夫の失職でコンビニ経営に手を出した夫婦の末路。365日無休で、借金返済に追われる日々

新築購入後夫の会社が倒産した荻野さん夫妻(仮名)。やむにやまれずコンビニ経営に手を出したが、それはいばらの道だった……。 家計は火の車。家のローンとロイヤリティの支払いがのしかかる。* * * * * * *体に染みついた節約の意識月末になると、財布の中を整理する。餃子やハンバーガーの割引券、天丼チェーン店の海老天1本無料券……。外食なんてほとんどしないが、もしかしたら使う時があるかも。その時のために、財布の中はいつもクーポン券でパンパンだ。そして結局は、ため息と共にゴミ箱に捨てられる。

それだけではない。トイレは小なら1回では流さないし、お風呂も数日間は追い炊きする。電気・ガス料金は、まとめて一番安くなる方法を常に調べて契約し直す。いつ買ったのかわからないほどボロボロのクイックルワイパーに挟むのは、普通のティッシュペーパーだ。髪の毛やホコリはこれで十分。最後に、湿らせたティッシュでたまったゴミをふき取って終了。化粧品は高いので、10年ほど前から化粧をやめた。髪は2、3ヵ月に1度、1000円カットの店に行きベリーショートにしてもらう。服を買うのだって、一大事。シーズン終わりに買うなんてまだ早い。そこからさらに待って格安になった時に残り物を狙うのだ。ワゴンの300円のTシャツだって絶対に試着!「安い」「着て楽」「洗濯に耐えうる生地」。それが買うかどうかの判断基準だ。そうして買った安い服は、繰り返される洗濯で色褪せ、生地がデロンデロンに伸びても捨てない。パジャマ代わりや部屋着としていつまでも現役なのだ。おしゃれ感覚や流行りのスタイルなんてどうでもいい。食べ物には、健康を考えて一応気は使うが、高級食材やお取り寄せなんて、別世界の話。毎日チラシをチェックし、その時最もお買い得品が多い1店舗に絞って買う。以前は、2、3軒ハシゴしたり、安い日替わり品を狙って毎日行ったりしたが、買い物の回数が多くなれば、結局は食費も高くつく。そのうえ疲れるとわかってやめた。商品の底値は頭に入っているから衝動買いはしない。なんてったって、買い物の失敗は許されないのだから。私だって、せこく、みみっちく生きたいわけじゃない。しかし、そうせざるをえない状況が長く続くほど、節約の意識は体に、頭に、染みついていったのだ。この生活感覚に慣らされて20年近く経つ。夫の失職で家のローンが仇に生まれ育ったのは、田舎の小さな山村だ。実家は農家で、お世辞にも裕福とは言えず、服を買ってもらうことなどほとんどなく、いつも着た切り雀だった。食べるものも自給自足が基本。家の隣には畑があり、わずかだが代々保有している山では、山菜などの山の恵みが採れる。質素極まりない暮らしを18歳まで続け、就職を機に都会に出た。「三つ子の魂百まで」のことわざ通り、都会に住んでも質素に暮らした。やがて結婚して夫婦共働きの生活が始まった。抽選で当たった公団住宅に住み、その頃の世帯収入は年800万円ほど。毎月の黒字分が約10万円。それに私のパート代や夫のボーナスを合わせた年400万円を貯金にまわした。月末の給料日には、パートに出勤する前に郵便局に行き、定期貯金口座にお金を預ける。その頃は金利も高く、埋まっていく通帳のページをめくるたびに気持ちが高揚した。別段贅沢をしたいとも思わなかったので、面白いようにお金が貯まっていく。それを頭金にして住宅メーカーの家を建てたのは2000年の秋のことだ。4歳になった娘を保育園に預けて働いた。狭いながらも注文建築で土地付き一戸建ての家を建てたのは、当時、同じく家を買おうとしていた夫のきょうだいや、友達への見栄もあったことは否めない。新築の家を見に来たみんなが、造りのよさに感嘆し、羨ましそうな表情になり、言葉を発した時、私はそれまでに感じたことのない優越感を覚えたものだった。そう、「うちはあなたたちとはちょっと違う」と上から目線で見ていたのだ。順風満帆という言葉は自分のためにあるように思えた。今の収入なら、住宅ローンの繰り上げ返済をし続ければ、夫の定年までには払い終えられそうだ。完済すれば、退職金や年金はまるまる自由に使え、老後はお金の心配なく暮らせる。30年先の未来の余裕も手に入れた気がして、心は満ち足りていた。だが。身の丈に合わぬ行動をしたからなのか、優越感が一瞬にして吹き飛ぶような出来事が起こる。夫の会社が傾き始めたと思ったら、あっという間に潰れた。どこの会社も正社員雇用を渋り、夫の転職活動は困難を極める。これといった資格もなく、ましてや家と家族持ちで手当を必要とする人材など、面接すらしてもらえないことも少なくなかった。わずかに退職金が出たが、そんなものは焼け石に水。高い年収が続く前提で組んだ住宅ローンは家計に重くのしかかり、残る道は家を売ることしかない。しかし、ローンの残額が多すぎて、たとえ売れても売却損が出る始末で、売るに売れない。家を建てた時に貯金はすべて使い果たしたし、建築途中に思わぬ設備投資が必要になり、両親に借りた200万円もある。このままでは、半年もしないうちに家計が破綻してしまう。ずっと続いていた晴天が、突然翳り出し、あっという間に一歩先すら見通せないような土砂降りに。そんな気がした。売り上げが高くても手元にお金は残らない夫婦で暗澹たる気持ちで過ごしていた時だ。ふと連絡をくれた夫の友人の紹介で、夫婦でコンビニのフランチャイズ契約をすることになった。契約に必要な諸経費や開店資金はフランチャイズ本部に借り、なんとか開店にこぎつける。止む気配のなかった大雨の中に、一筋の光が差した。真面目に働けばその分だけ、ちゃんと自分に見返りがあると信じて疑わなかったからだ。しかし、この道もいばらの道だった。どうやら私たち夫婦には、商才はなかったようだ。365日休みもなく、慢性的な人手不足やクレーム、トラブル対応に追われる日々。やってもやっても、仕事はどこかから湧き出てくる。心身の疲れ以上につらかったのは、支払いの工面をすることだ。自営業がこんなにお金が貯まらないものだと、この仕事に携わるまで知らなかった。まるで底なし沼である。人件費をはじめとする諸経費全般を経営主が負担するフランチャイズ契約では、なかなか自分たちの懐にお金が入ってこない。店の売り上げは大きかったが、開店時の借金の返済や本部へのロイヤリティの支払いは容赦ない。夫の手取りが10万に満たない月もある。利益があがるのに、お金はほとんど手元に残らなかった。それでも毎月、フランチャイズ本部にお金を借りて生活費に充て、住宅ローンを何とか落とさずに払い続けた。2ヵ月払えなければ、家は銀行に差し押さえられてしまうからだ。娘の成長とともに学費も高くなり、なおさら家計を圧迫するようにもなった。公立の進学校に進んだ娘は、高校で必要なものやガラケー代、模試費用を自分で捻出したいと言う。原則アルバイト禁止だったが、先生に家庭の事情を話して頼み込んだ。私も学校に出向き、生活を支えるためにバイトの必要性を懇願した。「親と一緒の職場なら」との条件でバイトを許可してもらったものの、私たち親子を見る先生の切ない表情は、今も忘れられない。家族3人一致団結、家計を支えるために日々頑張った。しかし、やはり出ていくお金が多過ぎる。ここでもし、大きな病気でもして夫婦どちらかが働けなくなったらおしまいだ。その恐怖心が常に付きまとう。それ以前に、病院に行く時間もお金もないのが現実だった。とにかく24時間365日、店のスタッフが途切れないようにして、あきそうな穴を埋め続ける日々。睡眠時間を削り、夫とともに日の出前に車に乗りこみ、早朝勤務をこなす日も多かった。「いつか、いつか絶対にこの底なし沼から抜け出してやる」、それだけを胸に秘めながら。(イラスト:おおの麻里)足元の小さな幸せをみしめてコンビニを始めて15年、何とか契約満了を迎え店をやめることができた。奨学金を借りて大学を卒業した娘も、昨年就職して独立。節約に節約を重ね、山場は乗り越えたが、今なおお金はない。職業病ともいうべき過重労働による慢性疲労や腰痛は持病として残る。50歳という年齢を考えれば、その後の転職活動は厳しいものであると思われた。夫も、私自身も、納得いくような職場はそうそう見つからないだろうと。しかし、夫は学生時代の知り合いを通じて正社員の職を得ることができた。私もハローワークで、たまたま家の近所でパートを募集しているのを見つけ、雇ってもらうことに。世帯収入は家を買った頃に比べれば半分以下。夫にはボーナスも退職金も昇給もない。私もカレンダー通りに休みになるから、連休や年末年始に当たる月は、収入はわずかだ。正月やお盆には、夫の実家にきょうだいが集う。きらびやかなお取り寄せおせちや豪華なオードブル。裕福な親戚たちがその日のために頼んだものや買ってきたもの。それ以外にも、数々の手土産や両親へのお小遣いを渡している。わが家は、小さな菓子折りを渡したきりでご相伴にあずかるばかり。周囲からの憐れむような視線を感じるが素知らぬふりをする。だから、昨年はコロナ禍で集まる機会がなく、少しホッとした。「服も買えんような生活させてごめんね」。着た切り雀の私に、姑が申し訳なさそうにつぶやく。しかし、何と言われても構わない。人がどう思おうと、私の人生は続くのだ。身の丈に合わないことをすれば何が待っているのかは、じゅうぶん身に沁みている。今もし、宝くじが当たって大金を手にしたとしても、舞い上がってとんでもない散財など絶対にしないという自信がある。ただ、残念だが宝くじを買う、その種銭が私にはない。試算すると60歳の定年を迎えても、住宅ローンはまだ800万円ほど残る。これからどんどん歳をとっていく。不安にかられない日はない。それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
新築購入後夫の会社が倒産した荻野さん夫妻(仮名)。やむにやまれずコンビニ経営に手を出したが、それはいばらの道だった……。 家計は火の車。家のローンとロイヤリティの支払いがのしかかる。
* * * * * * *
月末になると、財布の中を整理する。餃子やハンバーガーの割引券、天丼チェーン店の海老天1本無料券……。外食なんてほとんどしないが、もしかしたら使う時があるかも。その時のために、財布の中はいつもクーポン券でパンパンだ。そして結局は、ため息と共にゴミ箱に捨てられる。
それだけではない。トイレは小なら1回では流さないし、お風呂も数日間は追い炊きする。電気・ガス料金は、まとめて一番安くなる方法を常に調べて契約し直す。いつ買ったのかわからないほどボロボロのクイックルワイパーに挟むのは、普通のティッシュペーパーだ。髪の毛やホコリはこれで十分。最後に、湿らせたティッシュでたまったゴミをふき取って終了。
化粧品は高いので、10年ほど前から化粧をやめた。髪は2、3ヵ月に1度、1000円カットの店に行きベリーショートにしてもらう。服を買うのだって、一大事。シーズン終わりに買うなんてまだ早い。そこからさらに待って格安になった時に残り物を狙うのだ。ワゴンの300円のTシャツだって絶対に試着!
「安い」「着て楽」「洗濯に耐えうる生地」。それが買うかどうかの判断基準だ。そうして買った安い服は、繰り返される洗濯で色褪せ、生地がデロンデロンに伸びても捨てない。パジャマ代わりや部屋着としていつまでも現役なのだ。おしゃれ感覚や流行りのスタイルなんてどうでもいい。食べ物には、健康を考えて一応気は使うが、高級食材やお取り寄せなんて、別世界の話。毎日チラシをチェックし、その時最もお買い得品が多い1店舗に絞って買う。以前は、2、3軒ハシゴしたり、安い日替わり品を狙って毎日行ったりしたが、買い物の回数が多くなれば、結局は食費も高くつく。そのうえ疲れるとわかってやめた。商品の底値は頭に入っているから衝動買いはしない。なんてったって、買い物の失敗は許されないのだから。私だって、せこく、みみっちく生きたいわけじゃない。しかし、そうせざるをえない状況が長く続くほど、節約の意識は体に、頭に、染みついていったのだ。この生活感覚に慣らされて20年近く経つ。夫の失職で家のローンが仇に生まれ育ったのは、田舎の小さな山村だ。実家は農家で、お世辞にも裕福とは言えず、服を買ってもらうことなどほとんどなく、いつも着た切り雀だった。食べるものも自給自足が基本。家の隣には畑があり、わずかだが代々保有している山では、山菜などの山の恵みが採れる。質素極まりない暮らしを18歳まで続け、就職を機に都会に出た。「三つ子の魂百まで」のことわざ通り、都会に住んでも質素に暮らした。やがて結婚して夫婦共働きの生活が始まった。抽選で当たった公団住宅に住み、その頃の世帯収入は年800万円ほど。毎月の黒字分が約10万円。それに私のパート代や夫のボーナスを合わせた年400万円を貯金にまわした。月末の給料日には、パートに出勤する前に郵便局に行き、定期貯金口座にお金を預ける。その頃は金利も高く、埋まっていく通帳のページをめくるたびに気持ちが高揚した。別段贅沢をしたいとも思わなかったので、面白いようにお金が貯まっていく。それを頭金にして住宅メーカーの家を建てたのは2000年の秋のことだ。4歳になった娘を保育園に預けて働いた。狭いながらも注文建築で土地付き一戸建ての家を建てたのは、当時、同じく家を買おうとしていた夫のきょうだいや、友達への見栄もあったことは否めない。新築の家を見に来たみんなが、造りのよさに感嘆し、羨ましそうな表情になり、言葉を発した時、私はそれまでに感じたことのない優越感を覚えたものだった。そう、「うちはあなたたちとはちょっと違う」と上から目線で見ていたのだ。順風満帆という言葉は自分のためにあるように思えた。今の収入なら、住宅ローンの繰り上げ返済をし続ければ、夫の定年までには払い終えられそうだ。完済すれば、退職金や年金はまるまる自由に使え、老後はお金の心配なく暮らせる。30年先の未来の余裕も手に入れた気がして、心は満ち足りていた。だが。身の丈に合わぬ行動をしたからなのか、優越感が一瞬にして吹き飛ぶような出来事が起こる。夫の会社が傾き始めたと思ったら、あっという間に潰れた。どこの会社も正社員雇用を渋り、夫の転職活動は困難を極める。これといった資格もなく、ましてや家と家族持ちで手当を必要とする人材など、面接すらしてもらえないことも少なくなかった。わずかに退職金が出たが、そんなものは焼け石に水。高い年収が続く前提で組んだ住宅ローンは家計に重くのしかかり、残る道は家を売ることしかない。しかし、ローンの残額が多すぎて、たとえ売れても売却損が出る始末で、売るに売れない。家を建てた時に貯金はすべて使い果たしたし、建築途中に思わぬ設備投資が必要になり、両親に借りた200万円もある。このままでは、半年もしないうちに家計が破綻してしまう。ずっと続いていた晴天が、突然翳り出し、あっという間に一歩先すら見通せないような土砂降りに。そんな気がした。売り上げが高くても手元にお金は残らない夫婦で暗澹たる気持ちで過ごしていた時だ。ふと連絡をくれた夫の友人の紹介で、夫婦でコンビニのフランチャイズ契約をすることになった。契約に必要な諸経費や開店資金はフランチャイズ本部に借り、なんとか開店にこぎつける。止む気配のなかった大雨の中に、一筋の光が差した。真面目に働けばその分だけ、ちゃんと自分に見返りがあると信じて疑わなかったからだ。しかし、この道もいばらの道だった。どうやら私たち夫婦には、商才はなかったようだ。365日休みもなく、慢性的な人手不足やクレーム、トラブル対応に追われる日々。やってもやっても、仕事はどこかから湧き出てくる。心身の疲れ以上につらかったのは、支払いの工面をすることだ。自営業がこんなにお金が貯まらないものだと、この仕事に携わるまで知らなかった。まるで底なし沼である。人件費をはじめとする諸経費全般を経営主が負担するフランチャイズ契約では、なかなか自分たちの懐にお金が入ってこない。店の売り上げは大きかったが、開店時の借金の返済や本部へのロイヤリティの支払いは容赦ない。夫の手取りが10万に満たない月もある。利益があがるのに、お金はほとんど手元に残らなかった。それでも毎月、フランチャイズ本部にお金を借りて生活費に充て、住宅ローンを何とか落とさずに払い続けた。2ヵ月払えなければ、家は銀行に差し押さえられてしまうからだ。娘の成長とともに学費も高くなり、なおさら家計を圧迫するようにもなった。公立の進学校に進んだ娘は、高校で必要なものやガラケー代、模試費用を自分で捻出したいと言う。原則アルバイト禁止だったが、先生に家庭の事情を話して頼み込んだ。私も学校に出向き、生活を支えるためにバイトの必要性を懇願した。「親と一緒の職場なら」との条件でバイトを許可してもらったものの、私たち親子を見る先生の切ない表情は、今も忘れられない。家族3人一致団結、家計を支えるために日々頑張った。しかし、やはり出ていくお金が多過ぎる。ここでもし、大きな病気でもして夫婦どちらかが働けなくなったらおしまいだ。その恐怖心が常に付きまとう。それ以前に、病院に行く時間もお金もないのが現実だった。とにかく24時間365日、店のスタッフが途切れないようにして、あきそうな穴を埋め続ける日々。睡眠時間を削り、夫とともに日の出前に車に乗りこみ、早朝勤務をこなす日も多かった。「いつか、いつか絶対にこの底なし沼から抜け出してやる」、それだけを胸に秘めながら。(イラスト:おおの麻里)足元の小さな幸せをみしめてコンビニを始めて15年、何とか契約満了を迎え店をやめることができた。奨学金を借りて大学を卒業した娘も、昨年就職して独立。節約に節約を重ね、山場は乗り越えたが、今なおお金はない。職業病ともいうべき過重労働による慢性疲労や腰痛は持病として残る。50歳という年齢を考えれば、その後の転職活動は厳しいものであると思われた。夫も、私自身も、納得いくような職場はそうそう見つからないだろうと。しかし、夫は学生時代の知り合いを通じて正社員の職を得ることができた。私もハローワークで、たまたま家の近所でパートを募集しているのを見つけ、雇ってもらうことに。世帯収入は家を買った頃に比べれば半分以下。夫にはボーナスも退職金も昇給もない。私もカレンダー通りに休みになるから、連休や年末年始に当たる月は、収入はわずかだ。正月やお盆には、夫の実家にきょうだいが集う。きらびやかなお取り寄せおせちや豪華なオードブル。裕福な親戚たちがその日のために頼んだものや買ってきたもの。それ以外にも、数々の手土産や両親へのお小遣いを渡している。わが家は、小さな菓子折りを渡したきりでご相伴にあずかるばかり。周囲からの憐れむような視線を感じるが素知らぬふりをする。だから、昨年はコロナ禍で集まる機会がなく、少しホッとした。「服も買えんような生活させてごめんね」。着た切り雀の私に、姑が申し訳なさそうにつぶやく。しかし、何と言われても構わない。人がどう思おうと、私の人生は続くのだ。身の丈に合わないことをすれば何が待っているのかは、じゅうぶん身に沁みている。今もし、宝くじが当たって大金を手にしたとしても、舞い上がってとんでもない散財など絶対にしないという自信がある。ただ、残念だが宝くじを買う、その種銭が私にはない。試算すると60歳の定年を迎えても、住宅ローンはまだ800万円ほど残る。これからどんどん歳をとっていく。不安にかられない日はない。それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
