「名古屋アベック殺人」主犯少年のいま、無期懲役の身に置かれて

今国会での成立を目指し、審議中の少年法の改正案。来年4月の成人年齢引き下げに合わせ、18歳と19歳を「特定少年」と位置付けている。翻って1988年、日本犯罪史に残る凶悪事件を引き起こした当時19歳の「元少年」は、いま何を思うのか? 約30年、獄中での生活を続けている彼に、話を聞いた。
(「新潮45」2016年9月号より再掲)
***
2016年7月、JR岡山駅からタクシーで25分ほどの郊外にある岡山刑務所(岡山市北区牟佐)。正門脇の小部屋で手続きを済ませ、待合室のベンチで30分ほど待っていると、一番奥の面会室に入るよう指示された。その3畳ほどの小部屋は、中央で厚い透明のアクリル板によって仕切られていた。目と鼻の先にある「獄中」と「娑婆」は、互いに決して行き交うことのできない仕組みだ。「娑婆」側のパイプ椅子に腰掛けていると、「獄中」側のドアが開き、刑務官に促されるように、薄緑の作業服を着た男が入ってきた。ここで会うのは、約3年ぶりだ。
「お久しぶりです。お元気ですか」
帽子を取って椅子に座ると、男はアクリル板に顔を近づけて、笑みを浮かべた。男の名前は中川政和(仮名)。1988年2月、世間を震撼させた「名古屋アベック殺人事件」(後述)の主犯格として無期懲役が確定し、ここ岡山刑務所での服役生活は20年になろうとしている。
法務省は、全国にある刑務所を犯罪傾向や刑期によって、いくつかの種類に分けている。主に初犯の受刑者を対象にした「A級」や、暴力団などに属していたり過去にも入所歴があるなど、犯罪傾向の進んでいる受刑者を対象にした「B級」、精神に障害のある受刑者が入る「M級」、外国人を受け入れる「F級」などがある。そうした中でも、無期懲役囚が入所するのは「LA級」「LB級」の刑務所だ。Lは「ロング」の頭文字で、文字通り刑期が長いことを意味している。
その中で岡山刑務所は、「懲役8年以上で犯罪傾向の進んでいない受刑者」が入所する「LA級」の施設と分類される。岡山刑務所の受刑者数は585人(2015年末現在)。その約3分の1にあたる200人ほどが無期懲役囚で、中川もその一人だ。無期懲役とはいえ仮釈放の可能性があり、受刑者たちがその日を心待ちにしていることは想像に難くない。だが、実際の運用を見ると、無期懲役囚が再び娑婆の地を踏むのは極めて難しい状況になっている。 近況を語る中川の言葉からも、そうした「終身刑化する無期懲役」の実態が浮かび上がってくる。「無期懲役」と「終身刑」 話を進めていく前に、あらかじめ知っておきたいポイントが2つある。「無期懲役」と「終身刑」は混同して語られることが少なくないが、制度としては大きく異なっている。「無期懲役」は、「懲役5年」といったような刑期の定まった懲役刑ではなく、刑期の終わりのない刑罰を意味する。言葉のままとらえれば、受刑者が死亡するまで刑を科すことになるが、決して社会復帰の望みが絶たれているわけではない。刑法28条にはこう記されているからだ。「懲役又は禁錮に処せられた者に改悛の状があるときは、有期刑についてはその刑期の三分の一を、無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」 決定条件や基準などは「仮釈放、仮出場及び仮退院並びに保護観察等に関する規則」で別途定められているが、刑法上では10年を過ぎれば、仮釈放の「有資格者」となる。 これに対し、終身刑はこうした仮釈放の可能性を認めていない。無期懲役と区別するために、終身刑を「絶対的無期懲役」と表現することもある。終身刑は欧米などには導入されているものの、日本にはない制度だ。 もう一つのポイントは、無期懲役囚は実際には何年ほどで仮釈放されているか、という点だ。刑法の条文にあるように、10年が経過すれば釈放されるのだろうか。 弁護士など専門家の中にも「無期懲役といっても、15年ほどで仮釈放される」ということを語る人がいる。だが、現状から照らし合わせると決して事実ではない。 法務省の統計によると、14年に仮釈放された無期懲役囚はわずか6人で、この6人の平均収容期間は31年4カ月にのぼる。05~14年の期間で見てみると、仮釈放された無期懲役囚は54人。この10年間で、仮釈放された無期懲役囚の平均収容期間は27年2カ月(05年)から31年4カ月(14年)と長期化している。 注意しなければならないのは、この「平均収容期間」は、あくまでも仮釈放された無期懲役囚の数値であり、仮釈放が認められず、刑務所に収容されたままとなっている大部分の無期懲役囚たちの収容期間は一切反映されていないという点だ。 14年末現在で全国の刑務所に収容されている無期懲役囚は1842人いるが、このうち27人が40年から50年、12人は実に50年以上にわたって服役を続けている。05~14年の間に獄中で死亡した無期懲役囚は154人と、仮釈放された54人の3倍近くに達していることからも、いかに塀の外へ出ることが困難かがわかるだろう。これでは、まるで事実上の終身刑だ。厳罰化の流れの中で もっとも「15年で出られる」といった説が、まったく根も葉もないというわけではない。1990年代後半までは、仮釈放される無期懲役囚は年間2ケタ台で推移し、平均収容期間も20年程度と短かった。長期化している背景にあるのは、犯罪に対する厳罰化の流れだ。04年の刑法改正では、有期刑の上限が20年から30年に引き上げられている。無期懲役は有期刑よりも厳しい刑罰であることから、服役期間が30年未満での仮釈放は現実的ではなくなったのだ。 同じ年には「犯罪被害者等基本法」も成立し、07年12月には、被害者が加害者の仮釈放について意見を述べることができる制度も導入された。「被害者が、凶悪な犯罪を起こした加害者の仮釈放を受け容れることは容易ではない」(法務省関係者)ことから、仮釈放へのハードルは一層高まることとなった。 受刑者との面会は、原則として、あらかじめ刑務所側に登録してある親族や知人などに限定されている。中川とは取材を通じて文通を重ね、知人として07年から面会することが可能となった。今夏48歳となるが、五分刈りで痩せた中川の姿はこの10年ほどでほとんど変化がない。「元気そうですね」と声をかけると、中川は意外なことを口にした。 前年8月26日、運動中に突然倒れ、くも膜下出血と診断されて2週間、刑務所外部の病院に入院していたのだ。「倒れてから丸1日、意識がなかったんです」。アクリル板に開けられた小さな穴を通して聞こえてくる声に、衰えなどはまったく感じない。だが、一時は生死の境をさまよい、医師は回復したとしても後遺症が出る可能性が高いとの見立てだった。 長い間味わっていなかった塀の外の空気を感じる余裕はなく、ベッドに横たわり、体からはいくつものチューブが伸びて医療機器につながっている。久々に見る若い女性である看護師にも、もちろん心躍ることはなく、意識がもうろうとしたまま時間を過ごした。それでも、治療の甲斐があって中川は順調に回復し、退院後は刑務所内の病舎で日々を送り、今年5月には刑務作業に復帰している。この間に足腰の筋肉が落ち、立つとふらつくこともあったが、現在は後遺症もなく、日常生活での支障は全くないという。「死んでもおかしくない状況でしたが、それでも生きることができたのは、私にはまだやるべき使命が残されているからだと思い、感謝の気持ちでいっぱいです。命の重みを感じ、私が奪ってしまった命の重さや尊さをあらためて身をもって知りました」 噛みしめるように話す中川の姿を見ると、多くの人には純朴な人物として映るだろう。そこに、男女2人を惨殺した凶悪事件の主犯格という姿を重ねるのは難しい。服役生活は、拘置所での収容期間を合わせると28年ほどになる。それらの日々が、中川に変化をもたらしたのだろうか。犯罪史に刻まれる凶悪事件 中川の起こした事件は「名古屋アベック殺人事件」と呼ばれ、戦後の犯罪史に刻まれている。執拗な暴力と残忍な手口で被害者を死に至らしめたことに加え、6人の加害者のうち当時20歳だった暴力団組員の男以外は17歳から19歳の未成年(うち2人は女性)だった事実が、社会に大きな衝撃を与えた。 1988年2月23日早朝、愛知県名古屋市緑区の大高緑地公園で、通行人がフロントガラスや窓ガラスが粉々に破壊された乗用車を発見する。通報により駆けつけた警察官が、車内から血の付いた下着を発見し、捜査が開始された。すぐに、車に乗っていた理容師の男性(当時19)と、理容師見習いの女性(同20)の2人が行方不明になっていることが判明。目撃情報などから4日後に、とび職だった中川ら6人が逮捕され、供述から三重県の山中で男女2人の遺体が発見された。 事件は、凄惨という言葉がそのまま当てはまる。 起訴状などによると、6人は23日の未明、大高緑地公園の駐車場で、車に乗ってデート中だった2人を外に引きずり出し、鉄パイプや木刀で執拗に暴行。現金約2万円などを奪い、男たちは女性を乱暴した。さらに2人を自分たちの車で連れ回した挙げ句、事件の発覚を恐れ、24日に愛知県長久手町の墓地で男性の首をロープで絞めて殺害する。25日には女性を三重県内の山林に連れて行き、やはりロープで首を絞めて殺し、掘った穴の中に2人の遺体を埋めた。 殺害方法は、綱引きのようにして両側からロープで首を締め上げ、数十分かけて死に至らしめるという残忍なものだった。6人は事件の直前にも、名古屋市内で別のアベック2組を襲い、うち1組の男女に全治1週間のけがを負わせた上、現金など計約10万円相当を奪うなど、場当たり的で快楽的な犯罪を繰り返していた。凶行は、その延長線上で起きた。 同じ時期(88年11月から89年1月)には、東京都足立区で少年4人が女子高生を41日間にわたって監禁し、暴行を繰り返して死亡させ、遺体をドラム缶に入れてコンクリート詰めにしたうえ遺棄した「女子高生コンクリート詰め殺人事件」が発生している。少年犯罪に対する世間の目は、厳しさを増していた。犯行当時19歳だった中川が、事件の悪質さから検察官送致(逆送)となり、少年ではなく成人と同じように裁かれることになったのは当然のことだった。「極刑をもって臨むべき」 89年6月、名古屋地裁は中川に求刑通り死刑判決を言い渡した。「まれに見る残虐、冷酷な犯罪で、遺族の被害感情を考えると、死刑もやむを得ない」というのが、その理由だった。少年への死刑判決は、犯行当時19歳だった4人連続射殺事件の永山則夫元死刑囚=97年8月に死刑執行=以来だった。 だが、7年半にわたる控訴審の末に、96年12月、名古屋高裁は一審の死刑を破棄し、中川に無期懲役の判決を言い渡した。判決文では、中川に対して「犯行の動機にくむべきものはまったく見当たらず、犯行の態様も残虐で、結果の重大性はいうまでもない。遺族の被害感情には今なお厳しいものがあるなど、極刑をもって臨むべきとの見解には相当の根拠がある」としながらも、死刑の選択を避けた。「控訴審の公判でも、人の生命の尊さ、犯行の重大性、一審の死刑判決の重みを再認識して、反省の度を深めていることなどの事情が認められる」(判決要旨より)など、中川に更生の可能性があると判断したのが、その理由だった。 検察側は上告を断念し、97年1月に無期懲役が確定したことから、中川は岡山刑務所に下獄した。中川のほか犯行に加わった5人は、無期懲役や懲役13年、5年以上10年以下の不定期刑が確定している。 刑務所内で、中川は「1類」の優遇措置を受けている。社会復帰に向けて努力させるため、服役態度などによって受刑者を1~5類に分け、区分ごとに面会や手紙の回数、所内での集会の参加回数などの幅を広げている。1類はそのトップランクで、岡山刑務所内では約30人と、全受刑者の1割に満たない「獄中エリート」だ。中川は刑務作業での事故や所内でのトラブルがなく、素行のよい「模範囚」ということになる。そのため、面会時間も1時間を許可された。 3畳ほどの独居房に暮らす中川は、刑務所での毎日が「とにかく忙しい」という。日中の刑務作業では、金属加工工場で数値制御装置が付けられた「NC旋盤」の操作を担当している。フロッピーディスクを用いる旧式なコンピュータながら、独学で身につけた関数などの知識を生かし、プログラムを打ち込んで操作する重要な仕事だ。新幹線の部品に用いられる精密加工品を作ることもあるという。 また、受刑者によるクラブ活動では俳句と書道を行い、そこで発表したものは、法務省主催の文芸作品コンクールに欠かさず応募している。そのほか、犯した罪や被害者のこと、日々の反省など3つのテーマを自ら決め、月に1回作文を書くことを課されており、その準備などを入念に行う。もらった手紙の返事も丹念に書き、年に2度、被害者の遺族に刑務作業で得た作業報奨金から、償いとして現金を送っている。通常の消灯時間は午後9時だが、火、木、土は特別に午後10時まで延長を認めてもらい、そうした日々の作業に充てているという。消灯時間の延長が認められるのは、もちろん中川が「1類」の模範囚だからだ。「希望を持つようにしています」 一般社会の生活から隔絶された、監視と規律の世界。無期懲役という、いつ出獄できるかもわからない中で、なぜ中川は絶望することなく、模範囚としての日々を送ることができるのだろうか。そのことを問うと、中川は「社会復帰という目標があるからです」と、はっきりとした口調で答えた。「社会復帰」とは、仮釈放で再び塀の外に出ることにほかならない。「(ほかの無期懲役囚は)あまり(仮釈放を)考えないようにしている人が多いんです。でも、私はなんとか希望を持つようにしています」 中川が無期懲役囚となったのは20代で、公判では家族が、仮釈放になれば生活の面倒をみると明言している。40代以降で罪を犯し、家族などからも見放されてしまった無期懲役囚とは「境遇」が大きく異なる。30年以上服役すれば、自分は老人となり、生きているかもわからない。頼れる身寄りなどありはせず、仮釈放など夢のまた夢、と考える無期懲役囚は少なくない。中川は、仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚なのだ。 だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
近況を語る中川の言葉からも、そうした「終身刑化する無期懲役」の実態が浮かび上がってくる。「無期懲役」と「終身刑」 話を進めていく前に、あらかじめ知っておきたいポイントが2つある。「無期懲役」と「終身刑」は混同して語られることが少なくないが、制度としては大きく異なっている。「無期懲役」は、「懲役5年」といったような刑期の定まった懲役刑ではなく、刑期の終わりのない刑罰を意味する。言葉のままとらえれば、受刑者が死亡するまで刑を科すことになるが、決して社会復帰の望みが絶たれているわけではない。刑法28条にはこう記されているからだ。「懲役又は禁錮に処せられた者に改悛の状があるときは、有期刑についてはその刑期の三分の一を、無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」 決定条件や基準などは「仮釈放、仮出場及び仮退院並びに保護観察等に関する規則」で別途定められているが、刑法上では10年を過ぎれば、仮釈放の「有資格者」となる。 これに対し、終身刑はこうした仮釈放の可能性を認めていない。無期懲役と区別するために、終身刑を「絶対的無期懲役」と表現することもある。終身刑は欧米などには導入されているものの、日本にはない制度だ。 もう一つのポイントは、無期懲役囚は実際には何年ほどで仮釈放されているか、という点だ。刑法の条文にあるように、10年が経過すれば釈放されるのだろうか。 弁護士など専門家の中にも「無期懲役といっても、15年ほどで仮釈放される」ということを語る人がいる。だが、現状から照らし合わせると決して事実ではない。 法務省の統計によると、14年に仮釈放された無期懲役囚はわずか6人で、この6人の平均収容期間は31年4カ月にのぼる。05~14年の期間で見てみると、仮釈放された無期懲役囚は54人。この10年間で、仮釈放された無期懲役囚の平均収容期間は27年2カ月(05年)から31年4カ月(14年)と長期化している。 注意しなければならないのは、この「平均収容期間」は、あくまでも仮釈放された無期懲役囚の数値であり、仮釈放が認められず、刑務所に収容されたままとなっている大部分の無期懲役囚たちの収容期間は一切反映されていないという点だ。 14年末現在で全国の刑務所に収容されている無期懲役囚は1842人いるが、このうち27人が40年から50年、12人は実に50年以上にわたって服役を続けている。05~14年の間に獄中で死亡した無期懲役囚は154人と、仮釈放された54人の3倍近くに達していることからも、いかに塀の外へ出ることが困難かがわかるだろう。これでは、まるで事実上の終身刑だ。厳罰化の流れの中で もっとも「15年で出られる」といった説が、まったく根も葉もないというわけではない。1990年代後半までは、仮釈放される無期懲役囚は年間2ケタ台で推移し、平均収容期間も20年程度と短かった。長期化している背景にあるのは、犯罪に対する厳罰化の流れだ。04年の刑法改正では、有期刑の上限が20年から30年に引き上げられている。無期懲役は有期刑よりも厳しい刑罰であることから、服役期間が30年未満での仮釈放は現実的ではなくなったのだ。 同じ年には「犯罪被害者等基本法」も成立し、07年12月には、被害者が加害者の仮釈放について意見を述べることができる制度も導入された。「被害者が、凶悪な犯罪を起こした加害者の仮釈放を受け容れることは容易ではない」(法務省関係者)ことから、仮釈放へのハードルは一層高まることとなった。 受刑者との面会は、原則として、あらかじめ刑務所側に登録してある親族や知人などに限定されている。中川とは取材を通じて文通を重ね、知人として07年から面会することが可能となった。今夏48歳となるが、五分刈りで痩せた中川の姿はこの10年ほどでほとんど変化がない。「元気そうですね」と声をかけると、中川は意外なことを口にした。 前年8月26日、運動中に突然倒れ、くも膜下出血と診断されて2週間、刑務所外部の病院に入院していたのだ。「倒れてから丸1日、意識がなかったんです」。アクリル板に開けられた小さな穴を通して聞こえてくる声に、衰えなどはまったく感じない。だが、一時は生死の境をさまよい、医師は回復したとしても後遺症が出る可能性が高いとの見立てだった。 長い間味わっていなかった塀の外の空気を感じる余裕はなく、ベッドに横たわり、体からはいくつものチューブが伸びて医療機器につながっている。久々に見る若い女性である看護師にも、もちろん心躍ることはなく、意識がもうろうとしたまま時間を過ごした。それでも、治療の甲斐があって中川は順調に回復し、退院後は刑務所内の病舎で日々を送り、今年5月には刑務作業に復帰している。この間に足腰の筋肉が落ち、立つとふらつくこともあったが、現在は後遺症もなく、日常生活での支障は全くないという。「死んでもおかしくない状況でしたが、それでも生きることができたのは、私にはまだやるべき使命が残されているからだと思い、感謝の気持ちでいっぱいです。命の重みを感じ、私が奪ってしまった命の重さや尊さをあらためて身をもって知りました」 噛みしめるように話す中川の姿を見ると、多くの人には純朴な人物として映るだろう。そこに、男女2人を惨殺した凶悪事件の主犯格という姿を重ねるのは難しい。服役生活は、拘置所での収容期間を合わせると28年ほどになる。それらの日々が、中川に変化をもたらしたのだろうか。犯罪史に刻まれる凶悪事件 中川の起こした事件は「名古屋アベック殺人事件」と呼ばれ、戦後の犯罪史に刻まれている。執拗な暴力と残忍な手口で被害者を死に至らしめたことに加え、6人の加害者のうち当時20歳だった暴力団組員の男以外は17歳から19歳の未成年(うち2人は女性)だった事実が、社会に大きな衝撃を与えた。 1988年2月23日早朝、愛知県名古屋市緑区の大高緑地公園で、通行人がフロントガラスや窓ガラスが粉々に破壊された乗用車を発見する。通報により駆けつけた警察官が、車内から血の付いた下着を発見し、捜査が開始された。すぐに、車に乗っていた理容師の男性(当時19)と、理容師見習いの女性(同20)の2人が行方不明になっていることが判明。目撃情報などから4日後に、とび職だった中川ら6人が逮捕され、供述から三重県の山中で男女2人の遺体が発見された。 事件は、凄惨という言葉がそのまま当てはまる。 起訴状などによると、6人は23日の未明、大高緑地公園の駐車場で、車に乗ってデート中だった2人を外に引きずり出し、鉄パイプや木刀で執拗に暴行。現金約2万円などを奪い、男たちは女性を乱暴した。さらに2人を自分たちの車で連れ回した挙げ句、事件の発覚を恐れ、24日に愛知県長久手町の墓地で男性の首をロープで絞めて殺害する。25日には女性を三重県内の山林に連れて行き、やはりロープで首を絞めて殺し、掘った穴の中に2人の遺体を埋めた。 殺害方法は、綱引きのようにして両側からロープで首を締め上げ、数十分かけて死に至らしめるという残忍なものだった。6人は事件の直前にも、名古屋市内で別のアベック2組を襲い、うち1組の男女に全治1週間のけがを負わせた上、現金など計約10万円相当を奪うなど、場当たり的で快楽的な犯罪を繰り返していた。凶行は、その延長線上で起きた。 同じ時期(88年11月から89年1月)には、東京都足立区で少年4人が女子高生を41日間にわたって監禁し、暴行を繰り返して死亡させ、遺体をドラム缶に入れてコンクリート詰めにしたうえ遺棄した「女子高生コンクリート詰め殺人事件」が発生している。少年犯罪に対する世間の目は、厳しさを増していた。犯行当時19歳だった中川が、事件の悪質さから検察官送致(逆送)となり、少年ではなく成人と同じように裁かれることになったのは当然のことだった。「極刑をもって臨むべき」 89年6月、名古屋地裁は中川に求刑通り死刑判決を言い渡した。「まれに見る残虐、冷酷な犯罪で、遺族の被害感情を考えると、死刑もやむを得ない」というのが、その理由だった。少年への死刑判決は、犯行当時19歳だった4人連続射殺事件の永山則夫元死刑囚=97年8月に死刑執行=以来だった。 だが、7年半にわたる控訴審の末に、96年12月、名古屋高裁は一審の死刑を破棄し、中川に無期懲役の判決を言い渡した。判決文では、中川に対して「犯行の動機にくむべきものはまったく見当たらず、犯行の態様も残虐で、結果の重大性はいうまでもない。遺族の被害感情には今なお厳しいものがあるなど、極刑をもって臨むべきとの見解には相当の根拠がある」としながらも、死刑の選択を避けた。「控訴審の公判でも、人の生命の尊さ、犯行の重大性、一審の死刑判決の重みを再認識して、反省の度を深めていることなどの事情が認められる」(判決要旨より)など、中川に更生の可能性があると判断したのが、その理由だった。 検察側は上告を断念し、97年1月に無期懲役が確定したことから、中川は岡山刑務所に下獄した。中川のほか犯行に加わった5人は、無期懲役や懲役13年、5年以上10年以下の不定期刑が確定している。 刑務所内で、中川は「1類」の優遇措置を受けている。社会復帰に向けて努力させるため、服役態度などによって受刑者を1~5類に分け、区分ごとに面会や手紙の回数、所内での集会の参加回数などの幅を広げている。1類はそのトップランクで、岡山刑務所内では約30人と、全受刑者の1割に満たない「獄中エリート」だ。中川は刑務作業での事故や所内でのトラブルがなく、素行のよい「模範囚」ということになる。そのため、面会時間も1時間を許可された。 3畳ほどの独居房に暮らす中川は、刑務所での毎日が「とにかく忙しい」という。日中の刑務作業では、金属加工工場で数値制御装置が付けられた「NC旋盤」の操作を担当している。フロッピーディスクを用いる旧式なコンピュータながら、独学で身につけた関数などの知識を生かし、プログラムを打ち込んで操作する重要な仕事だ。新幹線の部品に用いられる精密加工品を作ることもあるという。 また、受刑者によるクラブ活動では俳句と書道を行い、そこで発表したものは、法務省主催の文芸作品コンクールに欠かさず応募している。そのほか、犯した罪や被害者のこと、日々の反省など3つのテーマを自ら決め、月に1回作文を書くことを課されており、その準備などを入念に行う。もらった手紙の返事も丹念に書き、年に2度、被害者の遺族に刑務作業で得た作業報奨金から、償いとして現金を送っている。通常の消灯時間は午後9時だが、火、木、土は特別に午後10時まで延長を認めてもらい、そうした日々の作業に充てているという。消灯時間の延長が認められるのは、もちろん中川が「1類」の模範囚だからだ。「希望を持つようにしています」 一般社会の生活から隔絶された、監視と規律の世界。無期懲役という、いつ出獄できるかもわからない中で、なぜ中川は絶望することなく、模範囚としての日々を送ることができるのだろうか。そのことを問うと、中川は「社会復帰という目標があるからです」と、はっきりとした口調で答えた。「社会復帰」とは、仮釈放で再び塀の外に出ることにほかならない。「(ほかの無期懲役囚は)あまり(仮釈放を)考えないようにしている人が多いんです。でも、私はなんとか希望を持つようにしています」 中川が無期懲役囚となったのは20代で、公判では家族が、仮釈放になれば生活の面倒をみると明言している。40代以降で罪を犯し、家族などからも見放されてしまった無期懲役囚とは「境遇」が大きく異なる。30年以上服役すれば、自分は老人となり、生きているかもわからない。頼れる身寄りなどありはせず、仮釈放など夢のまた夢、と考える無期懲役囚は少なくない。中川は、仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚なのだ。 だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
話を進めていく前に、あらかじめ知っておきたいポイントが2つある。「無期懲役」と「終身刑」は混同して語られることが少なくないが、制度としては大きく異なっている。「無期懲役」は、「懲役5年」といったような刑期の定まった懲役刑ではなく、刑期の終わりのない刑罰を意味する。言葉のままとらえれば、受刑者が死亡するまで刑を科すことになるが、決して社会復帰の望みが絶たれているわけではない。刑法28条にはこう記されているからだ。「懲役又は禁錮に処せられた者に改悛の状があるときは、有期刑についてはその刑期の三分の一を、無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」 決定条件や基準などは「仮釈放、仮出場及び仮退院並びに保護観察等に関する規則」で別途定められているが、刑法上では10年を過ぎれば、仮釈放の「有資格者」となる。 これに対し、終身刑はこうした仮釈放の可能性を認めていない。無期懲役と区別するために、終身刑を「絶対的無期懲役」と表現することもある。終身刑は欧米などには導入されているものの、日本にはない制度だ。 もう一つのポイントは、無期懲役囚は実際には何年ほどで仮釈放されているか、という点だ。刑法の条文にあるように、10年が経過すれば釈放されるのだろうか。 弁護士など専門家の中にも「無期懲役といっても、15年ほどで仮釈放される」ということを語る人がいる。だが、現状から照らし合わせると決して事実ではない。 法務省の統計によると、14年に仮釈放された無期懲役囚はわずか6人で、この6人の平均収容期間は31年4カ月にのぼる。05~14年の期間で見てみると、仮釈放された無期懲役囚は54人。この10年間で、仮釈放された無期懲役囚の平均収容期間は27年2カ月(05年)から31年4カ月(14年)と長期化している。 注意しなければならないのは、この「平均収容期間」は、あくまでも仮釈放された無期懲役囚の数値であり、仮釈放が認められず、刑務所に収容されたままとなっている大部分の無期懲役囚たちの収容期間は一切反映されていないという点だ。 14年末現在で全国の刑務所に収容されている無期懲役囚は1842人いるが、このうち27人が40年から50年、12人は実に50年以上にわたって服役を続けている。05~14年の間に獄中で死亡した無期懲役囚は154人と、仮釈放された54人の3倍近くに達していることからも、いかに塀の外へ出ることが困難かがわかるだろう。これでは、まるで事実上の終身刑だ。厳罰化の流れの中で もっとも「15年で出られる」といった説が、まったく根も葉もないというわけではない。1990年代後半までは、仮釈放される無期懲役囚は年間2ケタ台で推移し、平均収容期間も20年程度と短かった。長期化している背景にあるのは、犯罪に対する厳罰化の流れだ。04年の刑法改正では、有期刑の上限が20年から30年に引き上げられている。無期懲役は有期刑よりも厳しい刑罰であることから、服役期間が30年未満での仮釈放は現実的ではなくなったのだ。 同じ年には「犯罪被害者等基本法」も成立し、07年12月には、被害者が加害者の仮釈放について意見を述べることができる制度も導入された。「被害者が、凶悪な犯罪を起こした加害者の仮釈放を受け容れることは容易ではない」(法務省関係者)ことから、仮釈放へのハードルは一層高まることとなった。 受刑者との面会は、原則として、あらかじめ刑務所側に登録してある親族や知人などに限定されている。中川とは取材を通じて文通を重ね、知人として07年から面会することが可能となった。今夏48歳となるが、五分刈りで痩せた中川の姿はこの10年ほどでほとんど変化がない。「元気そうですね」と声をかけると、中川は意外なことを口にした。 前年8月26日、運動中に突然倒れ、くも膜下出血と診断されて2週間、刑務所外部の病院に入院していたのだ。「倒れてから丸1日、意識がなかったんです」。アクリル板に開けられた小さな穴を通して聞こえてくる声に、衰えなどはまったく感じない。だが、一時は生死の境をさまよい、医師は回復したとしても後遺症が出る可能性が高いとの見立てだった。 長い間味わっていなかった塀の外の空気を感じる余裕はなく、ベッドに横たわり、体からはいくつものチューブが伸びて医療機器につながっている。久々に見る若い女性である看護師にも、もちろん心躍ることはなく、意識がもうろうとしたまま時間を過ごした。それでも、治療の甲斐があって中川は順調に回復し、退院後は刑務所内の病舎で日々を送り、今年5月には刑務作業に復帰している。この間に足腰の筋肉が落ち、立つとふらつくこともあったが、現在は後遺症もなく、日常生活での支障は全くないという。「死んでもおかしくない状況でしたが、それでも生きることができたのは、私にはまだやるべき使命が残されているからだと思い、感謝の気持ちでいっぱいです。命の重みを感じ、私が奪ってしまった命の重さや尊さをあらためて身をもって知りました」 噛みしめるように話す中川の姿を見ると、多くの人には純朴な人物として映るだろう。そこに、男女2人を惨殺した凶悪事件の主犯格という姿を重ねるのは難しい。服役生活は、拘置所での収容期間を合わせると28年ほどになる。それらの日々が、中川に変化をもたらしたのだろうか。犯罪史に刻まれる凶悪事件 中川の起こした事件は「名古屋アベック殺人事件」と呼ばれ、戦後の犯罪史に刻まれている。執拗な暴力と残忍な手口で被害者を死に至らしめたことに加え、6人の加害者のうち当時20歳だった暴力団組員の男以外は17歳から19歳の未成年(うち2人は女性)だった事実が、社会に大きな衝撃を与えた。 1988年2月23日早朝、愛知県名古屋市緑区の大高緑地公園で、通行人がフロントガラスや窓ガラスが粉々に破壊された乗用車を発見する。