこなすしかないという心の声が勝ったのである。のるか、そるか。そんな切羽詰まった気持ちで不動産屋さんに電話したときのことを今も思い出す。「あの家に決めようと思います」。後には引き返せない三途の川を渡った気分であった。ナイフとフォークはなくていいというわけで、前代未聞の怒涛の「モノ捨て」開始である。何しろ収納ゼロということは、持ち物をゼロにしなきゃいけないということだ。さすがに裸で生きるわけにはいかないので小さな中古タンスを1つ買ったが、ここに服もコートも山の道具も仕事の資料も下着もパジャマもリネンもタオルも全部入れなきゃならんとなると、もうほとんど何も入らないに等しい。当時住んでいた高級マンションのウォークインクロゼットやらシューズインクロゼットやらから引っ張り出した我が持ち物は、実際に目前にすると小山のようであった。こんなんあのタンスになんて絶対入らない。これはもうマジでえらい事態だということに、私は改めて気づいたのである。いわゆる世間でいう「断捨離」とは、使っていないもの、要するにいらないものは処分してスッキリ生きようってことだと思うんだが、私が直面したのはそれとはまったく次元の違う事態である。私は要らないものじゃなく、要るものまで処分しなきゃならんのだ。というか、何が「要るもの」なのかという定義を大幅に変更しなければならないのであった。「これってときめく?」などという可愛らしい問いを発している場合ではなく、「これがなきゃ死ぬかどうか」という次元まで落として考える羽目になったのである。それがどういうことかと言いますと、例えばウンウン考えた挙げ句、私はフォークやナイフやスプーンをすべて処分した。さらにお玉やらフライ返しやら泡立て器やらの調理道具セットもすべて処分した。残したのは箸2膳と小さな木のスプーン1個のみ。ナイフとフォークがなくとも箸さえあれば、必要なら歯で食いちぎって食べれば良いし、料理するのも食べるの自分なんだから鍋をかき回したスプーンで食事すれば良いのである。タオル類は、薄いフェイスタオルを1枚だけ残すことにした。これで体も顔も拭き、毎日洗えば無問題。バスタオルがなくとも死ぬわけじゃない。キラキラを処分するとどうなる?もうほとんどボクサーの減量レベルの「減物」だった。当然、キラキラどころの騒ぎではない。我がキラキラはことごとく、即座に「要らない」世界へと落ちていった。何しろ「入らない」んである。ああ収納がないとはげに恐ろしき。洗面台の上に取り付けられた鏡の裏のわずかな収納スペース。我が山のような化粧品はとてもじゃないが入らない……(写真:筆者提供)例えばある日、私はポーチに入れた「爪のお手入れセット」の中身を点検し、途方に暮れていた。改めて見ると、爪にマニキュアを塗るだけでもさまざまな道具が必要なことに驚いてしまう。爪ヤスリ、ベースコート、トップコート、除光液、そしてマニキュア……何とか減らせないかと頭をひねるも、爪を傷めず色付けようと思えばどれも減らすことはできないのであった。でもどう考えても、こんな「ぜい肉」は我が新居に入る隙間などない。となると、私に残された選択肢は1つ……仕方ない。これ全部、処分するか……と思った途端、それが何を意味するかを考え、私は呆然とした。私はこれからの人生を、裸の爪で生きていくのだ。非常に具体的なことを言いますと、私、足の爪がまったくキレイじゃないので、夏のサンダルシーズンになるととてもじゃないが素の爪を人様にさらす自信はなく、濃い色でダメ爪を隠しオシャレふうに装ってきたのである。でもこれからは、我が灰色に濁った、薄汚れたようにしか見えないダメ爪を人様に堂々とさらして生きていかねばならない。うーん。想像するだに厳しい現実だった。台所用品やタオルを減らすのは、自分さえ納得してしまえば終わりである。何しろ人様には見えない。しかしキラキラを処分すると、これはもう人様に見えるのだ。輝いていたつもりの自分が確実にくすんでいく。だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
いやね、正直、めちゃくちゃ悩みましたよ。何よりその先の人生ってものが、もうまったく想像がつかなかった。当然である。改めて考えてみれば、私はずっと「買うこと」のために人生を費やしてきたのかもしれない。洋服狂いであり、化粧品狂いであり、ついでに食狂いであった。一言で言えば「グルメとショッピング」ってやつですな。現代の典型的な消費者。毎シーズン山のように服を買い、流行の化粧品をチェックして、エステなんぞにも通っちゃったりして、話題の美味しいものを食べ歩いた。それこそが幸せであり、それを目一杯楽しむために、ストレス満載ながらも会社での競争に果敢に参入し、なんとかそこそこの位置につけ財力を手にした自分をイケていると思っていたんだよ当時の私は。だからこそ人様も自分に一目置いてくださるのだと信じて生きてきた。今にして思えば、実際にイケていたかどうかも一目置かれていたかどうかもまったく不明。でも肝心なのは客観的評価より自分の納得だ。私は間違いなく、そんな自分であることを心の拠り所にして生きてきた。改めて考えるとバカじゃないかという気もするが、実際にそうだったのだ。で、そんな幸せが一気に私の眼の前から消えると。そして人生100年とすれば、その状態であとの半世紀を生き続けると……。それって……どういう人生なのか?っていうか、それってそもそも「私」と言えるのかね。もちろん、いくら考えても答えは出なかったし、他に魅力的な選択肢があるわけでもなかった。限られた予算ではそれなりの物件しかないのであり、腰が引けるような家々を見まくって意気消沈していた身としては、多大なる欠点はあれど愛すべきジャジャ馬のようなこの家を乗りこなすしかないという心の声が勝ったのである。のるか、そるか。そんな切羽詰まった気持ちで不動産屋さんに電話したときのことを今も思い出す。「あの家に決めようと思います」。後には引き返せない三途の川を渡った気分であった。ナイフとフォークはなくていいというわけで、前代未聞の怒涛の「モノ捨て」開始である。何しろ収納ゼロということは、持ち物をゼロにしなきゃいけないということだ。さすがに裸で生きるわけにはいかないので小さな中古タンスを1つ買ったが、ここに服もコートも山の道具も仕事の資料も下着もパジャマもリネンもタオルも全部入れなきゃならんとなると、もうほとんど何も入らないに等しい。当時住んでいた高級マンションのウォークインクロゼットやらシューズインクロゼットやらから引っ張り出した我が持ち物は、実際に目前にすると小山のようであった。こんなんあのタンスになんて絶対入らない。これはもうマジでえらい事態だということに、私は改めて気づいたのである。いわゆる世間でいう「断捨離」とは、使っていないもの、要するにいらないものは処分してスッキリ生きようってことだと思うんだが、私が直面したのはそれとはまったく次元の違う事態である。私は要らないものじゃなく、要るものまで処分しなきゃならんのだ。というか、何が「要るもの」なのかという定義を大幅に変更しなければならないのであった。「これってときめく?」などという可愛らしい問いを発している場合ではなく、「これがなきゃ死ぬかどうか」という次元まで落として考える羽目になったのである。それがどういうことかと言いますと、例えばウンウン考えた挙げ句、私はフォークやナイフやスプーンをすべて処分した。さらにお玉やらフライ返しやら泡立て器やらの調理道具セットもすべて処分した。残したのは箸2膳と小さな木のスプーン1個のみ。ナイフとフォークがなくとも箸さえあれば、必要なら歯で食いちぎって食べれば良いし、料理するのも食べるの自分なんだから鍋をかき回したスプーンで食事すれば良いのである。タオル類は、薄いフェイスタオルを1枚だけ残すことにした。これで体も顔も拭き、毎日洗えば無問題。バスタオルがなくとも死ぬわけじゃない。キラキラを処分するとどうなる?もうほとんどボクサーの減量レベルの「減物」だった。当然、キラキラどころの騒ぎではない。我がキラキラはことごとく、即座に「要らない」世界へと落ちていった。何しろ「入らない」んである。ああ収納がないとはげに恐ろしき。洗面台の上に取り付けられた鏡の裏のわずかな収納スペース。我が山のような化粧品はとてもじゃないが入らない……(写真:筆者提供)例えばある日、私はポーチに入れた「爪のお手入れセット」の中身を点検し、途方に暮れていた。改めて見ると、爪にマニキュアを塗るだけでもさまざまな道具が必要なことに驚いてしまう。爪ヤスリ、ベースコート、トップコート、除光液、そしてマニキュア……何とか減らせないかと頭をひねるも、爪を傷めず色付けようと思えばどれも減らすことはできないのであった。でもどう考えても、こんな「ぜい肉」は我が新居に入る隙間などない。となると、私に残された選択肢は1つ……仕方ない。これ全部、処分するか……と思った途端、それが何を意味するかを考え、私は呆然とした。私はこれからの人生を、裸の爪で生きていくのだ。非常に具体的なことを言いますと、私、足の爪がまったくキレイじゃないので、夏のサンダルシーズンになるととてもじゃないが素の爪を人様にさらす自信はなく、濃い色でダメ爪を隠しオシャレふうに装ってきたのである。でもこれからは、我が灰色に濁った、薄汚れたようにしか見えないダメ爪を人様に堂々とさらして生きていかねばならない。うーん。想像するだに厳しい現実だった。台所用品やタオルを減らすのは、自分さえ納得してしまえば終わりである。何しろ人様には見えない。しかしキラキラを処分すると、これはもう人様に見えるのだ。輝いていたつもりの自分が確実にくすんでいく。だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