食べ物には、健康を考えて一応気は使うが、高級食材やお取り寄せなんて、別世界の話。毎日チラシをチェックし、その時最もお買い得品が多い1店舗に絞って買う。以前は、2、3軒ハシゴしたり、安い日替わり品を狙って毎日行ったりしたが、買い物の回数が多くなれば、結局は食費も高くつく。そのうえ疲れるとわかってやめた。商品の底値は頭に入っているから衝動買いはしない。なんてったって、買い物の失敗は許されないのだから。私だって、せこく、みみっちく生きたいわけじゃない。しかし、そうせざるをえない状況が長く続くほど、節約の意識は体に、頭に、染みついていったのだ。この生活感覚に慣らされて20年近く経つ。夫の失職で家のローンが仇に生まれ育ったのは、田舎の小さな山村だ。実家は農家で、お世辞にも裕福とは言えず、服を買ってもらうことなどほとんどなく、いつも着た切り雀だった。食べるものも自給自足が基本。家の隣には畑があり、わずかだが代々保有している山では、山菜などの山の恵みが採れる。質素極まりない暮らしを18歳まで続け、就職を機に都会に出た。「三つ子の魂百まで」のことわざ通り、都会に住んでも質素に暮らした。やがて結婚して夫婦共働きの生活が始まった。抽選で当たった公団住宅に住み、その頃の世帯収入は年800万円ほど。毎月の黒字分が約10万円。それに私のパート代や夫のボーナスを合わせた年400万円を貯金にまわした。月末の給料日には、パートに出勤する前に郵便局に行き、定期貯金口座にお金を預ける。その頃は金利も高く、埋まっていく通帳のページをめくるたびに気持ちが高揚した。別段贅沢をしたいとも思わなかったので、面白いようにお金が貯まっていく。それを頭金にして住宅メーカーの家を建てたのは2000年の秋のことだ。4歳になった娘を保育園に預けて働いた。狭いながらも注文建築で土地付き一戸建ての家を建てたのは、当時、同じく家を買おうとしていた夫のきょうだいや、友達への見栄もあったことは否めない。新築の家を見に来たみんなが、造りのよさに感嘆し、羨ましそうな表情になり、言葉を発した時、私はそれまでに感じたことのない優越感を覚えたものだった。そう、「うちはあなたたちとはちょっと違う」と上から目線で見ていたのだ。順風満帆という言葉は自分のためにあるように思えた。今の収入なら、住宅ローンの繰り上げ返済をし続ければ、夫の定年までには払い終えられそうだ。完済すれば、退職金や年金はまるまる自由に使え、老後はお金の心配なく暮らせる。30年先の未来の余裕も手に入れた気がして、心は満ち足りていた。だが。身の丈に合わぬ行動をしたからなのか、優越感が一瞬にして吹き飛ぶような出来事が起こる。夫の会社が傾き始めたと思ったら、あっという間に潰れた。どこの会社も正社員雇用を渋り、夫の転職活動は困難を極める。これといった資格もなく、ましてや家と家族持ちで手当を必要とする人材など、面接すらしてもらえないことも少なくなかった。わずかに退職金が出たが、そんなものは焼け石に水。高い年収が続く前提で組んだ住宅ローンは家計に重くのしかかり、残る道は家を売ることしかない。しかし、ローンの残額が多すぎて、たとえ売れても売却損が出る始末で、売るに売れない。家を建てた時に貯金はすべて使い果たしたし、建築途中に思わぬ設備投資が必要になり、両親に借りた200万円もある。このままでは、半年もしないうちに家計が破綻してしまう。ずっと続いていた晴天が、突然翳り出し、あっという間に一歩先すら見通せないような土砂降りに。そんな気がした。売り上げが高くても手元にお金は残らない夫婦で暗澹たる気持ちで過ごしていた時だ。ふと連絡をくれた夫の友人の紹介で、夫婦でコンビニのフランチャイズ契約をすることになった。契約に必要な諸経費や開店資金はフランチャイズ本部に借り、なんとか開店にこぎつける。止む気配のなかった大雨の中に、一筋の光が差した。真面目に働けばその分だけ、ちゃんと自分に見返りがあると信じて疑わなかったからだ。しかし、この道もいばらの道だった。どうやら私たち夫婦には、商才はなかったようだ。365日休みもなく、慢性的な人手不足やクレーム、トラブル対応に追われる日々。やってもやっても、仕事はどこかから湧き出てくる。心身の疲れ以上につらかったのは、支払いの工面をすることだ。自営業がこんなにお金が貯まらないものだと、この仕事に携わるまで知らなかった。まるで底なし沼である。人件費をはじめとする諸経費全般を経営主が負担するフランチャイズ契約では、なかなか自分たちの懐にお金が入ってこない。店の売り上げは大きかったが、開店時の借金の返済や本部へのロイヤリティの支払いは容赦ない。夫の手取りが10万に満たない月もある。利益があがるのに、お金はほとんど手元に残らなかった。それでも毎月、フランチャイズ本部にお金を借りて生活費に充て、住宅ローンを何とか落とさずに払い続けた。2ヵ月払えなければ、家は銀行に差し押さえられてしまうからだ。娘の成長とともに学費も高くなり、なおさら家計を圧迫するようにもなった。公立の進学校に進んだ娘は、高校で必要なものやガラケー代、模試費用を自分で捻出したいと言う。原則アルバイト禁止だったが、先生に家庭の事情を話して頼み込んだ。私も学校に出向き、生活を支えるためにバイトの必要性を懇願した。「親と一緒の職場なら」との条件でバイトを許可してもらったものの、私たち親子を見る先生の切ない表情は、今も忘れられない。家族3人一致団結、家計を支えるために日々頑張った。しかし、やはり出ていくお金が多過ぎる。ここでもし、大きな病気でもして夫婦どちらかが働けなくなったらおしまいだ。その恐怖心が常に付きまとう。それ以前に、病院に行く時間もお金もないのが現実だった。とにかく24時間365日、店のスタッフが途切れないようにして、あきそうな穴を埋め続ける日々。睡眠時間を削り、夫とともに日の出前に車に乗りこみ、早朝勤務をこなす日も多かった。「いつか、いつか絶対にこの底なし沼から抜け出してやる」、それだけを胸に秘めながら。(イラスト:おおの麻里)足元の小さな幸せをみしめてコンビニを始めて15年、何とか契約満了を迎え店をやめることができた。奨学金を借りて大学を卒業した娘も、昨年就職して独立。節約に節約を重ね、山場は乗り越えたが、今なおお金はない。職業病ともいうべき過重労働による慢性疲労や腰痛は持病として残る。50歳という年齢を考えれば、その後の転職活動は厳しいものであると思われた。夫も、私自身も、納得いくような職場はそうそう見つからないだろうと。しかし、夫は学生時代の知り合いを通じて正社員の職を得ることができた。私もハローワークで、たまたま家の近所でパートを募集しているのを見つけ、雇ってもらうことに。世帯収入は家を買った頃に比べれば半分以下。夫にはボーナスも退職金も昇給もない。私もカレンダー通りに休みになるから、連休や年末年始に当たる月は、収入はわずかだ。正月やお盆には、夫の実家にきょうだいが集う。きらびやかなお取り寄せおせちや豪華なオードブル。裕福な親戚たちがその日のために頼んだものや買ってきたもの。それ以外にも、数々の手土産や両親へのお小遣いを渡している。わが家は、小さな菓子折りを渡したきりでご相伴にあずかるばかり。周囲からの憐れむような視線を感じるが素知らぬふりをする。だから、昨年はコロナ禍で集まる機会がなく、少しホッとした。「服も買えんような生活させてごめんね」。着た切り雀の私に、姑が申し訳なさそうにつぶやく。しかし、何と言われても構わない。人がどう思おうと、私の人生は続くのだ。身の丈に合わないことをすれば何が待っているのかは、じゅうぶん身に沁みている。今もし、宝くじが当たって大金を手にしたとしても、舞い上がってとんでもない散財など絶対にしないという自信がある。ただ、残念だが宝くじを買う、その種銭が私にはない。試算すると60歳の定年を迎えても、住宅ローンはまだ800万円ほど残る。これからどんどん歳をとっていく。不安にかられない日はない。それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
私だって、せこく、みみっちく生きたいわけじゃない。しかし、そうせざるをえない状況が長く続くほど、節約の意識は体に、頭に、染みついていったのだ。この生活感覚に慣らされて20年近く経つ。夫の失職で家のローンが仇に生まれ育ったのは、田舎の小さな山村だ。実家は農家で、お世辞にも裕福とは言えず、服を買ってもらうことなどほとんどなく、いつも着た切り雀だった。食べるものも自給自足が基本。家の隣には畑があり、わずかだが代々保有している山では、山菜などの山の恵みが採れる。質素極まりない暮らしを18歳まで続け、就職を機に都会に出た。「三つ子の魂百まで」のことわざ通り、都会に住んでも質素に暮らした。やがて結婚して夫婦共働きの生活が始まった。抽選で当たった公団住宅に住み、その頃の世帯収入は年800万円ほど。毎月の黒字分が約10万円。それに私のパート代や夫のボーナスを合わせた年400万円を貯金にまわした。月末の給料日には、パートに出勤する前に郵便局に行き、定期貯金口座にお金を預ける。その頃は金利も高く、埋まっていく通帳のページをめくるたびに気持ちが高揚した。別段贅沢をしたいとも思わなかったので、面白いようにお金が貯まっていく。それを頭金にして住宅メーカーの家を建てたのは2000年の秋のことだ。4歳になった娘を保育園に預けて働いた。狭いながらも注文建築で土地付き一戸建ての家を建てたのは、当時、同じく家を買おうとしていた夫のきょうだいや、友達への見栄もあったことは否めない。新築の家を見に来たみんなが、造りのよさに感嘆し、羨ましそうな表情になり、言葉を発した時、私はそれまでに感じたことのない優越感を覚えたものだった。そう、「うちはあなたたちとはちょっと違う」と上から目線で見ていたのだ。順風満帆という言葉は自分のためにあるように思えた。今の収入なら、住宅ローンの繰り上げ返済をし続ければ、夫の定年までには払い終えられそうだ。完済すれば、退職金や年金はまるまる自由に使え、老後はお金の心配なく暮らせる。30年先の未来の余裕も手に入れた気がして、心は満ち足りていた。だが。身の丈に合わぬ行動をしたからなのか、優越感が一瞬にして吹き飛ぶような出来事が起こる。夫の会社が傾き始めたと思ったら、あっという間に潰れた。どこの会社も正社員雇用を渋り、夫の転職活動は困難を極める。これといった資格もなく、ましてや家と家族持ちで手当を必要とする人材など、面接すらしてもらえないことも少なくなかった。わずかに退職金が出たが、そんなものは焼け石に水。高い年収が続く前提で組んだ住宅ローンは家計に重くのしかかり、残る道は家を売ることしかない。しかし、ローンの残額が多すぎて、たとえ売れても売却損が出る始末で、売るに売れない。家を建てた時に貯金はすべて使い果たしたし、建築途中に思わぬ設備投資が必要になり、両親に借りた200万円もある。このままでは、半年もしないうちに家計が破綻してしまう。ずっと続いていた晴天が、突然翳り出し、あっという間に一歩先すら見通せないような土砂降りに。そんな気がした。売り上げが高くても手元にお金は残らない夫婦で暗澹たる気持ちで過ごしていた時だ。ふと連絡をくれた夫の友人の紹介で、夫婦でコンビニのフランチャイズ契約をすることになった。契約に必要な諸経費や開店資金はフランチャイズ本部に借り、なんとか開店にこぎつける。止む気配のなかった大雨の中に、一筋の光が差した。真面目に働けばその分だけ、ちゃんと自分に見返りがあると信じて疑わなかったからだ。しかし、この道もいばらの道だった。どうやら私たち夫婦には、商才はなかったようだ。365日休みもなく、慢性的な人手不足やクレーム、トラブル対応に追われる日々。やってもやっても、仕事はどこかから湧き出てくる。心身の疲れ以上につらかったのは、支払いの工面をすることだ。自営業がこんなにお金が貯まらないものだと、この仕事に携わるまで知らなかった。まるで底なし沼である。人件費をはじめとする諸経費全般を経営主が負担するフランチャイズ契約では、なかなか自分たちの懐にお金が入ってこない。店の売り上げは大きかったが、開店時の借金の返済や本部へのロイヤリティの支払いは容赦ない。夫の手取りが10万に満たない月もある。利益があがるのに、お金はほとんど手元に残らなかった。それでも毎月、フランチャイズ本部にお金を借りて生活費に充て、住宅ローンを何とか落とさずに払い続けた。2ヵ月払えなければ、家は銀行に差し押さえられてしまうからだ。娘の成長とともに学費も高くなり、なおさら家計を圧迫するようにもなった。公立の進学校に進んだ娘は、高校で必要なものやガラケー代、模試費用を自分で捻出したいと言う。原則アルバイト禁止だったが、先生に家庭の事情を話して頼み込んだ。私も学校に出向き、生活を支えるためにバイトの必要性を懇願した。「親と一緒の職場なら」との条件でバイトを許可してもらったものの、私たち親子を見る先生の切ない表情は、今も忘れられない。家族3人一致団結、家計を支えるために日々頑張った。しかし、やはり出ていくお金が多過ぎる。ここでもし、大きな病気でもして夫婦どちらかが働けなくなったらおしまいだ。その恐怖心が常に付きまとう。それ以前に、病院に行く時間もお金もないのが現実だった。とにかく24時間365日、店のスタッフが途切れないようにして、あきそうな穴を埋め続ける日々。睡眠時間を削り、夫とともに日の出前に車に乗りこみ、早朝勤務をこなす日も多かった。「いつか、いつか絶対にこの底なし沼から抜け出してやる」、それだけを胸に秘めながら。(イラスト:おおの麻里)足元の小さな幸せをみしめてコンビニを始めて15年、何とか契約満了を迎え店をやめることができた。奨学金を借りて大学を卒業した娘も、昨年就職して独立。節約に節約を重ね、山場は乗り越えたが、今なおお金はない。職業病ともいうべき過重労働による慢性疲労や腰痛は持病として残る。50歳という年齢を考えれば、その後の転職活動は厳しいものであると思われた。夫も、私自身も、納得いくような職場はそうそう見つからないだろうと。しかし、夫は学生時代の知り合いを通じて正社員の職を得ることができた。私もハローワークで、たまたま家の近所でパートを募集しているのを見つけ、雇ってもらうことに。世帯収入は家を買った頃に比べれば半分以下。夫にはボーナスも退職金も昇給もない。私もカレンダー通りに休みになるから、連休や年末年始に当たる月は、収入はわずかだ。正月やお盆には、夫の実家にきょうだいが集う。きらびやかなお取り寄せおせちや豪華なオードブル。裕福な親戚たちがその日のために頼んだものや買ってきたもの。それ以外にも、数々の手土産や両親へのお小遣いを渡している。わが家は、小さな菓子折りを渡したきりでご相伴にあずかるばかり。周囲からの憐れむような視線を感じるが素知らぬふりをする。だから、昨年はコロナ禍で集まる機会がなく、少しホッとした。「服も買えんような生活させてごめんね」。着た切り雀の私に、姑が申し訳なさそうにつぶやく。しかし、何と言われても構わない。人がどう思おうと、私の人生は続くのだ。身の丈に合わないことをすれば何が待っているのかは、じゅうぶん身に沁みている。今もし、宝くじが当たって大金を手にしたとしても、舞い上がってとんでもない散財など絶対にしないという自信がある。ただ、残念だが宝くじを買う、その種銭が私にはない。試算すると60歳の定年を迎えても、住宅ローンはまだ800万円ほど残る。これからどんどん歳をとっていく。不安にかられない日はない。それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
生まれ育ったのは、田舎の小さな山村だ。実家は農家で、お世辞にも裕福とは言えず、服を買ってもらうことなどほとんどなく、いつも着た切り雀だった。食べるものも自給自足が基本。家の隣には畑があり、わずかだが代々保有している山では、山菜などの山の恵みが採れる。質素極まりない暮らしを18歳まで続け、就職を機に都会に出た。「三つ子の魂百まで」のことわざ通り、都会に住んでも質素に暮らした。やがて結婚して夫婦共働きの生活が始まった。抽選で当たった公団住宅に住み、その頃の世帯収入は年800万円ほど。毎月の黒字分が約10万円。それに私のパート代や夫のボーナスを合わせた年400万円を貯金にまわした。月末の給料日には、パートに出勤する前に郵便局に行き、定期貯金口座にお金を預ける。その頃は金利も高く、埋まっていく通帳のページをめくるたびに気持ちが高揚した。別段贅沢をしたいとも思わなかったので、面白いようにお金が貯まっていく。それを頭金にして住宅メーカーの家を建てたのは2000年の秋のことだ。4歳になった娘を保育園に預けて働いた。狭いながらも注文建築で土地付き一戸建ての家を建てたのは、当時、同じく家を買おうとしていた夫のきょうだいや、友達への見栄もあったことは否めない。新築の家を見に来たみんなが、造りのよさに感嘆し、羨ましそうな表情になり、言葉を発した時、私はそれまでに感じたことのない優越感を覚えたものだった。そう、「うちはあなたたちとはちょっと違う」と上から目線で見ていたのだ。順風満帆という言葉は自分のためにあるように思えた。今の収入なら、住宅ローンの繰り上げ返済をし続ければ、夫の定年までには払い終えられそうだ。完済すれば、退職金や年金はまるまる自由に使え、老後はお金の心配なく暮らせる。30年先の未来の余裕も手に入れた気がして、心は満ち足りていた。だが。身の丈に合わぬ行動をしたからなのか、優越感が一瞬にして吹き飛ぶような出来事が起こる。夫の会社が傾き始めたと思ったら、あっという間に潰れた。どこの会社も正社員雇用を渋り、夫の転職活動は困難を極める。これといった資格もなく、ましてや家と家族持ちで手当を必要とする人材など、面接すらしてもらえないことも少なくなかった。わずかに退職金が出たが、そんなものは焼け石に水。高い年収が続く前提で組んだ住宅ローンは家計に重くのしかかり、残る道は家を売ることしかない。しかし、ローンの残額が多すぎて、たとえ売れても売却損が出る始末で、売るに売れない。家を建てた時に貯金はすべて使い果たしたし、建築途中に思わぬ設備投資が必要になり、両親に借りた200万円もある。このままでは、半年もしないうちに家計が破綻してしまう。ずっと続いていた晴天が、突然翳り出し、あっという間に一歩先すら見通せないような土砂降りに。そんな気がした。売り上げが高くても手元にお金は残らない夫婦で暗澹たる気持ちで過ごしていた時だ。ふと連絡をくれた夫の友人の紹介で、夫婦でコンビニのフランチャイズ契約をすることになった。契約に必要な諸経費や開店資金はフランチャイズ本部に借り、なんとか開店にこぎつける。止む気配のなかった大雨の中に、一筋の光が差した。真面目に働けばその分だけ、ちゃんと自分に見返りがあると信じて疑わなかったからだ。しかし、この道もいばらの道だった。どうやら私たち夫婦には、商才はなかったようだ。365日休みもなく、慢性的な人手不足やクレーム、トラブル対応に追われる日々。やってもやっても、仕事はどこかから湧き出てくる。心身の疲れ以上につらかったのは、支払いの工面をすることだ。自営業がこんなにお金が貯まらないものだと、この仕事に携わるまで知らなかった。まるで底なし沼である。