【石川 清】「津山三十人殺し」の生き残りが語った、大量殺人鬼・都井睦雄の素顔 真っ先に、祖母を惨殺した理由

今から86年前の1938年5月21日未明、中国地方の山間部にある貝尾集落で悲劇が起こった。性的な関係を持った村の女性たちなどから馬鹿にされて恨みを抱えていた都井睦雄(とい むつお・22)は、斧や猟銃、日本刀で武装し、次々と村人を襲った。すでに3つの世帯を襲撃し10人以上の村人を惨殺した睦雄が、次の家へと迫る…。昨年10月16日の記事を再掲する。
凶行の前半に迫った前編記事はこちら→史上最悪の大量殺人「津山三十人殺し」猟銃と日本刀で村人を襲った男の真実
4軒目に睦雄が襲撃したのは寺井政一家だ。娘の寺井ゆり子(22)は睦雄の同級生で、彼が心から愛した女性とも言われている。しかし、遠方の男性に嫁ぎ村を出ていた。ただ犯行の直前にゆり子は里帰りしており、それが犯行のきっかけになったと言われる。睦雄はゆり子を恨んでいた。
津山事件の犯人である都井睦雄[ウィキメディアコモンズ]

睦雄はゆり子宅に侵入すると、ゆり子の父・政一(60)、弟の貞一(19)、貞一の妻(22)、妹とき(15)、妹はな(12)の5人を銃殺した。5人とも窓や廊下から屋外に逃げようとしているところに銃弾を撃ち込まれていた。
最後に殺された末っ子のはなは、窓から軒下に落ち、助けを求めて右手を前方に伸ばしながら、苦悶の表情で絶命していた。この頃になると、貝尾の住民たちは銃声を聞きつけて、目覚め始めていたようだ。しかしゆり子はなんとか屋外へ逃げ出し隣の寺井茂吉家へ逃げ込んだことで、からくも生き残ることができた。私は彼女に直に会い、3時間ほど当時の話を聞いている。開口一番、ゆり子は次のように私に語った(私は方言を解せないので、長女の方が通訳をしてくれた)。「わたしは誰にも話してないんじゃあ。なさけないで、なさけないで。親が殺されて、兄弟が殺されて…。次々と同級生も殺されたんじゃあ。殺したむっつぁん(睦雄)も同級生じゃった…」ゆり子は嫁ぐ前に、睦雄に襲われたこともあったという。「『(自宅まで)箪笥の片づけに来てくれ』と嘘をつかれて、行ったら押さえられた…みんなに嫌われたのが辛かったんじゃろうな…」この時、ゆり子はなんとか睦雄の毒牙から逃れたという。また睦雄の襲撃からからくも逃れたときの様子について、ゆり子は次のように語っている。「中の間(部屋)から(睦雄は)入ってきたんで、(わたしは)奥の間(部屋)から飛び出た。(睦雄は)夜でも見えていたんじゃあ。本家へ逃げて(その戸を)トントンやったら、本家のおじさん(茂吉)が入れてくれた。畳の下にむしろを敷いて隠れたんじゃあ」この茂吉家が5軒目の被害者となった。ゆり子はこの家の母屋に駆け込んだのだが、茂吉はその後戸締りをしたため、母屋にいた5人は襲撃を免れた。ただ、隣の離れに寝ていた茂吉の父の孝四郎(84)が犠牲になった。Photo by iStock 襲い掛かる睦雄に対して、孝四郎は危険を省みず素手で挑み、銃弾二発を胸部と心臓部に撃ち込まれるまで抵抗し続けたのだ。孝四郎は左手で睦雄の日本刀につかみかかり、その動きを止めたと思われる。遺体に残されていた左手の傷の激しさが、格闘の凄まじさを物語っていた。生前の孝四郎は睦雄の将来を心配し、就労や結婚を勧めて、相談に乗ろうとしていた。睦雄は茂吉家に対しては何の恨みもなく、もともとターゲットではなかった。しかし絶対に許せないゆり子が逃げ込んだことで、凶行はこの家にまで及んだのだ。孝四郎老人の奮闘もあって、母屋の5人は睦雄の襲撃から生き延びることができたのである。睦雄はゆり子の殺害をあきらめ、6軒目の寺井好二宅を襲った。家には寺井好二(22)と母親のトヨ(45)の2人が寝ていたが、睦雄は銃弾で仕留めた。睦雄はトヨに金銭を払って、しばしば性的関係を結んでいたが、彼女は睦雄を捨てて村の分限者(裕福な人)に乗り換えていた。7軒目は寺井千吉家だった。5月は蚕を育てる時期で、母屋には家主の千吉ら5人、養蚕室には手伝いの女たち3人が寝ていた。睦雄は事前にターゲットの居場所をリサーチしたうえで、迷うことなく養蚕室を襲撃した。そこには岸田みさ(19)、丹羽つる代(21)、千吉の息子の内妻である平岩とら(65)の3人が寝ていた。みさは一軒目の被害者であるつきよの娘で、睦雄が夜這いしようとして断られたことがあった。またつる代の兄の卯一は、寺井ゆり子の最初の夫で、ゆり子を愛していた睦雄から見れば恨むべき相手だった。一緒に寝ていたとらは巻き添えになり、3人とも銃弾を撃ち込まれて絶命した。睦雄は続いて母屋に侵入して主人の千吉(85)を見つけて銃口をその首にあてたが、「お前はワシの悪口を言わなかったから堪えてやろう」といい、殺害しなかった。Photo by iStock 30人を殺害した睦雄の最期8軒目は丹羽卯一家だった。卯一は異変を察知して警察へ通報に向かっていたが、家には母親のイト(47)がいた。イトは右太腿と左太腿にそれぞれ銃弾を撃ち込まれ、事件から6時間後に出血多量で苦しみながら死亡した。9軒目は池沢末男家だ。ここには当主の末男(37)とその妻(34)、次男(12)、三男(9)、四男(5)、末男の父(74)、母(74)の7人が寝ていた。睦雄が最も憎んでいたと言われるのが末男の妹・マツ子であり、ここは彼女の実家だった。彼女は睦雄と性的関係を結びながら、裏では彼のことを馬鹿にしていた。そのため事件以前から睦雄に脅されており、身の危険を感じてすでに京都の方へ逃げていたため、事件の難を逃れた。睦雄は就寝していた次男と三男は襲わなかった。しかし、その他の5人には発砲し、末男以外の4人は殺害された。まだ幼いにもかかわらず、四男の小さい体には三発も銃弾を撃ち込み、死体からは肝臓や大小の腸が露出して、酷い死に様だった。この四男に対する過剰な暴力について、詳しいことはわかっていない。末男は竹藪に逃げ込んで、かすり傷ですんだ。10軒目は寺井倉一家だった。倉一(61)は村の分限者で、村の多くの女性と関係を持っていた。このため、睦雄は倉一に対し、並々ならぬ嫉妬や恨みを抱いていた。すでに睦雄の襲撃を予期していたのか、倉一の妻はま(56)は雨戸を急いで閉めて侵入を防いだ。しかし睦雄は屋外からでもかまわず銃弾を撃ち込み、たまたま一発がはまの右腕に命中し、動脈を傷つけた。彼女は出血多量で12時間後に死亡した。倉一は母屋の2階に隠れて無傷で生き残り、その後昭和の後半まで天寿を全うした。倉一宅襲撃後、睦雄は付近の山の方へ逃亡した。そして、その途中でも民家を1軒襲撃している。Photo by iStock 11軒目は隣の坂本の集落にある岡本和夫家だった。岡本家には当主の和夫(51)と妻のみよ(32)が住んでいた。かつて睦雄はみよと性交渉を重ねていたが、それが夫の和夫にばれ、彼は夜も妻を見張るようになった。みよも睦雄に対してつらくあたるようになり、睦雄はこの夫婦に対して恨みをつのらせていた。熟睡していた2人は猟銃の餌食となった。犯行を終えた睦雄は山道を北に逃げ、荒坂峠へ向かった。午前3時過ぎには、逃亡する睦雄の姿が目撃されている。睦雄は開けた場所に出ると鉛筆で遺書をしたためて、自分の所持品を丁寧に地面に整理して並べた。そして、洋服のボタンをはずして、ブローニング銃の銃口を自分の心臓部にあて、足の指でゆっくり引き金をひき自決した。遺書には村人への恨みがつづられていたのは、言うまでもない。最後には「思ふ様にはゆかなかった…もはや夜明けも近づいた。死にましょう」と記されていた。以上が犯行の詳細である。実の祖母を、真っ先に惨殺した理由事件の重要な背景について一点だけ記しておきたい。睦雄の父や祖父にまつわる悲劇である。睦雄の祖父・菊次郎は、貝尾よりかなり奥地の倉見という集落の名主で、山をいくつも有する富豪だった。そして1891(明治24)年2月、祖母のいねが貝尾から菊次郎の元に嫁いできた。一方、睦雄の父は振一郎といい、都井家の跡継ぎ息子だった。彼が生まれたのは1887(明治20)年と言われている。これは祖母のいねが都井家に嫁ぐ前だ。つまりいねは菊次郎の後妻であり、睦雄と血縁関係はなかったのだ。睦雄は1917(大正6)年に生まれたが、その直後から、不幸が次々と都井家を襲った。 1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
しかしゆり子はなんとか屋外へ逃げ出し隣の寺井茂吉家へ逃げ込んだことで、からくも生き残ることができた。私は彼女に直に会い、3時間ほど当時の話を聞いている。開口一番、ゆり子は次のように私に語った(私は方言を解せないので、長女の方が通訳をしてくれた)。「わたしは誰にも話してないんじゃあ。なさけないで、なさけないで。親が殺されて、兄弟が殺されて…。次々と同級生も殺されたんじゃあ。殺したむっつぁん(睦雄)も同級生じゃった…」ゆり子は嫁ぐ前に、睦雄に襲われたこともあったという。「『(自宅まで)箪笥の片づけに来てくれ』と嘘をつかれて、行ったら押さえられた…みんなに嫌われたのが辛かったんじゃろうな…」この時、ゆり子はなんとか睦雄の毒牙から逃れたという。また睦雄の襲撃からからくも逃れたときの様子について、ゆり子は次のように語っている。「中の間(部屋)から(睦雄は)入ってきたんで、(わたしは)奥の間(部屋)から飛び出た。(睦雄は)夜でも見えていたんじゃあ。本家へ逃げて(その戸を)トントンやったら、本家のおじさん(茂吉)が入れてくれた。畳の下にむしろを敷いて隠れたんじゃあ」この茂吉家が5軒目の被害者となった。ゆり子はこの家の母屋に駆け込んだのだが、茂吉はその後戸締りをしたため、母屋にいた5人は襲撃を免れた。ただ、隣の離れに寝ていた茂吉の父の孝四郎(84)が犠牲になった。Photo by iStock 襲い掛かる睦雄に対して、孝四郎は危険を省みず素手で挑み、銃弾二発を胸部と心臓部に撃ち込まれるまで抵抗し続けたのだ。孝四郎は左手で睦雄の日本刀につかみかかり、その動きを止めたと思われる。遺体に残されていた左手の傷の激しさが、格闘の凄まじさを物語っていた。生前の孝四郎は睦雄の将来を心配し、就労や結婚を勧めて、相談に乗ろうとしていた。睦雄は茂吉家に対しては何の恨みもなく、もともとターゲットではなかった。しかし絶対に許せないゆり子が逃げ込んだことで、凶行はこの家にまで及んだのだ。孝四郎老人の奮闘もあって、母屋の5人は睦雄の襲撃から生き延びることができたのである。睦雄はゆり子の殺害をあきらめ、6軒目の寺井好二宅を襲った。家には寺井好二(22)と母親のトヨ(45)の2人が寝ていたが、睦雄は銃弾で仕留めた。睦雄はトヨに金銭を払って、しばしば性的関係を結んでいたが、彼女は睦雄を捨てて村の分限者(裕福な人)に乗り換えていた。7軒目は寺井千吉家だった。5月は蚕を育てる時期で、母屋には家主の千吉ら5人、養蚕室には手伝いの女たち3人が寝ていた。睦雄は事前にターゲットの居場所をリサーチしたうえで、迷うことなく養蚕室を襲撃した。そこには岸田みさ(19)、丹羽つる代(21)、千吉の息子の内妻である平岩とら(65)の3人が寝ていた。みさは一軒目の被害者であるつきよの娘で、睦雄が夜這いしようとして断られたことがあった。またつる代の兄の卯一は、寺井ゆり子の最初の夫で、ゆり子を愛していた睦雄から見れば恨むべき相手だった。一緒に寝ていたとらは巻き添えになり、3人とも銃弾を撃ち込まれて絶命した。睦雄は続いて母屋に侵入して主人の千吉(85)を見つけて銃口をその首にあてたが、「お前はワシの悪口を言わなかったから堪えてやろう」といい、殺害しなかった。Photo by iStock 30人を殺害した睦雄の最期8軒目は丹羽卯一家だった。卯一は異変を察知して警察へ通報に向かっていたが、家には母親のイト(47)がいた。イトは右太腿と左太腿にそれぞれ銃弾を撃ち込まれ、事件から6時間後に出血多量で苦しみながら死亡した。9軒目は池沢末男家だ。ここには当主の末男(37)とその妻(34)、次男(12)、三男(9)、四男(5)、末男の父(74)、母(74)の7人が寝ていた。睦雄が最も憎んでいたと言われるのが末男の妹・マツ子であり、ここは彼女の実家だった。彼女は睦雄と性的関係を結びながら、裏では彼のことを馬鹿にしていた。そのため事件以前から睦雄に脅されており、身の危険を感じてすでに京都の方へ逃げていたため、事件の難を逃れた。睦雄は就寝していた次男と三男は襲わなかった。しかし、その他の5人には発砲し、末男以外の4人は殺害された。まだ幼いにもかかわらず、四男の小さい体には三発も銃弾を撃ち込み、死体からは肝臓や大小の腸が露出して、酷い死に様だった。この四男に対する過剰な暴力について、詳しいことはわかっていない。末男は竹藪に逃げ込んで、かすり傷ですんだ。10軒目は寺井倉一家だった。倉一(61)は村の分限者で、村の多くの女性と関係を持っていた。このため、睦雄は倉一に対し、並々ならぬ嫉妬や恨みを抱いていた。すでに睦雄の襲撃を予期していたのか、倉一の妻はま(56)は雨戸を急いで閉めて侵入を防いだ。しかし睦雄は屋外からでもかまわず銃弾を撃ち込み、たまたま一発がはまの右腕に命中し、動脈を傷つけた。彼女は出血多量で12時間後に死亡した。倉一は母屋の2階に隠れて無傷で生き残り、その後昭和の後半まで天寿を全うした。倉一宅襲撃後、睦雄は付近の山の方へ逃亡した。そして、その途中でも民家を1軒襲撃している。Photo by iStock 11軒目は隣の坂本の集落にある岡本和夫家だった。岡本家には当主の和夫(51)と妻のみよ(32)が住んでいた。かつて睦雄はみよと性交渉を重ねていたが、それが夫の和夫にばれ、彼は夜も妻を見張るようになった。みよも睦雄に対してつらくあたるようになり、睦雄はこの夫婦に対して恨みをつのらせていた。熟睡していた2人は猟銃の餌食となった。犯行を終えた睦雄は山道を北に逃げ、荒坂峠へ向かった。午前3時過ぎには、逃亡する睦雄の姿が目撃されている。睦雄は開けた場所に出ると鉛筆で遺書をしたためて、自分の所持品を丁寧に地面に整理して並べた。そして、洋服のボタンをはずして、ブローニング銃の銃口を自分の心臓部にあて、足の指でゆっくり引き金をひき自決した。遺書には村人への恨みがつづられていたのは、言うまでもない。最後には「思ふ様にはゆかなかった…もはや夜明けも近づいた。死にましょう」と記されていた。以上が犯行の詳細である。実の祖母を、真っ先に惨殺した理由事件の重要な背景について一点だけ記しておきたい。睦雄の父や祖父にまつわる悲劇である。睦雄の祖父・菊次郎は、貝尾よりかなり奥地の倉見という集落の名主で、山をいくつも有する富豪だった。そして1891(明治24)年2月、祖母のいねが貝尾から菊次郎の元に嫁いできた。一方、睦雄の父は振一郎といい、都井家の跡継ぎ息子だった。彼が生まれたのは1887(明治20)年と言われている。これは祖母のいねが都井家に嫁ぐ前だ。つまりいねは菊次郎の後妻であり、睦雄と血縁関係はなかったのだ。睦雄は1917(大正6)年に生まれたが、その直後から、不幸が次々と都井家を襲った。 1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