毎シーズン山のように服を買い、流行の化粧品をチェックして、エステなんぞにも通っちゃったりして、話題の美味しいものを食べ歩いた。それこそが幸せであり、それを目一杯楽しむために、ストレス満載ながらも会社での競争に果敢に参入し、なんとかそこそこの位置につけ財力を手にした自分をイケていると思っていたんだよ当時の私は。だからこそ人様も自分に一目置いてくださるのだと信じて生きてきた。今にして思えば、実際にイケていたかどうかも一目置かれていたかどうかもまったく不明。でも肝心なのは客観的評価より自分の納得だ。私は間違いなく、そんな自分であることを心の拠り所にして生きてきた。改めて考えるとバカじゃないかという気もするが、実際にそうだったのだ。で、そんな幸せが一気に私の眼の前から消えると。そして人生100年とすれば、その状態であとの半世紀を生き続けると……。それって……どういう人生なのか?っていうか、それってそもそも「私」と言えるのかね。もちろん、いくら考えても答えは出なかったし、他に魅力的な選択肢があるわけでもなかった。限られた予算ではそれなりの物件しかないのであり、腰が引けるような家々を見まくって意気消沈していた身としては、多大なる欠点はあれど愛すべきジャジャ馬のようなこの家を乗りこなすしかないという心の声が勝ったのである。のるか、そるか。そんな切羽詰まった気持ちで不動産屋さんに電話したときのことを今も思い出す。「あの家に決めようと思います」。後には引き返せない三途の川を渡った気分であった。ナイフとフォークはなくていいというわけで、前代未聞の怒涛の「モノ捨て」開始である。何しろ収納ゼロということは、持ち物をゼロにしなきゃいけないということだ。さすがに裸で生きるわけにはいかないので小さな中古タンスを1つ買ったが、ここに服もコートも山の道具も仕事の資料も下着もパジャマもリネンもタオルも全部入れなきゃならんとなると、もうほとんど何も入らないに等しい。当時住んでいた高級マンションのウォークインクロゼットやらシューズインクロゼットやらから引っ張り出した我が持ち物は、実際に目前にすると小山のようであった。こんなんあのタンスになんて絶対入らない。これはもうマジでえらい事態だということに、私は改めて気づいたのである。いわゆる世間でいう「断捨離」とは、使っていないもの、要するにいらないものは処分してスッキリ生きようってことだと思うんだが、私が直面したのはそれとはまったく次元の違う事態である。私は要らないものじゃなく、要るものまで処分しなきゃならんのだ。というか、何が「要るもの」なのかという定義を大幅に変更しなければならないのであった。「これってときめく?」などという可愛らしい問いを発している場合ではなく、「これがなきゃ死ぬかどうか」という次元まで落として考える羽目になったのである。それがどういうことかと言いますと、例えばウンウン考えた挙げ句、私はフォークやナイフやスプーンをすべて処分した。さらにお玉やらフライ返しやら泡立て器やらの調理道具セットもすべて処分した。残したのは箸2膳と小さな木のスプーン1個のみ。ナイフとフォークがなくとも箸さえあれば、必要なら歯で食いちぎって食べれば良いし、料理するのも食べるの自分なんだから鍋をかき回したスプーンで食事すれば良いのである。タオル類は、薄いフェイスタオルを1枚だけ残すことにした。これで体も顔も拭き、毎日洗えば無問題。バスタオルがなくとも死ぬわけじゃない。キラキラを処分するとどうなる?もうほとんどボクサーの減量レベルの「減物」だった。当然、キラキラどころの騒ぎではない。我がキラキラはことごとく、即座に「要らない」世界へと落ちていった。何しろ「入らない」んである。ああ収納がないとはげに恐ろしき。洗面台の上に取り付けられた鏡の裏のわずかな収納スペース。我が山のような化粧品はとてもじゃないが入らない……(写真:筆者提供)例えばある日、私はポーチに入れた「爪のお手入れセット」の中身を点検し、途方に暮れていた。改めて見ると、爪にマニキュアを塗るだけでもさまざまな道具が必要なことに驚いてしまう。爪ヤスリ、ベースコート、トップコート、除光液、そしてマニキュア……何とか減らせないかと頭をひねるも、爪を傷めず色付けようと思えばどれも減らすことはできないのであった。でもどう考えても、こんな「ぜい肉」は我が新居に入る隙間などない。となると、私に残された選択肢は1つ……仕方ない。これ全部、処分するか……と思った途端、それが何を意味するかを考え、私は呆然とした。私はこれからの人生を、裸の爪で生きていくのだ。非常に具体的なことを言いますと、私、足の爪がまったくキレイじゃないので、夏のサンダルシーズンになるととてもじゃないが素の爪を人様にさらす自信はなく、濃い色でダメ爪を隠しオシャレふうに装ってきたのである。でもこれからは、我が灰色に濁った、薄汚れたようにしか見えないダメ爪を人様に堂々とさらして生きていかねばならない。うーん。想像するだに厳しい現実だった。台所用品やタオルを減らすのは、自分さえ納得してしまえば終わりである。何しろ人様には見えない。しかしキラキラを処分すると、これはもう人様に見えるのだ。輝いていたつもりの自分が確実にくすんでいく。だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
今にして思えば、実際にイケていたかどうかも一目置かれていたかどうかもまったく不明。でも肝心なのは客観的評価より自分の納得だ。私は間違いなく、そんな自分であることを心の拠り所にして生きてきた。改めて考えるとバカじゃないかという気もするが、実際にそうだったのだ。で、そんな幸せが一気に私の眼の前から消えると。そして人生100年とすれば、その状態であとの半世紀を生き続けると……。それって……どういう人生なのか?っていうか、それってそもそも「私」と言えるのかね。もちろん、いくら考えても答えは出なかったし、他に魅力的な選択肢があるわけでもなかった。限られた予算ではそれなりの物件しかないのであり、腰が引けるような家々を見まくって意気消沈していた身としては、多大なる欠点はあれど愛すべきジャジャ馬のようなこの家を乗りこなすしかないという心の声が勝ったのである。のるか、そるか。そんな切羽詰まった気持ちで不動産屋さんに電話したときのことを今も思い出す。「あの家に決めようと思います」。後には引き返せない三途の川を渡った気分であった。ナイフとフォークはなくていいというわけで、前代未聞の怒涛の「モノ捨て」開始である。何しろ収納ゼロということは、持ち物をゼロにしなきゃいけないということだ。さすがに裸で生きるわけにはいかないので小さな中古タンスを1つ買ったが、ここに服もコートも山の道具も仕事の資料も下着もパジャマもリネンもタオルも全部入れなきゃならんとなると、もうほとんど何も入らないに等しい。当時住んでいた高級マンションのウォークインクロゼットやらシューズインクロゼットやらから引っ張り出した我が持ち物は、実際に目前にすると小山のようであった。こんなんあのタンスになんて絶対入らない。これはもうマジでえらい事態だということに、私は改めて気づいたのである。いわゆる世間でいう「断捨離」とは、使っていないもの、要するにいらないものは処分してスッキリ生きようってことだと思うんだが、私が直面したのはそれとはまったく次元の違う事態である。私は要らないものじゃなく、要るものまで処分しなきゃならんのだ。というか、何が「要るもの」なのかという定義を大幅に変更しなければならないのであった。「これってときめく?」などという可愛らしい問いを発している場合ではなく、「これがなきゃ死ぬかどうか」という次元まで落として考える羽目になったのである。それがどういうことかと言いますと、例えばウンウン考えた挙げ句、私はフォークやナイフやスプーンをすべて処分した。さらにお玉やらフライ返しやら泡立て器やらの調理道具セットもすべて処分した。残したのは箸2膳と小さな木のスプーン1個のみ。ナイフとフォークがなくとも箸さえあれば、必要なら歯で食いちぎって食べれば良いし、料理するのも食べるの自分なんだから鍋をかき回したスプーンで食事すれば良いのである。タオル類は、薄いフェイスタオルを1枚だけ残すことにした。これで体も顔も拭き、毎日洗えば無問題。バスタオルがなくとも死ぬわけじゃない。キラキラを処分するとどうなる?もうほとんどボクサーの減量レベルの「減物」だった。当然、キラキラどころの騒ぎではない。我がキラキラはことごとく、即座に「要らない」世界へと落ちていった。何しろ「入らない」んである。ああ収納がないとはげに恐ろしき。