人件費をはじめとする諸経費全般を経営主が負担するフランチャイズ契約では、なかなか自分たちの懐にお金が入ってこない。店の売り上げは大きかったが、開店時の借金の返済や本部へのロイヤリティの支払いは容赦ない。夫の手取りが10万に満たない月もある。利益があがるのに、お金はほとんど手元に残らなかった。それでも毎月、フランチャイズ本部にお金を借りて生活費に充て、住宅ローンを何とか落とさずに払い続けた。2ヵ月払えなければ、家は銀行に差し押さえられてしまうからだ。娘の成長とともに学費も高くなり、なおさら家計を圧迫するようにもなった。公立の進学校に進んだ娘は、高校で必要なものやガラケー代、模試費用を自分で捻出したいと言う。原則アルバイト禁止だったが、先生に家庭の事情を話して頼み込んだ。私も学校に出向き、生活を支えるためにバイトの必要性を懇願した。「親と一緒の職場なら」との条件でバイトを許可してもらったものの、私たち親子を見る先生の切ない表情は、今も忘れられない。家族3人一致団結、家計を支えるために日々頑張った。しかし、やはり出ていくお金が多過ぎる。ここでもし、大きな病気でもして夫婦どちらかが働けなくなったらおしまいだ。その恐怖心が常に付きまとう。それ以前に、病院に行く時間もお金もないのが現実だった。とにかく24時間365日、店のスタッフが途切れないようにして、あきそうな穴を埋め続ける日々。睡眠時間を削り、夫とともに日の出前に車に乗りこみ、早朝勤務をこなす日も多かった。「いつか、いつか絶対にこの底なし沼から抜け出してやる」、それだけを胸に秘めながら。(イラスト:おおの麻里)足元の小さな幸せをみしめてコンビニを始めて15年、何とか契約満了を迎え店をやめることができた。奨学金を借りて大学を卒業した娘も、昨年就職して独立。節約に節約を重ね、山場は乗り越えたが、今なおお金はない。職業病ともいうべき過重労働による慢性疲労や腰痛は持病として残る。50歳という年齢を考えれば、その後の転職活動は厳しいものであると思われた。夫も、私自身も、納得いくような職場はそうそう見つからないだろうと。しかし、夫は学生時代の知り合いを通じて正社員の職を得ることができた。私もハローワークで、たまたま家の近所でパートを募集しているのを見つけ、雇ってもらうことに。世帯収入は家を買った頃に比べれば半分以下。夫にはボーナスも退職金も昇給もない。私もカレンダー通りに休みになるから、連休や年末年始に当たる月は、収入はわずかだ。正月やお盆には、夫の実家にきょうだいが集う。きらびやかなお取り寄せおせちや豪華なオードブル。裕福な親戚たちがその日のために頼んだものや買ってきたもの。それ以外にも、数々の手土産や両親へのお小遣いを渡している。わが家は、小さな菓子折りを渡したきりでご相伴にあずかるばかり。周囲からの憐れむような視線を感じるが素知らぬふりをする。だから、昨年はコロナ禍で集まる機会がなく、少しホッとした。「服も買えんような生活させてごめんね」。着た切り雀の私に、姑が申し訳なさそうにつぶやく。しかし、何と言われても構わない。人がどう思おうと、私の人生は続くのだ。身の丈に合わないことをすれば何が待っているのかは、じゅうぶん身に沁みている。今もし、宝くじが当たって大金を手にしたとしても、舞い上がってとんでもない散財など絶対にしないという自信がある。ただ、残念だが宝くじを買う、その種銭が私にはない。試算すると60歳の定年を迎えても、住宅ローンはまだ800万円ほど残る。これからどんどん歳をとっていく。不安にかられない日はない。それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
家の隣には畑があり、わずかだが代々保有している山では、山菜などの山の恵みが採れる。質素極まりない暮らしを18歳まで続け、就職を機に都会に出た。「三つ子の魂百まで」のことわざ通り、都会に住んでも質素に暮らした。やがて結婚して夫婦共働きの生活が始まった。抽選で当たった公団住宅に住み、その頃の世帯収入は年800万円ほど。毎月の黒字分が約10万円。それに私のパート代や夫のボーナスを合わせた年400万円を貯金にまわした。月末の給料日には、パートに出勤する前に郵便局に行き、定期貯金口座にお金を預ける。その頃は金利も高く、埋まっていく通帳のページをめくるたびに気持ちが高揚した。別段贅沢をしたいとも思わなかったので、面白いようにお金が貯まっていく。それを頭金にして住宅メーカーの家を建てたのは2000年の秋のことだ。4歳になった娘を保育園に預けて働いた。狭いながらも注文建築で土地付き一戸建ての家を建てたのは、当時、同じく家を買おうとしていた夫のきょうだいや、友達への見栄もあったことは否めない。新築の家を見に来たみんなが、造りのよさに感嘆し、羨ましそうな表情になり、言葉を発した時、私はそれまでに感じたことのない優越感を覚えたものだった。そう、「うちはあなたたちとはちょっと違う」と上から目線で見ていたのだ。順風満帆という言葉は自分のためにあるように思えた。今の収入なら、住宅ローンの繰り上げ返済をし続ければ、夫の定年までには払い終えられそうだ。完済すれば、退職金や年金はまるまる自由に使え、老後はお金の心配なく暮らせる。30年先の未来の余裕も手に入れた気がして、心は満ち足りていた。だが。身の丈に合わぬ行動をしたからなのか、優越感が一瞬にして吹き飛ぶような出来事が起こる。夫の会社が傾き始めたと思ったら、あっという間に潰れた。どこの会社も正社員雇用を渋り、夫の転職活動は困難を極める。これといった資格もなく、ましてや家と家族持ちで手当を必要とする人材など、面接すらしてもらえないことも少なくなかった。わずかに退職金が出たが、そんなものは焼け石に水。高い年収が続く前提で組んだ住宅ローンは家計に重くのしかかり、残る道は家を売ることしかない。しかし、ローンの残額が多すぎて、たとえ売れても売却損が出る始末で、売るに売れない。家を建てた時に貯金はすべて使い果たしたし、建築途中に思わぬ設備投資が必要になり、両親に借りた200万円もある。このままでは、半年もしないうちに家計が破綻してしまう。ずっと続いていた晴天が、突然翳り出し、あっという間に一歩先すら見通せないような土砂降りに。そんな気がした。売り上げが高くても手元にお金は残らない夫婦で暗澹たる気持ちで過ごしていた時だ。ふと連絡をくれた夫の友人の紹介で、夫婦でコンビニのフランチャイズ契約をすることになった。契約に必要な諸経費や開店資金はフランチャイズ本部に借り、なんとか開店にこぎつける。止む気配のなかった大雨の中に、一筋の光が差した。真面目に働けばその分だけ、ちゃんと自分に見返りがあると信じて疑わなかったからだ。しかし、この道もいばらの道だった。どうやら私たち夫婦には、商才はなかったようだ。365日休みもなく、慢性的な人手不足やクレーム、トラブル対応に追われる日々。やってもやっても、仕事はどこかから湧き出てくる。心身の疲れ以上につらかったのは、支払いの工面をすることだ。自営業がこんなにお金が貯まらないものだと、この仕事に携わるまで知らなかった。まるで底なし沼である。人件費をはじめとする諸経費全般を経営主が負担するフランチャイズ契約では、なかなか自分たちの懐にお金が入ってこない。店の売り上げは大きかったが、開店時の借金の返済や本部へのロイヤリティの支払いは容赦ない。夫の手取りが10万に満たない月もある。利益があがるのに、お金はほとんど手元に残らなかった。それでも毎月、フランチャイズ本部にお金を借りて生活費に充て、住宅ローンを何とか落とさずに払い続けた。2ヵ月払えなければ、家は銀行に差し押さえられてしまうからだ。娘の成長とともに学費も高くなり、なおさら家計を圧迫するようにもなった。公立の進学校に進んだ娘は、高校で必要なものやガラケー代、模試費用を自分で捻出したいと言う。原則アルバイト禁止だったが、先生に家庭の事情を話して頼み込んだ。私も学校に出向き、生活を支えるためにバイトの必要性を懇願した。「親と一緒の職場なら」との条件でバイトを許可してもらったものの、私たち親子を見る先生の切ない表情は、今も忘れられない。家族3人一致団結、家計を支えるために日々頑張った。しかし、やはり出ていくお金が多過ぎる。ここでもし、大きな病気でもして夫婦どちらかが働けなくなったらおしまいだ。その恐怖心が常に付きまとう。それ以前に、病院に行く時間もお金もないのが現実だった。とにかく24時間365日、店のスタッフが途切れないようにして、あきそうな穴を埋め続ける日々。睡眠時間を削り、夫とともに日の出前に車に乗りこみ、早朝勤務をこなす日も多かった。「いつか、いつか絶対にこの底なし沼から抜け出してやる」、それだけを胸に秘めながら。(イラスト:おおの麻里)足元の小さな幸せをみしめてコンビニを始めて15年、何とか契約満了を迎え店をやめることができた。奨学金を借りて大学を卒業した娘も、昨年就職して独立。節約に節約を重ね、山場は乗り越えたが、今なおお金はない。職業病ともいうべき過重労働による慢性疲労や腰痛は持病として残る。50歳という年齢を考えれば、その後の転職活動は厳しいものであると思われた。夫も、私自身も、納得いくような職場はそうそう見つからないだろうと。しかし、夫は学生時代の知り合いを通じて正社員の職を得ることができた。私もハローワークで、たまたま家の近所でパートを募集しているのを見つけ、雇ってもらうことに。世帯収入は家を買った頃に比べれば半分以下。夫にはボーナスも退職金も昇給もない。私もカレンダー通りに休みになるから、連休や年末年始に当たる月は、収入はわずかだ。正月やお盆には、夫の実家にきょうだいが集う。きらびやかなお取り寄せおせちや豪華なオードブル。裕福な親戚たちがその日のために頼んだものや買ってきたもの。それ以外にも、数々の手土産や両親へのお小遣いを渡している。わが家は、小さな菓子折りを渡したきりでご相伴にあずかるばかり。周囲からの憐れむような視線を感じるが素知らぬふりをする。だから、昨年はコロナ禍で集まる機会がなく、少しホッとした。「服も買えんような生活させてごめんね」。着た切り雀の私に、姑が申し訳なさそうにつぶやく。しかし、何と言われても構わない。人がどう思おうと、私の人生は続くのだ。身の丈に合わないことをすれば何が待っているのかは、じゅうぶん身に沁みている。今もし、宝くじが当たって大金を手にしたとしても、舞い上がってとんでもない散財など絶対にしないという自信がある。ただ、残念だが宝くじを買う、その種銭が私にはない。試算すると60歳の定年を迎えても、住宅ローンはまだ800万円ほど残る。これからどんどん歳をとっていく。不安にかられない日はない。それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
やがて結婚して夫婦共働きの生活が始まった。抽選で当たった公団住宅に住み、その頃の世帯収入は年800万円ほど。毎月の黒字分が約10万円。それに私のパート代や夫のボーナスを合わせた年400万円を貯金にまわした。月末の給料日には、パートに出勤する前に郵便局に行き、定期貯金口座にお金を預ける。その頃は金利も高く、埋まっていく通帳のページをめくるたびに気持ちが高揚した。別段贅沢をしたいとも思わなかったので、面白いようにお金が貯まっていく。それを頭金にして住宅メーカーの家を建てたのは2000年の秋のことだ。4歳になった娘を保育園に預けて働いた。狭いながらも注文建築で土地付き一戸建ての家を建てたのは、当時、同じく家を買おうとしていた夫のきょうだいや、友達への見栄もあったことは否めない。新築の家を見に来たみんなが、造りのよさに感嘆し、羨ましそうな表情になり、言葉を発した時、私はそれまでに感じたことのない優越感を覚えたものだった。そう、「うちはあなたたちとはちょっと違う」と上から目線で見ていたのだ。順風満帆という言葉は自分のためにあるように思えた。今の収入なら、住宅ローンの繰り上げ返済をし続ければ、夫の定年までには払い終えられそうだ。完済すれば、退職金や年金はまるまる自由に使え、老後はお金の心配なく暮らせる。30年先の未来の余裕も手に入れた気がして、心は満ち足りていた。だが。身の丈に合わぬ行動をしたからなのか、優越感が一瞬にして吹き飛ぶような出来事が起こる。夫の会社が傾き始めたと思ったら、あっという間に潰れた。どこの会社も正社員雇用を渋り、夫の転職活動は困難を極める。これといった資格もなく、ましてや家と家族持ちで手当を必要とする人材など、面接すらしてもらえないことも少なくなかった。わずかに退職金が出たが、そんなものは焼け石に水。高い年収が続く前提で組んだ住宅ローンは家計に重くのしかかり、残る道は家を売ることしかない。しかし、ローンの残額が多すぎて、たとえ売れても売却損が出る始末で、売るに売れない。家を建てた時に貯金はすべて使い果たしたし、建築途中に思わぬ設備投資が必要になり、両親に借りた200万円もある。このままでは、半年もしないうちに家計が破綻してしまう。ずっと続いていた晴天が、突然翳り出し、あっという間に一歩先すら見通せないような土砂降りに。そんな気がした。売り上げが高くても手元にお金は残らない夫婦で暗澹たる気持ちで過ごしていた時だ。ふと連絡をくれた夫の友人の紹介で、夫婦でコンビニのフランチャイズ契約をすることになった。契約に必要な諸経費や開店資金はフランチャイズ本部に借り、なんとか開店にこぎつける。止む気配のなかった大雨の中に、一筋の光が差した。真面目に働けばその分だけ、ちゃんと自分に見返りがあると信じて疑わなかったからだ。しかし、この道もいばらの道だった。どうやら私たち夫婦には、商才はなかったようだ。365日休みもなく、慢性的な人手不足やクレーム、トラブル対応に追われる日々。やってもやっても、仕事はどこかから湧き出てくる。心身の疲れ以上につらかったのは、支払いの工面をすることだ。自営業がこんなにお金が貯まらないものだと、この仕事に携わるまで知らなかった。まるで底なし沼である。人件費をはじめとする諸経費全般を経営主が負担するフランチャイズ契約では、なかなか自分たちの懐にお金が入ってこない。店の売り上げは大きかったが、開店時の借金の返済や本部へのロイヤリティの支払いは容赦ない。夫の手取りが10万に満たない月もある。利益があがるのに、お金はほとんど手元に残らなかった。それでも毎月、フランチャイズ本部にお金を借りて生活費に充て、住宅ローンを何とか落とさずに払い続けた。2ヵ月払えなければ、家は銀行に差し押さえられてしまうからだ。娘の成長とともに学費も高くなり、なおさら家計を圧迫するようにもなった。公立の進学校に進んだ娘は、高校で必要なものやガラケー代、模試費用を自分で捻出したいと言う。原則アルバイト禁止だったが、先生に家庭の事情を話して頼み込んだ。私も学校に出向き、生活を支えるためにバイトの必要性を懇願した。「親と一緒の職場なら」との条件でバイトを許可してもらったものの、私たち親子を見る先生の切ない表情は、今も忘れられない。家族3人一致団結、家計を支えるために日々頑張った。しかし、やはり出ていくお金が多過ぎる。ここでもし、大きな病気でもして夫婦どちらかが働けなくなったらおしまいだ。その恐怖心が常に付きまとう。それ以前に、病院に行く時間もお金もないのが現実だった。とにかく24時間365日、店のスタッフが途切れないようにして、あきそうな穴を埋め続ける日々。睡眠時間を削り、夫とともに日の出前に車に乗りこみ、早朝勤務をこなす日も多かった。「いつか、いつか絶対にこの底なし沼から抜け出してやる」、それだけを胸に秘めながら。(イラスト:おおの麻里)足元の小さな幸せをみしめてコンビニを始めて15年、何とか契約満了を迎え店をやめることができた。奨学金を借りて大学を卒業した娘も、昨年就職して独立。節約に節約を重ね、山場は乗り越えたが、今なおお金はない。職業病ともいうべき過重労働による慢性疲労や腰痛は持病として残る。50歳という年齢を考えれば、その後の転職活動は厳しいものであると思われた。夫も、私自身も、納得いくような職場はそうそう見つからないだろうと。しかし、夫は学生時代の知り合いを通じて正社員の職を得ることができた。私もハローワークで、たまたま家の近所でパートを募集しているのを見つけ、雇ってもらうことに。世帯収入は家を買った頃に比べれば半分以下。夫にはボーナスも退職金も昇給もない。私もカレンダー通りに休みになるから、連休や年末年始に当たる月は、収入はわずかだ。正月やお盆には、夫の実家にきょうだいが集う。きらびやかなお取り寄せおせちや豪華なオードブル。裕福な親戚たちがその日のために頼んだものや買ってきたもの。それ以外にも、数々の手土産や両親へのお小遣いを渡している。わが家は、小さな菓子折りを渡したきりでご相伴にあずかるばかり。周囲からの憐れむような視線を感じるが素知らぬふりをする。だから、昨年はコロナ禍で集まる機会がなく、少しホッとした。「服も買えんような生活させてごめんね」。着た切り雀の私に、姑が申し訳なさそうにつぶやく。しかし、何と言われても構わない。人がどう思おうと、私の人生は続くのだ。身の丈に合わないことをすれば何が待っているのかは、じゅうぶん身に沁みている。今もし、宝くじが当たって大金を手にしたとしても、舞い上がってとんでもない散財など絶対にしないという自信がある。ただ、残念だが宝くじを買う、その種銭が私にはない。試算すると60歳の定年を迎えても、住宅ローンはまだ800万円ほど残る。これからどんどん歳をとっていく。不安にかられない日はない。それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
