【トイアンナ】日本の被差別階級「弱者男性」の知られざる衝撃実態…男同士でケアすればいいのか

かつて、いや、今も女性や子供は弱者として扱われることが多い。筆者は日本の女性が受けてきた差別をさまざま角度から見てきた人間だが、男女差別が最も如実に現れるのは、賃金と待遇の格差である。
政府は2003年に「指導的地位の女性割合30%」を目標に掲げ、2016年には女性活躍推進法を施行。しかし、2020年時点で女性管理職はわずか7.8%。目標からは遠い数字になっている。男女間の賃金格差は男性が100とすれば、女性は74.3%。
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主な原因は女性がライフイベントに合わせて退職・異動を希望することにあると見られており、女性がキャリアダウンせずとも働き続けられる社会を作る方法については、まだ模索段階だ。
さて、こうして男性と女性を切り分け、女性を支援する施策が増える中で、スポットライトが当たり始めた存在がある。それは「弱者男性」だ。
弱者男性とは、インターネット上で生まれた用語で、日本社会のなかで独身・貧困・障害など弱者になる要素を備えた男性たちである。かつては「キモくて、金のない・おじさん」の略称として「KKO」と自称する男性たちがいた。が、現在はこの言葉そのものが差別的として、「弱者男性」という単語が使われやすくなっている。
弱者男性が抱えるつらさは、データにもあらわれている。未婚男性は、有配偶者の男性と比べて15年早く死ぬ。男性の方が女性よりセルフネグレクト傾向にある、あるいはもともと貧困ゆえに未婚化しやすく、健康を早く損ねやすいといった背景は複数あれど、ここまで顕著にデータが出ていて「強者男性と弱者男性は平等に遇されている」というなら、少し疑いの目を向けたほうがいい。 幸福度でも、未婚男性と既婚男性では、大きな差が出る。日本の未婚男性は、既婚男性よりも30%幸福度が下がる。これは国際比較でも1~2位を争う数字だ。しかも、興味深いことに年収が高くても、未婚男性は既婚男性より不幸である。既婚者は64%が「自己肯定感が高い」と答えているのに対し、未婚男性は年収1,000万円以上でもおおよそ30%台で、これは年収300万円台の男性と変わらない。荒川和久『ソロエコノミーの襲来』では、この原因が「男らしさの規範」にあると考察されている。というのも、男性は女性と比べ、未婚・既婚を問わず「男は男らしく、女は女らしくすべきである」と考える割合が高いからだ。弱者男性を縛る「男らしさ」の呪縛では、この弱者男性を縛る「男らしさ」とは何か。石川洋明『「男らしさ」に関する実証的研究』では、以下の項目を男らしさの要素として抽出された。「男らしさ」として選ばれた項目・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこのような価値観が浸透すれば、「そうでない男性」はマイノリティへ押しやられる。具体的には、定職に就いていないなどの理由で経済力がなく、仕事が苦手な男性だ。また、「男らしさ」として選ばれた項目が、男性自身に「自分は弱者だから、助けてください」と声を挙げにくい状況を作っている。男性は忍耐力をもつべきだと思われている社会で、弱音を吐くこと自体が自分を不利に追いやりかねないからだ。〔PHOTO〕iStock このような背景もあり、男性は女性の2倍自殺している。女性より平均賃金が高く、学歴も高く、強者であるにもかかわらず、弱くなった男性は自死まで追い込まれやすい。こういった状況を、ある男性はブログで「ガラスの地下室」と呼んだ。女性がある程度以上の社会的地位を得られないことを「ガラスの天井」と呼ぶことの対比である。男性は、弱者になるととことん弱者になりやすい。不満の矛先は女性に向かいがちそして、2021年。弱者男性への支援を求める声が少しずつ出てきた。ただ、その中で特徴的なのは、弱者男性はフェミニスト女性を「加害者」と見がちな傾向だ。たとえば、最近多くの読者を集めた記事は、タイトルが「弱者男性差別は存在するから知ってください、フェミニストはこれ以上差別しないでください」となっている。つまり、フェミニストがこの「男らしさ」を強いる加害者だと感じているわけだ。これは、国際的なフェミニズムのトレンドと大きく乖離している。フェミニズムには1860年代ごろに生まれてから現代に至るまで、多数の潮流がある。しかし、今トレンドになっている主な流派は「99%の人が連帯できるフェミニズム」であり、男性を敵視しない。「私たちに従順であること、服従すること、沈黙することを要求する家父長制と資本主義の協力体制に抵抗し、闘いを挑む、現状のシステムの革命を呼びかける」出典:シンジア・アルッザ、ティティ・バタチャーリャ、ナンシー・フレイザー著、惠愛由翻訳『99%のためのフェミニズム宣言』2020年、人文書院 これを見ると、「男らしさ」を作ってきた家父長制や、資本主義こそ変えていくべきだという主張がなされている。その他さまざまな主張はあれど、男性へ男らしさを強いる側に、フェミニストはいないのだ。では、日本の弱者男性が見ている「加害者としてのフェミニスト」とは何者なのか。フェミニストだけが「加害者」に見えてしまう弱者男性がその弱者性を訴えると必ずといって出てくる議論が、「男同士でケアすればいい」論である。これは、現代社会とは信じられないほど差別的である。最近ネットで掲載(いずれもはてな匿名ダイアリー)された、弱者男性への意見を見てみよう。・弱者男性は弱者男性同士でセックスすればいい・弱者男性の安楽死を合法化しよう・正直弱者男性のことなんかどうでもいいし、死ねばいい言語道断の差別である。特に1番目の「弱者男性は弱者男性同士でセックスしていればいい。そうすれば女性は気持ち悪い男性の被害に遭わずにすむ」という論調は、しばしば見られる差別だ。これを「黒人は黒人同士でセックスしていればいい」「女は女同士でセックスしていればいい」といった置き換えをすると、いかに過激な差別思想がそこにあるかがはっきりする。しかし、この発言が弱者男性にはいとも簡単に投じられてしまう。これこそ、日本の弱者男性差別の正体である。 こういった差別をしているのは、一部フェミニストだけではない。自分を強者側と信じている人たち――弱者男性を対岸の火事としてしか見られず、自分が弱者になる可能性を全く感じられない人たち――が、ネットで気軽に誹謗中傷を行っている。ただ、弱者男性の目線で見てみると、そうは見えない。なぜなら、強者男女はそもそも、弱者男性を無視するからだ。弱者男性を「実力がないために貧困に陥った、独身男性」としか見ていない強者の男女は、弱者男性の悲鳴を「努力してこなかった人の嘆き」として無視する。しかし、フェミニストにとって弱者男性の嘆きは無視では済まない。「男性だってつらいんだ」論は、時に「女よりも、男はつらいよ」と曲解ながら比較級で捉えられがちだからだ。相手の辛さに共感する前に、自分への差別を無視されてしまうわけである。ややこしいことに、フェミニストの中にも、単に「男性へ今まで受けた恨みつらみを晴らしたい」層がいる。学術的に”男嫌い”は「ミサンドリスト」として、フェミニストとは違うグループに属するのだが、日本では少なくとも彼女らもフェミニストと名乗っている。だから、フェミニスト=男を叩きたい女たち、とみなす人も少なくない。これらの自称・フェミニストは、男に「私達のほうがつらい」合戦をしかけてしまい、議論は平行線となる。「男らしさ、女らしさ」からの解放をその結果、どちらの方がつらいかをめぐり、弱者男性vs 弱者女性の罵り合いがネットには散見される。弱者男性にとっては、「男に復讐したい」ネットの自称・フェミニストがさらなる加害者に見えてしまうわけだ。そうして、弱者男性の叫びは「フェミニストへ。もう加害はやめてください」となる。弱者男性、いや、弱者すべてを無視する強者グループはこうして内ゲバを遠目に、無視を決め込める。弱者男性 vs 弱者女性が争ってくれる限り、自分たちに矛先は向かないからである。そして、「弱者男性を救うには、皆婚主義へ戻ったほうがよい」といった女性の人権に真っ向から対立する提案がなされてしまう事態まで起きている。これでは、家父長制をさらに強化し、「男らしさ」の呪縛へますます男性を絡め取らせてしまう。女性の苦痛は当然のことながら、男性の苦痛も解消できない。本末転倒もいいところであろう。〔PHOTO〕iStockむしろ冒頭に挙げた、・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこれらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
幸福度でも、未婚男性と既婚男性では、大きな差が出る。日本の未婚男性は、既婚男性よりも30%幸福度が下がる。これは国際比較でも1~2位を争う数字だ。しかも、興味深いことに年収が高くても、未婚男性は既婚男性より不幸である。既婚者は64%が「自己肯定感が高い」と答えているのに対し、未婚男性は年収1,000万円以上でもおおよそ30%台で、これは年収300万円台の男性と変わらない。荒川和久『ソロエコノミーの襲来』では、この原因が「男らしさの規範」にあると考察されている。というのも、男性は女性と比べ、未婚・既婚を問わず「男は男らしく、女は女らしくすべきである」と考える割合が高いからだ。弱者男性を縛る「男らしさ」の呪縛では、この弱者男性を縛る「男らしさ」とは何か。石川洋明『「男らしさ」に関する実証的研究』では、以下の項目を男らしさの要素として抽出された。「男らしさ」として選ばれた項目・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこのような価値観が浸透すれば、「そうでない男性」はマイノリティへ押しやられる。具体的には、定職に就いていないなどの理由で経済力がなく、仕事が苦手な男性だ。また、「男らしさ」として選ばれた項目が、男性自身に「自分は弱者だから、助けてください」と声を挙げにくい状況を作っている。男性は忍耐力をもつべきだと思われている社会で、弱音を吐くこと自体が自分を不利に追いやりかねないからだ。〔PHOTO〕iStock このような背景もあり、男性は女性の2倍自殺している。女性より平均賃金が高く、学歴も高く、強者であるにもかかわらず、弱くなった男性は自死まで追い込まれやすい。こういった状況を、ある男性はブログで「ガラスの地下室」と呼んだ。女性がある程度以上の社会的地位を得られないことを「ガラスの天井」と呼ぶことの対比である。男性は、弱者になるととことん弱者になりやすい。不満の矛先は女性に向かいがちそして、2021年。弱者男性への支援を求める声が少しずつ出てきた。ただ、その中で特徴的なのは、弱者男性はフェミニスト女性を「加害者」と見がちな傾向だ。たとえば、最近多くの読者を集めた記事は、タイトルが「弱者男性差別は存在するから知ってください、フェミニストはこれ以上差別しないでください」となっている。つまり、フェミニストがこの「男らしさ」を強いる加害者だと感じているわけだ。これは、国際的なフェミニズムのトレンドと大きく乖離している。フェミニズムには1860年代ごろに生まれてから現代に至るまで、多数の潮流がある。しかし、今トレンドになっている主な流派は「99%の人が連帯できるフェミニズム」であり、男性を敵視しない。「私たちに従順であること、服従すること、沈黙することを要求する家父長制と資本主義の協力体制に抵抗し、闘いを挑む、現状のシステムの革命を呼びかける」出典:シンジア・アルッザ、ティティ・バタチャーリャ、ナンシー・フレイザー著、惠愛由翻訳『99%のためのフェミニズム宣言』2020年、人文書院 これを見ると、「男らしさ」を作ってきた家父長制や、資本主義こそ変えていくべきだという主張がなされている。その他さまざまな主張はあれど、男性へ男らしさを強いる側に、フェミニストはいないのだ。では、日本の弱者男性が見ている「加害者としてのフェミニスト」とは何者なのか。フェミニストだけが「加害者」に見えてしまう弱者男性がその弱者性を訴えると必ずといって出てくる議論が、「男同士でケアすればいい」論である。これは、現代社会とは信じられないほど差別的である。最近ネットで掲載(いずれもはてな匿名ダイアリー)された、弱者男性への意見を見てみよう。・弱者男性は弱者男性同士でセックスすればいい・弱者男性の安楽死を合法化しよう・正直弱者男性のことなんかどうでもいいし、死ねばいい言語道断の差別である。特に1番目の「弱者男性は弱者男性同士でセックスしていればいい。そうすれば女性は気持ち悪い男性の被害に遭わずにすむ」という論調は、しばしば見られる差別だ。これを「黒人は黒人同士でセックスしていればいい」「女は女同士でセックスしていればいい」といった置き換えをすると、いかに過激な差別思想がそこにあるかがはっきりする。しかし、この発言が弱者男性にはいとも簡単に投じられてしまう。これこそ、日本の弱者男性差別の正体である。 こういった差別をしているのは、一部フェミニストだけではない。自分を強者側と信じている人たち――弱者男性を対岸の火事としてしか見られず、自分が弱者になる可能性を全く感じられない人たち――が、ネットで気軽に誹謗中傷を行っている。ただ、弱者男性の目線で見てみると、そうは見えない。なぜなら、強者男女はそもそも、弱者男性を無視するからだ。弱者男性を「実力がないために貧困に陥った、独身男性」としか見ていない強者の男女は、弱者男性の悲鳴を「努力してこなかった人の嘆き」として無視する。しかし、フェミニストにとって弱者男性の嘆きは無視では済まない。「男性だってつらいんだ」論は、時に「女よりも、男はつらいよ」と曲解ながら比較級で捉えられがちだからだ。相手の辛さに共感する前に、自分への差別を無視されてしまうわけである。ややこしいことに、フェミニストの中にも、単に「男性へ今まで受けた恨みつらみを晴らしたい」層がいる。学術的に”男嫌い”は「ミサンドリスト」として、フェミニストとは違うグループに属するのだが、日本では少なくとも彼女らもフェミニストと名乗っている。だから、フェミニスト=男を叩きたい女たち、とみなす人も少なくない。これらの自称・フェミニストは、男に「私達のほうがつらい」合戦をしかけてしまい、議論は平行線となる。「男らしさ、女らしさ」からの解放をその結果、どちらの方がつらいかをめぐり、弱者男性vs 弱者女性の罵り合いがネットには散見される。弱者男性にとっては、「男に復讐したい」ネットの自称・フェミニストがさらなる加害者に見えてしまうわけだ。そうして、弱者男性の叫びは「フェミニストへ。もう加害はやめてください」となる。弱者男性、いや、弱者すべてを無視する強者グループはこうして内ゲバを遠目に、無視を決め込める。弱者男性 vs 弱者女性が争ってくれる限り、自分たちに矛先は向かないからである。そして、「弱者男性を救うには、皆婚主義へ戻ったほうがよい」といった女性の人権に真っ向から対立する提案がなされてしまう事態まで起きている。これでは、家父長制をさらに強化し、「男らしさ」の呪縛へますます男性を絡め取らせてしまう。女性の苦痛は当然のことながら、男性の苦痛も解消できない。本末転倒もいいところであろう。〔PHOTO〕iStockむしろ冒頭に挙げた、・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこれらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