洗面台の上に取り付けられた鏡の裏のわずかな収納スペース。我が山のような化粧品はとてもじゃないが入らない……(写真:筆者提供)例えばある日、私はポーチに入れた「爪のお手入れセット」の中身を点検し、途方に暮れていた。改めて見ると、爪にマニキュアを塗るだけでもさまざまな道具が必要なことに驚いてしまう。爪ヤスリ、ベースコート、トップコート、除光液、そしてマニキュア……何とか減らせないかと頭をひねるも、爪を傷めず色付けようと思えばどれも減らすことはできないのであった。でもどう考えても、こんな「ぜい肉」は我が新居に入る隙間などない。となると、私に残された選択肢は1つ……仕方ない。これ全部、処分するか……と思った途端、それが何を意味するかを考え、私は呆然とした。私はこれからの人生を、裸の爪で生きていくのだ。非常に具体的なことを言いますと、私、足の爪がまったくキレイじゃないので、夏のサンダルシーズンになるととてもじゃないが素の爪を人様にさらす自信はなく、濃い色でダメ爪を隠しオシャレふうに装ってきたのである。でもこれからは、我が灰色に濁った、薄汚れたようにしか見えないダメ爪を人様に堂々とさらして生きていかねばならない。うーん。想像するだに厳しい現実だった。台所用品やタオルを減らすのは、自分さえ納得してしまえば終わりである。何しろ人様には見えない。しかしキラキラを処分すると、これはもう人様に見えるのだ。輝いていたつもりの自分が確実にくすんでいく。だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
で、そんな幸せが一気に私の眼の前から消えると。そして人生100年とすれば、その状態であとの半世紀を生き続けると……。それって……どういう人生なのか?っていうか、それってそもそも「私」と言えるのかね。もちろん、いくら考えても答えは出なかったし、他に魅力的な選択肢があるわけでもなかった。限られた予算ではそれなりの物件しかないのであり、腰が引けるような家々を見まくって意気消沈していた身としては、多大なる欠点はあれど愛すべきジャジャ馬のようなこの家を乗りこなすしかないという心の声が勝ったのである。のるか、そるか。そんな切羽詰まった気持ちで不動産屋さんに電話したときのことを今も思い出す。「あの家に決めようと思います」。後には引き返せない三途の川を渡った気分であった。ナイフとフォークはなくていいというわけで、前代未聞の怒涛の「モノ捨て」開始である。何しろ収納ゼロということは、持ち物をゼロにしなきゃいけないということだ。さすがに裸で生きるわけにはいかないので小さな中古タンスを1つ買ったが、ここに服もコートも山の道具も仕事の資料も下着もパジャマもリネンもタオルも全部入れなきゃならんとなると、もうほとんど何も入らないに等しい。当時住んでいた高級マンションのウォークインクロゼットやらシューズインクロゼットやらから引っ張り出した我が持ち物は、実際に目前にすると小山のようであった。こんなんあのタンスになんて絶対入らない。これはもうマジでえらい事態だということに、私は改めて気づいたのである。いわゆる世間でいう「断捨離」とは、使っていないもの、要するにいらないものは処分してスッキリ生きようってことだと思うんだが、私が直面したのはそれとはまったく次元の違う事態である。私は要らないものじゃなく、要るものまで処分しなきゃならんのだ。というか、何が「要るもの」なのかという定義を大幅に変更しなければならないのであった。「これってときめく?」などという可愛らしい問いを発している場合ではなく、「これがなきゃ死ぬかどうか」という次元まで落として考える羽目になったのである。それがどういうことかと言いますと、例えばウンウン考えた挙げ句、私はフォークやナイフやスプーンをすべて処分した。さらにお玉やらフライ返しやら泡立て器やらの調理道具セットもすべて処分した。残したのは箸2膳と小さな木のスプーン1個のみ。ナイフとフォークがなくとも箸さえあれば、必要なら歯で食いちぎって食べれば良いし、料理するのも食べるの自分なんだから鍋をかき回したスプーンで食事すれば良いのである。タオル類は、薄いフェイスタオルを1枚だけ残すことにした。これで体も顔も拭き、毎日洗えば無問題。バスタオルがなくとも死ぬわけじゃない。キラキラを処分するとどうなる?もうほとんどボクサーの減量レベルの「減物」だった。当然、キラキラどころの騒ぎではない。我がキラキラはことごとく、即座に「要らない」世界へと落ちていった。何しろ「入らない」んである。ああ収納がないとはげに恐ろしき。洗面台の上に取り付けられた鏡の裏のわずかな収納スペース。我が山のような化粧品はとてもじゃないが入らない……(写真:筆者提供)例えばある日、私はポーチに入れた「爪のお手入れセット」の中身を点検し、途方に暮れていた。改めて見ると、爪にマニキュアを塗るだけでもさまざまな道具が必要なことに驚いてしまう。爪ヤスリ、ベースコート、トップコート、除光液、そしてマニキュア……何とか減らせないかと頭をひねるも、爪を傷めず色付けようと思えばどれも減らすことはできないのであった。でもどう考えても、こんな「ぜい肉」は我が新居に入る隙間などない。となると、私に残された選択肢は1つ……仕方ない。これ全部、処分するか……と思った途端、それが何を意味するかを考え、私は呆然とした。私はこれからの人生を、裸の爪で生きていくのだ。非常に具体的なことを言いますと、私、足の爪がまったくキレイじゃないので、夏のサンダルシーズンになるととてもじゃないが素の爪を人様にさらす自信はなく、濃い色でダメ爪を隠しオシャレふうに装ってきたのである。でもこれからは、我が灰色に濁った、薄汚れたようにしか見えないダメ爪を人様に堂々とさらして生きていかねばならない。うーん。想像するだに厳しい現実だった。台所用品やタオルを減らすのは、自分さえ納得してしまえば終わりである。何しろ人様には見えない。しかしキラキラを処分すると、これはもう人様に見えるのだ。輝いていたつもりの自分が確実にくすんでいく。だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
それって……どういう人生なのか?っていうか、それってそもそも「私」と言えるのかね。もちろん、いくら考えても答えは出なかったし、他に魅力的な選択肢があるわけでもなかった。限られた予算ではそれなりの物件しかないのであり、腰が引けるような家々を見まくって意気消沈していた身としては、多大なる欠点はあれど愛すべきジャジャ馬のようなこの家を乗りこなすしかないという心の声が勝ったのである。のるか、そるか。そんな切羽詰まった気持ちで不動産屋さんに電話したときのことを今も思い出す。「あの家に決めようと思います」。後には引き返せない三途の川を渡った気分であった。ナイフとフォークはなくていいというわけで、前代未聞の怒涛の「モノ捨て」開始である。何しろ収納ゼロということは、持ち物をゼロにしなきゃいけないということだ。さすがに裸で生きるわけにはいかないので小さな中古タンスを1つ買ったが、ここに服もコートも山の道具も仕事の資料も下着もパジャマもリネンもタオルも全部入れなきゃならんとなると、もうほとんど何も入らないに等しい。当時住んでいた高級マンションのウォークインクロゼットやらシューズインクロゼットやらから引っ張り出した我が持ち物は、実際に目前にすると小山のようであった。こんなんあのタンスになんて絶対入らない。これはもうマジでえらい事態だということに、私は改めて気づいたのである。いわゆる世間でいう「断捨離」とは、使っていないもの、要するにいらないものは処分してスッキリ生きようってことだと思うんだが、私が直面したのはそれとはまったく次元の違う事態である。私は要らないものじゃなく、要るものまで処分しなきゃならんのだ。というか、何が「要るもの」なのかという定義を大幅に変更しなければならないのであった。「これってときめく?」などという可愛らしい問いを発している場合ではなく、「これがなきゃ死ぬかどうか」という次元まで落として考える羽目になったのである。それがどういうことかと言いますと、例えばウンウン考えた挙げ句、私はフォークやナイフやスプーンをすべて処分した。さらにお玉やらフライ返しやら泡立て器やらの調理道具セットもすべて処分した。残したのは箸2膳と小さな木のスプーン1個のみ。ナイフとフォークがなくとも箸さえあれば、必要なら歯で食いちぎって食べれば良いし、料理するのも食べるの自分なんだから鍋をかき回したスプーンで食事すれば良いのである。タオル類は、薄いフェイスタオルを1枚だけ残すことにした。これで体も顔も拭き、毎日洗えば無問題。バスタオルがなくとも死ぬわけじゃない。キラキラを処分するとどうなる?もうほとんどボクサーの減量レベルの「減物」だった。当然、キラキラどころの騒ぎではない。我がキラキラはことごとく、即座に「要らない」世界へと落ちていった。何しろ「入らない」んである。ああ収納がないとはげに恐ろしき。洗面台の上に取り付けられた鏡の裏のわずかな収納スペース。我が山のような化粧品はとてもじゃないが入らない……(写真:筆者提供)例えばある日、私はポーチに入れた「爪のお手入れセット」の中身を点検し、途方に暮れていた。