月末の給料日には、パートに出勤する前に郵便局に行き、定期貯金口座にお金を預ける。その頃は金利も高く、埋まっていく通帳のページをめくるたびに気持ちが高揚した。別段贅沢をしたいとも思わなかったので、面白いようにお金が貯まっていく。それを頭金にして住宅メーカーの家を建てたのは2000年の秋のことだ。4歳になった娘を保育園に預けて働いた。狭いながらも注文建築で土地付き一戸建ての家を建てたのは、当時、同じく家を買おうとしていた夫のきょうだいや、友達への見栄もあったことは否めない。新築の家を見に来たみんなが、造りのよさに感嘆し、羨ましそうな表情になり、言葉を発した時、私はそれまでに感じたことのない優越感を覚えたものだった。そう、「うちはあなたたちとはちょっと違う」と上から目線で見ていたのだ。順風満帆という言葉は自分のためにあるように思えた。今の収入なら、住宅ローンの繰り上げ返済をし続ければ、夫の定年までには払い終えられそうだ。完済すれば、退職金や年金はまるまる自由に使え、老後はお金の心配なく暮らせる。30年先の未来の余裕も手に入れた気がして、心は満ち足りていた。だが。身の丈に合わぬ行動をしたからなのか、優越感が一瞬にして吹き飛ぶような出来事が起こる。夫の会社が傾き始めたと思ったら、あっという間に潰れた。どこの会社も正社員雇用を渋り、夫の転職活動は困難を極める。これといった資格もなく、ましてや家と家族持ちで手当を必要とする人材など、面接すらしてもらえないことも少なくなかった。わずかに退職金が出たが、そんなものは焼け石に水。高い年収が続く前提で組んだ住宅ローンは家計に重くのしかかり、残る道は家を売ることしかない。しかし、ローンの残額が多すぎて、たとえ売れても売却損が出る始末で、売るに売れない。家を建てた時に貯金はすべて使い果たしたし、建築途中に思わぬ設備投資が必要になり、両親に借りた200万円もある。このままでは、半年もしないうちに家計が破綻してしまう。ずっと続いていた晴天が、突然翳り出し、あっという間に一歩先すら見通せないような土砂降りに。そんな気がした。売り上げが高くても手元にお金は残らない夫婦で暗澹たる気持ちで過ごしていた時だ。ふと連絡をくれた夫の友人の紹介で、夫婦でコンビニのフランチャイズ契約をすることになった。契約に必要な諸経費や開店資金はフランチャイズ本部に借り、なんとか開店にこぎつける。止む気配のなかった大雨の中に、一筋の光が差した。真面目に働けばその分だけ、ちゃんと自分に見返りがあると信じて疑わなかったからだ。しかし、この道もいばらの道だった。どうやら私たち夫婦には、商才はなかったようだ。365日休みもなく、慢性的な人手不足やクレーム、トラブル対応に追われる日々。やってもやっても、仕事はどこかから湧き出てくる。心身の疲れ以上につらかったのは、支払いの工面をすることだ。自営業がこんなにお金が貯まらないものだと、この仕事に携わるまで知らなかった。まるで底なし沼である。人件費をはじめとする諸経費全般を経営主が負担するフランチャイズ契約では、なかなか自分たちの懐にお金が入ってこない。店の売り上げは大きかったが、開店時の借金の返済や本部へのロイヤリティの支払いは容赦ない。夫の手取りが10万に満たない月もある。利益があがるのに、お金はほとんど手元に残らなかった。それでも毎月、フランチャイズ本部にお金を借りて生活費に充て、住宅ローンを何とか落とさずに払い続けた。2ヵ月払えなければ、家は銀行に差し押さえられてしまうからだ。娘の成長とともに学費も高くなり、なおさら家計を圧迫するようにもなった。公立の進学校に進んだ娘は、高校で必要なものやガラケー代、模試費用を自分で捻出したいと言う。原則アルバイト禁止だったが、先生に家庭の事情を話して頼み込んだ。私も学校に出向き、生活を支えるためにバイトの必要性を懇願した。「親と一緒の職場なら」との条件でバイトを許可してもらったものの、私たち親子を見る先生の切ない表情は、今も忘れられない。家族3人一致団結、家計を支えるために日々頑張った。しかし、やはり出ていくお金が多過ぎる。ここでもし、大きな病気でもして夫婦どちらかが働けなくなったらおしまいだ。その恐怖心が常に付きまとう。それ以前に、病院に行く時間もお金もないのが現実だった。とにかく24時間365日、店のスタッフが途切れないようにして、あきそうな穴を埋め続ける日々。睡眠時間を削り、夫とともに日の出前に車に乗りこみ、早朝勤務をこなす日も多かった。「いつか、いつか絶対にこの底なし沼から抜け出してやる」、それだけを胸に秘めながら。(イラスト:おおの麻里)足元の小さな幸せをみしめてコンビニを始めて15年、何とか契約満了を迎え店をやめることができた。奨学金を借りて大学を卒業した娘も、昨年就職して独立。節約に節約を重ね、山場は乗り越えたが、今なおお金はない。職業病ともいうべき過重労働による慢性疲労や腰痛は持病として残る。50歳という年齢を考えれば、その後の転職活動は厳しいものであると思われた。夫も、私自身も、納得いくような職場はそうそう見つからないだろうと。しかし、夫は学生時代の知り合いを通じて正社員の職を得ることができた。私もハローワークで、たまたま家の近所でパートを募集しているのを見つけ、雇ってもらうことに。世帯収入は家を買った頃に比べれば半分以下。夫にはボーナスも退職金も昇給もない。私もカレンダー通りに休みになるから、連休や年末年始に当たる月は、収入はわずかだ。正月やお盆には、夫の実家にきょうだいが集う。きらびやかなお取り寄せおせちや豪華なオードブル。裕福な親戚たちがその日のために頼んだものや買ってきたもの。それ以外にも、数々の手土産や両親へのお小遣いを渡している。わが家は、小さな菓子折りを渡したきりでご相伴にあずかるばかり。周囲からの憐れむような視線を感じるが素知らぬふりをする。だから、昨年はコロナ禍で集まる機会がなく、少しホッとした。「服も買えんような生活させてごめんね」。着た切り雀の私に、姑が申し訳なさそうにつぶやく。しかし、何と言われても構わない。人がどう思おうと、私の人生は続くのだ。身の丈に合わないことをすれば何が待っているのかは、じゅうぶん身に沁みている。今もし、宝くじが当たって大金を手にしたとしても、舞い上がってとんでもない散財など絶対にしないという自信がある。ただ、残念だが宝くじを買う、その種銭が私にはない。試算すると60歳の定年を迎えても、住宅ローンはまだ800万円ほど残る。これからどんどん歳をとっていく。不安にかられない日はない。それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
それを頭金にして住宅メーカーの家を建てたのは2000年の秋のことだ。4歳になった娘を保育園に預けて働いた。狭いながらも注文建築で土地付き一戸建ての家を建てたのは、当時、同じく家を買おうとしていた夫のきょうだいや、友達への見栄もあったことは否めない。新築の家を見に来たみんなが、造りのよさに感嘆し、羨ましそうな表情になり、言葉を発した時、私はそれまでに感じたことのない優越感を覚えたものだった。そう、「うちはあなたたちとはちょっと違う」と上から目線で見ていたのだ。順風満帆という言葉は自分のためにあるように思えた。今の収入なら、住宅ローンの繰り上げ返済をし続ければ、夫の定年までには払い終えられそうだ。完済すれば、退職金や年金はまるまる自由に使え、老後はお金の心配なく暮らせる。30年先の未来の余裕も手に入れた気がして、心は満ち足りていた。だが。身の丈に合わぬ行動をしたからなのか、優越感が一瞬にして吹き飛ぶような出来事が起こる。夫の会社が傾き始めたと思ったら、あっという間に潰れた。どこの会社も正社員雇用を渋り、夫の転職活動は困難を極める。これといった資格もなく、ましてや家と家族持ちで手当を必要とする人材など、面接すらしてもらえないことも少なくなかった。わずかに退職金が出たが、そんなものは焼け石に水。高い年収が続く前提で組んだ住宅ローンは家計に重くのしかかり、残る道は家を売ることしかない。しかし、ローンの残額が多すぎて、たとえ売れても売却損が出る始末で、売るに売れない。家を建てた時に貯金はすべて使い果たしたし、建築途中に思わぬ設備投資が必要になり、両親に借りた200万円もある。このままでは、半年もしないうちに家計が破綻してしまう。ずっと続いていた晴天が、突然翳り出し、あっという間に一歩先すら見通せないような土砂降りに。そんな気がした。売り上げが高くても手元にお金は残らない夫婦で暗澹たる気持ちで過ごしていた時だ。ふと連絡をくれた夫の友人の紹介で、夫婦でコンビニのフランチャイズ契約をすることになった。契約に必要な諸経費や開店資金はフランチャイズ本部に借り、なんとか開店にこぎつける。止む気配のなかった大雨の中に、一筋の光が差した。真面目に働けばその分だけ、ちゃんと自分に見返りがあると信じて疑わなかったからだ。しかし、この道もいばらの道だった。どうやら私たち夫婦には、商才はなかったようだ。365日休みもなく、慢性的な人手不足やクレーム、トラブル対応に追われる日々。やってもやっても、仕事はどこかから湧き出てくる。心身の疲れ以上につらかったのは、支払いの工面をすることだ。自営業がこんなにお金が貯まらないものだと、この仕事に携わるまで知らなかった。まるで底なし沼である。人件費をはじめとする諸経費全般を経営主が負担するフランチャイズ契約では、なかなか自分たちの懐にお金が入ってこない。店の売り上げは大きかったが、開店時の借金の返済や本部へのロイヤリティの支払いは容赦ない。夫の手取りが10万に満たない月もある。利益があがるのに、お金はほとんど手元に残らなかった。それでも毎月、フランチャイズ本部にお金を借りて生活費に充て、住宅ローンを何とか落とさずに払い続けた。2ヵ月払えなければ、家は銀行に差し押さえられてしまうからだ。娘の成長とともに学費も高くなり、なおさら家計を圧迫するようにもなった。公立の進学校に進んだ娘は、高校で必要なものやガラケー代、模試費用を自分で捻出したいと言う。原則アルバイト禁止だったが、先生に家庭の事情を話して頼み込んだ。私も学校に出向き、生活を支えるためにバイトの必要性を懇願した。「親と一緒の職場なら」との条件でバイトを許可してもらったものの、私たち親子を見る先生の切ない表情は、今も忘れられない。家族3人一致団結、家計を支えるために日々頑張った。しかし、やはり出ていくお金が多過ぎる。ここでもし、大きな病気でもして夫婦どちらかが働けなくなったらおしまいだ。その恐怖心が常に付きまとう。それ以前に、病院に行く時間もお金もないのが現実だった。とにかく24時間365日、店のスタッフが途切れないようにして、あきそうな穴を埋め続ける日々。睡眠時間を削り、夫とともに日の出前に車に乗りこみ、早朝勤務をこなす日も多かった。「いつか、いつか絶対にこの底なし沼から抜け出してやる」、それだけを胸に秘めながら。(イラスト:おおの麻里)足元の小さな幸せをみしめてコンビニを始めて15年、何とか契約満了を迎え店をやめることができた。奨学金を借りて大学を卒業した娘も、昨年就職して独立。節約に節約を重ね、山場は乗り越えたが、今なおお金はない。職業病ともいうべき過重労働による慢性疲労や腰痛は持病として残る。50歳という年齢を考えれば、その後の転職活動は厳しいものであると思われた。夫も、私自身も、納得いくような職場はそうそう見つからないだろうと。しかし、夫は学生時代の知り合いを通じて正社員の職を得ることができた。私もハローワークで、たまたま家の近所でパートを募集しているのを見つけ、雇ってもらうことに。世帯収入は家を買った頃に比べれば半分以下。夫にはボーナスも退職金も昇給もない。私もカレンダー通りに休みになるから、連休や年末年始に当たる月は、収入はわずかだ。正月やお盆には、夫の実家にきょうだいが集う。きらびやかなお取り寄せおせちや豪華なオードブル。裕福な親戚たちがその日のために頼んだものや買ってきたもの。それ以外にも、数々の手土産や両親へのお小遣いを渡している。わが家は、小さな菓子折りを渡したきりでご相伴にあずかるばかり。周囲からの憐れむような視線を感じるが素知らぬふりをする。だから、昨年はコロナ禍で集まる機会がなく、少しホッとした。「服も買えんような生活させてごめんね」。着た切り雀の私に、姑が申し訳なさそうにつぶやく。しかし、何と言われても構わない。人がどう思おうと、私の人生は続くのだ。身の丈に合わないことをすれば何が待っているのかは、じゅうぶん身に沁みている。今もし、宝くじが当たって大金を手にしたとしても、舞い上がってとんでもない散財など絶対にしないという自信がある。ただ、残念だが宝くじを買う、その種銭が私にはない。試算すると60歳の定年を迎えても、住宅ローンはまだ800万円ほど残る。これからどんどん歳をとっていく。不安にかられない日はない。それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
新築の家を見に来たみんなが、造りのよさに感嘆し、羨ましそうな表情になり、言葉を発した時、私はそれまでに感じたことのない優越感を覚えたものだった。そう、「うちはあなたたちとはちょっと違う」と上から目線で見ていたのだ。順風満帆という言葉は自分のためにあるように思えた。今の収入なら、住宅ローンの繰り上げ返済をし続ければ、夫の定年までには払い終えられそうだ。完済すれば、退職金や年金はまるまる自由に使え、老後はお金の心配なく暮らせる。30年先の未来の余裕も手に入れた気がして、心は満ち足りていた。だが。身の丈に合わぬ行動をしたからなのか、優越感が一瞬にして吹き飛ぶような出来事が起こる。夫の会社が傾き始めたと思ったら、あっという間に潰れた。どこの会社も正社員雇用を渋り、夫の転職活動は困難を極める。これといった資格もなく、ましてや家と家族持ちで手当を必要とする人材など、面接すらしてもらえないことも少なくなかった。わずかに退職金が出たが、そんなものは焼け石に水。高い年収が続く前提で組んだ住宅ローンは家計に重くのしかかり、残る道は家を売ることしかない。しかし、ローンの残額が多すぎて、たとえ売れても売却損が出る始末で、売るに売れない。家を建てた時に貯金はすべて使い果たしたし、建築途中に思わぬ設備投資が必要になり、両親に借りた200万円もある。このままでは、半年もしないうちに家計が破綻してしまう。ずっと続いていた晴天が、突然翳り出し、あっという間に一歩先すら見通せないような土砂降りに。そんな気がした。売り上げが高くても手元にお金は残らない夫婦で暗澹たる気持ちで過ごしていた時だ。ふと連絡をくれた夫の友人の紹介で、夫婦でコンビニのフランチャイズ契約をすることになった。契約に必要な諸経費や開店資金はフランチャイズ本部に借り、なんとか開店にこぎつける。止む気配のなかった大雨の中に、一筋の光が差した。真面目に働けばその分だけ、ちゃんと自分に見返りがあると信じて疑わなかったからだ。しかし、この道もいばらの道だった。どうやら私たち夫婦には、商才はなかったようだ。365日休みもなく、慢性的な人手不足やクレーム、トラブル対応に追われる日々。やってもやっても、仕事はどこかから湧き出てくる。心身の疲れ以上につらかったのは、支払いの工面をすることだ。自営業がこんなにお金が貯まらないものだと、この仕事に携わるまで知らなかった。まるで底なし沼である。人件費をはじめとする諸経費全般を経営主が負担するフランチャイズ契約では、なかなか自分たちの懐にお金が入ってこない。店の売り上げは大きかったが、開店時の借金の返済や本部へのロイヤリティの支払いは容赦ない。夫の手取りが10万に満たない月もある。利益があがるのに、お金はほとんど手元に残らなかった。それでも毎月、フランチャイズ本部にお金を借りて生活費に充て、住宅ローンを何とか落とさずに払い続けた。2ヵ月払えなければ、家は銀行に差し押さえられてしまうからだ。娘の成長とともに学費も高くなり、なおさら家計を圧迫するようにもなった。公立の進学校に進んだ娘は、高校で必要なものやガラケー代、模試費用を自分で捻出したいと言う。原則アルバイト禁止だったが、先生に家庭の事情を話して頼み込んだ。私も学校に出向き、生活を支えるためにバイトの必要性を懇願した。「親と一緒の職場なら」との条件でバイトを許可してもらったものの、私たち親子を見る先生の切ない表情は、今も忘れられない。家族3人一致団結、家計を支えるために日々頑張った。しかし、やはり出ていくお金が多過ぎる。ここでもし、大きな病気でもして夫婦どちらかが働けなくなったらおしまいだ。その恐怖心が常に付きまとう。それ以前に、病院に行く時間もお金もないのが現実だった。とにかく24時間365日、店のスタッフが途切れないようにして、あきそうな穴を埋め続ける日々。睡眠時間を削り、夫とともに日の出前に車に乗りこみ、早朝勤務をこなす日も多かった。「いつか、いつか絶対にこの底なし沼から抜け出してやる」、それだけを胸に秘めながら。(イラスト:おおの麻里)足元の小さな幸せをみしめてコンビニを始めて15年、何とか契約満了を迎え店をやめることができた。奨学金を借りて大学を卒業した娘も、昨年就職して独立。節約に節約を重ね、山場は乗り越えたが、今なおお金はない。職業病ともいうべき過重労働による慢性疲労や腰痛は持病として残る。50歳という年齢を考えれば、その後の転職活動は厳しいものであると思われた。夫も、私自身も、納得いくような職場はそうそう見つからないだろうと。しかし、夫は学生時代の知り合いを通じて正社員の職を得ることができた。私もハローワークで、たまたま家の近所でパートを募集しているのを見つけ、雇ってもらうことに。世帯収入は家を買った頃に比べれば半分以下。夫にはボーナスも退職金も昇給もない。私もカレンダー通りに休みになるから、連休や年末年始に当たる月は、収入はわずかだ。正月やお盆には、夫の実家にきょうだいが集う。きらびやかなお取り寄せおせちや豪華なオードブル。裕福な親戚たちがその日のために頼んだものや買ってきたもの。それ以外にも、数々の手土産や両親へのお小遣いを渡している。わが家は、小さな菓子折りを渡したきりでご相伴にあずかるばかり。周囲からの憐れむような視線を感じるが素知らぬふりをする。だから、昨年はコロナ禍で集まる機会がなく、少しホッとした。「服も買えんような生活させてごめんね」。着た切り雀の私に、姑が申し訳なさそうにつぶやく。しかし、何と言われても構わない。人がどう思おうと、私の人生は続くのだ。身の丈に合わないことをすれば何が待っているのかは、じゅうぶん身に沁みている。今もし、宝くじが当たって大金を手にしたとしても、舞い上がってとんでもない散財など絶対にしないという自信がある。ただ、残念だが宝くじを買う、その種銭が私にはない。試算すると60歳の定年を迎えても、住宅ローンはまだ800万円ほど残る。これからどんどん歳をとっていく。不安にかられない日はない。それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
