【無罪主張】日立妻子6人殺害の父親が寄せていた手記 「私はなぜ家族を殺めたのか」

「記憶がなくなってしまった。事件のことはわからない」――。2017年10月、茨城県日立市で発生した「妻子6人殺害事件」。小松博文被告(36)は逮捕後に持病で倒れ、心肺停止状態に陥った。そのために記憶が欠如したと主張、公判で無罪を求めている。果たして犯行当夜、何が彼を衝き動かしたのか? 小松被告はかつて「新潮45」に手記を寄せていた。ここに再掲する――。(※前篇と後篇の2回に分けて掲載。後篇は6月8日掲載予定)
(以下は「新潮45」2018年4月号より再掲)
***
昨年(2017年)10月に逮捕された直後は、なぜ私だけ死にきれずに生きているのだろうか、どうにか死ねないものかと、留置場で考えるばかりでした。毎日、県警一課の刑事さんから調べを受け、私はケガをしていたので(編集部注・筆者はやけどの他、手に傷を負うなどしていた)、警察署から車で北へ15分の病院に連れて行ってもらっていました。
道順は看守さん次第で、大通りを使う人もいれば裏道を使う人もいます。裏道を使うと、子供たちが通っていた保育園や妻が勤めていた病院……一度だけ妻の実家の前を通った時は、手錠をされた手を必死に合わせ、目をつぶっておりました。正直、実感がなくて、心のどこかで、皆あのアパートにいるのではないかなどと考えていました。そう思わないととても生きていられない、というのが本音だったのかもしれません。 実況見分も行いましたが、記憶が欠落している箇所があり、歯痒い思いでいっぱいでした。刑事さんに「良い思い出のまま、思い出さないほうが幸せということもある」と言われ、改めて自分の罪に気付かされました。すべてをきちんと、逃げずに受け止めなければと、今は考えています。 起床後就寝前の2回、鉄格子越しに磨りガラスに向かって手を合わせ、日中に般若心経を写経しています。写経は12月の、娘の誕生日から始めました。これ以外に私にできることは、一日も早く死刑判決を受け、執行されることだけです。現在の死刑は絞首刑ですが、私が妻や子供たちにしてしまったのと同じようにして、処刑されることを望みます。 私が死刑になっても、遺族に対しては何の償いにもならないとわかっています。謝罪の手紙を書こうと便箋を手にしたこともありましたが、私から手紙が行けば余計に傷付けてしまうと思い、止めました。後悔していると、私が言ってもいいのか? 反省している、そんな言葉を使う権利が私にあるのか? 何をもって償ったと言えるのか、誰か教えて下さい。これが本音です。 裁判で争う気持ちはありません。残された時間、知識を吸収し、考え、ほんの少しでもよいから真人間になりたい。この33年の人生で、私は何を思い、何を考え生きてきたのか、見つめたい。 もし許されるなら一度だけ、一瞬でもいいから、墓前で手を合わせたいと願うばかりです。24歳で知り合った妻と長女の夢妃(むうあ) 妻・恵と知り合ったのは平成21年の5月、私は24歳でした。それまでは千葉県八街(やちまた)市の実家にいましたが、父を亡くし少しはまともにならなければと、知人の紹介で茨城の建設現場で働き始めたのです。その日、誤ってハンマーで手を打ってしまい、いやいや病院に連れていかれました。会計のためロビーで座って待っていると、「ケータイ、落としてますよ」、そう言って私のスマホを拾ってくれた。それが恵でした。 恵は薬局で事務員をしていました。私が着ていた土木作業用の「ダボシャツ」がマンガ「ドラゴンボール」の珍しい柄で、「そんな、シャツ売ってるんだ」と面白がっていた。こちらに来たばかりで友だちがいないと私は打ち明け、「気が向いたらショートメールでもして」と、その場でケータイ番号を伝えました。学年も同じでしたから。簡単な自己紹介のメールは、その日の晩に来ました。 それからメールをしたり電話で話したり。会うことはまだありませんでしたが、ひと月ほど経った頃、時々電話の向こうで子供の声が聞こえることに気が付いたのです。聞くと「娘がいる」という。「別居したのは1年少し前で、つい最近、離婚が成立した。3歳の娘がいるんだよ」。それが長女・夢妃(むうあ)でした。 私は正直、まったく気にならなかった。私の両親も「バツ1」同士でしたし。「じゃあ、今度三人でご飯でも行こうよ」と言うと、恵はこう口にしました。「別居して、日立に帰ってきて4、5人の人から誘われた。最初はみんなさ、子供も一緒にと言うんだけれど、その後、必ず二人で会いたいと言い始める。夢妃が急に具合が悪くなってドタキャンすると、本当かと疑われる。三人で出掛けても、すぐにあの子も帰りたがるし」「1度目の結婚生活を思い出すと体が震えて…」 実家を出て、県営団地を借りたと連絡があったのは、出会って2カ月後の7月半ばです。親には反対され、消費者金融からも工面したそうですが、訪ねると、風呂釜や家財道具もなかった。古いコンクリート作りで、30棟近くある団地の、階段脇1階に部屋はありました。その晩に初めて作ってくれたのが、焼うどんです。キャベツ、玉ねぎ、ウインナーに塩と胡椒で味付けしてあるだけの簡単な料理でしたが、これ以降、私の大好物でした。 私は水戸のドン・キホーテで、アンパンマンの「ままごとセット」を買って用意していました。夢妃がアンパンマンが大好きと、聞いていたから。私たちがテレビを見ていると起きてきて、初めて会いました。プレゼントを手渡すと、「ありがとう」と、はにかみながら口にしていたその表情は、今も折に触れ思い出します。 3日後の日曜日、私たちは三人で、県南部・阿見町にあるアウトレットモールに出掛けています。嫌がったらどうしようと気にしていると、夢妃は「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と手を握ってくれた。トイレに行った二人を待ちながらひとり「サーティワン」に並んでいると、人ごみの中に二人が手を繋いで帰ってくる姿が見えました。私はそれを目にして、「この人と一緒になるのかも」と思ったのです。 恵の様子がおかしくなったのはその帰り道、高速で水戸に入ろうというあたりでした。助手席で下を向き、ハンドルを持つ私の左手をギュッと握る。驚いて「どうしたの?」と聞くと、「1度目の結婚生活を水戸でしていて、当時のことを思い出すと身体が震えて止まらなくなる」という。精神科にも通い、一時は薬を飲んでいたと。発作はそれからも続き、この後も1年ほどは恵と水戸に行くことは一切ありませんでした。父の名の1文字託した「長男・幸虎(たから)」 この日を境に、私たちは一緒に暮らすようになりました。