改めて見ると、爪にマニキュアを塗るだけでもさまざまな道具が必要なことに驚いてしまう。爪ヤスリ、ベースコート、トップコート、除光液、そしてマニキュア……何とか減らせないかと頭をひねるも、爪を傷めず色付けようと思えばどれも減らすことはできないのであった。でもどう考えても、こんな「ぜい肉」は我が新居に入る隙間などない。となると、私に残された選択肢は1つ……仕方ない。これ全部、処分するか……と思った途端、それが何を意味するかを考え、私は呆然とした。私はこれからの人生を、裸の爪で生きていくのだ。非常に具体的なことを言いますと、私、足の爪がまったくキレイじゃないので、夏のサンダルシーズンになるととてもじゃないが素の爪を人様にさらす自信はなく、濃い色でダメ爪を隠しオシャレふうに装ってきたのである。でもこれからは、我が灰色に濁った、薄汚れたようにしか見えないダメ爪を人様に堂々とさらして生きていかねばならない。うーん。想像するだに厳しい現実だった。台所用品やタオルを減らすのは、自分さえ納得してしまえば終わりである。何しろ人様には見えない。しかしキラキラを処分すると、これはもう人様に見えるのだ。輝いていたつもりの自分が確実にくすんでいく。だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
っていうか、それってそもそも「私」と言えるのかね。もちろん、いくら考えても答えは出なかったし、他に魅力的な選択肢があるわけでもなかった。限られた予算ではそれなりの物件しかないのであり、腰が引けるような家々を見まくって意気消沈していた身としては、多大なる欠点はあれど愛すべきジャジャ馬のようなこの家を乗りこなすしかないという心の声が勝ったのである。のるか、そるか。そんな切羽詰まった気持ちで不動産屋さんに電話したときのことを今も思い出す。「あの家に決めようと思います」。後には引き返せない三途の川を渡った気分であった。ナイフとフォークはなくていいというわけで、前代未聞の怒涛の「モノ捨て」開始である。何しろ収納ゼロということは、持ち物をゼロにしなきゃいけないということだ。さすがに裸で生きるわけにはいかないので小さな中古タンスを1つ買ったが、ここに服もコートも山の道具も仕事の資料も下着もパジャマもリネンもタオルも全部入れなきゃならんとなると、もうほとんど何も入らないに等しい。当時住んでいた高級マンションのウォークインクロゼットやらシューズインクロゼットやらから引っ張り出した我が持ち物は、実際に目前にすると小山のようであった。こんなんあのタンスになんて絶対入らない。これはもうマジでえらい事態だということに、私は改めて気づいたのである。いわゆる世間でいう「断捨離」とは、使っていないもの、要するにいらないものは処分してスッキリ生きようってことだと思うんだが、私が直面したのはそれとはまったく次元の違う事態である。私は要らないものじゃなく、要るものまで処分しなきゃならんのだ。というか、何が「要るもの」なのかという定義を大幅に変更しなければならないのであった。「これってときめく?」などという可愛らしい問いを発している場合ではなく、「これがなきゃ死ぬかどうか」という次元まで落として考える羽目になったのである。それがどういうことかと言いますと、例えばウンウン考えた挙げ句、私はフォークやナイフやスプーンをすべて処分した。さらにお玉やらフライ返しやら泡立て器やらの調理道具セットもすべて処分した。残したのは箸2膳と小さな木のスプーン1個のみ。ナイフとフォークがなくとも箸さえあれば、必要なら歯で食いちぎって食べれば良いし、料理するのも食べるの自分なんだから鍋をかき回したスプーンで食事すれば良いのである。タオル類は、薄いフェイスタオルを1枚だけ残すことにした。これで体も顔も拭き、毎日洗えば無問題。バスタオルがなくとも死ぬわけじゃない。キラキラを処分するとどうなる?もうほとんどボクサーの減量レベルの「減物」だった。当然、キラキラどころの騒ぎではない。我がキラキラはことごとく、即座に「要らない」世界へと落ちていった。何しろ「入らない」んである。ああ収納がないとはげに恐ろしき。洗面台の上に取り付けられた鏡の裏のわずかな収納スペース。我が山のような化粧品はとてもじゃないが入らない……(写真:筆者提供)例えばある日、私はポーチに入れた「爪のお手入れセット」の中身を点検し、途方に暮れていた。改めて見ると、爪にマニキュアを塗るだけでもさまざまな道具が必要なことに驚いてしまう。爪ヤスリ、ベースコート、トップコート、除光液、そしてマニキュア……何とか減らせないかと頭をひねるも、爪を傷めず色付けようと思えばどれも減らすことはできないのであった。でもどう考えても、こんな「ぜい肉」は我が新居に入る隙間などない。となると、私に残された選択肢は1つ……仕方ない。これ全部、処分するか……と思った途端、それが何を意味するかを考え、私は呆然とした。私はこれからの人生を、裸の爪で生きていくのだ。非常に具体的なことを言いますと、私、足の爪がまったくキレイじゃないので、夏のサンダルシーズンになるととてもじゃないが素の爪を人様にさらす自信はなく、濃い色でダメ爪を隠しオシャレふうに装ってきたのである。でもこれからは、我が灰色に濁った、薄汚れたようにしか見えないダメ爪を人様に堂々とさらして生きていかねばならない。うーん。想像するだに厳しい現実だった。台所用品やタオルを減らすのは、自分さえ納得してしまえば終わりである。何しろ人様には見えない。しかしキラキラを処分すると、これはもう人様に見えるのだ。輝いていたつもりの自分が確実にくすんでいく。だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
もちろん、いくら考えても答えは出なかったし、他に魅力的な選択肢があるわけでもなかった。限られた予算ではそれなりの物件しかないのであり、腰が引けるような家々を見まくって意気消沈していた身としては、多大なる欠点はあれど愛すべきジャジャ馬のようなこの家を乗りこなすしかないという心の声が勝ったのである。のるか、そるか。そんな切羽詰まった気持ちで不動産屋さんに電話したときのことを今も思い出す。「あの家に決めようと思います」。後には引き返せない三途の川を渡った気分であった。ナイフとフォークはなくていいというわけで、前代未聞の怒涛の「モノ捨て」開始である。何しろ収納ゼロということは、持ち物をゼロにしなきゃいけないということだ。さすがに裸で生きるわけにはいかないので小さな中古タンスを1つ買ったが、ここに服もコートも山の道具も仕事の資料も下着もパジャマもリネンもタオルも全部入れなきゃならんとなると、もうほとんど何も入らないに等しい。当時住んでいた高級マンションのウォークインクロゼットやらシューズインクロゼットやらから引っ張り出した我が持ち物は、実際に目前にすると小山のようであった。こんなんあのタンスになんて絶対入らない。これはもうマジでえらい事態だということに、私は改めて気づいたのである。いわゆる世間でいう「断捨離」とは、使っていないもの、要するにいらないものは処分してスッキリ生きようってことだと思うんだが、私が直面したのはそれとはまったく次元の違う事態である。私は要らないものじゃなく、要るものまで処分しなきゃならんのだ。というか、何が「要るもの」なのかという定義を大幅に変更しなければならないのであった。「これってときめく?」などという可愛らしい問いを発している場合ではなく、「これがなきゃ死ぬかどうか」という次元まで落として考える羽目になったのである。それがどういうことかと言いますと、例えばウンウン考えた挙げ句、私はフォークやナイフやスプーンをすべて処分した。さらにお玉やらフライ返しやら泡立て器やらの調理道具セットもすべて処分した。残したのは箸2膳と小さな木のスプーン1個のみ。ナイフとフォークがなくとも箸さえあれば、必要なら歯で食いちぎって食べれば良いし、料理するのも食べるの自分なんだから鍋をかき回したスプーンで食事すれば良いのである。タオル類は、薄いフェイスタオルを1枚だけ残すことにした。これで体も顔も拭き、毎日洗えば無問題。バスタオルがなくとも死ぬわけじゃない。キラキラを処分するとどうなる?もうほとんどボクサーの減量レベルの「減物」だった。当然、キラキラどころの騒ぎではない。我がキラキラはことごとく、即座に「要らない」世界へと落ちていった。何しろ「入らない」んである。ああ収納がないとはげに恐ろしき。洗面台の上に取り付けられた鏡の裏のわずかな収納スペース。我が山のような化粧品はとてもじゃないが入らない……(写真:筆者提供)例えばある日、私はポーチに入れた「爪のお手入れセット」の中身を点検し、途方に暮れていた。改めて見ると、爪にマニキュアを塗るだけでもさまざまな道具が必要なことに驚いてしまう。爪ヤスリ、ベースコート、トップコート、除光液、そしてマニキュア……何とか減らせないかと頭をひねるも、爪を傷めず色付けようと思えばどれも減らすことはできないのであった。でもどう考えても、こんな「ぜい肉」は我が新居に入る隙間などない。となると、私に残された選択肢は1つ……仕方ない。これ全部、処分するか……と思った途端、それが何を意味するかを考え、私は呆然とした。私はこれからの人生を、裸の爪で生きていくのだ。非常に具体的なことを言いますと、私、足の爪がまったくキレイじゃないので、夏のサンダルシーズンになるととてもじゃないが素の爪を人様にさらす自信はなく、濃い色でダメ爪を隠しオシャレふうに装ってきたのである。でもこれからは、我が灰色に濁った、薄汚れたようにしか見えないダメ爪を人様に堂々とさらして生きていかねばならない。うーん。想像するだに厳しい現実だった。台所用品やタオルを減らすのは、自分さえ納得してしまえば終わりである。何しろ人様には見えない。しかしキラキラを処分すると、これはもう人様に見えるのだ。輝いていたつもりの自分が確実にくすんでいく。だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