開口一番、ゆり子は次のように私に語った(私は方言を解せないので、長女の方が通訳をしてくれた)。「わたしは誰にも話してないんじゃあ。なさけないで、なさけないで。親が殺されて、兄弟が殺されて…。次々と同級生も殺されたんじゃあ。殺したむっつぁん(睦雄)も同級生じゃった…」ゆり子は嫁ぐ前に、睦雄に襲われたこともあったという。「『(自宅まで)箪笥の片づけに来てくれ』と嘘をつかれて、行ったら押さえられた…みんなに嫌われたのが辛かったんじゃろうな…」この時、ゆり子はなんとか睦雄の毒牙から逃れたという。また睦雄の襲撃からからくも逃れたときの様子について、ゆり子は次のように語っている。「中の間(部屋)から(睦雄は)入ってきたんで、(わたしは)奥の間(部屋)から飛び出た。(睦雄は)夜でも見えていたんじゃあ。本家へ逃げて(その戸を)トントンやったら、本家のおじさん(茂吉)が入れてくれた。畳の下にむしろを敷いて隠れたんじゃあ」この茂吉家が5軒目の被害者となった。ゆり子はこの家の母屋に駆け込んだのだが、茂吉はその後戸締りをしたため、母屋にいた5人は襲撃を免れた。ただ、隣の離れに寝ていた茂吉の父の孝四郎(84)が犠牲になった。Photo by iStock 襲い掛かる睦雄に対して、孝四郎は危険を省みず素手で挑み、銃弾二発を胸部と心臓部に撃ち込まれるまで抵抗し続けたのだ。孝四郎は左手で睦雄の日本刀につかみかかり、その動きを止めたと思われる。遺体に残されていた左手の傷の激しさが、格闘の凄まじさを物語っていた。生前の孝四郎は睦雄の将来を心配し、就労や結婚を勧めて、相談に乗ろうとしていた。睦雄は茂吉家に対しては何の恨みもなく、もともとターゲットではなかった。しかし絶対に許せないゆり子が逃げ込んだことで、凶行はこの家にまで及んだのだ。孝四郎老人の奮闘もあって、母屋の5人は睦雄の襲撃から生き延びることができたのである。睦雄はゆり子の殺害をあきらめ、6軒目の寺井好二宅を襲った。家には寺井好二(22)と母親のトヨ(45)の2人が寝ていたが、睦雄は銃弾で仕留めた。睦雄はトヨに金銭を払って、しばしば性的関係を結んでいたが、彼女は睦雄を捨てて村の分限者(裕福な人)に乗り換えていた。7軒目は寺井千吉家だった。5月は蚕を育てる時期で、母屋には家主の千吉ら5人、養蚕室には手伝いの女たち3人が寝ていた。睦雄は事前にターゲットの居場所をリサーチしたうえで、迷うことなく養蚕室を襲撃した。そこには岸田みさ(19)、丹羽つる代(21)、千吉の息子の内妻である平岩とら(65)の3人が寝ていた。みさは一軒目の被害者であるつきよの娘で、睦雄が夜這いしようとして断られたことがあった。またつる代の兄の卯一は、寺井ゆり子の最初の夫で、ゆり子を愛していた睦雄から見れば恨むべき相手だった。一緒に寝ていたとらは巻き添えになり、3人とも銃弾を撃ち込まれて絶命した。睦雄は続いて母屋に侵入して主人の千吉(85)を見つけて銃口をその首にあてたが、「お前はワシの悪口を言わなかったから堪えてやろう」といい、殺害しなかった。Photo by iStock 30人を殺害した睦雄の最期8軒目は丹羽卯一家だった。卯一は異変を察知して警察へ通報に向かっていたが、家には母親のイト(47)がいた。イトは右太腿と左太腿にそれぞれ銃弾を撃ち込まれ、事件から6時間後に出血多量で苦しみながら死亡した。9軒目は池沢末男家だ。ここには当主の末男(37)とその妻(34)、次男(12)、三男(9)、四男(5)、末男の父(74)、母(74)の7人が寝ていた。睦雄が最も憎んでいたと言われるのが末男の妹・マツ子であり、ここは彼女の実家だった。彼女は睦雄と性的関係を結びながら、裏では彼のことを馬鹿にしていた。そのため事件以前から睦雄に脅されており、身の危険を感じてすでに京都の方へ逃げていたため、事件の難を逃れた。睦雄は就寝していた次男と三男は襲わなかった。しかし、その他の5人には発砲し、末男以外の4人は殺害された。まだ幼いにもかかわらず、四男の小さい体には三発も銃弾を撃ち込み、死体からは肝臓や大小の腸が露出して、酷い死に様だった。この四男に対する過剰な暴力について、詳しいことはわかっていない。末男は竹藪に逃げ込んで、かすり傷ですんだ。10軒目は寺井倉一家だった。倉一(61)は村の分限者で、村の多くの女性と関係を持っていた。このため、睦雄は倉一に対し、並々ならぬ嫉妬や恨みを抱いていた。すでに睦雄の襲撃を予期していたのか、倉一の妻はま(56)は雨戸を急いで閉めて侵入を防いだ。しかし睦雄は屋外からでもかまわず銃弾を撃ち込み、たまたま一発がはまの右腕に命中し、動脈を傷つけた。彼女は出血多量で12時間後に死亡した。倉一は母屋の2階に隠れて無傷で生き残り、その後昭和の後半まで天寿を全うした。倉一宅襲撃後、睦雄は付近の山の方へ逃亡した。そして、その途中でも民家を1軒襲撃している。Photo by iStock 11軒目は隣の坂本の集落にある岡本和夫家だった。岡本家には当主の和夫(51)と妻のみよ(32)が住んでいた。かつて睦雄はみよと性交渉を重ねていたが、それが夫の和夫にばれ、彼は夜も妻を見張るようになった。みよも睦雄に対してつらくあたるようになり、睦雄はこの夫婦に対して恨みをつのらせていた。熟睡していた2人は猟銃の餌食となった。犯行を終えた睦雄は山道を北に逃げ、荒坂峠へ向かった。午前3時過ぎには、逃亡する睦雄の姿が目撃されている。睦雄は開けた場所に出ると鉛筆で遺書をしたためて、自分の所持品を丁寧に地面に整理して並べた。そして、洋服のボタンをはずして、ブローニング銃の銃口を自分の心臓部にあて、足の指でゆっくり引き金をひき自決した。遺書には村人への恨みがつづられていたのは、言うまでもない。最後には「思ふ様にはゆかなかった…もはや夜明けも近づいた。死にましょう」と記されていた。以上が犯行の詳細である。実の祖母を、真っ先に惨殺した理由事件の重要な背景について一点だけ記しておきたい。睦雄の父や祖父にまつわる悲劇である。睦雄の祖父・菊次郎は、貝尾よりかなり奥地の倉見という集落の名主で、山をいくつも有する富豪だった。そして1891(明治24)年2月、祖母のいねが貝尾から菊次郎の元に嫁いできた。一方、睦雄の父は振一郎といい、都井家の跡継ぎ息子だった。彼が生まれたのは1887(明治20)年と言われている。これは祖母のいねが都井家に嫁ぐ前だ。つまりいねは菊次郎の後妻であり、睦雄と血縁関係はなかったのだ。睦雄は1917(大正6)年に生まれたが、その直後から、不幸が次々と都井家を襲った。 1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
「わたしは誰にも話してないんじゃあ。なさけないで、なさけないで。親が殺されて、兄弟が殺されて…。次々と同級生も殺されたんじゃあ。殺したむっつぁん(睦雄)も同級生じゃった…」
ゆり子は嫁ぐ前に、睦雄に襲われたこともあったという。「『(自宅まで)箪笥の片づけに来てくれ』と嘘をつかれて、行ったら押さえられた…みんなに嫌われたのが辛かったんじゃろうな…」この時、ゆり子はなんとか睦雄の毒牙から逃れたという。また睦雄の襲撃からからくも逃れたときの様子について、ゆり子は次のように語っている。「中の間(部屋)から(睦雄は)入ってきたんで、(わたしは)奥の間(部屋)から飛び出た。(睦雄は)夜でも見えていたんじゃあ。本家へ逃げて(その戸を)トントンやったら、本家のおじさん(茂吉)が入れてくれた。畳の下にむしろを敷いて隠れたんじゃあ」この茂吉家が5軒目の被害者となった。ゆり子はこの家の母屋に駆け込んだのだが、茂吉はその後戸締りをしたため、母屋にいた5人は襲撃を免れた。ただ、隣の離れに寝ていた茂吉の父の孝四郎(84)が犠牲になった。Photo by iStock 襲い掛かる睦雄に対して、孝四郎は危険を省みず素手で挑み、銃弾二発を胸部と心臓部に撃ち込まれるまで抵抗し続けたのだ。孝四郎は左手で睦雄の日本刀につかみかかり、その動きを止めたと思われる。遺体に残されていた左手の傷の激しさが、格闘の凄まじさを物語っていた。生前の孝四郎は睦雄の将来を心配し、就労や結婚を勧めて、相談に乗ろうとしていた。睦雄は茂吉家に対しては何の恨みもなく、もともとターゲットではなかった。しかし絶対に許せないゆり子が逃げ込んだことで、凶行はこの家にまで及んだのだ。孝四郎老人の奮闘もあって、母屋の5人は睦雄の襲撃から生き延びることができたのである。睦雄はゆり子の殺害をあきらめ、6軒目の寺井好二宅を襲った。家には寺井好二(22)と母親のトヨ(45)の2人が寝ていたが、睦雄は銃弾で仕留めた。睦雄はトヨに金銭を払って、しばしば性的関係を結んでいたが、彼女は睦雄を捨てて村の分限者(裕福な人)に乗り換えていた。7軒目は寺井千吉家だった。5月は蚕を育てる時期で、母屋には家主の千吉ら5人、養蚕室には手伝いの女たち3人が寝ていた。睦雄は事前にターゲットの居場所をリサーチしたうえで、迷うことなく養蚕室を襲撃した。そこには岸田みさ(19)、丹羽つる代(21)、千吉の息子の内妻である平岩とら(65)の3人が寝ていた。みさは一軒目の被害者であるつきよの娘で、睦雄が夜這いしようとして断られたことがあった。またつる代の兄の卯一は、寺井ゆり子の最初の夫で、ゆり子を愛していた睦雄から見れば恨むべき相手だった。一緒に寝ていたとらは巻き添えになり、3人とも銃弾を撃ち込まれて絶命した。睦雄は続いて母屋に侵入して主人の千吉(85)を見つけて銃口をその首にあてたが、「お前はワシの悪口を言わなかったから堪えてやろう」といい、殺害しなかった。Photo by iStock 30人を殺害した睦雄の最期8軒目は丹羽卯一家だった。卯一は異変を察知して警察へ通報に向かっていたが、家には母親のイト(47)がいた。イトは右太腿と左太腿にそれぞれ銃弾を撃ち込まれ、事件から6時間後に出血多量で苦しみながら死亡した。9軒目は池沢末男家だ。ここには当主の末男(37)とその妻(34)、次男(12)、三男(9)、四男(5)、末男の父(74)、母(74)の7人が寝ていた。睦雄が最も憎んでいたと言われるのが末男の妹・マツ子であり、ここは彼女の実家だった。彼女は睦雄と性的関係を結びながら、裏では彼のことを馬鹿にしていた。そのため事件以前から睦雄に脅されており、身の危険を感じてすでに京都の方へ逃げていたため、事件の難を逃れた。睦雄は就寝していた次男と三男は襲わなかった。しかし、その他の5人には発砲し、末男以外の4人は殺害された。まだ幼いにもかかわらず、四男の小さい体には三発も銃弾を撃ち込み、死体からは肝臓や大小の腸が露出して、酷い死に様だった。この四男に対する過剰な暴力について、詳しいことはわかっていない。末男は竹藪に逃げ込んで、かすり傷ですんだ。10軒目は寺井倉一家だった。倉一(61)は村の分限者で、村の多くの女性と関係を持っていた。このため、睦雄は倉一に対し、並々ならぬ嫉妬や恨みを抱いていた。すでに睦雄の襲撃を予期していたのか、倉一の妻はま(56)は雨戸を急いで閉めて侵入を防いだ。しかし睦雄は屋外からでもかまわず銃弾を撃ち込み、たまたま一発がはまの右腕に命中し、動脈を傷つけた。彼女は出血多量で12時間後に死亡した。倉一は母屋の2階に隠れて無傷で生き残り、その後昭和の後半まで天寿を全うした。倉一宅襲撃後、睦雄は付近の山の方へ逃亡した。そして、その途中でも民家を1軒襲撃している。Photo by iStock 11軒目は隣の坂本の集落にある岡本和夫家だった。岡本家には当主の和夫(51)と妻のみよ(32)が住んでいた。かつて睦雄はみよと性交渉を重ねていたが、それが夫の和夫にばれ、彼は夜も妻を見張るようになった。みよも睦雄に対してつらくあたるようになり、睦雄はこの夫婦に対して恨みをつのらせていた。熟睡していた2人は猟銃の餌食となった。犯行を終えた睦雄は山道を北に逃げ、荒坂峠へ向かった。午前3時過ぎには、逃亡する睦雄の姿が目撃されている。睦雄は開けた場所に出ると鉛筆で遺書をしたためて、自分の所持品を丁寧に地面に整理して並べた。そして、洋服のボタンをはずして、ブローニング銃の銃口を自分の心臓部にあて、足の指でゆっくり引き金をひき自決した。遺書には村人への恨みがつづられていたのは、言うまでもない。最後には「思ふ様にはゆかなかった…もはや夜明けも近づいた。死にましょう」と記されていた。以上が犯行の詳細である。実の祖母を、真っ先に惨殺した理由事件の重要な背景について一点だけ記しておきたい。睦雄の父や祖父にまつわる悲劇である。睦雄の祖父・菊次郎は、貝尾よりかなり奥地の倉見という集落の名主で、山をいくつも有する富豪だった。そして1891(明治24)年2月、祖母のいねが貝尾から菊次郎の元に嫁いできた。一方、睦雄の父は振一郎といい、都井家の跡継ぎ息子だった。彼が生まれたのは1887(明治20)年と言われている。これは祖母のいねが都井家に嫁ぐ前だ。つまりいねは菊次郎の後妻であり、睦雄と血縁関係はなかったのだ。睦雄は1917(大正6)年に生まれたが、その直後から、不幸が次々と都井家を襲った。 1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
「『(自宅まで)箪笥の片づけに来てくれ』と嘘をつかれて、行ったら押さえられた…みんなに嫌われたのが辛かったんじゃろうな…」
この時、ゆり子はなんとか睦雄の毒牙から逃れたという。また睦雄の襲撃からからくも逃れたときの様子について、ゆり子は次のように語っている。「中の間(部屋)から(睦雄は)入ってきたんで、(わたしは)奥の間(部屋)から飛び出た。(睦雄は)夜でも見えていたんじゃあ。本家へ逃げて(その戸を)トントンやったら、本家のおじさん(茂吉)が入れてくれた。畳の下にむしろを敷いて隠れたんじゃあ」この茂吉家が5軒目の被害者となった。ゆり子はこの家の母屋に駆け込んだのだが、茂吉はその後戸締りをしたため、母屋にいた5人は襲撃を免れた。ただ、隣の離れに寝ていた茂吉の父の孝四郎(84)が犠牲になった。Photo by iStock 襲い掛かる睦雄に対して、孝四郎は危険を省みず素手で挑み、銃弾二発を胸部と心臓部に撃ち込まれるまで抵抗し続けたのだ。孝四郎は左手で睦雄の日本刀につかみかかり、その動きを止めたと思われる。遺体に残されていた左手の傷の激しさが、格闘の凄まじさを物語っていた。生前の孝四郎は睦雄の将来を心配し、就労や結婚を勧めて、相談に乗ろうとしていた。睦雄は茂吉家に対しては何の恨みもなく、もともとターゲットではなかった。しかし絶対に許せないゆり子が逃げ込んだことで、凶行はこの家にまで及んだのだ。孝四郎老人の奮闘もあって、母屋の5人は睦雄の襲撃から生き延びることができたのである。睦雄はゆり子の殺害をあきらめ、6軒目の寺井好二宅を襲った。家には寺井好二(22)と母親のトヨ(45)の2人が寝ていたが、睦雄は銃弾で仕留めた。睦雄はトヨに金銭を払って、しばしば性的関係を結んでいたが、彼女は睦雄を捨てて村の分限者(裕福な人)に乗り換えていた。7軒目は寺井千吉家だった。5月は蚕を育てる時期で、母屋には家主の千吉ら5人、養蚕室には手伝いの女たち3人が寝ていた。睦雄は事前にターゲットの居場所をリサーチしたうえで、迷うことなく養蚕室を襲撃した。そこには岸田みさ(19)、丹羽つる代(21)、千吉の息子の内妻である平岩とら(65)の3人が寝ていた。みさは一軒目の被害者であるつきよの娘で、睦雄が夜這いしようとして断られたことがあった。またつる代の兄の卯一は、寺井ゆり子の最初の夫で、ゆり子を愛していた睦雄から見れば恨むべき相手だった。一緒に寝ていたとらは巻き添えになり、3人とも銃弾を撃ち込まれて絶命した。睦雄は続いて母屋に侵入して主人の千吉(85)を見つけて銃口をその首にあてたが、「お前はワシの悪口を言わなかったから堪えてやろう」といい、殺害しなかった。Photo by iStock 30人を殺害した睦雄の最期8軒目は丹羽卯一家だった。卯一は異変を察知して警察へ通報に向かっていたが、家には母親のイト(47)がいた。イトは右太腿と左太腿にそれぞれ銃弾を撃ち込まれ、事件から6時間後に出血多量で苦しみながら死亡した。9軒目は池沢末男家だ。ここには当主の末男(37)とその妻(34)、次男(12)、三男(9)、四男(5)、末男の父(74)、母(74)の7人が寝ていた。睦雄が最も憎んでいたと言われるのが末男の妹・マツ子であり、ここは彼女の実家だった。