幸福度でも、未婚男性と既婚男性では、大きな差が出る。日本の未婚男性は、既婚男性よりも30%幸福度が下がる。これは国際比較でも1~2位を争う数字だ。しかも、興味深いことに年収が高くても、未婚男性は既婚男性より不幸である。既婚者は64%が「自己肯定感が高い」と答えているのに対し、未婚男性は年収1,000万円以上でもおおよそ30%台で、これは年収300万円台の男性と変わらない。荒川和久『ソロエコノミーの襲来』では、この原因が「男らしさの規範」にあると考察されている。というのも、男性は女性と比べ、未婚・既婚を問わず「男は男らしく、女は女らしくすべきである」と考える割合が高いからだ。弱者男性を縛る「男らしさ」の呪縛では、この弱者男性を縛る「男らしさ」とは何か。石川洋明『「男らしさ」に関する実証的研究』では、以下の項目を男らしさの要素として抽出された。「男らしさ」として選ばれた項目・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこのような価値観が浸透すれば、「そうでない男性」はマイノリティへ押しやられる。具体的には、定職に就いていないなどの理由で経済力がなく、仕事が苦手な男性だ。また、「男らしさ」として選ばれた項目が、男性自身に「自分は弱者だから、助けてください」と声を挙げにくい状況を作っている。男性は忍耐力をもつべきだと思われている社会で、弱音を吐くこと自体が自分を不利に追いやりかねないからだ。〔PHOTO〕iStock このような背景もあり、男性は女性の2倍自殺している。女性より平均賃金が高く、学歴も高く、強者であるにもかかわらず、弱くなった男性は自死まで追い込まれやすい。こういった状況を、ある男性はブログで「ガラスの地下室」と呼んだ。女性がある程度以上の社会的地位を得られないことを「ガラスの天井」と呼ぶことの対比である。男性は、弱者になるととことん弱者になりやすい。不満の矛先は女性に向かいがちそして、2021年。弱者男性への支援を求める声が少しずつ出てきた。ただ、その中で特徴的なのは、弱者男性はフェミニスト女性を「加害者」と見がちな傾向だ。たとえば、最近多くの読者を集めた記事は、タイトルが「弱者男性差別は存在するから知ってください、フェミニストはこれ以上差別しないでください」となっている。つまり、フェミニストがこの「男らしさ」を強いる加害者だと感じているわけだ。これは、国際的なフェミニズムのトレンドと大きく乖離している。フェミニズムには1860年代ごろに生まれてから現代に至るまで、多数の潮流がある。しかし、今トレンドになっている主な流派は「99%の人が連帯できるフェミニズム」であり、男性を敵視しない。「私たちに従順であること、服従すること、沈黙することを要求する家父長制と資本主義の協力体制に抵抗し、闘いを挑む、現状のシステムの革命を呼びかける」出典:シンジア・アルッザ、ティティ・バタチャーリャ、ナンシー・フレイザー著、惠愛由翻訳『99%のためのフェミニズム宣言』2020年、人文書院 これを見ると、「男らしさ」を作ってきた家父長制や、資本主義こそ変えていくべきだという主張がなされている。その他さまざまな主張はあれど、男性へ男らしさを強いる側に、フェミニストはいないのだ。では、日本の弱者男性が見ている「加害者としてのフェミニスト」とは何者なのか。フェミニストだけが「加害者」に見えてしまう弱者男性がその弱者性を訴えると必ずといって出てくる議論が、「男同士でケアすればいい」論である。これは、現代社会とは信じられないほど差別的である。最近ネットで掲載(いずれもはてな匿名ダイアリー)された、弱者男性への意見を見てみよう。・弱者男性は弱者男性同士でセックスすればいい・弱者男性の安楽死を合法化しよう・正直弱者男性のことなんかどうでもいいし、死ねばいい言語道断の差別である。特に1番目の「弱者男性は弱者男性同士でセックスしていればいい。そうすれば女性は気持ち悪い男性の被害に遭わずにすむ」という論調は、しばしば見られる差別だ。これを「黒人は黒人同士でセックスしていればいい」「女は女同士でセックスしていればいい」といった置き換えをすると、いかに過激な差別思想がそこにあるかがはっきりする。しかし、この発言が弱者男性にはいとも簡単に投じられてしまう。これこそ、日本の弱者男性差別の正体である。 こういった差別をしているのは、一部フェミニストだけではない。自分を強者側と信じている人たち――弱者男性を対岸の火事としてしか見られず、自分が弱者になる可能性を全く感じられない人たち――が、ネットで気軽に誹謗中傷を行っている。ただ、弱者男性の目線で見てみると、そうは見えない。なぜなら、強者男女はそもそも、弱者男性を無視するからだ。弱者男性を「実力がないために貧困に陥った、独身男性」としか見ていない強者の男女は、弱者男性の悲鳴を「努力してこなかった人の嘆き」として無視する。しかし、フェミニストにとって弱者男性の嘆きは無視では済まない。「男性だってつらいんだ」論は、時に「女よりも、男はつらいよ」と曲解ながら比較級で捉えられがちだからだ。相手の辛さに共感する前に、自分への差別を無視されてしまうわけである。ややこしいことに、フェミニストの中にも、単に「男性へ今まで受けた恨みつらみを晴らしたい」層がいる。学術的に”男嫌い”は「ミサンドリスト」として、フェミニストとは違うグループに属するのだが、日本では少なくとも彼女らもフェミニストと名乗っている。だから、フェミニスト=男を叩きたい女たち、とみなす人も少なくない。これらの自称・フェミニストは、男に「私達のほうがつらい」合戦をしかけてしまい、議論は平行線となる。「男らしさ、女らしさ」からの解放をその結果、どちらの方がつらいかをめぐり、弱者男性vs 弱者女性の罵り合いがネットには散見される。弱者男性にとっては、「男に復讐したい」ネットの自称・フェミニストがさらなる加害者に見えてしまうわけだ。そうして、弱者男性の叫びは「フェミニストへ。もう加害はやめてください」となる。弱者男性、いや、弱者すべてを無視する強者グループはこうして内ゲバを遠目に、無視を決め込める。弱者男性 vs 弱者女性が争ってくれる限り、自分たちに矛先は向かないからである。そして、「弱者男性を救うには、皆婚主義へ戻ったほうがよい」といった女性の人権に真っ向から対立する提案がなされてしまう事態まで起きている。これでは、家父長制をさらに強化し、「男らしさ」の呪縛へますます男性を絡め取らせてしまう。女性の苦痛は当然のことながら、男性の苦痛も解消できない。本末転倒もいいところであろう。〔PHOTO〕iStockむしろ冒頭に挙げた、・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこれらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
しかも、興味深いことに年収が高くても、未婚男性は既婚男性より不幸である。既婚者は64%が「自己肯定感が高い」と答えているのに対し、未婚男性は年収1,000万円以上でもおおよそ30%台で、これは年収300万円台の男性と変わらない。荒川和久『ソロエコノミーの襲来』では、この原因が「男らしさの規範」にあると考察されている。というのも、男性は女性と比べ、未婚・既婚を問わず「男は男らしく、女は女らしくすべきである」と考える割合が高いからだ。弱者男性を縛る「男らしさ」の呪縛では、この弱者男性を縛る「男らしさ」とは何か。石川洋明『「男らしさ」に関する実証的研究』では、以下の項目を男らしさの要素として抽出された。「男らしさ」として選ばれた項目・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこのような価値観が浸透すれば、「そうでない男性」はマイノリティへ押しやられる。具体的には、定職に就いていないなどの理由で経済力がなく、仕事が苦手な男性だ。また、「男らしさ」として選ばれた項目が、男性自身に「自分は弱者だから、助けてください」と声を挙げにくい状況を作っている。男性は忍耐力をもつべきだと思われている社会で、弱音を吐くこと自体が自分を不利に追いやりかねないからだ。〔PHOTO〕iStock このような背景もあり、男性は女性の2倍自殺している。女性より平均賃金が高く、学歴も高く、強者であるにもかかわらず、弱くなった男性は自死まで追い込まれやすい。こういった状況を、ある男性はブログで「ガラスの地下室」と呼んだ。女性がある程度以上の社会的地位を得られないことを「ガラスの天井」と呼ぶことの対比である。男性は、弱者になるととことん弱者になりやすい。不満の矛先は女性に向かいがちそして、2021年。弱者男性への支援を求める声が少しずつ出てきた。ただ、その中で特徴的なのは、弱者男性はフェミニスト女性を「加害者」と見がちな傾向だ。たとえば、最近多くの読者を集めた記事は、タイトルが「弱者男性差別は存在するから知ってください、フェミニストはこれ以上差別しないでください」となっている。つまり、フェミニストがこの「男らしさ」を強いる加害者だと感じているわけだ。これは、国際的なフェミニズムのトレンドと大きく乖離している。フェミニズムには1860年代ごろに生まれてから現代に至るまで、多数の潮流がある。しかし、今トレンドになっている主な流派は「99%の人が連帯できるフェミニズム」であり、男性を敵視しない。「私たちに従順であること、服従すること、沈黙することを要求する家父長制と資本主義の協力体制に抵抗し、闘いを挑む、現状のシステムの革命を呼びかける」出典:シンジア・アルッザ、ティティ・バタチャーリャ、ナンシー・フレイザー著、惠愛由翻訳『99%のためのフェミニズム宣言』2020年、人文書院 これを見ると、「男らしさ」を作ってきた家父長制や、資本主義こそ変えていくべきだという主張がなされている。その他さまざまな主張はあれど、男性へ男らしさを強いる側に、フェミニストはいないのだ。では、日本の弱者男性が見ている「加害者としてのフェミニスト」とは何者なのか。フェミニストだけが「加害者」に見えてしまう弱者男性がその弱者性を訴えると必ずといって出てくる議論が、「男同士でケアすればいい」論である。これは、現代社会とは信じられないほど差別的である。最近ネットで掲載(いずれもはてな匿名ダイアリー)された、弱者男性への意見を見てみよう。・弱者男性は弱者男性同士でセックスすればいい・弱者男性の安楽死を合法化しよう・正直弱者男性のことなんかどうでもいいし、死ねばいい言語道断の差別である。特に1番目の「弱者男性は弱者男性同士でセックスしていればいい。そうすれば女性は気持ち悪い男性の被害に遭わずにすむ」という論調は、しばしば見られる差別だ。これを「黒人は黒人同士でセックスしていればいい」「女は女同士でセックスしていればいい」といった置き換えをすると、いかに過激な差別思想がそこにあるかがはっきりする。しかし、この発言が弱者男性にはいとも簡単に投じられてしまう。これこそ、日本の弱者男性差別の正体である。 こういった差別をしているのは、一部フェミニストだけではない。自分を強者側と信じている人たち――弱者男性を対岸の火事としてしか見られず、自分が弱者になる可能性を全く感じられない人たち――が、ネットで気軽に誹謗中傷を行っている。ただ、弱者男性の目線で見てみると、そうは見えない。なぜなら、強者男女はそもそも、弱者男性を無視するからだ。弱者男性を「実力がないために貧困に陥った、独身男性」としか見ていない強者の男女は、弱者男性の悲鳴を「努力してこなかった人の嘆き」として無視する。しかし、フェミニストにとって弱者男性の嘆きは無視では済まない。「男性だってつらいんだ」論は、時に「女よりも、男はつらいよ」と曲解ながら比較級で捉えられがちだからだ。相手の辛さに共感する前に、自分への差別を無視されてしまうわけである。ややこしいことに、フェミニストの中にも、単に「男性へ今まで受けた恨みつらみを晴らしたい」層がいる。学術的に”男嫌い”は「ミサンドリスト」として、フェミニストとは違うグループに属するのだが、日本では少なくとも彼女らもフェミニストと名乗っている。だから、フェミニスト=男を叩きたい女たち、とみなす人も少なくない。これらの自称・フェミニストは、男に「私達のほうがつらい」合戦をしかけてしまい、議論は平行線となる。「男らしさ、女らしさ」からの解放をその結果、どちらの方がつらいかをめぐり、弱者男性vs 弱者女性の罵り合いがネットには散見される。弱者男性にとっては、「男に復讐したい」ネットの自称・フェミニストがさらなる加害者に見えてしまうわけだ。そうして、弱者男性の叫びは「フェミニストへ。もう加害はやめてください」となる。弱者男性、いや、弱者すべてを無視する強者グループはこうして内ゲバを遠目に、無視を決め込める。弱者男性 vs 弱者女性が争ってくれる限り、自分たちに矛先は向かないからである。そして、「弱者男性を救うには、皆婚主義へ戻ったほうがよい」といった女性の人権に真っ向から対立する提案がなされてしまう事態まで起きている。これでは、家父長制をさらに強化し、「男らしさ」の呪縛へますます男性を絡め取らせてしまう。女性の苦痛は当然のことながら、男性の苦痛も解消できない。本末転倒もいいところであろう。〔PHOTO〕iStockむしろ冒頭に挙げた、・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこれらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
荒川和久『ソロエコノミーの襲来』では、この原因が「男らしさの規範」にあると考察されている。というのも、男性は女性と比べ、未婚・既婚を問わず「男は男らしく、女は女らしくすべきである」と考える割合が高いからだ。弱者男性を縛る「男らしさ」の呪縛では、この弱者男性を縛る「男らしさ」とは何か。石川洋明『「男らしさ」に関する実証的研究』では、以下の項目を男らしさの要素として抽出された。「男らしさ」として選ばれた項目・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこのような価値観が浸透すれば、「そうでない男性」はマイノリティへ押しやられる。具体的には、定職に就いていないなどの理由で経済力がなく、仕事が苦手な男性だ。また、「男らしさ」として選ばれた項目が、男性自身に「自分は弱者だから、助けてください」と声を挙げにくい状況を作っている。男性は忍耐力をもつべきだと思われている社会で、弱音を吐くこと自体が自分を不利に追いやりかねないからだ。〔PHOTO〕iStock このような背景もあり、男性は女性の2倍自殺している。女性より平均賃金が高く、学歴も高く、強者であるにもかかわらず、弱くなった男性は自死まで追い込まれやすい。こういった状況を、ある男性はブログで「ガラスの地下室」と呼んだ。女性がある程度以上の社会的地位を得られないことを「ガラスの天井」と呼ぶことの対比である。男性は、弱者になるととことん弱者になりやすい。不満の矛先は女性に向かいがちそして、2021年。弱者男性への支援を求める声が少しずつ出てきた。ただ、その中で特徴的なのは、弱者男性はフェミニスト女性を「加害者」と見がちな傾向だ。たとえば、最近多くの読者を集めた記事は、タイトルが「弱者男性差別は存在するから知ってください、フェミニストはこれ以上差別しないでください」となっている。つまり、フェミニストがこの「男らしさ」を強いる加害者だと感じているわけだ。これは、国際的なフェミニズムのトレンドと大きく乖離している。フェミニズムには1860年代ごろに生まれてから現代に至るまで、多数の潮流がある。しかし、今トレンドになっている主な流派は「99%の人が連帯できるフェミニズム」であり、男性を敵視しない。「私たちに従順であること、服従すること、沈黙することを要求する家父長制と資本主義の協力体制に抵抗し、闘いを挑む、現状のシステムの革命を呼びかける」出典:シンジア・アルッザ、ティティ・バタチャーリャ、ナンシー・フレイザー著、惠愛由翻訳『99%のためのフェミニズム宣言』2020年、人文書院 これを見ると、「男らしさ」を作ってきた家父長制や、資本主義こそ変えていくべきだという主張がなされている。その他さまざまな主張はあれど、男性へ男らしさを強いる側に、フェミニストはいないのだ。では、日本の弱者男性が見ている「加害者としてのフェミニスト」とは何者なのか。フェミニストだけが「加害者」に見えてしまう弱者男性がその弱者性を訴えると必ずといって出てくる議論が、「男同士でケアすればいい」論である。これは、現代社会とは信じられないほど差別的である。最近ネットで掲載(いずれもはてな匿名ダイアリー)された、弱者男性への意見を見てみよう。・弱者男性は弱者男性同士でセックスすればいい・弱者男性の安楽死を合法化しよう・正直弱者男性のことなんかどうでもいいし、死ねばいい言語道断の差別である。特に1番目の「弱者男性は弱者男性同士でセックスしていればいい。そうすれば女性は気持ち悪い男性の被害に遭わずにすむ」という論調は、しばしば見られる差別だ。これを「黒人は黒人同士でセックスしていればいい」「女は女同士でセックスしていればいい」といった置き換えをすると、いかに過激な差別思想がそこにあるかがはっきりする。しかし、この発言が弱者男性にはいとも簡単に投じられてしまう。これこそ、日本の弱者男性差別の正体である。 こういった差別をしているのは、一部フェミニストだけではない。自分を強者側と信じている人たち――弱者男性を対岸の火事としてしか見られず、自分が弱者になる可能性を全く感じられない人たち――が、ネットで気軽に誹謗中傷を行っている。ただ、弱者男性の目線で見てみると、そうは見えない。なぜなら、強者男女はそもそも、弱者男性を無視するからだ。弱者男性を「実力がないために貧困に陥った、独身男性」としか見ていない強者の男女は、弱者男性の悲鳴を「努力してこなかった人の嘆き」として無視する。しかし、フェミニストにとって弱者男性の嘆きは無視では済まない。「男性だってつらいんだ」論は、時に「女よりも、男はつらいよ」と曲解ながら比較級で捉えられがちだからだ。相手の辛さに共感する前に、自分への差別を無視されてしまうわけである。ややこしいことに、フェミニストの中にも、単に「男性へ今まで受けた恨みつらみを晴らしたい」層がいる。学術的に”男嫌い”は「ミサンドリスト」として、フェミニストとは違うグループに属するのだが、日本では少なくとも彼女らもフェミニストと名乗っている。だから、フェミニスト=男を叩きたい女たち、とみなす人も少なくない。これらの自称・フェミニストは、男に「私達のほうがつらい」合戦をしかけてしまい、議論は平行線となる。「男らしさ、女らしさ」からの解放をその結果、どちらの方がつらいかをめぐり、弱者男性vs 弱者女性の罵り合いがネットには散見される。弱者男性にとっては、「男に復讐したい」ネットの自称・フェミニストがさらなる加害者に見えてしまうわけだ。そうして、弱者男性の叫びは「フェミニストへ。もう加害はやめてください」となる。弱者男性、いや、弱者すべてを無視する強者グループはこうして内ゲバを遠目に、無視を決め込める。弱者男性 vs 弱者女性が争ってくれる限り、自分たちに矛先は向かないからである。そして、「弱者男性を救うには、皆婚主義へ戻ったほうがよい」といった女性の人権に真っ向から対立する提案がなされてしまう事態まで起きている。これでは、家父長制をさらに強化し、「男らしさ」の呪縛へますます男性を絡め取らせてしまう。女性の苦痛は当然のことながら、男性の苦痛も解消できない。本末転倒もいいところであろう。〔PHOTO〕iStockむしろ冒頭に挙げた、・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこれらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