のるか、そるか。そんな切羽詰まった気持ちで不動産屋さんに電話したときのことを今も思い出す。「あの家に決めようと思います」。後には引き返せない三途の川を渡った気分であった。ナイフとフォークはなくていいというわけで、前代未聞の怒涛の「モノ捨て」開始である。何しろ収納ゼロということは、持ち物をゼロにしなきゃいけないということだ。さすがに裸で生きるわけにはいかないので小さな中古タンスを1つ買ったが、ここに服もコートも山の道具も仕事の資料も下着もパジャマもリネンもタオルも全部入れなきゃならんとなると、もうほとんど何も入らないに等しい。当時住んでいた高級マンションのウォークインクロゼットやらシューズインクロゼットやらから引っ張り出した我が持ち物は、実際に目前にすると小山のようであった。こんなんあのタンスになんて絶対入らない。これはもうマジでえらい事態だということに、私は改めて気づいたのである。いわゆる世間でいう「断捨離」とは、使っていないもの、要するにいらないものは処分してスッキリ生きようってことだと思うんだが、私が直面したのはそれとはまったく次元の違う事態である。私は要らないものじゃなく、要るものまで処分しなきゃならんのだ。というか、何が「要るもの」なのかという定義を大幅に変更しなければならないのであった。「これってときめく?」などという可愛らしい問いを発している場合ではなく、「これがなきゃ死ぬかどうか」という次元まで落として考える羽目になったのである。それがどういうことかと言いますと、例えばウンウン考えた挙げ句、私はフォークやナイフやスプーンをすべて処分した。さらにお玉やらフライ返しやら泡立て器やらの調理道具セットもすべて処分した。残したのは箸2膳と小さな木のスプーン1個のみ。ナイフとフォークがなくとも箸さえあれば、必要なら歯で食いちぎって食べれば良いし、料理するのも食べるの自分なんだから鍋をかき回したスプーンで食事すれば良いのである。タオル類は、薄いフェイスタオルを1枚だけ残すことにした。これで体も顔も拭き、毎日洗えば無問題。バスタオルがなくとも死ぬわけじゃない。キラキラを処分するとどうなる?もうほとんどボクサーの減量レベルの「減物」だった。当然、キラキラどころの騒ぎではない。我がキラキラはことごとく、即座に「要らない」世界へと落ちていった。何しろ「入らない」んである。ああ収納がないとはげに恐ろしき。洗面台の上に取り付けられた鏡の裏のわずかな収納スペース。我が山のような化粧品はとてもじゃないが入らない……(写真:筆者提供)例えばある日、私はポーチに入れた「爪のお手入れセット」の中身を点検し、途方に暮れていた。改めて見ると、爪にマニキュアを塗るだけでもさまざまな道具が必要なことに驚いてしまう。爪ヤスリ、ベースコート、トップコート、除光液、そしてマニキュア……何とか減らせないかと頭をひねるも、爪を傷めず色付けようと思えばどれも減らすことはできないのであった。でもどう考えても、こんな「ぜい肉」は我が新居に入る隙間などない。となると、私に残された選択肢は1つ……仕方ない。これ全部、処分するか……と思った途端、それが何を意味するかを考え、私は呆然とした。私はこれからの人生を、裸の爪で生きていくのだ。非常に具体的なことを言いますと、私、足の爪がまったくキレイじゃないので、夏のサンダルシーズンになるととてもじゃないが素の爪を人様にさらす自信はなく、濃い色でダメ爪を隠しオシャレふうに装ってきたのである。でもこれからは、我が灰色に濁った、薄汚れたようにしか見えないダメ爪を人様に堂々とさらして生きていかねばならない。うーん。想像するだに厳しい現実だった。台所用品やタオルを減らすのは、自分さえ納得してしまえば終わりである。何しろ人様には見えない。しかしキラキラを処分すると、これはもう人様に見えるのだ。輝いていたつもりの自分が確実にくすんでいく。だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
というわけで、前代未聞の怒涛の「モノ捨て」開始である。何しろ収納ゼロということは、持ち物をゼロにしなきゃいけないということだ。さすがに裸で生きるわけにはいかないので小さな中古タンスを1つ買ったが、ここに服もコートも山の道具も仕事の資料も下着もパジャマもリネンもタオルも全部入れなきゃならんとなると、もうほとんど何も入らないに等しい。当時住んでいた高級マンションのウォークインクロゼットやらシューズインクロゼットやらから引っ張り出した我が持ち物は、実際に目前にすると小山のようであった。こんなんあのタンスになんて絶対入らない。これはもうマジでえらい事態だということに、私は改めて気づいたのである。いわゆる世間でいう「断捨離」とは、使っていないもの、要するにいらないものは処分してスッキリ生きようってことだと思うんだが、私が直面したのはそれとはまったく次元の違う事態である。私は要らないものじゃなく、要るものまで処分しなきゃならんのだ。というか、何が「要るもの」なのかという定義を大幅に変更しなければならないのであった。「これってときめく?」などという可愛らしい問いを発している場合ではなく、「これがなきゃ死ぬかどうか」という次元まで落として考える羽目になったのである。それがどういうことかと言いますと、例えばウンウン考えた挙げ句、私はフォークやナイフやスプーンをすべて処分した。さらにお玉やらフライ返しやら泡立て器やらの調理道具セットもすべて処分した。残したのは箸2膳と小さな木のスプーン1個のみ。ナイフとフォークがなくとも箸さえあれば、必要なら歯で食いちぎって食べれば良いし、料理するのも食べるの自分なんだから鍋をかき回したスプーンで食事すれば良いのである。タオル類は、薄いフェイスタオルを1枚だけ残すことにした。これで体も顔も拭き、毎日洗えば無問題。バスタオルがなくとも死ぬわけじゃない。キラキラを処分するとどうなる?もうほとんどボクサーの減量レベルの「減物」だった。当然、キラキラどころの騒ぎではない。我がキラキラはことごとく、即座に「要らない」世界へと落ちていった。何しろ「入らない」んである。ああ収納がないとはげに恐ろしき。洗面台の上に取り付けられた鏡の裏のわずかな収納スペース。我が山のような化粧品はとてもじゃないが入らない……(写真:筆者提供)例えばある日、私はポーチに入れた「爪のお手入れセット」の中身を点検し、途方に暮れていた。改めて見ると、爪にマニキュアを塗るだけでもさまざまな道具が必要なことに驚いてしまう。爪ヤスリ、ベースコート、トップコート、除光液、そしてマニキュア……何とか減らせないかと頭をひねるも、爪を傷めず色付けようと思えばどれも減らすことはできないのであった。でもどう考えても、こんな「ぜい肉」は我が新居に入る隙間などない。となると、私に残された選択肢は1つ……仕方ない。これ全部、処分するか……と思った途端、それが何を意味するかを考え、私は呆然とした。私はこれからの人生を、裸の爪で生きていくのだ。非常に具体的なことを言いますと、私、足の爪がまったくキレイじゃないので、夏のサンダルシーズンになるととてもじゃないが素の爪を人様にさらす自信はなく、濃い色でダメ爪を隠しオシャレふうに装ってきたのである。でもこれからは、我が灰色に濁った、薄汚れたようにしか見えないダメ爪を人様に堂々とさらして生きていかねばならない。うーん。想像するだに厳しい現実だった。台所用品やタオルを減らすのは、自分さえ納得してしまえば終わりである。何しろ人様には見えない。しかしキラキラを処分すると、これはもう人様に見えるのだ。輝いていたつもりの自分が確実にくすんでいく。だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