通報により駆けつけた警察官が、車内から血の付いた下着を発見し、捜査が開始された。すぐに、車に乗っていた理容師の男性(当時19)と、理容師見習いの女性(同20)の2人が行方不明になっていることが判明。目撃情報などから4日後に、とび職だった中川ら6人が逮捕され、供述から三重県の山中で男女2人の遺体が発見された。 事件は、凄惨という言葉がそのまま当てはまる。 起訴状などによると、6人は23日の未明、大高緑地公園の駐車場で、車に乗ってデート中だった2人を外に引きずり出し、鉄パイプや木刀で執拗に暴行。現金約2万円などを奪い、男たちは女性を乱暴した。さらに2人を自分たちの車で連れ回した挙げ句、事件の発覚を恐れ、24日に愛知県長久手町の墓地で男性の首をロープで絞めて殺害する。25日には女性を三重県内の山林に連れて行き、やはりロープで首を絞めて殺し、掘った穴の中に2人の遺体を埋めた。 殺害方法は、綱引きのようにして両側からロープで首を締め上げ、数十分かけて死に至らしめるという残忍なものだった。6人は事件の直前にも、名古屋市内で別のアベック2組を襲い、うち1組の男女に全治1週間のけがを負わせた上、現金など計約10万円相当を奪うなど、場当たり的で快楽的な犯罪を繰り返していた。凶行は、その延長線上で起きた。 同じ時期(88年11月から89年1月)には、東京都足立区で少年4人が女子高生を41日間にわたって監禁し、暴行を繰り返して死亡させ、遺体をドラム缶に入れてコンクリート詰めにしたうえ遺棄した「女子高生コンクリート詰め殺人事件」が発生している。少年犯罪に対する世間の目は、厳しさを増していた。犯行当時19歳だった中川が、事件の悪質さから検察官送致(逆送)となり、少年ではなく成人と同じように裁かれることになったのは当然のことだった。「極刑をもって臨むべき」 89年6月、名古屋地裁は中川に求刑通り死刑判決を言い渡した。「まれに見る残虐、冷酷な犯罪で、遺族の被害感情を考えると、死刑もやむを得ない」というのが、その理由だった。少年への死刑判決は、犯行当時19歳だった4人連続射殺事件の永山則夫元死刑囚=97年8月に死刑執行=以来だった。 だが、7年半にわたる控訴審の末に、96年12月、名古屋高裁は一審の死刑を破棄し、中川に無期懲役の判決を言い渡した。判決文では、中川に対して「犯行の動機にくむべきものはまったく見当たらず、犯行の態様も残虐で、結果の重大性はいうまでもない。遺族の被害感情には今なお厳しいものがあるなど、極刑をもって臨むべきとの見解には相当の根拠がある」としながらも、死刑の選択を避けた。「控訴審の公判でも、人の生命の尊さ、犯行の重大性、一審の死刑判決の重みを再認識して、反省の度を深めていることなどの事情が認められる」(判決要旨より)など、中川に更生の可能性があると判断したのが、その理由だった。 検察側は上告を断念し、97年1月に無期懲役が確定したことから、中川は岡山刑務所に下獄した。中川のほか犯行に加わった5人は、無期懲役や懲役13年、5年以上10年以下の不定期刑が確定している。 刑務所内で、中川は「1類」の優遇措置を受けている。社会復帰に向けて努力させるため、服役態度などによって受刑者を1~5類に分け、区分ごとに面会や手紙の回数、所内での集会の参加回数などの幅を広げている。1類はそのトップランクで、岡山刑務所内では約30人と、全受刑者の1割に満たない「獄中エリート」だ。中川は刑務作業での事故や所内でのトラブルがなく、素行のよい「模範囚」ということになる。そのため、面会時間も1時間を許可された。 3畳ほどの独居房に暮らす中川は、刑務所での毎日が「とにかく忙しい」という。日中の刑務作業では、金属加工工場で数値制御装置が付けられた「NC旋盤」の操作を担当している。フロッピーディスクを用いる旧式なコンピュータながら、独学で身につけた関数などの知識を生かし、プログラムを打ち込んで操作する重要な仕事だ。新幹線の部品に用いられる精密加工品を作ることもあるという。 また、受刑者によるクラブ活動では俳句と書道を行い、そこで発表したものは、法務省主催の文芸作品コンクールに欠かさず応募している。そのほか、犯した罪や被害者のこと、日々の反省など3つのテーマを自ら決め、月に1回作文を書くことを課されており、その準備などを入念に行う。もらった手紙の返事も丹念に書き、年に2度、被害者の遺族に刑務作業で得た作業報奨金から、償いとして現金を送っている。通常の消灯時間は午後9時だが、火、木、土は特別に午後10時まで延長を認めてもらい、そうした日々の作業に充てているという。消灯時間の延長が認められるのは、もちろん中川が「1類」の模範囚だからだ。「希望を持つようにしています」 一般社会の生活から隔絶された、監視と規律の世界。無期懲役という、いつ出獄できるかもわからない中で、なぜ中川は絶望することなく、模範囚としての日々を送ることができるのだろうか。そのことを問うと、中川は「社会復帰という目標があるからです」と、はっきりとした口調で答えた。「社会復帰」とは、仮釈放で再び塀の外に出ることにほかならない。「(ほかの無期懲役囚は)あまり(仮釈放を)考えないようにしている人が多いんです。でも、私はなんとか希望を持つようにしています」 中川が無期懲役囚となったのは20代で、公判では家族が、仮釈放になれば生活の面倒をみると明言している。40代以降で罪を犯し、家族などからも見放されてしまった無期懲役囚とは「境遇」が大きく異なる。30年以上服役すれば、自分は老人となり、生きているかもわからない。頼れる身寄りなどありはせず、仮釈放など夢のまた夢、と考える無期懲役囚は少なくない。中川は、仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚なのだ。 だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
「無期懲役」と「終身刑」は混同して語られることが少なくないが、制度としては大きく異なっている。「無期懲役」は、「懲役5年」といったような刑期の定まった懲役刑ではなく、刑期の終わりのない刑罰を意味する。言葉のままとらえれば、受刑者が死亡するまで刑を科すことになるが、決して社会復帰の望みが絶たれているわけではない。刑法28条にはこう記されているからだ。「懲役又は禁錮に処せられた者に改悛の状があるときは、有期刑についてはその刑期の三分の一を、無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」 決定条件や基準などは「仮釈放、仮出場及び仮退院並びに保護観察等に関する規則」で別途定められているが、刑法上では10年を過ぎれば、仮釈放の「有資格者」となる。 これに対し、終身刑はこうした仮釈放の可能性を認めていない。無期懲役と区別するために、終身刑を「絶対的無期懲役」と表現することもある。終身刑は欧米などには導入されているものの、日本にはない制度だ。 もう一つのポイントは、無期懲役囚は実際には何年ほどで仮釈放されているか、という点だ。刑法の条文にあるように、10年が経過すれば釈放されるのだろうか。 弁護士など専門家の中にも「無期懲役といっても、15年ほどで仮釈放される」ということを語る人がいる。だが、現状から照らし合わせると決して事実ではない。 法務省の統計によると、14年に仮釈放された無期懲役囚はわずか6人で、この6人の平均収容期間は31年4カ月にのぼる。05~14年の期間で見てみると、仮釈放された無期懲役囚は54人。この10年間で、仮釈放された無期懲役囚の平均収容期間は27年2カ月(05年)から31年4カ月(14年)と長期化している。 注意しなければならないのは、この「平均収容期間」は、あくまでも仮釈放された無期懲役囚の数値であり、仮釈放が認められず、刑務所に収容されたままとなっている大部分の無期懲役囚たちの収容期間は一切反映されていないという点だ。 14年末現在で全国の刑務所に収容されている無期懲役囚は1842人いるが、このうち27人が40年から50年、12人は実に50年以上にわたって服役を続けている。05~14年の間に獄中で死亡した無期懲役囚は154人と、仮釈放された54人の3倍近くに達していることからも、いかに塀の外へ出ることが困難かがわかるだろう。これでは、まるで事実上の終身刑だ。厳罰化の流れの中で もっとも「15年で出られる」といった説が、まったく根も葉もないというわけではない。1990年代後半までは、仮釈放される無期懲役囚は年間2ケタ台で推移し、平均収容期間も20年程度と短かった。長期化している背景にあるのは、犯罪に対する厳罰化の流れだ。04年の刑法改正では、有期刑の上限が20年から30年に引き上げられている。無期懲役は有期刑よりも厳しい刑罰であることから、服役期間が30年未満での仮釈放は現実的ではなくなったのだ。 同じ年には「犯罪被害者等基本法」も成立し、07年12月には、被害者が加害者の仮釈放について意見を述べることができる制度も導入された。「被害者が、凶悪な犯罪を起こした加害者の仮釈放を受け容れることは容易ではない」(法務省関係者)ことから、仮釈放へのハードルは一層高まることとなった。 受刑者との面会は、原則として、あらかじめ刑務所側に登録してある親族や知人などに限定されている。中川とは取材を通じて文通を重ね、知人として07年から面会することが可能となった。今夏48歳となるが、五分刈りで痩せた中川の姿はこの10年ほどでほとんど変化がない。「元気そうですね」と声をかけると、中川は意外なことを口にした。 前年8月26日、運動中に突然倒れ、くも膜下出血と診断されて2週間、刑務所外部の病院に入院していたのだ。「倒れてから丸1日、意識がなかったんです」。アクリル板に開けられた小さな穴を通して聞こえてくる声に、衰えなどはまったく感じない。だが、一時は生死の境をさまよい、医師は回復したとしても後遺症が出る可能性が高いとの見立てだった。 長い間味わっていなかった塀の外の空気を感じる余裕はなく、ベッドに横たわり、体からはいくつものチューブが伸びて医療機器につながっている。久々に見る若い女性である看護師にも、もちろん心躍ることはなく、意識がもうろうとしたまま時間を過ごした。それでも、治療の甲斐があって中川は順調に回復し、退院後は刑務所内の病舎で日々を送り、今年5月には刑務作業に復帰している。この間に足腰の筋肉が落ち、立つとふらつくこともあったが、現在は後遺症もなく、日常生活での支障は全くないという。「死んでもおかしくない状況でしたが、それでも生きることができたのは、私にはまだやるべき使命が残されているからだと思い、感謝の気持ちでいっぱいです。命の重みを感じ、私が奪ってしまった命の重さや尊さをあらためて身をもって知りました」 噛みしめるように話す中川の姿を見ると、多くの人には純朴な人物として映るだろう。そこに、男女2人を惨殺した凶悪事件の主犯格という姿を重ねるのは難しい。服役生活は、拘置所での収容期間を合わせると28年ほどになる。それらの日々が、中川に変化をもたらしたのだろうか。犯罪史に刻まれる凶悪事件 中川の起こした事件は「名古屋アベック殺人事件」と呼ばれ、戦後の犯罪史に刻まれている。執拗な暴力と残忍な手口で被害者を死に至らしめたことに加え、6人の加害者のうち当時20歳だった暴力団組員の男以外は17歳から19歳の未成年(うち2人は女性)だった事実が、社会に大きな衝撃を与えた。 1988年2月23日早朝、愛知県名古屋市緑区の大高緑地公園で、通行人がフロントガラスや窓ガラスが粉々に破壊された乗用車を発見する。通報により駆けつけた警察官が、車内から血の付いた下着を発見し、捜査が開始された。すぐに、車に乗っていた理容師の男性(当時19)と、理容師見習いの女性(同20)の2人が行方不明になっていることが判明。目撃情報などから4日後に、とび職だった中川ら6人が逮捕され、供述から三重県の山中で男女2人の遺体が発見された。 事件は、凄惨という言葉がそのまま当てはまる。 起訴状などによると、6人は23日の未明、大高緑地公園の駐車場で、車に乗ってデート中だった2人を外に引きずり出し、鉄パイプや木刀で執拗に暴行。現金約2万円などを奪い、男たちは女性を乱暴した。さらに2人を自分たちの車で連れ回した挙げ句、事件の発覚を恐れ、24日に愛知県長久手町の墓地で男性の首をロープで絞めて殺害する。25日には女性を三重県内の山林に連れて行き、やはりロープで首を絞めて殺し、掘った穴の中に2人の遺体を埋めた。 殺害方法は、綱引きのようにして両側からロープで首を締め上げ、数十分かけて死に至らしめるという残忍なものだった。6人は事件の直前にも、名古屋市内で別のアベック2組を襲い、うち1組の男女に全治1週間のけがを負わせた上、現金など計約10万円相当を奪うなど、場当たり的で快楽的な犯罪を繰り返していた。凶行は、その延長線上で起きた。 同じ時期(88年11月から89年1月)には、東京都足立区で少年4人が女子高生を41日間にわたって監禁し、暴行を繰り返して死亡させ、遺体をドラム缶に入れてコンクリート詰めにしたうえ遺棄した「女子高生コンクリート詰め殺人事件」が発生している。少年犯罪に対する世間の目は、厳しさを増していた。犯行当時19歳だった中川が、事件の悪質さから検察官送致(逆送)となり、少年ではなく成人と同じように裁かれることになったのは当然のことだった。「極刑をもって臨むべき」 89年6月、名古屋地裁は中川に求刑通り死刑判決を言い渡した。「まれに見る残虐、冷酷な犯罪で、遺族の被害感情を考えると、死刑もやむを得ない」というのが、その理由だった。少年への死刑判決は、犯行当時19歳だった4人連続射殺事件の永山則夫元死刑囚=97年8月に死刑執行=以来だった。 だが、7年半にわたる控訴審の末に、96年12月、名古屋高裁は一審の死刑を破棄し、中川に無期懲役の判決を言い渡した。判決文では、中川に対して「犯行の動機にくむべきものはまったく見当たらず、犯行の態様も残虐で、結果の重大性はいうまでもない。遺族の被害感情には今なお厳しいものがあるなど、極刑をもって臨むべきとの見解には相当の根拠がある」としながらも、死刑の選択を避けた。「控訴審の公判でも、人の生命の尊さ、犯行の重大性、一審の死刑判決の重みを再認識して、反省の度を深めていることなどの事情が認められる」(判決要旨より)など、中川に更生の可能性があると判断したのが、その理由だった。 検察側は上告を断念し、97年1月に無期懲役が確定したことから、中川は岡山刑務所に下獄した。中川のほか犯行に加わった5人は、無期懲役や懲役13年、5年以上10年以下の不定期刑が確定している。 刑務所内で、中川は「1類」の優遇措置を受けている。社会復帰に向けて努力させるため、服役態度などによって受刑者を1~5類に分け、区分ごとに面会や手紙の回数、所内での集会の参加回数などの幅を広げている。1類はそのトップランクで、岡山刑務所内では約30人と、全受刑者の1割に満たない「獄中エリート」だ。中川は刑務作業での事故や所内でのトラブルがなく、素行のよい「模範囚」ということになる。そのため、面会時間も1時間を許可された。 3畳ほどの独居房に暮らす中川は、刑務所での毎日が「とにかく忙しい」という。日中の刑務作業では、金属加工工場で数値制御装置が付けられた「NC旋盤」の操作を担当している。フロッピーディスクを用いる旧式なコンピュータながら、独学で身につけた関数などの知識を生かし、プログラムを打ち込んで操作する重要な仕事だ。新幹線の部品に用いられる精密加工品を作ることもあるという。 また、受刑者によるクラブ活動では俳句と書道を行い、そこで発表したものは、法務省主催の文芸作品コンクールに欠かさず応募している。そのほか、犯した罪や被害者のこと、日々の反省など3つのテーマを自ら決め、月に1回作文を書くことを課されており、その準備などを入念に行う。もらった手紙の返事も丹念に書き、年に2度、被害者の遺族に刑務作業で得た作業報奨金から、償いとして現金を送っている。通常の消灯時間は午後9時だが、火、木、土は特別に午後10時まで延長を認めてもらい、そうした日々の作業に充てているという。消灯時間の延長が認められるのは、もちろん中川が「1類」の模範囚だからだ。「希望を持つようにしています」 一般社会の生活から隔絶された、監視と規律の世界。無期懲役という、いつ出獄できるかもわからない中で、なぜ中川は絶望することなく、模範囚としての日々を送ることができるのだろうか。そのことを問うと、中川は「社会復帰という目標があるからです」と、はっきりとした口調で答えた。「社会復帰」とは、仮釈放で再び塀の外に出ることにほかならない。「(ほかの無期懲役囚は)あまり(仮釈放を)考えないようにしている人が多いんです。でも、私はなんとか希望を持つようにしています」 中川が無期懲役囚となったのは20代で、公判では家族が、仮釈放になれば生活の面倒をみると明言している。40代以降で罪を犯し、家族などからも見放されてしまった無期懲役囚とは「境遇」が大きく異なる。30年以上服役すれば、自分は老人となり、生きているかもわからない。頼れる身寄りなどありはせず、仮釈放など夢のまた夢、と考える無期懲役囚は少なくない。中川は、仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚なのだ。 だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
「懲役又は禁錮に処せられた者に改悛の状があるときは、有期刑についてはその刑期の三分の一を、無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」 決定条件や基準などは「仮釈放、仮出場及び仮退院並びに保護観察等に関する規則」で別途定められているが、刑法上では10年を過ぎれば、仮釈放の「有資格者」となる。 これに対し、終身刑はこうした仮釈放の可能性を認めていない。無期懲役と区別するために、終身刑を「絶対的無期懲役」と表現することもある。終身刑は欧米などには導入されているものの、日本にはない制度だ。 もう一つのポイントは、無期懲役囚は実際には何年ほどで仮釈放されているか、という点だ。刑法の条文にあるように、10年が経過すれば釈放されるのだろうか。 弁護士など専門家の中にも「無期懲役といっても、15年ほどで仮釈放される」ということを語る人がいる。だが、現状から照らし合わせると決して事実ではない。 法務省の統計によると、14年に仮釈放された無期懲役囚はわずか6人で、この6人の平均収容期間は31年4カ月にのぼる。05~14年の期間で見てみると、仮釈放された無期懲役囚は54人。この10年間で、仮釈放された無期懲役囚の平均収容期間は27年2カ月(05年)から31年4カ月(14年)と長期化している。 注意しなければならないのは、この「平均収容期間」は、あくまでも仮釈放された無期懲役囚の数値であり、仮釈放が認められず、刑務所に収容されたままとなっている大部分の無期懲役囚たちの収容期間は一切反映されていないという点だ。 14年末現在で全国の刑務所に収容されている無期懲役囚は1842人いるが、このうち27人が40年から50年、12人は実に50年以上にわたって服役を続けている。05~14年の間に獄中で死亡した無期懲役囚は154人と、仮釈放された54人の3倍近くに達していることからも、いかに塀の外へ出ることが困難かがわかるだろう。これでは、まるで事実上の終身刑だ。厳罰化の流れの中で もっとも「15年で出られる」といった説が、まったく根も葉もないというわけではない。1990年代後半までは、仮釈放される無期懲役囚は年間2ケタ台で推移し、平均収容期間も20年程度と短かった。長期化している背景にあるのは、犯罪に対する厳罰化の流れだ。04年の刑法改正では、有期刑の上限が20年から30年に引き上げられている。無期懲役は有期刑よりも厳しい刑罰であることから、服役期間が30年未満での仮釈放は現実的ではなくなったのだ。 同じ年には「犯罪被害者等基本法」も成立し、07年12月には、被害者が加害者の仮釈放について意見を述べることができる制度も導入された。「被害者が、凶悪な犯罪を起こした加害者の仮釈放を受け容れることは容易ではない」(法務省関係者)ことから、仮釈放へのハードルは一層高まることとなった。 受刑者との面会は、原則として、あらかじめ刑務所側に登録してある親族や知人などに限定されている。中川とは取材を通じて文通を重ね、知人として07年から面会することが可能となった。今夏48歳となるが、五分刈りで痩せた中川の姿はこの10年ほどでほとんど変化がない。「元気そうですね」と声をかけると、中川は意外なことを口にした。 前年8月26日、運動中に突然倒れ、くも膜下出血と診断されて2週間、刑務所外部の病院に入院していたのだ。「倒れてから丸1日、意識がなかったんです」。アクリル板に開けられた小さな穴を通して聞こえてくる声に、衰えなどはまったく感じない。だが、一時は生死の境をさまよい、医師は回復したとしても後遺症が出る可能性が高いとの見立てだった。 長い間味わっていなかった塀の外の空気を感じる余裕はなく、ベッドに横たわり、体からはいくつものチューブが伸びて医療機器につながっている。久々に見る若い女性である看護師にも、もちろん心躍ることはなく、意識がもうろうとしたまま時間を過ごした。それでも、治療の甲斐があって中川は順調に回復し、退院後は刑務所内の病舎で日々を送り、今年5月には刑務作業に復帰している。この間に足腰の筋肉が落ち、立つとふらつくこともあったが、現在は後遺症もなく、日常生活での支障は全くないという。「死んでもおかしくない状況でしたが、それでも生きることができたのは、私にはまだやるべき使命が残されているからだと思い、感謝の気持ちでいっぱいです。命の重みを感じ、私が奪ってしまった命の重さや尊さをあらためて身をもって知りました」 噛みしめるように話す中川の姿を見ると、多くの人には純朴な人物として映るだろう。そこに、男女2人を惨殺した凶悪事件の主犯格という姿を重ねるのは難しい。服役生活は、拘置所での収容期間を合わせると28年ほどになる。それらの日々が、中川に変化をもたらしたのだろうか。犯罪史に刻まれる凶悪事件 中川の起こした事件は「名古屋アベック殺人事件」と呼ばれ、戦後の犯罪史に刻まれている。執拗な暴力と残忍な手口で被害者を死に至らしめたことに加え、6人の加害者のうち当時20歳だった暴力団組員の男以外は17歳から19歳の未成年(うち2人は女性)だった事実が、社会に大きな衝撃を与えた。 1988年2月23日早朝、愛知県名古屋市緑区の大高緑地公園で、通行人がフロントガラスや窓ガラスが粉々に破壊された乗用車を発見する。通報により駆けつけた警察官が、車内から血の付いた下着を発見し、捜査が開始された。すぐに、車に乗っていた理容師の男性(当時19)と、理容師見習いの女性(同20)の2人が行方不明になっていることが判明。目撃情報などから4日後に、とび職だった中川ら6人が逮捕され、供述から三重県の山中で男女2人の遺体が発見された。 事件は、凄惨という言葉がそのまま当てはまる。 起訴状などによると、6人は23日の未明、大高緑地公園の駐車場で、車に乗ってデート中だった2人を外に引きずり出し、鉄パイプや木刀で執拗に暴行。現金約2万円などを奪い、男たちは女性を乱暴した。さらに2人を自分たちの車で連れ回した挙げ句、事件の発覚を恐れ、24日に愛知県長久手町の墓地で男性の首をロープで絞めて殺害する。25日には女性を三重県内の山林に連れて行き、やはりロープで首を絞めて殺し、掘った穴の中に2人の遺体を埋めた。 殺害方法は、綱引きのようにして両側からロープで首を締め上げ、数十分かけて死に至らしめるという残忍なものだった。6人は事件の直前にも、名古屋市内で別のアベック2組を襲い、うち1組の男女に全治1週間のけがを負わせた上、現金など計約10万円相当を奪うなど、場当たり的で快楽的な犯罪を繰り返していた。凶行は、その延長線上で起きた。 同じ時期(88年11月から89年1月)には、東京都足立区で少年4人が女子高生を41日間にわたって監禁し、暴行を繰り返して死亡させ、遺体をドラム缶に入れてコンクリート詰めにしたうえ遺棄した「女子高生コンクリート詰め殺人事件」が発生している。少年犯罪に対する世間の目は、厳しさを増していた。犯行当時19歳だった中川が、事件の悪質さから検察官送致(逆送)となり、少年ではなく成人と同じように裁かれることになったのは当然のことだった。「極刑をもって臨むべき」 89年6月、名古屋地裁は中川に求刑通り死刑判決を言い渡した。「まれに見る残虐、冷酷な犯罪で、遺族の被害感情を考えると、死刑もやむを得ない」というのが、その理由だった。少年への死刑判決は、犯行当時19歳だった4人連続射殺事件の永山則夫元死刑囚=97年8月に死刑執行=以来だった。 だが、7年半にわたる控訴審の末に、96年12月、名古屋高裁は一審の死刑を破棄し、中川に無期懲役の判決を言い渡した。判決文では、中川に対して「犯行の動機にくむべきものはまったく見当たらず、犯行の態様も残虐で、結果の重大性はいうまでもない。遺族の被害感情には今なお厳しいものがあるなど、極刑をもって臨むべきとの見解には相当の根拠がある」としながらも、死刑の選択を避けた。「控訴審の公判でも、人の生命の尊さ、犯行の重大性、一審の死刑判決の重みを再認識して、反省の度を深めていることなどの事情が認められる」(判決要旨より)など、中川に更生の可能性があると判断したのが、その理由だった。 検察側は上告を断念し、97年1月に無期懲役が確定したことから、中川は岡山刑務所に下獄した。中川のほか犯行に加わった5人は、無期懲役や懲役13年、5年以上10年以下の不定期刑が確定している。 刑務所内で、中川は「1類」の優遇措置を受けている。社会復帰に向けて努力させるため、服役態度などによって受刑者を1~5類に分け、区分ごとに面会や手紙の回数、所内での集会の参加回数などの幅を広げている。1類はそのトップランクで、岡山刑務所内では約30人と、全受刑者の1割に満たない「獄中エリート」だ。中川は刑務作業での事故や所内でのトラブルがなく、素行のよい「模範囚」ということになる。そのため、面会時間も1時間を許可された。 3畳ほどの独居房に暮らす中川は、刑務所での毎日が「とにかく忙しい」という。日中の刑務作業では、金属加工工場で数値制御装置が付けられた「NC旋盤」の操作を担当している。フロッピーディスクを用いる旧式なコンピュータながら、独学で身につけた関数などの知識を生かし、プログラムを打ち込んで操作する重要な仕事だ。新幹線の部品に用いられる精密加工品を作ることもあるという。 また、受刑者によるクラブ活動では俳句と書道を行い、そこで発表したものは、法務省主催の文芸作品コンクールに欠かさず応募している。そのほか、犯した罪や被害者のこと、日々の反省など3つのテーマを自ら決め、月に1回作文を書くことを課されており、その準備などを入念に行う。もらった手紙の返事も丹念に書き、年に2度、被害者の遺族に刑務作業で得た作業報奨金から、償いとして現金を送っている。通常の消灯時間は午後9時だが、火、木、土は特別に午後10時まで延長を認めてもらい、そうした日々の作業に充てているという。消灯時間の延長が認められるのは、もちろん中川が「1類」の模範囚だからだ。「希望を持つようにしています」 一般社会の生活から隔絶された、監視と規律の世界。無期懲役という、いつ出獄できるかもわからない中で、なぜ中川は絶望することなく、模範囚としての日々を送ることができるのだろうか。そのことを問うと、中川は「社会復帰という目標があるからです」と、はっきりとした口調で答えた。「社会復帰」とは、仮釈放で再び塀の外に出ることにほかならない。「(ほかの無期懲役囚は)あまり(仮釈放を)考えないようにしている人が多いんです。でも、私はなんとか希望を持つようにしています」 中川が無期懲役囚となったのは20代で、公判では家族が、仮釈放になれば生活の面倒をみると明言している。40代以降で罪を犯し、家族などからも見放されてしまった無期懲役囚とは「境遇」が大きく異なる。30年以上服役すれば、自分は老人となり、生きているかもわからない。頼れる身寄りなどありはせず、仮釈放など夢のまた夢、と考える無期懲役囚は少なくない。中川は、仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚なのだ。 だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