では、この弱者男性を縛る「男らしさ」とは何か。石川洋明『「男らしさ」に関する実証的研究』では、以下の項目を男らしさの要素として抽出された。「男らしさ」として選ばれた項目・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこのような価値観が浸透すれば、「そうでない男性」はマイノリティへ押しやられる。具体的には、定職に就いていないなどの理由で経済力がなく、仕事が苦手な男性だ。また、「男らしさ」として選ばれた項目が、男性自身に「自分は弱者だから、助けてください」と声を挙げにくい状況を作っている。男性は忍耐力をもつべきだと思われている社会で、弱音を吐くこと自体が自分を不利に追いやりかねないからだ。〔PHOTO〕iStock このような背景もあり、男性は女性の2倍自殺している。女性より平均賃金が高く、学歴も高く、強者であるにもかかわらず、弱くなった男性は自死まで追い込まれやすい。こういった状況を、ある男性はブログで「ガラスの地下室」と呼んだ。女性がある程度以上の社会的地位を得られないことを「ガラスの天井」と呼ぶことの対比である。男性は、弱者になるととことん弱者になりやすい。不満の矛先は女性に向かいがちそして、2021年。弱者男性への支援を求める声が少しずつ出てきた。ただ、その中で特徴的なのは、弱者男性はフェミニスト女性を「加害者」と見がちな傾向だ。たとえば、最近多くの読者を集めた記事は、タイトルが「弱者男性差別は存在するから知ってください、フェミニストはこれ以上差別しないでください」となっている。つまり、フェミニストがこの「男らしさ」を強いる加害者だと感じているわけだ。これは、国際的なフェミニズムのトレンドと大きく乖離している。フェミニズムには1860年代ごろに生まれてから現代に至るまで、多数の潮流がある。しかし、今トレンドになっている主な流派は「99%の人が連帯できるフェミニズム」であり、男性を敵視しない。「私たちに従順であること、服従すること、沈黙することを要求する家父長制と資本主義の協力体制に抵抗し、闘いを挑む、現状のシステムの革命を呼びかける」出典:シンジア・アルッザ、ティティ・バタチャーリャ、ナンシー・フレイザー著、惠愛由翻訳『99%のためのフェミニズム宣言』2020年、人文書院 これを見ると、「男らしさ」を作ってきた家父長制や、資本主義こそ変えていくべきだという主張がなされている。その他さまざまな主張はあれど、男性へ男らしさを強いる側に、フェミニストはいないのだ。では、日本の弱者男性が見ている「加害者としてのフェミニスト」とは何者なのか。フェミニストだけが「加害者」に見えてしまう弱者男性がその弱者性を訴えると必ずといって出てくる議論が、「男同士でケアすればいい」論である。これは、現代社会とは信じられないほど差別的である。最近ネットで掲載(いずれもはてな匿名ダイアリー)された、弱者男性への意見を見てみよう。・弱者男性は弱者男性同士でセックスすればいい・弱者男性の安楽死を合法化しよう・正直弱者男性のことなんかどうでもいいし、死ねばいい言語道断の差別である。特に1番目の「弱者男性は弱者男性同士でセックスしていればいい。そうすれば女性は気持ち悪い男性の被害に遭わずにすむ」という論調は、しばしば見られる差別だ。これを「黒人は黒人同士でセックスしていればいい」「女は女同士でセックスしていればいい」といった置き換えをすると、いかに過激な差別思想がそこにあるかがはっきりする。しかし、この発言が弱者男性にはいとも簡単に投じられてしまう。これこそ、日本の弱者男性差別の正体である。 こういった差別をしているのは、一部フェミニストだけではない。自分を強者側と信じている人たち――弱者男性を対岸の火事としてしか見られず、自分が弱者になる可能性を全く感じられない人たち――が、ネットで気軽に誹謗中傷を行っている。ただ、弱者男性の目線で見てみると、そうは見えない。なぜなら、強者男女はそもそも、弱者男性を無視するからだ。弱者男性を「実力がないために貧困に陥った、独身男性」としか見ていない強者の男女は、弱者男性の悲鳴を「努力してこなかった人の嘆き」として無視する。しかし、フェミニストにとって弱者男性の嘆きは無視では済まない。「男性だってつらいんだ」論は、時に「女よりも、男はつらいよ」と曲解ながら比較級で捉えられがちだからだ。相手の辛さに共感する前に、自分への差別を無視されてしまうわけである。ややこしいことに、フェミニストの中にも、単に「男性へ今まで受けた恨みつらみを晴らしたい」層がいる。学術的に”男嫌い”は「ミサンドリスト」として、フェミニストとは違うグループに属するのだが、日本では少なくとも彼女らもフェミニストと名乗っている。だから、フェミニスト=男を叩きたい女たち、とみなす人も少なくない。これらの自称・フェミニストは、男に「私達のほうがつらい」合戦をしかけてしまい、議論は平行線となる。「男らしさ、女らしさ」からの解放をその結果、どちらの方がつらいかをめぐり、弱者男性vs 弱者女性の罵り合いがネットには散見される。弱者男性にとっては、「男に復讐したい」ネットの自称・フェミニストがさらなる加害者に見えてしまうわけだ。そうして、弱者男性の叫びは「フェミニストへ。もう加害はやめてください」となる。弱者男性、いや、弱者すべてを無視する強者グループはこうして内ゲバを遠目に、無視を決め込める。弱者男性 vs 弱者女性が争ってくれる限り、自分たちに矛先は向かないからである。そして、「弱者男性を救うには、皆婚主義へ戻ったほうがよい」といった女性の人権に真っ向から対立する提案がなされてしまう事態まで起きている。これでは、家父長制をさらに強化し、「男らしさ」の呪縛へますます男性を絡め取らせてしまう。女性の苦痛は当然のことながら、男性の苦痛も解消できない。本末転倒もいいところであろう。〔PHOTO〕iStockむしろ冒頭に挙げた、・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこれらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
「男らしさ」として選ばれた項目・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこのような価値観が浸透すれば、「そうでない男性」はマイノリティへ押しやられる。具体的には、定職に就いていないなどの理由で経済力がなく、仕事が苦手な男性だ。また、「男らしさ」として選ばれた項目が、男性自身に「自分は弱者だから、助けてください」と声を挙げにくい状況を作っている。男性は忍耐力をもつべきだと思われている社会で、弱音を吐くこと自体が自分を不利に追いやりかねないからだ。〔PHOTO〕iStock このような背景もあり、男性は女性の2倍自殺している。女性より平均賃金が高く、学歴も高く、強者であるにもかかわらず、弱くなった男性は自死まで追い込まれやすい。こういった状況を、ある男性はブログで「ガラスの地下室」と呼んだ。女性がある程度以上の社会的地位を得られないことを「ガラスの天井」と呼ぶことの対比である。男性は、弱者になるととことん弱者になりやすい。不満の矛先は女性に向かいがちそして、2021年。弱者男性への支援を求める声が少しずつ出てきた。ただ、その中で特徴的なのは、弱者男性はフェミニスト女性を「加害者」と見がちな傾向だ。たとえば、最近多くの読者を集めた記事は、タイトルが「弱者男性差別は存在するから知ってください、フェミニストはこれ以上差別しないでください」となっている。つまり、フェミニストがこの「男らしさ」を強いる加害者だと感じているわけだ。これは、国際的なフェミニズムのトレンドと大きく乖離している。フェミニズムには1860年代ごろに生まれてから現代に至るまで、多数の潮流がある。しかし、今トレンドになっている主な流派は「99%の人が連帯できるフェミニズム」であり、男性を敵視しない。「私たちに従順であること、服従すること、沈黙することを要求する家父長制と資本主義の協力体制に抵抗し、闘いを挑む、現状のシステムの革命を呼びかける」出典:シンジア・アルッザ、ティティ・バタチャーリャ、ナンシー・フレイザー著、惠愛由翻訳『99%のためのフェミニズム宣言』2020年、人文書院 これを見ると、「男らしさ」を作ってきた家父長制や、資本主義こそ変えていくべきだという主張がなされている。その他さまざまな主張はあれど、男性へ男らしさを強いる側に、フェミニストはいないのだ。では、日本の弱者男性が見ている「加害者としてのフェミニスト」とは何者なのか。フェミニストだけが「加害者」に見えてしまう弱者男性がその弱者性を訴えると必ずといって出てくる議論が、「男同士でケアすればいい」論である。これは、現代社会とは信じられないほど差別的である。最近ネットで掲載(いずれもはてな匿名ダイアリー)された、弱者男性への意見を見てみよう。・弱者男性は弱者男性同士でセックスすればいい・弱者男性の安楽死を合法化しよう・正直弱者男性のことなんかどうでもいいし、死ねばいい言語道断の差別である。特に1番目の「弱者男性は弱者男性同士でセックスしていればいい。そうすれば女性は気持ち悪い男性の被害に遭わずにすむ」という論調は、しばしば見られる差別だ。これを「黒人は黒人同士でセックスしていればいい」「女は女同士でセックスしていればいい」といった置き換えをすると、いかに過激な差別思想がそこにあるかがはっきりする。しかし、この発言が弱者男性にはいとも簡単に投じられてしまう。これこそ、日本の弱者男性差別の正体である。 こういった差別をしているのは、一部フェミニストだけではない。自分を強者側と信じている人たち――弱者男性を対岸の火事としてしか見られず、自分が弱者になる可能性を全く感じられない人たち――が、ネットで気軽に誹謗中傷を行っている。ただ、弱者男性の目線で見てみると、そうは見えない。なぜなら、強者男女はそもそも、弱者男性を無視するからだ。弱者男性を「実力がないために貧困に陥った、独身男性」としか見ていない強者の男女は、弱者男性の悲鳴を「努力してこなかった人の嘆き」として無視する。しかし、フェミニストにとって弱者男性の嘆きは無視では済まない。「男性だってつらいんだ」論は、時に「女よりも、男はつらいよ」と曲解ながら比較級で捉えられがちだからだ。相手の辛さに共感する前に、自分への差別を無視されてしまうわけである。ややこしいことに、フェミニストの中にも、単に「男性へ今まで受けた恨みつらみを晴らしたい」層がいる。学術的に”男嫌い”は「ミサンドリスト」として、フェミニストとは違うグループに属するのだが、日本では少なくとも彼女らもフェミニストと名乗っている。だから、フェミニスト=男を叩きたい女たち、とみなす人も少なくない。これらの自称・フェミニストは、男に「私達のほうがつらい」合戦をしかけてしまい、議論は平行線となる。「男らしさ、女らしさ」からの解放をその結果、どちらの方がつらいかをめぐり、弱者男性vs 弱者女性の罵り合いがネットには散見される。弱者男性にとっては、「男に復讐したい」ネットの自称・フェミニストがさらなる加害者に見えてしまうわけだ。そうして、弱者男性の叫びは「フェミニストへ。もう加害はやめてください」となる。弱者男性、いや、弱者すべてを無視する強者グループはこうして内ゲバを遠目に、無視を決め込める。弱者男性 vs 弱者女性が争ってくれる限り、自分たちに矛先は向かないからである。そして、「弱者男性を救うには、皆婚主義へ戻ったほうがよい」といった女性の人権に真っ向から対立する提案がなされてしまう事態まで起きている。これでは、家父長制をさらに強化し、「男らしさ」の呪縛へますます男性を絡め取らせてしまう。女性の苦痛は当然のことながら、男性の苦痛も解消できない。本末転倒もいいところであろう。〔PHOTO〕iStockむしろ冒頭に挙げた、・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこれらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
このような価値観が浸透すれば、「そうでない男性」はマイノリティへ押しやられる。具体的には、定職に就いていないなどの理由で経済力がなく、仕事が苦手な男性だ。また、「男らしさ」として選ばれた項目が、男性自身に「自分は弱者だから、助けてください」と声を挙げにくい状況を作っている。男性は忍耐力をもつべきだと思われている社会で、弱音を吐くこと自体が自分を不利に追いやりかねないからだ。〔PHOTO〕iStock このような背景もあり、男性は女性の2倍自殺している。女性より平均賃金が高く、学歴も高く、強者であるにもかかわらず、弱くなった男性は自死まで追い込まれやすい。こういった状況を、ある男性はブログで「ガラスの地下室」と呼んだ。女性がある程度以上の社会的地位を得られないことを「ガラスの天井」と呼ぶことの対比である。男性は、弱者になるととことん弱者になりやすい。不満の矛先は女性に向かいがちそして、2021年。弱者男性への支援を求める声が少しずつ出てきた。ただ、その中で特徴的なのは、弱者男性はフェミニスト女性を「加害者」と見がちな傾向だ。たとえば、最近多くの読者を集めた記事は、タイトルが「弱者男性差別は存在するから知ってください、フェミニストはこれ以上差別しないでください」となっている。つまり、フェミニストがこの「男らしさ」を強いる加害者だと感じているわけだ。これは、国際的なフェミニズムのトレンドと大きく乖離している。フェミニズムには1860年代ごろに生まれてから現代に至るまで、多数の潮流がある。しかし、今トレンドになっている主な流派は「99%の人が連帯できるフェミニズム」であり、男性を敵視しない。「私たちに従順であること、服従すること、沈黙することを要求する家父長制と資本主義の協力体制に抵抗し、闘いを挑む、現状のシステムの革命を呼びかける」出典:シンジア・アルッザ、ティティ・バタチャーリャ、ナンシー・フレイザー著、惠愛由翻訳『99%のためのフェミニズム宣言』2020年、人文書院 これを見ると、「男らしさ」を作ってきた家父長制や、資本主義こそ変えていくべきだという主張がなされている。その他さまざまな主張はあれど、男性へ男らしさを強いる側に、フェミニストはいないのだ。では、日本の弱者男性が見ている「加害者としてのフェミニスト」とは何者なのか。フェミニストだけが「加害者」に見えてしまう弱者男性がその弱者性を訴えると必ずといって出てくる議論が、「男同士でケアすればいい」論である。これは、現代社会とは信じられないほど差別的である。最近ネットで掲載(いずれもはてな匿名ダイアリー)された、弱者男性への意見を見てみよう。・弱者男性は弱者男性同士でセックスすればいい・弱者男性の安楽死を合法化しよう・正直弱者男性のことなんかどうでもいいし、死ねばいい言語道断の差別である。特に1番目の「弱者男性は弱者男性同士でセックスしていればいい。そうすれば女性は気持ち悪い男性の被害に遭わずにすむ」という論調は、しばしば見られる差別だ。これを「黒人は黒人同士でセックスしていればいい」「女は女同士でセックスしていればいい」といった置き換えをすると、いかに過激な差別思想がそこにあるかがはっきりする。しかし、この発言が弱者男性にはいとも簡単に投じられてしまう。これこそ、日本の弱者男性差別の正体である。 こういった差別をしているのは、一部フェミニストだけではない。自分を強者側と信じている人たち――弱者男性を対岸の火事としてしか見られず、自分が弱者になる可能性を全く感じられない人たち――が、ネットで気軽に誹謗中傷を行っている。ただ、弱者男性の目線で見てみると、そうは見えない。なぜなら、強者男女はそもそも、弱者男性を無視するからだ。弱者男性を「実力がないために貧困に陥った、独身男性」としか見ていない強者の男女は、弱者男性の悲鳴を「努力してこなかった人の嘆き」として無視する。しかし、フェミニストにとって弱者男性の嘆きは無視では済まない。「男性だってつらいんだ」論は、時に「女よりも、男はつらいよ」と曲解ながら比較級で捉えられがちだからだ。相手の辛さに共感する前に、自分への差別を無視されてしまうわけである。ややこしいことに、フェミニストの中にも、単に「男性へ今まで受けた恨みつらみを晴らしたい」層がいる。学術的に”男嫌い”は「ミサンドリスト」として、フェミニストとは違うグループに属するのだが、日本では少なくとも彼女らもフェミニストと名乗っている。だから、フェミニスト=男を叩きたい女たち、とみなす人も少なくない。これらの自称・フェミニストは、男に「私達のほうがつらい」合戦をしかけてしまい、議論は平行線となる。「男らしさ、女らしさ」からの解放をその結果、どちらの方がつらいかをめぐり、弱者男性vs 弱者女性の罵り合いがネットには散見される。弱者男性にとっては、「男に復讐したい」ネットの自称・フェミニストがさらなる加害者に見えてしまうわけだ。そうして、弱者男性の叫びは「フェミニストへ。もう加害はやめてください」となる。弱者男性、いや、弱者すべてを無視する強者グループはこうして内ゲバを遠目に、無視を決め込める。弱者男性 vs 弱者女性が争ってくれる限り、自分たちに矛先は向かないからである。そして、「弱者男性を救うには、皆婚主義へ戻ったほうがよい」といった女性の人権に真っ向から対立する提案がなされてしまう事態まで起きている。これでは、家父長制をさらに強化し、「男らしさ」の呪縛へますます男性を絡め取らせてしまう。女性の苦痛は当然のことながら、男性の苦痛も解消できない。本末転倒もいいところであろう。〔PHOTO〕iStockむしろ冒頭に挙げた、・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこれらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