今の収入なら、住宅ローンの繰り上げ返済をし続ければ、夫の定年までには払い終えられそうだ。完済すれば、退職金や年金はまるまる自由に使え、老後はお金の心配なく暮らせる。30年先の未来の余裕も手に入れた気がして、心は満ち足りていた。だが。身の丈に合わぬ行動をしたからなのか、優越感が一瞬にして吹き飛ぶような出来事が起こる。夫の会社が傾き始めたと思ったら、あっという間に潰れた。どこの会社も正社員雇用を渋り、夫の転職活動は困難を極める。これといった資格もなく、ましてや家と家族持ちで手当を必要とする人材など、面接すらしてもらえないことも少なくなかった。わずかに退職金が出たが、そんなものは焼け石に水。高い年収が続く前提で組んだ住宅ローンは家計に重くのしかかり、残る道は家を売ることしかない。しかし、ローンの残額が多すぎて、たとえ売れても売却損が出る始末で、売るに売れない。家を建てた時に貯金はすべて使い果たしたし、建築途中に思わぬ設備投資が必要になり、両親に借りた200万円もある。このままでは、半年もしないうちに家計が破綻してしまう。ずっと続いていた晴天が、突然翳り出し、あっという間に一歩先すら見通せないような土砂降りに。そんな気がした。売り上げが高くても手元にお金は残らない夫婦で暗澹たる気持ちで過ごしていた時だ。ふと連絡をくれた夫の友人の紹介で、夫婦でコンビニのフランチャイズ契約をすることになった。契約に必要な諸経費や開店資金はフランチャイズ本部に借り、なんとか開店にこぎつける。止む気配のなかった大雨の中に、一筋の光が差した。真面目に働けばその分だけ、ちゃんと自分に見返りがあると信じて疑わなかったからだ。しかし、この道もいばらの道だった。どうやら私たち夫婦には、商才はなかったようだ。365日休みもなく、慢性的な人手不足やクレーム、トラブル対応に追われる日々。やってもやっても、仕事はどこかから湧き出てくる。心身の疲れ以上につらかったのは、支払いの工面をすることだ。自営業がこんなにお金が貯まらないものだと、この仕事に携わるまで知らなかった。まるで底なし沼である。人件費をはじめとする諸経費全般を経営主が負担するフランチャイズ契約では、なかなか自分たちの懐にお金が入ってこない。店の売り上げは大きかったが、開店時の借金の返済や本部へのロイヤリティの支払いは容赦ない。夫の手取りが10万に満たない月もある。利益があがるのに、お金はほとんど手元に残らなかった。それでも毎月、フランチャイズ本部にお金を借りて生活費に充て、住宅ローンを何とか落とさずに払い続けた。2ヵ月払えなければ、家は銀行に差し押さえられてしまうからだ。娘の成長とともに学費も高くなり、なおさら家計を圧迫するようにもなった。公立の進学校に進んだ娘は、高校で必要なものやガラケー代、模試費用を自分で捻出したいと言う。原則アルバイト禁止だったが、先生に家庭の事情を話して頼み込んだ。私も学校に出向き、生活を支えるためにバイトの必要性を懇願した。「親と一緒の職場なら」との条件でバイトを許可してもらったものの、私たち親子を見る先生の切ない表情は、今も忘れられない。家族3人一致団結、家計を支えるために日々頑張った。しかし、やはり出ていくお金が多過ぎる。ここでもし、大きな病気でもして夫婦どちらかが働けなくなったらおしまいだ。その恐怖心が常に付きまとう。それ以前に、病院に行く時間もお金もないのが現実だった。とにかく24時間365日、店のスタッフが途切れないようにして、あきそうな穴を埋め続ける日々。睡眠時間を削り、夫とともに日の出前に車に乗りこみ、早朝勤務をこなす日も多かった。「いつか、いつか絶対にこの底なし沼から抜け出してやる」、それだけを胸に秘めながら。(イラスト:おおの麻里)足元の小さな幸せをみしめてコンビニを始めて15年、何とか契約満了を迎え店をやめることができた。奨学金を借りて大学を卒業した娘も、昨年就職して独立。節約に節約を重ね、山場は乗り越えたが、今なおお金はない。職業病ともいうべき過重労働による慢性疲労や腰痛は持病として残る。50歳という年齢を考えれば、その後の転職活動は厳しいものであると思われた。夫も、私自身も、納得いくような職場はそうそう見つからないだろうと。しかし、夫は学生時代の知り合いを通じて正社員の職を得ることができた。私もハローワークで、たまたま家の近所でパートを募集しているのを見つけ、雇ってもらうことに。世帯収入は家を買った頃に比べれば半分以下。夫にはボーナスも退職金も昇給もない。私もカレンダー通りに休みになるから、連休や年末年始に当たる月は、収入はわずかだ。正月やお盆には、夫の実家にきょうだいが集う。きらびやかなお取り寄せおせちや豪華なオードブル。裕福な親戚たちがその日のために頼んだものや買ってきたもの。それ以外にも、数々の手土産や両親へのお小遣いを渡している。わが家は、小さな菓子折りを渡したきりでご相伴にあずかるばかり。周囲からの憐れむような視線を感じるが素知らぬふりをする。だから、昨年はコロナ禍で集まる機会がなく、少しホッとした。「服も買えんような生活させてごめんね」。着た切り雀の私に、姑が申し訳なさそうにつぶやく。しかし、何と言われても構わない。人がどう思おうと、私の人生は続くのだ。身の丈に合わないことをすれば何が待っているのかは、じゅうぶん身に沁みている。今もし、宝くじが当たって大金を手にしたとしても、舞い上がってとんでもない散財など絶対にしないという自信がある。ただ、残念だが宝くじを買う、その種銭が私にはない。試算すると60歳の定年を迎えても、住宅ローンはまだ800万円ほど残る。これからどんどん歳をとっていく。不安にかられない日はない。それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
だが。身の丈に合わぬ行動をしたからなのか、優越感が一瞬にして吹き飛ぶような出来事が起こる。夫の会社が傾き始めたと思ったら、あっという間に潰れた。どこの会社も正社員雇用を渋り、夫の転職活動は困難を極める。これといった資格もなく、ましてや家と家族持ちで手当を必要とする人材など、面接すらしてもらえないことも少なくなかった。わずかに退職金が出たが、そんなものは焼け石に水。高い年収が続く前提で組んだ住宅ローンは家計に重くのしかかり、残る道は家を売ることしかない。しかし、ローンの残額が多すぎて、たとえ売れても売却損が出る始末で、売るに売れない。家を建てた時に貯金はすべて使い果たしたし、建築途中に思わぬ設備投資が必要になり、両親に借りた200万円もある。このままでは、半年もしないうちに家計が破綻してしまう。ずっと続いていた晴天が、突然翳り出し、あっという間に一歩先すら見通せないような土砂降りに。そんな気がした。売り上げが高くても手元にお金は残らない夫婦で暗澹たる気持ちで過ごしていた時だ。ふと連絡をくれた夫の友人の紹介で、夫婦でコンビニのフランチャイズ契約をすることになった。契約に必要な諸経費や開店資金はフランチャイズ本部に借り、なんとか開店にこぎつける。止む気配のなかった大雨の中に、一筋の光が差した。真面目に働けばその分だけ、ちゃんと自分に見返りがあると信じて疑わなかったからだ。しかし、この道もいばらの道だった。どうやら私たち夫婦には、商才はなかったようだ。365日休みもなく、慢性的な人手不足やクレーム、トラブル対応に追われる日々。やってもやっても、仕事はどこかから湧き出てくる。心身の疲れ以上につらかったのは、支払いの工面をすることだ。自営業がこんなにお金が貯まらないものだと、この仕事に携わるまで知らなかった。まるで底なし沼である。人件費をはじめとする諸経費全般を経営主が負担するフランチャイズ契約では、なかなか自分たちの懐にお金が入ってこない。店の売り上げは大きかったが、開店時の借金の返済や本部へのロイヤリティの支払いは容赦ない。夫の手取りが10万に満たない月もある。利益があがるのに、お金はほとんど手元に残らなかった。それでも毎月、フランチャイズ本部にお金を借りて生活費に充て、住宅ローンを何とか落とさずに払い続けた。2ヵ月払えなければ、家は銀行に差し押さえられてしまうからだ。娘の成長とともに学費も高くなり、なおさら家計を圧迫するようにもなった。公立の進学校に進んだ娘は、高校で必要なものやガラケー代、模試費用を自分で捻出したいと言う。原則アルバイト禁止だったが、先生に家庭の事情を話して頼み込んだ。私も学校に出向き、生活を支えるためにバイトの必要性を懇願した。「親と一緒の職場なら」との条件でバイトを許可してもらったものの、私たち親子を見る先生の切ない表情は、今も忘れられない。家族3人一致団結、家計を支えるために日々頑張った。しかし、やはり出ていくお金が多過ぎる。ここでもし、大きな病気でもして夫婦どちらかが働けなくなったらおしまいだ。その恐怖心が常に付きまとう。それ以前に、病院に行く時間もお金もないのが現実だった。とにかく24時間365日、店のスタッフが途切れないようにして、あきそうな穴を埋め続ける日々。睡眠時間を削り、夫とともに日の出前に車に乗りこみ、早朝勤務をこなす日も多かった。「いつか、いつか絶対にこの底なし沼から抜け出してやる」、それだけを胸に秘めながら。(イラスト:おおの麻里)足元の小さな幸せをみしめてコンビニを始めて15年、何とか契約満了を迎え店をやめることができた。奨学金を借りて大学を卒業した娘も、昨年就職して独立。節約に節約を重ね、山場は乗り越えたが、今なおお金はない。職業病ともいうべき過重労働による慢性疲労や腰痛は持病として残る。50歳という年齢を考えれば、その後の転職活動は厳しいものであると思われた。夫も、私自身も、納得いくような職場はそうそう見つからないだろうと。しかし、夫は学生時代の知り合いを通じて正社員の職を得ることができた。私もハローワークで、たまたま家の近所でパートを募集しているのを見つけ、雇ってもらうことに。世帯収入は家を買った頃に比べれば半分以下。夫にはボーナスも退職金も昇給もない。私もカレンダー通りに休みになるから、連休や年末年始に当たる月は、収入はわずかだ。正月やお盆には、夫の実家にきょうだいが集う。きらびやかなお取り寄せおせちや豪華なオードブル。裕福な親戚たちがその日のために頼んだものや買ってきたもの。それ以外にも、数々の手土産や両親へのお小遣いを渡している。わが家は、小さな菓子折りを渡したきりでご相伴にあずかるばかり。周囲からの憐れむような視線を感じるが素知らぬふりをする。だから、昨年はコロナ禍で集まる機会がなく、少しホッとした。「服も買えんような生活させてごめんね」。着た切り雀の私に、姑が申し訳なさそうにつぶやく。しかし、何と言われても構わない。人がどう思おうと、私の人生は続くのだ。身の丈に合わないことをすれば何が待っているのかは、じゅうぶん身に沁みている。今もし、宝くじが当たって大金を手にしたとしても、舞い上がってとんでもない散財など絶対にしないという自信がある。ただ、残念だが宝くじを買う、その種銭が私にはない。試算すると60歳の定年を迎えても、住宅ローンはまだ800万円ほど残る。これからどんどん歳をとっていく。不安にかられない日はない。それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
夫の会社が傾き始めたと思ったら、あっという間に潰れた。どこの会社も正社員雇用を渋り、夫の転職活動は困難を極める。これといった資格もなく、ましてや家と家族持ちで手当を必要とする人材など、面接すらしてもらえないことも少なくなかった。わずかに退職金が出たが、そんなものは焼け石に水。高い年収が続く前提で組んだ住宅ローンは家計に重くのしかかり、残る道は家を売ることしかない。しかし、ローンの残額が多すぎて、たとえ売れても売却損が出る始末で、売るに売れない。家を建てた時に貯金はすべて使い果たしたし、建築途中に思わぬ設備投資が必要になり、両親に借りた200万円もある。このままでは、半年もしないうちに家計が破綻してしまう。ずっと続いていた晴天が、突然翳り出し、あっという間に一歩先すら見通せないような土砂降りに。そんな気がした。売り上げが高くても手元にお金は残らない夫婦で暗澹たる気持ちで過ごしていた時だ。ふと連絡をくれた夫の友人の紹介で、夫婦でコンビニのフランチャイズ契約をすることになった。契約に必要な諸経費や開店資金はフランチャイズ本部に借り、なんとか開店にこぎつける。止む気配のなかった大雨の中に、一筋の光が差した。真面目に働けばその分だけ、ちゃんと自分に見返りがあると信じて疑わなかったからだ。しかし、この道もいばらの道だった。どうやら私たち夫婦には、商才はなかったようだ。365日休みもなく、慢性的な人手不足やクレーム、トラブル対応に追われる日々。やってもやっても、仕事はどこかから湧き出てくる。心身の疲れ以上につらかったのは、支払いの工面をすることだ。自営業がこんなにお金が貯まらないものだと、この仕事に携わるまで知らなかった。まるで底なし沼である。人件費をはじめとする諸経費全般を経営主が負担するフランチャイズ契約では、なかなか自分たちの懐にお金が入ってこない。店の売り上げは大きかったが、開店時の借金の返済や本部へのロイヤリティの支払いは容赦ない。夫の手取りが10万に満たない月もある。利益があがるのに、お金はほとんど手元に残らなかった。それでも毎月、フランチャイズ本部にお金を借りて生活費に充て、住宅ローンを何とか落とさずに払い続けた。2ヵ月払えなければ、家は銀行に差し押さえられてしまうからだ。娘の成長とともに学費も高くなり、なおさら家計を圧迫するようにもなった。公立の進学校に進んだ娘は、高校で必要なものやガラケー代、模試費用を自分で捻出したいと言う。原則アルバイト禁止だったが、先生に家庭の事情を話して頼み込んだ。私も学校に出向き、生活を支えるためにバイトの必要性を懇願した。「親と一緒の職場なら」との条件でバイトを許可してもらったものの、私たち親子を見る先生の切ない表情は、今も忘れられない。家族3人一致団結、家計を支えるために日々頑張った。しかし、やはり出ていくお金が多過ぎる。ここでもし、大きな病気でもして夫婦どちらかが働けなくなったらおしまいだ。その恐怖心が常に付きまとう。それ以前に、病院に行く時間もお金もないのが現実だった。とにかく24時間365日、店のスタッフが途切れないようにして、あきそうな穴を埋め続ける日々。睡眠時間を削り、夫とともに日の出前に車に乗りこみ、早朝勤務をこなす日も多かった。「いつか、いつか絶対にこの底なし沼から抜け出してやる」、それだけを胸に秘めながら。(イラスト:おおの麻里)足元の小さな幸せをみしめてコンビニを始めて15年、何とか契約満了を迎え店をやめることができた。奨学金を借りて大学を卒業した娘も、昨年就職して独立。節約に節約を重ね、山場は乗り越えたが、今なおお金はない。職業病ともいうべき過重労働による慢性疲労や腰痛は持病として残る。50歳という年齢を考えれば、その後の転職活動は厳しいものであると思われた。夫も、私自身も、納得いくような職場はそうそう見つからないだろうと。しかし、夫は学生時代の知り合いを通じて正社員の職を得ることができた。私もハローワークで、たまたま家の近所でパートを募集しているのを見つけ、雇ってもらうことに。世帯収入は家を買った頃に比べれば半分以下。夫にはボーナスも退職金も昇給もない。私もカレンダー通りに休みになるから、連休や年末年始に当たる月は、収入はわずかだ。正月やお盆には、夫の実家にきょうだいが集う。きらびやかなお取り寄せおせちや豪華なオードブル。裕福な親戚たちがその日のために頼んだものや買ってきたもの。それ以外にも、数々の手土産や両親へのお小遣いを渡している。わが家は、小さな菓子折りを渡したきりでご相伴にあずかるばかり。周囲からの憐れむような視線を感じるが素知らぬふりをする。だから、昨年はコロナ禍で集まる機会がなく、少しホッとした。「服も買えんような生活させてごめんね」。着た切り雀の私に、姑が申し訳なさそうにつぶやく。しかし、何と言われても構わない。人がどう思おうと、私の人生は続くのだ。身の丈に合わないことをすれば何が待っているのかは、じゅうぶん身に沁みている。今もし、宝くじが当たって大金を手にしたとしても、舞い上がってとんでもない散財など絶対にしないという自信がある。ただ、残念だが宝くじを買う、その種銭が私にはない。試算すると60歳の定年を迎えても、住宅ローンはまだ800万円ほど残る。これからどんどん歳をとっていく。不安にかられない日はない。それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
わずかに退職金が出たが、そんなものは焼け石に水。高い年収が続く前提で組んだ住宅ローンは家計に重くのしかかり、残る道は家を売ることしかない。しかし、ローンの残額が多すぎて、たとえ売れても売却損が出る始末で、売るに売れない。家を建てた時に貯金はすべて使い果たしたし、建築途中に思わぬ設備投資が必要になり、両親に借りた200万円もある。このままでは、半年もしないうちに家計が破綻してしまう。ずっと続いていた晴天が、突然翳り出し、あっという間に一歩先すら見通せないような土砂降りに。そんな気がした。売り上げが高くても手元にお金は残らない夫婦で暗澹たる気持ちで過ごしていた時だ。ふと連絡をくれた夫の友人の紹介で、夫婦でコンビニのフランチャイズ契約をすることになった。契約に必要な諸経費や開店資金はフランチャイズ本部に借り、なんとか開店にこぎつける。止む気配のなかった大雨の中に、一筋の光が差した。真面目に働けばその分だけ、ちゃんと自分に見返りがあると信じて疑わなかったからだ。しかし、この道もいばらの道だった。どうやら私たち夫婦には、商才はなかったようだ。365日休みもなく、慢性的な人手不足やクレーム、トラブル対応に追われる日々。やってもやっても、仕事はどこかから湧き出てくる。心身の疲れ以上につらかったのは、支払いの工面をすることだ。自営業がこんなにお金が貯まらないものだと、この仕事に携わるまで知らなかった。まるで底なし沼である。人件費をはじめとする諸経費全般を経営主が負担するフランチャイズ契約では、なかなか自分たちの懐にお金が入ってこない。店の売り上げは大きかったが、開店時の借金の返済や本部へのロイヤリティの支払いは容赦ない。夫の手取りが10万に満たない月もある。利益があがるのに、お金はほとんど手元に残らなかった。それでも毎月、フランチャイズ本部にお金を借りて生活費に充て、住宅ローンを何とか落とさずに払い続けた。2ヵ月払えなければ、家は銀行に差し押さえられてしまうからだ。娘の成長とともに学費も高くなり、なおさら家計を圧迫するようにもなった。公立の進学校に進んだ娘は、高校で必要なものやガラケー代、模試費用を自分で捻出したいと言う。原則アルバイト禁止だったが、先生に家庭の事情を話して頼み込んだ。私も学校に出向き、生活を支えるためにバイトの必要性を懇願した。「親と一緒の職場なら」との条件でバイトを許可してもらったものの、私たち親子を見る先生の切ない表情は、今も忘れられない。家族3人一致団結、家計を支えるために日々頑張った。しかし、やはり出ていくお金が多過ぎる。ここでもし、大きな病気でもして夫婦どちらかが働けなくなったらおしまいだ。その恐怖心が常に付きまとう。それ以前に、病院に行く時間もお金もないのが現実だった。とにかく24時間365日、店のスタッフが途切れないようにして、あきそうな穴を埋め続ける日々。睡眠時間を削り、夫とともに日の出前に車に乗りこみ、早朝勤務をこなす日も多かった。「いつか、いつか絶対にこの底なし沼から抜け出してやる」、それだけを胸に秘めながら。(イラスト:おおの麻里)足元の小さな幸せをみしめてコンビニを始めて15年、何とか契約満了を迎え店をやめることができた。奨学金を借りて大学を卒業した娘も、昨年就職して独立。節約に節約を重ね、山場は乗り越えたが、今なおお金はない。職業病ともいうべき過重労働による慢性疲労や腰痛は持病として残る。50歳という年齢を考えれば、その後の転職活動は厳しいものであると思われた。夫も、私自身も、納得いくような職場はそうそう見つからないだろうと。しかし、夫は学生時代の知り合いを通じて正社員の職を得ることができた。私もハローワークで、たまたま家の近所でパートを募集しているのを見つけ、雇ってもらうことに。世帯収入は家を買った頃に比べれば半分以下。夫にはボーナスも退職金も昇給もない。私もカレンダー通りに休みになるから、連休や年末年始に当たる月は、収入はわずかだ。正月やお盆には、夫の実家にきょうだいが集う。きらびやかなお取り寄せおせちや豪華なオードブル。裕福な親戚たちがその日のために頼んだものや買ってきたもの。それ以外にも、数々の手土産や両親へのお小遣いを渡している。わが家は、小さな菓子折りを渡したきりでご相伴にあずかるばかり。周囲からの憐れむような視線を感じるが素知らぬふりをする。だから、昨年はコロナ禍で集まる機会がなく、少しホッとした。「服も買えんような生活させてごめんね」。着た切り雀の私に、姑が申し訳なさそうにつぶやく。しかし、何と言われても構わない。人がどう思おうと、私の人生は続くのだ。身の丈に合わないことをすれば何が待っているのかは、じゅうぶん身に沁みている。今もし、宝くじが当たって大金を手にしたとしても、舞い上がってとんでもない散財など絶対にしないという自信がある。ただ、残念だが宝くじを買う、その種銭が私にはない。試算すると60歳の定年を迎えても、住宅ローンはまだ800万円ほど残る。これからどんどん歳をとっていく。不安にかられない日はない。それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