当時住んでいた高級マンションのウォークインクロゼットやらシューズインクロゼットやらから引っ張り出した我が持ち物は、実際に目前にすると小山のようであった。こんなんあのタンスになんて絶対入らない。これはもうマジでえらい事態だということに、私は改めて気づいたのである。いわゆる世間でいう「断捨離」とは、使っていないもの、要するにいらないものは処分してスッキリ生きようってことだと思うんだが、私が直面したのはそれとはまったく次元の違う事態である。私は要らないものじゃなく、要るものまで処分しなきゃならんのだ。というか、何が「要るもの」なのかという定義を大幅に変更しなければならないのであった。「これってときめく?」などという可愛らしい問いを発している場合ではなく、「これがなきゃ死ぬかどうか」という次元まで落として考える羽目になったのである。それがどういうことかと言いますと、例えばウンウン考えた挙げ句、私はフォークやナイフやスプーンをすべて処分した。さらにお玉やらフライ返しやら泡立て器やらの調理道具セットもすべて処分した。残したのは箸2膳と小さな木のスプーン1個のみ。ナイフとフォークがなくとも箸さえあれば、必要なら歯で食いちぎって食べれば良いし、料理するのも食べるの自分なんだから鍋をかき回したスプーンで食事すれば良いのである。タオル類は、薄いフェイスタオルを1枚だけ残すことにした。これで体も顔も拭き、毎日洗えば無問題。バスタオルがなくとも死ぬわけじゃない。キラキラを処分するとどうなる?もうほとんどボクサーの減量レベルの「減物」だった。当然、キラキラどころの騒ぎではない。我がキラキラはことごとく、即座に「要らない」世界へと落ちていった。何しろ「入らない」んである。ああ収納がないとはげに恐ろしき。洗面台の上に取り付けられた鏡の裏のわずかな収納スペース。我が山のような化粧品はとてもじゃないが入らない……(写真:筆者提供)例えばある日、私はポーチに入れた「爪のお手入れセット」の中身を点検し、途方に暮れていた。改めて見ると、爪にマニキュアを塗るだけでもさまざまな道具が必要なことに驚いてしまう。爪ヤスリ、ベースコート、トップコート、除光液、そしてマニキュア……何とか減らせないかと頭をひねるも、爪を傷めず色付けようと思えばどれも減らすことはできないのであった。でもどう考えても、こんな「ぜい肉」は我が新居に入る隙間などない。となると、私に残された選択肢は1つ……仕方ない。これ全部、処分するか……と思った途端、それが何を意味するかを考え、私は呆然とした。私はこれからの人生を、裸の爪で生きていくのだ。非常に具体的なことを言いますと、私、足の爪がまったくキレイじゃないので、夏のサンダルシーズンになるととてもじゃないが素の爪を人様にさらす自信はなく、濃い色でダメ爪を隠しオシャレふうに装ってきたのである。でもこれからは、我が灰色に濁った、薄汚れたようにしか見えないダメ爪を人様に堂々とさらして生きていかねばならない。うーん。想像するだに厳しい現実だった。台所用品やタオルを減らすのは、自分さえ納得してしまえば終わりである。何しろ人様には見えない。しかしキラキラを処分すると、これはもう人様に見えるのだ。輝いていたつもりの自分が確実にくすんでいく。だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
いわゆる世間でいう「断捨離」とは、使っていないもの、要するにいらないものは処分してスッキリ生きようってことだと思うんだが、私が直面したのはそれとはまったく次元の違う事態である。私は要らないものじゃなく、要るものまで処分しなきゃならんのだ。というか、何が「要るもの」なのかという定義を大幅に変更しなければならないのであった。「これってときめく?」などという可愛らしい問いを発している場合ではなく、「これがなきゃ死ぬかどうか」という次元まで落として考える羽目になったのである。それがどういうことかと言いますと、例えばウンウン考えた挙げ句、私はフォークやナイフやスプーンをすべて処分した。さらにお玉やらフライ返しやら泡立て器やらの調理道具セットもすべて処分した。残したのは箸2膳と小さな木のスプーン1個のみ。ナイフとフォークがなくとも箸さえあれば、必要なら歯で食いちぎって食べれば良いし、料理するのも食べるの自分なんだから鍋をかき回したスプーンで食事すれば良いのである。タオル類は、薄いフェイスタオルを1枚だけ残すことにした。これで体も顔も拭き、毎日洗えば無問題。バスタオルがなくとも死ぬわけじゃない。キラキラを処分するとどうなる?もうほとんどボクサーの減量レベルの「減物」だった。当然、キラキラどころの騒ぎではない。我がキラキラはことごとく、即座に「要らない」世界へと落ちていった。何しろ「入らない」んである。ああ収納がないとはげに恐ろしき。洗面台の上に取り付けられた鏡の裏のわずかな収納スペース。我が山のような化粧品はとてもじゃないが入らない……(写真:筆者提供)例えばある日、私はポーチに入れた「爪のお手入れセット」の中身を点検し、途方に暮れていた。改めて見ると、爪にマニキュアを塗るだけでもさまざまな道具が必要なことに驚いてしまう。爪ヤスリ、ベースコート、トップコート、除光液、そしてマニキュア……何とか減らせないかと頭をひねるも、爪を傷めず色付けようと思えばどれも減らすことはできないのであった。でもどう考えても、こんな「ぜい肉」は我が新居に入る隙間などない。となると、私に残された選択肢は1つ……仕方ない。これ全部、処分するか……と思った途端、それが何を意味するかを考え、私は呆然とした。私はこれからの人生を、裸の爪で生きていくのだ。非常に具体的なことを言いますと、私、足の爪がまったくキレイじゃないので、夏のサンダルシーズンになるととてもじゃないが素の爪を人様にさらす自信はなく、濃い色でダメ爪を隠しオシャレふうに装ってきたのである。でもこれからは、我が灰色に濁った、薄汚れたようにしか見えないダメ爪を人様に堂々とさらして生きていかねばならない。うーん。想像するだに厳しい現実だった。台所用品やタオルを減らすのは、自分さえ納得してしまえば終わりである。何しろ人様には見えない。しかしキラキラを処分すると、これはもう人様に見えるのだ。輝いていたつもりの自分が確実にくすんでいく。だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
私は要らないものじゃなく、要るものまで処分しなきゃならんのだ。というか、何が「要るもの」なのかという定義を大幅に変更しなければならないのであった。「これってときめく?」などという可愛らしい問いを発している場合ではなく、「これがなきゃ死ぬかどうか」という次元まで落として考える羽目になったのである。それがどういうことかと言いますと、例えばウンウン考えた挙げ句、私はフォークやナイフやスプーンをすべて処分した。さらにお玉やらフライ返しやら泡立て器やらの調理道具セットもすべて処分した。残したのは箸2膳と小さな木のスプーン1個のみ。ナイフとフォークがなくとも箸さえあれば、必要なら歯で食いちぎって食べれば良いし、料理するのも食べるの自分なんだから鍋をかき回したスプーンで食事すれば良いのである。タオル類は、薄いフェイスタオルを1枚だけ残すことにした。これで体も顔も拭き、毎日洗えば無問題。バスタオルがなくとも死ぬわけじゃない。キラキラを処分するとどうなる?もうほとんどボクサーの減量レベルの「減物」だった。当然、キラキラどころの騒ぎではない。我がキラキラはことごとく、即座に「要らない」世界へと落ちていった。何しろ「入らない」んである。ああ収納がないとはげに恐ろしき。洗面台の上に取り付けられた鏡の裏のわずかな収納スペース。我が山のような化粧品はとてもじゃないが入らない……(写真:筆者提供)例えばある日、私はポーチに入れた「爪のお手入れセット」の中身を点検し、途方に暮れていた。改めて見ると、爪にマニキュアを塗るだけでもさまざまな道具が必要なことに驚いてしまう。爪ヤスリ、ベースコート、トップコート、除光液、そしてマニキュア……何とか減らせないかと頭をひねるも、爪を傷めず色付けようと思えばどれも減らすことはできないのであった。でもどう考えても、こんな「ぜい肉」は我が新居に入る隙間などない。となると、私に残された選択肢は1つ……仕方ない。これ全部、処分するか……と思った途端、それが何を意味するかを考え、私は呆然とした。私はこれからの人生を、裸の爪で生きていくのだ。非常に具体的なことを言いますと、私、足の爪がまったくキレイじゃないので、夏のサンダルシーズンになるととてもじゃないが素の爪を人様にさらす自信はなく、濃い色でダメ爪を隠しオシャレふうに装ってきたのである。でもこれからは、我が灰色に濁った、薄汚れたようにしか見えないダメ爪を人様に堂々とさらして生きていかねばならない。うーん。想像するだに厳しい現実だった。台所用品やタオルを減らすのは、自分さえ納得してしまえば終わりである。何しろ人様には見えない。しかしキラキラを処分すると、これはもう人様に見えるのだ。輝いていたつもりの自分が確実にくすんでいく。だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