また、「男らしさ」として選ばれた項目が、男性自身に「自分は弱者だから、助けてください」と声を挙げにくい状況を作っている。男性は忍耐力をもつべきだと思われている社会で、弱音を吐くこと自体が自分を不利に追いやりかねないからだ。〔PHOTO〕iStock このような背景もあり、男性は女性の2倍自殺している。女性より平均賃金が高く、学歴も高く、強者であるにもかかわらず、弱くなった男性は自死まで追い込まれやすい。こういった状況を、ある男性はブログで「ガラスの地下室」と呼んだ。女性がある程度以上の社会的地位を得られないことを「ガラスの天井」と呼ぶことの対比である。男性は、弱者になるととことん弱者になりやすい。不満の矛先は女性に向かいがちそして、2021年。弱者男性への支援を求める声が少しずつ出てきた。ただ、その中で特徴的なのは、弱者男性はフェミニスト女性を「加害者」と見がちな傾向だ。たとえば、最近多くの読者を集めた記事は、タイトルが「弱者男性差別は存在するから知ってください、フェミニストはこれ以上差別しないでください」となっている。つまり、フェミニストがこの「男らしさ」を強いる加害者だと感じているわけだ。これは、国際的なフェミニズムのトレンドと大きく乖離している。フェミニズムには1860年代ごろに生まれてから現代に至るまで、多数の潮流がある。しかし、今トレンドになっている主な流派は「99%の人が連帯できるフェミニズム」であり、男性を敵視しない。「私たちに従順であること、服従すること、沈黙することを要求する家父長制と資本主義の協力体制に抵抗し、闘いを挑む、現状のシステムの革命を呼びかける」出典:シンジア・アルッザ、ティティ・バタチャーリャ、ナンシー・フレイザー著、惠愛由翻訳『99%のためのフェミニズム宣言』2020年、人文書院 これを見ると、「男らしさ」を作ってきた家父長制や、資本主義こそ変えていくべきだという主張がなされている。その他さまざまな主張はあれど、男性へ男らしさを強いる側に、フェミニストはいないのだ。では、日本の弱者男性が見ている「加害者としてのフェミニスト」とは何者なのか。フェミニストだけが「加害者」に見えてしまう弱者男性がその弱者性を訴えると必ずといって出てくる議論が、「男同士でケアすればいい」論である。これは、現代社会とは信じられないほど差別的である。最近ネットで掲載(いずれもはてな匿名ダイアリー)された、弱者男性への意見を見てみよう。・弱者男性は弱者男性同士でセックスすればいい・弱者男性の安楽死を合法化しよう・正直弱者男性のことなんかどうでもいいし、死ねばいい言語道断の差別である。特に1番目の「弱者男性は弱者男性同士でセックスしていればいい。そうすれば女性は気持ち悪い男性の被害に遭わずにすむ」という論調は、しばしば見られる差別だ。これを「黒人は黒人同士でセックスしていればいい」「女は女同士でセックスしていればいい」といった置き換えをすると、いかに過激な差別思想がそこにあるかがはっきりする。しかし、この発言が弱者男性にはいとも簡単に投じられてしまう。これこそ、日本の弱者男性差別の正体である。 こういった差別をしているのは、一部フェミニストだけではない。自分を強者側と信じている人たち――弱者男性を対岸の火事としてしか見られず、自分が弱者になる可能性を全く感じられない人たち――が、ネットで気軽に誹謗中傷を行っている。ただ、弱者男性の目線で見てみると、そうは見えない。なぜなら、強者男女はそもそも、弱者男性を無視するからだ。弱者男性を「実力がないために貧困に陥った、独身男性」としか見ていない強者の男女は、弱者男性の悲鳴を「努力してこなかった人の嘆き」として無視する。しかし、フェミニストにとって弱者男性の嘆きは無視では済まない。「男性だってつらいんだ」論は、時に「女よりも、男はつらいよ」と曲解ながら比較級で捉えられがちだからだ。相手の辛さに共感する前に、自分への差別を無視されてしまうわけである。ややこしいことに、フェミニストの中にも、単に「男性へ今まで受けた恨みつらみを晴らしたい」層がいる。学術的に”男嫌い”は「ミサンドリスト」として、フェミニストとは違うグループに属するのだが、日本では少なくとも彼女らもフェミニストと名乗っている。だから、フェミニスト=男を叩きたい女たち、とみなす人も少なくない。これらの自称・フェミニストは、男に「私達のほうがつらい」合戦をしかけてしまい、議論は平行線となる。「男らしさ、女らしさ」からの解放をその結果、どちらの方がつらいかをめぐり、弱者男性vs 弱者女性の罵り合いがネットには散見される。弱者男性にとっては、「男に復讐したい」ネットの自称・フェミニストがさらなる加害者に見えてしまうわけだ。そうして、弱者男性の叫びは「フェミニストへ。もう加害はやめてください」となる。弱者男性、いや、弱者すべてを無視する強者グループはこうして内ゲバを遠目に、無視を決め込める。弱者男性 vs 弱者女性が争ってくれる限り、自分たちに矛先は向かないからである。そして、「弱者男性を救うには、皆婚主義へ戻ったほうがよい」といった女性の人権に真っ向から対立する提案がなされてしまう事態まで起きている。これでは、家父長制をさらに強化し、「男らしさ」の呪縛へますます男性を絡め取らせてしまう。女性の苦痛は当然のことながら、男性の苦痛も解消できない。本末転倒もいいところであろう。〔PHOTO〕iStockむしろ冒頭に挙げた、・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこれらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
〔PHOTO〕iStock このような背景もあり、男性は女性の2倍自殺している。女性より平均賃金が高く、学歴も高く、強者であるにもかかわらず、弱くなった男性は自死まで追い込まれやすい。こういった状況を、ある男性はブログで「ガラスの地下室」と呼んだ。女性がある程度以上の社会的地位を得られないことを「ガラスの天井」と呼ぶことの対比である。男性は、弱者になるととことん弱者になりやすい。不満の矛先は女性に向かいがちそして、2021年。弱者男性への支援を求める声が少しずつ出てきた。ただ、その中で特徴的なのは、弱者男性はフェミニスト女性を「加害者」と見がちな傾向だ。たとえば、最近多くの読者を集めた記事は、タイトルが「弱者男性差別は存在するから知ってください、フェミニストはこれ以上差別しないでください」となっている。つまり、フェミニストがこの「男らしさ」を強いる加害者だと感じているわけだ。これは、国際的なフェミニズムのトレンドと大きく乖離している。フェミニズムには1860年代ごろに生まれてから現代に至るまで、多数の潮流がある。しかし、今トレンドになっている主な流派は「99%の人が連帯できるフェミニズム」であり、男性を敵視しない。「私たちに従順であること、服従すること、沈黙することを要求する家父長制と資本主義の協力体制に抵抗し、闘いを挑む、現状のシステムの革命を呼びかける」出典:シンジア・アルッザ、ティティ・バタチャーリャ、ナンシー・フレイザー著、惠愛由翻訳『99%のためのフェミニズム宣言』2020年、人文書院 これを見ると、「男らしさ」を作ってきた家父長制や、資本主義こそ変えていくべきだという主張がなされている。その他さまざまな主張はあれど、男性へ男らしさを強いる側に、フェミニストはいないのだ。では、日本の弱者男性が見ている「加害者としてのフェミニスト」とは何者なのか。フェミニストだけが「加害者」に見えてしまう弱者男性がその弱者性を訴えると必ずといって出てくる議論が、「男同士でケアすればいい」論である。これは、現代社会とは信じられないほど差別的である。最近ネットで掲載(いずれもはてな匿名ダイアリー)された、弱者男性への意見を見てみよう。・弱者男性は弱者男性同士でセックスすればいい・弱者男性の安楽死を合法化しよう・正直弱者男性のことなんかどうでもいいし、死ねばいい言語道断の差別である。特に1番目の「弱者男性は弱者男性同士でセックスしていればいい。そうすれば女性は気持ち悪い男性の被害に遭わずにすむ」という論調は、しばしば見られる差別だ。これを「黒人は黒人同士でセックスしていればいい」「女は女同士でセックスしていればいい」といった置き換えをすると、いかに過激な差別思想がそこにあるかがはっきりする。しかし、この発言が弱者男性にはいとも簡単に投じられてしまう。これこそ、日本の弱者男性差別の正体である。 こういった差別をしているのは、一部フェミニストだけではない。自分を強者側と信じている人たち――弱者男性を対岸の火事としてしか見られず、自分が弱者になる可能性を全く感じられない人たち――が、ネットで気軽に誹謗中傷を行っている。ただ、弱者男性の目線で見てみると、そうは見えない。なぜなら、強者男女はそもそも、弱者男性を無視するからだ。弱者男性を「実力がないために貧困に陥った、独身男性」としか見ていない強者の男女は、弱者男性の悲鳴を「努力してこなかった人の嘆き」として無視する。しかし、フェミニストにとって弱者男性の嘆きは無視では済まない。「男性だってつらいんだ」論は、時に「女よりも、男はつらいよ」と曲解ながら比較級で捉えられがちだからだ。相手の辛さに共感する前に、自分への差別を無視されてしまうわけである。ややこしいことに、フェミニストの中にも、単に「男性へ今まで受けた恨みつらみを晴らしたい」層がいる。学術的に”男嫌い”は「ミサンドリスト」として、フェミニストとは違うグループに属するのだが、日本では少なくとも彼女らもフェミニストと名乗っている。だから、フェミニスト=男を叩きたい女たち、とみなす人も少なくない。これらの自称・フェミニストは、男に「私達のほうがつらい」合戦をしかけてしまい、議論は平行線となる。「男らしさ、女らしさ」からの解放をその結果、どちらの方がつらいかをめぐり、弱者男性vs 弱者女性の罵り合いがネットには散見される。弱者男性にとっては、「男に復讐したい」ネットの自称・フェミニストがさらなる加害者に見えてしまうわけだ。そうして、弱者男性の叫びは「フェミニストへ。もう加害はやめてください」となる。弱者男性、いや、弱者すべてを無視する強者グループはこうして内ゲバを遠目に、無視を決め込める。弱者男性 vs 弱者女性が争ってくれる限り、自分たちに矛先は向かないからである。そして、「弱者男性を救うには、皆婚主義へ戻ったほうがよい」といった女性の人権に真っ向から対立する提案がなされてしまう事態まで起きている。これでは、家父長制をさらに強化し、「男らしさ」の呪縛へますます男性を絡め取らせてしまう。女性の苦痛は当然のことながら、男性の苦痛も解消できない。本末転倒もいいところであろう。〔PHOTO〕iStockむしろ冒頭に挙げた、・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこれらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
このような背景もあり、男性は女性の2倍自殺している。女性より平均賃金が高く、学歴も高く、強者であるにもかかわらず、弱くなった男性は自死まで追い込まれやすい。こういった状況を、ある男性はブログで「ガラスの地下室」と呼んだ。女性がある程度以上の社会的地位を得られないことを「ガラスの天井」と呼ぶことの対比である。男性は、弱者になるととことん弱者になりやすい。不満の矛先は女性に向かいがちそして、2021年。弱者男性への支援を求める声が少しずつ出てきた。ただ、その中で特徴的なのは、弱者男性はフェミニスト女性を「加害者」と見がちな傾向だ。たとえば、最近多くの読者を集めた記事は、タイトルが「弱者男性差別は存在するから知ってください、フェミニストはこれ以上差別しないでください」となっている。つまり、フェミニストがこの「男らしさ」を強いる加害者だと感じているわけだ。これは、国際的なフェミニズムのトレンドと大きく乖離している。フェミニズムには1860年代ごろに生まれてから現代に至るまで、多数の潮流がある。しかし、今トレンドになっている主な流派は「99%の人が連帯できるフェミニズム」であり、男性を敵視しない。「私たちに従順であること、服従すること、沈黙することを要求する家父長制と資本主義の協力体制に抵抗し、闘いを挑む、現状のシステムの革命を呼びかける」出典:シンジア・アルッザ、ティティ・バタチャーリャ、ナンシー・フレイザー著、惠愛由翻訳『99%のためのフェミニズム宣言』2020年、人文書院 これを見ると、「男らしさ」を作ってきた家父長制や、資本主義こそ変えていくべきだという主張がなされている。その他さまざまな主張はあれど、男性へ男らしさを強いる側に、フェミニストはいないのだ。では、日本の弱者男性が見ている「加害者としてのフェミニスト」とは何者なのか。フェミニストだけが「加害者」に見えてしまう弱者男性がその弱者性を訴えると必ずといって出てくる議論が、「男同士でケアすればいい」論である。これは、現代社会とは信じられないほど差別的である。最近ネットで掲載(いずれもはてな匿名ダイアリー)された、弱者男性への意見を見てみよう。・弱者男性は弱者男性同士でセックスすればいい・弱者男性の安楽死を合法化しよう・正直弱者男性のことなんかどうでもいいし、死ねばいい言語道断の差別である。特に1番目の「弱者男性は弱者男性同士でセックスしていればいい。そうすれば女性は気持ち悪い男性の被害に遭わずにすむ」という論調は、しばしば見られる差別だ。これを「黒人は黒人同士でセックスしていればいい」「女は女同士でセックスしていればいい」といった置き換えをすると、いかに過激な差別思想がそこにあるかがはっきりする。しかし、この発言が弱者男性にはいとも簡単に投じられてしまう。これこそ、日本の弱者男性差別の正体である。 こういった差別をしているのは、一部フェミニストだけではない。自分を強者側と信じている人たち――弱者男性を対岸の火事としてしか見られず、自分が弱者になる可能性を全く感じられない人たち――が、ネットで気軽に誹謗中傷を行っている。ただ、弱者男性の目線で見てみると、そうは見えない。なぜなら、強者男女はそもそも、弱者男性を無視するからだ。弱者男性を「実力がないために貧困に陥った、独身男性」としか見ていない強者の男女は、弱者男性の悲鳴を「努力してこなかった人の嘆き」として無視する。しかし、フェミニストにとって弱者男性の嘆きは無視では済まない。「男性だってつらいんだ」論は、時に「女よりも、男はつらいよ」と曲解ながら比較級で捉えられがちだからだ。相手の辛さに共感する前に、自分への差別を無視されてしまうわけである。ややこしいことに、フェミニストの中にも、単に「男性へ今まで受けた恨みつらみを晴らしたい」層がいる。学術的に”男嫌い”は「ミサンドリスト」として、フェミニストとは違うグループに属するのだが、日本では少なくとも彼女らもフェミニストと名乗っている。だから、フェミニスト=男を叩きたい女たち、とみなす人も少なくない。これらの自称・フェミニストは、男に「私達のほうがつらい」合戦をしかけてしまい、議論は平行線となる。「男らしさ、女らしさ」からの解放をその結果、どちらの方がつらいかをめぐり、弱者男性vs 弱者女性の罵り合いがネットには散見される。弱者男性にとっては、「男に復讐したい」ネットの自称・フェミニストがさらなる加害者に見えてしまうわけだ。そうして、弱者男性の叫びは「フェミニストへ。もう加害はやめてください」となる。弱者男性、いや、弱者すべてを無視する強者グループはこうして内ゲバを遠目に、無視を決め込める。弱者男性 vs 弱者女性が争ってくれる限り、自分たちに矛先は向かないからである。そして、「弱者男性を救うには、皆婚主義へ戻ったほうがよい」といった女性の人権に真っ向から対立する提案がなされてしまう事態まで起きている。これでは、家父長制をさらに強化し、「男らしさ」の呪縛へますます男性を絡め取らせてしまう。女性の苦痛は当然のことながら、男性の苦痛も解消できない。本末転倒もいいところであろう。〔PHOTO〕iStockむしろ冒頭に挙げた、・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこれらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