決定条件や基準などは「仮釈放、仮出場及び仮退院並びに保護観察等に関する規則」で別途定められているが、刑法上では10年を過ぎれば、仮釈放の「有資格者」となる。 これに対し、終身刑はこうした仮釈放の可能性を認めていない。無期懲役と区別するために、終身刑を「絶対的無期懲役」と表現することもある。終身刑は欧米などには導入されているものの、日本にはない制度だ。 もう一つのポイントは、無期懲役囚は実際には何年ほどで仮釈放されているか、という点だ。刑法の条文にあるように、10年が経過すれば釈放されるのだろうか。 弁護士など専門家の中にも「無期懲役といっても、15年ほどで仮釈放される」ということを語る人がいる。だが、現状から照らし合わせると決して事実ではない。 法務省の統計によると、14年に仮釈放された無期懲役囚はわずか6人で、この6人の平均収容期間は31年4カ月にのぼる。05~14年の期間で見てみると、仮釈放された無期懲役囚は54人。この10年間で、仮釈放された無期懲役囚の平均収容期間は27年2カ月(05年)から31年4カ月(14年)と長期化している。 注意しなければならないのは、この「平均収容期間」は、あくまでも仮釈放された無期懲役囚の数値であり、仮釈放が認められず、刑務所に収容されたままとなっている大部分の無期懲役囚たちの収容期間は一切反映されていないという点だ。 14年末現在で全国の刑務所に収容されている無期懲役囚は1842人いるが、このうち27人が40年から50年、12人は実に50年以上にわたって服役を続けている。05~14年の間に獄中で死亡した無期懲役囚は154人と、仮釈放された54人の3倍近くに達していることからも、いかに塀の外へ出ることが困難かがわかるだろう。これでは、まるで事実上の終身刑だ。厳罰化の流れの中で もっとも「15年で出られる」といった説が、まったく根も葉もないというわけではない。1990年代後半までは、仮釈放される無期懲役囚は年間2ケタ台で推移し、平均収容期間も20年程度と短かった。長期化している背景にあるのは、犯罪に対する厳罰化の流れだ。04年の刑法改正では、有期刑の上限が20年から30年に引き上げられている。無期懲役は有期刑よりも厳しい刑罰であることから、服役期間が30年未満での仮釈放は現実的ではなくなったのだ。 同じ年には「犯罪被害者等基本法」も成立し、07年12月には、被害者が加害者の仮釈放について意見を述べることができる制度も導入された。「被害者が、凶悪な犯罪を起こした加害者の仮釈放を受け容れることは容易ではない」(法務省関係者)ことから、仮釈放へのハードルは一層高まることとなった。 受刑者との面会は、原則として、あらかじめ刑務所側に登録してある親族や知人などに限定されている。中川とは取材を通じて文通を重ね、知人として07年から面会することが可能となった。今夏48歳となるが、五分刈りで痩せた中川の姿はこの10年ほどでほとんど変化がない。「元気そうですね」と声をかけると、中川は意外なことを口にした。 前年8月26日、運動中に突然倒れ、くも膜下出血と診断されて2週間、刑務所外部の病院に入院していたのだ。「倒れてから丸1日、意識がなかったんです」。アクリル板に開けられた小さな穴を通して聞こえてくる声に、衰えなどはまったく感じない。だが、一時は生死の境をさまよい、医師は回復したとしても後遺症が出る可能性が高いとの見立てだった。 長い間味わっていなかった塀の外の空気を感じる余裕はなく、ベッドに横たわり、体からはいくつものチューブが伸びて医療機器につながっている。久々に見る若い女性である看護師にも、もちろん心躍ることはなく、意識がもうろうとしたまま時間を過ごした。それでも、治療の甲斐があって中川は順調に回復し、退院後は刑務所内の病舎で日々を送り、今年5月には刑務作業に復帰している。この間に足腰の筋肉が落ち、立つとふらつくこともあったが、現在は後遺症もなく、日常生活での支障は全くないという。「死んでもおかしくない状況でしたが、それでも生きることができたのは、私にはまだやるべき使命が残されているからだと思い、感謝の気持ちでいっぱいです。命の重みを感じ、私が奪ってしまった命の重さや尊さをあらためて身をもって知りました」 噛みしめるように話す中川の姿を見ると、多くの人には純朴な人物として映るだろう。そこに、男女2人を惨殺した凶悪事件の主犯格という姿を重ねるのは難しい。服役生活は、拘置所での収容期間を合わせると28年ほどになる。それらの日々が、中川に変化をもたらしたのだろうか。犯罪史に刻まれる凶悪事件 中川の起こした事件は「名古屋アベック殺人事件」と呼ばれ、戦後の犯罪史に刻まれている。執拗な暴力と残忍な手口で被害者を死に至らしめたことに加え、6人の加害者のうち当時20歳だった暴力団組員の男以外は17歳から19歳の未成年(うち2人は女性)だった事実が、社会に大きな衝撃を与えた。 1988年2月23日早朝、愛知県名古屋市緑区の大高緑地公園で、通行人がフロントガラスや窓ガラスが粉々に破壊された乗用車を発見する。通報により駆けつけた警察官が、車内から血の付いた下着を発見し、捜査が開始された。すぐに、車に乗っていた理容師の男性(当時19)と、理容師見習いの女性(同20)の2人が行方不明になっていることが判明。目撃情報などから4日後に、とび職だった中川ら6人が逮捕され、供述から三重県の山中で男女2人の遺体が発見された。 事件は、凄惨という言葉がそのまま当てはまる。 起訴状などによると、6人は23日の未明、大高緑地公園の駐車場で、車に乗ってデート中だった2人を外に引きずり出し、鉄パイプや木刀で執拗に暴行。現金約2万円などを奪い、男たちは女性を乱暴した。さらに2人を自分たちの車で連れ回した挙げ句、事件の発覚を恐れ、24日に愛知県長久手町の墓地で男性の首をロープで絞めて殺害する。25日には女性を三重県内の山林に連れて行き、やはりロープで首を絞めて殺し、掘った穴の中に2人の遺体を埋めた。 殺害方法は、綱引きのようにして両側からロープで首を締め上げ、数十分かけて死に至らしめるという残忍なものだった。6人は事件の直前にも、名古屋市内で別のアベック2組を襲い、うち1組の男女に全治1週間のけがを負わせた上、現金など計約10万円相当を奪うなど、場当たり的で快楽的な犯罪を繰り返していた。凶行は、その延長線上で起きた。 同じ時期(88年11月から89年1月)には、東京都足立区で少年4人が女子高生を41日間にわたって監禁し、暴行を繰り返して死亡させ、遺体をドラム缶に入れてコンクリート詰めにしたうえ遺棄した「女子高生コンクリート詰め殺人事件」が発生している。少年犯罪に対する世間の目は、厳しさを増していた。犯行当時19歳だった中川が、事件の悪質さから検察官送致(逆送)となり、少年ではなく成人と同じように裁かれることになったのは当然のことだった。「極刑をもって臨むべき」 89年6月、名古屋地裁は中川に求刑通り死刑判決を言い渡した。「まれに見る残虐、冷酷な犯罪で、遺族の被害感情を考えると、死刑もやむを得ない」というのが、その理由だった。少年への死刑判決は、犯行当時19歳だった4人連続射殺事件の永山則夫元死刑囚=97年8月に死刑執行=以来だった。 だが、7年半にわたる控訴審の末に、96年12月、名古屋高裁は一審の死刑を破棄し、中川に無期懲役の判決を言い渡した。判決文では、中川に対して「犯行の動機にくむべきものはまったく見当たらず、犯行の態様も残虐で、結果の重大性はいうまでもない。遺族の被害感情には今なお厳しいものがあるなど、極刑をもって臨むべきとの見解には相当の根拠がある」としながらも、死刑の選択を避けた。「控訴審の公判でも、人の生命の尊さ、犯行の重大性、一審の死刑判決の重みを再認識して、反省の度を深めていることなどの事情が認められる」(判決要旨より)など、中川に更生の可能性があると判断したのが、その理由だった。 検察側は上告を断念し、97年1月に無期懲役が確定したことから、中川は岡山刑務所に下獄した。中川のほか犯行に加わった5人は、無期懲役や懲役13年、5年以上10年以下の不定期刑が確定している。 刑務所内で、中川は「1類」の優遇措置を受けている。社会復帰に向けて努力させるため、服役態度などによって受刑者を1~5類に分け、区分ごとに面会や手紙の回数、所内での集会の参加回数などの幅を広げている。1類はそのトップランクで、岡山刑務所内では約30人と、全受刑者の1割に満たない「獄中エリート」だ。中川は刑務作業での事故や所内でのトラブルがなく、素行のよい「模範囚」ということになる。そのため、面会時間も1時間を許可された。 3畳ほどの独居房に暮らす中川は、刑務所での毎日が「とにかく忙しい」という。日中の刑務作業では、金属加工工場で数値制御装置が付けられた「NC旋盤」の操作を担当している。フロッピーディスクを用いる旧式なコンピュータながら、独学で身につけた関数などの知識を生かし、プログラムを打ち込んで操作する重要な仕事だ。新幹線の部品に用いられる精密加工品を作ることもあるという。 また、受刑者によるクラブ活動では俳句と書道を行い、そこで発表したものは、法務省主催の文芸作品コンクールに欠かさず応募している。そのほか、犯した罪や被害者のこと、日々の反省など3つのテーマを自ら決め、月に1回作文を書くことを課されており、その準備などを入念に行う。もらった手紙の返事も丹念に書き、年に2度、被害者の遺族に刑務作業で得た作業報奨金から、償いとして現金を送っている。通常の消灯時間は午後9時だが、火、木、土は特別に午後10時まで延長を認めてもらい、そうした日々の作業に充てているという。消灯時間の延長が認められるのは、もちろん中川が「1類」の模範囚だからだ。「希望を持つようにしています」 一般社会の生活から隔絶された、監視と規律の世界。無期懲役という、いつ出獄できるかもわからない中で、なぜ中川は絶望することなく、模範囚としての日々を送ることができるのだろうか。そのことを問うと、中川は「社会復帰という目標があるからです」と、はっきりとした口調で答えた。「社会復帰」とは、仮釈放で再び塀の外に出ることにほかならない。「(ほかの無期懲役囚は)あまり(仮釈放を)考えないようにしている人が多いんです。でも、私はなんとか希望を持つようにしています」 中川が無期懲役囚となったのは20代で、公判では家族が、仮釈放になれば生活の面倒をみると明言している。40代以降で罪を犯し、家族などからも見放されてしまった無期懲役囚とは「境遇」が大きく異なる。30年以上服役すれば、自分は老人となり、生きているかもわからない。頼れる身寄りなどありはせず、仮釈放など夢のまた夢、と考える無期懲役囚は少なくない。中川は、仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚なのだ。 だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
これに対し、終身刑はこうした仮釈放の可能性を認めていない。無期懲役と区別するために、終身刑を「絶対的無期懲役」と表現することもある。終身刑は欧米などには導入されているものの、日本にはない制度だ。 もう一つのポイントは、無期懲役囚は実際には何年ほどで仮釈放されているか、という点だ。刑法の条文にあるように、10年が経過すれば釈放されるのだろうか。 弁護士など専門家の中にも「無期懲役といっても、15年ほどで仮釈放される」ということを語る人がいる。だが、現状から照らし合わせると決して事実ではない。 法務省の統計によると、14年に仮釈放された無期懲役囚はわずか6人で、この6人の平均収容期間は31年4カ月にのぼる。05~14年の期間で見てみると、仮釈放された無期懲役囚は54人。この10年間で、仮釈放された無期懲役囚の平均収容期間は27年2カ月(05年)から31年4カ月(14年)と長期化している。 注意しなければならないのは、この「平均収容期間」は、あくまでも仮釈放された無期懲役囚の数値であり、仮釈放が認められず、刑務所に収容されたままとなっている大部分の無期懲役囚たちの収容期間は一切反映されていないという点だ。 14年末現在で全国の刑務所に収容されている無期懲役囚は1842人いるが、このうち27人が40年から50年、12人は実に50年以上にわたって服役を続けている。05~14年の間に獄中で死亡した無期懲役囚は154人と、仮釈放された54人の3倍近くに達していることからも、いかに塀の外へ出ることが困難かがわかるだろう。これでは、まるで事実上の終身刑だ。厳罰化の流れの中で もっとも「15年で出られる」といった説が、まったく根も葉もないというわけではない。1990年代後半までは、仮釈放される無期懲役囚は年間2ケタ台で推移し、平均収容期間も20年程度と短かった。長期化している背景にあるのは、犯罪に対する厳罰化の流れだ。04年の刑法改正では、有期刑の上限が20年から30年に引き上げられている。無期懲役は有期刑よりも厳しい刑罰であることから、服役期間が30年未満での仮釈放は現実的ではなくなったのだ。 同じ年には「犯罪被害者等基本法」も成立し、07年12月には、被害者が加害者の仮釈放について意見を述べることができる制度も導入された。「被害者が、凶悪な犯罪を起こした加害者の仮釈放を受け容れることは容易ではない」(法務省関係者)ことから、仮釈放へのハードルは一層高まることとなった。 受刑者との面会は、原則として、あらかじめ刑務所側に登録してある親族や知人などに限定されている。中川とは取材を通じて文通を重ね、知人として07年から面会することが可能となった。今夏48歳となるが、五分刈りで痩せた中川の姿はこの10年ほどでほとんど変化がない。「元気そうですね」と声をかけると、中川は意外なことを口にした。 前年8月26日、運動中に突然倒れ、くも膜下出血と診断されて2週間、刑務所外部の病院に入院していたのだ。「倒れてから丸1日、意識がなかったんです」。アクリル板に開けられた小さな穴を通して聞こえてくる声に、衰えなどはまったく感じない。だが、一時は生死の境をさまよい、医師は回復したとしても後遺症が出る可能性が高いとの見立てだった。 長い間味わっていなかった塀の外の空気を感じる余裕はなく、ベッドに横たわり、体からはいくつものチューブが伸びて医療機器につながっている。久々に見る若い女性である看護師にも、もちろん心躍ることはなく、意識がもうろうとしたまま時間を過ごした。それでも、治療の甲斐があって中川は順調に回復し、退院後は刑務所内の病舎で日々を送り、今年5月には刑務作業に復帰している。この間に足腰の筋肉が落ち、立つとふらつくこともあったが、現在は後遺症もなく、日常生活での支障は全くないという。「死んでもおかしくない状況でしたが、それでも生きることができたのは、私にはまだやるべき使命が残されているからだと思い、感謝の気持ちでいっぱいです。命の重みを感じ、私が奪ってしまった命の重さや尊さをあらためて身をもって知りました」 噛みしめるように話す中川の姿を見ると、多くの人には純朴な人物として映るだろう。そこに、男女2人を惨殺した凶悪事件の主犯格という姿を重ねるのは難しい。服役生活は、拘置所での収容期間を合わせると28年ほどになる。それらの日々が、中川に変化をもたらしたのだろうか。犯罪史に刻まれる凶悪事件 中川の起こした事件は「名古屋アベック殺人事件」と呼ばれ、戦後の犯罪史に刻まれている。執拗な暴力と残忍な手口で被害者を死に至らしめたことに加え、6人の加害者のうち当時20歳だった暴力団組員の男以外は17歳から19歳の未成年(うち2人は女性)だった事実が、社会に大きな衝撃を与えた。 1988年2月23日早朝、愛知県名古屋市緑区の大高緑地公園で、通行人がフロントガラスや窓ガラスが粉々に破壊された乗用車を発見する。通報により駆けつけた警察官が、車内から血の付いた下着を発見し、捜査が開始された。すぐに、車に乗っていた理容師の男性(当時19)と、理容師見習いの女性(同20)の2人が行方不明になっていることが判明。目撃情報などから4日後に、とび職だった中川ら6人が逮捕され、供述から三重県の山中で男女2人の遺体が発見された。 事件は、凄惨という言葉がそのまま当てはまる。 起訴状などによると、6人は23日の未明、大高緑地公園の駐車場で、車に乗ってデート中だった2人を外に引きずり出し、鉄パイプや木刀で執拗に暴行。現金約2万円などを奪い、男たちは女性を乱暴した。さらに2人を自分たちの車で連れ回した挙げ句、事件の発覚を恐れ、24日に愛知県長久手町の墓地で男性の首をロープで絞めて殺害する。25日には女性を三重県内の山林に連れて行き、やはりロープで首を絞めて殺し、掘った穴の中に2人の遺体を埋めた。 殺害方法は、綱引きのようにして両側からロープで首を締め上げ、数十分かけて死に至らしめるという残忍なものだった。6人は事件の直前にも、名古屋市内で別のアベック2組を襲い、うち1組の男女に全治1週間のけがを負わせた上、現金など計約10万円相当を奪うなど、場当たり的で快楽的な犯罪を繰り返していた。凶行は、その延長線上で起きた。 同じ時期(88年11月から89年1月)には、東京都足立区で少年4人が女子高生を41日間にわたって監禁し、暴行を繰り返して死亡させ、遺体をドラム缶に入れてコンクリート詰めにしたうえ遺棄した「女子高生コンクリート詰め殺人事件」が発生している。少年犯罪に対する世間の目は、厳しさを増していた。犯行当時19歳だった中川が、事件の悪質さから検察官送致(逆送)となり、少年ではなく成人と同じように裁かれることになったのは当然のことだった。「極刑をもって臨むべき」 89年6月、名古屋地裁は中川に求刑通り死刑判決を言い渡した。「まれに見る残虐、冷酷な犯罪で、遺族の被害感情を考えると、死刑もやむを得ない」というのが、その理由だった。少年への死刑判決は、犯行当時19歳だった4人連続射殺事件の永山則夫元死刑囚=97年8月に死刑執行=以来だった。 だが、7年半にわたる控訴審の末に、96年12月、名古屋高裁は一審の死刑を破棄し、中川に無期懲役の判決を言い渡した。判決文では、中川に対して「犯行の動機にくむべきものはまったく見当たらず、犯行の態様も残虐で、結果の重大性はいうまでもない。遺族の被害感情には今なお厳しいものがあるなど、極刑をもって臨むべきとの見解には相当の根拠がある」としながらも、死刑の選択を避けた。「控訴審の公判でも、人の生命の尊さ、犯行の重大性、一審の死刑判決の重みを再認識して、反省の度を深めていることなどの事情が認められる」(判決要旨より)など、中川に更生の可能性があると判断したのが、その理由だった。 検察側は上告を断念し、97年1月に無期懲役が確定したことから、中川は岡山刑務所に下獄した。中川のほか犯行に加わった5人は、無期懲役や懲役13年、5年以上10年以下の不定期刑が確定している。 刑務所内で、中川は「1類」の優遇措置を受けている。社会復帰に向けて努力させるため、服役態度などによって受刑者を1~5類に分け、区分ごとに面会や手紙の回数、所内での集会の参加回数などの幅を広げている。1類はそのトップランクで、岡山刑務所内では約30人と、全受刑者の1割に満たない「獄中エリート」だ。中川は刑務作業での事故や所内でのトラブルがなく、素行のよい「模範囚」ということになる。そのため、面会時間も1時間を許可された。 3畳ほどの独居房に暮らす中川は、刑務所での毎日が「とにかく忙しい」という。日中の刑務作業では、金属加工工場で数値制御装置が付けられた「NC旋盤」の操作を担当している。フロッピーディスクを用いる旧式なコンピュータながら、独学で身につけた関数などの知識を生かし、プログラムを打ち込んで操作する重要な仕事だ。新幹線の部品に用いられる精密加工品を作ることもあるという。 また、受刑者によるクラブ活動では俳句と書道を行い、そこで発表したものは、法務省主催の文芸作品コンクールに欠かさず応募している。そのほか、犯した罪や被害者のこと、日々の反省など3つのテーマを自ら決め、月に1回作文を書くことを課されており、その準備などを入念に行う。もらった手紙の返事も丹念に書き、年に2度、被害者の遺族に刑務作業で得た作業報奨金から、償いとして現金を送っている。通常の消灯時間は午後9時だが、火、木、土は特別に午後10時まで延長を認めてもらい、そうした日々の作業に充てているという。消灯時間の延長が認められるのは、もちろん中川が「1類」の模範囚だからだ。「希望を持つようにしています」 一般社会の生活から隔絶された、監視と規律の世界。無期懲役という、いつ出獄できるかもわからない中で、なぜ中川は絶望することなく、模範囚としての日々を送ることができるのだろうか。そのことを問うと、中川は「社会復帰という目標があるからです」と、はっきりとした口調で答えた。「社会復帰」とは、仮釈放で再び塀の外に出ることにほかならない。「(ほかの無期懲役囚は)あまり(仮釈放を)考えないようにしている人が多いんです。でも、私はなんとか希望を持つようにしています」 中川が無期懲役囚となったのは20代で、公判では家族が、仮釈放になれば生活の面倒をみると明言している。40代以降で罪を犯し、家族などからも見放されてしまった無期懲役囚とは「境遇」が大きく異なる。30年以上服役すれば、自分は老人となり、生きているかもわからない。頼れる身寄りなどありはせず、仮釈放など夢のまた夢、と考える無期懲役囚は少なくない。中川は、仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚なのだ。 だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
もう一つのポイントは、無期懲役囚は実際には何年ほどで仮釈放されているか、という点だ。刑法の条文にあるように、10年が経過すれば釈放されるのだろうか。 弁護士など専門家の中にも「無期懲役といっても、15年ほどで仮釈放される」ということを語る人がいる。だが、現状から照らし合わせると決して事実ではない。 法務省の統計によると、14年に仮釈放された無期懲役囚はわずか6人で、この6人の平均収容期間は31年4カ月にのぼる。05~14年の期間で見てみると、仮釈放された無期懲役囚は54人。この10年間で、仮釈放された無期懲役囚の平均収容期間は27年2カ月(05年)から31年4カ月(14年)と長期化している。 注意しなければならないのは、この「平均収容期間」は、あくまでも仮釈放された無期懲役囚の数値であり、仮釈放が認められず、刑務所に収容されたままとなっている大部分の無期懲役囚たちの収容期間は一切反映されていないという点だ。 14年末現在で全国の刑務所に収容されている無期懲役囚は1842人いるが、このうち27人が40年から50年、12人は実に50年以上にわたって服役を続けている。05~14年の間に獄中で死亡した無期懲役囚は154人と、仮釈放された54人の3倍近くに達していることからも、いかに塀の外へ出ることが困難かがわかるだろう。これでは、まるで事実上の終身刑だ。厳罰化の流れの中で もっとも「15年で出られる」といった説が、まったく根も葉もないというわけではない。1990年代後半までは、仮釈放される無期懲役囚は年間2ケタ台で推移し、平均収容期間も20年程度と短かった。長期化している背景にあるのは、犯罪に対する厳罰化の流れだ。04年の刑法改正では、有期刑の上限が20年から30年に引き上げられている。無期懲役は有期刑よりも厳しい刑罰であることから、服役期間が30年未満での仮釈放は現実的ではなくなったのだ。 同じ年には「犯罪被害者等基本法」も成立し、07年12月には、被害者が加害者の仮釈放について意見を述べることができる制度も導入された。「被害者が、凶悪な犯罪を起こした加害者の仮釈放を受け容れることは容易ではない」(法務省関係者)ことから、仮釈放へのハードルは一層高まることとなった。 受刑者との面会は、原則として、あらかじめ刑務所側に登録してある親族や知人などに限定されている。中川とは取材を通じて文通を重ね、知人として07年から面会することが可能となった。今夏48歳となるが、五分刈りで痩せた中川の姿はこの10年ほどでほとんど変化がない。「元気そうですね」と声をかけると、中川は意外なことを口にした。 前年8月26日、運動中に突然倒れ、くも膜下出血と診断されて2週間、刑務所外部の病院に入院していたのだ。「倒れてから丸1日、意識がなかったんです」。アクリル板に開けられた小さな穴を通して聞こえてくる声に、衰えなどはまったく感じない。だが、一時は生死の境をさまよい、医師は回復したとしても後遺症が出る可能性が高いとの見立てだった。 長い間味わっていなかった塀の外の空気を感じる余裕はなく、ベッドに横たわり、体からはいくつものチューブが伸びて医療機器につながっている。久々に見る若い女性である看護師にも、もちろん心躍ることはなく、意識がもうろうとしたまま時間を過ごした。それでも、治療の甲斐があって中川は順調に回復し、退院後は刑務所内の病舎で日々を送り、今年5月には刑務作業に復帰している。この間に足腰の筋肉が落ち、立つとふらつくこともあったが、現在は後遺症もなく、日常生活での支障は全くないという。「死んでもおかしくない状況でしたが、それでも生きることができたのは、私にはまだやるべき使命が残されているからだと思い、感謝の気持ちでいっぱいです。命の重みを感じ、私が奪ってしまった命の重さや尊さをあらためて身をもって知りました」 噛みしめるように話す中川の姿を見ると、多くの人には純朴な人物として映るだろう。そこに、男女2人を惨殺した凶悪事件の主犯格という姿を重ねるのは難しい。服役生活は、拘置所での収容期間を合わせると28年ほどになる。それらの日々が、中川に変化をもたらしたのだろうか。犯罪史に刻まれる凶悪事件 中川の起こした事件は「名古屋アベック殺人事件」と呼ばれ、戦後の犯罪史に刻まれている。執拗な暴力と残忍な手口で被害者を死に至らしめたことに加え、6人の加害者のうち当時20歳だった暴力団組員の男以外は17歳から19歳の未成年(うち2人は女性)だった事実が、社会に大きな衝撃を与えた。 1988年2月23日早朝、愛知県名古屋市緑区の大高緑地公園で、通行人がフロントガラスや窓ガラスが粉々に破壊された乗用車を発見する。通報により駆けつけた警察官が、車内から血の付いた下着を発見し、捜査が開始された。すぐに、車に乗っていた理容師の男性(当時19)と、理容師見習いの女性(同20)の2人が行方不明になっていることが判明。目撃情報などから4日後に、とび職だった中川ら6人が逮捕され、供述から三重県の山中で男女2人の遺体が発見された。 事件は、凄惨という言葉がそのまま当てはまる。 起訴状などによると、6人は23日の未明、大高緑地公園の駐車場で、車に乗ってデート中だった2人を外に引きずり出し、鉄パイプや木刀で執拗に暴行。現金約2万円などを奪い、男たちは女性を乱暴した。さらに2人を自分たちの車で連れ回した挙げ句、事件の発覚を恐れ、24日に愛知県長久手町の墓地で男性の首をロープで絞めて殺害する。25日には女性を三重県内の山林に連れて行き、やはりロープで首を絞めて殺し、掘った穴の中に2人の遺体を埋めた。 殺害方法は、綱引きのようにして両側からロープで首を締め上げ、数十分かけて死に至らしめるという残忍なものだった。6人は事件の直前にも、名古屋市内で別のアベック2組を襲い、うち1組の男女に全治1週間のけがを負わせた上、現金など計約10万円相当を奪うなど、場当たり的で快楽的な犯罪を繰り返していた。凶行は、その延長線上で起きた。 同じ時期(88年11月から89年1月)には、東京都足立区で少年4人が女子高生を41日間にわたって監禁し、暴行を繰り返して死亡させ、遺体をドラム缶に入れてコンクリート詰めにしたうえ遺棄した「女子高生コンクリート詰め殺人事件」が発生している。少年犯罪に対する世間の目は、厳しさを増していた。犯行当時19歳だった中川が、事件の悪質さから検察官送致(逆送)となり、少年ではなく成人と同じように裁かれることになったのは当然のことだった。「極刑をもって臨むべき」 89年6月、名古屋地裁は中川に求刑通り死刑判決を言い渡した。「まれに見る残虐、冷酷な犯罪で、遺族の被害感情を考えると、死刑もやむを得ない」というのが、その理由だった。少年への死刑判決は、犯行当時19歳だった4人連続射殺事件の永山則夫元死刑囚=97年8月に死刑執行=以来だった。 だが、7年半にわたる控訴審の末に、96年12月、名古屋高裁は一審の死刑を破棄し、中川に無期懲役の判決を言い渡した。判決文では、中川に対して「犯行の動機にくむべきものはまったく見当たらず、犯行の態様も残虐で、結果の重大性はいうまでもない。遺族の被害感情には今なお厳しいものがあるなど、極刑をもって臨むべきとの見解には相当の根拠がある」としながらも、死刑の選択を避けた。「控訴審の公判でも、人の生命の尊さ、犯行の重大性、一審の死刑判決の重みを再認識して、反省の度を深めていることなどの事情が認められる」(判決要旨より)など、中川に更生の可能性があると判断したのが、その理由だった。 検察側は上告を断念し、97年1月に無期懲役が確定したことから、中川は岡山刑務所に下獄した。中川のほか犯行に加わった5人は、無期懲役や懲役13年、5年以上10年以下の不定期刑が確定している。 刑務所内で、中川は「1類」の優遇措置を受けている。社会復帰に向けて努力させるため、服役態度などによって受刑者を1~5類に分け、区分ごとに面会や手紙の回数、所内での集会の参加回数などの幅を広げている。1類はそのトップランクで、岡山刑務所内では約30人と、全受刑者の1割に満たない「獄中エリート」だ。中川は刑務作業での事故や所内でのトラブルがなく、素行のよい「模範囚」ということになる。そのため、面会時間も1時間を許可された。 3畳ほどの独居房に暮らす中川は、刑務所での毎日が「とにかく忙しい」という。日中の刑務作業では、金属加工工場で数値制御装置が付けられた「NC旋盤」の操作を担当している。フロッピーディスクを用いる旧式なコンピュータながら、独学で身につけた関数などの知識を生かし、プログラムを打ち込んで操作する重要な仕事だ。新幹線の部品に用いられる精密加工品を作ることもあるという。 また、受刑者によるクラブ活動では俳句と書道を行い、そこで発表したものは、法務省主催の文芸作品コンクールに欠かさず応募している。そのほか、犯した罪や被害者のこと、日々の反省など3つのテーマを自ら決め、月に1回作文を書くことを課されており、その準備などを入念に行う。もらった手紙の返事も丹念に書き、年に2度、被害者の遺族に刑務作業で得た作業報奨金から、償いとして現金を送っている。通常の消灯時間は午後9時だが、火、木、土は特別に午後10時まで延長を認めてもらい、そうした日々の作業に充てているという。消灯時間の延長が認められるのは、もちろん中川が「1類」の模範囚だからだ。「希望を持つようにしています」 一般社会の生活から隔絶された、監視と規律の世界。無期懲役という、いつ出獄できるかもわからない中で、なぜ中川は絶望することなく、模範囚としての日々を送ることができるのだろうか。そのことを問うと、中川は「社会復帰という目標があるからです」と、はっきりとした口調で答えた。「社会復帰」とは、仮釈放で再び塀の外に出ることにほかならない。「(ほかの無期懲役囚は)あまり(仮釈放を)考えないようにしている人が多いんです。でも、私はなんとか希望を持つようにしています」 中川が無期懲役囚となったのは20代で、公判では家族が、仮釈放になれば生活の面倒をみると明言している。40代以降で罪を犯し、家族などからも見放されてしまった無期懲役囚とは「境遇」が大きく異なる。30年以上服役すれば、自分は老人となり、生きているかもわからない。頼れる身寄りなどありはせず、仮釈放など夢のまた夢、と考える無期懲役囚は少なくない。中川は、仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚なのだ。 だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