彼女は睦雄と性的関係を結びながら、裏では彼のことを馬鹿にしていた。そのため事件以前から睦雄に脅されており、身の危険を感じてすでに京都の方へ逃げていたため、事件の難を逃れた。睦雄は就寝していた次男と三男は襲わなかった。しかし、その他の5人には発砲し、末男以外の4人は殺害された。まだ幼いにもかかわらず、四男の小さい体には三発も銃弾を撃ち込み、死体からは肝臓や大小の腸が露出して、酷い死に様だった。この四男に対する過剰な暴力について、詳しいことはわかっていない。末男は竹藪に逃げ込んで、かすり傷ですんだ。10軒目は寺井倉一家だった。倉一(61)は村の分限者で、村の多くの女性と関係を持っていた。このため、睦雄は倉一に対し、並々ならぬ嫉妬や恨みを抱いていた。すでに睦雄の襲撃を予期していたのか、倉一の妻はま(56)は雨戸を急いで閉めて侵入を防いだ。しかし睦雄は屋外からでもかまわず銃弾を撃ち込み、たまたま一発がはまの右腕に命中し、動脈を傷つけた。彼女は出血多量で12時間後に死亡した。倉一は母屋の2階に隠れて無傷で生き残り、その後昭和の後半まで天寿を全うした。倉一宅襲撃後、睦雄は付近の山の方へ逃亡した。そして、その途中でも民家を1軒襲撃している。Photo by iStock 11軒目は隣の坂本の集落にある岡本和夫家だった。岡本家には当主の和夫(51)と妻のみよ(32)が住んでいた。かつて睦雄はみよと性交渉を重ねていたが、それが夫の和夫にばれ、彼は夜も妻を見張るようになった。みよも睦雄に対してつらくあたるようになり、睦雄はこの夫婦に対して恨みをつのらせていた。熟睡していた2人は猟銃の餌食となった。犯行を終えた睦雄は山道を北に逃げ、荒坂峠へ向かった。午前3時過ぎには、逃亡する睦雄の姿が目撃されている。睦雄は開けた場所に出ると鉛筆で遺書をしたためて、自分の所持品を丁寧に地面に整理して並べた。そして、洋服のボタンをはずして、ブローニング銃の銃口を自分の心臓部にあて、足の指でゆっくり引き金をひき自決した。遺書には村人への恨みがつづられていたのは、言うまでもない。最後には「思ふ様にはゆかなかった…もはや夜明けも近づいた。死にましょう」と記されていた。以上が犯行の詳細である。実の祖母を、真っ先に惨殺した理由事件の重要な背景について一点だけ記しておきたい。睦雄の父や祖父にまつわる悲劇である。睦雄の祖父・菊次郎は、貝尾よりかなり奥地の倉見という集落の名主で、山をいくつも有する富豪だった。そして1891(明治24)年2月、祖母のいねが貝尾から菊次郎の元に嫁いできた。一方、睦雄の父は振一郎といい、都井家の跡継ぎ息子だった。彼が生まれたのは1887(明治20)年と言われている。これは祖母のいねが都井家に嫁ぐ前だ。つまりいねは菊次郎の後妻であり、睦雄と血縁関係はなかったのだ。睦雄は1917(大正6)年に生まれたが、その直後から、不幸が次々と都井家を襲った。 1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
また睦雄の襲撃からからくも逃れたときの様子について、ゆり子は次のように語っている。「中の間(部屋)から(睦雄は)入ってきたんで、(わたしは)奥の間(部屋)から飛び出た。(睦雄は)夜でも見えていたんじゃあ。本家へ逃げて(その戸を)トントンやったら、本家のおじさん(茂吉)が入れてくれた。畳の下にむしろを敷いて隠れたんじゃあ」この茂吉家が5軒目の被害者となった。ゆり子はこの家の母屋に駆け込んだのだが、茂吉はその後戸締りをしたため、母屋にいた5人は襲撃を免れた。ただ、隣の離れに寝ていた茂吉の父の孝四郎(84)が犠牲になった。Photo by iStock 襲い掛かる睦雄に対して、孝四郎は危険を省みず素手で挑み、銃弾二発を胸部と心臓部に撃ち込まれるまで抵抗し続けたのだ。孝四郎は左手で睦雄の日本刀につかみかかり、その動きを止めたと思われる。遺体に残されていた左手の傷の激しさが、格闘の凄まじさを物語っていた。生前の孝四郎は睦雄の将来を心配し、就労や結婚を勧めて、相談に乗ろうとしていた。睦雄は茂吉家に対しては何の恨みもなく、もともとターゲットではなかった。しかし絶対に許せないゆり子が逃げ込んだことで、凶行はこの家にまで及んだのだ。孝四郎老人の奮闘もあって、母屋の5人は睦雄の襲撃から生き延びることができたのである。睦雄はゆり子の殺害をあきらめ、6軒目の寺井好二宅を襲った。家には寺井好二(22)と母親のトヨ(45)の2人が寝ていたが、睦雄は銃弾で仕留めた。睦雄はトヨに金銭を払って、しばしば性的関係を結んでいたが、彼女は睦雄を捨てて村の分限者(裕福な人)に乗り換えていた。7軒目は寺井千吉家だった。5月は蚕を育てる時期で、母屋には家主の千吉ら5人、養蚕室には手伝いの女たち3人が寝ていた。睦雄は事前にターゲットの居場所をリサーチしたうえで、迷うことなく養蚕室を襲撃した。そこには岸田みさ(19)、丹羽つる代(21)、千吉の息子の内妻である平岩とら(65)の3人が寝ていた。みさは一軒目の被害者であるつきよの娘で、睦雄が夜這いしようとして断られたことがあった。またつる代の兄の卯一は、寺井ゆり子の最初の夫で、ゆり子を愛していた睦雄から見れば恨むべき相手だった。一緒に寝ていたとらは巻き添えになり、3人とも銃弾を撃ち込まれて絶命した。睦雄は続いて母屋に侵入して主人の千吉(85)を見つけて銃口をその首にあてたが、「お前はワシの悪口を言わなかったから堪えてやろう」といい、殺害しなかった。Photo by iStock 30人を殺害した睦雄の最期8軒目は丹羽卯一家だった。卯一は異変を察知して警察へ通報に向かっていたが、家には母親のイト(47)がいた。イトは右太腿と左太腿にそれぞれ銃弾を撃ち込まれ、事件から6時間後に出血多量で苦しみながら死亡した。9軒目は池沢末男家だ。ここには当主の末男(37)とその妻(34)、次男(12)、三男(9)、四男(5)、末男の父(74)、母(74)の7人が寝ていた。睦雄が最も憎んでいたと言われるのが末男の妹・マツ子であり、ここは彼女の実家だった。彼女は睦雄と性的関係を結びながら、裏では彼のことを馬鹿にしていた。そのため事件以前から睦雄に脅されており、身の危険を感じてすでに京都の方へ逃げていたため、事件の難を逃れた。睦雄は就寝していた次男と三男は襲わなかった。しかし、その他の5人には発砲し、末男以外の4人は殺害された。まだ幼いにもかかわらず、四男の小さい体には三発も銃弾を撃ち込み、死体からは肝臓や大小の腸が露出して、酷い死に様だった。この四男に対する過剰な暴力について、詳しいことはわかっていない。末男は竹藪に逃げ込んで、かすり傷ですんだ。10軒目は寺井倉一家だった。倉一(61)は村の分限者で、村の多くの女性と関係を持っていた。このため、睦雄は倉一に対し、並々ならぬ嫉妬や恨みを抱いていた。すでに睦雄の襲撃を予期していたのか、倉一の妻はま(56)は雨戸を急いで閉めて侵入を防いだ。しかし睦雄は屋外からでもかまわず銃弾を撃ち込み、たまたま一発がはまの右腕に命中し、動脈を傷つけた。彼女は出血多量で12時間後に死亡した。倉一は母屋の2階に隠れて無傷で生き残り、その後昭和の後半まで天寿を全うした。倉一宅襲撃後、睦雄は付近の山の方へ逃亡した。そして、その途中でも民家を1軒襲撃している。Photo by iStock 11軒目は隣の坂本の集落にある岡本和夫家だった。岡本家には当主の和夫(51)と妻のみよ(32)が住んでいた。かつて睦雄はみよと性交渉を重ねていたが、それが夫の和夫にばれ、彼は夜も妻を見張るようになった。みよも睦雄に対してつらくあたるようになり、睦雄はこの夫婦に対して恨みをつのらせていた。熟睡していた2人は猟銃の餌食となった。犯行を終えた睦雄は山道を北に逃げ、荒坂峠へ向かった。午前3時過ぎには、逃亡する睦雄の姿が目撃されている。睦雄は開けた場所に出ると鉛筆で遺書をしたためて、自分の所持品を丁寧に地面に整理して並べた。そして、洋服のボタンをはずして、ブローニング銃の銃口を自分の心臓部にあて、足の指でゆっくり引き金をひき自決した。遺書には村人への恨みがつづられていたのは、言うまでもない。最後には「思ふ様にはゆかなかった…もはや夜明けも近づいた。死にましょう」と記されていた。以上が犯行の詳細である。実の祖母を、真っ先に惨殺した理由事件の重要な背景について一点だけ記しておきたい。睦雄の父や祖父にまつわる悲劇である。睦雄の祖父・菊次郎は、貝尾よりかなり奥地の倉見という集落の名主で、山をいくつも有する富豪だった。そして1891(明治24)年2月、祖母のいねが貝尾から菊次郎の元に嫁いできた。一方、睦雄の父は振一郎といい、都井家の跡継ぎ息子だった。彼が生まれたのは1887(明治20)年と言われている。これは祖母のいねが都井家に嫁ぐ前だ。つまりいねは菊次郎の後妻であり、睦雄と血縁関係はなかったのだ。睦雄は1917(大正6)年に生まれたが、その直後から、不幸が次々と都井家を襲った。 1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
「中の間(部屋)から(睦雄は)入ってきたんで、(わたしは)奥の間(部屋)から飛び出た。(睦雄は)夜でも見えていたんじゃあ。本家へ逃げて(その戸を)トントンやったら、本家のおじさん(茂吉)が入れてくれた。畳の下にむしろを敷いて隠れたんじゃあ」
この茂吉家が5軒目の被害者となった。ゆり子はこの家の母屋に駆け込んだのだが、茂吉はその後戸締りをしたため、母屋にいた5人は襲撃を免れた。ただ、隣の離れに寝ていた茂吉の父の孝四郎(84)が犠牲になった。Photo by iStock 襲い掛かる睦雄に対して、孝四郎は危険を省みず素手で挑み、銃弾二発を胸部と心臓部に撃ち込まれるまで抵抗し続けたのだ。孝四郎は左手で睦雄の日本刀につかみかかり、その動きを止めたと思われる。遺体に残されていた左手の傷の激しさが、格闘の凄まじさを物語っていた。生前の孝四郎は睦雄の将来を心配し、就労や結婚を勧めて、相談に乗ろうとしていた。睦雄は茂吉家に対しては何の恨みもなく、もともとターゲットではなかった。しかし絶対に許せないゆり子が逃げ込んだことで、凶行はこの家にまで及んだのだ。孝四郎老人の奮闘もあって、母屋の5人は睦雄の襲撃から生き延びることができたのである。睦雄はゆり子の殺害をあきらめ、6軒目の寺井好二宅を襲った。家には寺井好二(22)と母親のトヨ(45)の2人が寝ていたが、睦雄は銃弾で仕留めた。睦雄はトヨに金銭を払って、しばしば性的関係を結んでいたが、彼女は睦雄を捨てて村の分限者(裕福な人)に乗り換えていた。7軒目は寺井千吉家だった。5月は蚕を育てる時期で、母屋には家主の千吉ら5人、養蚕室には手伝いの女たち3人が寝ていた。睦雄は事前にターゲットの居場所をリサーチしたうえで、迷うことなく養蚕室を襲撃した。そこには岸田みさ(19)、丹羽つる代(21)、千吉の息子の内妻である平岩とら(65)の3人が寝ていた。みさは一軒目の被害者であるつきよの娘で、睦雄が夜這いしようとして断られたことがあった。またつる代の兄の卯一は、寺井ゆり子の最初の夫で、ゆり子を愛していた睦雄から見れば恨むべき相手だった。一緒に寝ていたとらは巻き添えになり、3人とも銃弾を撃ち込まれて絶命した。睦雄は続いて母屋に侵入して主人の千吉(85)を見つけて銃口をその首にあてたが、「お前はワシの悪口を言わなかったから堪えてやろう」といい、殺害しなかった。Photo by iStock 30人を殺害した睦雄の最期8軒目は丹羽卯一家だった。卯一は異変を察知して警察へ通報に向かっていたが、家には母親のイト(47)がいた。イトは右太腿と左太腿にそれぞれ銃弾を撃ち込まれ、事件から6時間後に出血多量で苦しみながら死亡した。9軒目は池沢末男家だ。ここには当主の末男(37)とその妻(34)、次男(12)、三男(9)、四男(5)、末男の父(74)、母(74)の7人が寝ていた。睦雄が最も憎んでいたと言われるのが末男の妹・マツ子であり、ここは彼女の実家だった。彼女は睦雄と性的関係を結びながら、裏では彼のことを馬鹿にしていた。そのため事件以前から睦雄に脅されており、身の危険を感じてすでに京都の方へ逃げていたため、事件の難を逃れた。睦雄は就寝していた次男と三男は襲わなかった。しかし、その他の5人には発砲し、末男以外の4人は殺害された。まだ幼いにもかかわらず、四男の小さい体には三発も銃弾を撃ち込み、死体からは肝臓や大小の腸が露出して、酷い死に様だった。この四男に対する過剰な暴力について、詳しいことはわかっていない。末男は竹藪に逃げ込んで、かすり傷ですんだ。10軒目は寺井倉一家だった。倉一(61)は村の分限者で、村の多くの女性と関係を持っていた。このため、睦雄は倉一に対し、並々ならぬ嫉妬や恨みを抱いていた。すでに睦雄の襲撃を予期していたのか、倉一の妻はま(56)は雨戸を急いで閉めて侵入を防いだ。しかし睦雄は屋外からでもかまわず銃弾を撃ち込み、たまたま一発がはまの右腕に命中し、動脈を傷つけた。彼女は出血多量で12時間後に死亡した。倉一は母屋の2階に隠れて無傷で生き残り、その後昭和の後半まで天寿を全うした。倉一宅襲撃後、睦雄は付近の山の方へ逃亡した。そして、その途中でも民家を1軒襲撃している。Photo by iStock 11軒目は隣の坂本の集落にある岡本和夫家だった。岡本家には当主の和夫(51)と妻のみよ(32)が住んでいた。かつて睦雄はみよと性交渉を重ねていたが、それが夫の和夫にばれ、彼は夜も妻を見張るようになった。みよも睦雄に対してつらくあたるようになり、睦雄はこの夫婦に対して恨みをつのらせていた。熟睡していた2人は猟銃の餌食となった。犯行を終えた睦雄は山道を北に逃げ、荒坂峠へ向かった。午前3時過ぎには、逃亡する睦雄の姿が目撃されている。睦雄は開けた場所に出ると鉛筆で遺書をしたためて、自分の所持品を丁寧に地面に整理して並べた。そして、洋服のボタンをはずして、ブローニング銃の銃口を自分の心臓部にあて、足の指でゆっくり引き金をひき自決した。遺書には村人への恨みがつづられていたのは、言うまでもない。最後には「思ふ様にはゆかなかった…もはや夜明けも近づいた。死にましょう」と記されていた。以上が犯行の詳細である。実の祖母を、真っ先に惨殺した理由事件の重要な背景について一点だけ記しておきたい。睦雄の父や祖父にまつわる悲劇である。睦雄の祖父・菊次郎は、貝尾よりかなり奥地の倉見という集落の名主で、山をいくつも有する富豪だった。そして1891(明治24)年2月、祖母のいねが貝尾から菊次郎の元に嫁いできた。一方、睦雄の父は振一郎といい、都井家の跡継ぎ息子だった。彼が生まれたのは1887(明治20)年と言われている。これは祖母のいねが都井家に嫁ぐ前だ。つまりいねは菊次郎の後妻であり、睦雄と血縁関係はなかったのだ。睦雄は1917(大正6)年に生まれたが、その直後から、不幸が次々と都井家を襲った。 1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