このような背景もあり、男性は女性の2倍自殺している。女性より平均賃金が高く、学歴も高く、強者であるにもかかわらず、弱くなった男性は自死まで追い込まれやすい。こういった状況を、ある男性はブログで「ガラスの地下室」と呼んだ。女性がある程度以上の社会的地位を得られないことを「ガラスの天井」と呼ぶことの対比である。男性は、弱者になるととことん弱者になりやすい。不満の矛先は女性に向かいがちそして、2021年。弱者男性への支援を求める声が少しずつ出てきた。ただ、その中で特徴的なのは、弱者男性はフェミニスト女性を「加害者」と見がちな傾向だ。たとえば、最近多くの読者を集めた記事は、タイトルが「弱者男性差別は存在するから知ってください、フェミニストはこれ以上差別しないでください」となっている。つまり、フェミニストがこの「男らしさ」を強いる加害者だと感じているわけだ。これは、国際的なフェミニズムのトレンドと大きく乖離している。フェミニズムには1860年代ごろに生まれてから現代に至るまで、多数の潮流がある。しかし、今トレンドになっている主な流派は「99%の人が連帯できるフェミニズム」であり、男性を敵視しない。「私たちに従順であること、服従すること、沈黙することを要求する家父長制と資本主義の協力体制に抵抗し、闘いを挑む、現状のシステムの革命を呼びかける」出典:シンジア・アルッザ、ティティ・バタチャーリャ、ナンシー・フレイザー著、惠愛由翻訳『99%のためのフェミニズム宣言』2020年、人文書院 これを見ると、「男らしさ」を作ってきた家父長制や、資本主義こそ変えていくべきだという主張がなされている。その他さまざまな主張はあれど、男性へ男らしさを強いる側に、フェミニストはいないのだ。では、日本の弱者男性が見ている「加害者としてのフェミニスト」とは何者なのか。フェミニストだけが「加害者」に見えてしまう弱者男性がその弱者性を訴えると必ずといって出てくる議論が、「男同士でケアすればいい」論である。これは、現代社会とは信じられないほど差別的である。最近ネットで掲載(いずれもはてな匿名ダイアリー)された、弱者男性への意見を見てみよう。・弱者男性は弱者男性同士でセックスすればいい・弱者男性の安楽死を合法化しよう・正直弱者男性のことなんかどうでもいいし、死ねばいい言語道断の差別である。特に1番目の「弱者男性は弱者男性同士でセックスしていればいい。そうすれば女性は気持ち悪い男性の被害に遭わずにすむ」という論調は、しばしば見られる差別だ。これを「黒人は黒人同士でセックスしていればいい」「女は女同士でセックスしていればいい」といった置き換えをすると、いかに過激な差別思想がそこにあるかがはっきりする。しかし、この発言が弱者男性にはいとも簡単に投じられてしまう。これこそ、日本の弱者男性差別の正体である。 こういった差別をしているのは、一部フェミニストだけではない。自分を強者側と信じている人たち――弱者男性を対岸の火事としてしか見られず、自分が弱者になる可能性を全く感じられない人たち――が、ネットで気軽に誹謗中傷を行っている。ただ、弱者男性の目線で見てみると、そうは見えない。なぜなら、強者男女はそもそも、弱者男性を無視するからだ。弱者男性を「実力がないために貧困に陥った、独身男性」としか見ていない強者の男女は、弱者男性の悲鳴を「努力してこなかった人の嘆き」として無視する。しかし、フェミニストにとって弱者男性の嘆きは無視では済まない。「男性だってつらいんだ」論は、時に「女よりも、男はつらいよ」と曲解ながら比較級で捉えられがちだからだ。相手の辛さに共感する前に、自分への差別を無視されてしまうわけである。ややこしいことに、フェミニストの中にも、単に「男性へ今まで受けた恨みつらみを晴らしたい」層がいる。学術的に”男嫌い”は「ミサンドリスト」として、フェミニストとは違うグループに属するのだが、日本では少なくとも彼女らもフェミニストと名乗っている。だから、フェミニスト=男を叩きたい女たち、とみなす人も少なくない。これらの自称・フェミニストは、男に「私達のほうがつらい」合戦をしかけてしまい、議論は平行線となる。「男らしさ、女らしさ」からの解放をその結果、どちらの方がつらいかをめぐり、弱者男性vs 弱者女性の罵り合いがネットには散見される。弱者男性にとっては、「男に復讐したい」ネットの自称・フェミニストがさらなる加害者に見えてしまうわけだ。そうして、弱者男性の叫びは「フェミニストへ。もう加害はやめてください」となる。弱者男性、いや、弱者すべてを無視する強者グループはこうして内ゲバを遠目に、無視を決め込める。弱者男性 vs 弱者女性が争ってくれる限り、自分たちに矛先は向かないからである。そして、「弱者男性を救うには、皆婚主義へ戻ったほうがよい」といった女性の人権に真っ向から対立する提案がなされてしまう事態まで起きている。これでは、家父長制をさらに強化し、「男らしさ」の呪縛へますます男性を絡め取らせてしまう。女性の苦痛は当然のことながら、男性の苦痛も解消できない。本末転倒もいいところであろう。〔PHOTO〕iStockむしろ冒頭に挙げた、・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこれらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
こういった状況を、ある男性はブログで「ガラスの地下室」と呼んだ。女性がある程度以上の社会的地位を得られないことを「ガラスの天井」と呼ぶことの対比である。男性は、弱者になるととことん弱者になりやすい。不満の矛先は女性に向かいがちそして、2021年。弱者男性への支援を求める声が少しずつ出てきた。ただ、その中で特徴的なのは、弱者男性はフェミニスト女性を「加害者」と見がちな傾向だ。たとえば、最近多くの読者を集めた記事は、タイトルが「弱者男性差別は存在するから知ってください、フェミニストはこれ以上差別しないでください」となっている。つまり、フェミニストがこの「男らしさ」を強いる加害者だと感じているわけだ。これは、国際的なフェミニズムのトレンドと大きく乖離している。フェミニズムには1860年代ごろに生まれてから現代に至るまで、多数の潮流がある。しかし、今トレンドになっている主な流派は「99%の人が連帯できるフェミニズム」であり、男性を敵視しない。「私たちに従順であること、服従すること、沈黙することを要求する家父長制と資本主義の協力体制に抵抗し、闘いを挑む、現状のシステムの革命を呼びかける」出典:シンジア・アルッザ、ティティ・バタチャーリャ、ナンシー・フレイザー著、惠愛由翻訳『99%のためのフェミニズム宣言』2020年、人文書院 これを見ると、「男らしさ」を作ってきた家父長制や、資本主義こそ変えていくべきだという主張がなされている。その他さまざまな主張はあれど、男性へ男らしさを強いる側に、フェミニストはいないのだ。では、日本の弱者男性が見ている「加害者としてのフェミニスト」とは何者なのか。フェミニストだけが「加害者」に見えてしまう弱者男性がその弱者性を訴えると必ずといって出てくる議論が、「男同士でケアすればいい」論である。これは、現代社会とは信じられないほど差別的である。最近ネットで掲載(いずれもはてな匿名ダイアリー)された、弱者男性への意見を見てみよう。・弱者男性は弱者男性同士でセックスすればいい・弱者男性の安楽死を合法化しよう・正直弱者男性のことなんかどうでもいいし、死ねばいい言語道断の差別である。特に1番目の「弱者男性は弱者男性同士でセックスしていればいい。そうすれば女性は気持ち悪い男性の被害に遭わずにすむ」という論調は、しばしば見られる差別だ。これを「黒人は黒人同士でセックスしていればいい」「女は女同士でセックスしていればいい」といった置き換えをすると、いかに過激な差別思想がそこにあるかがはっきりする。しかし、この発言が弱者男性にはいとも簡単に投じられてしまう。これこそ、日本の弱者男性差別の正体である。 こういった差別をしているのは、一部フェミニストだけではない。自分を強者側と信じている人たち――弱者男性を対岸の火事としてしか見られず、自分が弱者になる可能性を全く感じられない人たち――が、ネットで気軽に誹謗中傷を行っている。ただ、弱者男性の目線で見てみると、そうは見えない。なぜなら、強者男女はそもそも、弱者男性を無視するからだ。弱者男性を「実力がないために貧困に陥った、独身男性」としか見ていない強者の男女は、弱者男性の悲鳴を「努力してこなかった人の嘆き」として無視する。しかし、フェミニストにとって弱者男性の嘆きは無視では済まない。「男性だってつらいんだ」論は、時に「女よりも、男はつらいよ」と曲解ながら比較級で捉えられがちだからだ。相手の辛さに共感する前に、自分への差別を無視されてしまうわけである。ややこしいことに、フェミニストの中にも、単に「男性へ今まで受けた恨みつらみを晴らしたい」層がいる。学術的に”男嫌い”は「ミサンドリスト」として、フェミニストとは違うグループに属するのだが、日本では少なくとも彼女らもフェミニストと名乗っている。だから、フェミニスト=男を叩きたい女たち、とみなす人も少なくない。これらの自称・フェミニストは、男に「私達のほうがつらい」合戦をしかけてしまい、議論は平行線となる。「男らしさ、女らしさ」からの解放をその結果、どちらの方がつらいかをめぐり、弱者男性vs 弱者女性の罵り合いがネットには散見される。弱者男性にとっては、「男に復讐したい」ネットの自称・フェミニストがさらなる加害者に見えてしまうわけだ。そうして、弱者男性の叫びは「フェミニストへ。もう加害はやめてください」となる。弱者男性、いや、弱者すべてを無視する強者グループはこうして内ゲバを遠目に、無視を決め込める。弱者男性 vs 弱者女性が争ってくれる限り、自分たちに矛先は向かないからである。そして、「弱者男性を救うには、皆婚主義へ戻ったほうがよい」といった女性の人権に真っ向から対立する提案がなされてしまう事態まで起きている。これでは、家父長制をさらに強化し、「男らしさ」の呪縛へますます男性を絡め取らせてしまう。女性の苦痛は当然のことながら、男性の苦痛も解消できない。本末転倒もいいところであろう。〔PHOTO〕iStockむしろ冒頭に挙げた、・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこれらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
そして、2021年。弱者男性への支援を求める声が少しずつ出てきた。ただ、その中で特徴的なのは、弱者男性はフェミニスト女性を「加害者」と見がちな傾向だ。たとえば、最近多くの読者を集めた記事は、タイトルが「弱者男性差別は存在するから知ってください、フェミニストはこれ以上差別しないでください」となっている。つまり、フェミニストがこの「男らしさ」を強いる加害者だと感じているわけだ。これは、国際的なフェミニズムのトレンドと大きく乖離している。フェミニズムには1860年代ごろに生まれてから現代に至るまで、多数の潮流がある。しかし、今トレンドになっている主な流派は「99%の人が連帯できるフェミニズム」であり、男性を敵視しない。「私たちに従順であること、服従すること、沈黙することを要求する家父長制と資本主義の協力体制に抵抗し、闘いを挑む、現状のシステムの革命を呼びかける」出典:シンジア・アルッザ、ティティ・バタチャーリャ、ナンシー・フレイザー著、惠愛由翻訳『99%のためのフェミニズム宣言』2020年、人文書院 これを見ると、「男らしさ」を作ってきた家父長制や、資本主義こそ変えていくべきだという主張がなされている。その他さまざまな主張はあれど、男性へ男らしさを強いる側に、フェミニストはいないのだ。では、日本の弱者男性が見ている「加害者としてのフェミニスト」とは何者なのか。フェミニストだけが「加害者」に見えてしまう弱者男性がその弱者性を訴えると必ずといって出てくる議論が、「男同士でケアすればいい」論である。これは、現代社会とは信じられないほど差別的である。最近ネットで掲載(いずれもはてな匿名ダイアリー)された、弱者男性への意見を見てみよう。・弱者男性は弱者男性同士でセックスすればいい・弱者男性の安楽死を合法化しよう・正直弱者男性のことなんかどうでもいいし、死ねばいい言語道断の差別である。特に1番目の「弱者男性は弱者男性同士でセックスしていればいい。そうすれば女性は気持ち悪い男性の被害に遭わずにすむ」という論調は、しばしば見られる差別だ。これを「黒人は黒人同士でセックスしていればいい」「女は女同士でセックスしていればいい」といった置き換えをすると、いかに過激な差別思想がそこにあるかがはっきりする。しかし、この発言が弱者男性にはいとも簡単に投じられてしまう。これこそ、日本の弱者男性差別の正体である。 こういった差別をしているのは、一部フェミニストだけではない。自分を強者側と信じている人たち――弱者男性を対岸の火事としてしか見られず、自分が弱者になる可能性を全く感じられない人たち――が、ネットで気軽に誹謗中傷を行っている。ただ、弱者男性の目線で見てみると、そうは見えない。なぜなら、強者男女はそもそも、弱者男性を無視するからだ。弱者男性を「実力がないために貧困に陥った、独身男性」としか見ていない強者の男女は、弱者男性の悲鳴を「努力してこなかった人の嘆き」として無視する。しかし、フェミニストにとって弱者男性の嘆きは無視では済まない。「男性だってつらいんだ」論は、時に「女よりも、男はつらいよ」と曲解ながら比較級で捉えられがちだからだ。相手の辛さに共感する前に、自分への差別を無視されてしまうわけである。ややこしいことに、フェミニストの中にも、単に「男性へ今まで受けた恨みつらみを晴らしたい」層がいる。学術的に”男嫌い”は「ミサンドリスト」として、フェミニストとは違うグループに属するのだが、日本では少なくとも彼女らもフェミニストと名乗っている。だから、フェミニスト=男を叩きたい女たち、とみなす人も少なくない。これらの自称・フェミニストは、男に「私達のほうがつらい」合戦をしかけてしまい、議論は平行線となる。「男らしさ、女らしさ」からの解放をその結果、どちらの方がつらいかをめぐり、弱者男性vs 弱者女性の罵り合いがネットには散見される。弱者男性にとっては、「男に復讐したい」ネットの自称・フェミニストがさらなる加害者に見えてしまうわけだ。そうして、弱者男性の叫びは「フェミニストへ。もう加害はやめてください」となる。弱者男性、いや、弱者すべてを無視する強者グループはこうして内ゲバを遠目に、無視を決め込める。弱者男性 vs 弱者女性が争ってくれる限り、自分たちに矛先は向かないからである。そして、「弱者男性を救うには、皆婚主義へ戻ったほうがよい」といった女性の人権に真っ向から対立する提案がなされてしまう事態まで起きている。これでは、家父長制をさらに強化し、「男らしさ」の呪縛へますます男性を絡め取らせてしまう。女性の苦痛は当然のことながら、男性の苦痛も解消できない。本末転倒もいいところであろう。〔PHOTO〕iStockむしろ冒頭に挙げた、・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこれらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