弁護士など専門家の中にも「無期懲役といっても、15年ほどで仮釈放される」ということを語る人がいる。だが、現状から照らし合わせると決して事実ではない。 法務省の統計によると、14年に仮釈放された無期懲役囚はわずか6人で、この6人の平均収容期間は31年4カ月にのぼる。05~14年の期間で見てみると、仮釈放された無期懲役囚は54人。この10年間で、仮釈放された無期懲役囚の平均収容期間は27年2カ月(05年)から31年4カ月(14年)と長期化している。 注意しなければならないのは、この「平均収容期間」は、あくまでも仮釈放された無期懲役囚の数値であり、仮釈放が認められず、刑務所に収容されたままとなっている大部分の無期懲役囚たちの収容期間は一切反映されていないという点だ。 14年末現在で全国の刑務所に収容されている無期懲役囚は1842人いるが、このうち27人が40年から50年、12人は実に50年以上にわたって服役を続けている。05~14年の間に獄中で死亡した無期懲役囚は154人と、仮釈放された54人の3倍近くに達していることからも、いかに塀の外へ出ることが困難かがわかるだろう。これでは、まるで事実上の終身刑だ。厳罰化の流れの中で もっとも「15年で出られる」といった説が、まったく根も葉もないというわけではない。1990年代後半までは、仮釈放される無期懲役囚は年間2ケタ台で推移し、平均収容期間も20年程度と短かった。長期化している背景にあるのは、犯罪に対する厳罰化の流れだ。04年の刑法改正では、有期刑の上限が20年から30年に引き上げられている。無期懲役は有期刑よりも厳しい刑罰であることから、服役期間が30年未満での仮釈放は現実的ではなくなったのだ。 同じ年には「犯罪被害者等基本法」も成立し、07年12月には、被害者が加害者の仮釈放について意見を述べることができる制度も導入された。「被害者が、凶悪な犯罪を起こした加害者の仮釈放を受け容れることは容易ではない」(法務省関係者)ことから、仮釈放へのハードルは一層高まることとなった。 受刑者との面会は、原則として、あらかじめ刑務所側に登録してある親族や知人などに限定されている。中川とは取材を通じて文通を重ね、知人として07年から面会することが可能となった。今夏48歳となるが、五分刈りで痩せた中川の姿はこの10年ほどでほとんど変化がない。「元気そうですね」と声をかけると、中川は意外なことを口にした。 前年8月26日、運動中に突然倒れ、くも膜下出血と診断されて2週間、刑務所外部の病院に入院していたのだ。「倒れてから丸1日、意識がなかったんです」。アクリル板に開けられた小さな穴を通して聞こえてくる声に、衰えなどはまったく感じない。だが、一時は生死の境をさまよい、医師は回復したとしても後遺症が出る可能性が高いとの見立てだった。 長い間味わっていなかった塀の外の空気を感じる余裕はなく、ベッドに横たわり、体からはいくつものチューブが伸びて医療機器につながっている。久々に見る若い女性である看護師にも、もちろん心躍ることはなく、意識がもうろうとしたまま時間を過ごした。それでも、治療の甲斐があって中川は順調に回復し、退院後は刑務所内の病舎で日々を送り、今年5月には刑務作業に復帰している。この間に足腰の筋肉が落ち、立つとふらつくこともあったが、現在は後遺症もなく、日常生活での支障は全くないという。「死んでもおかしくない状況でしたが、それでも生きることができたのは、私にはまだやるべき使命が残されているからだと思い、感謝の気持ちでいっぱいです。命の重みを感じ、私が奪ってしまった命の重さや尊さをあらためて身をもって知りました」 噛みしめるように話す中川の姿を見ると、多くの人には純朴な人物として映るだろう。そこに、男女2人を惨殺した凶悪事件の主犯格という姿を重ねるのは難しい。服役生活は、拘置所での収容期間を合わせると28年ほどになる。それらの日々が、中川に変化をもたらしたのだろうか。犯罪史に刻まれる凶悪事件 中川の起こした事件は「名古屋アベック殺人事件」と呼ばれ、戦後の犯罪史に刻まれている。執拗な暴力と残忍な手口で被害者を死に至らしめたことに加え、6人の加害者のうち当時20歳だった暴力団組員の男以外は17歳から19歳の未成年(うち2人は女性)だった事実が、社会に大きな衝撃を与えた。 1988年2月23日早朝、愛知県名古屋市緑区の大高緑地公園で、通行人がフロントガラスや窓ガラスが粉々に破壊された乗用車を発見する。通報により駆けつけた警察官が、車内から血の付いた下着を発見し、捜査が開始された。すぐに、車に乗っていた理容師の男性(当時19)と、理容師見習いの女性(同20)の2人が行方不明になっていることが判明。目撃情報などから4日後に、とび職だった中川ら6人が逮捕され、供述から三重県の山中で男女2人の遺体が発見された。 事件は、凄惨という言葉がそのまま当てはまる。 起訴状などによると、6人は23日の未明、大高緑地公園の駐車場で、車に乗ってデート中だった2人を外に引きずり出し、鉄パイプや木刀で執拗に暴行。現金約2万円などを奪い、男たちは女性を乱暴した。さらに2人を自分たちの車で連れ回した挙げ句、事件の発覚を恐れ、24日に愛知県長久手町の墓地で男性の首をロープで絞めて殺害する。25日には女性を三重県内の山林に連れて行き、やはりロープで首を絞めて殺し、掘った穴の中に2人の遺体を埋めた。 殺害方法は、綱引きのようにして両側からロープで首を締め上げ、数十分かけて死に至らしめるという残忍なものだった。6人は事件の直前にも、名古屋市内で別のアベック2組を襲い、うち1組の男女に全治1週間のけがを負わせた上、現金など計約10万円相当を奪うなど、場当たり的で快楽的な犯罪を繰り返していた。凶行は、その延長線上で起きた。 同じ時期(88年11月から89年1月)には、東京都足立区で少年4人が女子高生を41日間にわたって監禁し、暴行を繰り返して死亡させ、遺体をドラム缶に入れてコンクリート詰めにしたうえ遺棄した「女子高生コンクリート詰め殺人事件」が発生している。少年犯罪に対する世間の目は、厳しさを増していた。犯行当時19歳だった中川が、事件の悪質さから検察官送致(逆送)となり、少年ではなく成人と同じように裁かれることになったのは当然のことだった。「極刑をもって臨むべき」 89年6月、名古屋地裁は中川に求刑通り死刑判決を言い渡した。「まれに見る残虐、冷酷な犯罪で、遺族の被害感情を考えると、死刑もやむを得ない」というのが、その理由だった。少年への死刑判決は、犯行当時19歳だった4人連続射殺事件の永山則夫元死刑囚=97年8月に死刑執行=以来だった。 だが、7年半にわたる控訴審の末に、96年12月、名古屋高裁は一審の死刑を破棄し、中川に無期懲役の判決を言い渡した。判決文では、中川に対して「犯行の動機にくむべきものはまったく見当たらず、犯行の態様も残虐で、結果の重大性はいうまでもない。遺族の被害感情には今なお厳しいものがあるなど、極刑をもって臨むべきとの見解には相当の根拠がある」としながらも、死刑の選択を避けた。「控訴審の公判でも、人の生命の尊さ、犯行の重大性、一審の死刑判決の重みを再認識して、反省の度を深めていることなどの事情が認められる」(判決要旨より)など、中川に更生の可能性があると判断したのが、その理由だった。 検察側は上告を断念し、97年1月に無期懲役が確定したことから、中川は岡山刑務所に下獄した。中川のほか犯行に加わった5人は、無期懲役や懲役13年、5年以上10年以下の不定期刑が確定している。 刑務所内で、中川は「1類」の優遇措置を受けている。社会復帰に向けて努力させるため、服役態度などによって受刑者を1~5類に分け、区分ごとに面会や手紙の回数、所内での集会の参加回数などの幅を広げている。1類はそのトップランクで、岡山刑務所内では約30人と、全受刑者の1割に満たない「獄中エリート」だ。中川は刑務作業での事故や所内でのトラブルがなく、素行のよい「模範囚」ということになる。そのため、面会時間も1時間を許可された。 3畳ほどの独居房に暮らす中川は、刑務所での毎日が「とにかく忙しい」という。日中の刑務作業では、金属加工工場で数値制御装置が付けられた「NC旋盤」の操作を担当している。フロッピーディスクを用いる旧式なコンピュータながら、独学で身につけた関数などの知識を生かし、プログラムを打ち込んで操作する重要な仕事だ。新幹線の部品に用いられる精密加工品を作ることもあるという。 また、受刑者によるクラブ活動では俳句と書道を行い、そこで発表したものは、法務省主催の文芸作品コンクールに欠かさず応募している。そのほか、犯した罪や被害者のこと、日々の反省など3つのテーマを自ら決め、月に1回作文を書くことを課されており、その準備などを入念に行う。もらった手紙の返事も丹念に書き、年に2度、被害者の遺族に刑務作業で得た作業報奨金から、償いとして現金を送っている。通常の消灯時間は午後9時だが、火、木、土は特別に午後10時まで延長を認めてもらい、そうした日々の作業に充てているという。消灯時間の延長が認められるのは、もちろん中川が「1類」の模範囚だからだ。「希望を持つようにしています」 一般社会の生活から隔絶された、監視と規律の世界。無期懲役という、いつ出獄できるかもわからない中で、なぜ中川は絶望することなく、模範囚としての日々を送ることができるのだろうか。そのことを問うと、中川は「社会復帰という目標があるからです」と、はっきりとした口調で答えた。「社会復帰」とは、仮釈放で再び塀の外に出ることにほかならない。「(ほかの無期懲役囚は)あまり(仮釈放を)考えないようにしている人が多いんです。でも、私はなんとか希望を持つようにしています」 中川が無期懲役囚となったのは20代で、公判では家族が、仮釈放になれば生活の面倒をみると明言している。40代以降で罪を犯し、家族などからも見放されてしまった無期懲役囚とは「境遇」が大きく異なる。30年以上服役すれば、自分は老人となり、生きているかもわからない。頼れる身寄りなどありはせず、仮釈放など夢のまた夢、と考える無期懲役囚は少なくない。中川は、仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚なのだ。 だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
法務省の統計によると、14年に仮釈放された無期懲役囚はわずか6人で、この6人の平均収容期間は31年4カ月にのぼる。05~14年の期間で見てみると、仮釈放された無期懲役囚は54人。この10年間で、仮釈放された無期懲役囚の平均収容期間は27年2カ月(05年)から31年4カ月(14年)と長期化している。 注意しなければならないのは、この「平均収容期間」は、あくまでも仮釈放された無期懲役囚の数値であり、仮釈放が認められず、刑務所に収容されたままとなっている大部分の無期懲役囚たちの収容期間は一切反映されていないという点だ。 14年末現在で全国の刑務所に収容されている無期懲役囚は1842人いるが、このうち27人が40年から50年、12人は実に50年以上にわたって服役を続けている。05~14年の間に獄中で死亡した無期懲役囚は154人と、仮釈放された54人の3倍近くに達していることからも、いかに塀の外へ出ることが困難かがわかるだろう。これでは、まるで事実上の終身刑だ。厳罰化の流れの中で もっとも「15年で出られる」といった説が、まったく根も葉もないというわけではない。1990年代後半までは、仮釈放される無期懲役囚は年間2ケタ台で推移し、平均収容期間も20年程度と短かった。長期化している背景にあるのは、犯罪に対する厳罰化の流れだ。04年の刑法改正では、有期刑の上限が20年から30年に引き上げられている。無期懲役は有期刑よりも厳しい刑罰であることから、服役期間が30年未満での仮釈放は現実的ではなくなったのだ。 同じ年には「犯罪被害者等基本法」も成立し、07年12月には、被害者が加害者の仮釈放について意見を述べることができる制度も導入された。「被害者が、凶悪な犯罪を起こした加害者の仮釈放を受け容れることは容易ではない」(法務省関係者)ことから、仮釈放へのハードルは一層高まることとなった。 受刑者との面会は、原則として、あらかじめ刑務所側に登録してある親族や知人などに限定されている。中川とは取材を通じて文通を重ね、知人として07年から面会することが可能となった。今夏48歳となるが、五分刈りで痩せた中川の姿はこの10年ほどでほとんど変化がない。「元気そうですね」と声をかけると、中川は意外なことを口にした。 前年8月26日、運動中に突然倒れ、くも膜下出血と診断されて2週間、刑務所外部の病院に入院していたのだ。「倒れてから丸1日、意識がなかったんです」。アクリル板に開けられた小さな穴を通して聞こえてくる声に、衰えなどはまったく感じない。だが、一時は生死の境をさまよい、医師は回復したとしても後遺症が出る可能性が高いとの見立てだった。 長い間味わっていなかった塀の外の空気を感じる余裕はなく、ベッドに横たわり、体からはいくつものチューブが伸びて医療機器につながっている。久々に見る若い女性である看護師にも、もちろん心躍ることはなく、意識がもうろうとしたまま時間を過ごした。それでも、治療の甲斐があって中川は順調に回復し、退院後は刑務所内の病舎で日々を送り、今年5月には刑務作業に復帰している。この間に足腰の筋肉が落ち、立つとふらつくこともあったが、現在は後遺症もなく、日常生活での支障は全くないという。「死んでもおかしくない状況でしたが、それでも生きることができたのは、私にはまだやるべき使命が残されているからだと思い、感謝の気持ちでいっぱいです。命の重みを感じ、私が奪ってしまった命の重さや尊さをあらためて身をもって知りました」 噛みしめるように話す中川の姿を見ると、多くの人には純朴な人物として映るだろう。そこに、男女2人を惨殺した凶悪事件の主犯格という姿を重ねるのは難しい。服役生活は、拘置所での収容期間を合わせると28年ほどになる。それらの日々が、中川に変化をもたらしたのだろうか。犯罪史に刻まれる凶悪事件 中川の起こした事件は「名古屋アベック殺人事件」と呼ばれ、戦後の犯罪史に刻まれている。執拗な暴力と残忍な手口で被害者を死に至らしめたことに加え、6人の加害者のうち当時20歳だった暴力団組員の男以外は17歳から19歳の未成年(うち2人は女性)だった事実が、社会に大きな衝撃を与えた。 1988年2月23日早朝、愛知県名古屋市緑区の大高緑地公園で、通行人がフロントガラスや窓ガラスが粉々に破壊された乗用車を発見する。通報により駆けつけた警察官が、車内から血の付いた下着を発見し、捜査が開始された。すぐに、車に乗っていた理容師の男性(当時19)と、理容師見習いの女性(同20)の2人が行方不明になっていることが判明。目撃情報などから4日後に、とび職だった中川ら6人が逮捕され、供述から三重県の山中で男女2人の遺体が発見された。 事件は、凄惨という言葉がそのまま当てはまる。 起訴状などによると、6人は23日の未明、大高緑地公園の駐車場で、車に乗ってデート中だった2人を外に引きずり出し、鉄パイプや木刀で執拗に暴行。現金約2万円などを奪い、男たちは女性を乱暴した。さらに2人を自分たちの車で連れ回した挙げ句、事件の発覚を恐れ、24日に愛知県長久手町の墓地で男性の首をロープで絞めて殺害する。25日には女性を三重県内の山林に連れて行き、やはりロープで首を絞めて殺し、掘った穴の中に2人の遺体を埋めた。 殺害方法は、綱引きのようにして両側からロープで首を締め上げ、数十分かけて死に至らしめるという残忍なものだった。6人は事件の直前にも、名古屋市内で別のアベック2組を襲い、うち1組の男女に全治1週間のけがを負わせた上、現金など計約10万円相当を奪うなど、場当たり的で快楽的な犯罪を繰り返していた。凶行は、その延長線上で起きた。 同じ時期(88年11月から89年1月)には、東京都足立区で少年4人が女子高生を41日間にわたって監禁し、暴行を繰り返して死亡させ、遺体をドラム缶に入れてコンクリート詰めにしたうえ遺棄した「女子高生コンクリート詰め殺人事件」が発生している。少年犯罪に対する世間の目は、厳しさを増していた。犯行当時19歳だった中川が、事件の悪質さから検察官送致(逆送)となり、少年ではなく成人と同じように裁かれることになったのは当然のことだった。「極刑をもって臨むべき」 89年6月、名古屋地裁は中川に求刑通り死刑判決を言い渡した。「まれに見る残虐、冷酷な犯罪で、遺族の被害感情を考えると、死刑もやむを得ない」というのが、その理由だった。少年への死刑判決は、犯行当時19歳だった4人連続射殺事件の永山則夫元死刑囚=97年8月に死刑執行=以来だった。 だが、7年半にわたる控訴審の末に、96年12月、名古屋高裁は一審の死刑を破棄し、中川に無期懲役の判決を言い渡した。判決文では、中川に対して「犯行の動機にくむべきものはまったく見当たらず、犯行の態様も残虐で、結果の重大性はいうまでもない。遺族の被害感情には今なお厳しいものがあるなど、極刑をもって臨むべきとの見解には相当の根拠がある」としながらも、死刑の選択を避けた。「控訴審の公判でも、人の生命の尊さ、犯行の重大性、一審の死刑判決の重みを再認識して、反省の度を深めていることなどの事情が認められる」(判決要旨より)など、中川に更生の可能性があると判断したのが、その理由だった。 検察側は上告を断念し、97年1月に無期懲役が確定したことから、中川は岡山刑務所に下獄した。中川のほか犯行に加わった5人は、無期懲役や懲役13年、5年以上10年以下の不定期刑が確定している。 刑務所内で、中川は「1類」の優遇措置を受けている。社会復帰に向けて努力させるため、服役態度などによって受刑者を1~5類に分け、区分ごとに面会や手紙の回数、所内での集会の参加回数などの幅を広げている。1類はそのトップランクで、岡山刑務所内では約30人と、全受刑者の1割に満たない「獄中エリート」だ。中川は刑務作業での事故や所内でのトラブルがなく、素行のよい「模範囚」ということになる。そのため、面会時間も1時間を許可された。 3畳ほどの独居房に暮らす中川は、刑務所での毎日が「とにかく忙しい」という。日中の刑務作業では、金属加工工場で数値制御装置が付けられた「NC旋盤」の操作を担当している。フロッピーディスクを用いる旧式なコンピュータながら、独学で身につけた関数などの知識を生かし、プログラムを打ち込んで操作する重要な仕事だ。新幹線の部品に用いられる精密加工品を作ることもあるという。 また、受刑者によるクラブ活動では俳句と書道を行い、そこで発表したものは、法務省主催の文芸作品コンクールに欠かさず応募している。そのほか、犯した罪や被害者のこと、日々の反省など3つのテーマを自ら決め、月に1回作文を書くことを課されており、その準備などを入念に行う。もらった手紙の返事も丹念に書き、年に2度、被害者の遺族に刑務作業で得た作業報奨金から、償いとして現金を送っている。通常の消灯時間は午後9時だが、火、木、土は特別に午後10時まで延長を認めてもらい、そうした日々の作業に充てているという。消灯時間の延長が認められるのは、もちろん中川が「1類」の模範囚だからだ。「希望を持つようにしています」 一般社会の生活から隔絶された、監視と規律の世界。無期懲役という、いつ出獄できるかもわからない中で、なぜ中川は絶望することなく、模範囚としての日々を送ることができるのだろうか。そのことを問うと、中川は「社会復帰という目標があるからです」と、はっきりとした口調で答えた。「社会復帰」とは、仮釈放で再び塀の外に出ることにほかならない。「(ほかの無期懲役囚は)あまり(仮釈放を)考えないようにしている人が多いんです。でも、私はなんとか希望を持つようにしています」 中川が無期懲役囚となったのは20代で、公判では家族が、仮釈放になれば生活の面倒をみると明言している。40代以降で罪を犯し、家族などからも見放されてしまった無期懲役囚とは「境遇」が大きく異なる。30年以上服役すれば、自分は老人となり、生きているかもわからない。頼れる身寄りなどありはせず、仮釈放など夢のまた夢、と考える無期懲役囚は少なくない。中川は、仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚なのだ。 だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
注意しなければならないのは、この「平均収容期間」は、あくまでも仮釈放された無期懲役囚の数値であり、仮釈放が認められず、刑務所に収容されたままとなっている大部分の無期懲役囚たちの収容期間は一切反映されていないという点だ。 14年末現在で全国の刑務所に収容されている無期懲役囚は1842人いるが、このうち27人が40年から50年、12人は実に50年以上にわたって服役を続けている。05~14年の間に獄中で死亡した無期懲役囚は154人と、仮釈放された54人の3倍近くに達していることからも、いかに塀の外へ出ることが困難かがわかるだろう。これでは、まるで事実上の終身刑だ。厳罰化の流れの中で もっとも「15年で出られる」といった説が、まったく根も葉もないというわけではない。1990年代後半までは、仮釈放される無期懲役囚は年間2ケタ台で推移し、平均収容期間も20年程度と短かった。長期化している背景にあるのは、犯罪に対する厳罰化の流れだ。04年の刑法改正では、有期刑の上限が20年から30年に引き上げられている。無期懲役は有期刑よりも厳しい刑罰であることから、服役期間が30年未満での仮釈放は現実的ではなくなったのだ。 同じ年には「犯罪被害者等基本法」も成立し、07年12月には、被害者が加害者の仮釈放について意見を述べることができる制度も導入された。「被害者が、凶悪な犯罪を起こした加害者の仮釈放を受け容れることは容易ではない」(法務省関係者)ことから、仮釈放へのハードルは一層高まることとなった。 受刑者との面会は、原則として、あらかじめ刑務所側に登録してある親族や知人などに限定されている。中川とは取材を通じて文通を重ね、知人として07年から面会することが可能となった。今夏48歳となるが、五分刈りで痩せた中川の姿はこの10年ほどでほとんど変化がない。「元気そうですね」と声をかけると、中川は意外なことを口にした。 前年8月26日、運動中に突然倒れ、くも膜下出血と診断されて2週間、刑務所外部の病院に入院していたのだ。「倒れてから丸1日、意識がなかったんです」。アクリル板に開けられた小さな穴を通して聞こえてくる声に、衰えなどはまったく感じない。だが、一時は生死の境をさまよい、医師は回復したとしても後遺症が出る可能性が高いとの見立てだった。 長い間味わっていなかった塀の外の空気を感じる余裕はなく、ベッドに横たわり、体からはいくつものチューブが伸びて医療機器につながっている。久々に見る若い女性である看護師にも、もちろん心躍ることはなく、意識がもうろうとしたまま時間を過ごした。それでも、治療の甲斐があって中川は順調に回復し、退院後は刑務所内の病舎で日々を送り、今年5月には刑務作業に復帰している。この間に足腰の筋肉が落ち、立つとふらつくこともあったが、現在は後遺症もなく、日常生活での支障は全くないという。「死んでもおかしくない状況でしたが、それでも生きることができたのは、私にはまだやるべき使命が残されているからだと思い、感謝の気持ちでいっぱいです。命の重みを感じ、私が奪ってしまった命の重さや尊さをあらためて身をもって知りました」 噛みしめるように話す中川の姿を見ると、多くの人には純朴な人物として映るだろう。そこに、男女2人を惨殺した凶悪事件の主犯格という姿を重ねるのは難しい。服役生活は、拘置所での収容期間を合わせると28年ほどになる。それらの日々が、中川に変化をもたらしたのだろうか。犯罪史に刻まれる凶悪事件 中川の起こした事件は「名古屋アベック殺人事件」と呼ばれ、戦後の犯罪史に刻まれている。執拗な暴力と残忍な手口で被害者を死に至らしめたことに加え、6人の加害者のうち当時20歳だった暴力団組員の男以外は17歳から19歳の未成年(うち2人は女性)だった事実が、社会に大きな衝撃を与えた。 1988年2月23日早朝、愛知県名古屋市緑区の大高緑地公園で、通行人がフロントガラスや窓ガラスが粉々に破壊された乗用車を発見する。通報により駆けつけた警察官が、車内から血の付いた下着を発見し、捜査が開始された。すぐに、車に乗っていた理容師の男性(当時19)と、理容師見習いの女性(同20)の2人が行方不明になっていることが判明。目撃情報などから4日後に、とび職だった中川ら6人が逮捕され、供述から三重県の山中で男女2人の遺体が発見された。 事件は、凄惨という言葉がそのまま当てはまる。 起訴状などによると、6人は23日の未明、大高緑地公園の駐車場で、車に乗ってデート中だった2人を外に引きずり出し、鉄パイプや木刀で執拗に暴行。現金約2万円などを奪い、男たちは女性を乱暴した。さらに2人を自分たちの車で連れ回した挙げ句、事件の発覚を恐れ、24日に愛知県長久手町の墓地で男性の首をロープで絞めて殺害する。25日には女性を三重県内の山林に連れて行き、やはりロープで首を絞めて殺し、掘った穴の中に2人の遺体を埋めた。 殺害方法は、綱引きのようにして両側からロープで首を締め上げ、数十分かけて死に至らしめるという残忍なものだった。6人は事件の直前にも、名古屋市内で別のアベック2組を襲い、うち1組の男女に全治1週間のけがを負わせた上、現金など計約10万円相当を奪うなど、場当たり的で快楽的な犯罪を繰り返していた。凶行は、その延長線上で起きた。 同じ時期(88年11月から89年1月)には、東京都足立区で少年4人が女子高生を41日間にわたって監禁し、暴行を繰り返して死亡させ、遺体をドラム缶に入れてコンクリート詰めにしたうえ遺棄した「女子高生コンクリート詰め殺人事件」が発生している。少年犯罪に対する世間の目は、厳しさを増していた。犯行当時19歳だった中川が、事件の悪質さから検察官送致(逆送)となり、少年ではなく成人と同じように裁かれることになったのは当然のことだった。「極刑をもって臨むべき」 89年6月、名古屋地裁は中川に求刑通り死刑判決を言い渡した。「まれに見る残虐、冷酷な犯罪で、遺族の被害感情を考えると、死刑もやむを得ない」というのが、その理由だった。少年への死刑判決は、犯行当時19歳だった4人連続射殺事件の永山則夫元死刑囚=97年8月に死刑執行=以来だった。 だが、7年半にわたる控訴審の末に、96年12月、名古屋高裁は一審の死刑を破棄し、中川に無期懲役の判決を言い渡した。判決文では、中川に対して「犯行の動機にくむべきものはまったく見当たらず、犯行の態様も残虐で、結果の重大性はいうまでもない。遺族の被害感情には今なお厳しいものがあるなど、極刑をもって臨むべきとの見解には相当の根拠がある」としながらも、死刑の選択を避けた。「控訴審の公判でも、人の生命の尊さ、犯行の重大性、一審の死刑判決の重みを再認識して、反省の度を深めていることなどの事情が認められる」(判決要旨より)など、中川に更生の可能性があると判断したのが、その理由だった。 検察側は上告を断念し、97年1月に無期懲役が確定したことから、中川は岡山刑務所に下獄した。中川のほか犯行に加わった5人は、無期懲役や懲役13年、5年以上10年以下の不定期刑が確定している。 刑務所内で、中川は「1類」の優遇措置を受けている。社会復帰に向けて努力させるため、服役態度などによって受刑者を1~5類に分け、区分ごとに面会や手紙の回数、所内での集会の参加回数などの幅を広げている。1類はそのトップランクで、岡山刑務所内では約30人と、全受刑者の1割に満たない「獄中エリート」だ。中川は刑務作業での事故や所内でのトラブルがなく、素行のよい「模範囚」ということになる。そのため、面会時間も1時間を許可された。 3畳ほどの独居房に暮らす中川は、刑務所での毎日が「とにかく忙しい」という。日中の刑務作業では、金属加工工場で数値制御装置が付けられた「NC旋盤」の操作を担当している。フロッピーディスクを用いる旧式なコンピュータながら、独学で身につけた関数などの知識を生かし、プログラムを打ち込んで操作する重要な仕事だ。新幹線の部品に用いられる精密加工品を作ることもあるという。 また、受刑者によるクラブ活動では俳句と書道を行い、そこで発表したものは、法務省主催の文芸作品コンクールに欠かさず応募している。そのほか、犯した罪や被害者のこと、日々の反省など3つのテーマを自ら決め、月に1回作文を書くことを課されており、その準備などを入念に行う。もらった手紙の返事も丹念に書き、年に2度、被害者の遺族に刑務作業で得た作業報奨金から、償いとして現金を送っている。通常の消灯時間は午後9時だが、火、木、土は特別に午後10時まで延長を認めてもらい、そうした日々の作業に充てているという。消灯時間の延長が認められるのは、もちろん中川が「1類」の模範囚だからだ。「希望を持つようにしています」 一般社会の生活から隔絶された、監視と規律の世界。無期懲役という、いつ出獄できるかもわからない中で、なぜ中川は絶望することなく、模範囚としての日々を送ることができるのだろうか。そのことを問うと、中川は「社会復帰という目標があるからです」と、はっきりとした口調で答えた。「社会復帰」とは、仮釈放で再び塀の外に出ることにほかならない。「(ほかの無期懲役囚は)あまり(仮釈放を)考えないようにしている人が多いんです。でも、私はなんとか希望を持つようにしています」 中川が無期懲役囚となったのは20代で、公判では家族が、仮釈放になれば生活の面倒をみると明言している。40代以降で罪を犯し、家族などからも見放されてしまった無期懲役囚とは「境遇」が大きく異なる。30年以上服役すれば、自分は老人となり、生きているかもわからない。頼れる身寄りなどありはせず、仮釈放など夢のまた夢、と考える無期懲役囚は少なくない。中川は、仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚なのだ。 だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