というか、何が「要るもの」なのかという定義を大幅に変更しなければならないのであった。「これってときめく?」などという可愛らしい問いを発している場合ではなく、「これがなきゃ死ぬかどうか」という次元まで落として考える羽目になったのである。それがどういうことかと言いますと、例えばウンウン考えた挙げ句、私はフォークやナイフやスプーンをすべて処分した。さらにお玉やらフライ返しやら泡立て器やらの調理道具セットもすべて処分した。残したのは箸2膳と小さな木のスプーン1個のみ。ナイフとフォークがなくとも箸さえあれば、必要なら歯で食いちぎって食べれば良いし、料理するのも食べるの自分なんだから鍋をかき回したスプーンで食事すれば良いのである。タオル類は、薄いフェイスタオルを1枚だけ残すことにした。これで体も顔も拭き、毎日洗えば無問題。バスタオルがなくとも死ぬわけじゃない。キラキラを処分するとどうなる?もうほとんどボクサーの減量レベルの「減物」だった。当然、キラキラどころの騒ぎではない。我がキラキラはことごとく、即座に「要らない」世界へと落ちていった。何しろ「入らない」んである。ああ収納がないとはげに恐ろしき。洗面台の上に取り付けられた鏡の裏のわずかな収納スペース。我が山のような化粧品はとてもじゃないが入らない……(写真:筆者提供)例えばある日、私はポーチに入れた「爪のお手入れセット」の中身を点検し、途方に暮れていた。改めて見ると、爪にマニキュアを塗るだけでもさまざまな道具が必要なことに驚いてしまう。爪ヤスリ、ベースコート、トップコート、除光液、そしてマニキュア……何とか減らせないかと頭をひねるも、爪を傷めず色付けようと思えばどれも減らすことはできないのであった。でもどう考えても、こんな「ぜい肉」は我が新居に入る隙間などない。となると、私に残された選択肢は1つ……仕方ない。これ全部、処分するか……と思った途端、それが何を意味するかを考え、私は呆然とした。私はこれからの人生を、裸の爪で生きていくのだ。非常に具体的なことを言いますと、私、足の爪がまったくキレイじゃないので、夏のサンダルシーズンになるととてもじゃないが素の爪を人様にさらす自信はなく、濃い色でダメ爪を隠しオシャレふうに装ってきたのである。でもこれからは、我が灰色に濁った、薄汚れたようにしか見えないダメ爪を人様に堂々とさらして生きていかねばならない。うーん。想像するだに厳しい現実だった。台所用品やタオルを減らすのは、自分さえ納得してしまえば終わりである。何しろ人様には見えない。しかしキラキラを処分すると、これはもう人様に見えるのだ。輝いていたつもりの自分が確実にくすんでいく。だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
それがどういうことかと言いますと、例えばウンウン考えた挙げ句、私はフォークやナイフやスプーンをすべて処分した。さらにお玉やらフライ返しやら泡立て器やらの調理道具セットもすべて処分した。残したのは箸2膳と小さな木のスプーン1個のみ。ナイフとフォークがなくとも箸さえあれば、必要なら歯で食いちぎって食べれば良いし、料理するのも食べるの自分なんだから鍋をかき回したスプーンで食事すれば良いのである。タオル類は、薄いフェイスタオルを1枚だけ残すことにした。これで体も顔も拭き、毎日洗えば無問題。バスタオルがなくとも死ぬわけじゃない。キラキラを処分するとどうなる?もうほとんどボクサーの減量レベルの「減物」だった。当然、キラキラどころの騒ぎではない。我がキラキラはことごとく、即座に「要らない」世界へと落ちていった。何しろ「入らない」んである。ああ収納がないとはげに恐ろしき。洗面台の上に取り付けられた鏡の裏のわずかな収納スペース。我が山のような化粧品はとてもじゃないが入らない……(写真:筆者提供)例えばある日、私はポーチに入れた「爪のお手入れセット」の中身を点検し、途方に暮れていた。改めて見ると、爪にマニキュアを塗るだけでもさまざまな道具が必要なことに驚いてしまう。爪ヤスリ、ベースコート、トップコート、除光液、そしてマニキュア……何とか減らせないかと頭をひねるも、爪を傷めず色付けようと思えばどれも減らすことはできないのであった。でもどう考えても、こんな「ぜい肉」は我が新居に入る隙間などない。となると、私に残された選択肢は1つ……仕方ない。これ全部、処分するか……と思った途端、それが何を意味するかを考え、私は呆然とした。私はこれからの人生を、裸の爪で生きていくのだ。非常に具体的なことを言いますと、私、足の爪がまったくキレイじゃないので、夏のサンダルシーズンになるととてもじゃないが素の爪を人様にさらす自信はなく、濃い色でダメ爪を隠しオシャレふうに装ってきたのである。でもこれからは、我が灰色に濁った、薄汚れたようにしか見えないダメ爪を人様に堂々とさらして生きていかねばならない。うーん。想像するだに厳しい現実だった。台所用品やタオルを減らすのは、自分さえ納得してしまえば終わりである。何しろ人様には見えない。しかしキラキラを処分すると、これはもう人様に見えるのだ。輝いていたつもりの自分が確実にくすんでいく。だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
ナイフとフォークがなくとも箸さえあれば、必要なら歯で食いちぎって食べれば良いし、料理するのも食べるの自分なんだから鍋をかき回したスプーンで食事すれば良いのである。タオル類は、薄いフェイスタオルを1枚だけ残すことにした。これで体も顔も拭き、毎日洗えば無問題。バスタオルがなくとも死ぬわけじゃない。キラキラを処分するとどうなる?もうほとんどボクサーの減量レベルの「減物」だった。当然、キラキラどころの騒ぎではない。我がキラキラはことごとく、即座に「要らない」世界へと落ちていった。何しろ「入らない」んである。ああ収納がないとはげに恐ろしき。洗面台の上に取り付けられた鏡の裏のわずかな収納スペース。我が山のような化粧品はとてもじゃないが入らない……(写真:筆者提供)例えばある日、私はポーチに入れた「爪のお手入れセット」の中身を点検し、途方に暮れていた。改めて見ると、爪にマニキュアを塗るだけでもさまざまな道具が必要なことに驚いてしまう。爪ヤスリ、ベースコート、トップコート、除光液、そしてマニキュア……何とか減らせないかと頭をひねるも、爪を傷めず色付けようと思えばどれも減らすことはできないのであった。でもどう考えても、こんな「ぜい肉」は我が新居に入る隙間などない。となると、私に残された選択肢は1つ……仕方ない。これ全部、処分するか……と思った途端、それが何を意味するかを考え、私は呆然とした。私はこれからの人生を、裸の爪で生きていくのだ。非常に具体的なことを言いますと、私、足の爪がまったくキレイじゃないので、夏のサンダルシーズンになるととてもじゃないが素の爪を人様にさらす自信はなく、濃い色でダメ爪を隠しオシャレふうに装ってきたのである。でもこれからは、我が灰色に濁った、薄汚れたようにしか見えないダメ爪を人様に堂々とさらして生きていかねばならない。うーん。想像するだに厳しい現実だった。台所用品やタオルを減らすのは、自分さえ納得してしまえば終わりである。何しろ人様には見えない。しかしキラキラを処分すると、これはもう人様に見えるのだ。輝いていたつもりの自分が確実にくすんでいく。だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
タオル類は、薄いフェイスタオルを1枚だけ残すことにした。これで体も顔も拭き、毎日洗えば無問題。バスタオルがなくとも死ぬわけじゃない。キラキラを処分するとどうなる?もうほとんどボクサーの減量レベルの「減物」だった。当然、キラキラどころの騒ぎではない。我がキラキラはことごとく、即座に「要らない」世界へと落ちていった。何しろ「入らない」んである。ああ収納がないとはげに恐ろしき。洗面台の上に取り付けられた鏡の裏のわずかな収納スペース。我が山のような化粧品はとてもじゃないが入らない……(写真:筆者提供)例えばある日、私はポーチに入れた「爪のお手入れセット」の中身を点検し、途方に暮れていた。改めて見ると、爪にマニキュアを塗るだけでもさまざまな道具が必要なことに驚いてしまう。爪ヤスリ、ベースコート、トップコート、除光液、そしてマニキュア……何とか減らせないかと頭をひねるも、爪を傷めず色付けようと思えばどれも減らすことはできないのであった。でもどう考えても、こんな「ぜい肉」は我が新居に入る隙間などない。となると、私に残された選択肢は1つ……仕方ない。これ全部、処分するか……と思った途端、それが何を意味するかを考え、私は呆然とした。私はこれからの人生を、裸の爪で生きていくのだ。非常に具体的なことを言いますと、私、足の爪がまったくキレイじゃないので、夏のサンダルシーズンになるととてもじゃないが素の爪を人様にさらす自信はなく、濃い色でダメ爪を隠しオシャレふうに装ってきたのである。でもこれからは、我が灰色に濁った、薄汚れたようにしか見えないダメ爪を人様に堂々とさらして生きていかねばならない。うーん。想像するだに厳しい現実だった。台所用品やタオルを減らすのは、自分さえ納得してしまえば終わりである。何しろ人様には見えない。しかしキラキラを処分すると、これはもう人様に見えるのだ。輝いていたつもりの自分が確実にくすんでいく。だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