たとえば、最近多くの読者を集めた記事は、タイトルが「弱者男性差別は存在するから知ってください、フェミニストはこれ以上差別しないでください」となっている。つまり、フェミニストがこの「男らしさ」を強いる加害者だと感じているわけだ。これは、国際的なフェミニズムのトレンドと大きく乖離している。フェミニズムには1860年代ごろに生まれてから現代に至るまで、多数の潮流がある。しかし、今トレンドになっている主な流派は「99%の人が連帯できるフェミニズム」であり、男性を敵視しない。「私たちに従順であること、服従すること、沈黙することを要求する家父長制と資本主義の協力体制に抵抗し、闘いを挑む、現状のシステムの革命を呼びかける」出典:シンジア・アルッザ、ティティ・バタチャーリャ、ナンシー・フレイザー著、惠愛由翻訳『99%のためのフェミニズム宣言』2020年、人文書院 これを見ると、「男らしさ」を作ってきた家父長制や、資本主義こそ変えていくべきだという主張がなされている。その他さまざまな主張はあれど、男性へ男らしさを強いる側に、フェミニストはいないのだ。では、日本の弱者男性が見ている「加害者としてのフェミニスト」とは何者なのか。フェミニストだけが「加害者」に見えてしまう弱者男性がその弱者性を訴えると必ずといって出てくる議論が、「男同士でケアすればいい」論である。これは、現代社会とは信じられないほど差別的である。最近ネットで掲載(いずれもはてな匿名ダイアリー)された、弱者男性への意見を見てみよう。・弱者男性は弱者男性同士でセックスすればいい・弱者男性の安楽死を合法化しよう・正直弱者男性のことなんかどうでもいいし、死ねばいい言語道断の差別である。特に1番目の「弱者男性は弱者男性同士でセックスしていればいい。そうすれば女性は気持ち悪い男性の被害に遭わずにすむ」という論調は、しばしば見られる差別だ。これを「黒人は黒人同士でセックスしていればいい」「女は女同士でセックスしていればいい」といった置き換えをすると、いかに過激な差別思想がそこにあるかがはっきりする。しかし、この発言が弱者男性にはいとも簡単に投じられてしまう。これこそ、日本の弱者男性差別の正体である。 こういった差別をしているのは、一部フェミニストだけではない。自分を強者側と信じている人たち――弱者男性を対岸の火事としてしか見られず、自分が弱者になる可能性を全く感じられない人たち――が、ネットで気軽に誹謗中傷を行っている。ただ、弱者男性の目線で見てみると、そうは見えない。なぜなら、強者男女はそもそも、弱者男性を無視するからだ。弱者男性を「実力がないために貧困に陥った、独身男性」としか見ていない強者の男女は、弱者男性の悲鳴を「努力してこなかった人の嘆き」として無視する。しかし、フェミニストにとって弱者男性の嘆きは無視では済まない。「男性だってつらいんだ」論は、時に「女よりも、男はつらいよ」と曲解ながら比較級で捉えられがちだからだ。相手の辛さに共感する前に、自分への差別を無視されてしまうわけである。ややこしいことに、フェミニストの中にも、単に「男性へ今まで受けた恨みつらみを晴らしたい」層がいる。学術的に”男嫌い”は「ミサンドリスト」として、フェミニストとは違うグループに属するのだが、日本では少なくとも彼女らもフェミニストと名乗っている。だから、フェミニスト=男を叩きたい女たち、とみなす人も少なくない。これらの自称・フェミニストは、男に「私達のほうがつらい」合戦をしかけてしまい、議論は平行線となる。「男らしさ、女らしさ」からの解放をその結果、どちらの方がつらいかをめぐり、弱者男性vs 弱者女性の罵り合いがネットには散見される。弱者男性にとっては、「男に復讐したい」ネットの自称・フェミニストがさらなる加害者に見えてしまうわけだ。そうして、弱者男性の叫びは「フェミニストへ。もう加害はやめてください」となる。弱者男性、いや、弱者すべてを無視する強者グループはこうして内ゲバを遠目に、無視を決め込める。弱者男性 vs 弱者女性が争ってくれる限り、自分たちに矛先は向かないからである。そして、「弱者男性を救うには、皆婚主義へ戻ったほうがよい」といった女性の人権に真っ向から対立する提案がなされてしまう事態まで起きている。これでは、家父長制をさらに強化し、「男らしさ」の呪縛へますます男性を絡め取らせてしまう。女性の苦痛は当然のことながら、男性の苦痛も解消できない。本末転倒もいいところであろう。〔PHOTO〕iStockむしろ冒頭に挙げた、・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこれらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
これは、国際的なフェミニズムのトレンドと大きく乖離している。フェミニズムには1860年代ごろに生まれてから現代に至るまで、多数の潮流がある。しかし、今トレンドになっている主な流派は「99%の人が連帯できるフェミニズム」であり、男性を敵視しない。「私たちに従順であること、服従すること、沈黙することを要求する家父長制と資本主義の協力体制に抵抗し、闘いを挑む、現状のシステムの革命を呼びかける」出典:シンジア・アルッザ、ティティ・バタチャーリャ、ナンシー・フレイザー著、惠愛由翻訳『99%のためのフェミニズム宣言』2020年、人文書院 これを見ると、「男らしさ」を作ってきた家父長制や、資本主義こそ変えていくべきだという主張がなされている。その他さまざまな主張はあれど、男性へ男らしさを強いる側に、フェミニストはいないのだ。では、日本の弱者男性が見ている「加害者としてのフェミニスト」とは何者なのか。フェミニストだけが「加害者」に見えてしまう弱者男性がその弱者性を訴えると必ずといって出てくる議論が、「男同士でケアすればいい」論である。これは、現代社会とは信じられないほど差別的である。最近ネットで掲載(いずれもはてな匿名ダイアリー)された、弱者男性への意見を見てみよう。・弱者男性は弱者男性同士でセックスすればいい・弱者男性の安楽死を合法化しよう・正直弱者男性のことなんかどうでもいいし、死ねばいい言語道断の差別である。特に1番目の「弱者男性は弱者男性同士でセックスしていればいい。そうすれば女性は気持ち悪い男性の被害に遭わずにすむ」という論調は、しばしば見られる差別だ。これを「黒人は黒人同士でセックスしていればいい」「女は女同士でセックスしていればいい」といった置き換えをすると、いかに過激な差別思想がそこにあるかがはっきりする。しかし、この発言が弱者男性にはいとも簡単に投じられてしまう。これこそ、日本の弱者男性差別の正体である。 こういった差別をしているのは、一部フェミニストだけではない。自分を強者側と信じている人たち――弱者男性を対岸の火事としてしか見られず、自分が弱者になる可能性を全く感じられない人たち――が、ネットで気軽に誹謗中傷を行っている。ただ、弱者男性の目線で見てみると、そうは見えない。なぜなら、強者男女はそもそも、弱者男性を無視するからだ。弱者男性を「実力がないために貧困に陥った、独身男性」としか見ていない強者の男女は、弱者男性の悲鳴を「努力してこなかった人の嘆き」として無視する。しかし、フェミニストにとって弱者男性の嘆きは無視では済まない。「男性だってつらいんだ」論は、時に「女よりも、男はつらいよ」と曲解ながら比較級で捉えられがちだからだ。相手の辛さに共感する前に、自分への差別を無視されてしまうわけである。ややこしいことに、フェミニストの中にも、単に「男性へ今まで受けた恨みつらみを晴らしたい」層がいる。学術的に”男嫌い”は「ミサンドリスト」として、フェミニストとは違うグループに属するのだが、日本では少なくとも彼女らもフェミニストと名乗っている。だから、フェミニスト=男を叩きたい女たち、とみなす人も少なくない。これらの自称・フェミニストは、男に「私達のほうがつらい」合戦をしかけてしまい、議論は平行線となる。「男らしさ、女らしさ」からの解放をその結果、どちらの方がつらいかをめぐり、弱者男性vs 弱者女性の罵り合いがネットには散見される。弱者男性にとっては、「男に復讐したい」ネットの自称・フェミニストがさらなる加害者に見えてしまうわけだ。そうして、弱者男性の叫びは「フェミニストへ。もう加害はやめてください」となる。弱者男性、いや、弱者すべてを無視する強者グループはこうして内ゲバを遠目に、無視を決め込める。弱者男性 vs 弱者女性が争ってくれる限り、自分たちに矛先は向かないからである。そして、「弱者男性を救うには、皆婚主義へ戻ったほうがよい」といった女性の人権に真っ向から対立する提案がなされてしまう事態まで起きている。これでは、家父長制をさらに強化し、「男らしさ」の呪縛へますます男性を絡め取らせてしまう。女性の苦痛は当然のことながら、男性の苦痛も解消できない。本末転倒もいいところであろう。〔PHOTO〕iStockむしろ冒頭に挙げた、・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこれらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
「私たちに従順であること、服従すること、沈黙することを要求する家父長制と資本主義の協力体制に抵抗し、闘いを挑む、現状のシステムの革命を呼びかける」出典:シンジア・アルッザ、ティティ・バタチャーリャ、ナンシー・フレイザー著、惠愛由翻訳『99%のためのフェミニズム宣言』2020年、人文書院 これを見ると、「男らしさ」を作ってきた家父長制や、資本主義こそ変えていくべきだという主張がなされている。その他さまざまな主張はあれど、男性へ男らしさを強いる側に、フェミニストはいないのだ。では、日本の弱者男性が見ている「加害者としてのフェミニスト」とは何者なのか。フェミニストだけが「加害者」に見えてしまう弱者男性がその弱者性を訴えると必ずといって出てくる議論が、「男同士でケアすればいい」論である。これは、現代社会とは信じられないほど差別的である。最近ネットで掲載(いずれもはてな匿名ダイアリー)された、弱者男性への意見を見てみよう。・弱者男性は弱者男性同士でセックスすればいい・弱者男性の安楽死を合法化しよう・正直弱者男性のことなんかどうでもいいし、死ねばいい言語道断の差別である。特に1番目の「弱者男性は弱者男性同士でセックスしていればいい。そうすれば女性は気持ち悪い男性の被害に遭わずにすむ」という論調は、しばしば見られる差別だ。これを「黒人は黒人同士でセックスしていればいい」「女は女同士でセックスしていればいい」といった置き換えをすると、いかに過激な差別思想がそこにあるかがはっきりする。しかし、この発言が弱者男性にはいとも簡単に投じられてしまう。これこそ、日本の弱者男性差別の正体である。 こういった差別をしているのは、一部フェミニストだけではない。自分を強者側と信じている人たち――弱者男性を対岸の火事としてしか見られず、自分が弱者になる可能性を全く感じられない人たち――が、ネットで気軽に誹謗中傷を行っている。ただ、弱者男性の目線で見てみると、そうは見えない。なぜなら、強者男女はそもそも、弱者男性を無視するからだ。弱者男性を「実力がないために貧困に陥った、独身男性」としか見ていない強者の男女は、弱者男性の悲鳴を「努力してこなかった人の嘆き」として無視する。しかし、フェミニストにとって弱者男性の嘆きは無視では済まない。「男性だってつらいんだ」論は、時に「女よりも、男はつらいよ」と曲解ながら比較級で捉えられがちだからだ。相手の辛さに共感する前に、自分への差別を無視されてしまうわけである。ややこしいことに、フェミニストの中にも、単に「男性へ今まで受けた恨みつらみを晴らしたい」層がいる。学術的に”男嫌い”は「ミサンドリスト」として、フェミニストとは違うグループに属するのだが、日本では少なくとも彼女らもフェミニストと名乗っている。だから、フェミニスト=男を叩きたい女たち、とみなす人も少なくない。これらの自称・フェミニストは、男に「私達のほうがつらい」合戦をしかけてしまい、議論は平行線となる。「男らしさ、女らしさ」からの解放をその結果、どちらの方がつらいかをめぐり、弱者男性vs 弱者女性の罵り合いがネットには散見される。弱者男性にとっては、「男に復讐したい」ネットの自称・フェミニストがさらなる加害者に見えてしまうわけだ。そうして、弱者男性の叫びは「フェミニストへ。もう加害はやめてください」となる。弱者男性、いや、弱者すべてを無視する強者グループはこうして内ゲバを遠目に、無視を決め込める。弱者男性 vs 弱者女性が争ってくれる限り、自分たちに矛先は向かないからである。そして、「弱者男性を救うには、皆婚主義へ戻ったほうがよい」といった女性の人権に真っ向から対立する提案がなされてしまう事態まで起きている。これでは、家父長制をさらに強化し、「男らしさ」の呪縛へますます男性を絡め取らせてしまう。女性の苦痛は当然のことながら、男性の苦痛も解消できない。本末転倒もいいところであろう。〔PHOTO〕iStockむしろ冒頭に挙げた、・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこれらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
これを見ると、「男らしさ」を作ってきた家父長制や、資本主義こそ変えていくべきだという主張がなされている。その他さまざまな主張はあれど、男性へ男らしさを強いる側に、フェミニストはいないのだ。では、日本の弱者男性が見ている「加害者としてのフェミニスト」とは何者なのか。フェミニストだけが「加害者」に見えてしまう弱者男性がその弱者性を訴えると必ずといって出てくる議論が、「男同士でケアすればいい」論である。これは、現代社会とは信じられないほど差別的である。最近ネットで掲載(いずれもはてな匿名ダイアリー)された、弱者男性への意見を見てみよう。・弱者男性は弱者男性同士でセックスすればいい・弱者男性の安楽死を合法化しよう・正直弱者男性のことなんかどうでもいいし、死ねばいい言語道断の差別である。特に1番目の「弱者男性は弱者男性同士でセックスしていればいい。そうすれば女性は気持ち悪い男性の被害に遭わずにすむ」という論調は、しばしば見られる差別だ。これを「黒人は黒人同士でセックスしていればいい」「女は女同士でセックスしていればいい」といった置き換えをすると、いかに過激な差別思想がそこにあるかがはっきりする。しかし、この発言が弱者男性にはいとも簡単に投じられてしまう。これこそ、日本の弱者男性差別の正体である。 こういった差別をしているのは、一部フェミニストだけではない。自分を強者側と信じている人たち――弱者男性を対岸の火事としてしか見られず、自分が弱者になる可能性を全く感じられない人たち――が、ネットで気軽に誹謗中傷を行っている。ただ、弱者男性の目線で見てみると、そうは見えない。なぜなら、強者男女はそもそも、弱者男性を無視するからだ。弱者男性を「実力がないために貧困に陥った、独身男性」としか見ていない強者の男女は、弱者男性の悲鳴を「努力してこなかった人の嘆き」として無視する。しかし、フェミニストにとって弱者男性の嘆きは無視では済まない。「男性だってつらいんだ」論は、時に「女よりも、男はつらいよ」と曲解ながら比較級で捉えられがちだからだ。相手の辛さに共感する前に、自分への差別を無視されてしまうわけである。ややこしいことに、フェミニストの中にも、単に「男性へ今まで受けた恨みつらみを晴らしたい」層がいる。学術的に”男嫌い”は「ミサンドリスト」として、フェミニストとは違うグループに属するのだが、日本では少なくとも彼女らもフェミニストと名乗っている。だから、フェミニスト=男を叩きたい女たち、とみなす人も少なくない。これらの自称・フェミニストは、男に「私達のほうがつらい」合戦をしかけてしまい、議論は平行線となる。「男らしさ、女らしさ」からの解放をその結果、どちらの方がつらいかをめぐり、弱者男性vs 弱者女性の罵り合いがネットには散見される。弱者男性にとっては、「男に復讐したい」ネットの自称・フェミニストがさらなる加害者に見えてしまうわけだ。そうして、弱者男性の叫びは「フェミニストへ。もう加害はやめてください」となる。弱者男性、いや、弱者すべてを無視する強者グループはこうして内ゲバを遠目に、無視を決め込める。弱者男性 vs 弱者女性が争ってくれる限り、自分たちに矛先は向かないからである。そして、「弱者男性を救うには、皆婚主義へ戻ったほうがよい」といった女性の人権に真っ向から対立する提案がなされてしまう事態まで起きている。これでは、家父長制をさらに強化し、「男らしさ」の呪縛へますます男性を絡め取らせてしまう。女性の苦痛は当然のことながら、男性の苦痛も解消できない。本末転倒もいいところであろう。〔PHOTO〕iStockむしろ冒頭に挙げた、・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこれらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