14年末現在で全国の刑務所に収容されている無期懲役囚は1842人いるが、このうち27人が40年から50年、12人は実に50年以上にわたって服役を続けている。05~14年の間に獄中で死亡した無期懲役囚は154人と、仮釈放された54人の3倍近くに達していることからも、いかに塀の外へ出ることが困難かがわかるだろう。これでは、まるで事実上の終身刑だ。厳罰化の流れの中で もっとも「15年で出られる」といった説が、まったく根も葉もないというわけではない。1990年代後半までは、仮釈放される無期懲役囚は年間2ケタ台で推移し、平均収容期間も20年程度と短かった。長期化している背景にあるのは、犯罪に対する厳罰化の流れだ。04年の刑法改正では、有期刑の上限が20年から30年に引き上げられている。無期懲役は有期刑よりも厳しい刑罰であることから、服役期間が30年未満での仮釈放は現実的ではなくなったのだ。 同じ年には「犯罪被害者等基本法」も成立し、07年12月には、被害者が加害者の仮釈放について意見を述べることができる制度も導入された。「被害者が、凶悪な犯罪を起こした加害者の仮釈放を受け容れることは容易ではない」(法務省関係者)ことから、仮釈放へのハードルは一層高まることとなった。 受刑者との面会は、原則として、あらかじめ刑務所側に登録してある親族や知人などに限定されている。中川とは取材を通じて文通を重ね、知人として07年から面会することが可能となった。今夏48歳となるが、五分刈りで痩せた中川の姿はこの10年ほどでほとんど変化がない。「元気そうですね」と声をかけると、中川は意外なことを口にした。 前年8月26日、運動中に突然倒れ、くも膜下出血と診断されて2週間、刑務所外部の病院に入院していたのだ。「倒れてから丸1日、意識がなかったんです」。アクリル板に開けられた小さな穴を通して聞こえてくる声に、衰えなどはまったく感じない。だが、一時は生死の境をさまよい、医師は回復したとしても後遺症が出る可能性が高いとの見立てだった。 長い間味わっていなかった塀の外の空気を感じる余裕はなく、ベッドに横たわり、体からはいくつものチューブが伸びて医療機器につながっている。久々に見る若い女性である看護師にも、もちろん心躍ることはなく、意識がもうろうとしたまま時間を過ごした。それでも、治療の甲斐があって中川は順調に回復し、退院後は刑務所内の病舎で日々を送り、今年5月には刑務作業に復帰している。この間に足腰の筋肉が落ち、立つとふらつくこともあったが、現在は後遺症もなく、日常生活での支障は全くないという。「死んでもおかしくない状況でしたが、それでも生きることができたのは、私にはまだやるべき使命が残されているからだと思い、感謝の気持ちでいっぱいです。命の重みを感じ、私が奪ってしまった命の重さや尊さをあらためて身をもって知りました」 噛みしめるように話す中川の姿を見ると、多くの人には純朴な人物として映るだろう。そこに、男女2人を惨殺した凶悪事件の主犯格という姿を重ねるのは難しい。服役生活は、拘置所での収容期間を合わせると28年ほどになる。それらの日々が、中川に変化をもたらしたのだろうか。犯罪史に刻まれる凶悪事件 中川の起こした事件は「名古屋アベック殺人事件」と呼ばれ、戦後の犯罪史に刻まれている。執拗な暴力と残忍な手口で被害者を死に至らしめたことに加え、6人の加害者のうち当時20歳だった暴力団組員の男以外は17歳から19歳の未成年(うち2人は女性)だった事実が、社会に大きな衝撃を与えた。 1988年2月23日早朝、愛知県名古屋市緑区の大高緑地公園で、通行人がフロントガラスや窓ガラスが粉々に破壊された乗用車を発見する。通報により駆けつけた警察官が、車内から血の付いた下着を発見し、捜査が開始された。すぐに、車に乗っていた理容師の男性(当時19)と、理容師見習いの女性(同20)の2人が行方不明になっていることが判明。目撃情報などから4日後に、とび職だった中川ら6人が逮捕され、供述から三重県の山中で男女2人の遺体が発見された。 事件は、凄惨という言葉がそのまま当てはまる。 起訴状などによると、6人は23日の未明、大高緑地公園の駐車場で、車に乗ってデート中だった2人を外に引きずり出し、鉄パイプや木刀で執拗に暴行。現金約2万円などを奪い、男たちは女性を乱暴した。さらに2人を自分たちの車で連れ回した挙げ句、事件の発覚を恐れ、24日に愛知県長久手町の墓地で男性の首をロープで絞めて殺害する。25日には女性を三重県内の山林に連れて行き、やはりロープで首を絞めて殺し、掘った穴の中に2人の遺体を埋めた。 殺害方法は、綱引きのようにして両側からロープで首を締め上げ、数十分かけて死に至らしめるという残忍なものだった。6人は事件の直前にも、名古屋市内で別のアベック2組を襲い、うち1組の男女に全治1週間のけがを負わせた上、現金など計約10万円相当を奪うなど、場当たり的で快楽的な犯罪を繰り返していた。凶行は、その延長線上で起きた。 同じ時期(88年11月から89年1月)には、東京都足立区で少年4人が女子高生を41日間にわたって監禁し、暴行を繰り返して死亡させ、遺体をドラム缶に入れてコンクリート詰めにしたうえ遺棄した「女子高生コンクリート詰め殺人事件」が発生している。少年犯罪に対する世間の目は、厳しさを増していた。犯行当時19歳だった中川が、事件の悪質さから検察官送致(逆送)となり、少年ではなく成人と同じように裁かれることになったのは当然のことだった。「極刑をもって臨むべき」 89年6月、名古屋地裁は中川に求刑通り死刑判決を言い渡した。「まれに見る残虐、冷酷な犯罪で、遺族の被害感情を考えると、死刑もやむを得ない」というのが、その理由だった。少年への死刑判決は、犯行当時19歳だった4人連続射殺事件の永山則夫元死刑囚=97年8月に死刑執行=以来だった。 だが、7年半にわたる控訴審の末に、96年12月、名古屋高裁は一審の死刑を破棄し、中川に無期懲役の判決を言い渡した。判決文では、中川に対して「犯行の動機にくむべきものはまったく見当たらず、犯行の態様も残虐で、結果の重大性はいうまでもない。遺族の被害感情には今なお厳しいものがあるなど、極刑をもって臨むべきとの見解には相当の根拠がある」としながらも、死刑の選択を避けた。「控訴審の公判でも、人の生命の尊さ、犯行の重大性、一審の死刑判決の重みを再認識して、反省の度を深めていることなどの事情が認められる」(判決要旨より)など、中川に更生の可能性があると判断したのが、その理由だった。 検察側は上告を断念し、97年1月に無期懲役が確定したことから、中川は岡山刑務所に下獄した。中川のほか犯行に加わった5人は、無期懲役や懲役13年、5年以上10年以下の不定期刑が確定している。 刑務所内で、中川は「1類」の優遇措置を受けている。社会復帰に向けて努力させるため、服役態度などによって受刑者を1~5類に分け、区分ごとに面会や手紙の回数、所内での集会の参加回数などの幅を広げている。1類はそのトップランクで、岡山刑務所内では約30人と、全受刑者の1割に満たない「獄中エリート」だ。中川は刑務作業での事故や所内でのトラブルがなく、素行のよい「模範囚」ということになる。そのため、面会時間も1時間を許可された。 3畳ほどの独居房に暮らす中川は、刑務所での毎日が「とにかく忙しい」という。日中の刑務作業では、金属加工工場で数値制御装置が付けられた「NC旋盤」の操作を担当している。フロッピーディスクを用いる旧式なコンピュータながら、独学で身につけた関数などの知識を生かし、プログラムを打ち込んで操作する重要な仕事だ。新幹線の部品に用いられる精密加工品を作ることもあるという。 また、受刑者によるクラブ活動では俳句と書道を行い、そこで発表したものは、法務省主催の文芸作品コンクールに欠かさず応募している。そのほか、犯した罪や被害者のこと、日々の反省など3つのテーマを自ら決め、月に1回作文を書くことを課されており、その準備などを入念に行う。もらった手紙の返事も丹念に書き、年に2度、被害者の遺族に刑務作業で得た作業報奨金から、償いとして現金を送っている。通常の消灯時間は午後9時だが、火、木、土は特別に午後10時まで延長を認めてもらい、そうした日々の作業に充てているという。消灯時間の延長が認められるのは、もちろん中川が「1類」の模範囚だからだ。「希望を持つようにしています」 一般社会の生活から隔絶された、監視と規律の世界。無期懲役という、いつ出獄できるかもわからない中で、なぜ中川は絶望することなく、模範囚としての日々を送ることができるのだろうか。そのことを問うと、中川は「社会復帰という目標があるからです」と、はっきりとした口調で答えた。「社会復帰」とは、仮釈放で再び塀の外に出ることにほかならない。「(ほかの無期懲役囚は)あまり(仮釈放を)考えないようにしている人が多いんです。でも、私はなんとか希望を持つようにしています」 中川が無期懲役囚となったのは20代で、公判では家族が、仮釈放になれば生活の面倒をみると明言している。40代以降で罪を犯し、家族などからも見放されてしまった無期懲役囚とは「境遇」が大きく異なる。30年以上服役すれば、自分は老人となり、生きているかもわからない。頼れる身寄りなどありはせず、仮釈放など夢のまた夢、と考える無期懲役囚は少なくない。中川は、仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚なのだ。 だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
もっとも「15年で出られる」といった説が、まったく根も葉もないというわけではない。1990年代後半までは、仮釈放される無期懲役囚は年間2ケタ台で推移し、平均収容期間も20年程度と短かった。長期化している背景にあるのは、犯罪に対する厳罰化の流れだ。04年の刑法改正では、有期刑の上限が20年から30年に引き上げられている。無期懲役は有期刑よりも厳しい刑罰であることから、服役期間が30年未満での仮釈放は現実的ではなくなったのだ。 同じ年には「犯罪被害者等基本法」も成立し、07年12月には、被害者が加害者の仮釈放について意見を述べることができる制度も導入された。「被害者が、凶悪な犯罪を起こした加害者の仮釈放を受け容れることは容易ではない」(法務省関係者)ことから、仮釈放へのハードルは一層高まることとなった。 受刑者との面会は、原則として、あらかじめ刑務所側に登録してある親族や知人などに限定されている。中川とは取材を通じて文通を重ね、知人として07年から面会することが可能となった。今夏48歳となるが、五分刈りで痩せた中川の姿はこの10年ほどでほとんど変化がない。「元気そうですね」と声をかけると、中川は意外なことを口にした。 前年8月26日、運動中に突然倒れ、くも膜下出血と診断されて2週間、刑務所外部の病院に入院していたのだ。「倒れてから丸1日、意識がなかったんです」。アクリル板に開けられた小さな穴を通して聞こえてくる声に、衰えなどはまったく感じない。だが、一時は生死の境をさまよい、医師は回復したとしても後遺症が出る可能性が高いとの見立てだった。 長い間味わっていなかった塀の外の空気を感じる余裕はなく、ベッドに横たわり、体からはいくつものチューブが伸びて医療機器につながっている。久々に見る若い女性である看護師にも、もちろん心躍ることはなく、意識がもうろうとしたまま時間を過ごした。それでも、治療の甲斐があって中川は順調に回復し、退院後は刑務所内の病舎で日々を送り、今年5月には刑務作業に復帰している。この間に足腰の筋肉が落ち、立つとふらつくこともあったが、現在は後遺症もなく、日常生活での支障は全くないという。「死んでもおかしくない状況でしたが、それでも生きることができたのは、私にはまだやるべき使命が残されているからだと思い、感謝の気持ちでいっぱいです。命の重みを感じ、私が奪ってしまった命の重さや尊さをあらためて身をもって知りました」 噛みしめるように話す中川の姿を見ると、多くの人には純朴な人物として映るだろう。そこに、男女2人を惨殺した凶悪事件の主犯格という姿を重ねるのは難しい。服役生活は、拘置所での収容期間を合わせると28年ほどになる。それらの日々が、中川に変化をもたらしたのだろうか。犯罪史に刻まれる凶悪事件 中川の起こした事件は「名古屋アベック殺人事件」と呼ばれ、戦後の犯罪史に刻まれている。執拗な暴力と残忍な手口で被害者を死に至らしめたことに加え、6人の加害者のうち当時20歳だった暴力団組員の男以外は17歳から19歳の未成年(うち2人は女性)だった事実が、社会に大きな衝撃を与えた。 1988年2月23日早朝、愛知県名古屋市緑区の大高緑地公園で、通行人がフロントガラスや窓ガラスが粉々に破壊された乗用車を発見する。通報により駆けつけた警察官が、車内から血の付いた下着を発見し、捜査が開始された。すぐに、車に乗っていた理容師の男性(当時19)と、理容師見習いの女性(同20)の2人が行方不明になっていることが判明。目撃情報などから4日後に、とび職だった中川ら6人が逮捕され、供述から三重県の山中で男女2人の遺体が発見された。 事件は、凄惨という言葉がそのまま当てはまる。 起訴状などによると、6人は23日の未明、大高緑地公園の駐車場で、車に乗ってデート中だった2人を外に引きずり出し、鉄パイプや木刀で執拗に暴行。現金約2万円などを奪い、男たちは女性を乱暴した。さらに2人を自分たちの車で連れ回した挙げ句、事件の発覚を恐れ、24日に愛知県長久手町の墓地で男性の首をロープで絞めて殺害する。25日には女性を三重県内の山林に連れて行き、やはりロープで首を絞めて殺し、掘った穴の中に2人の遺体を埋めた。 殺害方法は、綱引きのようにして両側からロープで首を締め上げ、数十分かけて死に至らしめるという残忍なものだった。6人は事件の直前にも、名古屋市内で別のアベック2組を襲い、うち1組の男女に全治1週間のけがを負わせた上、現金など計約10万円相当を奪うなど、場当たり的で快楽的な犯罪を繰り返していた。凶行は、その延長線上で起きた。 同じ時期(88年11月から89年1月)には、東京都足立区で少年4人が女子高生を41日間にわたって監禁し、暴行を繰り返して死亡させ、遺体をドラム缶に入れてコンクリート詰めにしたうえ遺棄した「女子高生コンクリート詰め殺人事件」が発生している。少年犯罪に対する世間の目は、厳しさを増していた。犯行当時19歳だった中川が、事件の悪質さから検察官送致(逆送)となり、少年ではなく成人と同じように裁かれることになったのは当然のことだった。「極刑をもって臨むべき」 89年6月、名古屋地裁は中川に求刑通り死刑判決を言い渡した。「まれに見る残虐、冷酷な犯罪で、遺族の被害感情を考えると、死刑もやむを得ない」というのが、その理由だった。少年への死刑判決は、犯行当時19歳だった4人連続射殺事件の永山則夫元死刑囚=97年8月に死刑執行=以来だった。 だが、7年半にわたる控訴審の末に、96年12月、名古屋高裁は一審の死刑を破棄し、中川に無期懲役の判決を言い渡した。判決文では、中川に対して「犯行の動機にくむべきものはまったく見当たらず、犯行の態様も残虐で、結果の重大性はいうまでもない。遺族の被害感情には今なお厳しいものがあるなど、極刑をもって臨むべきとの見解には相当の根拠がある」としながらも、死刑の選択を避けた。「控訴審の公判でも、人の生命の尊さ、犯行の重大性、一審の死刑判決の重みを再認識して、反省の度を深めていることなどの事情が認められる」(判決要旨より)など、中川に更生の可能性があると判断したのが、その理由だった。 検察側は上告を断念し、97年1月に無期懲役が確定したことから、中川は岡山刑務所に下獄した。中川のほか犯行に加わった5人は、無期懲役や懲役13年、5年以上10年以下の不定期刑が確定している。 刑務所内で、中川は「1類」の優遇措置を受けている。社会復帰に向けて努力させるため、服役態度などによって受刑者を1~5類に分け、区分ごとに面会や手紙の回数、所内での集会の参加回数などの幅を広げている。1類はそのトップランクで、岡山刑務所内では約30人と、全受刑者の1割に満たない「獄中エリート」だ。中川は刑務作業での事故や所内でのトラブルがなく、素行のよい「模範囚」ということになる。そのため、面会時間も1時間を許可された。 3畳ほどの独居房に暮らす中川は、刑務所での毎日が「とにかく忙しい」という。日中の刑務作業では、金属加工工場で数値制御装置が付けられた「NC旋盤」の操作を担当している。フロッピーディスクを用いる旧式なコンピュータながら、独学で身につけた関数などの知識を生かし、プログラムを打ち込んで操作する重要な仕事だ。新幹線の部品に用いられる精密加工品を作ることもあるという。 また、受刑者によるクラブ活動では俳句と書道を行い、そこで発表したものは、法務省主催の文芸作品コンクールに欠かさず応募している。そのほか、犯した罪や被害者のこと、日々の反省など3つのテーマを自ら決め、月に1回作文を書くことを課されており、その準備などを入念に行う。もらった手紙の返事も丹念に書き、年に2度、被害者の遺族に刑務作業で得た作業報奨金から、償いとして現金を送っている。通常の消灯時間は午後9時だが、火、木、土は特別に午後10時まで延長を認めてもらい、そうした日々の作業に充てているという。消灯時間の延長が認められるのは、もちろん中川が「1類」の模範囚だからだ。「希望を持つようにしています」 一般社会の生活から隔絶された、監視と規律の世界。無期懲役という、いつ出獄できるかもわからない中で、なぜ中川は絶望することなく、模範囚としての日々を送ることができるのだろうか。そのことを問うと、中川は「社会復帰という目標があるからです」と、はっきりとした口調で答えた。「社会復帰」とは、仮釈放で再び塀の外に出ることにほかならない。「(ほかの無期懲役囚は)あまり(仮釈放を)考えないようにしている人が多いんです。でも、私はなんとか希望を持つようにしています」 中川が無期懲役囚となったのは20代で、公判では家族が、仮釈放になれば生活の面倒をみると明言している。40代以降で罪を犯し、家族などからも見放されてしまった無期懲役囚とは「境遇」が大きく異なる。30年以上服役すれば、自分は老人となり、生きているかもわからない。頼れる身寄りなどありはせず、仮釈放など夢のまた夢、と考える無期懲役囚は少なくない。中川は、仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚なのだ。 だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
同じ年には「犯罪被害者等基本法」も成立し、07年12月には、被害者が加害者の仮釈放について意見を述べることができる制度も導入された。「被害者が、凶悪な犯罪を起こした加害者の仮釈放を受け容れることは容易ではない」(法務省関係者)ことから、仮釈放へのハードルは一層高まることとなった。 受刑者との面会は、原則として、あらかじめ刑務所側に登録してある親族や知人などに限定されている。中川とは取材を通じて文通を重ね、知人として07年から面会することが可能となった。今夏48歳となるが、五分刈りで痩せた中川の姿はこの10年ほどでほとんど変化がない。「元気そうですね」と声をかけると、中川は意外なことを口にした。 前年8月26日、運動中に突然倒れ、くも膜下出血と診断されて2週間、刑務所外部の病院に入院していたのだ。「倒れてから丸1日、意識がなかったんです」。アクリル板に開けられた小さな穴を通して聞こえてくる声に、衰えなどはまったく感じない。だが、一時は生死の境をさまよい、医師は回復したとしても後遺症が出る可能性が高いとの見立てだった。 長い間味わっていなかった塀の外の空気を感じる余裕はなく、ベッドに横たわり、体からはいくつものチューブが伸びて医療機器につながっている。久々に見る若い女性である看護師にも、もちろん心躍ることはなく、意識がもうろうとしたまま時間を過ごした。それでも、治療の甲斐があって中川は順調に回復し、退院後は刑務所内の病舎で日々を送り、今年5月には刑務作業に復帰している。この間に足腰の筋肉が落ち、立つとふらつくこともあったが、現在は後遺症もなく、日常生活での支障は全くないという。「死んでもおかしくない状況でしたが、それでも生きることができたのは、私にはまだやるべき使命が残されているからだと思い、感謝の気持ちでいっぱいです。命の重みを感じ、私が奪ってしまった命の重さや尊さをあらためて身をもって知りました」 噛みしめるように話す中川の姿を見ると、多くの人には純朴な人物として映るだろう。そこに、男女2人を惨殺した凶悪事件の主犯格という姿を重ねるのは難しい。服役生活は、拘置所での収容期間を合わせると28年ほどになる。それらの日々が、中川に変化をもたらしたのだろうか。犯罪史に刻まれる凶悪事件 中川の起こした事件は「名古屋アベック殺人事件」と呼ばれ、戦後の犯罪史に刻まれている。執拗な暴力と残忍な手口で被害者を死に至らしめたことに加え、6人の加害者のうち当時20歳だった暴力団組員の男以外は17歳から19歳の未成年(うち2人は女性)だった事実が、社会に大きな衝撃を与えた。 1988年2月23日早朝、愛知県名古屋市緑区の大高緑地公園で、通行人がフロントガラスや窓ガラスが粉々に破壊された乗用車を発見する。通報により駆けつけた警察官が、車内から血の付いた下着を発見し、捜査が開始された。すぐに、車に乗っていた理容師の男性(当時19)と、理容師見習いの女性(同20)の2人が行方不明になっていることが判明。目撃情報などから4日後に、とび職だった中川ら6人が逮捕され、供述から三重県の山中で男女2人の遺体が発見された。 事件は、凄惨という言葉がそのまま当てはまる。 起訴状などによると、6人は23日の未明、大高緑地公園の駐車場で、車に乗ってデート中だった2人を外に引きずり出し、鉄パイプや木刀で執拗に暴行。現金約2万円などを奪い、男たちは女性を乱暴した。さらに2人を自分たちの車で連れ回した挙げ句、事件の発覚を恐れ、24日に愛知県長久手町の墓地で男性の首をロープで絞めて殺害する。25日には女性を三重県内の山林に連れて行き、やはりロープで首を絞めて殺し、掘った穴の中に2人の遺体を埋めた。 殺害方法は、綱引きのようにして両側からロープで首を締め上げ、数十分かけて死に至らしめるという残忍なものだった。6人は事件の直前にも、名古屋市内で別のアベック2組を襲い、うち1組の男女に全治1週間のけがを負わせた上、現金など計約10万円相当を奪うなど、場当たり的で快楽的な犯罪を繰り返していた。凶行は、その延長線上で起きた。 同じ時期(88年11月から89年1月)には、東京都足立区で少年4人が女子高生を41日間にわたって監禁し、暴行を繰り返して死亡させ、遺体をドラム缶に入れてコンクリート詰めにしたうえ遺棄した「女子高生コンクリート詰め殺人事件」が発生している。少年犯罪に対する世間の目は、厳しさを増していた。犯行当時19歳だった中川が、事件の悪質さから検察官送致(逆送)となり、少年ではなく成人と同じように裁かれることになったのは当然のことだった。「極刑をもって臨むべき」 89年6月、名古屋地裁は中川に求刑通り死刑判決を言い渡した。「まれに見る残虐、冷酷な犯罪で、遺族の被害感情を考えると、死刑もやむを得ない」というのが、その理由だった。少年への死刑判決は、犯行当時19歳だった4人連続射殺事件の永山則夫元死刑囚=97年8月に死刑執行=以来だった。 だが、7年半にわたる控訴審の末に、96年12月、名古屋高裁は一審の死刑を破棄し、中川に無期懲役の判決を言い渡した。判決文では、中川に対して「犯行の動機にくむべきものはまったく見当たらず、犯行の態様も残虐で、結果の重大性はいうまでもない。遺族の被害感情には今なお厳しいものがあるなど、極刑をもって臨むべきとの見解には相当の根拠がある」としながらも、死刑の選択を避けた。「控訴審の公判でも、人の生命の尊さ、犯行の重大性、一審の死刑判決の重みを再認識して、反省の度を深めていることなどの事情が認められる」(判決要旨より)など、中川に更生の可能性があると判断したのが、その理由だった。 検察側は上告を断念し、97年1月に無期懲役が確定したことから、中川は岡山刑務所に下獄した。中川のほか犯行に加わった5人は、無期懲役や懲役13年、5年以上10年以下の不定期刑が確定している。 刑務所内で、中川は「1類」の優遇措置を受けている。社会復帰に向けて努力させるため、服役態度などによって受刑者を1~5類に分け、区分ごとに面会や手紙の回数、所内での集会の参加回数などの幅を広げている。1類はそのトップランクで、岡山刑務所内では約30人と、全受刑者の1割に満たない「獄中エリート」だ。中川は刑務作業での事故や所内でのトラブルがなく、素行のよい「模範囚」ということになる。そのため、面会時間も1時間を許可された。 3畳ほどの独居房に暮らす中川は、刑務所での毎日が「とにかく忙しい」という。日中の刑務作業では、金属加工工場で数値制御装置が付けられた「NC旋盤」の操作を担当している。フロッピーディスクを用いる旧式なコンピュータながら、独学で身につけた関数などの知識を生かし、プログラムを打ち込んで操作する重要な仕事だ。新幹線の部品に用いられる精密加工品を作ることもあるという。 また、受刑者によるクラブ活動では俳句と書道を行い、そこで発表したものは、法務省主催の文芸作品コンクールに欠かさず応募している。そのほか、犯した罪や被害者のこと、日々の反省など3つのテーマを自ら決め、月に1回作文を書くことを課されており、その準備などを入念に行う。もらった手紙の返事も丹念に書き、年に2度、被害者の遺族に刑務作業で得た作業報奨金から、償いとして現金を送っている。通常の消灯時間は午後9時だが、火、木、土は特別に午後10時まで延長を認めてもらい、そうした日々の作業に充てているという。消灯時間の延長が認められるのは、もちろん中川が「1類」の模範囚だからだ。「希望を持つようにしています」 一般社会の生活から隔絶された、監視と規律の世界。無期懲役という、いつ出獄できるかもわからない中で、なぜ中川は絶望することなく、模範囚としての日々を送ることができるのだろうか。そのことを問うと、中川は「社会復帰という目標があるからです」と、はっきりとした口調で答えた。「社会復帰」とは、仮釈放で再び塀の外に出ることにほかならない。「(ほかの無期懲役囚は)あまり(仮釈放を)考えないようにしている人が多いんです。でも、私はなんとか希望を持つようにしています」 中川が無期懲役囚となったのは20代で、公判では家族が、仮釈放になれば生活の面倒をみると明言している。40代以降で罪を犯し、家族などからも見放されてしまった無期懲役囚とは「境遇」が大きく異なる。30年以上服役すれば、自分は老人となり、生きているかもわからない。頼れる身寄りなどありはせず、仮釈放など夢のまた夢、と考える無期懲役囚は少なくない。中川は、仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚なのだ。 だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
受刑者との面会は、原則として、あらかじめ刑務所側に登録してある親族や知人などに限定されている。中川とは取材を通じて文通を重ね、知人として07年から面会することが可能となった。今夏48歳となるが、五分刈りで痩せた中川の姿はこの10年ほどでほとんど変化がない。「元気そうですね」と声をかけると、中川は意外なことを口にした。 前年8月26日、運動中に突然倒れ、くも膜下出血と診断されて2週間、刑務所外部の病院に入院していたのだ。「倒れてから丸1日、意識がなかったんです」。アクリル板に開けられた小さな穴を通して聞こえてくる声に、衰えなどはまったく感じない。だが、一時は生死の境をさまよい、医師は回復したとしても後遺症が出る可能性が高いとの見立てだった。 長い間味わっていなかった塀の外の空気を感じる余裕はなく、ベッドに横たわり、体からはいくつものチューブが伸びて医療機器につながっている。久々に見る若い女性である看護師にも、もちろん心躍ることはなく、意識がもうろうとしたまま時間を過ごした。それでも、治療の甲斐があって中川は順調に回復し、退院後は刑務所内の病舎で日々を送り、今年5月には刑務作業に復帰している。この間に足腰の筋肉が落ち、立つとふらつくこともあったが、現在は後遺症もなく、日常生活での支障は全くないという。「死んでもおかしくない状況でしたが、それでも生きることができたのは、私にはまだやるべき使命が残されているからだと思い、感謝の気持ちでいっぱいです。命の重みを感じ、私が奪ってしまった命の重さや尊さをあらためて身をもって知りました」 噛みしめるように話す中川の姿を見ると、多くの人には純朴な人物として映るだろう。そこに、男女2人を惨殺した凶悪事件の主犯格という姿を重ねるのは難しい。服役生活は、拘置所での収容期間を合わせると28年ほどになる。それらの日々が、中川に変化をもたらしたのだろうか。犯罪史に刻まれる凶悪事件 中川の起こした事件は「名古屋アベック殺人事件」と呼ばれ、戦後の犯罪史に刻まれている。執拗な暴力と残忍な手口で被害者を死に至らしめたことに加え、6人の加害者のうち当時20歳だった暴力団組員の男以外は17歳から19歳の未成年(うち2人は女性)だった事実が、社会に大きな衝撃を与えた。 1988年2月23日早朝、愛知県名古屋市緑区の大高緑地公園で、通行人がフロントガラスや窓ガラスが粉々に破壊された乗用車を発見する。通報により駆けつけた警察官が、車内から血の付いた下着を発見し、捜査が開始された。すぐに、車に乗っていた理容師の男性(当時19)と、理容師見習いの女性(同20)の2人が行方不明になっていることが判明。目撃情報などから4日後に、とび職だった中川ら6人が逮捕され、供述から三重県の山中で男女2人の遺体が発見された。 事件は、凄惨という言葉がそのまま当てはまる。 起訴状などによると、6人は23日の未明、大高緑地公園の駐車場で、車に乗ってデート中だった2人を外に引きずり出し、鉄パイプや木刀で執拗に暴行。現金約2万円などを奪い、男たちは女性を乱暴した。さらに2人を自分たちの車で連れ回した挙げ句、事件の発覚を恐れ、24日に愛知県長久手町の墓地で男性の首をロープで絞めて殺害する。25日には女性を三重県内の山林に連れて行き、やはりロープで首を絞めて殺し、掘った穴の中に2人の遺体を埋めた。 殺害方法は、綱引きのようにして両側からロープで首を締め上げ、数十分かけて死に至らしめるという残忍なものだった。6人は事件の直前にも、名古屋市内で別のアベック2組を襲い、うち1組の男女に全治1週間のけがを負わせた上、現金など計約10万円相当を奪うなど、場当たり的で快楽的な犯罪を繰り返していた。凶行は、その延長線上で起きた。 同じ時期(88年11月から89年1月)には、東京都足立区で少年4人が女子高生を41日間にわたって監禁し、暴行を繰り返して死亡させ、遺体をドラム缶に入れてコンクリート詰めにしたうえ遺棄した「女子高生コンクリート詰め殺人事件」が発生している。少年犯罪に対する世間の目は、厳しさを増していた。犯行当時19歳だった中川が、事件の悪質さから検察官送致(逆送)となり、少年ではなく成人と同じように裁かれることになったのは当然のことだった。「極刑をもって臨むべき」 89年6月、名古屋地裁は中川に求刑通り死刑判決を言い渡した。「まれに見る残虐、冷酷な犯罪で、遺族の被害感情を考えると、死刑もやむを得ない」というのが、その理由だった。少年への死刑判決は、犯行当時19歳だった4人連続射殺事件の永山則夫元死刑囚=97年8月に死刑執行=以来だった。 だが、7年半にわたる控訴審の末に、96年12月、名古屋高裁は一審の死刑を破棄し、中川に無期懲役の判決を言い渡した。判決文では、中川に対して「犯行の動機にくむべきものはまったく見当たらず、犯行の態様も残虐で、結果の重大性はいうまでもない。遺族の被害感情には今なお厳しいものがあるなど、極刑をもって臨むべきとの見解には相当の根拠がある」としながらも、死刑の選択を避けた。「控訴審の公判でも、人の生命の尊さ、犯行の重大性、一審の死刑判決の重みを再認識して、反省の度を深めていることなどの事情が認められる」(判決要旨より)など、中川に更生の可能性があると判断したのが、その理由だった。 検察側は上告を断念し、97年1月に無期懲役が確定したことから、中川は岡山刑務所に下獄した。中川のほか犯行に加わった5人は、無期懲役や懲役13年、5年以上10年以下の不定期刑が確定している。 刑務所内で、中川は「1類」の優遇措置を受けている。社会復帰に向けて努力させるため、服役態度などによって受刑者を1~5類に分け、区分ごとに面会や手紙の回数、所内での集会の参加回数などの幅を広げている。1類はそのトップランクで、岡山刑務所内では約30人と、全受刑者の1割に満たない「獄中エリート」だ。中川は刑務作業での事故や所内でのトラブルがなく、素行のよい「模範囚」ということになる。そのため、面会時間も1時間を許可された。 3畳ほどの独居房に暮らす中川は、刑務所での毎日が「とにかく忙しい」という。日中の刑務作業では、金属加工工場で数値制御装置が付けられた「NC旋盤」の操作を担当している。フロッピーディスクを用いる旧式なコンピュータながら、独学で身につけた関数などの知識を生かし、プログラムを打ち込んで操作する重要な仕事だ。新幹線の部品に用いられる精密加工品を作ることもあるという。 また、受刑者によるクラブ活動では俳句と書道を行い、そこで発表したものは、法務省主催の文芸作品コンクールに欠かさず応募している。そのほか、犯した罪や被害者のこと、日々の反省など3つのテーマを自ら決め、月に1回作文を書くことを課されており、その準備などを入念に行う。もらった手紙の返事も丹念に書き、年に2度、被害者の遺族に刑務作業で得た作業報奨金から、償いとして現金を送っている。通常の消灯時間は午後9時だが、火、木、土は特別に午後10時まで延長を認めてもらい、そうした日々の作業に充てているという。消灯時間の延長が認められるのは、もちろん中川が「1類」の模範囚だからだ。「希望を持つようにしています」 一般社会の生活から隔絶された、監視と規律の世界。無期懲役という、いつ出獄できるかもわからない中で、なぜ中川は絶望することなく、模範囚としての日々を送ることができるのだろうか。そのことを問うと、中川は「社会復帰という目標があるからです」と、はっきりとした口調で答えた。「社会復帰」とは、仮釈放で再び塀の外に出ることにほかならない。「(ほかの無期懲役囚は)あまり(仮釈放を)考えないようにしている人が多いんです。でも、私はなんとか希望を持つようにしています」 中川が無期懲役囚となったのは20代で、公判では家族が、仮釈放になれば生活の面倒をみると明言している。40代以降で罪を犯し、家族などからも見放されてしまった無期懲役囚とは「境遇」が大きく異なる。30年以上服役すれば、自分は老人となり、生きているかもわからない。頼れる身寄りなどありはせず、仮釈放など夢のまた夢、と考える無期懲役囚は少なくない。中川は、仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚なのだ。 だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