月3万円の家賃は折半にし、私が風呂釜やエアコン、足りない家財道具を買い揃えた。といっても、妻は実家によく泊まっていたし、私も頻繁に千葉と往復していたので、本格的に同棲を始めたのは付き合って3カ月後、妻が妊娠してからです。妻は生理不順でピルを飲んでいたのですが、私が知らない間に服薬を止めていて、「計画的だったの?」と後に笑い合った記憶があります。ともに親は、結婚には大反対でした。 私の心配は、自分の子供が生まれたら夢妃が可愛くなくなってしまうのでは、ということでした。そして、恵の両親は俺の子供を可愛がってくれるのか。そんな取り留めのない話を、妻と繰り返ししたのを覚えています。私は出産の立ち会いを希望し、「父親教室」にも通い、検診にも付き添いました。平成22年8月23日、こうして長男・幸虎(たから)が生まれたのです。私は本当に、うれしかった。 この1年半前、つまり私が恵と出会う3カ月ほど前、私は63歳で父を亡くしていましたから。父は大型トレーラーの運転手で、同居していた父の弟も同じ会社でトラックの運転手。家には車のおもちゃが溢れていて、私も将来は運転手か整備士になりたいと口にしていました。 遅くに授かった子で一人っ子でしたので、父は「ハチミツに砂糖をかけたくらい甘い」と母に叱られていました。ろくに勉強もせず、バイクを乗り回しては停学、喫煙が見つかっては停学を繰り返していた私は高校を中退。親の脛をかじりながら、車のブローカーやパチンコ屋の「サクラ」などをしてぷらぷらしていたのです。 父の癌が見つかったのはそのような時です。ステージIVAの直腸癌でした。母によれば、最後まで父は私の身を気にかけていて、「育て方を間違えたか」「心配だ」と口にしていたそうです。このまま八街にいてもまともになれない。半ば逃げるような気持ちで茨城に来たのは、このすぐ後です。少なくとも今、私は仕事を持ち、家族ができた。だから初めての子供に、父の名の1文字をどうしても託したかった。調べていると「幸」に「たか」の読みがある。干支が寅だったので、虎のようにたくましくと、「幸虎」と名付けたのです。無免許運転で逮捕、収監 ところが幸虎が生まれてひと月後、私は無免許運転で逮捕されました。4年前に千葉で事故を起こし、執行猶予中だった私は在宅で起訴され、栃木県の黒羽刑務所に収監されました。妻は両親には「夫は出張中」と嘘をついていたようです。日立から黒羽までは小さい子を乗せ下道を行けば、3時間はかかります。ミルクやオムツ交換もある。幸虎を連れ、妻はよく面会に来てくれた。毎日のように手紙をくれて、出所する頃には200通近くになりました。 収監されて半年後に起きたのが東日本大震災でした。黒羽刑務所もかなり長い時間揺れ、揺れが止まるとヘルメットをかぶった刑務官たちが見回りにきた。ただし、外があんなことになっていると知ったのは、翌日流れたラジオからです。私たちのアパートは高台にあったのですが妻の実家は海側で、これは確実にまずい。妻や子供たちが実家にいた可能性も拭えない。新聞の死亡者欄に名前はないか、確かめる日が続きました。同室には岩手や宮城の出身者もいて、知人の名を見つけ、涙する人もいましたから。「全員大丈夫だから」という妻の手紙が届いたのは、10日ほど経った頃でした。妻は隣町の病院に勤め、二人の子供は保育園に預けていた。その日、普段なら車で30分のところ、国道は津波で通行止め、山道も崩れ、4時間かけて保育園に向かったそうです。園児たちは近くの小学校に避難していて、夢妃と幸虎、二人の顔を見るまで、生きた心地がしなかったと綴っていました。 4カ月後、1カ月半の仮釈放をもらい、私は出所しました。7月12日です。幸虎は私が入所した時には首も据わっていなかったのに、「もうすぐ歩くのでは」と思うほど成長していて、驚いた記憶があります。「真面目になるから」と妻に詫び、私は水道工事の仕事に就きました。ただ運転免許がないので日給が7千円。月に14万円にしかならなかった。それも仕方がないと考えていましたが、一人親方のその会社は集金が遅れがちとかで、給料も滞るようになりました。 妻と相談して、結局その会社は辞めました。母や千葉の友人に借金し、何とか暮らしていたのがこの時期です。まだ入籍していなかったので母子手当と児童手当も受給していたのですが、それも生活費に回していました。パチンコ屋に通い、勝ったら5万、10万と恵に渡すという日々が半年ほど続きましたが、建設現場の仕事を紹介され、給料は1日1万1千円になりました。次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族に 2カ月が経った頃、妻のお腹に子供がいるのが分かります。こうして平成24年9月6日の早朝に生まれたのが、次男・龍煌(りゅあ)です。長男が虎だったので、次男にも干支の龍を付けました。 子供も3人と家族も増え、生活はきつかったけれども、楽しかった。給料日前は「あまり予算がないから」と、近所の市営動物園を利用しました。子供の入場料は100円で、ライオンもキリンもカバもいて、動物好きの子供たちには充分でした。夢妃も小学1年になっていて、弟たちの面倒を何かと見たがったものです。 しかし、それまでのツケはどうしようもなく膨らんでいたのでした。アパートの家賃の支払次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族にいが少しずつ遅れ、携帯電話の使用料も不通になる寸前で振り込む繰り返し。二ヵ月にいっぺんの市からの手当で、その場は何とか持ち直す。仕事で世話になっている知人には、よくこう言われました。「前借りはかまわない。でも今月三万足りないってことは、来月六万足りなくなるんだぞ」 私はどこか、開き直っていたのかもしれません。そのうち、同居しているのを市に知られ、母子手当も停止されました。こうして2カ月に1度入っていた20万円の手当は、一切入らなくなりました。記憶を辿ってみれば、私たちは当時、一番ケンカをしていたように思います。 最初は妻のことをおとなしい子と見ていました。でも、1年も経つと、私に身体ごと向かってくるようになっていた。妻は中学時代、柔道を習っていて、146センチと小柄なのに、172センチで体重100キロの私を投げる。一方、私も手を出すようになっていました。ただ、その後は反省し、そのようなケンカはなくなりましたが、事件後、「DV夫だった」とマスコミには書かれます。授かった双子の男の子 「頼瑠(らいる)と澪瑠(れいる)」 そのような日々を送る中、授かったのが双子の男の子だったのです。私はすぐに新聞配達のアルバイトを始めました。