これを見ると、「男らしさ」を作ってきた家父長制や、資本主義こそ変えていくべきだという主張がなされている。その他さまざまな主張はあれど、男性へ男らしさを強いる側に、フェミニストはいないのだ。では、日本の弱者男性が見ている「加害者としてのフェミニスト」とは何者なのか。フェミニストだけが「加害者」に見えてしまう弱者男性がその弱者性を訴えると必ずといって出てくる議論が、「男同士でケアすればいい」論である。これは、現代社会とは信じられないほど差別的である。最近ネットで掲載(いずれもはてな匿名ダイアリー)された、弱者男性への意見を見てみよう。・弱者男性は弱者男性同士でセックスすればいい・弱者男性の安楽死を合法化しよう・正直弱者男性のことなんかどうでもいいし、死ねばいい言語道断の差別である。特に1番目の「弱者男性は弱者男性同士でセックスしていればいい。そうすれば女性は気持ち悪い男性の被害に遭わずにすむ」という論調は、しばしば見られる差別だ。これを「黒人は黒人同士でセックスしていればいい」「女は女同士でセックスしていればいい」といった置き換えをすると、いかに過激な差別思想がそこにあるかがはっきりする。しかし、この発言が弱者男性にはいとも簡単に投じられてしまう。これこそ、日本の弱者男性差別の正体である。 こういった差別をしているのは、一部フェミニストだけではない。自分を強者側と信じている人たち――弱者男性を対岸の火事としてしか見られず、自分が弱者になる可能性を全く感じられない人たち――が、ネットで気軽に誹謗中傷を行っている。ただ、弱者男性の目線で見てみると、そうは見えない。なぜなら、強者男女はそもそも、弱者男性を無視するからだ。弱者男性を「実力がないために貧困に陥った、独身男性」としか見ていない強者の男女は、弱者男性の悲鳴を「努力してこなかった人の嘆き」として無視する。しかし、フェミニストにとって弱者男性の嘆きは無視では済まない。「男性だってつらいんだ」論は、時に「女よりも、男はつらいよ」と曲解ながら比較級で捉えられがちだからだ。相手の辛さに共感する前に、自分への差別を無視されてしまうわけである。ややこしいことに、フェミニストの中にも、単に「男性へ今まで受けた恨みつらみを晴らしたい」層がいる。学術的に”男嫌い”は「ミサンドリスト」として、フェミニストとは違うグループに属するのだが、日本では少なくとも彼女らもフェミニストと名乗っている。だから、フェミニスト=男を叩きたい女たち、とみなす人も少なくない。これらの自称・フェミニストは、男に「私達のほうがつらい」合戦をしかけてしまい、議論は平行線となる。「男らしさ、女らしさ」からの解放をその結果、どちらの方がつらいかをめぐり、弱者男性vs 弱者女性の罵り合いがネットには散見される。弱者男性にとっては、「男に復讐したい」ネットの自称・フェミニストがさらなる加害者に見えてしまうわけだ。そうして、弱者男性の叫びは「フェミニストへ。もう加害はやめてください」となる。弱者男性、いや、弱者すべてを無視する強者グループはこうして内ゲバを遠目に、無視を決め込める。弱者男性 vs 弱者女性が争ってくれる限り、自分たちに矛先は向かないからである。そして、「弱者男性を救うには、皆婚主義へ戻ったほうがよい」といった女性の人権に真っ向から対立する提案がなされてしまう事態まで起きている。これでは、家父長制をさらに強化し、「男らしさ」の呪縛へますます男性を絡め取らせてしまう。女性の苦痛は当然のことながら、男性の苦痛も解消できない。本末転倒もいいところであろう。〔PHOTO〕iStockむしろ冒頭に挙げた、・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこれらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
では、日本の弱者男性が見ている「加害者としてのフェミニスト」とは何者なのか。フェミニストだけが「加害者」に見えてしまう弱者男性がその弱者性を訴えると必ずといって出てくる議論が、「男同士でケアすればいい」論である。これは、現代社会とは信じられないほど差別的である。最近ネットで掲載(いずれもはてな匿名ダイアリー)された、弱者男性への意見を見てみよう。・弱者男性は弱者男性同士でセックスすればいい・弱者男性の安楽死を合法化しよう・正直弱者男性のことなんかどうでもいいし、死ねばいい言語道断の差別である。特に1番目の「弱者男性は弱者男性同士でセックスしていればいい。そうすれば女性は気持ち悪い男性の被害に遭わずにすむ」という論調は、しばしば見られる差別だ。これを「黒人は黒人同士でセックスしていればいい」「女は女同士でセックスしていればいい」といった置き換えをすると、いかに過激な差別思想がそこにあるかがはっきりする。しかし、この発言が弱者男性にはいとも簡単に投じられてしまう。これこそ、日本の弱者男性差別の正体である。 こういった差別をしているのは、一部フェミニストだけではない。自分を強者側と信じている人たち――弱者男性を対岸の火事としてしか見られず、自分が弱者になる可能性を全く感じられない人たち――が、ネットで気軽に誹謗中傷を行っている。ただ、弱者男性の目線で見てみると、そうは見えない。なぜなら、強者男女はそもそも、弱者男性を無視するからだ。弱者男性を「実力がないために貧困に陥った、独身男性」としか見ていない強者の男女は、弱者男性の悲鳴を「努力してこなかった人の嘆き」として無視する。しかし、フェミニストにとって弱者男性の嘆きは無視では済まない。「男性だってつらいんだ」論は、時に「女よりも、男はつらいよ」と曲解ながら比較級で捉えられがちだからだ。相手の辛さに共感する前に、自分への差別を無視されてしまうわけである。ややこしいことに、フェミニストの中にも、単に「男性へ今まで受けた恨みつらみを晴らしたい」層がいる。学術的に”男嫌い”は「ミサンドリスト」として、フェミニストとは違うグループに属するのだが、日本では少なくとも彼女らもフェミニストと名乗っている。だから、フェミニスト=男を叩きたい女たち、とみなす人も少なくない。これらの自称・フェミニストは、男に「私達のほうがつらい」合戦をしかけてしまい、議論は平行線となる。「男らしさ、女らしさ」からの解放をその結果、どちらの方がつらいかをめぐり、弱者男性vs 弱者女性の罵り合いがネットには散見される。弱者男性にとっては、「男に復讐したい」ネットの自称・フェミニストがさらなる加害者に見えてしまうわけだ。そうして、弱者男性の叫びは「フェミニストへ。もう加害はやめてください」となる。弱者男性、いや、弱者すべてを無視する強者グループはこうして内ゲバを遠目に、無視を決め込める。弱者男性 vs 弱者女性が争ってくれる限り、自分たちに矛先は向かないからである。そして、「弱者男性を救うには、皆婚主義へ戻ったほうがよい」といった女性の人権に真っ向から対立する提案がなされてしまう事態まで起きている。これでは、家父長制をさらに強化し、「男らしさ」の呪縛へますます男性を絡め取らせてしまう。女性の苦痛は当然のことながら、男性の苦痛も解消できない。本末転倒もいいところであろう。〔PHOTO〕iStockむしろ冒頭に挙げた、・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこれらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
弱者男性がその弱者性を訴えると必ずといって出てくる議論が、「男同士でケアすればいい」論である。これは、現代社会とは信じられないほど差別的である。最近ネットで掲載(いずれもはてな匿名ダイアリー)された、弱者男性への意見を見てみよう。・弱者男性は弱者男性同士でセックスすればいい・弱者男性の安楽死を合法化しよう・正直弱者男性のことなんかどうでもいいし、死ねばいい言語道断の差別である。特に1番目の「弱者男性は弱者男性同士でセックスしていればいい。そうすれば女性は気持ち悪い男性の被害に遭わずにすむ」という論調は、しばしば見られる差別だ。これを「黒人は黒人同士でセックスしていればいい」「女は女同士でセックスしていればいい」といった置き換えをすると、いかに過激な差別思想がそこにあるかがはっきりする。しかし、この発言が弱者男性にはいとも簡単に投じられてしまう。これこそ、日本の弱者男性差別の正体である。 こういった差別をしているのは、一部フェミニストだけではない。自分を強者側と信じている人たち――弱者男性を対岸の火事としてしか見られず、自分が弱者になる可能性を全く感じられない人たち――が、ネットで気軽に誹謗中傷を行っている。ただ、弱者男性の目線で見てみると、そうは見えない。なぜなら、強者男女はそもそも、弱者男性を無視するからだ。弱者男性を「実力がないために貧困に陥った、独身男性」としか見ていない強者の男女は、弱者男性の悲鳴を「努力してこなかった人の嘆き」として無視する。しかし、フェミニストにとって弱者男性の嘆きは無視では済まない。「男性だってつらいんだ」論は、時に「女よりも、男はつらいよ」と曲解ながら比較級で捉えられがちだからだ。相手の辛さに共感する前に、自分への差別を無視されてしまうわけである。ややこしいことに、フェミニストの中にも、単に「男性へ今まで受けた恨みつらみを晴らしたい」層がいる。学術的に”男嫌い”は「ミサンドリスト」として、フェミニストとは違うグループに属するのだが、日本では少なくとも彼女らもフェミニストと名乗っている。だから、フェミニスト=男を叩きたい女たち、とみなす人も少なくない。これらの自称・フェミニストは、男に「私達のほうがつらい」合戦をしかけてしまい、議論は平行線となる。「男らしさ、女らしさ」からの解放をその結果、どちらの方がつらいかをめぐり、弱者男性vs 弱者女性の罵り合いがネットには散見される。弱者男性にとっては、「男に復讐したい」ネットの自称・フェミニストがさらなる加害者に見えてしまうわけだ。そうして、弱者男性の叫びは「フェミニストへ。もう加害はやめてください」となる。弱者男性、いや、弱者すべてを無視する強者グループはこうして内ゲバを遠目に、無視を決め込める。弱者男性 vs 弱者女性が争ってくれる限り、自分たちに矛先は向かないからである。そして、「弱者男性を救うには、皆婚主義へ戻ったほうがよい」といった女性の人権に真っ向から対立する提案がなされてしまう事態まで起きている。これでは、家父長制をさらに強化し、「男らしさ」の呪縛へますます男性を絡め取らせてしまう。女性の苦痛は当然のことながら、男性の苦痛も解消できない。本末転倒もいいところであろう。〔PHOTO〕iStockむしろ冒頭に挙げた、・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこれらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
・弱者男性は弱者男性同士でセックスすればいい・弱者男性の安楽死を合法化しよう・正直弱者男性のことなんかどうでもいいし、死ねばいい言語道断の差別である。特に1番目の「弱者男性は弱者男性同士でセックスしていればいい。そうすれば女性は気持ち悪い男性の被害に遭わずにすむ」という論調は、しばしば見られる差別だ。これを「黒人は黒人同士でセックスしていればいい」「女は女同士でセックスしていればいい」といった置き換えをすると、いかに過激な差別思想がそこにあるかがはっきりする。しかし、この発言が弱者男性にはいとも簡単に投じられてしまう。これこそ、日本の弱者男性差別の正体である。 こういった差別をしているのは、一部フェミニストだけではない。自分を強者側と信じている人たち――弱者男性を対岸の火事としてしか見られず、自分が弱者になる可能性を全く感じられない人たち――が、ネットで気軽に誹謗中傷を行っている。ただ、弱者男性の目線で見てみると、そうは見えない。なぜなら、強者男女はそもそも、弱者男性を無視するからだ。弱者男性を「実力がないために貧困に陥った、独身男性」としか見ていない強者の男女は、弱者男性の悲鳴を「努力してこなかった人の嘆き」として無視する。しかし、フェミニストにとって弱者男性の嘆きは無視では済まない。「男性だってつらいんだ」論は、時に「女よりも、男はつらいよ」と曲解ながら比較級で捉えられがちだからだ。相手の辛さに共感する前に、自分への差別を無視されてしまうわけである。ややこしいことに、フェミニストの中にも、単に「男性へ今まで受けた恨みつらみを晴らしたい」層がいる。学術的に”男嫌い”は「ミサンドリスト」として、フェミニストとは違うグループに属するのだが、日本では少なくとも彼女らもフェミニストと名乗っている。だから、フェミニスト=男を叩きたい女たち、とみなす人も少なくない。これらの自称・フェミニストは、男に「私達のほうがつらい」合戦をしかけてしまい、議論は平行線となる。「男らしさ、女らしさ」からの解放をその結果、どちらの方がつらいかをめぐり、弱者男性vs 弱者女性の罵り合いがネットには散見される。弱者男性にとっては、「男に復讐したい」ネットの自称・フェミニストがさらなる加害者に見えてしまうわけだ。そうして、弱者男性の叫びは「フェミニストへ。もう加害はやめてください」となる。弱者男性、いや、弱者すべてを無視する強者グループはこうして内ゲバを遠目に、無視を決め込める。弱者男性 vs 弱者女性が争ってくれる限り、自分たちに矛先は向かないからである。そして、「弱者男性を救うには、皆婚主義へ戻ったほうがよい」といった女性の人権に真っ向から対立する提案がなされてしまう事態まで起きている。これでは、家父長制をさらに強化し、「男らしさ」の呪縛へますます男性を絡め取らせてしまう。女性の苦痛は当然のことながら、男性の苦痛も解消できない。本末転倒もいいところであろう。〔PHOTO〕iStockむしろ冒頭に挙げた、・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこれらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
言語道断の差別である。特に1番目の「弱者男性は弱者男性同士でセックスしていればいい。そうすれば女性は気持ち悪い男性の被害に遭わずにすむ」という論調は、しばしば見られる差別だ。これを「黒人は黒人同士でセックスしていればいい」「女は女同士でセックスしていればいい」といった置き換えをすると、いかに過激な差別思想がそこにあるかがはっきりする。しかし、この発言が弱者男性にはいとも簡単に投じられてしまう。これこそ、日本の弱者男性差別の正体である。 こういった差別をしているのは、一部フェミニストだけではない。自分を強者側と信じている人たち――弱者男性を対岸の火事としてしか見られず、自分が弱者になる可能性を全く感じられない人たち――が、ネットで気軽に誹謗中傷を行っている。ただ、弱者男性の目線で見てみると、そうは見えない。なぜなら、強者男女はそもそも、弱者男性を無視するからだ。弱者男性を「実力がないために貧困に陥った、独身男性」としか見ていない強者の男女は、弱者男性の悲鳴を「努力してこなかった人の嘆き」として無視する。しかし、フェミニストにとって弱者男性の嘆きは無視では済まない。「男性だってつらいんだ」論は、時に「女よりも、男はつらいよ」と曲解ながら比較級で捉えられがちだからだ。相手の辛さに共感する前に、自分への差別を無視されてしまうわけである。ややこしいことに、フェミニストの中にも、単に「男性へ今まで受けた恨みつらみを晴らしたい」層がいる。学術的に”男嫌い”は「ミサンドリスト」として、フェミニストとは違うグループに属するのだが、日本では少なくとも彼女らもフェミニストと名乗っている。だから、フェミニスト=男を叩きたい女たち、とみなす人も少なくない。これらの自称・フェミニストは、男に「私達のほうがつらい」合戦をしかけてしまい、議論は平行線となる。「男らしさ、女らしさ」からの解放をその結果、どちらの方がつらいかをめぐり、弱者男性vs 弱者女性の罵り合いがネットには散見される。弱者男性にとっては、「男に復讐したい」ネットの自称・フェミニストがさらなる加害者に見えてしまうわけだ。そうして、弱者男性の叫びは「フェミニストへ。もう加害はやめてください」となる。弱者男性、いや、弱者すべてを無視する強者グループはこうして内ゲバを遠目に、無視を決め込める。弱者男性 vs 弱者女性が争ってくれる限り、自分たちに矛先は向かないからである。そして、「弱者男性を救うには、皆婚主義へ戻ったほうがよい」といった女性の人権に真っ向から対立する提案がなされてしまう事態まで起きている。これでは、家父長制をさらに強化し、「男らしさ」の呪縛へますます男性を絡め取らせてしまう。女性の苦痛は当然のことながら、男性の苦痛も解消できない。本末転倒もいいところであろう。〔PHOTO〕iStockむしろ冒頭に挙げた、・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこれらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