前年8月26日、運動中に突然倒れ、くも膜下出血と診断されて2週間、刑務所外部の病院に入院していたのだ。「倒れてから丸1日、意識がなかったんです」。アクリル板に開けられた小さな穴を通して聞こえてくる声に、衰えなどはまったく感じない。だが、一時は生死の境をさまよい、医師は回復したとしても後遺症が出る可能性が高いとの見立てだった。 長い間味わっていなかった塀の外の空気を感じる余裕はなく、ベッドに横たわり、体からはいくつものチューブが伸びて医療機器につながっている。久々に見る若い女性である看護師にも、もちろん心躍ることはなく、意識がもうろうとしたまま時間を過ごした。それでも、治療の甲斐があって中川は順調に回復し、退院後は刑務所内の病舎で日々を送り、今年5月には刑務作業に復帰している。この間に足腰の筋肉が落ち、立つとふらつくこともあったが、現在は後遺症もなく、日常生活での支障は全くないという。「死んでもおかしくない状況でしたが、それでも生きることができたのは、私にはまだやるべき使命が残されているからだと思い、感謝の気持ちでいっぱいです。命の重みを感じ、私が奪ってしまった命の重さや尊さをあらためて身をもって知りました」 噛みしめるように話す中川の姿を見ると、多くの人には純朴な人物として映るだろう。そこに、男女2人を惨殺した凶悪事件の主犯格という姿を重ねるのは難しい。服役生活は、拘置所での収容期間を合わせると28年ほどになる。それらの日々が、中川に変化をもたらしたのだろうか。犯罪史に刻まれる凶悪事件 中川の起こした事件は「名古屋アベック殺人事件」と呼ばれ、戦後の犯罪史に刻まれている。執拗な暴力と残忍な手口で被害者を死に至らしめたことに加え、6人の加害者のうち当時20歳だった暴力団組員の男以外は17歳から19歳の未成年(うち2人は女性)だった事実が、社会に大きな衝撃を与えた。 1988年2月23日早朝、愛知県名古屋市緑区の大高緑地公園で、通行人がフロントガラスや窓ガラスが粉々に破壊された乗用車を発見する。通報により駆けつけた警察官が、車内から血の付いた下着を発見し、捜査が開始された。すぐに、車に乗っていた理容師の男性(当時19)と、理容師見習いの女性(同20)の2人が行方不明になっていることが判明。目撃情報などから4日後に、とび職だった中川ら6人が逮捕され、供述から三重県の山中で男女2人の遺体が発見された。 事件は、凄惨という言葉がそのまま当てはまる。 起訴状などによると、6人は23日の未明、大高緑地公園の駐車場で、車に乗ってデート中だった2人を外に引きずり出し、鉄パイプや木刀で執拗に暴行。現金約2万円などを奪い、男たちは女性を乱暴した。さらに2人を自分たちの車で連れ回した挙げ句、事件の発覚を恐れ、24日に愛知県長久手町の墓地で男性の首をロープで絞めて殺害する。25日には女性を三重県内の山林に連れて行き、やはりロープで首を絞めて殺し、掘った穴の中に2人の遺体を埋めた。 殺害方法は、綱引きのようにして両側からロープで首を締め上げ、数十分かけて死に至らしめるという残忍なものだった。6人は事件の直前にも、名古屋市内で別のアベック2組を襲い、うち1組の男女に全治1週間のけがを負わせた上、現金など計約10万円相当を奪うなど、場当たり的で快楽的な犯罪を繰り返していた。凶行は、その延長線上で起きた。 同じ時期(88年11月から89年1月)には、東京都足立区で少年4人が女子高生を41日間にわたって監禁し、暴行を繰り返して死亡させ、遺体をドラム缶に入れてコンクリート詰めにしたうえ遺棄した「女子高生コンクリート詰め殺人事件」が発生している。少年犯罪に対する世間の目は、厳しさを増していた。犯行当時19歳だった中川が、事件の悪質さから検察官送致(逆送)となり、少年ではなく成人と同じように裁かれることになったのは当然のことだった。「極刑をもって臨むべき」 89年6月、名古屋地裁は中川に求刑通り死刑判決を言い渡した。「まれに見る残虐、冷酷な犯罪で、遺族の被害感情を考えると、死刑もやむを得ない」というのが、その理由だった。少年への死刑判決は、犯行当時19歳だった4人連続射殺事件の永山則夫元死刑囚=97年8月に死刑執行=以来だった。 だが、7年半にわたる控訴審の末に、96年12月、名古屋高裁は一審の死刑を破棄し、中川に無期懲役の判決を言い渡した。判決文では、中川に対して「犯行の動機にくむべきものはまったく見当たらず、犯行の態様も残虐で、結果の重大性はいうまでもない。遺族の被害感情には今なお厳しいものがあるなど、極刑をもって臨むべきとの見解には相当の根拠がある」としながらも、死刑の選択を避けた。「控訴審の公判でも、人の生命の尊さ、犯行の重大性、一審の死刑判決の重みを再認識して、反省の度を深めていることなどの事情が認められる」(判決要旨より)など、中川に更生の可能性があると判断したのが、その理由だった。 検察側は上告を断念し、97年1月に無期懲役が確定したことから、中川は岡山刑務所に下獄した。中川のほか犯行に加わった5人は、無期懲役や懲役13年、5年以上10年以下の不定期刑が確定している。 刑務所内で、中川は「1類」の優遇措置を受けている。社会復帰に向けて努力させるため、服役態度などによって受刑者を1~5類に分け、区分ごとに面会や手紙の回数、所内での集会の参加回数などの幅を広げている。1類はそのトップランクで、岡山刑務所内では約30人と、全受刑者の1割に満たない「獄中エリート」だ。中川は刑務作業での事故や所内でのトラブルがなく、素行のよい「模範囚」ということになる。そのため、面会時間も1時間を許可された。 3畳ほどの独居房に暮らす中川は、刑務所での毎日が「とにかく忙しい」という。日中の刑務作業では、金属加工工場で数値制御装置が付けられた「NC旋盤」の操作を担当している。フロッピーディスクを用いる旧式なコンピュータながら、独学で身につけた関数などの知識を生かし、プログラムを打ち込んで操作する重要な仕事だ。新幹線の部品に用いられる精密加工品を作ることもあるという。 また、受刑者によるクラブ活動では俳句と書道を行い、そこで発表したものは、法務省主催の文芸作品コンクールに欠かさず応募している。そのほか、犯した罪や被害者のこと、日々の反省など3つのテーマを自ら決め、月に1回作文を書くことを課されており、その準備などを入念に行う。もらった手紙の返事も丹念に書き、年に2度、被害者の遺族に刑務作業で得た作業報奨金から、償いとして現金を送っている。通常の消灯時間は午後9時だが、火、木、土は特別に午後10時まで延長を認めてもらい、そうした日々の作業に充てているという。消灯時間の延長が認められるのは、もちろん中川が「1類」の模範囚だからだ。「希望を持つようにしています」 一般社会の生活から隔絶された、監視と規律の世界。無期懲役という、いつ出獄できるかもわからない中で、なぜ中川は絶望することなく、模範囚としての日々を送ることができるのだろうか。そのことを問うと、中川は「社会復帰という目標があるからです」と、はっきりとした口調で答えた。「社会復帰」とは、仮釈放で再び塀の外に出ることにほかならない。「(ほかの無期懲役囚は)あまり(仮釈放を)考えないようにしている人が多いんです。でも、私はなんとか希望を持つようにしています」 中川が無期懲役囚となったのは20代で、公判では家族が、仮釈放になれば生活の面倒をみると明言している。40代以降で罪を犯し、家族などからも見放されてしまった無期懲役囚とは「境遇」が大きく異なる。30年以上服役すれば、自分は老人となり、生きているかもわからない。頼れる身寄りなどありはせず、仮釈放など夢のまた夢、と考える無期懲役囚は少なくない。中川は、仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚なのだ。 だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
長い間味わっていなかった塀の外の空気を感じる余裕はなく、ベッドに横たわり、体からはいくつものチューブが伸びて医療機器につながっている。久々に見る若い女性である看護師にも、もちろん心躍ることはなく、意識がもうろうとしたまま時間を過ごした。それでも、治療の甲斐があって中川は順調に回復し、退院後は刑務所内の病舎で日々を送り、今年5月には刑務作業に復帰している。この間に足腰の筋肉が落ち、立つとふらつくこともあったが、現在は後遺症もなく、日常生活での支障は全くないという。「死んでもおかしくない状況でしたが、それでも生きることができたのは、私にはまだやるべき使命が残されているからだと思い、感謝の気持ちでいっぱいです。命の重みを感じ、私が奪ってしまった命の重さや尊さをあらためて身をもって知りました」 噛みしめるように話す中川の姿を見ると、多くの人には純朴な人物として映るだろう。そこに、男女2人を惨殺した凶悪事件の主犯格という姿を重ねるのは難しい。服役生活は、拘置所での収容期間を合わせると28年ほどになる。それらの日々が、中川に変化をもたらしたのだろうか。犯罪史に刻まれる凶悪事件 中川の起こした事件は「名古屋アベック殺人事件」と呼ばれ、戦後の犯罪史に刻まれている。執拗な暴力と残忍な手口で被害者を死に至らしめたことに加え、6人の加害者のうち当時20歳だった暴力団組員の男以外は17歳から19歳の未成年(うち2人は女性)だった事実が、社会に大きな衝撃を与えた。 1988年2月23日早朝、愛知県名古屋市緑区の大高緑地公園で、通行人がフロントガラスや窓ガラスが粉々に破壊された乗用車を発見する。通報により駆けつけた警察官が、車内から血の付いた下着を発見し、捜査が開始された。すぐに、車に乗っていた理容師の男性(当時19)と、理容師見習いの女性(同20)の2人が行方不明になっていることが判明。目撃情報などから4日後に、とび職だった中川ら6人が逮捕され、供述から三重県の山中で男女2人の遺体が発見された。 事件は、凄惨という言葉がそのまま当てはまる。 起訴状などによると、6人は23日の未明、大高緑地公園の駐車場で、車に乗ってデート中だった2人を外に引きずり出し、鉄パイプや木刀で執拗に暴行。現金約2万円などを奪い、男たちは女性を乱暴した。さらに2人を自分たちの車で連れ回した挙げ句、事件の発覚を恐れ、24日に愛知県長久手町の墓地で男性の首をロープで絞めて殺害する。25日には女性を三重県内の山林に連れて行き、やはりロープで首を絞めて殺し、掘った穴の中に2人の遺体を埋めた。 殺害方法は、綱引きのようにして両側からロープで首を締め上げ、数十分かけて死に至らしめるという残忍なものだった。6人は事件の直前にも、名古屋市内で別のアベック2組を襲い、うち1組の男女に全治1週間のけがを負わせた上、現金など計約10万円相当を奪うなど、場当たり的で快楽的な犯罪を繰り返していた。凶行は、その延長線上で起きた。 同じ時期(88年11月から89年1月)には、東京都足立区で少年4人が女子高生を41日間にわたって監禁し、暴行を繰り返して死亡させ、遺体をドラム缶に入れてコンクリート詰めにしたうえ遺棄した「女子高生コンクリート詰め殺人事件」が発生している。少年犯罪に対する世間の目は、厳しさを増していた。犯行当時19歳だった中川が、事件の悪質さから検察官送致(逆送)となり、少年ではなく成人と同じように裁かれることになったのは当然のことだった。「極刑をもって臨むべき」 89年6月、名古屋地裁は中川に求刑通り死刑判決を言い渡した。「まれに見る残虐、冷酷な犯罪で、遺族の被害感情を考えると、死刑もやむを得ない」というのが、その理由だった。少年への死刑判決は、犯行当時19歳だった4人連続射殺事件の永山則夫元死刑囚=97年8月に死刑執行=以来だった。 だが、7年半にわたる控訴審の末に、96年12月、名古屋高裁は一審の死刑を破棄し、中川に無期懲役の判決を言い渡した。判決文では、中川に対して「犯行の動機にくむべきものはまったく見当たらず、犯行の態様も残虐で、結果の重大性はいうまでもない。遺族の被害感情には今なお厳しいものがあるなど、極刑をもって臨むべきとの見解には相当の根拠がある」としながらも、死刑の選択を避けた。「控訴審の公判でも、人の生命の尊さ、犯行の重大性、一審の死刑判決の重みを再認識して、反省の度を深めていることなどの事情が認められる」(判決要旨より)など、中川に更生の可能性があると判断したのが、その理由だった。 検察側は上告を断念し、97年1月に無期懲役が確定したことから、中川は岡山刑務所に下獄した。中川のほか犯行に加わった5人は、無期懲役や懲役13年、5年以上10年以下の不定期刑が確定している。 刑務所内で、中川は「1類」の優遇措置を受けている。社会復帰に向けて努力させるため、服役態度などによって受刑者を1~5類に分け、区分ごとに面会や手紙の回数、所内での集会の参加回数などの幅を広げている。1類はそのトップランクで、岡山刑務所内では約30人と、全受刑者の1割に満たない「獄中エリート」だ。中川は刑務作業での事故や所内でのトラブルがなく、素行のよい「模範囚」ということになる。そのため、面会時間も1時間を許可された。 3畳ほどの独居房に暮らす中川は、刑務所での毎日が「とにかく忙しい」という。日中の刑務作業では、金属加工工場で数値制御装置が付けられた「NC旋盤」の操作を担当している。フロッピーディスクを用いる旧式なコンピュータながら、独学で身につけた関数などの知識を生かし、プログラムを打ち込んで操作する重要な仕事だ。新幹線の部品に用いられる精密加工品を作ることもあるという。 また、受刑者によるクラブ活動では俳句と書道を行い、そこで発表したものは、法務省主催の文芸作品コンクールに欠かさず応募している。そのほか、犯した罪や被害者のこと、日々の反省など3つのテーマを自ら決め、月に1回作文を書くことを課されており、その準備などを入念に行う。もらった手紙の返事も丹念に書き、年に2度、被害者の遺族に刑務作業で得た作業報奨金から、償いとして現金を送っている。通常の消灯時間は午後9時だが、火、木、土は特別に午後10時まで延長を認めてもらい、そうした日々の作業に充てているという。消灯時間の延長が認められるのは、もちろん中川が「1類」の模範囚だからだ。「希望を持つようにしています」 一般社会の生活から隔絶された、監視と規律の世界。無期懲役という、いつ出獄できるかもわからない中で、なぜ中川は絶望することなく、模範囚としての日々を送ることができるのだろうか。そのことを問うと、中川は「社会復帰という目標があるからです」と、はっきりとした口調で答えた。「社会復帰」とは、仮釈放で再び塀の外に出ることにほかならない。「(ほかの無期懲役囚は)あまり(仮釈放を)考えないようにしている人が多いんです。でも、私はなんとか希望を持つようにしています」 中川が無期懲役囚となったのは20代で、公判では家族が、仮釈放になれば生活の面倒をみると明言している。40代以降で罪を犯し、家族などからも見放されてしまった無期懲役囚とは「境遇」が大きく異なる。30年以上服役すれば、自分は老人となり、生きているかもわからない。頼れる身寄りなどありはせず、仮釈放など夢のまた夢、と考える無期懲役囚は少なくない。中川は、仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚なのだ。 だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
「死んでもおかしくない状況でしたが、それでも生きることができたのは、私にはまだやるべき使命が残されているからだと思い、感謝の気持ちでいっぱいです。命の重みを感じ、私が奪ってしまった命の重さや尊さをあらためて身をもって知りました」 噛みしめるように話す中川の姿を見ると、多くの人には純朴な人物として映るだろう。そこに、男女2人を惨殺した凶悪事件の主犯格という姿を重ねるのは難しい。服役生活は、拘置所での収容期間を合わせると28年ほどになる。それらの日々が、中川に変化をもたらしたのだろうか。犯罪史に刻まれる凶悪事件 中川の起こした事件は「名古屋アベック殺人事件」と呼ばれ、戦後の犯罪史に刻まれている。執拗な暴力と残忍な手口で被害者を死に至らしめたことに加え、6人の加害者のうち当時20歳だった暴力団組員の男以外は17歳から19歳の未成年(うち2人は女性)だった事実が、社会に大きな衝撃を与えた。 1988年2月23日早朝、愛知県名古屋市緑区の大高緑地公園で、通行人がフロントガラスや窓ガラスが粉々に破壊された乗用車を発見する。通報により駆けつけた警察官が、車内から血の付いた下着を発見し、捜査が開始された。すぐに、車に乗っていた理容師の男性(当時19)と、理容師見習いの女性(同20)の2人が行方不明になっていることが判明。目撃情報などから4日後に、とび職だった中川ら6人が逮捕され、供述から三重県の山中で男女2人の遺体が発見された。 事件は、凄惨という言葉がそのまま当てはまる。 起訴状などによると、6人は23日の未明、大高緑地公園の駐車場で、車に乗ってデート中だった2人を外に引きずり出し、鉄パイプや木刀で執拗に暴行。現金約2万円などを奪い、男たちは女性を乱暴した。さらに2人を自分たちの車で連れ回した挙げ句、事件の発覚を恐れ、24日に愛知県長久手町の墓地で男性の首をロープで絞めて殺害する。25日には女性を三重県内の山林に連れて行き、やはりロープで首を絞めて殺し、掘った穴の中に2人の遺体を埋めた。 殺害方法は、綱引きのようにして両側からロープで首を締め上げ、数十分かけて死に至らしめるという残忍なものだった。6人は事件の直前にも、名古屋市内で別のアベック2組を襲い、うち1組の男女に全治1週間のけがを負わせた上、現金など計約10万円相当を奪うなど、場当たり的で快楽的な犯罪を繰り返していた。凶行は、その延長線上で起きた。 同じ時期(88年11月から89年1月)には、東京都足立区で少年4人が女子高生を41日間にわたって監禁し、暴行を繰り返して死亡させ、遺体をドラム缶に入れてコンクリート詰めにしたうえ遺棄した「女子高生コンクリート詰め殺人事件」が発生している。少年犯罪に対する世間の目は、厳しさを増していた。犯行当時19歳だった中川が、事件の悪質さから検察官送致(逆送)となり、少年ではなく成人と同じように裁かれることになったのは当然のことだった。「極刑をもって臨むべき」 89年6月、名古屋地裁は中川に求刑通り死刑判決を言い渡した。「まれに見る残虐、冷酷な犯罪で、遺族の被害感情を考えると、死刑もやむを得ない」というのが、その理由だった。少年への死刑判決は、犯行当時19歳だった4人連続射殺事件の永山則夫元死刑囚=97年8月に死刑執行=以来だった。 だが、7年半にわたる控訴審の末に、96年12月、名古屋高裁は一審の死刑を破棄し、中川に無期懲役の判決を言い渡した。判決文では、中川に対して「犯行の動機にくむべきものはまったく見当たらず、犯行の態様も残虐で、結果の重大性はいうまでもない。遺族の被害感情には今なお厳しいものがあるなど、極刑をもって臨むべきとの見解には相当の根拠がある」としながらも、死刑の選択を避けた。「控訴審の公判でも、人の生命の尊さ、犯行の重大性、一審の死刑判決の重みを再認識して、反省の度を深めていることなどの事情が認められる」(判決要旨より)など、中川に更生の可能性があると判断したのが、その理由だった。 検察側は上告を断念し、97年1月に無期懲役が確定したことから、中川は岡山刑務所に下獄した。中川のほか犯行に加わった5人は、無期懲役や懲役13年、5年以上10年以下の不定期刑が確定している。 刑務所内で、中川は「1類」の優遇措置を受けている。社会復帰に向けて努力させるため、服役態度などによって受刑者を1~5類に分け、区分ごとに面会や手紙の回数、所内での集会の参加回数などの幅を広げている。1類はそのトップランクで、岡山刑務所内では約30人と、全受刑者の1割に満たない「獄中エリート」だ。中川は刑務作業での事故や所内でのトラブルがなく、素行のよい「模範囚」ということになる。そのため、面会時間も1時間を許可された。 3畳ほどの独居房に暮らす中川は、刑務所での毎日が「とにかく忙しい」という。日中の刑務作業では、金属加工工場で数値制御装置が付けられた「NC旋盤」の操作を担当している。フロッピーディスクを用いる旧式なコンピュータながら、独学で身につけた関数などの知識を生かし、プログラムを打ち込んで操作する重要な仕事だ。新幹線の部品に用いられる精密加工品を作ることもあるという。 また、受刑者によるクラブ活動では俳句と書道を行い、そこで発表したものは、法務省主催の文芸作品コンクールに欠かさず応募している。そのほか、犯した罪や被害者のこと、日々の反省など3つのテーマを自ら決め、月に1回作文を書くことを課されており、その準備などを入念に行う。もらった手紙の返事も丹念に書き、年に2度、被害者の遺族に刑務作業で得た作業報奨金から、償いとして現金を送っている。通常の消灯時間は午後9時だが、火、木、土は特別に午後10時まで延長を認めてもらい、そうした日々の作業に充てているという。消灯時間の延長が認められるのは、もちろん中川が「1類」の模範囚だからだ。「希望を持つようにしています」 一般社会の生活から隔絶された、監視と規律の世界。無期懲役という、いつ出獄できるかもわからない中で、なぜ中川は絶望することなく、模範囚としての日々を送ることができるのだろうか。そのことを問うと、中川は「社会復帰という目標があるからです」と、はっきりとした口調で答えた。「社会復帰」とは、仮釈放で再び塀の外に出ることにほかならない。「(ほかの無期懲役囚は)あまり(仮釈放を)考えないようにしている人が多いんです。でも、私はなんとか希望を持つようにしています」 中川が無期懲役囚となったのは20代で、公判では家族が、仮釈放になれば生活の面倒をみると明言している。40代以降で罪を犯し、家族などからも見放されてしまった無期懲役囚とは「境遇」が大きく異なる。30年以上服役すれば、自分は老人となり、生きているかもわからない。頼れる身寄りなどありはせず、仮釈放など夢のまた夢、と考える無期懲役囚は少なくない。中川は、仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚なのだ。 だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
噛みしめるように話す中川の姿を見ると、多くの人には純朴な人物として映るだろう。そこに、男女2人を惨殺した凶悪事件の主犯格という姿を重ねるのは難しい。服役生活は、拘置所での収容期間を合わせると28年ほどになる。それらの日々が、中川に変化をもたらしたのだろうか。犯罪史に刻まれる凶悪事件 中川の起こした事件は「名古屋アベック殺人事件」と呼ばれ、戦後の犯罪史に刻まれている。執拗な暴力と残忍な手口で被害者を死に至らしめたことに加え、6人の加害者のうち当時20歳だった暴力団組員の男以外は17歳から19歳の未成年(うち2人は女性)だった事実が、社会に大きな衝撃を与えた。 1988年2月23日早朝、愛知県名古屋市緑区の大高緑地公園で、通行人がフロントガラスや窓ガラスが粉々に破壊された乗用車を発見する。通報により駆けつけた警察官が、車内から血の付いた下着を発見し、捜査が開始された。すぐに、車に乗っていた理容師の男性(当時19)と、理容師見習いの女性(同20)の2人が行方不明になっていることが判明。目撃情報などから4日後に、とび職だった中川ら6人が逮捕され、供述から三重県の山中で男女2人の遺体が発見された。 事件は、凄惨という言葉がそのまま当てはまる。 起訴状などによると、6人は23日の未明、大高緑地公園の駐車場で、車に乗ってデート中だった2人を外に引きずり出し、鉄パイプや木刀で執拗に暴行。現金約2万円などを奪い、男たちは女性を乱暴した。さらに2人を自分たちの車で連れ回した挙げ句、事件の発覚を恐れ、24日に愛知県長久手町の墓地で男性の首をロープで絞めて殺害する。25日には女性を三重県内の山林に連れて行き、やはりロープで首を絞めて殺し、掘った穴の中に2人の遺体を埋めた。 殺害方法は、綱引きのようにして両側からロープで首を締め上げ、数十分かけて死に至らしめるという残忍なものだった。6人は事件の直前にも、名古屋市内で別のアベック2組を襲い、うち1組の男女に全治1週間のけがを負わせた上、現金など計約10万円相当を奪うなど、場当たり的で快楽的な犯罪を繰り返していた。凶行は、その延長線上で起きた。 同じ時期(88年11月から89年1月)には、東京都足立区で少年4人が女子高生を41日間にわたって監禁し、暴行を繰り返して死亡させ、遺体をドラム缶に入れてコンクリート詰めにしたうえ遺棄した「女子高生コンクリート詰め殺人事件」が発生している。少年犯罪に対する世間の目は、厳しさを増していた。犯行当時19歳だった中川が、事件の悪質さから検察官送致(逆送)となり、少年ではなく成人と同じように裁かれることになったのは当然のことだった。「極刑をもって臨むべき」 89年6月、名古屋地裁は中川に求刑通り死刑判決を言い渡した。「まれに見る残虐、冷酷な犯罪で、遺族の被害感情を考えると、死刑もやむを得ない」というのが、その理由だった。少年への死刑判決は、犯行当時19歳だった4人連続射殺事件の永山則夫元死刑囚=97年8月に死刑執行=以来だった。 だが、7年半にわたる控訴審の末に、96年12月、名古屋高裁は一審の死刑を破棄し、中川に無期懲役の判決を言い渡した。判決文では、中川に対して「犯行の動機にくむべきものはまったく見当たらず、犯行の態様も残虐で、結果の重大性はいうまでもない。遺族の被害感情には今なお厳しいものがあるなど、極刑をもって臨むべきとの見解には相当の根拠がある」としながらも、死刑の選択を避けた。「控訴審の公判でも、人の生命の尊さ、犯行の重大性、一審の死刑判決の重みを再認識して、反省の度を深めていることなどの事情が認められる」(判決要旨より)など、中川に更生の可能性があると判断したのが、その理由だった。 検察側は上告を断念し、97年1月に無期懲役が確定したことから、中川は岡山刑務所に下獄した。中川のほか犯行に加わった5人は、無期懲役や懲役13年、5年以上10年以下の不定期刑が確定している。 刑務所内で、中川は「1類」の優遇措置を受けている。社会復帰に向けて努力させるため、服役態度などによって受刑者を1~5類に分け、区分ごとに面会や手紙の回数、所内での集会の参加回数などの幅を広げている。1類はそのトップランクで、岡山刑務所内では約30人と、全受刑者の1割に満たない「獄中エリート」だ。中川は刑務作業での事故や所内でのトラブルがなく、素行のよい「模範囚」ということになる。そのため、面会時間も1時間を許可された。 3畳ほどの独居房に暮らす中川は、刑務所での毎日が「とにかく忙しい」という。日中の刑務作業では、金属加工工場で数値制御装置が付けられた「NC旋盤」の操作を担当している。フロッピーディスクを用いる旧式なコンピュータながら、独学で身につけた関数などの知識を生かし、プログラムを打ち込んで操作する重要な仕事だ。新幹線の部品に用いられる精密加工品を作ることもあるという。 また、受刑者によるクラブ活動では俳句と書道を行い、そこで発表したものは、法務省主催の文芸作品コンクールに欠かさず応募している。そのほか、犯した罪や被害者のこと、日々の反省など3つのテーマを自ら決め、月に1回作文を書くことを課されており、その準備などを入念に行う。もらった手紙の返事も丹念に書き、年に2度、被害者の遺族に刑務作業で得た作業報奨金から、償いとして現金を送っている。通常の消灯時間は午後9時だが、火、木、土は特別に午後10時まで延長を認めてもらい、そうした日々の作業に充てているという。消灯時間の延長が認められるのは、もちろん中川が「1類」の模範囚だからだ。「希望を持つようにしています」 一般社会の生活から隔絶された、監視と規律の世界。無期懲役という、いつ出獄できるかもわからない中で、なぜ中川は絶望することなく、模範囚としての日々を送ることができるのだろうか。そのことを問うと、中川は「社会復帰という目標があるからです」と、はっきりとした口調で答えた。「社会復帰」とは、仮釈放で再び塀の外に出ることにほかならない。「(ほかの無期懲役囚は)あまり(仮釈放を)考えないようにしている人が多いんです。でも、私はなんとか希望を持つようにしています」 中川が無期懲役囚となったのは20代で、公判では家族が、仮釈放になれば生活の面倒をみると明言している。40代以降で罪を犯し、家族などからも見放されてしまった無期懲役囚とは「境遇」が大きく異なる。30年以上服役すれば、自分は老人となり、生きているかもわからない。頼れる身寄りなどありはせず、仮釈放など夢のまた夢、と考える無期懲役囚は少なくない。中川は、仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚なのだ。 だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