夜中1時には販売店に出勤し、300世帯分の朝刊を組み、早朝、順路帳を頼りに一軒一軒配達して歩きました。朝5時頃いったん帰宅し、昼間の仕事に向かう。1カ月後、合わせて30万円以上の給料が手に入り、「これなら何とかなる」、心強く思ったものです。 母が胃癌だと分かったのは、ちょうどその頃です。父が亡くなって実家のローンがきつくなり、母は叔父と八街を離れ、四街道のアパートで暮らしていました。育った家もなくなって、私もめったに帰省せず、電話で話せば口ゲンカばかり。母からの電話にも居留守を使うようになっていた。「お母さん、手術したからな」という叔父からの電話で、初めて知りました。 母は少し痩せていました。でも元気そうで、「胃を全部取ったから、少しずつしか食べられないんだ」と口にしていました。ほどなくして母は退院し、「あれが食べたい、これが食べたい」とメールしてくるようになった。「元気になったらおっちゃん(叔父)と一緒に日立においで。美味しい魚を食べに那珂湊へ行こう」と、私は返事をしたものです。 平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
実況見分も行いましたが、記憶が欠落している箇所があり、歯痒い思いでいっぱいでした。刑事さんに「良い思い出のまま、思い出さないほうが幸せということもある」と言われ、改めて自分の罪に気付かされました。すべてをきちんと、逃げずに受け止めなければと、今は考えています。 起床後就寝前の2回、鉄格子越しに磨りガラスに向かって手を合わせ、日中に般若心経を写経しています。写経は12月の、娘の誕生日から始めました。これ以外に私にできることは、一日も早く死刑判決を受け、執行されることだけです。現在の死刑は絞首刑ですが、私が妻や子供たちにしてしまったのと同じようにして、処刑されることを望みます。 私が死刑になっても、遺族に対しては何の償いにもならないとわかっています。謝罪の手紙を書こうと便箋を手にしたこともありましたが、私から手紙が行けば余計に傷付けてしまうと思い、止めました。後悔していると、私が言ってもいいのか? 反省している、そんな言葉を使う権利が私にあるのか? 何をもって償ったと言えるのか、誰か教えて下さい。これが本音です。 裁判で争う気持ちはありません。残された時間、知識を吸収し、考え、ほんの少しでもよいから真人間になりたい。この33年の人生で、私は何を思い、何を考え生きてきたのか、見つめたい。 もし許されるなら一度だけ、一瞬でもいいから、墓前で手を合わせたいと願うばかりです。24歳で知り合った妻と長女の夢妃(むうあ) 妻・恵と知り合ったのは平成21年の5月、私は24歳でした。それまでは千葉県八街(やちまた)市の実家にいましたが、父を亡くし少しはまともにならなければと、知人の紹介で茨城の建設現場で働き始めたのです。その日、誤ってハンマーで手を打ってしまい、いやいや病院に連れていかれました。会計のためロビーで座って待っていると、「ケータイ、落としてますよ」、そう言って私のスマホを拾ってくれた。それが恵でした。 恵は薬局で事務員をしていました。私が着ていた土木作業用の「ダボシャツ」がマンガ「ドラゴンボール」の珍しい柄で、「そんな、シャツ売ってるんだ」と面白がっていた。こちらに来たばかりで友だちがいないと私は打ち明け、「気が向いたらショートメールでもして」と、その場でケータイ番号を伝えました。学年も同じでしたから。簡単な自己紹介のメールは、その日の晩に来ました。 それからメールをしたり電話で話したり。会うことはまだありませんでしたが、ひと月ほど経った頃、時々電話の向こうで子供の声が聞こえることに気が付いたのです。聞くと「娘がいる」という。「別居したのは1年少し前で、つい最近、離婚が成立した。3歳の娘がいるんだよ」。それが長女・夢妃(むうあ)でした。 私は正直、まったく気にならなかった。私の両親も「バツ1」同士でしたし。「じゃあ、今度三人でご飯でも行こうよ」と言うと、恵はこう口にしました。「別居して、日立に帰ってきて4、5人の人から誘われた。最初はみんなさ、子供も一緒にと言うんだけれど、その後、必ず二人で会いたいと言い始める。夢妃が急に具合が悪くなってドタキャンすると、本当かと疑われる。三人で出掛けても、すぐにあの子も帰りたがるし」「1度目の結婚生活を思い出すと体が震えて…」 実家を出て、県営団地を借りたと連絡があったのは、出会って2カ月後の7月半ばです。親には反対され、消費者金融からも工面したそうですが、訪ねると、風呂釜や家財道具もなかった。古いコンクリート作りで、30棟近くある団地の、階段脇1階に部屋はありました。その晩に初めて作ってくれたのが、焼うどんです。キャベツ、玉ねぎ、ウインナーに塩と胡椒で味付けしてあるだけの簡単な料理でしたが、これ以降、私の大好物でした。 私は水戸のドン・キホーテで、アンパンマンの「ままごとセット」を買って用意していました。夢妃がアンパンマンが大好きと、聞いていたから。私たちがテレビを見ていると起きてきて、初めて会いました。プレゼントを手渡すと、「ありがとう」と、はにかみながら口にしていたその表情は、今も折に触れ思い出します。 3日後の日曜日、私たちは三人で、県南部・阿見町にあるアウトレットモールに出掛けています。嫌がったらどうしようと気にしていると、夢妃は「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と手を握ってくれた。トイレに行った二人を待ちながらひとり「サーティワン」に並んでいると、人ごみの中に二人が手を繋いで帰ってくる姿が見えました。私はそれを目にして、「この人と一緒になるのかも」と思ったのです。 恵の様子がおかしくなったのはその帰り道、高速で水戸に入ろうというあたりでした。助手席で下を向き、ハンドルを持つ私の左手をギュッと握る。驚いて「どうしたの?」と聞くと、「1度目の結婚生活を水戸でしていて、当時のことを思い出すと身体が震えて止まらなくなる」という。精神科にも通い、一時は薬を飲んでいたと。発作はそれからも続き、この後も1年ほどは恵と水戸に行くことは一切ありませんでした。父の名の1文字託した「長男・幸虎(たから)」 この日を境に、私たちは一緒に暮らすようになりました。月3万円の家賃は折半にし、私が風呂釜やエアコン、足りない家財道具を買い揃えた。といっても、妻は実家によく泊まっていたし、私も頻繁に千葉と往復していたので、本格的に同棲を始めたのは付き合って3カ月後、妻が妊娠してからです。妻は生理不順でピルを飲んでいたのですが、私が知らない間に服薬を止めていて、「計画的だったの?」と後に笑い合った記憶があります。