Photo by iStock 襲い掛かる睦雄に対して、孝四郎は危険を省みず素手で挑み、銃弾二発を胸部と心臓部に撃ち込まれるまで抵抗し続けたのだ。孝四郎は左手で睦雄の日本刀につかみかかり、その動きを止めたと思われる。遺体に残されていた左手の傷の激しさが、格闘の凄まじさを物語っていた。生前の孝四郎は睦雄の将来を心配し、就労や結婚を勧めて、相談に乗ろうとしていた。睦雄は茂吉家に対しては何の恨みもなく、もともとターゲットではなかった。しかし絶対に許せないゆり子が逃げ込んだことで、凶行はこの家にまで及んだのだ。孝四郎老人の奮闘もあって、母屋の5人は睦雄の襲撃から生き延びることができたのである。睦雄はゆり子の殺害をあきらめ、6軒目の寺井好二宅を襲った。家には寺井好二(22)と母親のトヨ(45)の2人が寝ていたが、睦雄は銃弾で仕留めた。睦雄はトヨに金銭を払って、しばしば性的関係を結んでいたが、彼女は睦雄を捨てて村の分限者(裕福な人)に乗り換えていた。7軒目は寺井千吉家だった。5月は蚕を育てる時期で、母屋には家主の千吉ら5人、養蚕室には手伝いの女たち3人が寝ていた。睦雄は事前にターゲットの居場所をリサーチしたうえで、迷うことなく養蚕室を襲撃した。そこには岸田みさ(19)、丹羽つる代(21)、千吉の息子の内妻である平岩とら(65)の3人が寝ていた。みさは一軒目の被害者であるつきよの娘で、睦雄が夜這いしようとして断られたことがあった。またつる代の兄の卯一は、寺井ゆり子の最初の夫で、ゆり子を愛していた睦雄から見れば恨むべき相手だった。一緒に寝ていたとらは巻き添えになり、3人とも銃弾を撃ち込まれて絶命した。睦雄は続いて母屋に侵入して主人の千吉(85)を見つけて銃口をその首にあてたが、「お前はワシの悪口を言わなかったから堪えてやろう」といい、殺害しなかった。Photo by iStock 30人を殺害した睦雄の最期8軒目は丹羽卯一家だった。卯一は異変を察知して警察へ通報に向かっていたが、家には母親のイト(47)がいた。イトは右太腿と左太腿にそれぞれ銃弾を撃ち込まれ、事件から6時間後に出血多量で苦しみながら死亡した。9軒目は池沢末男家だ。ここには当主の末男(37)とその妻(34)、次男(12)、三男(9)、四男(5)、末男の父(74)、母(74)の7人が寝ていた。睦雄が最も憎んでいたと言われるのが末男の妹・マツ子であり、ここは彼女の実家だった。彼女は睦雄と性的関係を結びながら、裏では彼のことを馬鹿にしていた。そのため事件以前から睦雄に脅されており、身の危険を感じてすでに京都の方へ逃げていたため、事件の難を逃れた。睦雄は就寝していた次男と三男は襲わなかった。しかし、その他の5人には発砲し、末男以外の4人は殺害された。まだ幼いにもかかわらず、四男の小さい体には三発も銃弾を撃ち込み、死体からは肝臓や大小の腸が露出して、酷い死に様だった。この四男に対する過剰な暴力について、詳しいことはわかっていない。末男は竹藪に逃げ込んで、かすり傷ですんだ。10軒目は寺井倉一家だった。倉一(61)は村の分限者で、村の多くの女性と関係を持っていた。このため、睦雄は倉一に対し、並々ならぬ嫉妬や恨みを抱いていた。すでに睦雄の襲撃を予期していたのか、倉一の妻はま(56)は雨戸を急いで閉めて侵入を防いだ。しかし睦雄は屋外からでもかまわず銃弾を撃ち込み、たまたま一発がはまの右腕に命中し、動脈を傷つけた。彼女は出血多量で12時間後に死亡した。倉一は母屋の2階に隠れて無傷で生き残り、その後昭和の後半まで天寿を全うした。倉一宅襲撃後、睦雄は付近の山の方へ逃亡した。そして、その途中でも民家を1軒襲撃している。Photo by iStock 11軒目は隣の坂本の集落にある岡本和夫家だった。岡本家には当主の和夫(51)と妻のみよ(32)が住んでいた。かつて睦雄はみよと性交渉を重ねていたが、それが夫の和夫にばれ、彼は夜も妻を見張るようになった。みよも睦雄に対してつらくあたるようになり、睦雄はこの夫婦に対して恨みをつのらせていた。熟睡していた2人は猟銃の餌食となった。犯行を終えた睦雄は山道を北に逃げ、荒坂峠へ向かった。午前3時過ぎには、逃亡する睦雄の姿が目撃されている。睦雄は開けた場所に出ると鉛筆で遺書をしたためて、自分の所持品を丁寧に地面に整理して並べた。そして、洋服のボタンをはずして、ブローニング銃の銃口を自分の心臓部にあて、足の指でゆっくり引き金をひき自決した。遺書には村人への恨みがつづられていたのは、言うまでもない。最後には「思ふ様にはゆかなかった…もはや夜明けも近づいた。死にましょう」と記されていた。以上が犯行の詳細である。実の祖母を、真っ先に惨殺した理由事件の重要な背景について一点だけ記しておきたい。睦雄の父や祖父にまつわる悲劇である。睦雄の祖父・菊次郎は、貝尾よりかなり奥地の倉見という集落の名主で、山をいくつも有する富豪だった。そして1891(明治24)年2月、祖母のいねが貝尾から菊次郎の元に嫁いできた。一方、睦雄の父は振一郎といい、都井家の跡継ぎ息子だった。彼が生まれたのは1887(明治20)年と言われている。これは祖母のいねが都井家に嫁ぐ前だ。つまりいねは菊次郎の後妻であり、睦雄と血縁関係はなかったのだ。睦雄は1917(大正6)年に生まれたが、その直後から、不幸が次々と都井家を襲った。 1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
襲い掛かる睦雄に対して、孝四郎は危険を省みず素手で挑み、銃弾二発を胸部と心臓部に撃ち込まれるまで抵抗し続けたのだ。孝四郎は左手で睦雄の日本刀につかみかかり、その動きを止めたと思われる。遺体に残されていた左手の傷の激しさが、格闘の凄まじさを物語っていた。生前の孝四郎は睦雄の将来を心配し、就労や結婚を勧めて、相談に乗ろうとしていた。睦雄は茂吉家に対しては何の恨みもなく、もともとターゲットではなかった。しかし絶対に許せないゆり子が逃げ込んだことで、凶行はこの家にまで及んだのだ。孝四郎老人の奮闘もあって、母屋の5人は睦雄の襲撃から生き延びることができたのである。睦雄はゆり子の殺害をあきらめ、6軒目の寺井好二宅を襲った。家には寺井好二(22)と母親のトヨ(45)の2人が寝ていたが、睦雄は銃弾で仕留めた。睦雄はトヨに金銭を払って、しばしば性的関係を結んでいたが、彼女は睦雄を捨てて村の分限者(裕福な人)に乗り換えていた。7軒目は寺井千吉家だった。5月は蚕を育てる時期で、母屋には家主の千吉ら5人、養蚕室には手伝いの女たち3人が寝ていた。睦雄は事前にターゲットの居場所をリサーチしたうえで、迷うことなく養蚕室を襲撃した。そこには岸田みさ(19)、丹羽つる代(21)、千吉の息子の内妻である平岩とら(65)の3人が寝ていた。みさは一軒目の被害者であるつきよの娘で、睦雄が夜這いしようとして断られたことがあった。またつる代の兄の卯一は、寺井ゆり子の最初の夫で、ゆり子を愛していた睦雄から見れば恨むべき相手だった。一緒に寝ていたとらは巻き添えになり、3人とも銃弾を撃ち込まれて絶命した。睦雄は続いて母屋に侵入して主人の千吉(85)を見つけて銃口をその首にあてたが、「お前はワシの悪口を言わなかったから堪えてやろう」といい、殺害しなかった。Photo by iStock 30人を殺害した睦雄の最期8軒目は丹羽卯一家だった。卯一は異変を察知して警察へ通報に向かっていたが、家には母親のイト(47)がいた。イトは右太腿と左太腿にそれぞれ銃弾を撃ち込まれ、事件から6時間後に出血多量で苦しみながら死亡した。9軒目は池沢末男家だ。ここには当主の末男(37)とその妻(34)、次男(12)、三男(9)、四男(5)、末男の父(74)、母(74)の7人が寝ていた。睦雄が最も憎んでいたと言われるのが末男の妹・マツ子であり、ここは彼女の実家だった。彼女は睦雄と性的関係を結びながら、裏では彼のことを馬鹿にしていた。そのため事件以前から睦雄に脅されており、身の危険を感じてすでに京都の方へ逃げていたため、事件の難を逃れた。睦雄は就寝していた次男と三男は襲わなかった。しかし、その他の5人には発砲し、末男以外の4人は殺害された。まだ幼いにもかかわらず、四男の小さい体には三発も銃弾を撃ち込み、死体からは肝臓や大小の腸が露出して、酷い死に様だった。この四男に対する過剰な暴力について、詳しいことはわかっていない。末男は竹藪に逃げ込んで、かすり傷ですんだ。10軒目は寺井倉一家だった。倉一(61)は村の分限者で、村の多くの女性と関係を持っていた。このため、睦雄は倉一に対し、並々ならぬ嫉妬や恨みを抱いていた。すでに睦雄の襲撃を予期していたのか、倉一の妻はま(56)は雨戸を急いで閉めて侵入を防いだ。しかし睦雄は屋外からでもかまわず銃弾を撃ち込み、たまたま一発がはまの右腕に命中し、動脈を傷つけた。彼女は出血多量で12時間後に死亡した。倉一は母屋の2階に隠れて無傷で生き残り、その後昭和の後半まで天寿を全うした。倉一宅襲撃後、睦雄は付近の山の方へ逃亡した。そして、その途中でも民家を1軒襲撃している。Photo by iStock 11軒目は隣の坂本の集落にある岡本和夫家だった。岡本家には当主の和夫(51)と妻のみよ(32)が住んでいた。かつて睦雄はみよと性交渉を重ねていたが、それが夫の和夫にばれ、彼は夜も妻を見張るようになった。みよも睦雄に対してつらくあたるようになり、睦雄はこの夫婦に対して恨みをつのらせていた。熟睡していた2人は猟銃の餌食となった。犯行を終えた睦雄は山道を北に逃げ、荒坂峠へ向かった。午前3時過ぎには、逃亡する睦雄の姿が目撃されている。睦雄は開けた場所に出ると鉛筆で遺書をしたためて、自分の所持品を丁寧に地面に整理して並べた。そして、洋服のボタンをはずして、ブローニング銃の銃口を自分の心臓部にあて、足の指でゆっくり引き金をひき自決した。遺書には村人への恨みがつづられていたのは、言うまでもない。最後には「思ふ様にはゆかなかった…もはや夜明けも近づいた。死にましょう」と記されていた。以上が犯行の詳細である。実の祖母を、真っ先に惨殺した理由事件の重要な背景について一点だけ記しておきたい。睦雄の父や祖父にまつわる悲劇である。睦雄の祖父・菊次郎は、貝尾よりかなり奥地の倉見という集落の名主で、山をいくつも有する富豪だった。そして1891(明治24)年2月、祖母のいねが貝尾から菊次郎の元に嫁いできた。一方、睦雄の父は振一郎といい、都井家の跡継ぎ息子だった。彼が生まれたのは1887(明治20)年と言われている。これは祖母のいねが都井家に嫁ぐ前だ。つまりいねは菊次郎の後妻であり、睦雄と血縁関係はなかったのだ。睦雄は1917(大正6)年に生まれたが、その直後から、不幸が次々と都井家を襲った。 1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
襲い掛かる睦雄に対して、孝四郎は危険を省みず素手で挑み、銃弾二発を胸部と心臓部に撃ち込まれるまで抵抗し続けたのだ。孝四郎は左手で睦雄の日本刀につかみかかり、その動きを止めたと思われる。遺体に残されていた左手の傷の激しさが、格闘の凄まじさを物語っていた。生前の孝四郎は睦雄の将来を心配し、就労や結婚を勧めて、相談に乗ろうとしていた。睦雄は茂吉家に対しては何の恨みもなく、もともとターゲットではなかった。しかし絶対に許せないゆり子が逃げ込んだことで、凶行はこの家にまで及んだのだ。孝四郎老人の奮闘もあって、母屋の5人は睦雄の襲撃から生き延びることができたのである。睦雄はゆり子の殺害をあきらめ、6軒目の寺井好二宅を襲った。家には寺井好二(22)と母親のトヨ(45)の2人が寝ていたが、睦雄は銃弾で仕留めた。睦雄はトヨに金銭を払って、しばしば性的関係を結んでいたが、彼女は睦雄を捨てて村の分限者(裕福な人)に乗り換えていた。7軒目は寺井千吉家だった。5月は蚕を育てる時期で、母屋には家主の千吉ら5人、養蚕室には手伝いの女たち3人が寝ていた。睦雄は事前にターゲットの居場所をリサーチしたうえで、迷うことなく養蚕室を襲撃した。そこには岸田みさ(19)、丹羽つる代(21)、千吉の息子の内妻である平岩とら(65)の3人が寝ていた。みさは一軒目の被害者であるつきよの娘で、睦雄が夜這いしようとして断られたことがあった。またつる代の兄の卯一は、寺井ゆり子の最初の夫で、ゆり子を愛していた睦雄から見れば恨むべき相手だった。一緒に寝ていたとらは巻き添えになり、3人とも銃弾を撃ち込まれて絶命した。睦雄は続いて母屋に侵入して主人の千吉(85)を見つけて銃口をその首にあてたが、「お前はワシの悪口を言わなかったから堪えてやろう」といい、殺害しなかった。Photo by iStock 30人を殺害した睦雄の最期8軒目は丹羽卯一家だった。卯一は異変を察知して警察へ通報に向かっていたが、家には母親のイト(47)がいた。イトは右太腿と左太腿にそれぞれ銃弾を撃ち込まれ、事件から6時間後に出血多量で苦しみながら死亡した。9軒目は池沢末男家だ。ここには当主の末男(37)とその妻(34)、次男(12)、三男(9)、四男(5)、末男の父(74)、母(74)の7人が寝ていた。睦雄が最も憎んでいたと言われるのが末男の妹・マツ子であり、ここは彼女の実家だった。彼女は睦雄と性的関係を結びながら、裏では彼のことを馬鹿にしていた。そのため事件以前から睦雄に脅されており、身の危険を感じてすでに京都の方へ逃げていたため、事件の難を逃れた。睦雄は就寝していた次男と三男は襲わなかった。しかし、その他の5人には発砲し、末男以外の4人は殺害された。まだ幼いにもかかわらず、四男の小さい体には三発も銃弾を撃ち込み、死体からは肝臓や大小の腸が露出して、酷い死に様だった。この四男に対する過剰な暴力について、詳しいことはわかっていない。末男は竹藪に逃げ込んで、かすり傷ですんだ。10軒目は寺井倉一家だった。倉一(61)は村の分限者で、村の多くの女性と関係を持っていた。このため、睦雄は倉一に対し、並々ならぬ嫉妬や恨みを抱いていた。すでに睦雄の襲撃を予期していたのか、倉一の妻はま(56)は雨戸を急いで閉めて侵入を防いだ。しかし睦雄は屋外からでもかまわず銃弾を撃ち込み、たまたま一発がはまの右腕に命中し、動脈を傷つけた。彼女は出血多量で12時間後に死亡した。倉一は母屋の2階に隠れて無傷で生き残り、その後昭和の後半まで天寿を全うした。倉一宅襲撃後、睦雄は付近の山の方へ逃亡した。そして、その途中でも民家を1軒襲撃している。Photo by iStock 11軒目は隣の坂本の集落にある岡本和夫家だった。岡本家には当主の和夫(51)と妻のみよ(32)が住んでいた。かつて睦雄はみよと性交渉を重ねていたが、それが夫の和夫にばれ、彼は夜も妻を見張るようになった。みよも睦雄に対してつらくあたるようになり、睦雄はこの夫婦に対して恨みをつのらせていた。熟睡していた2人は猟銃の餌食となった。犯行を終えた睦雄は山道を北に逃げ、荒坂峠へ向かった。午前3時過ぎには、逃亡する睦雄の姿が目撃されている。睦雄は開けた場所に出ると鉛筆で遺書をしたためて、自分の所持品を丁寧に地面に整理して並べた。そして、洋服のボタンをはずして、ブローニング銃の銃口を自分の心臓部にあて、足の指でゆっくり引き金をひき自決した。遺書には村人への恨みがつづられていたのは、言うまでもない。最後には「思ふ様にはゆかなかった…もはや夜明けも近づいた。死にましょう」と記されていた。以上が犯行の詳細である。実の祖母を、真っ先に惨殺した理由事件の重要な背景について一点だけ記しておきたい。睦雄の父や祖父にまつわる悲劇である。睦雄の祖父・菊次郎は、貝尾よりかなり奥地の倉見という集落の名主で、山をいくつも有する富豪だった。そして1891(明治24)年2月、祖母のいねが貝尾から菊次郎の元に嫁いできた。一方、睦雄の父は振一郎といい、都井家の跡継ぎ息子だった。彼が生まれたのは1887(明治20)年と言われている。これは祖母のいねが都井家に嫁ぐ前だ。つまりいねは菊次郎の後妻であり、睦雄と血縁関係はなかったのだ。睦雄は1917(大正6)年に生まれたが、その直後から、不幸が次々と都井家を襲った。 1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