家を建てた時に貯金はすべて使い果たしたし、建築途中に思わぬ設備投資が必要になり、両親に借りた200万円もある。このままでは、半年もしないうちに家計が破綻してしまう。ずっと続いていた晴天が、突然翳り出し、あっという間に一歩先すら見通せないような土砂降りに。そんな気がした。売り上げが高くても手元にお金は残らない夫婦で暗澹たる気持ちで過ごしていた時だ。ふと連絡をくれた夫の友人の紹介で、夫婦でコンビニのフランチャイズ契約をすることになった。契約に必要な諸経費や開店資金はフランチャイズ本部に借り、なんとか開店にこぎつける。止む気配のなかった大雨の中に、一筋の光が差した。真面目に働けばその分だけ、ちゃんと自分に見返りがあると信じて疑わなかったからだ。しかし、この道もいばらの道だった。どうやら私たち夫婦には、商才はなかったようだ。365日休みもなく、慢性的な人手不足やクレーム、トラブル対応に追われる日々。やってもやっても、仕事はどこかから湧き出てくる。心身の疲れ以上につらかったのは、支払いの工面をすることだ。自営業がこんなにお金が貯まらないものだと、この仕事に携わるまで知らなかった。まるで底なし沼である。人件費をはじめとする諸経費全般を経営主が負担するフランチャイズ契約では、なかなか自分たちの懐にお金が入ってこない。店の売り上げは大きかったが、開店時の借金の返済や本部へのロイヤリティの支払いは容赦ない。夫の手取りが10万に満たない月もある。利益があがるのに、お金はほとんど手元に残らなかった。それでも毎月、フランチャイズ本部にお金を借りて生活費に充て、住宅ローンを何とか落とさずに払い続けた。2ヵ月払えなければ、家は銀行に差し押さえられてしまうからだ。娘の成長とともに学費も高くなり、なおさら家計を圧迫するようにもなった。公立の進学校に進んだ娘は、高校で必要なものやガラケー代、模試費用を自分で捻出したいと言う。原則アルバイト禁止だったが、先生に家庭の事情を話して頼み込んだ。私も学校に出向き、生活を支えるためにバイトの必要性を懇願した。「親と一緒の職場なら」との条件でバイトを許可してもらったものの、私たち親子を見る先生の切ない表情は、今も忘れられない。家族3人一致団結、家計を支えるために日々頑張った。しかし、やはり出ていくお金が多過ぎる。ここでもし、大きな病気でもして夫婦どちらかが働けなくなったらおしまいだ。その恐怖心が常に付きまとう。それ以前に、病院に行く時間もお金もないのが現実だった。とにかく24時間365日、店のスタッフが途切れないようにして、あきそうな穴を埋め続ける日々。睡眠時間を削り、夫とともに日の出前に車に乗りこみ、早朝勤務をこなす日も多かった。「いつか、いつか絶対にこの底なし沼から抜け出してやる」、それだけを胸に秘めながら。(イラスト:おおの麻里)足元の小さな幸せをみしめてコンビニを始めて15年、何とか契約満了を迎え店をやめることができた。奨学金を借りて大学を卒業した娘も、昨年就職して独立。節約に節約を重ね、山場は乗り越えたが、今なおお金はない。職業病ともいうべき過重労働による慢性疲労や腰痛は持病として残る。50歳という年齢を考えれば、その後の転職活動は厳しいものであると思われた。夫も、私自身も、納得いくような職場はそうそう見つからないだろうと。しかし、夫は学生時代の知り合いを通じて正社員の職を得ることができた。私もハローワークで、たまたま家の近所でパートを募集しているのを見つけ、雇ってもらうことに。世帯収入は家を買った頃に比べれば半分以下。夫にはボーナスも退職金も昇給もない。私もカレンダー通りに休みになるから、連休や年末年始に当たる月は、収入はわずかだ。正月やお盆には、夫の実家にきょうだいが集う。きらびやかなお取り寄せおせちや豪華なオードブル。裕福な親戚たちがその日のために頼んだものや買ってきたもの。それ以外にも、数々の手土産や両親へのお小遣いを渡している。わが家は、小さな菓子折りを渡したきりでご相伴にあずかるばかり。周囲からの憐れむような視線を感じるが素知らぬふりをする。だから、昨年はコロナ禍で集まる機会がなく、少しホッとした。「服も買えんような生活させてごめんね」。着た切り雀の私に、姑が申し訳なさそうにつぶやく。しかし、何と言われても構わない。人がどう思おうと、私の人生は続くのだ。身の丈に合わないことをすれば何が待っているのかは、じゅうぶん身に沁みている。今もし、宝くじが当たって大金を手にしたとしても、舞い上がってとんでもない散財など絶対にしないという自信がある。ただ、残念だが宝くじを買う、その種銭が私にはない。試算すると60歳の定年を迎えても、住宅ローンはまだ800万円ほど残る。これからどんどん歳をとっていく。不安にかられない日はない。それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
ずっと続いていた晴天が、突然翳り出し、あっという間に一歩先すら見通せないような土砂降りに。そんな気がした。売り上げが高くても手元にお金は残らない夫婦で暗澹たる気持ちで過ごしていた時だ。ふと連絡をくれた夫の友人の紹介で、夫婦でコンビニのフランチャイズ契約をすることになった。契約に必要な諸経費や開店資金はフランチャイズ本部に借り、なんとか開店にこぎつける。止む気配のなかった大雨の中に、一筋の光が差した。真面目に働けばその分だけ、ちゃんと自分に見返りがあると信じて疑わなかったからだ。しかし、この道もいばらの道だった。どうやら私たち夫婦には、商才はなかったようだ。365日休みもなく、慢性的な人手不足やクレーム、トラブル対応に追われる日々。やってもやっても、仕事はどこかから湧き出てくる。心身の疲れ以上につらかったのは、支払いの工面をすることだ。自営業がこんなにお金が貯まらないものだと、この仕事に携わるまで知らなかった。まるで底なし沼である。人件費をはじめとする諸経費全般を経営主が負担するフランチャイズ契約では、なかなか自分たちの懐にお金が入ってこない。店の売り上げは大きかったが、開店時の借金の返済や本部へのロイヤリティの支払いは容赦ない。夫の手取りが10万に満たない月もある。利益があがるのに、お金はほとんど手元に残らなかった。それでも毎月、フランチャイズ本部にお金を借りて生活費に充て、住宅ローンを何とか落とさずに払い続けた。2ヵ月払えなければ、家は銀行に差し押さえられてしまうからだ。娘の成長とともに学費も高くなり、なおさら家計を圧迫するようにもなった。公立の進学校に進んだ娘は、高校で必要なものやガラケー代、模試費用を自分で捻出したいと言う。原則アルバイト禁止だったが、先生に家庭の事情を話して頼み込んだ。私も学校に出向き、生活を支えるためにバイトの必要性を懇願した。「親と一緒の職場なら」との条件でバイトを許可してもらったものの、私たち親子を見る先生の切ない表情は、今も忘れられない。家族3人一致団結、家計を支えるために日々頑張った。しかし、やはり出ていくお金が多過ぎる。ここでもし、大きな病気でもして夫婦どちらかが働けなくなったらおしまいだ。その恐怖心が常に付きまとう。それ以前に、病院に行く時間もお金もないのが現実だった。とにかく24時間365日、店のスタッフが途切れないようにして、あきそうな穴を埋め続ける日々。睡眠時間を削り、夫とともに日の出前に車に乗りこみ、早朝勤務をこなす日も多かった。「いつか、いつか絶対にこの底なし沼から抜け出してやる」、それだけを胸に秘めながら。(イラスト:おおの麻里)足元の小さな幸せをみしめてコンビニを始めて15年、何とか契約満了を迎え店をやめることができた。奨学金を借りて大学を卒業した娘も、昨年就職して独立。節約に節約を重ね、山場は乗り越えたが、今なおお金はない。職業病ともいうべき過重労働による慢性疲労や腰痛は持病として残る。50歳という年齢を考えれば、その後の転職活動は厳しいものであると思われた。夫も、私自身も、納得いくような職場はそうそう見つからないだろうと。しかし、夫は学生時代の知り合いを通じて正社員の職を得ることができた。私もハローワークで、たまたま家の近所でパートを募集しているのを見つけ、雇ってもらうことに。世帯収入は家を買った頃に比べれば半分以下。夫にはボーナスも退職金も昇給もない。私もカレンダー通りに休みになるから、連休や年末年始に当たる月は、収入はわずかだ。正月やお盆には、夫の実家にきょうだいが集う。きらびやかなお取り寄せおせちや豪華なオードブル。裕福な親戚たちがその日のために頼んだものや買ってきたもの。それ以外にも、数々の手土産や両親へのお小遣いを渡している。わが家は、小さな菓子折りを渡したきりでご相伴にあずかるばかり。周囲からの憐れむような視線を感じるが素知らぬふりをする。だから、昨年はコロナ禍で集まる機会がなく、少しホッとした。「服も買えんような生活させてごめんね」。着た切り雀の私に、姑が申し訳なさそうにつぶやく。しかし、何と言われても構わない。人がどう思おうと、私の人生は続くのだ。身の丈に合わないことをすれば何が待っているのかは、じゅうぶん身に沁みている。今もし、宝くじが当たって大金を手にしたとしても、舞い上がってとんでもない散財など絶対にしないという自信がある。ただ、残念だが宝くじを買う、その種銭が私にはない。試算すると60歳の定年を迎えても、住宅ローンはまだ800万円ほど残る。これからどんどん歳をとっていく。不安にかられない日はない。それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
夫婦で暗澹たる気持ちで過ごしていた時だ。ふと連絡をくれた夫の友人の紹介で、夫婦でコンビニのフランチャイズ契約をすることになった。契約に必要な諸経費や開店資金はフランチャイズ本部に借り、なんとか開店にこぎつける。止む気配のなかった大雨の中に、一筋の光が差した。真面目に働けばその分だけ、ちゃんと自分に見返りがあると信じて疑わなかったからだ。しかし、この道もいばらの道だった。どうやら私たち夫婦には、商才はなかったようだ。365日休みもなく、慢性的な人手不足やクレーム、トラブル対応に追われる日々。やってもやっても、仕事はどこかから湧き出てくる。心身の疲れ以上につらかったのは、支払いの工面をすることだ。自営業がこんなにお金が貯まらないものだと、この仕事に携わるまで知らなかった。まるで底なし沼である。人件費をはじめとする諸経費全般を経営主が負担するフランチャイズ契約では、なかなか自分たちの懐にお金が入ってこない。店の売り上げは大きかったが、開店時の借金の返済や本部へのロイヤリティの支払いは容赦ない。夫の手取りが10万に満たない月もある。利益があがるのに、お金はほとんど手元に残らなかった。それでも毎月、フランチャイズ本部にお金を借りて生活費に充て、住宅ローンを何とか落とさずに払い続けた。2ヵ月払えなければ、家は銀行に差し押さえられてしまうからだ。娘の成長とともに学費も高くなり、なおさら家計を圧迫するようにもなった。公立の進学校に進んだ娘は、高校で必要なものやガラケー代、模試費用を自分で捻出したいと言う。原則アルバイト禁止だったが、先生に家庭の事情を話して頼み込んだ。私も学校に出向き、生活を支えるためにバイトの必要性を懇願した。「親と一緒の職場なら」との条件でバイトを許可してもらったものの、私たち親子を見る先生の切ない表情は、今も忘れられない。家族3人一致団結、家計を支えるために日々頑張った。しかし、やはり出ていくお金が多過ぎる。ここでもし、大きな病気でもして夫婦どちらかが働けなくなったらおしまいだ。その恐怖心が常に付きまとう。それ以前に、病院に行く時間もお金もないのが現実だった。とにかく24時間365日、店のスタッフが途切れないようにして、あきそうな穴を埋め続ける日々。睡眠時間を削り、夫とともに日の出前に車に乗りこみ、早朝勤務をこなす日も多かった。「いつか、いつか絶対にこの底なし沼から抜け出してやる」、それだけを胸に秘めながら。(イラスト:おおの麻里)足元の小さな幸せをみしめてコンビニを始めて15年、何とか契約満了を迎え店をやめることができた。奨学金を借りて大学を卒業した娘も、昨年就職して独立。節約に節約を重ね、山場は乗り越えたが、今なおお金はない。職業病ともいうべき過重労働による慢性疲労や腰痛は持病として残る。50歳という年齢を考えれば、その後の転職活動は厳しいものであると思われた。夫も、私自身も、納得いくような職場はそうそう見つからないだろうと。しかし、夫は学生時代の知り合いを通じて正社員の職を得ることができた。私もハローワークで、たまたま家の近所でパートを募集しているのを見つけ、雇ってもらうことに。世帯収入は家を買った頃に比べれば半分以下。夫にはボーナスも退職金も昇給もない。私もカレンダー通りに休みになるから、連休や年末年始に当たる月は、収入はわずかだ。正月やお盆には、夫の実家にきょうだいが集う。きらびやかなお取り寄せおせちや豪華なオードブル。裕福な親戚たちがその日のために頼んだものや買ってきたもの。それ以外にも、数々の手土産や両親へのお小遣いを渡している。わが家は、小さな菓子折りを渡したきりでご相伴にあずかるばかり。周囲からの憐れむような視線を感じるが素知らぬふりをする。だから、昨年はコロナ禍で集まる機会がなく、少しホッとした。「服も買えんような生活させてごめんね」。着た切り雀の私に、姑が申し訳なさそうにつぶやく。しかし、何と言われても構わない。人がどう思おうと、私の人生は続くのだ。身の丈に合わないことをすれば何が待っているのかは、じゅうぶん身に沁みている。今もし、宝くじが当たって大金を手にしたとしても、舞い上がってとんでもない散財など絶対にしないという自信がある。ただ、残念だが宝くじを買う、その種銭が私にはない。試算すると60歳の定年を迎えても、住宅ローンはまだ800万円ほど残る。これからどんどん歳をとっていく。不安にかられない日はない。それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
しかし、この道もいばらの道だった。どうやら私たち夫婦には、商才はなかったようだ。365日休みもなく、慢性的な人手不足やクレーム、トラブル対応に追われる日々。やってもやっても、仕事はどこかから湧き出てくる。心身の疲れ以上につらかったのは、支払いの工面をすることだ。自営業がこんなにお金が貯まらないものだと、この仕事に携わるまで知らなかった。まるで底なし沼である。人件費をはじめとする諸経費全般を経営主が負担するフランチャイズ契約では、なかなか自分たちの懐にお金が入ってこない。店の売り上げは大きかったが、開店時の借金の返済や本部へのロイヤリティの支払いは容赦ない。夫の手取りが10万に満たない月もある。利益があがるのに、お金はほとんど手元に残らなかった。それでも毎月、フランチャイズ本部にお金を借りて生活費に充て、住宅ローンを何とか落とさずに払い続けた。2ヵ月払えなければ、家は銀行に差し押さえられてしまうからだ。娘の成長とともに学費も高くなり、なおさら家計を圧迫するようにもなった。公立の進学校に進んだ娘は、高校で必要なものやガラケー代、模試費用を自分で捻出したいと言う。原則アルバイト禁止だったが、先生に家庭の事情を話して頼み込んだ。私も学校に出向き、生活を支えるためにバイトの必要性を懇願した。「親と一緒の職場なら」との条件でバイトを許可してもらったものの、私たち親子を見る先生の切ない表情は、今も忘れられない。家族3人一致団結、家計を支えるために日々頑張った。しかし、やはり出ていくお金が多過ぎる。ここでもし、大きな病気でもして夫婦どちらかが働けなくなったらおしまいだ。その恐怖心が常に付きまとう。それ以前に、病院に行く時間もお金もないのが現実だった。とにかく24時間365日、店のスタッフが途切れないようにして、あきそうな穴を埋め続ける日々。睡眠時間を削り、夫とともに日の出前に車に乗りこみ、早朝勤務をこなす日も多かった。「いつか、いつか絶対にこの底なし沼から抜け出してやる」、それだけを胸に秘めながら。(イラスト:おおの麻里)足元の小さな幸せをみしめてコンビニを始めて15年、何とか契約満了を迎え店をやめることができた。奨学金を借りて大学を卒業した娘も、昨年就職して独立。節約に節約を重ね、山場は乗り越えたが、今なおお金はない。職業病ともいうべき過重労働による慢性疲労や腰痛は持病として残る。50歳という年齢を考えれば、その後の転職活動は厳しいものであると思われた。夫も、私自身も、納得いくような職場はそうそう見つからないだろうと。しかし、夫は学生時代の知り合いを通じて正社員の職を得ることができた。私もハローワークで、たまたま家の近所でパートを募集しているのを見つけ、雇ってもらうことに。世帯収入は家を買った頃に比べれば半分以下。夫にはボーナスも退職金も昇給もない。私もカレンダー通りに休みになるから、連休や年末年始に当たる月は、収入はわずかだ。正月やお盆には、夫の実家にきょうだいが集う。きらびやかなお取り寄せおせちや豪華なオードブル。裕福な親戚たちがその日のために頼んだものや買ってきたもの。それ以外にも、数々の手土産や両親へのお小遣いを渡している。わが家は、小さな菓子折りを渡したきりでご相伴にあずかるばかり。周囲からの憐れむような視線を感じるが素知らぬふりをする。だから、昨年はコロナ禍で集まる機会がなく、少しホッとした。「服も買えんような生活させてごめんね」。着た切り雀の私に、姑が申し訳なさそうにつぶやく。しかし、何と言われても構わない。人がどう思おうと、私の人生は続くのだ。身の丈に合わないことをすれば何が待っているのかは、じゅうぶん身に沁みている。今もし、宝くじが当たって大金を手にしたとしても、舞い上がってとんでもない散財など絶対にしないという自信がある。ただ、残念だが宝くじを買う、その種銭が私にはない。試算すると60歳の定年を迎えても、住宅ローンはまだ800万円ほど残る。これからどんどん歳をとっていく。不安にかられない日はない。それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