ともに親は、結婚には大反対でした。 私の心配は、自分の子供が生まれたら夢妃が可愛くなくなってしまうのでは、ということでした。そして、恵の両親は俺の子供を可愛がってくれるのか。そんな取り留めのない話を、妻と繰り返ししたのを覚えています。私は出産の立ち会いを希望し、「父親教室」にも通い、検診にも付き添いました。平成22年8月23日、こうして長男・幸虎(たから)が生まれたのです。私は本当に、うれしかった。 この1年半前、つまり私が恵と出会う3カ月ほど前、私は63歳で父を亡くしていましたから。父は大型トレーラーの運転手で、同居していた父の弟も同じ会社でトラックの運転手。家には車のおもちゃが溢れていて、私も将来は運転手か整備士になりたいと口にしていました。 遅くに授かった子で一人っ子でしたので、父は「ハチミツに砂糖をかけたくらい甘い」と母に叱られていました。ろくに勉強もせず、バイクを乗り回しては停学、喫煙が見つかっては停学を繰り返していた私は高校を中退。親の脛をかじりながら、車のブローカーやパチンコ屋の「サクラ」などをしてぷらぷらしていたのです。 父の癌が見つかったのはそのような時です。ステージIVAの直腸癌でした。母によれば、最後まで父は私の身を気にかけていて、「育て方を間違えたか」「心配だ」と口にしていたそうです。このまま八街にいてもまともになれない。半ば逃げるような気持ちで茨城に来たのは、このすぐ後です。少なくとも今、私は仕事を持ち、家族ができた。だから初めての子供に、父の名の1文字をどうしても託したかった。調べていると「幸」に「たか」の読みがある。干支が寅だったので、虎のようにたくましくと、「幸虎」と名付けたのです。無免許運転で逮捕、収監 ところが幸虎が生まれてひと月後、私は無免許運転で逮捕されました。4年前に千葉で事故を起こし、執行猶予中だった私は在宅で起訴され、栃木県の黒羽刑務所に収監されました。妻は両親には「夫は出張中」と嘘をついていたようです。日立から黒羽までは小さい子を乗せ下道を行けば、3時間はかかります。ミルクやオムツ交換もある。幸虎を連れ、妻はよく面会に来てくれた。毎日のように手紙をくれて、出所する頃には200通近くになりました。 収監されて半年後に起きたのが東日本大震災でした。黒羽刑務所もかなり長い時間揺れ、揺れが止まるとヘルメットをかぶった刑務官たちが見回りにきた。ただし、外があんなことになっていると知ったのは、翌日流れたラジオからです。私たちのアパートは高台にあったのですが妻の実家は海側で、これは確実にまずい。妻や子供たちが実家にいた可能性も拭えない。新聞の死亡者欄に名前はないか、確かめる日が続きました。同室には岩手や宮城の出身者もいて、知人の名を見つけ、涙する人もいましたから。「全員大丈夫だから」という妻の手紙が届いたのは、10日ほど経った頃でした。妻は隣町の病院に勤め、二人の子供は保育園に預けていた。その日、普段なら車で30分のところ、国道は津波で通行止め、山道も崩れ、4時間かけて保育園に向かったそうです。園児たちは近くの小学校に避難していて、夢妃と幸虎、二人の顔を見るまで、生きた心地がしなかったと綴っていました。 4カ月後、1カ月半の仮釈放をもらい、私は出所しました。7月12日です。幸虎は私が入所した時には首も据わっていなかったのに、「もうすぐ歩くのでは」と思うほど成長していて、驚いた記憶があります。「真面目になるから」と妻に詫び、私は水道工事の仕事に就きました。ただ運転免許がないので日給が7千円。月に14万円にしかならなかった。それも仕方がないと考えていましたが、一人親方のその会社は集金が遅れがちとかで、給料も滞るようになりました。 妻と相談して、結局その会社は辞めました。母や千葉の友人に借金し、何とか暮らしていたのがこの時期です。まだ入籍していなかったので母子手当と児童手当も受給していたのですが、それも生活費に回していました。パチンコ屋に通い、勝ったら5万、10万と恵に渡すという日々が半年ほど続きましたが、建設現場の仕事を紹介され、給料は1日1万1千円になりました。次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族に 2カ月が経った頃、妻のお腹に子供がいるのが分かります。こうして平成24年9月6日の早朝に生まれたのが、次男・龍煌(りゅあ)です。長男が虎だったので、次男にも干支の龍を付けました。 子供も3人と家族も増え、生活はきつかったけれども、楽しかった。給料日前は「あまり予算がないから」と、近所の市営動物園を利用しました。子供の入場料は100円で、ライオンもキリンもカバもいて、動物好きの子供たちには充分でした。夢妃も小学1年になっていて、弟たちの面倒を何かと見たがったものです。 しかし、それまでのツケはどうしようもなく膨らんでいたのでした。アパートの家賃の支払次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族にいが少しずつ遅れ、携帯電話の使用料も不通になる寸前で振り込む繰り返し。二ヵ月にいっぺんの市からの手当で、その場は何とか持ち直す。仕事で世話になっている知人には、よくこう言われました。「前借りはかまわない。でも今月三万足りないってことは、来月六万足りなくなるんだぞ」 私はどこか、開き直っていたのかもしれません。そのうち、同居しているのを市に知られ、母子手当も停止されました。こうして2カ月に1度入っていた20万円の手当は、一切入らなくなりました。記憶を辿ってみれば、私たちは当時、一番ケンカをしていたように思います。 最初は妻のことをおとなしい子と見ていました。でも、1年も経つと、私に身体ごと向かってくるようになっていた。妻は中学時代、柔道を習っていて、146センチと小柄なのに、172センチで体重100キロの私を投げる。一方、私も手を出すようになっていました。ただ、その後は反省し、そのようなケンカはなくなりましたが、事件後、「DV夫だった」とマスコミには書かれます。授かった双子の男の子 「頼瑠(らいる)と澪瑠(れいる)」 そのような日々を送る中、授かったのが双子の男の子だったのです。私はすぐに新聞配達のアルバイトを始めました。夜中1時には販売店に出勤し、300世帯分の朝刊を組み、早朝、順路帳を頼りに一軒一軒配達して歩きました。朝5時頃いったん帰宅し、昼間の仕事に向かう。1カ月後、合わせて30万円以上の給料が手に入り、「これなら何とかなる」、心強く思ったものです。 母が胃癌だと分かったのは、ちょうどその頃です。父が亡くなって実家のローンがきつくなり、母は叔父と八街を離れ、四街道のアパートで暮らしていました。育った家もなくなって、私もめったに帰省せず、電話で話せば口ゲンカばかり。母からの電話にも居留守を使うようになっていた。「お母さん、手術したからな」という叔父からの電話で、初めて知りました。 母は少し痩せていました。でも元気そうで、「胃を全部取ったから、少しずつしか食べられないんだ」と口にしていました。ほどなくして母は退院し、「あれが食べたい、これが食べたい」とメールしてくるようになった。「元気になったらおっちゃん(叔父)と一緒に日立においで。美味しい魚を食べに那珂湊へ行こう」と、私は返事をしたものです。 平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