中川の起こした事件は「名古屋アベック殺人事件」と呼ばれ、戦後の犯罪史に刻まれている。執拗な暴力と残忍な手口で被害者を死に至らしめたことに加え、6人の加害者のうち当時20歳だった暴力団組員の男以外は17歳から19歳の未成年(うち2人は女性)だった事実が、社会に大きな衝撃を与えた。 1988年2月23日早朝、愛知県名古屋市緑区の大高緑地公園で、通行人がフロントガラスや窓ガラスが粉々に破壊された乗用車を発見する。通報により駆けつけた警察官が、車内から血の付いた下着を発見し、捜査が開始された。すぐに、車に乗っていた理容師の男性(当時19)と、理容師見習いの女性(同20)の2人が行方不明になっていることが判明。目撃情報などから4日後に、とび職だった中川ら6人が逮捕され、供述から三重県の山中で男女2人の遺体が発見された。 事件は、凄惨という言葉がそのまま当てはまる。 起訴状などによると、6人は23日の未明、大高緑地公園の駐車場で、車に乗ってデート中だった2人を外に引きずり出し、鉄パイプや木刀で執拗に暴行。現金約2万円などを奪い、男たちは女性を乱暴した。さらに2人を自分たちの車で連れ回した挙げ句、事件の発覚を恐れ、24日に愛知県長久手町の墓地で男性の首をロープで絞めて殺害する。25日には女性を三重県内の山林に連れて行き、やはりロープで首を絞めて殺し、掘った穴の中に2人の遺体を埋めた。 殺害方法は、綱引きのようにして両側からロープで首を締め上げ、数十分かけて死に至らしめるという残忍なものだった。6人は事件の直前にも、名古屋市内で別のアベック2組を襲い、うち1組の男女に全治1週間のけがを負わせた上、現金など計約10万円相当を奪うなど、場当たり的で快楽的な犯罪を繰り返していた。凶行は、その延長線上で起きた。 同じ時期(88年11月から89年1月)には、東京都足立区で少年4人が女子高生を41日間にわたって監禁し、暴行を繰り返して死亡させ、遺体をドラム缶に入れてコンクリート詰めにしたうえ遺棄した「女子高生コンクリート詰め殺人事件」が発生している。少年犯罪に対する世間の目は、厳しさを増していた。犯行当時19歳だった中川が、事件の悪質さから検察官送致(逆送)となり、少年ではなく成人と同じように裁かれることになったのは当然のことだった。「極刑をもって臨むべき」 89年6月、名古屋地裁は中川に求刑通り死刑判決を言い渡した。「まれに見る残虐、冷酷な犯罪で、遺族の被害感情を考えると、死刑もやむを得ない」というのが、その理由だった。少年への死刑判決は、犯行当時19歳だった4人連続射殺事件の永山則夫元死刑囚=97年8月に死刑執行=以来だった。 だが、7年半にわたる控訴審の末に、96年12月、名古屋高裁は一審の死刑を破棄し、中川に無期懲役の判決を言い渡した。判決文では、中川に対して「犯行の動機にくむべきものはまったく見当たらず、犯行の態様も残虐で、結果の重大性はいうまでもない。遺族の被害感情には今なお厳しいものがあるなど、極刑をもって臨むべきとの見解には相当の根拠がある」としながらも、死刑の選択を避けた。「控訴審の公判でも、人の生命の尊さ、犯行の重大性、一審の死刑判決の重みを再認識して、反省の度を深めていることなどの事情が認められる」(判決要旨より)など、中川に更生の可能性があると判断したのが、その理由だった。 検察側は上告を断念し、97年1月に無期懲役が確定したことから、中川は岡山刑務所に下獄した。中川のほか犯行に加わった5人は、無期懲役や懲役13年、5年以上10年以下の不定期刑が確定している。 刑務所内で、中川は「1類」の優遇措置を受けている。社会復帰に向けて努力させるため、服役態度などによって受刑者を1~5類に分け、区分ごとに面会や手紙の回数、所内での集会の参加回数などの幅を広げている。1類はそのトップランクで、岡山刑務所内では約30人と、全受刑者の1割に満たない「獄中エリート」だ。中川は刑務作業での事故や所内でのトラブルがなく、素行のよい「模範囚」ということになる。そのため、面会時間も1時間を許可された。 3畳ほどの独居房に暮らす中川は、刑務所での毎日が「とにかく忙しい」という。日中の刑務作業では、金属加工工場で数値制御装置が付けられた「NC旋盤」の操作を担当している。フロッピーディスクを用いる旧式なコンピュータながら、独学で身につけた関数などの知識を生かし、プログラムを打ち込んで操作する重要な仕事だ。新幹線の部品に用いられる精密加工品を作ることもあるという。 また、受刑者によるクラブ活動では俳句と書道を行い、そこで発表したものは、法務省主催の文芸作品コンクールに欠かさず応募している。そのほか、犯した罪や被害者のこと、日々の反省など3つのテーマを自ら決め、月に1回作文を書くことを課されており、その準備などを入念に行う。もらった手紙の返事も丹念に書き、年に2度、被害者の遺族に刑務作業で得た作業報奨金から、償いとして現金を送っている。通常の消灯時間は午後9時だが、火、木、土は特別に午後10時まで延長を認めてもらい、そうした日々の作業に充てているという。消灯時間の延長が認められるのは、もちろん中川が「1類」の模範囚だからだ。「希望を持つようにしています」 一般社会の生活から隔絶された、監視と規律の世界。無期懲役という、いつ出獄できるかもわからない中で、なぜ中川は絶望することなく、模範囚としての日々を送ることができるのだろうか。そのことを問うと、中川は「社会復帰という目標があるからです」と、はっきりとした口調で答えた。「社会復帰」とは、仮釈放で再び塀の外に出ることにほかならない。「(ほかの無期懲役囚は)あまり(仮釈放を)考えないようにしている人が多いんです。でも、私はなんとか希望を持つようにしています」 中川が無期懲役囚となったのは20代で、公判では家族が、仮釈放になれば生活の面倒をみると明言している。40代以降で罪を犯し、家族などからも見放されてしまった無期懲役囚とは「境遇」が大きく異なる。30年以上服役すれば、自分は老人となり、生きているかもわからない。頼れる身寄りなどありはせず、仮釈放など夢のまた夢、と考える無期懲役囚は少なくない。中川は、仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚なのだ。 だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
1988年2月23日早朝、愛知県名古屋市緑区の大高緑地公園で、通行人がフロントガラスや窓ガラスが粉々に破壊された乗用車を発見する。通報により駆けつけた警察官が、車内から血の付いた下着を発見し、捜査が開始された。すぐに、車に乗っていた理容師の男性(当時19)と、理容師見習いの女性(同20)の2人が行方不明になっていることが判明。目撃情報などから4日後に、とび職だった中川ら6人が逮捕され、供述から三重県の山中で男女2人の遺体が発見された。 事件は、凄惨という言葉がそのまま当てはまる。 起訴状などによると、6人は23日の未明、大高緑地公園の駐車場で、車に乗ってデート中だった2人を外に引きずり出し、鉄パイプや木刀で執拗に暴行。現金約2万円などを奪い、男たちは女性を乱暴した。さらに2人を自分たちの車で連れ回した挙げ句、事件の発覚を恐れ、24日に愛知県長久手町の墓地で男性の首をロープで絞めて殺害する。25日には女性を三重県内の山林に連れて行き、やはりロープで首を絞めて殺し、掘った穴の中に2人の遺体を埋めた。 殺害方法は、綱引きのようにして両側からロープで首を締め上げ、数十分かけて死に至らしめるという残忍なものだった。6人は事件の直前にも、名古屋市内で別のアベック2組を襲い、うち1組の男女に全治1週間のけがを負わせた上、現金など計約10万円相当を奪うなど、場当たり的で快楽的な犯罪を繰り返していた。凶行は、その延長線上で起きた。 同じ時期(88年11月から89年1月)には、東京都足立区で少年4人が女子高生を41日間にわたって監禁し、暴行を繰り返して死亡させ、遺体をドラム缶に入れてコンクリート詰めにしたうえ遺棄した「女子高生コンクリート詰め殺人事件」が発生している。少年犯罪に対する世間の目は、厳しさを増していた。犯行当時19歳だった中川が、事件の悪質さから検察官送致(逆送)となり、少年ではなく成人と同じように裁かれることになったのは当然のことだった。「極刑をもって臨むべき」 89年6月、名古屋地裁は中川に求刑通り死刑判決を言い渡した。「まれに見る残虐、冷酷な犯罪で、遺族の被害感情を考えると、死刑もやむを得ない」というのが、その理由だった。少年への死刑判決は、犯行当時19歳だった4人連続射殺事件の永山則夫元死刑囚=97年8月に死刑執行=以来だった。 だが、7年半にわたる控訴審の末に、96年12月、名古屋高裁は一審の死刑を破棄し、中川に無期懲役の判決を言い渡した。判決文では、中川に対して「犯行の動機にくむべきものはまったく見当たらず、犯行の態様も残虐で、結果の重大性はいうまでもない。遺族の被害感情には今なお厳しいものがあるなど、極刑をもって臨むべきとの見解には相当の根拠がある」としながらも、死刑の選択を避けた。「控訴審の公判でも、人の生命の尊さ、犯行の重大性、一審の死刑判決の重みを再認識して、反省の度を深めていることなどの事情が認められる」(判決要旨より)など、中川に更生の可能性があると判断したのが、その理由だった。 検察側は上告を断念し、97年1月に無期懲役が確定したことから、中川は岡山刑務所に下獄した。中川のほか犯行に加わった5人は、無期懲役や懲役13年、5年以上10年以下の不定期刑が確定している。 刑務所内で、中川は「1類」の優遇措置を受けている。社会復帰に向けて努力させるため、服役態度などによって受刑者を1~5類に分け、区分ごとに面会や手紙の回数、所内での集会の参加回数などの幅を広げている。1類はそのトップランクで、岡山刑務所内では約30人と、全受刑者の1割に満たない「獄中エリート」だ。中川は刑務作業での事故や所内でのトラブルがなく、素行のよい「模範囚」ということになる。そのため、面会時間も1時間を許可された。 3畳ほどの独居房に暮らす中川は、刑務所での毎日が「とにかく忙しい」という。日中の刑務作業では、金属加工工場で数値制御装置が付けられた「NC旋盤」の操作を担当している。フロッピーディスクを用いる旧式なコンピュータながら、独学で身につけた関数などの知識を生かし、プログラムを打ち込んで操作する重要な仕事だ。新幹線の部品に用いられる精密加工品を作ることもあるという。 また、受刑者によるクラブ活動では俳句と書道を行い、そこで発表したものは、法務省主催の文芸作品コンクールに欠かさず応募している。そのほか、犯した罪や被害者のこと、日々の反省など3つのテーマを自ら決め、月に1回作文を書くことを課されており、その準備などを入念に行う。もらった手紙の返事も丹念に書き、年に2度、被害者の遺族に刑務作業で得た作業報奨金から、償いとして現金を送っている。通常の消灯時間は午後9時だが、火、木、土は特別に午後10時まで延長を認めてもらい、そうした日々の作業に充てているという。消灯時間の延長が認められるのは、もちろん中川が「1類」の模範囚だからだ。「希望を持つようにしています」 一般社会の生活から隔絶された、監視と規律の世界。無期懲役という、いつ出獄できるかもわからない中で、なぜ中川は絶望することなく、模範囚としての日々を送ることができるのだろうか。そのことを問うと、中川は「社会復帰という目標があるからです」と、はっきりとした口調で答えた。「社会復帰」とは、仮釈放で再び塀の外に出ることにほかならない。「(ほかの無期懲役囚は)あまり(仮釈放を)考えないようにしている人が多いんです。でも、私はなんとか希望を持つようにしています」 中川が無期懲役囚となったのは20代で、公判では家族が、仮釈放になれば生活の面倒をみると明言している。40代以降で罪を犯し、家族などからも見放されてしまった無期懲役囚とは「境遇」が大きく異なる。30年以上服役すれば、自分は老人となり、生きているかもわからない。頼れる身寄りなどありはせず、仮釈放など夢のまた夢、と考える無期懲役囚は少なくない。中川は、仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚なのだ。 だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
事件は、凄惨という言葉がそのまま当てはまる。 起訴状などによると、6人は23日の未明、大高緑地公園の駐車場で、車に乗ってデート中だった2人を外に引きずり出し、鉄パイプや木刀で執拗に暴行。現金約2万円などを奪い、男たちは女性を乱暴した。さらに2人を自分たちの車で連れ回した挙げ句、事件の発覚を恐れ、24日に愛知県長久手町の墓地で男性の首をロープで絞めて殺害する。25日には女性を三重県内の山林に連れて行き、やはりロープで首を絞めて殺し、掘った穴の中に2人の遺体を埋めた。 殺害方法は、綱引きのようにして両側からロープで首を締め上げ、数十分かけて死に至らしめるという残忍なものだった。6人は事件の直前にも、名古屋市内で別のアベック2組を襲い、うち1組の男女に全治1週間のけがを負わせた上、現金など計約10万円相当を奪うなど、場当たり的で快楽的な犯罪を繰り返していた。凶行は、その延長線上で起きた。 同じ時期(88年11月から89年1月)には、東京都足立区で少年4人が女子高生を41日間にわたって監禁し、暴行を繰り返して死亡させ、遺体をドラム缶に入れてコンクリート詰めにしたうえ遺棄した「女子高生コンクリート詰め殺人事件」が発生している。少年犯罪に対する世間の目は、厳しさを増していた。犯行当時19歳だった中川が、事件の悪質さから検察官送致(逆送)となり、少年ではなく成人と同じように裁かれることになったのは当然のことだった。「極刑をもって臨むべき」 89年6月、名古屋地裁は中川に求刑通り死刑判決を言い渡した。「まれに見る残虐、冷酷な犯罪で、遺族の被害感情を考えると、死刑もやむを得ない」というのが、その理由だった。少年への死刑判決は、犯行当時19歳だった4人連続射殺事件の永山則夫元死刑囚=97年8月に死刑執行=以来だった。 だが、7年半にわたる控訴審の末に、96年12月、名古屋高裁は一審の死刑を破棄し、中川に無期懲役の判決を言い渡した。判決文では、中川に対して「犯行の動機にくむべきものはまったく見当たらず、犯行の態様も残虐で、結果の重大性はいうまでもない。遺族の被害感情には今なお厳しいものがあるなど、極刑をもって臨むべきとの見解には相当の根拠がある」としながらも、死刑の選択を避けた。「控訴審の公判でも、人の生命の尊さ、犯行の重大性、一審の死刑判決の重みを再認識して、反省の度を深めていることなどの事情が認められる」(判決要旨より)など、中川に更生の可能性があると判断したのが、その理由だった。 検察側は上告を断念し、97年1月に無期懲役が確定したことから、中川は岡山刑務所に下獄した。中川のほか犯行に加わった5人は、無期懲役や懲役13年、5年以上10年以下の不定期刑が確定している。 刑務所内で、中川は「1類」の優遇措置を受けている。社会復帰に向けて努力させるため、服役態度などによって受刑者を1~5類に分け、区分ごとに面会や手紙の回数、所内での集会の参加回数などの幅を広げている。1類はそのトップランクで、岡山刑務所内では約30人と、全受刑者の1割に満たない「獄中エリート」だ。中川は刑務作業での事故や所内でのトラブルがなく、素行のよい「模範囚」ということになる。そのため、面会時間も1時間を許可された。 3畳ほどの独居房に暮らす中川は、刑務所での毎日が「とにかく忙しい」という。日中の刑務作業では、金属加工工場で数値制御装置が付けられた「NC旋盤」の操作を担当している。フロッピーディスクを用いる旧式なコンピュータながら、独学で身につけた関数などの知識を生かし、プログラムを打ち込んで操作する重要な仕事だ。新幹線の部品に用いられる精密加工品を作ることもあるという。 また、受刑者によるクラブ活動では俳句と書道を行い、そこで発表したものは、法務省主催の文芸作品コンクールに欠かさず応募している。そのほか、犯した罪や被害者のこと、日々の反省など3つのテーマを自ら決め、月に1回作文を書くことを課されており、その準備などを入念に行う。もらった手紙の返事も丹念に書き、年に2度、被害者の遺族に刑務作業で得た作業報奨金から、償いとして現金を送っている。通常の消灯時間は午後9時だが、火、木、土は特別に午後10時まで延長を認めてもらい、そうした日々の作業に充てているという。消灯時間の延長が認められるのは、もちろん中川が「1類」の模範囚だからだ。「希望を持つようにしています」 一般社会の生活から隔絶された、監視と規律の世界。無期懲役という、いつ出獄できるかもわからない中で、なぜ中川は絶望することなく、模範囚としての日々を送ることができるのだろうか。そのことを問うと、中川は「社会復帰という目標があるからです」と、はっきりとした口調で答えた。「社会復帰」とは、仮釈放で再び塀の外に出ることにほかならない。「(ほかの無期懲役囚は)あまり(仮釈放を)考えないようにしている人が多いんです。でも、私はなんとか希望を持つようにしています」 中川が無期懲役囚となったのは20代で、公判では家族が、仮釈放になれば生活の面倒をみると明言している。40代以降で罪を犯し、家族などからも見放されてしまった無期懲役囚とは「境遇」が大きく異なる。30年以上服役すれば、自分は老人となり、生きているかもわからない。頼れる身寄りなどありはせず、仮釈放など夢のまた夢、と考える無期懲役囚は少なくない。中川は、仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚なのだ。 だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
起訴状などによると、6人は23日の未明、大高緑地公園の駐車場で、車に乗ってデート中だった2人を外に引きずり出し、鉄パイプや木刀で執拗に暴行。現金約2万円などを奪い、男たちは女性を乱暴した。さらに2人を自分たちの車で連れ回した挙げ句、事件の発覚を恐れ、24日に愛知県長久手町の墓地で男性の首をロープで絞めて殺害する。25日には女性を三重県内の山林に連れて行き、やはりロープで首を絞めて殺し、掘った穴の中に2人の遺体を埋めた。 殺害方法は、綱引きのようにして両側からロープで首を締め上げ、数十分かけて死に至らしめるという残忍なものだった。6人は事件の直前にも、名古屋市内で別のアベック2組を襲い、うち1組の男女に全治1週間のけがを負わせた上、現金など計約10万円相当を奪うなど、場当たり的で快楽的な犯罪を繰り返していた。凶行は、その延長線上で起きた。 同じ時期(88年11月から89年1月)には、東京都足立区で少年4人が女子高生を41日間にわたって監禁し、暴行を繰り返して死亡させ、遺体をドラム缶に入れてコンクリート詰めにしたうえ遺棄した「女子高生コンクリート詰め殺人事件」が発生している。少年犯罪に対する世間の目は、厳しさを増していた。犯行当時19歳だった中川が、事件の悪質さから検察官送致(逆送)となり、少年ではなく成人と同じように裁かれることになったのは当然のことだった。「極刑をもって臨むべき」 89年6月、名古屋地裁は中川に求刑通り死刑判決を言い渡した。「まれに見る残虐、冷酷な犯罪で、遺族の被害感情を考えると、死刑もやむを得ない」というのが、その理由だった。少年への死刑判決は、犯行当時19歳だった4人連続射殺事件の永山則夫元死刑囚=97年8月に死刑執行=以来だった。 だが、7年半にわたる控訴審の末に、96年12月、名古屋高裁は一審の死刑を破棄し、中川に無期懲役の判決を言い渡した。判決文では、中川に対して「犯行の動機にくむべきものはまったく見当たらず、犯行の態様も残虐で、結果の重大性はいうまでもない。遺族の被害感情には今なお厳しいものがあるなど、極刑をもって臨むべきとの見解には相当の根拠がある」としながらも、死刑の選択を避けた。「控訴審の公判でも、人の生命の尊さ、犯行の重大性、一審の死刑判決の重みを再認識して、反省の度を深めていることなどの事情が認められる」(判決要旨より)など、中川に更生の可能性があると判断したのが、その理由だった。 検察側は上告を断念し、97年1月に無期懲役が確定したことから、中川は岡山刑務所に下獄した。中川のほか犯行に加わった5人は、無期懲役や懲役13年、5年以上10年以下の不定期刑が確定している。 刑務所内で、中川は「1類」の優遇措置を受けている。社会復帰に向けて努力させるため、服役態度などによって受刑者を1~5類に分け、区分ごとに面会や手紙の回数、所内での集会の参加回数などの幅を広げている。1類はそのトップランクで、岡山刑務所内では約30人と、全受刑者の1割に満たない「獄中エリート」だ。中川は刑務作業での事故や所内でのトラブルがなく、素行のよい「模範囚」ということになる。そのため、面会時間も1時間を許可された。 3畳ほどの独居房に暮らす中川は、刑務所での毎日が「とにかく忙しい」という。日中の刑務作業では、金属加工工場で数値制御装置が付けられた「NC旋盤」の操作を担当している。フロッピーディスクを用いる旧式なコンピュータながら、独学で身につけた関数などの知識を生かし、プログラムを打ち込んで操作する重要な仕事だ。新幹線の部品に用いられる精密加工品を作ることもあるという。 また、受刑者によるクラブ活動では俳句と書道を行い、そこで発表したものは、法務省主催の文芸作品コンクールに欠かさず応募している。そのほか、犯した罪や被害者のこと、日々の反省など3つのテーマを自ら決め、月に1回作文を書くことを課されており、その準備などを入念に行う。もらった手紙の返事も丹念に書き、年に2度、被害者の遺族に刑務作業で得た作業報奨金から、償いとして現金を送っている。通常の消灯時間は午後9時だが、火、木、土は特別に午後10時まで延長を認めてもらい、そうした日々の作業に充てているという。消灯時間の延長が認められるのは、もちろん中川が「1類」の模範囚だからだ。「希望を持つようにしています」 一般社会の生活から隔絶された、監視と規律の世界。無期懲役という、いつ出獄できるかもわからない中で、なぜ中川は絶望することなく、模範囚としての日々を送ることができるのだろうか。そのことを問うと、中川は「社会復帰という目標があるからです」と、はっきりとした口調で答えた。「社会復帰」とは、仮釈放で再び塀の外に出ることにほかならない。「(ほかの無期懲役囚は)あまり(仮釈放を)考えないようにしている人が多いんです。でも、私はなんとか希望を持つようにしています」 中川が無期懲役囚となったのは20代で、公判では家族が、仮釈放になれば生活の面倒をみると明言している。40代以降で罪を犯し、家族などからも見放されてしまった無期懲役囚とは「境遇」が大きく異なる。30年以上服役すれば、自分は老人となり、生きているかもわからない。頼れる身寄りなどありはせず、仮釈放など夢のまた夢、と考える無期懲役囚は少なくない。中川は、仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚なのだ。 だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
殺害方法は、綱引きのようにして両側からロープで首を締め上げ、数十分かけて死に至らしめるという残忍なものだった。6人は事件の直前にも、名古屋市内で別のアベック2組を襲い、うち1組の男女に全治1週間のけがを負わせた上、現金など計約10万円相当を奪うなど、場当たり的で快楽的な犯罪を繰り返していた。凶行は、その延長線上で起きた。 同じ時期(88年11月から89年1月)には、東京都足立区で少年4人が女子高生を41日間にわたって監禁し、暴行を繰り返して死亡させ、遺体をドラム缶に入れてコンクリート詰めにしたうえ遺棄した「女子高生コンクリート詰め殺人事件」が発生している。少年犯罪に対する世間の目は、厳しさを増していた。犯行当時19歳だった中川が、事件の悪質さから検察官送致(逆送)となり、少年ではなく成人と同じように裁かれることになったのは当然のことだった。「極刑をもって臨むべき」 89年6月、名古屋地裁は中川に求刑通り死刑判決を言い渡した。「まれに見る残虐、冷酷な犯罪で、遺族の被害感情を考えると、死刑もやむを得ない」というのが、その理由だった。少年への死刑判決は、犯行当時19歳だった4人連続射殺事件の永山則夫元死刑囚=97年8月に死刑執行=以来だった。 だが、7年半にわたる控訴審の末に、96年12月、名古屋高裁は一審の死刑を破棄し、中川に無期懲役の判決を言い渡した。判決文では、中川に対して「犯行の動機にくむべきものはまったく見当たらず、犯行の態様も残虐で、結果の重大性はいうまでもない。遺族の被害感情には今なお厳しいものがあるなど、極刑をもって臨むべきとの見解には相当の根拠がある」としながらも、死刑の選択を避けた。「控訴審の公判でも、人の生命の尊さ、犯行の重大性、一審の死刑判決の重みを再認識して、反省の度を深めていることなどの事情が認められる」(判決要旨より)など、中川に更生の可能性があると判断したのが、その理由だった。 検察側は上告を断念し、97年1月に無期懲役が確定したことから、中川は岡山刑務所に下獄した。中川のほか犯行に加わった5人は、無期懲役や懲役13年、5年以上10年以下の不定期刑が確定している。 刑務所内で、中川は「1類」の優遇措置を受けている。社会復帰に向けて努力させるため、服役態度などによって受刑者を1~5類に分け、区分ごとに面会や手紙の回数、所内での集会の参加回数などの幅を広げている。1類はそのトップランクで、岡山刑務所内では約30人と、全受刑者の1割に満たない「獄中エリート」だ。中川は刑務作業での事故や所内でのトラブルがなく、素行のよい「模範囚」ということになる。そのため、面会時間も1時間を許可された。 3畳ほどの独居房に暮らす中川は、刑務所での毎日が「とにかく忙しい」という。日中の刑務作業では、金属加工工場で数値制御装置が付けられた「NC旋盤」の操作を担当している。フロッピーディスクを用いる旧式なコンピュータながら、独学で身につけた関数などの知識を生かし、プログラムを打ち込んで操作する重要な仕事だ。新幹線の部品に用いられる精密加工品を作ることもあるという。 また、受刑者によるクラブ活動では俳句と書道を行い、そこで発表したものは、法務省主催の文芸作品コンクールに欠かさず応募している。そのほか、犯した罪や被害者のこと、日々の反省など3つのテーマを自ら決め、月に1回作文を書くことを課されており、その準備などを入念に行う。もらった手紙の返事も丹念に書き、年に2度、被害者の遺族に刑務作業で得た作業報奨金から、償いとして現金を送っている。通常の消灯時間は午後9時だが、火、木、土は特別に午後10時まで延長を認めてもらい、そうした日々の作業に充てているという。消灯時間の延長が認められるのは、もちろん中川が「1類」の模範囚だからだ。「希望を持つようにしています」 一般社会の生活から隔絶された、監視と規律の世界。無期懲役という、いつ出獄できるかもわからない中で、なぜ中川は絶望することなく、模範囚としての日々を送ることができるのだろうか。そのことを問うと、中川は「社会復帰という目標があるからです」と、はっきりとした口調で答えた。「社会復帰」とは、仮釈放で再び塀の外に出ることにほかならない。「(ほかの無期懲役囚は)あまり(仮釈放を)考えないようにしている人が多いんです。でも、私はなんとか希望を持つようにしています」 中川が無期懲役囚となったのは20代で、公判では家族が、仮釈放になれば生活の面倒をみると明言している。40代以降で罪を犯し、家族などからも見放されてしまった無期懲役囚とは「境遇」が大きく異なる。30年以上服役すれば、自分は老人となり、生きているかもわからない。頼れる身寄りなどありはせず、仮釈放など夢のまた夢、と考える無期懲役囚は少なくない。中川は、仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚なのだ。 だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
同じ時期(88年11月から89年1月)には、東京都足立区で少年4人が女子高生を41日間にわたって監禁し、暴行を繰り返して死亡させ、遺体をドラム缶に入れてコンクリート詰めにしたうえ遺棄した「女子高生コンクリート詰め殺人事件」が発生している。少年犯罪に対する世間の目は、厳しさを増していた。犯行当時19歳だった中川が、事件の悪質さから検察官送致(逆送)となり、少年ではなく成人と同じように裁かれることになったのは当然のことだった。「極刑をもって臨むべき」 89年6月、名古屋地裁は中川に求刑通り死刑判決を言い渡した。「まれに見る残虐、冷酷な犯罪で、遺族の被害感情を考えると、死刑もやむを得ない」というのが、その理由だった。少年への死刑判決は、犯行当時19歳だった4人連続射殺事件の永山則夫元死刑囚=97年8月に死刑執行=以来だった。 だが、7年半にわたる控訴審の末に、96年12月、名古屋高裁は一審の死刑を破棄し、中川に無期懲役の判決を言い渡した。判決文では、中川に対して「犯行の動機にくむべきものはまったく見当たらず、犯行の態様も残虐で、結果の重大性はいうまでもない。遺族の被害感情には今なお厳しいものがあるなど、極刑をもって臨むべきとの見解には相当の根拠がある」としながらも、死刑の選択を避けた。「控訴審の公判でも、人の生命の尊さ、犯行の重大性、一審の死刑判決の重みを再認識して、反省の度を深めていることなどの事情が認められる」(判決要旨より)など、中川に更生の可能性があると判断したのが、その理由だった。 検察側は上告を断念し、97年1月に無期懲役が確定したことから、中川は岡山刑務所に下獄した。中川のほか犯行に加わった5人は、無期懲役や懲役13年、5年以上10年以下の不定期刑が確定している。 刑務所内で、中川は「1類」の優遇措置を受けている。社会復帰に向けて努力させるため、服役態度などによって受刑者を1~5類に分け、区分ごとに面会や手紙の回数、所内での集会の参加回数などの幅を広げている。1類はそのトップランクで、岡山刑務所内では約30人と、全受刑者の1割に満たない「獄中エリート」だ。中川は刑務作業での事故や所内でのトラブルがなく、素行のよい「模範囚」ということになる。そのため、面会時間も1時間を許可された。 3畳ほどの独居房に暮らす中川は、刑務所での毎日が「とにかく忙しい」という。日中の刑務作業では、金属加工工場で数値制御装置が付けられた「NC旋盤」の操作を担当している。フロッピーディスクを用いる旧式なコンピュータながら、独学で身につけた関数などの知識を生かし、プログラムを打ち込んで操作する重要な仕事だ。新幹線の部品に用いられる精密加工品を作ることもあるという。 また、受刑者によるクラブ活動では俳句と書道を行い、そこで発表したものは、法務省主催の文芸作品コンクールに欠かさず応募している。そのほか、犯した罪や被害者のこと、日々の反省など3つのテーマを自ら決め、月に1回作文を書くことを課されており、その準備などを入念に行う。もらった手紙の返事も丹念に書き、年に2度、被害者の遺族に刑務作業で得た作業報奨金から、償いとして現金を送っている。通常の消灯時間は午後9時だが、火、木、土は特別に午後10時まで延長を認めてもらい、そうした日々の作業に充てているという。消灯時間の延長が認められるのは、もちろん中川が「1類」の模範囚だからだ。「希望を持つようにしています」 一般社会の生活から隔絶された、監視と規律の世界。無期懲役という、いつ出獄できるかもわからない中で、なぜ中川は絶望することなく、模範囚としての日々を送ることができるのだろうか。そのことを問うと、中川は「社会復帰という目標があるからです」と、はっきりとした口調で答えた。「社会復帰」とは、仮釈放で再び塀の外に出ることにほかならない。「(ほかの無期懲役囚は)あまり(仮釈放を)考えないようにしている人が多いんです。でも、私はなんとか希望を持つようにしています」 中川が無期懲役囚となったのは20代で、公判では家族が、仮釈放になれば生活の面倒をみると明言している。40代以降で罪を犯し、家族などからも見放されてしまった無期懲役囚とは「境遇」が大きく異なる。30年以上服役すれば、自分は老人となり、生きているかもわからない。頼れる身寄りなどありはせず、仮釈放など夢のまた夢、と考える無期懲役囚は少なくない。中川は、仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚なのだ。 だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