もうほとんどボクサーの減量レベルの「減物」だった。当然、キラキラどころの騒ぎではない。我がキラキラはことごとく、即座に「要らない」世界へと落ちていった。何しろ「入らない」んである。ああ収納がないとはげに恐ろしき。洗面台の上に取り付けられた鏡の裏のわずかな収納スペース。我が山のような化粧品はとてもじゃないが入らない……(写真:筆者提供)例えばある日、私はポーチに入れた「爪のお手入れセット」の中身を点検し、途方に暮れていた。改めて見ると、爪にマニキュアを塗るだけでもさまざまな道具が必要なことに驚いてしまう。爪ヤスリ、ベースコート、トップコート、除光液、そしてマニキュア……何とか減らせないかと頭をひねるも、爪を傷めず色付けようと思えばどれも減らすことはできないのであった。でもどう考えても、こんな「ぜい肉」は我が新居に入る隙間などない。となると、私に残された選択肢は1つ……仕方ない。これ全部、処分するか……と思った途端、それが何を意味するかを考え、私は呆然とした。私はこれからの人生を、裸の爪で生きていくのだ。非常に具体的なことを言いますと、私、足の爪がまったくキレイじゃないので、夏のサンダルシーズンになるととてもじゃないが素の爪を人様にさらす自信はなく、濃い色でダメ爪を隠しオシャレふうに装ってきたのである。でもこれからは、我が灰色に濁った、薄汚れたようにしか見えないダメ爪を人様に堂々とさらして生きていかねばならない。うーん。想像するだに厳しい現実だった。台所用品やタオルを減らすのは、自分さえ納得してしまえば終わりである。何しろ人様には見えない。しかしキラキラを処分すると、これはもう人様に見えるのだ。輝いていたつもりの自分が確実にくすんでいく。だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
洗面台の上に取り付けられた鏡の裏のわずかな収納スペース。我が山のような化粧品はとてもじゃないが入らない……(写真:筆者提供)例えばある日、私はポーチに入れた「爪のお手入れセット」の中身を点検し、途方に暮れていた。改めて見ると、爪にマニキュアを塗るだけでもさまざまな道具が必要なことに驚いてしまう。爪ヤスリ、ベースコート、トップコート、除光液、そしてマニキュア……何とか減らせないかと頭をひねるも、爪を傷めず色付けようと思えばどれも減らすことはできないのであった。でもどう考えても、こんな「ぜい肉」は我が新居に入る隙間などない。となると、私に残された選択肢は1つ……仕方ない。これ全部、処分するか……と思った途端、それが何を意味するかを考え、私は呆然とした。私はこれからの人生を、裸の爪で生きていくのだ。非常に具体的なことを言いますと、私、足の爪がまったくキレイじゃないので、夏のサンダルシーズンになるととてもじゃないが素の爪を人様にさらす自信はなく、濃い色でダメ爪を隠しオシャレふうに装ってきたのである。でもこれからは、我が灰色に濁った、薄汚れたようにしか見えないダメ爪を人様に堂々とさらして生きていかねばならない。うーん。想像するだに厳しい現実だった。台所用品やタオルを減らすのは、自分さえ納得してしまえば終わりである。何しろ人様には見えない。しかしキラキラを処分すると、これはもう人様に見えるのだ。輝いていたつもりの自分が確実にくすんでいく。だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
例えばある日、私はポーチに入れた「爪のお手入れセット」の中身を点検し、途方に暮れていた。改めて見ると、爪にマニキュアを塗るだけでもさまざまな道具が必要なことに驚いてしまう。爪ヤスリ、ベースコート、トップコート、除光液、そしてマニキュア……何とか減らせないかと頭をひねるも、爪を傷めず色付けようと思えばどれも減らすことはできないのであった。でもどう考えても、こんな「ぜい肉」は我が新居に入る隙間などない。となると、私に残された選択肢は1つ……仕方ない。これ全部、処分するか……と思った途端、それが何を意味するかを考え、私は呆然とした。私はこれからの人生を、裸の爪で生きていくのだ。非常に具体的なことを言いますと、私、足の爪がまったくキレイじゃないので、夏のサンダルシーズンになるととてもじゃないが素の爪を人様にさらす自信はなく、濃い色でダメ爪を隠しオシャレふうに装ってきたのである。でもこれからは、我が灰色に濁った、薄汚れたようにしか見えないダメ爪を人様に堂々とさらして生きていかねばならない。うーん。想像するだに厳しい現実だった。台所用品やタオルを減らすのは、自分さえ納得してしまえば終わりである。何しろ人様には見えない。しかしキラキラを処分すると、これはもう人様に見えるのだ。輝いていたつもりの自分が確実にくすんでいく。だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
爪ヤスリ、ベースコート、トップコート、除光液、そしてマニキュア……何とか減らせないかと頭をひねるも、爪を傷めず色付けようと思えばどれも減らすことはできないのであった。でもどう考えても、こんな「ぜい肉」は我が新居に入る隙間などない。となると、私に残された選択肢は1つ……仕方ない。これ全部、処分するか……と思った途端、それが何を意味するかを考え、私は呆然とした。私はこれからの人生を、裸の爪で生きていくのだ。非常に具体的なことを言いますと、私、足の爪がまったくキレイじゃないので、夏のサンダルシーズンになるととてもじゃないが素の爪を人様にさらす自信はなく、濃い色でダメ爪を隠しオシャレふうに装ってきたのである。でもこれからは、我が灰色に濁った、薄汚れたようにしか見えないダメ爪を人様に堂々とさらして生きていかねばならない。うーん。想像するだに厳しい現実だった。台所用品やタオルを減らすのは、自分さえ納得してしまえば終わりである。何しろ人様には見えない。しかしキラキラを処分すると、これはもう人様に見えるのだ。輝いていたつもりの自分が確実にくすんでいく。だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
でもどう考えても、こんな「ぜい肉」は我が新居に入る隙間などない。となると、私に残された選択肢は1つ……仕方ない。これ全部、処分するか……と思った途端、それが何を意味するかを考え、私は呆然とした。私はこれからの人生を、裸の爪で生きていくのだ。非常に具体的なことを言いますと、私、足の爪がまったくキレイじゃないので、夏のサンダルシーズンになるととてもじゃないが素の爪を人様にさらす自信はなく、濃い色でダメ爪を隠しオシャレふうに装ってきたのである。でもこれからは、我が灰色に濁った、薄汚れたようにしか見えないダメ爪を人様に堂々とさらして生きていかねばならない。うーん。想像するだに厳しい現実だった。台所用品やタオルを減らすのは、自分さえ納得してしまえば終わりである。何しろ人様には見えない。しかしキラキラを処分すると、これはもう人様に見えるのだ。輝いていたつもりの自分が確実にくすんでいく。だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
私はこれからの人生を、裸の爪で生きていくのだ。非常に具体的なことを言いますと、私、足の爪がまったくキレイじゃないので、夏のサンダルシーズンになるととてもじゃないが素の爪を人様にさらす自信はなく、濃い色でダメ爪を隠しオシャレふうに装ってきたのである。でもこれからは、我が灰色に濁った、薄汚れたようにしか見えないダメ爪を人様に堂々とさらして生きていかねばならない。うーん。想像するだに厳しい現実だった。台所用品やタオルを減らすのは、自分さえ納得してしまえば終わりである。何しろ人様には見えない。しかしキラキラを処分すると、これはもう人様に見えるのだ。輝いていたつもりの自分が確実にくすんでいく。だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
うーん。想像するだに厳しい現実だった。台所用品やタオルを減らすのは、自分さえ納得してしまえば終わりである。何しろ人様には見えない。しかしキラキラを処分すると、これはもう人様に見えるのだ。輝いていたつもりの自分が確実にくすんでいく。だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
想像するだに厳しい現実だった。台所用品やタオルを減らすのは、自分さえ納得してしまえば終わりである。何しろ人様には見えない。しかしキラキラを処分すると、これはもう人様に見えるのだ。輝いていたつもりの自分が確実にくすんでいく。だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
だからどーしたと言い切れればいいけれど、そんなに簡単じゃないよ。くすんだ私を見る人の目の中で生きていく私。それで良いのだと心から言い切れるだろうか。というか、そもそもそんなふうに開き直ってパッサパサのおばさんとして生きていくって、それ自体どーなんだ。私、どーなっちゃうの??
私、どーなっちゃうの??