これを「黒人は黒人同士でセックスしていればいい」「女は女同士でセックスしていればいい」といった置き換えをすると、いかに過激な差別思想がそこにあるかがはっきりする。しかし、この発言が弱者男性にはいとも簡単に投じられてしまう。これこそ、日本の弱者男性差別の正体である。 こういった差別をしているのは、一部フェミニストだけではない。自分を強者側と信じている人たち――弱者男性を対岸の火事としてしか見られず、自分が弱者になる可能性を全く感じられない人たち――が、ネットで気軽に誹謗中傷を行っている。ただ、弱者男性の目線で見てみると、そうは見えない。なぜなら、強者男女はそもそも、弱者男性を無視するからだ。弱者男性を「実力がないために貧困に陥った、独身男性」としか見ていない強者の男女は、弱者男性の悲鳴を「努力してこなかった人の嘆き」として無視する。しかし、フェミニストにとって弱者男性の嘆きは無視では済まない。「男性だってつらいんだ」論は、時に「女よりも、男はつらいよ」と曲解ながら比較級で捉えられがちだからだ。相手の辛さに共感する前に、自分への差別を無視されてしまうわけである。ややこしいことに、フェミニストの中にも、単に「男性へ今まで受けた恨みつらみを晴らしたい」層がいる。学術的に”男嫌い”は「ミサンドリスト」として、フェミニストとは違うグループに属するのだが、日本では少なくとも彼女らもフェミニストと名乗っている。だから、フェミニスト=男を叩きたい女たち、とみなす人も少なくない。これらの自称・フェミニストは、男に「私達のほうがつらい」合戦をしかけてしまい、議論は平行線となる。「男らしさ、女らしさ」からの解放をその結果、どちらの方がつらいかをめぐり、弱者男性vs 弱者女性の罵り合いがネットには散見される。弱者男性にとっては、「男に復讐したい」ネットの自称・フェミニストがさらなる加害者に見えてしまうわけだ。そうして、弱者男性の叫びは「フェミニストへ。もう加害はやめてください」となる。弱者男性、いや、弱者すべてを無視する強者グループはこうして内ゲバを遠目に、無視を決め込める。弱者男性 vs 弱者女性が争ってくれる限り、自分たちに矛先は向かないからである。そして、「弱者男性を救うには、皆婚主義へ戻ったほうがよい」といった女性の人権に真っ向から対立する提案がなされてしまう事態まで起きている。これでは、家父長制をさらに強化し、「男らしさ」の呪縛へますます男性を絡め取らせてしまう。女性の苦痛は当然のことながら、男性の苦痛も解消できない。本末転倒もいいところであろう。〔PHOTO〕iStockむしろ冒頭に挙げた、・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこれらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
こういった差別をしているのは、一部フェミニストだけではない。自分を強者側と信じている人たち――弱者男性を対岸の火事としてしか見られず、自分が弱者になる可能性を全く感じられない人たち――が、ネットで気軽に誹謗中傷を行っている。ただ、弱者男性の目線で見てみると、そうは見えない。なぜなら、強者男女はそもそも、弱者男性を無視するからだ。弱者男性を「実力がないために貧困に陥った、独身男性」としか見ていない強者の男女は、弱者男性の悲鳴を「努力してこなかった人の嘆き」として無視する。しかし、フェミニストにとって弱者男性の嘆きは無視では済まない。「男性だってつらいんだ」論は、時に「女よりも、男はつらいよ」と曲解ながら比較級で捉えられがちだからだ。相手の辛さに共感する前に、自分への差別を無視されてしまうわけである。ややこしいことに、フェミニストの中にも、単に「男性へ今まで受けた恨みつらみを晴らしたい」層がいる。学術的に”男嫌い”は「ミサンドリスト」として、フェミニストとは違うグループに属するのだが、日本では少なくとも彼女らもフェミニストと名乗っている。だから、フェミニスト=男を叩きたい女たち、とみなす人も少なくない。これらの自称・フェミニストは、男に「私達のほうがつらい」合戦をしかけてしまい、議論は平行線となる。「男らしさ、女らしさ」からの解放をその結果、どちらの方がつらいかをめぐり、弱者男性vs 弱者女性の罵り合いがネットには散見される。弱者男性にとっては、「男に復讐したい」ネットの自称・フェミニストがさらなる加害者に見えてしまうわけだ。そうして、弱者男性の叫びは「フェミニストへ。もう加害はやめてください」となる。弱者男性、いや、弱者すべてを無視する強者グループはこうして内ゲバを遠目に、無視を決め込める。弱者男性 vs 弱者女性が争ってくれる限り、自分たちに矛先は向かないからである。そして、「弱者男性を救うには、皆婚主義へ戻ったほうがよい」といった女性の人権に真っ向から対立する提案がなされてしまう事態まで起きている。これでは、家父長制をさらに強化し、「男らしさ」の呪縛へますます男性を絡め取らせてしまう。女性の苦痛は当然のことながら、男性の苦痛も解消できない。本末転倒もいいところであろう。〔PHOTO〕iStockむしろ冒頭に挙げた、・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこれらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
こういった差別をしているのは、一部フェミニストだけではない。自分を強者側と信じている人たち――弱者男性を対岸の火事としてしか見られず、自分が弱者になる可能性を全く感じられない人たち――が、ネットで気軽に誹謗中傷を行っている。ただ、弱者男性の目線で見てみると、そうは見えない。なぜなら、強者男女はそもそも、弱者男性を無視するからだ。弱者男性を「実力がないために貧困に陥った、独身男性」としか見ていない強者の男女は、弱者男性の悲鳴を「努力してこなかった人の嘆き」として無視する。しかし、フェミニストにとって弱者男性の嘆きは無視では済まない。「男性だってつらいんだ」論は、時に「女よりも、男はつらいよ」と曲解ながら比較級で捉えられがちだからだ。相手の辛さに共感する前に、自分への差別を無視されてしまうわけである。ややこしいことに、フェミニストの中にも、単に「男性へ今まで受けた恨みつらみを晴らしたい」層がいる。学術的に”男嫌い”は「ミサンドリスト」として、フェミニストとは違うグループに属するのだが、日本では少なくとも彼女らもフェミニストと名乗っている。だから、フェミニスト=男を叩きたい女たち、とみなす人も少なくない。これらの自称・フェミニストは、男に「私達のほうがつらい」合戦をしかけてしまい、議論は平行線となる。「男らしさ、女らしさ」からの解放をその結果、どちらの方がつらいかをめぐり、弱者男性vs 弱者女性の罵り合いがネットには散見される。弱者男性にとっては、「男に復讐したい」ネットの自称・フェミニストがさらなる加害者に見えてしまうわけだ。そうして、弱者男性の叫びは「フェミニストへ。もう加害はやめてください」となる。弱者男性、いや、弱者すべてを無視する強者グループはこうして内ゲバを遠目に、無視を決め込める。弱者男性 vs 弱者女性が争ってくれる限り、自分たちに矛先は向かないからである。そして、「弱者男性を救うには、皆婚主義へ戻ったほうがよい」といった女性の人権に真っ向から対立する提案がなされてしまう事態まで起きている。これでは、家父長制をさらに強化し、「男らしさ」の呪縛へますます男性を絡め取らせてしまう。女性の苦痛は当然のことながら、男性の苦痛も解消できない。本末転倒もいいところであろう。〔PHOTO〕iStockむしろ冒頭に挙げた、・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこれらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
ただ、弱者男性の目線で見てみると、そうは見えない。なぜなら、強者男女はそもそも、弱者男性を無視するからだ。弱者男性を「実力がないために貧困に陥った、独身男性」としか見ていない強者の男女は、弱者男性の悲鳴を「努力してこなかった人の嘆き」として無視する。しかし、フェミニストにとって弱者男性の嘆きは無視では済まない。「男性だってつらいんだ」論は、時に「女よりも、男はつらいよ」と曲解ながら比較級で捉えられがちだからだ。相手の辛さに共感する前に、自分への差別を無視されてしまうわけである。ややこしいことに、フェミニストの中にも、単に「男性へ今まで受けた恨みつらみを晴らしたい」層がいる。学術的に”男嫌い”は「ミサンドリスト」として、フェミニストとは違うグループに属するのだが、日本では少なくとも彼女らもフェミニストと名乗っている。だから、フェミニスト=男を叩きたい女たち、とみなす人も少なくない。これらの自称・フェミニストは、男に「私達のほうがつらい」合戦をしかけてしまい、議論は平行線となる。「男らしさ、女らしさ」からの解放をその結果、どちらの方がつらいかをめぐり、弱者男性vs 弱者女性の罵り合いがネットには散見される。弱者男性にとっては、「男に復讐したい」ネットの自称・フェミニストがさらなる加害者に見えてしまうわけだ。そうして、弱者男性の叫びは「フェミニストへ。もう加害はやめてください」となる。弱者男性、いや、弱者すべてを無視する強者グループはこうして内ゲバを遠目に、無視を決め込める。弱者男性 vs 弱者女性が争ってくれる限り、自分たちに矛先は向かないからである。そして、「弱者男性を救うには、皆婚主義へ戻ったほうがよい」といった女性の人権に真っ向から対立する提案がなされてしまう事態まで起きている。これでは、家父長制をさらに強化し、「男らしさ」の呪縛へますます男性を絡め取らせてしまう。女性の苦痛は当然のことながら、男性の苦痛も解消できない。本末転倒もいいところであろう。〔PHOTO〕iStockむしろ冒頭に挙げた、・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこれらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
しかし、フェミニストにとって弱者男性の嘆きは無視では済まない。「男性だってつらいんだ」論は、時に「女よりも、男はつらいよ」と曲解ながら比較級で捉えられがちだからだ。相手の辛さに共感する前に、自分への差別を無視されてしまうわけである。ややこしいことに、フェミニストの中にも、単に「男性へ今まで受けた恨みつらみを晴らしたい」層がいる。学術的に”男嫌い”は「ミサンドリスト」として、フェミニストとは違うグループに属するのだが、日本では少なくとも彼女らもフェミニストと名乗っている。だから、フェミニスト=男を叩きたい女たち、とみなす人も少なくない。これらの自称・フェミニストは、男に「私達のほうがつらい」合戦をしかけてしまい、議論は平行線となる。「男らしさ、女らしさ」からの解放をその結果、どちらの方がつらいかをめぐり、弱者男性vs 弱者女性の罵り合いがネットには散見される。弱者男性にとっては、「男に復讐したい」ネットの自称・フェミニストがさらなる加害者に見えてしまうわけだ。そうして、弱者男性の叫びは「フェミニストへ。もう加害はやめてください」となる。弱者男性、いや、弱者すべてを無視する強者グループはこうして内ゲバを遠目に、無視を決め込める。弱者男性 vs 弱者女性が争ってくれる限り、自分たちに矛先は向かないからである。そして、「弱者男性を救うには、皆婚主義へ戻ったほうがよい」といった女性の人権に真っ向から対立する提案がなされてしまう事態まで起きている。これでは、家父長制をさらに強化し、「男らしさ」の呪縛へますます男性を絡め取らせてしまう。女性の苦痛は当然のことながら、男性の苦痛も解消できない。本末転倒もいいところであろう。〔PHOTO〕iStockむしろ冒頭に挙げた、・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこれらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
ややこしいことに、フェミニストの中にも、単に「男性へ今まで受けた恨みつらみを晴らしたい」層がいる。学術的に”男嫌い”は「ミサンドリスト」として、フェミニストとは違うグループに属するのだが、日本では少なくとも彼女らもフェミニストと名乗っている。だから、フェミニスト=男を叩きたい女たち、とみなす人も少なくない。これらの自称・フェミニストは、男に「私達のほうがつらい」合戦をしかけてしまい、議論は平行線となる。「男らしさ、女らしさ」からの解放をその結果、どちらの方がつらいかをめぐり、弱者男性vs 弱者女性の罵り合いがネットには散見される。弱者男性にとっては、「男に復讐したい」ネットの自称・フェミニストがさらなる加害者に見えてしまうわけだ。そうして、弱者男性の叫びは「フェミニストへ。もう加害はやめてください」となる。弱者男性、いや、弱者すべてを無視する強者グループはこうして内ゲバを遠目に、無視を決め込める。弱者男性 vs 弱者女性が争ってくれる限り、自分たちに矛先は向かないからである。そして、「弱者男性を救うには、皆婚主義へ戻ったほうがよい」といった女性の人権に真っ向から対立する提案がなされてしまう事態まで起きている。これでは、家父長制をさらに強化し、「男らしさ」の呪縛へますます男性を絡め取らせてしまう。女性の苦痛は当然のことながら、男性の苦痛も解消できない。本末転倒もいいところであろう。〔PHOTO〕iStockむしろ冒頭に挙げた、・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこれらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
その結果、どちらの方がつらいかをめぐり、弱者男性vs 弱者女性の罵り合いがネットには散見される。弱者男性にとっては、「男に復讐したい」ネットの自称・フェミニストがさらなる加害者に見えてしまうわけだ。そうして、弱者男性の叫びは「フェミニストへ。もう加害はやめてください」となる。弱者男性、いや、弱者すべてを無視する強者グループはこうして内ゲバを遠目に、無視を決め込める。弱者男性 vs 弱者女性が争ってくれる限り、自分たちに矛先は向かないからである。そして、「弱者男性を救うには、皆婚主義へ戻ったほうがよい」といった女性の人権に真っ向から対立する提案がなされてしまう事態まで起きている。これでは、家父長制をさらに強化し、「男らしさ」の呪縛へますます男性を絡め取らせてしまう。女性の苦痛は当然のことながら、男性の苦痛も解消できない。本末転倒もいいところであろう。〔PHOTO〕iStockむしろ冒頭に挙げた、・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこれらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
そうして、弱者男性の叫びは「フェミニストへ。もう加害はやめてください」となる。弱者男性、いや、弱者すべてを無視する強者グループはこうして内ゲバを遠目に、無視を決め込める。弱者男性 vs 弱者女性が争ってくれる限り、自分たちに矛先は向かないからである。そして、「弱者男性を救うには、皆婚主義へ戻ったほうがよい」といった女性の人権に真っ向から対立する提案がなされてしまう事態まで起きている。これでは、家父長制をさらに強化し、「男らしさ」の呪縛へますます男性を絡め取らせてしまう。女性の苦痛は当然のことながら、男性の苦痛も解消できない。本末転倒もいいところであろう。〔PHOTO〕iStockむしろ冒頭に挙げた、・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこれらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
そして、「弱者男性を救うには、皆婚主義へ戻ったほうがよい」といった女性の人権に真っ向から対立する提案がなされてしまう事態まで起きている。これでは、家父長制をさらに強化し、「男らしさ」の呪縛へますます男性を絡め取らせてしまう。女性の苦痛は当然のことながら、男性の苦痛も解消できない。本末転倒もいいところであろう。〔PHOTO〕iStockむしろ冒頭に挙げた、・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこれらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
〔PHOTO〕iStockむしろ冒頭に挙げた、・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこれらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
むしろ冒頭に挙げた、・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこれらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
・男は経済力や忍耐力をもつべきだと思う・男は仕事ができないとメンツにかかわると思う・定職についていない男性は一人前でない・仕事の出来ない男は女よりも肩身が狭いこれらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
これらの規範をひとつずつ見直し、男女ともに「男らしさ、女らしさ」から解放していくべきなのである。少子化が進む中で「男と女、どちらがよりカワイソウか対決」をしている場合ではない。女性が働かなければ、もうこの国は立ち行かないのである。職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。
職場の男女平等は理想像ではなく、必須のプロセスだ。そして弱者は男であれ女であれ、あるいはその他の性別であれ、等しく手を差し伸べられてよい。すべての弱者に対する差別は、自分が弱者になったときに降りかかる。そして、弱者になりえない人間など、この世にはいないのだ。