起床後就寝前の2回、鉄格子越しに磨りガラスに向かって手を合わせ、日中に般若心経を写経しています。写経は12月の、娘の誕生日から始めました。これ以外に私にできることは、一日も早く死刑判決を受け、執行されることだけです。現在の死刑は絞首刑ですが、私が妻や子供たちにしてしまったのと同じようにして、処刑されることを望みます。 私が死刑になっても、遺族に対しては何の償いにもならないとわかっています。謝罪の手紙を書こうと便箋を手にしたこともありましたが、私から手紙が行けば余計に傷付けてしまうと思い、止めました。後悔していると、私が言ってもいいのか? 反省している、そんな言葉を使う権利が私にあるのか? 何をもって償ったと言えるのか、誰か教えて下さい。これが本音です。 裁判で争う気持ちはありません。残された時間、知識を吸収し、考え、ほんの少しでもよいから真人間になりたい。この33年の人生で、私は何を思い、何を考え生きてきたのか、見つめたい。 もし許されるなら一度だけ、一瞬でもいいから、墓前で手を合わせたいと願うばかりです。24歳で知り合った妻と長女の夢妃(むうあ) 妻・恵と知り合ったのは平成21年の5月、私は24歳でした。それまでは千葉県八街(やちまた)市の実家にいましたが、父を亡くし少しはまともにならなければと、知人の紹介で茨城の建設現場で働き始めたのです。その日、誤ってハンマーで手を打ってしまい、いやいや病院に連れていかれました。会計のためロビーで座って待っていると、「ケータイ、落としてますよ」、そう言って私のスマホを拾ってくれた。それが恵でした。 恵は薬局で事務員をしていました。私が着ていた土木作業用の「ダボシャツ」がマンガ「ドラゴンボール」の珍しい柄で、「そんな、シャツ売ってるんだ」と面白がっていた。こちらに来たばかりで友だちがいないと私は打ち明け、「気が向いたらショートメールでもして」と、その場でケータイ番号を伝えました。学年も同じでしたから。簡単な自己紹介のメールは、その日の晩に来ました。 それからメールをしたり電話で話したり。会うことはまだありませんでしたが、ひと月ほど経った頃、時々電話の向こうで子供の声が聞こえることに気が付いたのです。聞くと「娘がいる」という。「別居したのは1年少し前で、つい最近、離婚が成立した。3歳の娘がいるんだよ」。それが長女・夢妃(むうあ)でした。 私は正直、まったく気にならなかった。私の両親も「バツ1」同士でしたし。「じゃあ、今度三人でご飯でも行こうよ」と言うと、恵はこう口にしました。「別居して、日立に帰ってきて4、5人の人から誘われた。最初はみんなさ、子供も一緒にと言うんだけれど、その後、必ず二人で会いたいと言い始める。夢妃が急に具合が悪くなってドタキャンすると、本当かと疑われる。三人で出掛けても、すぐにあの子も帰りたがるし」「1度目の結婚生活を思い出すと体が震えて…」 実家を出て、県営団地を借りたと連絡があったのは、出会って2カ月後の7月半ばです。親には反対され、消費者金融からも工面したそうですが、訪ねると、風呂釜や家財道具もなかった。古いコンクリート作りで、30棟近くある団地の、階段脇1階に部屋はありました。その晩に初めて作ってくれたのが、焼うどんです。キャベツ、玉ねぎ、ウインナーに塩と胡椒で味付けしてあるだけの簡単な料理でしたが、これ以降、私の大好物でした。 私は水戸のドン・キホーテで、アンパンマンの「ままごとセット」を買って用意していました。夢妃がアンパンマンが大好きと、聞いていたから。私たちがテレビを見ていると起きてきて、初めて会いました。プレゼントを手渡すと、「ありがとう」と、はにかみながら口にしていたその表情は、今も折に触れ思い出します。 3日後の日曜日、私たちは三人で、県南部・阿見町にあるアウトレットモールに出掛けています。嫌がったらどうしようと気にしていると、夢妃は「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と手を握ってくれた。トイレに行った二人を待ちながらひとり「サーティワン」に並んでいると、人ごみの中に二人が手を繋いで帰ってくる姿が見えました。私はそれを目にして、「この人と一緒になるのかも」と思ったのです。 恵の様子がおかしくなったのはその帰り道、高速で水戸に入ろうというあたりでした。助手席で下を向き、ハンドルを持つ私の左手をギュッと握る。驚いて「どうしたの?」と聞くと、「1度目の結婚生活を水戸でしていて、当時のことを思い出すと身体が震えて止まらなくなる」という。精神科にも通い、一時は薬を飲んでいたと。発作はそれからも続き、この後も1年ほどは恵と水戸に行くことは一切ありませんでした。父の名の1文字託した「長男・幸虎(たから)」 この日を境に、私たちは一緒に暮らすようになりました。月3万円の家賃は折半にし、私が風呂釜やエアコン、足りない家財道具を買い揃えた。といっても、妻は実家によく泊まっていたし、私も頻繁に千葉と往復していたので、本格的に同棲を始めたのは付き合って3カ月後、妻が妊娠してからです。妻は生理不順でピルを飲んでいたのですが、私が知らない間に服薬を止めていて、「計画的だったの?」と後に笑い合った記憶があります。ともに親は、結婚には大反対でした。 私の心配は、自分の子供が生まれたら夢妃が可愛くなくなってしまうのでは、ということでした。そして、恵の両親は俺の子供を可愛がってくれるのか。そんな取り留めのない話を、妻と繰り返ししたのを覚えています。私は出産の立ち会いを希望し、「父親教室」にも通い、検診にも付き添いました。平成22年8月23日、こうして長男・幸虎(たから)が生まれたのです。私は本当に、うれしかった。 この1年半前、つまり私が恵と出会う3カ月ほど前、私は63歳で父を亡くしていましたから。父は大型トレーラーの運転手で、同居していた父の弟も同じ会社でトラックの運転手。