生前の孝四郎は睦雄の将来を心配し、就労や結婚を勧めて、相談に乗ろうとしていた。睦雄は茂吉家に対しては何の恨みもなく、もともとターゲットではなかった。しかし絶対に許せないゆり子が逃げ込んだことで、凶行はこの家にまで及んだのだ。孝四郎老人の奮闘もあって、母屋の5人は睦雄の襲撃から生き延びることができたのである。睦雄はゆり子の殺害をあきらめ、6軒目の寺井好二宅を襲った。家には寺井好二(22)と母親のトヨ(45)の2人が寝ていたが、睦雄は銃弾で仕留めた。睦雄はトヨに金銭を払って、しばしば性的関係を結んでいたが、彼女は睦雄を捨てて村の分限者(裕福な人)に乗り換えていた。7軒目は寺井千吉家だった。5月は蚕を育てる時期で、母屋には家主の千吉ら5人、養蚕室には手伝いの女たち3人が寝ていた。睦雄は事前にターゲットの居場所をリサーチしたうえで、迷うことなく養蚕室を襲撃した。そこには岸田みさ(19)、丹羽つる代(21)、千吉の息子の内妻である平岩とら(65)の3人が寝ていた。みさは一軒目の被害者であるつきよの娘で、睦雄が夜這いしようとして断られたことがあった。またつる代の兄の卯一は、寺井ゆり子の最初の夫で、ゆり子を愛していた睦雄から見れば恨むべき相手だった。一緒に寝ていたとらは巻き添えになり、3人とも銃弾を撃ち込まれて絶命した。睦雄は続いて母屋に侵入して主人の千吉(85)を見つけて銃口をその首にあてたが、「お前はワシの悪口を言わなかったから堪えてやろう」といい、殺害しなかった。Photo by iStock 30人を殺害した睦雄の最期8軒目は丹羽卯一家だった。卯一は異変を察知して警察へ通報に向かっていたが、家には母親のイト(47)がいた。イトは右太腿と左太腿にそれぞれ銃弾を撃ち込まれ、事件から6時間後に出血多量で苦しみながら死亡した。9軒目は池沢末男家だ。ここには当主の末男(37)とその妻(34)、次男(12)、三男(9)、四男(5)、末男の父(74)、母(74)の7人が寝ていた。睦雄が最も憎んでいたと言われるのが末男の妹・マツ子であり、ここは彼女の実家だった。彼女は睦雄と性的関係を結びながら、裏では彼のことを馬鹿にしていた。そのため事件以前から睦雄に脅されており、身の危険を感じてすでに京都の方へ逃げていたため、事件の難を逃れた。睦雄は就寝していた次男と三男は襲わなかった。しかし、その他の5人には発砲し、末男以外の4人は殺害された。まだ幼いにもかかわらず、四男の小さい体には三発も銃弾を撃ち込み、死体からは肝臓や大小の腸が露出して、酷い死に様だった。この四男に対する過剰な暴力について、詳しいことはわかっていない。末男は竹藪に逃げ込んで、かすり傷ですんだ。10軒目は寺井倉一家だった。倉一(61)は村の分限者で、村の多くの女性と関係を持っていた。このため、睦雄は倉一に対し、並々ならぬ嫉妬や恨みを抱いていた。すでに睦雄の襲撃を予期していたのか、倉一の妻はま(56)は雨戸を急いで閉めて侵入を防いだ。しかし睦雄は屋外からでもかまわず銃弾を撃ち込み、たまたま一発がはまの右腕に命中し、動脈を傷つけた。彼女は出血多量で12時間後に死亡した。倉一は母屋の2階に隠れて無傷で生き残り、その後昭和の後半まで天寿を全うした。倉一宅襲撃後、睦雄は付近の山の方へ逃亡した。そして、その途中でも民家を1軒襲撃している。Photo by iStock 11軒目は隣の坂本の集落にある岡本和夫家だった。岡本家には当主の和夫(51)と妻のみよ(32)が住んでいた。かつて睦雄はみよと性交渉を重ねていたが、それが夫の和夫にばれ、彼は夜も妻を見張るようになった。みよも睦雄に対してつらくあたるようになり、睦雄はこの夫婦に対して恨みをつのらせていた。熟睡していた2人は猟銃の餌食となった。犯行を終えた睦雄は山道を北に逃げ、荒坂峠へ向かった。午前3時過ぎには、逃亡する睦雄の姿が目撃されている。睦雄は開けた場所に出ると鉛筆で遺書をしたためて、自分の所持品を丁寧に地面に整理して並べた。そして、洋服のボタンをはずして、ブローニング銃の銃口を自分の心臓部にあて、足の指でゆっくり引き金をひき自決した。遺書には村人への恨みがつづられていたのは、言うまでもない。最後には「思ふ様にはゆかなかった…もはや夜明けも近づいた。死にましょう」と記されていた。以上が犯行の詳細である。実の祖母を、真っ先に惨殺した理由事件の重要な背景について一点だけ記しておきたい。睦雄の父や祖父にまつわる悲劇である。睦雄の祖父・菊次郎は、貝尾よりかなり奥地の倉見という集落の名主で、山をいくつも有する富豪だった。そして1891(明治24)年2月、祖母のいねが貝尾から菊次郎の元に嫁いできた。一方、睦雄の父は振一郎といい、都井家の跡継ぎ息子だった。彼が生まれたのは1887(明治20)年と言われている。これは祖母のいねが都井家に嫁ぐ前だ。つまりいねは菊次郎の後妻であり、睦雄と血縁関係はなかったのだ。睦雄は1917(大正6)年に生まれたが、その直後から、不幸が次々と都井家を襲った。 1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
睦雄はゆり子の殺害をあきらめ、6軒目の寺井好二宅を襲った。家には寺井好二(22)と母親のトヨ(45)の2人が寝ていたが、睦雄は銃弾で仕留めた。睦雄はトヨに金銭を払って、しばしば性的関係を結んでいたが、彼女は睦雄を捨てて村の分限者(裕福な人)に乗り換えていた。7軒目は寺井千吉家だった。5月は蚕を育てる時期で、母屋には家主の千吉ら5人、養蚕室には手伝いの女たち3人が寝ていた。睦雄は事前にターゲットの居場所をリサーチしたうえで、迷うことなく養蚕室を襲撃した。そこには岸田みさ(19)、丹羽つる代(21)、千吉の息子の内妻である平岩とら(65)の3人が寝ていた。みさは一軒目の被害者であるつきよの娘で、睦雄が夜這いしようとして断られたことがあった。またつる代の兄の卯一は、寺井ゆり子の最初の夫で、ゆり子を愛していた睦雄から見れば恨むべき相手だった。一緒に寝ていたとらは巻き添えになり、3人とも銃弾を撃ち込まれて絶命した。睦雄は続いて母屋に侵入して主人の千吉(85)を見つけて銃口をその首にあてたが、「お前はワシの悪口を言わなかったから堪えてやろう」といい、殺害しなかった。Photo by iStock 30人を殺害した睦雄の最期8軒目は丹羽卯一家だった。卯一は異変を察知して警察へ通報に向かっていたが、家には母親のイト(47)がいた。イトは右太腿と左太腿にそれぞれ銃弾を撃ち込まれ、事件から6時間後に出血多量で苦しみながら死亡した。9軒目は池沢末男家だ。ここには当主の末男(37)とその妻(34)、次男(12)、三男(9)、四男(5)、末男の父(74)、母(74)の7人が寝ていた。睦雄が最も憎んでいたと言われるのが末男の妹・マツ子であり、ここは彼女の実家だった。彼女は睦雄と性的関係を結びながら、裏では彼のことを馬鹿にしていた。そのため事件以前から睦雄に脅されており、身の危険を感じてすでに京都の方へ逃げていたため、事件の難を逃れた。睦雄は就寝していた次男と三男は襲わなかった。しかし、その他の5人には発砲し、末男以外の4人は殺害された。まだ幼いにもかかわらず、四男の小さい体には三発も銃弾を撃ち込み、死体からは肝臓や大小の腸が露出して、酷い死に様だった。この四男に対する過剰な暴力について、詳しいことはわかっていない。末男は竹藪に逃げ込んで、かすり傷ですんだ。10軒目は寺井倉一家だった。倉一(61)は村の分限者で、村の多くの女性と関係を持っていた。このため、睦雄は倉一に対し、並々ならぬ嫉妬や恨みを抱いていた。すでに睦雄の襲撃を予期していたのか、倉一の妻はま(56)は雨戸を急いで閉めて侵入を防いだ。しかし睦雄は屋外からでもかまわず銃弾を撃ち込み、たまたま一発がはまの右腕に命中し、動脈を傷つけた。彼女は出血多量で12時間後に死亡した。倉一は母屋の2階に隠れて無傷で生き残り、その後昭和の後半まで天寿を全うした。倉一宅襲撃後、睦雄は付近の山の方へ逃亡した。そして、その途中でも民家を1軒襲撃している。Photo by iStock 11軒目は隣の坂本の集落にある岡本和夫家だった。岡本家には当主の和夫(51)と妻のみよ(32)が住んでいた。かつて睦雄はみよと性交渉を重ねていたが、それが夫の和夫にばれ、彼は夜も妻を見張るようになった。みよも睦雄に対してつらくあたるようになり、睦雄はこの夫婦に対して恨みをつのらせていた。熟睡していた2人は猟銃の餌食となった。犯行を終えた睦雄は山道を北に逃げ、荒坂峠へ向かった。午前3時過ぎには、逃亡する睦雄の姿が目撃されている。睦雄は開けた場所に出ると鉛筆で遺書をしたためて、自分の所持品を丁寧に地面に整理して並べた。そして、洋服のボタンをはずして、ブローニング銃の銃口を自分の心臓部にあて、足の指でゆっくり引き金をひき自決した。遺書には村人への恨みがつづられていたのは、言うまでもない。最後には「思ふ様にはゆかなかった…もはや夜明けも近づいた。死にましょう」と記されていた。以上が犯行の詳細である。実の祖母を、真っ先に惨殺した理由事件の重要な背景について一点だけ記しておきたい。睦雄の父や祖父にまつわる悲劇である。睦雄の祖父・菊次郎は、貝尾よりかなり奥地の倉見という集落の名主で、山をいくつも有する富豪だった。そして1891(明治24)年2月、祖母のいねが貝尾から菊次郎の元に嫁いできた。一方、睦雄の父は振一郎といい、都井家の跡継ぎ息子だった。彼が生まれたのは1887(明治20)年と言われている。これは祖母のいねが都井家に嫁ぐ前だ。つまりいねは菊次郎の後妻であり、睦雄と血縁関係はなかったのだ。睦雄は1917(大正6)年に生まれたが、その直後から、不幸が次々と都井家を襲った。 1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
7軒目は寺井千吉家だった。5月は蚕を育てる時期で、母屋には家主の千吉ら5人、養蚕室には手伝いの女たち3人が寝ていた。睦雄は事前にターゲットの居場所をリサーチしたうえで、迷うことなく養蚕室を襲撃した。そこには岸田みさ(19)、丹羽つる代(21)、千吉の息子の内妻である平岩とら(65)の3人が寝ていた。みさは一軒目の被害者であるつきよの娘で、睦雄が夜這いしようとして断られたことがあった。またつる代の兄の卯一は、寺井ゆり子の最初の夫で、ゆり子を愛していた睦雄から見れば恨むべき相手だった。一緒に寝ていたとらは巻き添えになり、3人とも銃弾を撃ち込まれて絶命した。睦雄は続いて母屋に侵入して主人の千吉(85)を見つけて銃口をその首にあてたが、「お前はワシの悪口を言わなかったから堪えてやろう」といい、殺害しなかった。Photo by iStock 30人を殺害した睦雄の最期8軒目は丹羽卯一家だった。卯一は異変を察知して警察へ通報に向かっていたが、家には母親のイト(47)がいた。イトは右太腿と左太腿にそれぞれ銃弾を撃ち込まれ、事件から6時間後に出血多量で苦しみながら死亡した。9軒目は池沢末男家だ。ここには当主の末男(37)とその妻(34)、次男(12)、三男(9)、四男(5)、末男の父(74)、母(74)の7人が寝ていた。睦雄が最も憎んでいたと言われるのが末男の妹・マツ子であり、ここは彼女の実家だった。彼女は睦雄と性的関係を結びながら、裏では彼のことを馬鹿にしていた。そのため事件以前から睦雄に脅されており、身の危険を感じてすでに京都の方へ逃げていたため、事件の難を逃れた。睦雄は就寝していた次男と三男は襲わなかった。しかし、その他の5人には発砲し、末男以外の4人は殺害された。まだ幼いにもかかわらず、四男の小さい体には三発も銃弾を撃ち込み、死体からは肝臓や大小の腸が露出して、酷い死に様だった。この四男に対する過剰な暴力について、詳しいことはわかっていない。末男は竹藪に逃げ込んで、かすり傷ですんだ。10軒目は寺井倉一家だった。倉一(61)は村の分限者で、村の多くの女性と関係を持っていた。このため、睦雄は倉一に対し、並々ならぬ嫉妬や恨みを抱いていた。すでに睦雄の襲撃を予期していたのか、倉一の妻はま(56)は雨戸を急いで閉めて侵入を防いだ。しかし睦雄は屋外からでもかまわず銃弾を撃ち込み、たまたま一発がはまの右腕に命中し、動脈を傷つけた。彼女は出血多量で12時間後に死亡した。倉一は母屋の2階に隠れて無傷で生き残り、その後昭和の後半まで天寿を全うした。倉一宅襲撃後、睦雄は付近の山の方へ逃亡した。そして、その途中でも民家を1軒襲撃している。Photo by iStock 11軒目は隣の坂本の集落にある岡本和夫家だった。岡本家には当主の和夫(51)と妻のみよ(32)が住んでいた。かつて睦雄はみよと性交渉を重ねていたが、それが夫の和夫にばれ、彼は夜も妻を見張るようになった。みよも睦雄に対してつらくあたるようになり、睦雄はこの夫婦に対して恨みをつのらせていた。熟睡していた2人は猟銃の餌食となった。犯行を終えた睦雄は山道を北に逃げ、荒坂峠へ向かった。午前3時過ぎには、逃亡する睦雄の姿が目撃されている。睦雄は開けた場所に出ると鉛筆で遺書をしたためて、自分の所持品を丁寧に地面に整理して並べた。そして、洋服のボタンをはずして、ブローニング銃の銃口を自分の心臓部にあて、足の指でゆっくり引き金をひき自決した。遺書には村人への恨みがつづられていたのは、言うまでもない。最後には「思ふ様にはゆかなかった…もはや夜明けも近づいた。死にましょう」と記されていた。以上が犯行の詳細である。実の祖母を、真っ先に惨殺した理由事件の重要な背景について一点だけ記しておきたい。睦雄の父や祖父にまつわる悲劇である。睦雄の祖父・菊次郎は、貝尾よりかなり奥地の倉見という集落の名主で、山をいくつも有する富豪だった。そして1891(明治24)年2月、祖母のいねが貝尾から菊次郎の元に嫁いできた。一方、睦雄の父は振一郎といい、都井家の跡継ぎ息子だった。彼が生まれたのは1887(明治20)年と言われている。これは祖母のいねが都井家に嫁ぐ前だ。つまりいねは菊次郎の後妻であり、睦雄と血縁関係はなかったのだ。睦雄は1917(大正6)年に生まれたが、その直後から、不幸が次々と都井家を襲った。 1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