どうやら私たち夫婦には、商才はなかったようだ。365日休みもなく、慢性的な人手不足やクレーム、トラブル対応に追われる日々。やってもやっても、仕事はどこかから湧き出てくる。心身の疲れ以上につらかったのは、支払いの工面をすることだ。自営業がこんなにお金が貯まらないものだと、この仕事に携わるまで知らなかった。まるで底なし沼である。人件費をはじめとする諸経費全般を経営主が負担するフランチャイズ契約では、なかなか自分たちの懐にお金が入ってこない。店の売り上げは大きかったが、開店時の借金の返済や本部へのロイヤリティの支払いは容赦ない。夫の手取りが10万に満たない月もある。利益があがるのに、お金はほとんど手元に残らなかった。それでも毎月、フランチャイズ本部にお金を借りて生活費に充て、住宅ローンを何とか落とさずに払い続けた。2ヵ月払えなければ、家は銀行に差し押さえられてしまうからだ。娘の成長とともに学費も高くなり、なおさら家計を圧迫するようにもなった。公立の進学校に進んだ娘は、高校で必要なものやガラケー代、模試費用を自分で捻出したいと言う。原則アルバイト禁止だったが、先生に家庭の事情を話して頼み込んだ。私も学校に出向き、生活を支えるためにバイトの必要性を懇願した。「親と一緒の職場なら」との条件でバイトを許可してもらったものの、私たち親子を見る先生の切ない表情は、今も忘れられない。家族3人一致団結、家計を支えるために日々頑張った。しかし、やはり出ていくお金が多過ぎる。ここでもし、大きな病気でもして夫婦どちらかが働けなくなったらおしまいだ。その恐怖心が常に付きまとう。それ以前に、病院に行く時間もお金もないのが現実だった。とにかく24時間365日、店のスタッフが途切れないようにして、あきそうな穴を埋め続ける日々。睡眠時間を削り、夫とともに日の出前に車に乗りこみ、早朝勤務をこなす日も多かった。「いつか、いつか絶対にこの底なし沼から抜け出してやる」、それだけを胸に秘めながら。(イラスト:おおの麻里)足元の小さな幸せをみしめてコンビニを始めて15年、何とか契約満了を迎え店をやめることができた。奨学金を借りて大学を卒業した娘も、昨年就職して独立。節約に節約を重ね、山場は乗り越えたが、今なおお金はない。職業病ともいうべき過重労働による慢性疲労や腰痛は持病として残る。50歳という年齢を考えれば、その後の転職活動は厳しいものであると思われた。夫も、私自身も、納得いくような職場はそうそう見つからないだろうと。しかし、夫は学生時代の知り合いを通じて正社員の職を得ることができた。私もハローワークで、たまたま家の近所でパートを募集しているのを見つけ、雇ってもらうことに。世帯収入は家を買った頃に比べれば半分以下。夫にはボーナスも退職金も昇給もない。私もカレンダー通りに休みになるから、連休や年末年始に当たる月は、収入はわずかだ。正月やお盆には、夫の実家にきょうだいが集う。きらびやかなお取り寄せおせちや豪華なオードブル。裕福な親戚たちがその日のために頼んだものや買ってきたもの。それ以外にも、数々の手土産や両親へのお小遣いを渡している。わが家は、小さな菓子折りを渡したきりでご相伴にあずかるばかり。周囲からの憐れむような視線を感じるが素知らぬふりをする。だから、昨年はコロナ禍で集まる機会がなく、少しホッとした。「服も買えんような生活させてごめんね」。着た切り雀の私に、姑が申し訳なさそうにつぶやく。しかし、何と言われても構わない。人がどう思おうと、私の人生は続くのだ。身の丈に合わないことをすれば何が待っているのかは、じゅうぶん身に沁みている。今もし、宝くじが当たって大金を手にしたとしても、舞い上がってとんでもない散財など絶対にしないという自信がある。ただ、残念だが宝くじを買う、その種銭が私にはない。試算すると60歳の定年を迎えても、住宅ローンはまだ800万円ほど残る。これからどんどん歳をとっていく。不安にかられない日はない。それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
心身の疲れ以上につらかったのは、支払いの工面をすることだ。自営業がこんなにお金が貯まらないものだと、この仕事に携わるまで知らなかった。まるで底なし沼である。人件費をはじめとする諸経費全般を経営主が負担するフランチャイズ契約では、なかなか自分たちの懐にお金が入ってこない。店の売り上げは大きかったが、開店時の借金の返済や本部へのロイヤリティの支払いは容赦ない。夫の手取りが10万に満たない月もある。利益があがるのに、お金はほとんど手元に残らなかった。それでも毎月、フランチャイズ本部にお金を借りて生活費に充て、住宅ローンを何とか落とさずに払い続けた。2ヵ月払えなければ、家は銀行に差し押さえられてしまうからだ。娘の成長とともに学費も高くなり、なおさら家計を圧迫するようにもなった。公立の進学校に進んだ娘は、高校で必要なものやガラケー代、模試費用を自分で捻出したいと言う。原則アルバイト禁止だったが、先生に家庭の事情を話して頼み込んだ。私も学校に出向き、生活を支えるためにバイトの必要性を懇願した。「親と一緒の職場なら」との条件でバイトを許可してもらったものの、私たち親子を見る先生の切ない表情は、今も忘れられない。家族3人一致団結、家計を支えるために日々頑張った。しかし、やはり出ていくお金が多過ぎる。ここでもし、大きな病気でもして夫婦どちらかが働けなくなったらおしまいだ。その恐怖心が常に付きまとう。それ以前に、病院に行く時間もお金もないのが現実だった。とにかく24時間365日、店のスタッフが途切れないようにして、あきそうな穴を埋め続ける日々。睡眠時間を削り、夫とともに日の出前に車に乗りこみ、早朝勤務をこなす日も多かった。「いつか、いつか絶対にこの底なし沼から抜け出してやる」、それだけを胸に秘めながら。(イラスト:おおの麻里)足元の小さな幸せをみしめてコンビニを始めて15年、何とか契約満了を迎え店をやめることができた。奨学金を借りて大学を卒業した娘も、昨年就職して独立。節約に節約を重ね、山場は乗り越えたが、今なおお金はない。職業病ともいうべき過重労働による慢性疲労や腰痛は持病として残る。50歳という年齢を考えれば、その後の転職活動は厳しいものであると思われた。夫も、私自身も、納得いくような職場はそうそう見つからないだろうと。しかし、夫は学生時代の知り合いを通じて正社員の職を得ることができた。私もハローワークで、たまたま家の近所でパートを募集しているのを見つけ、雇ってもらうことに。世帯収入は家を買った頃に比べれば半分以下。夫にはボーナスも退職金も昇給もない。私もカレンダー通りに休みになるから、連休や年末年始に当たる月は、収入はわずかだ。正月やお盆には、夫の実家にきょうだいが集う。きらびやかなお取り寄せおせちや豪華なオードブル。裕福な親戚たちがその日のために頼んだものや買ってきたもの。それ以外にも、数々の手土産や両親へのお小遣いを渡している。わが家は、小さな菓子折りを渡したきりでご相伴にあずかるばかり。周囲からの憐れむような視線を感じるが素知らぬふりをする。だから、昨年はコロナ禍で集まる機会がなく、少しホッとした。「服も買えんような生活させてごめんね」。着た切り雀の私に、姑が申し訳なさそうにつぶやく。しかし、何と言われても構わない。人がどう思おうと、私の人生は続くのだ。身の丈に合わないことをすれば何が待っているのかは、じゅうぶん身に沁みている。今もし、宝くじが当たって大金を手にしたとしても、舞い上がってとんでもない散財など絶対にしないという自信がある。ただ、残念だが宝くじを買う、その種銭が私にはない。試算すると60歳の定年を迎えても、住宅ローンはまだ800万円ほど残る。これからどんどん歳をとっていく。不安にかられない日はない。それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
店の売り上げは大きかったが、開店時の借金の返済や本部へのロイヤリティの支払いは容赦ない。夫の手取りが10万に満たない月もある。利益があがるのに、お金はほとんど手元に残らなかった。それでも毎月、フランチャイズ本部にお金を借りて生活費に充て、住宅ローンを何とか落とさずに払い続けた。2ヵ月払えなければ、家は銀行に差し押さえられてしまうからだ。娘の成長とともに学費も高くなり、なおさら家計を圧迫するようにもなった。公立の進学校に進んだ娘は、高校で必要なものやガラケー代、模試費用を自分で捻出したいと言う。原則アルバイト禁止だったが、先生に家庭の事情を話して頼み込んだ。私も学校に出向き、生活を支えるためにバイトの必要性を懇願した。「親と一緒の職場なら」との条件でバイトを許可してもらったものの、私たち親子を見る先生の切ない表情は、今も忘れられない。家族3人一致団結、家計を支えるために日々頑張った。しかし、やはり出ていくお金が多過ぎる。ここでもし、大きな病気でもして夫婦どちらかが働けなくなったらおしまいだ。その恐怖心が常に付きまとう。それ以前に、病院に行く時間もお金もないのが現実だった。とにかく24時間365日、店のスタッフが途切れないようにして、あきそうな穴を埋め続ける日々。睡眠時間を削り、夫とともに日の出前に車に乗りこみ、早朝勤務をこなす日も多かった。「いつか、いつか絶対にこの底なし沼から抜け出してやる」、それだけを胸に秘めながら。(イラスト:おおの麻里)足元の小さな幸せをみしめてコンビニを始めて15年、何とか契約満了を迎え店をやめることができた。奨学金を借りて大学を卒業した娘も、昨年就職して独立。節約に節約を重ね、山場は乗り越えたが、今なおお金はない。職業病ともいうべき過重労働による慢性疲労や腰痛は持病として残る。50歳という年齢を考えれば、その後の転職活動は厳しいものであると思われた。夫も、私自身も、納得いくような職場はそうそう見つからないだろうと。しかし、夫は学生時代の知り合いを通じて正社員の職を得ることができた。私もハローワークで、たまたま家の近所でパートを募集しているのを見つけ、雇ってもらうことに。世帯収入は家を買った頃に比べれば半分以下。夫にはボーナスも退職金も昇給もない。私もカレンダー通りに休みになるから、連休や年末年始に当たる月は、収入はわずかだ。正月やお盆には、夫の実家にきょうだいが集う。きらびやかなお取り寄せおせちや豪華なオードブル。裕福な親戚たちがその日のために頼んだものや買ってきたもの。それ以外にも、数々の手土産や両親へのお小遣いを渡している。わが家は、小さな菓子折りを渡したきりでご相伴にあずかるばかり。周囲からの憐れむような視線を感じるが素知らぬふりをする。だから、昨年はコロナ禍で集まる機会がなく、少しホッとした。「服も買えんような生活させてごめんね」。着た切り雀の私に、姑が申し訳なさそうにつぶやく。しかし、何と言われても構わない。人がどう思おうと、私の人生は続くのだ。身の丈に合わないことをすれば何が待っているのかは、じゅうぶん身に沁みている。今もし、宝くじが当たって大金を手にしたとしても、舞い上がってとんでもない散財など絶対にしないという自信がある。ただ、残念だが宝くじを買う、その種銭が私にはない。試算すると60歳の定年を迎えても、住宅ローンはまだ800万円ほど残る。これからどんどん歳をとっていく。不安にかられない日はない。それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
それでも毎月、フランチャイズ本部にお金を借りて生活費に充て、住宅ローンを何とか落とさずに払い続けた。2ヵ月払えなければ、家は銀行に差し押さえられてしまうからだ。娘の成長とともに学費も高くなり、なおさら家計を圧迫するようにもなった。公立の進学校に進んだ娘は、高校で必要なものやガラケー代、模試費用を自分で捻出したいと言う。原則アルバイト禁止だったが、先生に家庭の事情を話して頼み込んだ。私も学校に出向き、生活を支えるためにバイトの必要性を懇願した。「親と一緒の職場なら」との条件でバイトを許可してもらったものの、私たち親子を見る先生の切ない表情は、今も忘れられない。家族3人一致団結、家計を支えるために日々頑張った。しかし、やはり出ていくお金が多過ぎる。ここでもし、大きな病気でもして夫婦どちらかが働けなくなったらおしまいだ。その恐怖心が常に付きまとう。それ以前に、病院に行く時間もお金もないのが現実だった。とにかく24時間365日、店のスタッフが途切れないようにして、あきそうな穴を埋め続ける日々。睡眠時間を削り、夫とともに日の出前に車に乗りこみ、早朝勤務をこなす日も多かった。「いつか、いつか絶対にこの底なし沼から抜け出してやる」、それだけを胸に秘めながら。(イラスト:おおの麻里)足元の小さな幸せをみしめてコンビニを始めて15年、何とか契約満了を迎え店をやめることができた。奨学金を借りて大学を卒業した娘も、昨年就職して独立。節約に節約を重ね、山場は乗り越えたが、今なおお金はない。職業病ともいうべき過重労働による慢性疲労や腰痛は持病として残る。50歳という年齢を考えれば、その後の転職活動は厳しいものであると思われた。夫も、私自身も、納得いくような職場はそうそう見つからないだろうと。しかし、夫は学生時代の知り合いを通じて正社員の職を得ることができた。私もハローワークで、たまたま家の近所でパートを募集しているのを見つけ、雇ってもらうことに。世帯収入は家を買った頃に比べれば半分以下。夫にはボーナスも退職金も昇給もない。私もカレンダー通りに休みになるから、連休や年末年始に当たる月は、収入はわずかだ。正月やお盆には、夫の実家にきょうだいが集う。きらびやかなお取り寄せおせちや豪華なオードブル。裕福な親戚たちがその日のために頼んだものや買ってきたもの。それ以外にも、数々の手土産や両親へのお小遣いを渡している。わが家は、小さな菓子折りを渡したきりでご相伴にあずかるばかり。周囲からの憐れむような視線を感じるが素知らぬふりをする。だから、昨年はコロナ禍で集まる機会がなく、少しホッとした。「服も買えんような生活させてごめんね」。着た切り雀の私に、姑が申し訳なさそうにつぶやく。しかし、何と言われても構わない。人がどう思おうと、私の人生は続くのだ。身の丈に合わないことをすれば何が待っているのかは、じゅうぶん身に沁みている。今もし、宝くじが当たって大金を手にしたとしても、舞い上がってとんでもない散財など絶対にしないという自信がある。ただ、残念だが宝くじを買う、その種銭が私にはない。試算すると60歳の定年を迎えても、住宅ローンはまだ800万円ほど残る。これからどんどん歳をとっていく。不安にかられない日はない。それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
娘の成長とともに学費も高くなり、なおさら家計を圧迫するようにもなった。公立の進学校に進んだ娘は、高校で必要なものやガラケー代、模試費用を自分で捻出したいと言う。原則アルバイト禁止だったが、先生に家庭の事情を話して頼み込んだ。私も学校に出向き、生活を支えるためにバイトの必要性を懇願した。「親と一緒の職場なら」との条件でバイトを許可してもらったものの、私たち親子を見る先生の切ない表情は、今も忘れられない。家族3人一致団結、家計を支えるために日々頑張った。しかし、やはり出ていくお金が多過ぎる。ここでもし、大きな病気でもして夫婦どちらかが働けなくなったらおしまいだ。その恐怖心が常に付きまとう。それ以前に、病院に行く時間もお金もないのが現実だった。とにかく24時間365日、店のスタッフが途切れないようにして、あきそうな穴を埋め続ける日々。睡眠時間を削り、夫とともに日の出前に車に乗りこみ、早朝勤務をこなす日も多かった。「いつか、いつか絶対にこの底なし沼から抜け出してやる」、それだけを胸に秘めながら。(イラスト:おおの麻里)足元の小さな幸せをみしめてコンビニを始めて15年、何とか契約満了を迎え店をやめることができた。奨学金を借りて大学を卒業した娘も、昨年就職して独立。節約に節約を重ね、山場は乗り越えたが、今なおお金はない。職業病ともいうべき過重労働による慢性疲労や腰痛は持病として残る。50歳という年齢を考えれば、その後の転職活動は厳しいものであると思われた。夫も、私自身も、納得いくような職場はそうそう見つからないだろうと。しかし、夫は学生時代の知り合いを通じて正社員の職を得ることができた。私もハローワークで、たまたま家の近所でパートを募集しているのを見つけ、雇ってもらうことに。世帯収入は家を買った頃に比べれば半分以下。夫にはボーナスも退職金も昇給もない。私もカレンダー通りに休みになるから、連休や年末年始に当たる月は、収入はわずかだ。正月やお盆には、夫の実家にきょうだいが集う。きらびやかなお取り寄せおせちや豪華なオードブル。裕福な親戚たちがその日のために頼んだものや買ってきたもの。それ以外にも、数々の手土産や両親へのお小遣いを渡している。わが家は、小さな菓子折りを渡したきりでご相伴にあずかるばかり。周囲からの憐れむような視線を感じるが素知らぬふりをする。だから、昨年はコロナ禍で集まる機会がなく、少しホッとした。「服も買えんような生活させてごめんね」。着た切り雀の私に、姑が申し訳なさそうにつぶやく。しかし、何と言われても構わない。人がどう思おうと、私の人生は続くのだ。身の丈に合わないことをすれば何が待っているのかは、じゅうぶん身に沁みている。今もし、宝くじが当たって大金を手にしたとしても、舞い上がってとんでもない散財など絶対にしないという自信がある。ただ、残念だが宝くじを買う、その種銭が私にはない。試算すると60歳の定年を迎えても、住宅ローンはまだ800万円ほど残る。これからどんどん歳をとっていく。不安にかられない日はない。それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
「親と一緒の職場なら」との条件でバイトを許可してもらったものの、私たち親子を見る先生の切ない表情は、今も忘れられない。家族3人一致団結、家計を支えるために日々頑張った。しかし、やはり出ていくお金が多過ぎる。ここでもし、大きな病気でもして夫婦どちらかが働けなくなったらおしまいだ。その恐怖心が常に付きまとう。それ以前に、病院に行く時間もお金もないのが現実だった。とにかく24時間365日、店のスタッフが途切れないようにして、あきそうな穴を埋め続ける日々。睡眠時間を削り、夫とともに日の出前に車に乗りこみ、早朝勤務をこなす日も多かった。「いつか、いつか絶対にこの底なし沼から抜け出してやる」、それだけを胸に秘めながら。(イラスト:おおの麻里)足元の小さな幸せをみしめてコンビニを始めて15年、何とか契約満了を迎え店をやめることができた。奨学金を借りて大学を卒業した娘も、昨年就職して独立。節約に節約を重ね、山場は乗り越えたが、今なおお金はない。職業病ともいうべき過重労働による慢性疲労や腰痛は持病として残る。50歳という年齢を考えれば、その後の転職活動は厳しいものであると思われた。夫も、私自身も、納得いくような職場はそうそう見つからないだろうと。しかし、夫は学生時代の知り合いを通じて正社員の職を得ることができた。私もハローワークで、たまたま家の近所でパートを募集しているのを見つけ、雇ってもらうことに。世帯収入は家を買った頃に比べれば半分以下。夫にはボーナスも退職金も昇給もない。私もカレンダー通りに休みになるから、連休や年末年始に当たる月は、収入はわずかだ。正月やお盆には、夫の実家にきょうだいが集う。きらびやかなお取り寄せおせちや豪華なオードブル。裕福な親戚たちがその日のために頼んだものや買ってきたもの。それ以外にも、数々の手土産や両親へのお小遣いを渡している。わが家は、小さな菓子折りを渡したきりでご相伴にあずかるばかり。周囲からの憐れむような視線を感じるが素知らぬふりをする。だから、昨年はコロナ禍で集まる機会がなく、少しホッとした。「服も買えんような生活させてごめんね」。着た切り雀の私に、姑が申し訳なさそうにつぶやく。しかし、何と言われても構わない。人がどう思おうと、私の人生は続くのだ。身の丈に合わないことをすれば何が待っているのかは、じゅうぶん身に沁みている。今もし、宝くじが当たって大金を手にしたとしても、舞い上がってとんでもない散財など絶対にしないという自信がある。ただ、残念だが宝くじを買う、その種銭が私にはない。試算すると60歳の定年を迎えても、住宅ローンはまだ800万円ほど残る。これからどんどん歳をとっていく。不安にかられない日はない。それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