89年6月、名古屋地裁は中川に求刑通り死刑判決を言い渡した。「まれに見る残虐、冷酷な犯罪で、遺族の被害感情を考えると、死刑もやむを得ない」というのが、その理由だった。少年への死刑判決は、犯行当時19歳だった4人連続射殺事件の永山則夫元死刑囚=97年8月に死刑執行=以来だった。 だが、7年半にわたる控訴審の末に、96年12月、名古屋高裁は一審の死刑を破棄し、中川に無期懲役の判決を言い渡した。判決文では、中川に対して「犯行の動機にくむべきものはまったく見当たらず、犯行の態様も残虐で、結果の重大性はいうまでもない。遺族の被害感情には今なお厳しいものがあるなど、極刑をもって臨むべきとの見解には相当の根拠がある」としながらも、死刑の選択を避けた。「控訴審の公判でも、人の生命の尊さ、犯行の重大性、一審の死刑判決の重みを再認識して、反省の度を深めていることなどの事情が認められる」(判決要旨より)など、中川に更生の可能性があると判断したのが、その理由だった。 検察側は上告を断念し、97年1月に無期懲役が確定したことから、中川は岡山刑務所に下獄した。中川のほか犯行に加わった5人は、無期懲役や懲役13年、5年以上10年以下の不定期刑が確定している。 刑務所内で、中川は「1類」の優遇措置を受けている。社会復帰に向けて努力させるため、服役態度などによって受刑者を1~5類に分け、区分ごとに面会や手紙の回数、所内での集会の参加回数などの幅を広げている。1類はそのトップランクで、岡山刑務所内では約30人と、全受刑者の1割に満たない「獄中エリート」だ。中川は刑務作業での事故や所内でのトラブルがなく、素行のよい「模範囚」ということになる。そのため、面会時間も1時間を許可された。 3畳ほどの独居房に暮らす中川は、刑務所での毎日が「とにかく忙しい」という。日中の刑務作業では、金属加工工場で数値制御装置が付けられた「NC旋盤」の操作を担当している。フロッピーディスクを用いる旧式なコンピュータながら、独学で身につけた関数などの知識を生かし、プログラムを打ち込んで操作する重要な仕事だ。新幹線の部品に用いられる精密加工品を作ることもあるという。 また、受刑者によるクラブ活動では俳句と書道を行い、そこで発表したものは、法務省主催の文芸作品コンクールに欠かさず応募している。そのほか、犯した罪や被害者のこと、日々の反省など3つのテーマを自ら決め、月に1回作文を書くことを課されており、その準備などを入念に行う。もらった手紙の返事も丹念に書き、年に2度、被害者の遺族に刑務作業で得た作業報奨金から、償いとして現金を送っている。通常の消灯時間は午後9時だが、火、木、土は特別に午後10時まで延長を認めてもらい、そうした日々の作業に充てているという。消灯時間の延長が認められるのは、もちろん中川が「1類」の模範囚だからだ。「希望を持つようにしています」 一般社会の生活から隔絶された、監視と規律の世界。無期懲役という、いつ出獄できるかもわからない中で、なぜ中川は絶望することなく、模範囚としての日々を送ることができるのだろうか。そのことを問うと、中川は「社会復帰という目標があるからです」と、はっきりとした口調で答えた。「社会復帰」とは、仮釈放で再び塀の外に出ることにほかならない。「(ほかの無期懲役囚は)あまり(仮釈放を)考えないようにしている人が多いんです。でも、私はなんとか希望を持つようにしています」 中川が無期懲役囚となったのは20代で、公判では家族が、仮釈放になれば生活の面倒をみると明言している。40代以降で罪を犯し、家族などからも見放されてしまった無期懲役囚とは「境遇」が大きく異なる。30年以上服役すれば、自分は老人となり、生きているかもわからない。頼れる身寄りなどありはせず、仮釈放など夢のまた夢、と考える無期懲役囚は少なくない。中川は、仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚なのだ。 だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
だが、7年半にわたる控訴審の末に、96年12月、名古屋高裁は一審の死刑を破棄し、中川に無期懲役の判決を言い渡した。判決文では、中川に対して「犯行の動機にくむべきものはまったく見当たらず、犯行の態様も残虐で、結果の重大性はいうまでもない。遺族の被害感情には今なお厳しいものがあるなど、極刑をもって臨むべきとの見解には相当の根拠がある」としながらも、死刑の選択を避けた。「控訴審の公判でも、人の生命の尊さ、犯行の重大性、一審の死刑判決の重みを再認識して、反省の度を深めていることなどの事情が認められる」(判決要旨より)など、中川に更生の可能性があると判断したのが、その理由だった。 検察側は上告を断念し、97年1月に無期懲役が確定したことから、中川は岡山刑務所に下獄した。中川のほか犯行に加わった5人は、無期懲役や懲役13年、5年以上10年以下の不定期刑が確定している。 刑務所内で、中川は「1類」の優遇措置を受けている。社会復帰に向けて努力させるため、服役態度などによって受刑者を1~5類に分け、区分ごとに面会や手紙の回数、所内での集会の参加回数などの幅を広げている。1類はそのトップランクで、岡山刑務所内では約30人と、全受刑者の1割に満たない「獄中エリート」だ。中川は刑務作業での事故や所内でのトラブルがなく、素行のよい「模範囚」ということになる。そのため、面会時間も1時間を許可された。 3畳ほどの独居房に暮らす中川は、刑務所での毎日が「とにかく忙しい」という。日中の刑務作業では、金属加工工場で数値制御装置が付けられた「NC旋盤」の操作を担当している。フロッピーディスクを用いる旧式なコンピュータながら、独学で身につけた関数などの知識を生かし、プログラムを打ち込んで操作する重要な仕事だ。新幹線の部品に用いられる精密加工品を作ることもあるという。 また、受刑者によるクラブ活動では俳句と書道を行い、そこで発表したものは、法務省主催の文芸作品コンクールに欠かさず応募している。そのほか、犯した罪や被害者のこと、日々の反省など3つのテーマを自ら決め、月に1回作文を書くことを課されており、その準備などを入念に行う。もらった手紙の返事も丹念に書き、年に2度、被害者の遺族に刑務作業で得た作業報奨金から、償いとして現金を送っている。通常の消灯時間は午後9時だが、火、木、土は特別に午後10時まで延長を認めてもらい、そうした日々の作業に充てているという。消灯時間の延長が認められるのは、もちろん中川が「1類」の模範囚だからだ。「希望を持つようにしています」 一般社会の生活から隔絶された、監視と規律の世界。無期懲役という、いつ出獄できるかもわからない中で、なぜ中川は絶望することなく、模範囚としての日々を送ることができるのだろうか。そのことを問うと、中川は「社会復帰という目標があるからです」と、はっきりとした口調で答えた。「社会復帰」とは、仮釈放で再び塀の外に出ることにほかならない。「(ほかの無期懲役囚は)あまり(仮釈放を)考えないようにしている人が多いんです。でも、私はなんとか希望を持つようにしています」 中川が無期懲役囚となったのは20代で、公判では家族が、仮釈放になれば生活の面倒をみると明言している。40代以降で罪を犯し、家族などからも見放されてしまった無期懲役囚とは「境遇」が大きく異なる。30年以上服役すれば、自分は老人となり、生きているかもわからない。頼れる身寄りなどありはせず、仮釈放など夢のまた夢、と考える無期懲役囚は少なくない。中川は、仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚なのだ。 だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
検察側は上告を断念し、97年1月に無期懲役が確定したことから、中川は岡山刑務所に下獄した。中川のほか犯行に加わった5人は、無期懲役や懲役13年、5年以上10年以下の不定期刑が確定している。 刑務所内で、中川は「1類」の優遇措置を受けている。社会復帰に向けて努力させるため、服役態度などによって受刑者を1~5類に分け、区分ごとに面会や手紙の回数、所内での集会の参加回数などの幅を広げている。1類はそのトップランクで、岡山刑務所内では約30人と、全受刑者の1割に満たない「獄中エリート」だ。中川は刑務作業での事故や所内でのトラブルがなく、素行のよい「模範囚」ということになる。そのため、面会時間も1時間を許可された。 3畳ほどの独居房に暮らす中川は、刑務所での毎日が「とにかく忙しい」という。日中の刑務作業では、金属加工工場で数値制御装置が付けられた「NC旋盤」の操作を担当している。フロッピーディスクを用いる旧式なコンピュータながら、独学で身につけた関数などの知識を生かし、プログラムを打ち込んで操作する重要な仕事だ。新幹線の部品に用いられる精密加工品を作ることもあるという。 また、受刑者によるクラブ活動では俳句と書道を行い、そこで発表したものは、法務省主催の文芸作品コンクールに欠かさず応募している。そのほか、犯した罪や被害者のこと、日々の反省など3つのテーマを自ら決め、月に1回作文を書くことを課されており、その準備などを入念に行う。もらった手紙の返事も丹念に書き、年に2度、被害者の遺族に刑務作業で得た作業報奨金から、償いとして現金を送っている。通常の消灯時間は午後9時だが、火、木、土は特別に午後10時まで延長を認めてもらい、そうした日々の作業に充てているという。消灯時間の延長が認められるのは、もちろん中川が「1類」の模範囚だからだ。「希望を持つようにしています」 一般社会の生活から隔絶された、監視と規律の世界。無期懲役という、いつ出獄できるかもわからない中で、なぜ中川は絶望することなく、模範囚としての日々を送ることができるのだろうか。そのことを問うと、中川は「社会復帰という目標があるからです」と、はっきりとした口調で答えた。「社会復帰」とは、仮釈放で再び塀の外に出ることにほかならない。「(ほかの無期懲役囚は)あまり(仮釈放を)考えないようにしている人が多いんです。でも、私はなんとか希望を持つようにしています」 中川が無期懲役囚となったのは20代で、公判では家族が、仮釈放になれば生活の面倒をみると明言している。40代以降で罪を犯し、家族などからも見放されてしまった無期懲役囚とは「境遇」が大きく異なる。30年以上服役すれば、自分は老人となり、生きているかもわからない。頼れる身寄りなどありはせず、仮釈放など夢のまた夢、と考える無期懲役囚は少なくない。中川は、仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚なのだ。 だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
刑務所内で、中川は「1類」の優遇措置を受けている。社会復帰に向けて努力させるため、服役態度などによって受刑者を1~5類に分け、区分ごとに面会や手紙の回数、所内での集会の参加回数などの幅を広げている。1類はそのトップランクで、岡山刑務所内では約30人と、全受刑者の1割に満たない「獄中エリート」だ。中川は刑務作業での事故や所内でのトラブルがなく、素行のよい「模範囚」ということになる。そのため、面会時間も1時間を許可された。 3畳ほどの独居房に暮らす中川は、刑務所での毎日が「とにかく忙しい」という。日中の刑務作業では、金属加工工場で数値制御装置が付けられた「NC旋盤」の操作を担当している。フロッピーディスクを用いる旧式なコンピュータながら、独学で身につけた関数などの知識を生かし、プログラムを打ち込んで操作する重要な仕事だ。新幹線の部品に用いられる精密加工品を作ることもあるという。 また、受刑者によるクラブ活動では俳句と書道を行い、そこで発表したものは、法務省主催の文芸作品コンクールに欠かさず応募している。そのほか、犯した罪や被害者のこと、日々の反省など3つのテーマを自ら決め、月に1回作文を書くことを課されており、その準備などを入念に行う。もらった手紙の返事も丹念に書き、年に2度、被害者の遺族に刑務作業で得た作業報奨金から、償いとして現金を送っている。通常の消灯時間は午後9時だが、火、木、土は特別に午後10時まで延長を認めてもらい、そうした日々の作業に充てているという。消灯時間の延長が認められるのは、もちろん中川が「1類」の模範囚だからだ。「希望を持つようにしています」 一般社会の生活から隔絶された、監視と規律の世界。無期懲役という、いつ出獄できるかもわからない中で、なぜ中川は絶望することなく、模範囚としての日々を送ることができるのだろうか。そのことを問うと、中川は「社会復帰という目標があるからです」と、はっきりとした口調で答えた。「社会復帰」とは、仮釈放で再び塀の外に出ることにほかならない。「(ほかの無期懲役囚は)あまり(仮釈放を)考えないようにしている人が多いんです。でも、私はなんとか希望を持つようにしています」 中川が無期懲役囚となったのは20代で、公判では家族が、仮釈放になれば生活の面倒をみると明言している。40代以降で罪を犯し、家族などからも見放されてしまった無期懲役囚とは「境遇」が大きく異なる。30年以上服役すれば、自分は老人となり、生きているかもわからない。頼れる身寄りなどありはせず、仮釈放など夢のまた夢、と考える無期懲役囚は少なくない。中川は、仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚なのだ。 だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
3畳ほどの独居房に暮らす中川は、刑務所での毎日が「とにかく忙しい」という。日中の刑務作業では、金属加工工場で数値制御装置が付けられた「NC旋盤」の操作を担当している。フロッピーディスクを用いる旧式なコンピュータながら、独学で身につけた関数などの知識を生かし、プログラムを打ち込んで操作する重要な仕事だ。新幹線の部品に用いられる精密加工品を作ることもあるという。 また、受刑者によるクラブ活動では俳句と書道を行い、そこで発表したものは、法務省主催の文芸作品コンクールに欠かさず応募している。そのほか、犯した罪や被害者のこと、日々の反省など3つのテーマを自ら決め、月に1回作文を書くことを課されており、その準備などを入念に行う。もらった手紙の返事も丹念に書き、年に2度、被害者の遺族に刑務作業で得た作業報奨金から、償いとして現金を送っている。通常の消灯時間は午後9時だが、火、木、土は特別に午後10時まで延長を認めてもらい、そうした日々の作業に充てているという。消灯時間の延長が認められるのは、もちろん中川が「1類」の模範囚だからだ。「希望を持つようにしています」 一般社会の生活から隔絶された、監視と規律の世界。無期懲役という、いつ出獄できるかもわからない中で、なぜ中川は絶望することなく、模範囚としての日々を送ることができるのだろうか。そのことを問うと、中川は「社会復帰という目標があるからです」と、はっきりとした口調で答えた。「社会復帰」とは、仮釈放で再び塀の外に出ることにほかならない。「(ほかの無期懲役囚は)あまり(仮釈放を)考えないようにしている人が多いんです。でも、私はなんとか希望を持つようにしています」 中川が無期懲役囚となったのは20代で、公判では家族が、仮釈放になれば生活の面倒をみると明言している。40代以降で罪を犯し、家族などからも見放されてしまった無期懲役囚とは「境遇」が大きく異なる。30年以上服役すれば、自分は老人となり、生きているかもわからない。頼れる身寄りなどありはせず、仮釈放など夢のまた夢、と考える無期懲役囚は少なくない。中川は、仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚なのだ。 だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
また、受刑者によるクラブ活動では俳句と書道を行い、そこで発表したものは、法務省主催の文芸作品コンクールに欠かさず応募している。そのほか、犯した罪や被害者のこと、日々の反省など3つのテーマを自ら決め、月に1回作文を書くことを課されており、その準備などを入念に行う。もらった手紙の返事も丹念に書き、年に2度、被害者の遺族に刑務作業で得た作業報奨金から、償いとして現金を送っている。通常の消灯時間は午後9時だが、火、木、土は特別に午後10時まで延長を認めてもらい、そうした日々の作業に充てているという。消灯時間の延長が認められるのは、もちろん中川が「1類」の模範囚だからだ。「希望を持つようにしています」 一般社会の生活から隔絶された、監視と規律の世界。無期懲役という、いつ出獄できるかもわからない中で、なぜ中川は絶望することなく、模範囚としての日々を送ることができるのだろうか。そのことを問うと、中川は「社会復帰という目標があるからです」と、はっきりとした口調で答えた。「社会復帰」とは、仮釈放で再び塀の外に出ることにほかならない。「(ほかの無期懲役囚は)あまり(仮釈放を)考えないようにしている人が多いんです。でも、私はなんとか希望を持つようにしています」 中川が無期懲役囚となったのは20代で、公判では家族が、仮釈放になれば生活の面倒をみると明言している。40代以降で罪を犯し、家族などからも見放されてしまった無期懲役囚とは「境遇」が大きく異なる。30年以上服役すれば、自分は老人となり、生きているかもわからない。頼れる身寄りなどありはせず、仮釈放など夢のまた夢、と考える無期懲役囚は少なくない。中川は、仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚なのだ。 だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
一般社会の生活から隔絶された、監視と規律の世界。無期懲役という、いつ出獄できるかもわからない中で、なぜ中川は絶望することなく、模範囚としての日々を送ることができるのだろうか。そのことを問うと、中川は「社会復帰という目標があるからです」と、はっきりとした口調で答えた。「社会復帰」とは、仮釈放で再び塀の外に出ることにほかならない。「(ほかの無期懲役囚は)あまり(仮釈放を)考えないようにしている人が多いんです。でも、私はなんとか希望を持つようにしています」 中川が無期懲役囚となったのは20代で、公判では家族が、仮釈放になれば生活の面倒をみると明言している。40代以降で罪を犯し、家族などからも見放されてしまった無期懲役囚とは「境遇」が大きく異なる。30年以上服役すれば、自分は老人となり、生きているかもわからない。頼れる身寄りなどありはせず、仮釈放など夢のまた夢、と考える無期懲役囚は少なくない。中川は、仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚なのだ。 だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
「(ほかの無期懲役囚は)あまり(仮釈放を)考えないようにしている人が多いんです。でも、私はなんとか希望を持つようにしています」 中川が無期懲役囚となったのは20代で、公判では家族が、仮釈放になれば生活の面倒をみると明言している。40代以降で罪を犯し、家族などからも見放されてしまった無期懲役囚とは「境遇」が大きく異なる。30年以上服役すれば、自分は老人となり、生きているかもわからない。頼れる身寄りなどありはせず、仮釈放など夢のまた夢、と考える無期懲役囚は少なくない。中川は、仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚なのだ。 だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
中川が無期懲役囚となったのは20代で、公判では家族が、仮釈放になれば生活の面倒をみると明言している。40代以降で罪を犯し、家族などからも見放されてしまった無期懲役囚とは「境遇」が大きく異なる。30年以上服役すれば、自分は老人となり、生きているかもわからない。頼れる身寄りなどありはせず、仮釈放など夢のまた夢、と考える無期懲役囚は少なくない。中川は、仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚なのだ。 だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。最初は(仮釈放まで)20年くらいという目標を持っていましたが、それはだんだん長くなってきています。状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」 前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
前向きな姿勢を示す中川だが、それがいかに難しいかもよくわかっているようだった。実際、ここ数年は岡山刑務所から仮釈放になる無期懲役囚はほとんどおらず、昨年は80代の男性が1人だけだった。しかも、男性は重い病気を患っており、仮釈放後にすぐ死亡したという。「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
「(男性の)寿命を考えての、温情的な仮釈放だったと思います。(仮釈放の)審査を受ける人は多いのですが、ほとんど通らないのです」 中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
中川はそう話すと、ひざの上で手にしていた作業帽を握りしめ、やや視線を落とした。半世紀収容されている無期懲役囚も 仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
仮釈放の判断は、改悛の情があって更生の意欲が認められる場合に、地方更生保護委員会が再犯の恐れがないことや社会の感情(被害者の意見含む)などを審理したうえで決定している。仮釈放を申請するのは刑務所長で、無期懲役囚自身が求めることはできない仕組みだ。ただ、こうしたやり方には「取り扱いが不透明」との批判も多く、法務省は09年に運用を見直し、服役期間が30年を超えた段階で仮釈放を許可するかどうかを一律に審理し、その後も10年ごとに必ず審理の機会を与えるようになっている。 30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
30年とされたのは、もちろん05年の改正刑法施行により、有期刑の上限が30年になったことが背景にある。法務当局にとって、無期懲役囚が有期の服役囚よりも早期に仮釈放されてしまう事態は避けたいだろう。 法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
法務省がまとめた資料では、05~14年の10年間で仮釈放を申請した無期懲役囚は209人。一覧表にはそれぞれの年齢、収容期間、罪名、被害者数および死者数などとともに、仮釈放を「許可」「許可しない」という判断結果が記されている。 この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
この表からもはっきりとわかるのは、仮釈放までの期間が長期化している実態だ。05年や06年は「40歳代、(収容期間)21年10月、強盗致死傷、死者1人」「50歳代、24年10月、強盗強姦・同致死、強盗致死傷、死者複数人」といった無期懲役囚に、仮釈放が許可されている。許可された無期懲役囚たちの収容期間は30年に満たないケースが多い。 だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
だが、09年以降は「許可しない」との判断が目立っている。09年からは、30年以上服役している無期懲役囚は自動的に仮釈放の審査にかけられるようになったため、審査の対象が一気に拡大した。そのため、従前では審査の対象にすらのぼらなかった長期服役の無期懲役囚の姿を浮かび上がらせたわけだ。 その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
その09年に審査対象となった無期懲役囚は24人。仮釈放が許可されたのは6人で、収容期間は26年8月、26年10月が2人、30年8月、32年2月、37年1月と並ぶ。収容期間が20年台での仮釈放もあるが、その一方で長期間収容しても仮釈放が不許可となるケースも目立つ。「70歳代、51年3月、強盗致死傷、死者1人」「70歳代、50年8月、殺人、死者複数人」など、半世紀にわたって刑務所生活を強いられている無期懲役囚も少なくない。無期懲役囚の4割以上が60歳以上 こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
こうした傾向は年を追うごとに顕著になっていく。30年を満たさずに仮釈放となるのはほぼ皆無で、被害者が複数になる事件ではそのハードルはさらに上がっている。10年に仮釈放が「不許可」となった70歳代のある無期懲役囚は、収容期間が60年10月に及んでいた。罪名は強盗致死傷と放火で、被害者は3人。死者は「複数人」とあり、2人を殺めたことになる。 収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
収容期間の長期化は、当然ながら無期懲役囚の高齢化という結果に繋がっている。無期懲役囚の年齢構成は、60歳代が25%を占め、さらに50歳代(21・9%)、40歳代(20・4%)と続く。70歳代が15・1%、80歳代以上も3・7%おり、全体の4割以上は60歳以上の高齢者だ。 刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
刑務所にいる期間が長いほど拘禁反応が出やすくなり、収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある。高齢化によって、認知症などのリスクも高まってくる。刑務所内では医療や介護にどう対応するかが喫緊の課題だ。 新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
新たに下獄してくる無期懲役囚は、06年の136人をピークに減少傾向にあるものの、14年も26人にのぼっている。一方で、仮釈放は1ケタ台で推移しているため、服役中の無期懲役囚は年々増加していくことになる。91年には870人だった無期懲役囚の総数は、14年末で1842人。この23年間で、実に千人近くが新たに無期懲役囚となったことになる。法務省は、無期懲役囚が収容される刑務所は全国で9カ所だったのを、横浜、神戸、長野の各刑務所でも収容可とした。 ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
ある元刑務官は「現実的に生きて塀の外に出られる(=仮釈放される)のは、刑務所に入った時の年齢が30歳代の無期懲役囚まで。40歳代以降に無期懲役となった受刑者は、獄死するケースが多い」と話し、無期懲役が「実質的に終身刑になっている」と言い切る。「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と記された刑法28条は、実質的にはすでに形骸化しているのだ。「命の重み」という言葉 仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
仮釈放を目指そうとも、その高いハードルを目の当たりにして、努力を放棄してしまう無期懲役囚は少なくないという。審査の際に、仮釈放後の住居や仕事の確保が対象となっていることも、家族や友人たちから見放されてしまった多くの無期懲役囚にとっては、大きな負担となる。中川は「(仮釈放の)条件は厳しいですし、努力だけではなく運も必要だと思います。大変なだけに、努力する人はそう多くはありません。住むところや働き先を見つけず、被害者の方への謝罪も続けようとしない人は多くいます」と語った上で、自らの「目標」についてはこう述べた。「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
「社会復帰を果たすために、まずは、ここ(刑務所内)で安定した生活を送ることです。そして、自らの罪と被害者の方に向き合う必要があります。ご遺族の方に直接お会いするのは難しいのかもしれませんが、金銭的なことも含めて、一生をかけて償っていかなくてはなりません」 仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
仮釈放の望みを捨てず、獄中で「模範囚」としての日々を送る中川は、何度も「命の重み」という言葉を口にした。とりわけ、昨年8月にくも膜下出血で倒れた経験が、そうした思いを強くしたようだった。「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
「意識がなくなるとき、どこかに吸い込まれるような感じだったんです。だんだん感覚がなくなっていって、けいれんも起き、意識もとぎれとぎれになっていくんです。もう、どうすることもできません。命を神様に返すときが来たんだと思いました。 その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。死刑から無期になり、そして病から生還できたことを噛みしめながら、日々を送っていきたいと思っています」「川崎中1男子生徒殺害事件」をどう思うか? そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
そんな中川に、ある事件について尋ねてみた。2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で起きた、中学1年生の男子生徒が殺害された事件だ。首を切られるなど凄惨な手口に加え、逮捕された3人がいずれも少年だったため、世間に大きな衝撃を与えた。リーダー格の無職少年(19)には懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決が出され、すでに確定している。 この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
この事件を、中川は新聞などを通してよく知っていた。少年時に2人を惨殺した経験を持つ者として、この事件はどう映ったのだろうか。やや戸惑ったような表情を浮かべた中川は、「うーん……」とつぶやきながら、しばらく目を閉じた。そして、言葉を発した。「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
「立ち直りは、本人の自覚でしかないんです。事件を起こしてしまった以上、そこに向き合うしかない。それができなければ反省はあり得ません。厳しいでしょうが、それしかないんです」 自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
自らの犯行を生々しく思い出したのか、穏和な中川の表情が少し引きつったかのように見えた。 面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
面会から約3週間後、中川から一通の手紙が届いた。便箋7枚にわたって、面会のお礼や話しきれなかった最近の様子などが、鉛筆で丁寧に書かれていた。「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
「現在の無期刑は限りなくもう終身刑化していると言っても過言ではないということは、実際に今、務めております私自身が一番よくわかっていることですし、決して楽観をしている訳ではありません。 只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
只、私は人は誰でも変わることが出来るということを信じているのと同じように、人が必死になって努力すれば出来ないことはないということを信じて、今、毎日一日ずつしっかりと努力を積み重ねて頑張っているところです。 まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
まだ道半ばの私ですが、これからもこの与えて頂いております命が燃え尽きるまで、しっかりと頑張って自分の進むべき道を歩んでいきたいと思います」佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
佐藤大介(さとうだいすけ)共同通信記者。1972年北海道生まれ。明治学院大学卒。毎日新聞社会部を経て共同通信社へ。ソウル特派員、特別報道室、経済部等の後、現在、外信部所属。近著に『ドキュメント 死刑に直面する人たち』。2021年5月11日 掲載
2021年5月11日 掲載