そこには岸田みさ(19)、丹羽つる代(21)、千吉の息子の内妻である平岩とら(65)の3人が寝ていた。みさは一軒目の被害者であるつきよの娘で、睦雄が夜這いしようとして断られたことがあった。またつる代の兄の卯一は、寺井ゆり子の最初の夫で、ゆり子を愛していた睦雄から見れば恨むべき相手だった。一緒に寝ていたとらは巻き添えになり、3人とも銃弾を撃ち込まれて絶命した。睦雄は続いて母屋に侵入して主人の千吉(85)を見つけて銃口をその首にあてたが、「お前はワシの悪口を言わなかったから堪えてやろう」といい、殺害しなかった。Photo by iStock 30人を殺害した睦雄の最期8軒目は丹羽卯一家だった。卯一は異変を察知して警察へ通報に向かっていたが、家には母親のイト(47)がいた。イトは右太腿と左太腿にそれぞれ銃弾を撃ち込まれ、事件から6時間後に出血多量で苦しみながら死亡した。9軒目は池沢末男家だ。ここには当主の末男(37)とその妻(34)、次男(12)、三男(9)、四男(5)、末男の父(74)、母(74)の7人が寝ていた。睦雄が最も憎んでいたと言われるのが末男の妹・マツ子であり、ここは彼女の実家だった。彼女は睦雄と性的関係を結びながら、裏では彼のことを馬鹿にしていた。そのため事件以前から睦雄に脅されており、身の危険を感じてすでに京都の方へ逃げていたため、事件の難を逃れた。睦雄は就寝していた次男と三男は襲わなかった。しかし、その他の5人には発砲し、末男以外の4人は殺害された。まだ幼いにもかかわらず、四男の小さい体には三発も銃弾を撃ち込み、死体からは肝臓や大小の腸が露出して、酷い死に様だった。この四男に対する過剰な暴力について、詳しいことはわかっていない。末男は竹藪に逃げ込んで、かすり傷ですんだ。10軒目は寺井倉一家だった。倉一(61)は村の分限者で、村の多くの女性と関係を持っていた。このため、睦雄は倉一に対し、並々ならぬ嫉妬や恨みを抱いていた。すでに睦雄の襲撃を予期していたのか、倉一の妻はま(56)は雨戸を急いで閉めて侵入を防いだ。しかし睦雄は屋外からでもかまわず銃弾を撃ち込み、たまたま一発がはまの右腕に命中し、動脈を傷つけた。彼女は出血多量で12時間後に死亡した。倉一は母屋の2階に隠れて無傷で生き残り、その後昭和の後半まで天寿を全うした。倉一宅襲撃後、睦雄は付近の山の方へ逃亡した。そして、その途中でも民家を1軒襲撃している。Photo by iStock 11軒目は隣の坂本の集落にある岡本和夫家だった。岡本家には当主の和夫(51)と妻のみよ(32)が住んでいた。かつて睦雄はみよと性交渉を重ねていたが、それが夫の和夫にばれ、彼は夜も妻を見張るようになった。みよも睦雄に対してつらくあたるようになり、睦雄はこの夫婦に対して恨みをつのらせていた。熟睡していた2人は猟銃の餌食となった。犯行を終えた睦雄は山道を北に逃げ、荒坂峠へ向かった。午前3時過ぎには、逃亡する睦雄の姿が目撃されている。睦雄は開けた場所に出ると鉛筆で遺書をしたためて、自分の所持品を丁寧に地面に整理して並べた。そして、洋服のボタンをはずして、ブローニング銃の銃口を自分の心臓部にあて、足の指でゆっくり引き金をひき自決した。遺書には村人への恨みがつづられていたのは、言うまでもない。最後には「思ふ様にはゆかなかった…もはや夜明けも近づいた。死にましょう」と記されていた。以上が犯行の詳細である。実の祖母を、真っ先に惨殺した理由事件の重要な背景について一点だけ記しておきたい。睦雄の父や祖父にまつわる悲劇である。睦雄の祖父・菊次郎は、貝尾よりかなり奥地の倉見という集落の名主で、山をいくつも有する富豪だった。そして1891(明治24)年2月、祖母のいねが貝尾から菊次郎の元に嫁いできた。一方、睦雄の父は振一郎といい、都井家の跡継ぎ息子だった。彼が生まれたのは1887(明治20)年と言われている。これは祖母のいねが都井家に嫁ぐ前だ。つまりいねは菊次郎の後妻であり、睦雄と血縁関係はなかったのだ。睦雄は1917(大正6)年に生まれたが、その直後から、不幸が次々と都井家を襲った。 1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
睦雄は続いて母屋に侵入して主人の千吉(85)を見つけて銃口をその首にあてたが、「お前はワシの悪口を言わなかったから堪えてやろう」といい、殺害しなかった。Photo by iStock 30人を殺害した睦雄の最期8軒目は丹羽卯一家だった。卯一は異変を察知して警察へ通報に向かっていたが、家には母親のイト(47)がいた。イトは右太腿と左太腿にそれぞれ銃弾を撃ち込まれ、事件から6時間後に出血多量で苦しみながら死亡した。9軒目は池沢末男家だ。ここには当主の末男(37)とその妻(34)、次男(12)、三男(9)、四男(5)、末男の父(74)、母(74)の7人が寝ていた。睦雄が最も憎んでいたと言われるのが末男の妹・マツ子であり、ここは彼女の実家だった。彼女は睦雄と性的関係を結びながら、裏では彼のことを馬鹿にしていた。そのため事件以前から睦雄に脅されており、身の危険を感じてすでに京都の方へ逃げていたため、事件の難を逃れた。睦雄は就寝していた次男と三男は襲わなかった。しかし、その他の5人には発砲し、末男以外の4人は殺害された。まだ幼いにもかかわらず、四男の小さい体には三発も銃弾を撃ち込み、死体からは肝臓や大小の腸が露出して、酷い死に様だった。この四男に対する過剰な暴力について、詳しいことはわかっていない。末男は竹藪に逃げ込んで、かすり傷ですんだ。10軒目は寺井倉一家だった。倉一(61)は村の分限者で、村の多くの女性と関係を持っていた。このため、睦雄は倉一に対し、並々ならぬ嫉妬や恨みを抱いていた。すでに睦雄の襲撃を予期していたのか、倉一の妻はま(56)は雨戸を急いで閉めて侵入を防いだ。しかし睦雄は屋外からでもかまわず銃弾を撃ち込み、たまたま一発がはまの右腕に命中し、動脈を傷つけた。彼女は出血多量で12時間後に死亡した。倉一は母屋の2階に隠れて無傷で生き残り、その後昭和の後半まで天寿を全うした。倉一宅襲撃後、睦雄は付近の山の方へ逃亡した。そして、その途中でも民家を1軒襲撃している。Photo by iStock 11軒目は隣の坂本の集落にある岡本和夫家だった。岡本家には当主の和夫(51)と妻のみよ(32)が住んでいた。かつて睦雄はみよと性交渉を重ねていたが、それが夫の和夫にばれ、彼は夜も妻を見張るようになった。みよも睦雄に対してつらくあたるようになり、睦雄はこの夫婦に対して恨みをつのらせていた。熟睡していた2人は猟銃の餌食となった。犯行を終えた睦雄は山道を北に逃げ、荒坂峠へ向かった。午前3時過ぎには、逃亡する睦雄の姿が目撃されている。睦雄は開けた場所に出ると鉛筆で遺書をしたためて、自分の所持品を丁寧に地面に整理して並べた。そして、洋服のボタンをはずして、ブローニング銃の銃口を自分の心臓部にあて、足の指でゆっくり引き金をひき自決した。遺書には村人への恨みがつづられていたのは、言うまでもない。最後には「思ふ様にはゆかなかった…もはや夜明けも近づいた。死にましょう」と記されていた。以上が犯行の詳細である。実の祖母を、真っ先に惨殺した理由事件の重要な背景について一点だけ記しておきたい。睦雄の父や祖父にまつわる悲劇である。睦雄の祖父・菊次郎は、貝尾よりかなり奥地の倉見という集落の名主で、山をいくつも有する富豪だった。そして1891(明治24)年2月、祖母のいねが貝尾から菊次郎の元に嫁いできた。一方、睦雄の父は振一郎といい、都井家の跡継ぎ息子だった。彼が生まれたのは1887(明治20)年と言われている。これは祖母のいねが都井家に嫁ぐ前だ。つまりいねは菊次郎の後妻であり、睦雄と血縁関係はなかったのだ。睦雄は1917(大正6)年に生まれたが、その直後から、不幸が次々と都井家を襲った。 1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
Photo by iStock 30人を殺害した睦雄の最期8軒目は丹羽卯一家だった。卯一は異変を察知して警察へ通報に向かっていたが、家には母親のイト(47)がいた。イトは右太腿と左太腿にそれぞれ銃弾を撃ち込まれ、事件から6時間後に出血多量で苦しみながら死亡した。9軒目は池沢末男家だ。ここには当主の末男(37)とその妻(34)、次男(12)、三男(9)、四男(5)、末男の父(74)、母(74)の7人が寝ていた。睦雄が最も憎んでいたと言われるのが末男の妹・マツ子であり、ここは彼女の実家だった。彼女は睦雄と性的関係を結びながら、裏では彼のことを馬鹿にしていた。そのため事件以前から睦雄に脅されており、身の危険を感じてすでに京都の方へ逃げていたため、事件の難を逃れた。睦雄は就寝していた次男と三男は襲わなかった。しかし、その他の5人には発砲し、末男以外の4人は殺害された。まだ幼いにもかかわらず、四男の小さい体には三発も銃弾を撃ち込み、死体からは肝臓や大小の腸が露出して、酷い死に様だった。この四男に対する過剰な暴力について、詳しいことはわかっていない。末男は竹藪に逃げ込んで、かすり傷ですんだ。10軒目は寺井倉一家だった。倉一(61)は村の分限者で、村の多くの女性と関係を持っていた。このため、睦雄は倉一に対し、並々ならぬ嫉妬や恨みを抱いていた。すでに睦雄の襲撃を予期していたのか、倉一の妻はま(56)は雨戸を急いで閉めて侵入を防いだ。しかし睦雄は屋外からでもかまわず銃弾を撃ち込み、たまたま一発がはまの右腕に命中し、動脈を傷つけた。彼女は出血多量で12時間後に死亡した。倉一は母屋の2階に隠れて無傷で生き残り、その後昭和の後半まで天寿を全うした。倉一宅襲撃後、睦雄は付近の山の方へ逃亡した。そして、その途中でも民家を1軒襲撃している。Photo by iStock 11軒目は隣の坂本の集落にある岡本和夫家だった。岡本家には当主の和夫(51)と妻のみよ(32)が住んでいた。かつて睦雄はみよと性交渉を重ねていたが、それが夫の和夫にばれ、彼は夜も妻を見張るようになった。みよも睦雄に対してつらくあたるようになり、睦雄はこの夫婦に対して恨みをつのらせていた。熟睡していた2人は猟銃の餌食となった。犯行を終えた睦雄は山道を北に逃げ、荒坂峠へ向かった。午前3時過ぎには、逃亡する睦雄の姿が目撃されている。睦雄は開けた場所に出ると鉛筆で遺書をしたためて、自分の所持品を丁寧に地面に整理して並べた。そして、洋服のボタンをはずして、ブローニング銃の銃口を自分の心臓部にあて、足の指でゆっくり引き金をひき自決した。遺書には村人への恨みがつづられていたのは、言うまでもない。最後には「思ふ様にはゆかなかった…もはや夜明けも近づいた。死にましょう」と記されていた。以上が犯行の詳細である。実の祖母を、真っ先に惨殺した理由事件の重要な背景について一点だけ記しておきたい。睦雄の父や祖父にまつわる悲劇である。睦雄の祖父・菊次郎は、貝尾よりかなり奥地の倉見という集落の名主で、山をいくつも有する富豪だった。そして1891(明治24)年2月、祖母のいねが貝尾から菊次郎の元に嫁いできた。一方、睦雄の父は振一郎といい、都井家の跡継ぎ息子だった。彼が生まれたのは1887(明治20)年と言われている。これは祖母のいねが都井家に嫁ぐ前だ。つまりいねは菊次郎の後妻であり、睦雄と血縁関係はなかったのだ。睦雄は1917(大正6)年に生まれたが、その直後から、不幸が次々と都井家を襲った。 1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
30人を殺害した睦雄の最期8軒目は丹羽卯一家だった。卯一は異変を察知して警察へ通報に向かっていたが、家には母親のイト(47)がいた。イトは右太腿と左太腿にそれぞれ銃弾を撃ち込まれ、事件から6時間後に出血多量で苦しみながら死亡した。9軒目は池沢末男家だ。ここには当主の末男(37)とその妻(34)、次男(12)、三男(9)、四男(5)、末男の父(74)、母(74)の7人が寝ていた。睦雄が最も憎んでいたと言われるのが末男の妹・マツ子であり、ここは彼女の実家だった。彼女は睦雄と性的関係を結びながら、裏では彼のことを馬鹿にしていた。そのため事件以前から睦雄に脅されており、身の危険を感じてすでに京都の方へ逃げていたため、事件の難を逃れた。睦雄は就寝していた次男と三男は襲わなかった。しかし、その他の5人には発砲し、末男以外の4人は殺害された。まだ幼いにもかかわらず、四男の小さい体には三発も銃弾を撃ち込み、死体からは肝臓や大小の腸が露出して、酷い死に様だった。この四男に対する過剰な暴力について、詳しいことはわかっていない。末男は竹藪に逃げ込んで、かすり傷ですんだ。10軒目は寺井倉一家だった。倉一(61)は村の分限者で、村の多くの女性と関係を持っていた。このため、睦雄は倉一に対し、並々ならぬ嫉妬や恨みを抱いていた。すでに睦雄の襲撃を予期していたのか、倉一の妻はま(56)は雨戸を急いで閉めて侵入を防いだ。しかし睦雄は屋外からでもかまわず銃弾を撃ち込み、たまたま一発がはまの右腕に命中し、動脈を傷つけた。彼女は出血多量で12時間後に死亡した。倉一は母屋の2階に隠れて無傷で生き残り、その後昭和の後半まで天寿を全うした。倉一宅襲撃後、睦雄は付近の山の方へ逃亡した。そして、その途中でも民家を1軒襲撃している。Photo by iStock 11軒目は隣の坂本の集落にある岡本和夫家だった。岡本家には当主の和夫(51)と妻のみよ(32)が住んでいた。かつて睦雄はみよと性交渉を重ねていたが、それが夫の和夫にばれ、彼は夜も妻を見張るようになった。みよも睦雄に対してつらくあたるようになり、睦雄はこの夫婦に対して恨みをつのらせていた。熟睡していた2人は猟銃の餌食となった。犯行を終えた睦雄は山道を北に逃げ、荒坂峠へ向かった。午前3時過ぎには、逃亡する睦雄の姿が目撃されている。睦雄は開けた場所に出ると鉛筆で遺書をしたためて、自分の所持品を丁寧に地面に整理して並べた。そして、洋服のボタンをはずして、ブローニング銃の銃口を自分の心臓部にあて、足の指でゆっくり引き金をひき自決した。遺書には村人への恨みがつづられていたのは、言うまでもない。最後には「思ふ様にはゆかなかった…もはや夜明けも近づいた。死にましょう」と記されていた。以上が犯行の詳細である。実の祖母を、真っ先に惨殺した理由事件の重要な背景について一点だけ記しておきたい。睦雄の父や祖父にまつわる悲劇である。睦雄の祖父・菊次郎は、貝尾よりかなり奥地の倉見という集落の名主で、山をいくつも有する富豪だった。そして1891(明治24)年2月、祖母のいねが貝尾から菊次郎の元に嫁いできた。一方、睦雄の父は振一郎といい、都井家の跡継ぎ息子だった。彼が生まれたのは1887(明治20)年と言われている。これは祖母のいねが都井家に嫁ぐ前だ。つまりいねは菊次郎の後妻であり、睦雄と血縁関係はなかったのだ。睦雄は1917(大正6)年に生まれたが、その直後から、不幸が次々と都井家を襲った。 1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
8軒目は丹羽卯一家だった。卯一は異変を察知して警察へ通報に向かっていたが、家には母親のイト(47)がいた。イトは右太腿と左太腿にそれぞれ銃弾を撃ち込まれ、事件から6時間後に出血多量で苦しみながら死亡した。9軒目は池沢末男家だ。ここには当主の末男(37)とその妻(34)、次男(12)、三男(9)、四男(5)、末男の父(74)、母(74)の7人が寝ていた。睦雄が最も憎んでいたと言われるのが末男の妹・マツ子であり、ここは彼女の実家だった。彼女は睦雄と性的関係を結びながら、裏では彼のことを馬鹿にしていた。そのため事件以前から睦雄に脅されており、身の危険を感じてすでに京都の方へ逃げていたため、事件の難を逃れた。睦雄は就寝していた次男と三男は襲わなかった。しかし、その他の5人には発砲し、末男以外の4人は殺害された。まだ幼いにもかかわらず、四男の小さい体には三発も銃弾を撃ち込み、死体からは肝臓や大小の腸が露出して、酷い死に様だった。この四男に対する過剰な暴力について、詳しいことはわかっていない。末男は竹藪に逃げ込んで、かすり傷ですんだ。10軒目は寺井倉一家だった。倉一(61)は村の分限者で、村の多くの女性と関係を持っていた。このため、睦雄は倉一に対し、並々ならぬ嫉妬や恨みを抱いていた。すでに睦雄の襲撃を予期していたのか、倉一の妻はま(56)は雨戸を急いで閉めて侵入を防いだ。しかし睦雄は屋外からでもかまわず銃弾を撃ち込み、たまたま一発がはまの右腕に命中し、動脈を傷つけた。彼女は出血多量で12時間後に死亡した。倉一は母屋の2階に隠れて無傷で生き残り、その後昭和の後半まで天寿を全うした。倉一宅襲撃後、睦雄は付近の山の方へ逃亡した。そして、その途中でも民家を1軒襲撃している。Photo by iStock 11軒目は隣の坂本の集落にある岡本和夫家だった。岡本家には当主の和夫(51)と妻のみよ(32)が住んでいた。かつて睦雄はみよと性交渉を重ねていたが、それが夫の和夫にばれ、彼は夜も妻を見張るようになった。みよも睦雄に対してつらくあたるようになり、睦雄はこの夫婦に対して恨みをつのらせていた。熟睡していた2人は猟銃の餌食となった。犯行を終えた睦雄は山道を北に逃げ、荒坂峠へ向かった。午前3時過ぎには、逃亡する睦雄の姿が目撃されている。睦雄は開けた場所に出ると鉛筆で遺書をしたためて、自分の所持品を丁寧に地面に整理して並べた。そして、洋服のボタンをはずして、ブローニング銃の銃口を自分の心臓部にあて、足の指でゆっくり引き金をひき自決した。遺書には村人への恨みがつづられていたのは、言うまでもない。最後には「思ふ様にはゆかなかった…もはや夜明けも近づいた。死にましょう」と記されていた。以上が犯行の詳細である。実の祖母を、真っ先に惨殺した理由事件の重要な背景について一点だけ記しておきたい。睦雄の父や祖父にまつわる悲劇である。睦雄の祖父・菊次郎は、貝尾よりかなり奥地の倉見という集落の名主で、山をいくつも有する富豪だった。そして1891(明治24)年2月、祖母のいねが貝尾から菊次郎の元に嫁いできた。一方、睦雄の父は振一郎といい、都井家の跡継ぎ息子だった。彼が生まれたのは1887(明治20)年と言われている。これは祖母のいねが都井家に嫁ぐ前だ。つまりいねは菊次郎の後妻であり、睦雄と血縁関係はなかったのだ。睦雄は1917(大正6)年に生まれたが、その直後から、不幸が次々と都井家を襲った。 1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