家には車のおもちゃが溢れていて、私も将来は運転手か整備士になりたいと口にしていました。 遅くに授かった子で一人っ子でしたので、父は「ハチミツに砂糖をかけたくらい甘い」と母に叱られていました。ろくに勉強もせず、バイクを乗り回しては停学、喫煙が見つかっては停学を繰り返していた私は高校を中退。親の脛をかじりながら、車のブローカーやパチンコ屋の「サクラ」などをしてぷらぷらしていたのです。 父の癌が見つかったのはそのような時です。ステージIVAの直腸癌でした。母によれば、最後まで父は私の身を気にかけていて、「育て方を間違えたか」「心配だ」と口にしていたそうです。このまま八街にいてもまともになれない。半ば逃げるような気持ちで茨城に来たのは、このすぐ後です。少なくとも今、私は仕事を持ち、家族ができた。だから初めての子供に、父の名の1文字をどうしても託したかった。調べていると「幸」に「たか」の読みがある。干支が寅だったので、虎のようにたくましくと、「幸虎」と名付けたのです。無免許運転で逮捕、収監 ところが幸虎が生まれてひと月後、私は無免許運転で逮捕されました。4年前に千葉で事故を起こし、執行猶予中だった私は在宅で起訴され、栃木県の黒羽刑務所に収監されました。妻は両親には「夫は出張中」と嘘をついていたようです。日立から黒羽までは小さい子を乗せ下道を行けば、3時間はかかります。ミルクやオムツ交換もある。幸虎を連れ、妻はよく面会に来てくれた。毎日のように手紙をくれて、出所する頃には200通近くになりました。 収監されて半年後に起きたのが東日本大震災でした。黒羽刑務所もかなり長い時間揺れ、揺れが止まるとヘルメットをかぶった刑務官たちが見回りにきた。ただし、外があんなことになっていると知ったのは、翌日流れたラジオからです。私たちのアパートは高台にあったのですが妻の実家は海側で、これは確実にまずい。妻や子供たちが実家にいた可能性も拭えない。新聞の死亡者欄に名前はないか、確かめる日が続きました。同室には岩手や宮城の出身者もいて、知人の名を見つけ、涙する人もいましたから。「全員大丈夫だから」という妻の手紙が届いたのは、10日ほど経った頃でした。妻は隣町の病院に勤め、二人の子供は保育園に預けていた。その日、普段なら車で30分のところ、国道は津波で通行止め、山道も崩れ、4時間かけて保育園に向かったそうです。園児たちは近くの小学校に避難していて、夢妃と幸虎、二人の顔を見るまで、生きた心地がしなかったと綴っていました。 4カ月後、1カ月半の仮釈放をもらい、私は出所しました。7月12日です。幸虎は私が入所した時には首も据わっていなかったのに、「もうすぐ歩くのでは」と思うほど成長していて、驚いた記憶があります。「真面目になるから」と妻に詫び、私は水道工事の仕事に就きました。ただ運転免許がないので日給が7千円。月に14万円にしかならなかった。それも仕方がないと考えていましたが、一人親方のその会社は集金が遅れがちとかで、給料も滞るようになりました。 妻と相談して、結局その会社は辞めました。母や千葉の友人に借金し、何とか暮らしていたのがこの時期です。まだ入籍していなかったので母子手当と児童手当も受給していたのですが、それも生活費に回していました。パチンコ屋に通い、勝ったら5万、10万と恵に渡すという日々が半年ほど続きましたが、建設現場の仕事を紹介され、給料は1日1万1千円になりました。次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族に 2カ月が経った頃、妻のお腹に子供がいるのが分かります。こうして平成24年9月6日の早朝に生まれたのが、次男・龍煌(りゅあ)です。長男が虎だったので、次男にも干支の龍を付けました。 子供も3人と家族も増え、生活はきつかったけれども、楽しかった。給料日前は「あまり予算がないから」と、近所の市営動物園を利用しました。子供の入場料は100円で、ライオンもキリンもカバもいて、動物好きの子供たちには充分でした。夢妃も小学1年になっていて、弟たちの面倒を何かと見たがったものです。 しかし、それまでのツケはどうしようもなく膨らんでいたのでした。アパートの家賃の支払次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族にいが少しずつ遅れ、携帯電話の使用料も不通になる寸前で振り込む繰り返し。二ヵ月にいっぺんの市からの手当で、その場は何とか持ち直す。仕事で世話になっている知人には、よくこう言われました。「前借りはかまわない。でも今月三万足りないってことは、来月六万足りなくなるんだぞ」 私はどこか、開き直っていたのかもしれません。そのうち、同居しているのを市に知られ、母子手当も停止されました。こうして2カ月に1度入っていた20万円の手当は、一切入らなくなりました。記憶を辿ってみれば、私たちは当時、一番ケンカをしていたように思います。 最初は妻のことをおとなしい子と見ていました。でも、1年も経つと、私に身体ごと向かってくるようになっていた。妻は中学時代、柔道を習っていて、146センチと小柄なのに、172センチで体重100キロの私を投げる。一方、私も手を出すようになっていました。ただ、その後は反省し、そのようなケンカはなくなりましたが、事件後、「DV夫だった」とマスコミには書かれます。授かった双子の男の子 「頼瑠(らいる)と澪瑠(れいる)」 そのような日々を送る中、授かったのが双子の男の子だったのです。私はすぐに新聞配達のアルバイトを始めました。夜中1時には販売店に出勤し、300世帯分の朝刊を組み、早朝、順路帳を頼りに一軒一軒配達して歩きました。朝5時頃いったん帰宅し、昼間の仕事に向かう。1カ月後、合わせて30万円以上の給料が手に入り、「これなら何とかなる」、心強く思ったものです。 母が胃癌だと分かったのは、ちょうどその頃です。父が亡くなって実家のローンがきつくなり、母は叔父と八街を離れ、四街道のアパートで暮らしていました。育った家もなくなって、私もめったに帰省せず、電話で話せば口ゲンカばかり。母からの電話にも居留守を使うようになっていた。「お母さん、手術したからな」という叔父からの電話で、初めて知りました。 母は少し痩せていました。でも元気そうで、「胃を全部取ったから、少しずつしか食べられないんだ」と口にしていました。ほどなくして母は退院し、「あれが食べたい、これが食べたい」とメールしてくるようになった。「元気になったらおっちゃん(叔父)と一緒に日立においで。美味しい魚を食べに那珂湊へ行こう」と、私は返事をしたものです。 平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