家族3人一致団結、家計を支えるために日々頑張った。しかし、やはり出ていくお金が多過ぎる。ここでもし、大きな病気でもして夫婦どちらかが働けなくなったらおしまいだ。その恐怖心が常に付きまとう。それ以前に、病院に行く時間もお金もないのが現実だった。とにかく24時間365日、店のスタッフが途切れないようにして、あきそうな穴を埋め続ける日々。睡眠時間を削り、夫とともに日の出前に車に乗りこみ、早朝勤務をこなす日も多かった。「いつか、いつか絶対にこの底なし沼から抜け出してやる」、それだけを胸に秘めながら。(イラスト:おおの麻里)足元の小さな幸せをみしめてコンビニを始めて15年、何とか契約満了を迎え店をやめることができた。奨学金を借りて大学を卒業した娘も、昨年就職して独立。節約に節約を重ね、山場は乗り越えたが、今なおお金はない。職業病ともいうべき過重労働による慢性疲労や腰痛は持病として残る。50歳という年齢を考えれば、その後の転職活動は厳しいものであると思われた。夫も、私自身も、納得いくような職場はそうそう見つからないだろうと。しかし、夫は学生時代の知り合いを通じて正社員の職を得ることができた。私もハローワークで、たまたま家の近所でパートを募集しているのを見つけ、雇ってもらうことに。世帯収入は家を買った頃に比べれば半分以下。夫にはボーナスも退職金も昇給もない。私もカレンダー通りに休みになるから、連休や年末年始に当たる月は、収入はわずかだ。正月やお盆には、夫の実家にきょうだいが集う。きらびやかなお取り寄せおせちや豪華なオードブル。裕福な親戚たちがその日のために頼んだものや買ってきたもの。それ以外にも、数々の手土産や両親へのお小遣いを渡している。わが家は、小さな菓子折りを渡したきりでご相伴にあずかるばかり。周囲からの憐れむような視線を感じるが素知らぬふりをする。だから、昨年はコロナ禍で集まる機会がなく、少しホッとした。「服も買えんような生活させてごめんね」。着た切り雀の私に、姑が申し訳なさそうにつぶやく。しかし、何と言われても構わない。人がどう思おうと、私の人生は続くのだ。身の丈に合わないことをすれば何が待っているのかは、じゅうぶん身に沁みている。今もし、宝くじが当たって大金を手にしたとしても、舞い上がってとんでもない散財など絶対にしないという自信がある。ただ、残念だが宝くじを買う、その種銭が私にはない。試算すると60歳の定年を迎えても、住宅ローンはまだ800万円ほど残る。これからどんどん歳をとっていく。不安にかられない日はない。それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
ここでもし、大きな病気でもして夫婦どちらかが働けなくなったらおしまいだ。その恐怖心が常に付きまとう。それ以前に、病院に行く時間もお金もないのが現実だった。とにかく24時間365日、店のスタッフが途切れないようにして、あきそうな穴を埋め続ける日々。睡眠時間を削り、夫とともに日の出前に車に乗りこみ、早朝勤務をこなす日も多かった。「いつか、いつか絶対にこの底なし沼から抜け出してやる」、それだけを胸に秘めながら。(イラスト:おおの麻里)足元の小さな幸せをみしめてコンビニを始めて15年、何とか契約満了を迎え店をやめることができた。奨学金を借りて大学を卒業した娘も、昨年就職して独立。節約に節約を重ね、山場は乗り越えたが、今なおお金はない。職業病ともいうべき過重労働による慢性疲労や腰痛は持病として残る。50歳という年齢を考えれば、その後の転職活動は厳しいものであると思われた。夫も、私自身も、納得いくような職場はそうそう見つからないだろうと。しかし、夫は学生時代の知り合いを通じて正社員の職を得ることができた。私もハローワークで、たまたま家の近所でパートを募集しているのを見つけ、雇ってもらうことに。世帯収入は家を買った頃に比べれば半分以下。夫にはボーナスも退職金も昇給もない。私もカレンダー通りに休みになるから、連休や年末年始に当たる月は、収入はわずかだ。正月やお盆には、夫の実家にきょうだいが集う。きらびやかなお取り寄せおせちや豪華なオードブル。裕福な親戚たちがその日のために頼んだものや買ってきたもの。それ以外にも、数々の手土産や両親へのお小遣いを渡している。わが家は、小さな菓子折りを渡したきりでご相伴にあずかるばかり。周囲からの憐れむような視線を感じるが素知らぬふりをする。だから、昨年はコロナ禍で集まる機会がなく、少しホッとした。「服も買えんような生活させてごめんね」。着た切り雀の私に、姑が申し訳なさそうにつぶやく。しかし、何と言われても構わない。人がどう思おうと、私の人生は続くのだ。身の丈に合わないことをすれば何が待っているのかは、じゅうぶん身に沁みている。今もし、宝くじが当たって大金を手にしたとしても、舞い上がってとんでもない散財など絶対にしないという自信がある。ただ、残念だが宝くじを買う、その種銭が私にはない。試算すると60歳の定年を迎えても、住宅ローンはまだ800万円ほど残る。これからどんどん歳をとっていく。不安にかられない日はない。それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
とにかく24時間365日、店のスタッフが途切れないようにして、あきそうな穴を埋め続ける日々。睡眠時間を削り、夫とともに日の出前に車に乗りこみ、早朝勤務をこなす日も多かった。「いつか、いつか絶対にこの底なし沼から抜け出してやる」、それだけを胸に秘めながら。(イラスト:おおの麻里)足元の小さな幸せをみしめてコンビニを始めて15年、何とか契約満了を迎え店をやめることができた。奨学金を借りて大学を卒業した娘も、昨年就職して独立。節約に節約を重ね、山場は乗り越えたが、今なおお金はない。職業病ともいうべき過重労働による慢性疲労や腰痛は持病として残る。50歳という年齢を考えれば、その後の転職活動は厳しいものであると思われた。夫も、私自身も、納得いくような職場はそうそう見つからないだろうと。しかし、夫は学生時代の知り合いを通じて正社員の職を得ることができた。私もハローワークで、たまたま家の近所でパートを募集しているのを見つけ、雇ってもらうことに。世帯収入は家を買った頃に比べれば半分以下。夫にはボーナスも退職金も昇給もない。私もカレンダー通りに休みになるから、連休や年末年始に当たる月は、収入はわずかだ。正月やお盆には、夫の実家にきょうだいが集う。きらびやかなお取り寄せおせちや豪華なオードブル。裕福な親戚たちがその日のために頼んだものや買ってきたもの。それ以外にも、数々の手土産や両親へのお小遣いを渡している。わが家は、小さな菓子折りを渡したきりでご相伴にあずかるばかり。周囲からの憐れむような視線を感じるが素知らぬふりをする。だから、昨年はコロナ禍で集まる機会がなく、少しホッとした。「服も買えんような生活させてごめんね」。着た切り雀の私に、姑が申し訳なさそうにつぶやく。しかし、何と言われても構わない。人がどう思おうと、私の人生は続くのだ。身の丈に合わないことをすれば何が待っているのかは、じゅうぶん身に沁みている。今もし、宝くじが当たって大金を手にしたとしても、舞い上がってとんでもない散財など絶対にしないという自信がある。ただ、残念だが宝くじを買う、その種銭が私にはない。試算すると60歳の定年を迎えても、住宅ローンはまだ800万円ほど残る。これからどんどん歳をとっていく。不安にかられない日はない。それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
(イラスト:おおの麻里)足元の小さな幸せをみしめてコンビニを始めて15年、何とか契約満了を迎え店をやめることができた。奨学金を借りて大学を卒業した娘も、昨年就職して独立。節約に節約を重ね、山場は乗り越えたが、今なおお金はない。職業病ともいうべき過重労働による慢性疲労や腰痛は持病として残る。50歳という年齢を考えれば、その後の転職活動は厳しいものであると思われた。夫も、私自身も、納得いくような職場はそうそう見つからないだろうと。しかし、夫は学生時代の知り合いを通じて正社員の職を得ることができた。私もハローワークで、たまたま家の近所でパートを募集しているのを見つけ、雇ってもらうことに。世帯収入は家を買った頃に比べれば半分以下。夫にはボーナスも退職金も昇給もない。私もカレンダー通りに休みになるから、連休や年末年始に当たる月は、収入はわずかだ。正月やお盆には、夫の実家にきょうだいが集う。きらびやかなお取り寄せおせちや豪華なオードブル。裕福な親戚たちがその日のために頼んだものや買ってきたもの。それ以外にも、数々の手土産や両親へのお小遣いを渡している。わが家は、小さな菓子折りを渡したきりでご相伴にあずかるばかり。周囲からの憐れむような視線を感じるが素知らぬふりをする。だから、昨年はコロナ禍で集まる機会がなく、少しホッとした。「服も買えんような生活させてごめんね」。着た切り雀の私に、姑が申し訳なさそうにつぶやく。しかし、何と言われても構わない。人がどう思おうと、私の人生は続くのだ。身の丈に合わないことをすれば何が待っているのかは、じゅうぶん身に沁みている。今もし、宝くじが当たって大金を手にしたとしても、舞い上がってとんでもない散財など絶対にしないという自信がある。ただ、残念だが宝くじを買う、その種銭が私にはない。試算すると60歳の定年を迎えても、住宅ローンはまだ800万円ほど残る。これからどんどん歳をとっていく。不安にかられない日はない。それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
コンビニを始めて15年、何とか契約満了を迎え店をやめることができた。奨学金を借りて大学を卒業した娘も、昨年就職して独立。節約に節約を重ね、山場は乗り越えたが、今なおお金はない。職業病ともいうべき過重労働による慢性疲労や腰痛は持病として残る。50歳という年齢を考えれば、その後の転職活動は厳しいものであると思われた。夫も、私自身も、納得いくような職場はそうそう見つからないだろうと。しかし、夫は学生時代の知り合いを通じて正社員の職を得ることができた。私もハローワークで、たまたま家の近所でパートを募集しているのを見つけ、雇ってもらうことに。世帯収入は家を買った頃に比べれば半分以下。夫にはボーナスも退職金も昇給もない。私もカレンダー通りに休みになるから、連休や年末年始に当たる月は、収入はわずかだ。正月やお盆には、夫の実家にきょうだいが集う。きらびやかなお取り寄せおせちや豪華なオードブル。裕福な親戚たちがその日のために頼んだものや買ってきたもの。それ以外にも、数々の手土産や両親へのお小遣いを渡している。わが家は、小さな菓子折りを渡したきりでご相伴にあずかるばかり。周囲からの憐れむような視線を感じるが素知らぬふりをする。だから、昨年はコロナ禍で集まる機会がなく、少しホッとした。「服も買えんような生活させてごめんね」。着た切り雀の私に、姑が申し訳なさそうにつぶやく。しかし、何と言われても構わない。人がどう思おうと、私の人生は続くのだ。身の丈に合わないことをすれば何が待っているのかは、じゅうぶん身に沁みている。今もし、宝くじが当たって大金を手にしたとしても、舞い上がってとんでもない散財など絶対にしないという自信がある。ただ、残念だが宝くじを買う、その種銭が私にはない。試算すると60歳の定年を迎えても、住宅ローンはまだ800万円ほど残る。これからどんどん歳をとっていく。不安にかられない日はない。それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
しかし、夫は学生時代の知り合いを通じて正社員の職を得ることができた。私もハローワークで、たまたま家の近所でパートを募集しているのを見つけ、雇ってもらうことに。世帯収入は家を買った頃に比べれば半分以下。夫にはボーナスも退職金も昇給もない。私もカレンダー通りに休みになるから、連休や年末年始に当たる月は、収入はわずかだ。正月やお盆には、夫の実家にきょうだいが集う。きらびやかなお取り寄せおせちや豪華なオードブル。裕福な親戚たちがその日のために頼んだものや買ってきたもの。それ以外にも、数々の手土産や両親へのお小遣いを渡している。わが家は、小さな菓子折りを渡したきりでご相伴にあずかるばかり。周囲からの憐れむような視線を感じるが素知らぬふりをする。だから、昨年はコロナ禍で集まる機会がなく、少しホッとした。「服も買えんような生活させてごめんね」。着た切り雀の私に、姑が申し訳なさそうにつぶやく。しかし、何と言われても構わない。人がどう思おうと、私の人生は続くのだ。身の丈に合わないことをすれば何が待っているのかは、じゅうぶん身に沁みている。今もし、宝くじが当たって大金を手にしたとしても、舞い上がってとんでもない散財など絶対にしないという自信がある。ただ、残念だが宝くじを買う、その種銭が私にはない。試算すると60歳の定年を迎えても、住宅ローンはまだ800万円ほど残る。これからどんどん歳をとっていく。不安にかられない日はない。それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
正月やお盆には、夫の実家にきょうだいが集う。きらびやかなお取り寄せおせちや豪華なオードブル。裕福な親戚たちがその日のために頼んだものや買ってきたもの。それ以外にも、数々の手土産や両親へのお小遣いを渡している。わが家は、小さな菓子折りを渡したきりでご相伴にあずかるばかり。周囲からの憐れむような視線を感じるが素知らぬふりをする。だから、昨年はコロナ禍で集まる機会がなく、少しホッとした。「服も買えんような生活させてごめんね」。着た切り雀の私に、姑が申し訳なさそうにつぶやく。しかし、何と言われても構わない。人がどう思おうと、私の人生は続くのだ。身の丈に合わないことをすれば何が待っているのかは、じゅうぶん身に沁みている。今もし、宝くじが当たって大金を手にしたとしても、舞い上がってとんでもない散財など絶対にしないという自信がある。ただ、残念だが宝くじを買う、その種銭が私にはない。試算すると60歳の定年を迎えても、住宅ローンはまだ800万円ほど残る。これからどんどん歳をとっていく。不安にかられない日はない。それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
わが家は、小さな菓子折りを渡したきりでご相伴にあずかるばかり。周囲からの憐れむような視線を感じるが素知らぬふりをする。だから、昨年はコロナ禍で集まる機会がなく、少しホッとした。「服も買えんような生活させてごめんね」。着た切り雀の私に、姑が申し訳なさそうにつぶやく。しかし、何と言われても構わない。人がどう思おうと、私の人生は続くのだ。身の丈に合わないことをすれば何が待っているのかは、じゅうぶん身に沁みている。今もし、宝くじが当たって大金を手にしたとしても、舞い上がってとんでもない散財など絶対にしないという自信がある。ただ、残念だが宝くじを買う、その種銭が私にはない。試算すると60歳の定年を迎えても、住宅ローンはまだ800万円ほど残る。これからどんどん歳をとっていく。不安にかられない日はない。それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
「服も買えんような生活させてごめんね」。着た切り雀の私に、姑が申し訳なさそうにつぶやく。しかし、何と言われても構わない。人がどう思おうと、私の人生は続くのだ。身の丈に合わないことをすれば何が待っているのかは、じゅうぶん身に沁みている。今もし、宝くじが当たって大金を手にしたとしても、舞い上がってとんでもない散財など絶対にしないという自信がある。ただ、残念だが宝くじを買う、その種銭が私にはない。試算すると60歳の定年を迎えても、住宅ローンはまだ800万円ほど残る。これからどんどん歳をとっていく。不安にかられない日はない。それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
しかし、何と言われても構わない。人がどう思おうと、私の人生は続くのだ。身の丈に合わないことをすれば何が待っているのかは、じゅうぶん身に沁みている。今もし、宝くじが当たって大金を手にしたとしても、舞い上がってとんでもない散財など絶対にしないという自信がある。ただ、残念だが宝くじを買う、その種銭が私にはない。試算すると60歳の定年を迎えても、住宅ローンはまだ800万円ほど残る。これからどんどん歳をとっていく。不安にかられない日はない。それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
試算すると60歳の定年を迎えても、住宅ローンはまだ800万円ほど残る。これからどんどん歳をとっていく。不安にかられない日はない。それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
それでも、私には時間だけはある。心は穏やかで、梅の枝先の硬い蕾が、少しだけ膨らんだことにも気づく暮らし。安い旬の食材を、何通りかの副菜に料理して味わう余裕がある。図書館で借りた本を、ゆっくりと読むこともできる。他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
他人から見れば、「そんなことが?」と思われるかもしれない。でも、あの年月を経た私には、自分の足元にあるほんの小さなことが幸せだ。幼い頃からの心持ちや、苦しかった経営者としての日々が身につけさせてくれた節約術も、今につながっている。経験したことに、少しのムダもない。これからも地道に生きていくのみだ。<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
<電話口の筆者>お金のやりくりにも悩まされましたが、「コンビニでのクレーム対応も相当ハードだった」という荻野さん。言いがかりのようなことも多く、精神的にダメージを受けたそうです。「客としてコンビニに入るのも、いまだにためらいます。店の経営は人生勉強になりました」という言葉が印象的でした。※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。現在募集中のテーマはこちらアンケート・投稿欄へ
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