9軒目は池沢末男家だ。ここには当主の末男(37)とその妻(34)、次男(12)、三男(9)、四男(5)、末男の父(74)、母(74)の7人が寝ていた。睦雄が最も憎んでいたと言われるのが末男の妹・マツ子であり、ここは彼女の実家だった。彼女は睦雄と性的関係を結びながら、裏では彼のことを馬鹿にしていた。そのため事件以前から睦雄に脅されており、身の危険を感じてすでに京都の方へ逃げていたため、事件の難を逃れた。睦雄は就寝していた次男と三男は襲わなかった。しかし、その他の5人には発砲し、末男以外の4人は殺害された。まだ幼いにもかかわらず、四男の小さい体には三発も銃弾を撃ち込み、死体からは肝臓や大小の腸が露出して、酷い死に様だった。この四男に対する過剰な暴力について、詳しいことはわかっていない。末男は竹藪に逃げ込んで、かすり傷ですんだ。10軒目は寺井倉一家だった。倉一(61)は村の分限者で、村の多くの女性と関係を持っていた。このため、睦雄は倉一に対し、並々ならぬ嫉妬や恨みを抱いていた。すでに睦雄の襲撃を予期していたのか、倉一の妻はま(56)は雨戸を急いで閉めて侵入を防いだ。しかし睦雄は屋外からでもかまわず銃弾を撃ち込み、たまたま一発がはまの右腕に命中し、動脈を傷つけた。彼女は出血多量で12時間後に死亡した。倉一は母屋の2階に隠れて無傷で生き残り、その後昭和の後半まで天寿を全うした。倉一宅襲撃後、睦雄は付近の山の方へ逃亡した。そして、その途中でも民家を1軒襲撃している。Photo by iStock 11軒目は隣の坂本の集落にある岡本和夫家だった。岡本家には当主の和夫(51)と妻のみよ(32)が住んでいた。かつて睦雄はみよと性交渉を重ねていたが、それが夫の和夫にばれ、彼は夜も妻を見張るようになった。みよも睦雄に対してつらくあたるようになり、睦雄はこの夫婦に対して恨みをつのらせていた。熟睡していた2人は猟銃の餌食となった。犯行を終えた睦雄は山道を北に逃げ、荒坂峠へ向かった。午前3時過ぎには、逃亡する睦雄の姿が目撃されている。睦雄は開けた場所に出ると鉛筆で遺書をしたためて、自分の所持品を丁寧に地面に整理して並べた。そして、洋服のボタンをはずして、ブローニング銃の銃口を自分の心臓部にあて、足の指でゆっくり引き金をひき自決した。遺書には村人への恨みがつづられていたのは、言うまでもない。最後には「思ふ様にはゆかなかった…もはや夜明けも近づいた。死にましょう」と記されていた。以上が犯行の詳細である。実の祖母を、真っ先に惨殺した理由事件の重要な背景について一点だけ記しておきたい。睦雄の父や祖父にまつわる悲劇である。睦雄の祖父・菊次郎は、貝尾よりかなり奥地の倉見という集落の名主で、山をいくつも有する富豪だった。そして1891(明治24)年2月、祖母のいねが貝尾から菊次郎の元に嫁いできた。一方、睦雄の父は振一郎といい、都井家の跡継ぎ息子だった。彼が生まれたのは1887(明治20)年と言われている。これは祖母のいねが都井家に嫁ぐ前だ。つまりいねは菊次郎の後妻であり、睦雄と血縁関係はなかったのだ。睦雄は1917(大正6)年に生まれたが、その直後から、不幸が次々と都井家を襲った。 1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
彼女は睦雄と性的関係を結びながら、裏では彼のことを馬鹿にしていた。そのため事件以前から睦雄に脅されており、身の危険を感じてすでに京都の方へ逃げていたため、事件の難を逃れた。睦雄は就寝していた次男と三男は襲わなかった。しかし、その他の5人には発砲し、末男以外の4人は殺害された。まだ幼いにもかかわらず、四男の小さい体には三発も銃弾を撃ち込み、死体からは肝臓や大小の腸が露出して、酷い死に様だった。この四男に対する過剰な暴力について、詳しいことはわかっていない。末男は竹藪に逃げ込んで、かすり傷ですんだ。10軒目は寺井倉一家だった。倉一(61)は村の分限者で、村の多くの女性と関係を持っていた。このため、睦雄は倉一に対し、並々ならぬ嫉妬や恨みを抱いていた。すでに睦雄の襲撃を予期していたのか、倉一の妻はま(56)は雨戸を急いで閉めて侵入を防いだ。しかし睦雄は屋外からでもかまわず銃弾を撃ち込み、たまたま一発がはまの右腕に命中し、動脈を傷つけた。彼女は出血多量で12時間後に死亡した。倉一は母屋の2階に隠れて無傷で生き残り、その後昭和の後半まで天寿を全うした。倉一宅襲撃後、睦雄は付近の山の方へ逃亡した。そして、その途中でも民家を1軒襲撃している。Photo by iStock 11軒目は隣の坂本の集落にある岡本和夫家だった。岡本家には当主の和夫(51)と妻のみよ(32)が住んでいた。かつて睦雄はみよと性交渉を重ねていたが、それが夫の和夫にばれ、彼は夜も妻を見張るようになった。みよも睦雄に対してつらくあたるようになり、睦雄はこの夫婦に対して恨みをつのらせていた。熟睡していた2人は猟銃の餌食となった。犯行を終えた睦雄は山道を北に逃げ、荒坂峠へ向かった。午前3時過ぎには、逃亡する睦雄の姿が目撃されている。睦雄は開けた場所に出ると鉛筆で遺書をしたためて、自分の所持品を丁寧に地面に整理して並べた。そして、洋服のボタンをはずして、ブローニング銃の銃口を自分の心臓部にあて、足の指でゆっくり引き金をひき自決した。遺書には村人への恨みがつづられていたのは、言うまでもない。最後には「思ふ様にはゆかなかった…もはや夜明けも近づいた。死にましょう」と記されていた。以上が犯行の詳細である。実の祖母を、真っ先に惨殺した理由事件の重要な背景について一点だけ記しておきたい。睦雄の父や祖父にまつわる悲劇である。睦雄の祖父・菊次郎は、貝尾よりかなり奥地の倉見という集落の名主で、山をいくつも有する富豪だった。そして1891(明治24)年2月、祖母のいねが貝尾から菊次郎の元に嫁いできた。一方、睦雄の父は振一郎といい、都井家の跡継ぎ息子だった。彼が生まれたのは1887(明治20)年と言われている。これは祖母のいねが都井家に嫁ぐ前だ。つまりいねは菊次郎の後妻であり、睦雄と血縁関係はなかったのだ。睦雄は1917(大正6)年に生まれたが、その直後から、不幸が次々と都井家を襲った。 1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
睦雄は就寝していた次男と三男は襲わなかった。しかし、その他の5人には発砲し、末男以外の4人は殺害された。まだ幼いにもかかわらず、四男の小さい体には三発も銃弾を撃ち込み、死体からは肝臓や大小の腸が露出して、酷い死に様だった。この四男に対する過剰な暴力について、詳しいことはわかっていない。末男は竹藪に逃げ込んで、かすり傷ですんだ。10軒目は寺井倉一家だった。倉一(61)は村の分限者で、村の多くの女性と関係を持っていた。このため、睦雄は倉一に対し、並々ならぬ嫉妬や恨みを抱いていた。すでに睦雄の襲撃を予期していたのか、倉一の妻はま(56)は雨戸を急いで閉めて侵入を防いだ。しかし睦雄は屋外からでもかまわず銃弾を撃ち込み、たまたま一発がはまの右腕に命中し、動脈を傷つけた。彼女は出血多量で12時間後に死亡した。倉一は母屋の2階に隠れて無傷で生き残り、その後昭和の後半まで天寿を全うした。倉一宅襲撃後、睦雄は付近の山の方へ逃亡した。そして、その途中でも民家を1軒襲撃している。Photo by iStock 11軒目は隣の坂本の集落にある岡本和夫家だった。岡本家には当主の和夫(51)と妻のみよ(32)が住んでいた。かつて睦雄はみよと性交渉を重ねていたが、それが夫の和夫にばれ、彼は夜も妻を見張るようになった。みよも睦雄に対してつらくあたるようになり、睦雄はこの夫婦に対して恨みをつのらせていた。熟睡していた2人は猟銃の餌食となった。犯行を終えた睦雄は山道を北に逃げ、荒坂峠へ向かった。午前3時過ぎには、逃亡する睦雄の姿が目撃されている。睦雄は開けた場所に出ると鉛筆で遺書をしたためて、自分の所持品を丁寧に地面に整理して並べた。そして、洋服のボタンをはずして、ブローニング銃の銃口を自分の心臓部にあて、足の指でゆっくり引き金をひき自決した。遺書には村人への恨みがつづられていたのは、言うまでもない。最後には「思ふ様にはゆかなかった…もはや夜明けも近づいた。死にましょう」と記されていた。以上が犯行の詳細である。実の祖母を、真っ先に惨殺した理由事件の重要な背景について一点だけ記しておきたい。睦雄の父や祖父にまつわる悲劇である。睦雄の祖父・菊次郎は、貝尾よりかなり奥地の倉見という集落の名主で、山をいくつも有する富豪だった。そして1891(明治24)年2月、祖母のいねが貝尾から菊次郎の元に嫁いできた。一方、睦雄の父は振一郎といい、都井家の跡継ぎ息子だった。彼が生まれたのは1887(明治20)年と言われている。これは祖母のいねが都井家に嫁ぐ前だ。つまりいねは菊次郎の後妻であり、睦雄と血縁関係はなかったのだ。睦雄は1917(大正6)年に生まれたが、その直後から、不幸が次々と都井家を襲った。 1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
10軒目は寺井倉一家だった。倉一(61)は村の分限者で、村の多くの女性と関係を持っていた。このため、睦雄は倉一に対し、並々ならぬ嫉妬や恨みを抱いていた。すでに睦雄の襲撃を予期していたのか、倉一の妻はま(56)は雨戸を急いで閉めて侵入を防いだ。しかし睦雄は屋外からでもかまわず銃弾を撃ち込み、たまたま一発がはまの右腕に命中し、動脈を傷つけた。彼女は出血多量で12時間後に死亡した。倉一は母屋の2階に隠れて無傷で生き残り、その後昭和の後半まで天寿を全うした。倉一宅襲撃後、睦雄は付近の山の方へ逃亡した。そして、その途中でも民家を1軒襲撃している。Photo by iStock 11軒目は隣の坂本の集落にある岡本和夫家だった。岡本家には当主の和夫(51)と妻のみよ(32)が住んでいた。かつて睦雄はみよと性交渉を重ねていたが、それが夫の和夫にばれ、彼は夜も妻を見張るようになった。みよも睦雄に対してつらくあたるようになり、睦雄はこの夫婦に対して恨みをつのらせていた。熟睡していた2人は猟銃の餌食となった。犯行を終えた睦雄は山道を北に逃げ、荒坂峠へ向かった。午前3時過ぎには、逃亡する睦雄の姿が目撃されている。睦雄は開けた場所に出ると鉛筆で遺書をしたためて、自分の所持品を丁寧に地面に整理して並べた。そして、洋服のボタンをはずして、ブローニング銃の銃口を自分の心臓部にあて、足の指でゆっくり引き金をひき自決した。遺書には村人への恨みがつづられていたのは、言うまでもない。最後には「思ふ様にはゆかなかった…もはや夜明けも近づいた。死にましょう」と記されていた。以上が犯行の詳細である。実の祖母を、真っ先に惨殺した理由事件の重要な背景について一点だけ記しておきたい。睦雄の父や祖父にまつわる悲劇である。睦雄の祖父・菊次郎は、貝尾よりかなり奥地の倉見という集落の名主で、山をいくつも有する富豪だった。そして1891(明治24)年2月、祖母のいねが貝尾から菊次郎の元に嫁いできた。一方、睦雄の父は振一郎といい、都井家の跡継ぎ息子だった。彼が生まれたのは1887(明治20)年と言われている。これは祖母のいねが都井家に嫁ぐ前だ。つまりいねは菊次郎の後妻であり、睦雄と血縁関係はなかったのだ。睦雄は1917(大正6)年に生まれたが、その直後から、不幸が次々と都井家を襲った。 1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
しかし睦雄は屋外からでもかまわず銃弾を撃ち込み、たまたま一発がはまの右腕に命中し、動脈を傷つけた。彼女は出血多量で12時間後に死亡した。倉一は母屋の2階に隠れて無傷で生き残り、その後昭和の後半まで天寿を全うした。倉一宅襲撃後、睦雄は付近の山の方へ逃亡した。そして、その途中でも民家を1軒襲撃している。Photo by iStock 11軒目は隣の坂本の集落にある岡本和夫家だった。岡本家には当主の和夫(51)と妻のみよ(32)が住んでいた。かつて睦雄はみよと性交渉を重ねていたが、それが夫の和夫にばれ、彼は夜も妻を見張るようになった。みよも睦雄に対してつらくあたるようになり、睦雄はこの夫婦に対して恨みをつのらせていた。熟睡していた2人は猟銃の餌食となった。犯行を終えた睦雄は山道を北に逃げ、荒坂峠へ向かった。午前3時過ぎには、逃亡する睦雄の姿が目撃されている。睦雄は開けた場所に出ると鉛筆で遺書をしたためて、自分の所持品を丁寧に地面に整理して並べた。そして、洋服のボタンをはずして、ブローニング銃の銃口を自分の心臓部にあて、足の指でゆっくり引き金をひき自決した。遺書には村人への恨みがつづられていたのは、言うまでもない。最後には「思ふ様にはゆかなかった…もはや夜明けも近づいた。死にましょう」と記されていた。以上が犯行の詳細である。実の祖母を、真っ先に惨殺した理由事件の重要な背景について一点だけ記しておきたい。睦雄の父や祖父にまつわる悲劇である。睦雄の祖父・菊次郎は、貝尾よりかなり奥地の倉見という集落の名主で、山をいくつも有する富豪だった。そして1891(明治24)年2月、祖母のいねが貝尾から菊次郎の元に嫁いできた。一方、睦雄の父は振一郎といい、都井家の跡継ぎ息子だった。彼が生まれたのは1887(明治20)年と言われている。これは祖母のいねが都井家に嫁ぐ前だ。つまりいねは菊次郎の後妻であり、睦雄と血縁関係はなかったのだ。睦雄は1917(大正6)年に生まれたが、その直後から、不幸が次々と都井家を襲った。 1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