私が死刑になっても、遺族に対しては何の償いにもならないとわかっています。謝罪の手紙を書こうと便箋を手にしたこともありましたが、私から手紙が行けば余計に傷付けてしまうと思い、止めました。後悔していると、私が言ってもいいのか? 反省している、そんな言葉を使う権利が私にあるのか? 何をもって償ったと言えるのか、誰か教えて下さい。これが本音です。 裁判で争う気持ちはありません。残された時間、知識を吸収し、考え、ほんの少しでもよいから真人間になりたい。この33年の人生で、私は何を思い、何を考え生きてきたのか、見つめたい。 もし許されるなら一度だけ、一瞬でもいいから、墓前で手を合わせたいと願うばかりです。24歳で知り合った妻と長女の夢妃(むうあ) 妻・恵と知り合ったのは平成21年の5月、私は24歳でした。それまでは千葉県八街(やちまた)市の実家にいましたが、父を亡くし少しはまともにならなければと、知人の紹介で茨城の建設現場で働き始めたのです。その日、誤ってハンマーで手を打ってしまい、いやいや病院に連れていかれました。会計のためロビーで座って待っていると、「ケータイ、落としてますよ」、そう言って私のスマホを拾ってくれた。それが恵でした。 恵は薬局で事務員をしていました。私が着ていた土木作業用の「ダボシャツ」がマンガ「ドラゴンボール」の珍しい柄で、「そんな、シャツ売ってるんだ」と面白がっていた。こちらに来たばかりで友だちがいないと私は打ち明け、「気が向いたらショートメールでもして」と、その場でケータイ番号を伝えました。学年も同じでしたから。簡単な自己紹介のメールは、その日の晩に来ました。 それからメールをしたり電話で話したり。会うことはまだありませんでしたが、ひと月ほど経った頃、時々電話の向こうで子供の声が聞こえることに気が付いたのです。聞くと「娘がいる」という。「別居したのは1年少し前で、つい最近、離婚が成立した。3歳の娘がいるんだよ」。それが長女・夢妃(むうあ)でした。 私は正直、まったく気にならなかった。私の両親も「バツ1」同士でしたし。「じゃあ、今度三人でご飯でも行こうよ」と言うと、恵はこう口にしました。「別居して、日立に帰ってきて4、5人の人から誘われた。最初はみんなさ、子供も一緒にと言うんだけれど、その後、必ず二人で会いたいと言い始める。夢妃が急に具合が悪くなってドタキャンすると、本当かと疑われる。三人で出掛けても、すぐにあの子も帰りたがるし」「1度目の結婚生活を思い出すと体が震えて…」 実家を出て、県営団地を借りたと連絡があったのは、出会って2カ月後の7月半ばです。親には反対され、消費者金融からも工面したそうですが、訪ねると、風呂釜や家財道具もなかった。古いコンクリート作りで、30棟近くある団地の、階段脇1階に部屋はありました。その晩に初めて作ってくれたのが、焼うどんです。キャベツ、玉ねぎ、ウインナーに塩と胡椒で味付けしてあるだけの簡単な料理でしたが、これ以降、私の大好物でした。 私は水戸のドン・キホーテで、アンパンマンの「ままごとセット」を買って用意していました。夢妃がアンパンマンが大好きと、聞いていたから。私たちがテレビを見ていると起きてきて、初めて会いました。プレゼントを手渡すと、「ありがとう」と、はにかみながら口にしていたその表情は、今も折に触れ思い出します。 3日後の日曜日、私たちは三人で、県南部・阿見町にあるアウトレットモールに出掛けています。嫌がったらどうしようと気にしていると、夢妃は「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と手を握ってくれた。トイレに行った二人を待ちながらひとり「サーティワン」に並んでいると、人ごみの中に二人が手を繋いで帰ってくる姿が見えました。私はそれを目にして、「この人と一緒になるのかも」と思ったのです。 恵の様子がおかしくなったのはその帰り道、高速で水戸に入ろうというあたりでした。助手席で下を向き、ハンドルを持つ私の左手をギュッと握る。驚いて「どうしたの?」と聞くと、「1度目の結婚生活を水戸でしていて、当時のことを思い出すと身体が震えて止まらなくなる」という。精神科にも通い、一時は薬を飲んでいたと。発作はそれからも続き、この後も1年ほどは恵と水戸に行くことは一切ありませんでした。父の名の1文字託した「長男・幸虎(たから)」 この日を境に、私たちは一緒に暮らすようになりました。月3万円の家賃は折半にし、私が風呂釜やエアコン、足りない家財道具を買い揃えた。といっても、妻は実家によく泊まっていたし、私も頻繁に千葉と往復していたので、本格的に同棲を始めたのは付き合って3カ月後、妻が妊娠してからです。妻は生理不順でピルを飲んでいたのですが、私が知らない間に服薬を止めていて、「計画的だったの?」と後に笑い合った記憶があります。ともに親は、結婚には大反対でした。 私の心配は、自分の子供が生まれたら夢妃が可愛くなくなってしまうのでは、ということでした。そして、恵の両親は俺の子供を可愛がってくれるのか。そんな取り留めのない話を、妻と繰り返ししたのを覚えています。私は出産の立ち会いを希望し、「父親教室」にも通い、検診にも付き添いました。平成22年8月23日、こうして長男・幸虎(たから)が生まれたのです。私は本当に、うれしかった。 この1年半前、つまり私が恵と出会う3カ月ほど前、私は63歳で父を亡くしていましたから。父は大型トレーラーの運転手で、同居していた父の弟も同じ会社でトラックの運転手。家には車のおもちゃが溢れていて、私も将来は運転手か整備士になりたいと口にしていました。 遅くに授かった子で一人っ子でしたので、父は「ハチミツに砂糖をかけたくらい甘い」と母に叱られていました。ろくに勉強もせず、バイクを乗り回しては停学、喫煙が見つかっては停学を繰り返していた私は高校を中退。親の脛をかじりながら、車のブローカーやパチンコ屋の「サクラ」などをしてぷらぷらしていたのです。 父の癌が見つかったのはそのような時です。ステージIVAの直腸癌でした。母によれば、最後まで父は私の身を気にかけていて、「育て方を間違えたか」「心配だ」と口にしていたそうです。このまま八街にいてもまともになれない。半ば逃げるような気持ちで茨城に来たのは、このすぐ後です。少なくとも今、私は仕事を持ち、家族ができた。だから初めての子供に、父の名の1文字をどうしても託したかった。調べていると「幸」に「たか」の読みがある。干支が寅だったので、虎のようにたくましくと、「幸虎」と名付けたのです。