倉一宅襲撃後、睦雄は付近の山の方へ逃亡した。そして、その途中でも民家を1軒襲撃している。Photo by iStock 11軒目は隣の坂本の集落にある岡本和夫家だった。岡本家には当主の和夫(51)と妻のみよ(32)が住んでいた。かつて睦雄はみよと性交渉を重ねていたが、それが夫の和夫にばれ、彼は夜も妻を見張るようになった。みよも睦雄に対してつらくあたるようになり、睦雄はこの夫婦に対して恨みをつのらせていた。熟睡していた2人は猟銃の餌食となった。犯行を終えた睦雄は山道を北に逃げ、荒坂峠へ向かった。午前3時過ぎには、逃亡する睦雄の姿が目撃されている。睦雄は開けた場所に出ると鉛筆で遺書をしたためて、自分の所持品を丁寧に地面に整理して並べた。そして、洋服のボタンをはずして、ブローニング銃の銃口を自分の心臓部にあて、足の指でゆっくり引き金をひき自決した。遺書には村人への恨みがつづられていたのは、言うまでもない。最後には「思ふ様にはゆかなかった…もはや夜明けも近づいた。死にましょう」と記されていた。以上が犯行の詳細である。実の祖母を、真っ先に惨殺した理由事件の重要な背景について一点だけ記しておきたい。睦雄の父や祖父にまつわる悲劇である。睦雄の祖父・菊次郎は、貝尾よりかなり奥地の倉見という集落の名主で、山をいくつも有する富豪だった。そして1891(明治24)年2月、祖母のいねが貝尾から菊次郎の元に嫁いできた。一方、睦雄の父は振一郎といい、都井家の跡継ぎ息子だった。彼が生まれたのは1887(明治20)年と言われている。これは祖母のいねが都井家に嫁ぐ前だ。つまりいねは菊次郎の後妻であり、睦雄と血縁関係はなかったのだ。睦雄は1917(大正6)年に生まれたが、その直後から、不幸が次々と都井家を襲った。 1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
Photo by iStock 11軒目は隣の坂本の集落にある岡本和夫家だった。岡本家には当主の和夫(51)と妻のみよ(32)が住んでいた。かつて睦雄はみよと性交渉を重ねていたが、それが夫の和夫にばれ、彼は夜も妻を見張るようになった。みよも睦雄に対してつらくあたるようになり、睦雄はこの夫婦に対して恨みをつのらせていた。熟睡していた2人は猟銃の餌食となった。犯行を終えた睦雄は山道を北に逃げ、荒坂峠へ向かった。午前3時過ぎには、逃亡する睦雄の姿が目撃されている。睦雄は開けた場所に出ると鉛筆で遺書をしたためて、自分の所持品を丁寧に地面に整理して並べた。そして、洋服のボタンをはずして、ブローニング銃の銃口を自分の心臓部にあて、足の指でゆっくり引き金をひき自決した。遺書には村人への恨みがつづられていたのは、言うまでもない。最後には「思ふ様にはゆかなかった…もはや夜明けも近づいた。死にましょう」と記されていた。以上が犯行の詳細である。実の祖母を、真っ先に惨殺した理由事件の重要な背景について一点だけ記しておきたい。睦雄の父や祖父にまつわる悲劇である。睦雄の祖父・菊次郎は、貝尾よりかなり奥地の倉見という集落の名主で、山をいくつも有する富豪だった。そして1891(明治24)年2月、祖母のいねが貝尾から菊次郎の元に嫁いできた。一方、睦雄の父は振一郎といい、都井家の跡継ぎ息子だった。彼が生まれたのは1887(明治20)年と言われている。これは祖母のいねが都井家に嫁ぐ前だ。つまりいねは菊次郎の後妻であり、睦雄と血縁関係はなかったのだ。睦雄は1917(大正6)年に生まれたが、その直後から、不幸が次々と都井家を襲った。 1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
11軒目は隣の坂本の集落にある岡本和夫家だった。岡本家には当主の和夫(51)と妻のみよ(32)が住んでいた。かつて睦雄はみよと性交渉を重ねていたが、それが夫の和夫にばれ、彼は夜も妻を見張るようになった。みよも睦雄に対してつらくあたるようになり、睦雄はこの夫婦に対して恨みをつのらせていた。熟睡していた2人は猟銃の餌食となった。犯行を終えた睦雄は山道を北に逃げ、荒坂峠へ向かった。午前3時過ぎには、逃亡する睦雄の姿が目撃されている。睦雄は開けた場所に出ると鉛筆で遺書をしたためて、自分の所持品を丁寧に地面に整理して並べた。そして、洋服のボタンをはずして、ブローニング銃の銃口を自分の心臓部にあて、足の指でゆっくり引き金をひき自決した。遺書には村人への恨みがつづられていたのは、言うまでもない。最後には「思ふ様にはゆかなかった…もはや夜明けも近づいた。死にましょう」と記されていた。以上が犯行の詳細である。実の祖母を、真っ先に惨殺した理由事件の重要な背景について一点だけ記しておきたい。睦雄の父や祖父にまつわる悲劇である。睦雄の祖父・菊次郎は、貝尾よりかなり奥地の倉見という集落の名主で、山をいくつも有する富豪だった。そして1891(明治24)年2月、祖母のいねが貝尾から菊次郎の元に嫁いできた。一方、睦雄の父は振一郎といい、都井家の跡継ぎ息子だった。彼が生まれたのは1887(明治20)年と言われている。これは祖母のいねが都井家に嫁ぐ前だ。つまりいねは菊次郎の後妻であり、睦雄と血縁関係はなかったのだ。睦雄は1917(大正6)年に生まれたが、その直後から、不幸が次々と都井家を襲った。 1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
11軒目は隣の坂本の集落にある岡本和夫家だった。岡本家には当主の和夫(51)と妻のみよ(32)が住んでいた。かつて睦雄はみよと性交渉を重ねていたが、それが夫の和夫にばれ、彼は夜も妻を見張るようになった。みよも睦雄に対してつらくあたるようになり、睦雄はこの夫婦に対して恨みをつのらせていた。熟睡していた2人は猟銃の餌食となった。犯行を終えた睦雄は山道を北に逃げ、荒坂峠へ向かった。午前3時過ぎには、逃亡する睦雄の姿が目撃されている。睦雄は開けた場所に出ると鉛筆で遺書をしたためて、自分の所持品を丁寧に地面に整理して並べた。そして、洋服のボタンをはずして、ブローニング銃の銃口を自分の心臓部にあて、足の指でゆっくり引き金をひき自決した。遺書には村人への恨みがつづられていたのは、言うまでもない。最後には「思ふ様にはゆかなかった…もはや夜明けも近づいた。死にましょう」と記されていた。以上が犯行の詳細である。実の祖母を、真っ先に惨殺した理由事件の重要な背景について一点だけ記しておきたい。睦雄の父や祖父にまつわる悲劇である。睦雄の祖父・菊次郎は、貝尾よりかなり奥地の倉見という集落の名主で、山をいくつも有する富豪だった。そして1891(明治24)年2月、祖母のいねが貝尾から菊次郎の元に嫁いできた。一方、睦雄の父は振一郎といい、都井家の跡継ぎ息子だった。彼が生まれたのは1887(明治20)年と言われている。これは祖母のいねが都井家に嫁ぐ前だ。つまりいねは菊次郎の後妻であり、睦雄と血縁関係はなかったのだ。睦雄は1917(大正6)年に生まれたが、その直後から、不幸が次々と都井家を襲った。 1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
犯行を終えた睦雄は山道を北に逃げ、荒坂峠へ向かった。午前3時過ぎには、逃亡する睦雄の姿が目撃されている。睦雄は開けた場所に出ると鉛筆で遺書をしたためて、自分の所持品を丁寧に地面に整理して並べた。そして、洋服のボタンをはずして、ブローニング銃の銃口を自分の心臓部にあて、足の指でゆっくり引き金をひき自決した。遺書には村人への恨みがつづられていたのは、言うまでもない。最後には「思ふ様にはゆかなかった…もはや夜明けも近づいた。死にましょう」と記されていた。以上が犯行の詳細である。実の祖母を、真っ先に惨殺した理由事件の重要な背景について一点だけ記しておきたい。睦雄の父や祖父にまつわる悲劇である。睦雄の祖父・菊次郎は、貝尾よりかなり奥地の倉見という集落の名主で、山をいくつも有する富豪だった。そして1891(明治24)年2月、祖母のいねが貝尾から菊次郎の元に嫁いできた。一方、睦雄の父は振一郎といい、都井家の跡継ぎ息子だった。彼が生まれたのは1887(明治20)年と言われている。これは祖母のいねが都井家に嫁ぐ前だ。つまりいねは菊次郎の後妻であり、睦雄と血縁関係はなかったのだ。睦雄は1917(大正6)年に生まれたが、その直後から、不幸が次々と都井家を襲った。 1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
遺書には村人への恨みがつづられていたのは、言うまでもない。最後には「思ふ様にはゆかなかった…もはや夜明けも近づいた。死にましょう」と記されていた。以上が犯行の詳細である。実の祖母を、真っ先に惨殺した理由事件の重要な背景について一点だけ記しておきたい。睦雄の父や祖父にまつわる悲劇である。睦雄の祖父・菊次郎は、貝尾よりかなり奥地の倉見という集落の名主で、山をいくつも有する富豪だった。そして1891(明治24)年2月、祖母のいねが貝尾から菊次郎の元に嫁いできた。一方、睦雄の父は振一郎といい、都井家の跡継ぎ息子だった。彼が生まれたのは1887(明治20)年と言われている。これは祖母のいねが都井家に嫁ぐ前だ。つまりいねは菊次郎の後妻であり、睦雄と血縁関係はなかったのだ。睦雄は1917(大正6)年に生まれたが、その直後から、不幸が次々と都井家を襲った。 1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
以上が犯行の詳細である。実の祖母を、真っ先に惨殺した理由事件の重要な背景について一点だけ記しておきたい。睦雄の父や祖父にまつわる悲劇である。睦雄の祖父・菊次郎は、貝尾よりかなり奥地の倉見という集落の名主で、山をいくつも有する富豪だった。そして1891(明治24)年2月、祖母のいねが貝尾から菊次郎の元に嫁いできた。一方、睦雄の父は振一郎といい、都井家の跡継ぎ息子だった。彼が生まれたのは1887(明治20)年と言われている。これは祖母のいねが都井家に嫁ぐ前だ。つまりいねは菊次郎の後妻であり、睦雄と血縁関係はなかったのだ。睦雄は1917(大正6)年に生まれたが、その直後から、不幸が次々と都井家を襲った。 1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
事件の重要な背景について一点だけ記しておきたい。睦雄の父や祖父にまつわる悲劇である。睦雄の祖父・菊次郎は、貝尾よりかなり奥地の倉見という集落の名主で、山をいくつも有する富豪だった。そして1891(明治24)年2月、祖母のいねが貝尾から菊次郎の元に嫁いできた。一方、睦雄の父は振一郎といい、都井家の跡継ぎ息子だった。彼が生まれたのは1887(明治20)年と言われている。これは祖母のいねが都井家に嫁ぐ前だ。つまりいねは菊次郎の後妻であり、睦雄と血縁関係はなかったのだ。睦雄は1917(大正6)年に生まれたが、その直後から、不幸が次々と都井家を襲った。 1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
睦雄の祖父・菊次郎は、貝尾よりかなり奥地の倉見という集落の名主で、山をいくつも有する富豪だった。そして1891(明治24)年2月、祖母のいねが貝尾から菊次郎の元に嫁いできた。一方、睦雄の父は振一郎といい、都井家の跡継ぎ息子だった。彼が生まれたのは1887(明治20)年と言われている。これは祖母のいねが都井家に嫁ぐ前だ。つまりいねは菊次郎の後妻であり、睦雄と血縁関係はなかったのだ。睦雄は1917(大正6)年に生まれたが、その直後から、不幸が次々と都井家を襲った。 1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
一方、睦雄の父は振一郎といい、都井家の跡継ぎ息子だった。彼が生まれたのは1887(明治20)年と言われている。これは祖母のいねが都井家に嫁ぐ前だ。つまりいねは菊次郎の後妻であり、睦雄と血縁関係はなかったのだ。睦雄は1917(大正6)年に生まれたが、その直後から、不幸が次々と都井家を襲った。 1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
睦雄は1917(大正6)年に生まれたが、その直後から、不幸が次々と都井家を襲った。 1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
1918(大正7)年、まず祖父で当主の菊次郎が肺の病で急死した。その5ヵ月後に父親の振一郎も肺結核で死亡。さらに1919(大正8)年春、睦雄の母親も結核で死んだ。相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
相次ぐ肺病での連続死で、睦雄一家には「ロウガイスジ(労咳筋、結核を発症しやすい家系のこと)」という烙印が押され、忌み嫌われた。1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
1920(大正9)年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母いねとともに、突如自宅があった倉見から放逐され、いねの故郷の貝尾に身を寄せた。都井家の遺産のほとんどは菊次郎の弟一族をはじめとした親戚が相続し、睦雄たちがもらえたのは、事実上の手切れ金である少しの田畑と山林だけ。「ロウガイスジ」の烙印者のつらい宿命だった。倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
倉見と貝尾にはほとんど交流がなく、睦雄は長らくこの事実を知らなかったようだ。その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
その後次第に生活が苦しくなり、1935(昭和10)年春、睦雄一家は倉見に残してきた田畑と山林を売却しなければならなくなった。都井本家を相続した叔父一族が、それを安く買いたたいた時に、睦雄は自分の親や祖父の悲劇を知ったと思われる。それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
それまでの睦雄は心優しい優等生だった。しかしその一件から、彼の心のどこかが壊れてしまったらしく、奇行が始まったとされる。この時期から村の女性に頻繁に夜這いをかけ、日本刀や銃器を買い求め始めた。 睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
睦雄の事件の一報を聞いて、倉見の本家を継いだ叔父は、土蔵の中に隠れて3日間出てこなかったという。睦雄の復讐を恐れたからだ。睦雄の自決した場所は、貝尾から倉見へ向かう途中の位置にあった。銃弾は20発ほどしか残っていなかったが、もし残りを使ったとすれば、ターゲットは自分たちを倉見から追い出した叔父一族だったのではないだろうか。同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
同時期から、睦雄は祖母いねのことも恨んでいたと思われる。彼は、いねが都井本家と共謀して自分の財産をだまし取ったと疑っていたのではないだろうか。倉見から貝尾へ逃げてきた後も、わずかな彼の財産はすべていねが管理しており、戸主であるはずの睦雄が手をつけることは許されなかった。睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
睦雄は思うように生きられない不安やイライラを祖母にぶつけており、とうとう毒薬を飲まされそうになった彼女は一時期自宅から逃げ出している。事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
事件をつぶさに眺めると、おぞましい睦雄の凶行にも、彼なりの恨みがあったことが見えてくる。都井一族にまつわる因縁が、睦雄を狂鬼に変えてしまったのではないだろうか。(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)
(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)