無免許運転で逮捕、収監 ところが幸虎が生まれてひと月後、私は無免許運転で逮捕されました。4年前に千葉で事故を起こし、執行猶予中だった私は在宅で起訴され、栃木県の黒羽刑務所に収監されました。妻は両親には「夫は出張中」と嘘をついていたようです。日立から黒羽までは小さい子を乗せ下道を行けば、3時間はかかります。ミルクやオムツ交換もある。幸虎を連れ、妻はよく面会に来てくれた。毎日のように手紙をくれて、出所する頃には200通近くになりました。 収監されて半年後に起きたのが東日本大震災でした。黒羽刑務所もかなり長い時間揺れ、揺れが止まるとヘルメットをかぶった刑務官たちが見回りにきた。ただし、外があんなことになっていると知ったのは、翌日流れたラジオからです。私たちのアパートは高台にあったのですが妻の実家は海側で、これは確実にまずい。妻や子供たちが実家にいた可能性も拭えない。新聞の死亡者欄に名前はないか、確かめる日が続きました。同室には岩手や宮城の出身者もいて、知人の名を見つけ、涙する人もいましたから。「全員大丈夫だから」という妻の手紙が届いたのは、10日ほど経った頃でした。妻は隣町の病院に勤め、二人の子供は保育園に預けていた。その日、普段なら車で30分のところ、国道は津波で通行止め、山道も崩れ、4時間かけて保育園に向かったそうです。園児たちは近くの小学校に避難していて、夢妃と幸虎、二人の顔を見るまで、生きた心地がしなかったと綴っていました。 4カ月後、1カ月半の仮釈放をもらい、私は出所しました。7月12日です。幸虎は私が入所した時には首も据わっていなかったのに、「もうすぐ歩くのでは」と思うほど成長していて、驚いた記憶があります。「真面目になるから」と妻に詫び、私は水道工事の仕事に就きました。ただ運転免許がないので日給が7千円。月に14万円にしかならなかった。それも仕方がないと考えていましたが、一人親方のその会社は集金が遅れがちとかで、給料も滞るようになりました。 妻と相談して、結局その会社は辞めました。母や千葉の友人に借金し、何とか暮らしていたのがこの時期です。まだ入籍していなかったので母子手当と児童手当も受給していたのですが、それも生活費に回していました。パチンコ屋に通い、勝ったら5万、10万と恵に渡すという日々が半年ほど続きましたが、建設現場の仕事を紹介され、給料は1日1万1千円になりました。次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族に 2カ月が経った頃、妻のお腹に子供がいるのが分かります。こうして平成24年9月6日の早朝に生まれたのが、次男・龍煌(りゅあ)です。長男が虎だったので、次男にも干支の龍を付けました。 子供も3人と家族も増え、生活はきつかったけれども、楽しかった。給料日前は「あまり予算がないから」と、近所の市営動物園を利用しました。子供の入場料は100円で、ライオンもキリンもカバもいて、動物好きの子供たちには充分でした。夢妃も小学1年になっていて、弟たちの面倒を何かと見たがったものです。 しかし、それまでのツケはどうしようもなく膨らんでいたのでした。アパートの家賃の支払次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族にいが少しずつ遅れ、携帯電話の使用料も不通になる寸前で振り込む繰り返し。二ヵ月にいっぺんの市からの手当で、その場は何とか持ち直す。仕事で世話になっている知人には、よくこう言われました。「前借りはかまわない。でも今月三万足りないってことは、来月六万足りなくなるんだぞ」 私はどこか、開き直っていたのかもしれません。そのうち、同居しているのを市に知られ、母子手当も停止されました。こうして2カ月に1度入っていた20万円の手当は、一切入らなくなりました。記憶を辿ってみれば、私たちは当時、一番ケンカをしていたように思います。 最初は妻のことをおとなしい子と見ていました。でも、1年も経つと、私に身体ごと向かってくるようになっていた。妻は中学時代、柔道を習っていて、146センチと小柄なのに、172センチで体重100キロの私を投げる。一方、私も手を出すようになっていました。ただ、その後は反省し、そのようなケンカはなくなりましたが、事件後、「DV夫だった」とマスコミには書かれます。授かった双子の男の子 「頼瑠(らいる)と澪瑠(れいる)」 そのような日々を送る中、授かったのが双子の男の子だったのです。私はすぐに新聞配達のアルバイトを始めました。夜中1時には販売店に出勤し、300世帯分の朝刊を組み、早朝、順路帳を頼りに一軒一軒配達して歩きました。朝5時頃いったん帰宅し、昼間の仕事に向かう。1カ月後、合わせて30万円以上の給料が手に入り、「これなら何とかなる」、心強く思ったものです。 母が胃癌だと分かったのは、ちょうどその頃です。父が亡くなって実家のローンがきつくなり、母は叔父と八街を離れ、四街道のアパートで暮らしていました。育った家もなくなって、私もめったに帰省せず、電話で話せば口ゲンカばかり。母からの電話にも居留守を使うようになっていた。「お母さん、手術したからな」という叔父からの電話で、初めて知りました。 母は少し痩せていました。でも元気そうで、「胃を全部取ったから、少しずつしか食べられないんだ」と口にしていました。ほどなくして母は退院し、「あれが食べたい、これが食べたい」とメールしてくるようになった。「元気になったらおっちゃん(叔父)と一緒に日立においで。美味しい魚を食べに那珂湊へ行こう」と、私は返事をしたものです。 平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
裁判で争う気持ちはありません。残された時間、知識を吸収し、考え、ほんの少しでもよいから真人間になりたい。この33年の人生で、私は何を思い、何を考え生きてきたのか、見つめたい。 もし許されるなら一度だけ、一瞬でもいいから、墓前で手を合わせたいと願うばかりです。24歳で知り合った妻と長女の夢妃(むうあ) 妻・恵と知り合ったのは平成21年の5月、私は24歳でした。それまでは千葉県八街(やちまた)市の実家にいましたが、父を亡くし少しはまともにならなければと、知人の紹介で茨城の建設現場で働き始めたのです。その日、誤ってハンマーで手を打ってしまい、いやいや病院に連れていかれました。会計のためロビーで座って待っていると、「ケータイ、落としてますよ」、そう言って私のスマホを拾ってくれた。それが恵でした。 恵は薬局で事務員をしていました。私が着ていた土木作業用の「ダボシャツ」がマンガ「ドラゴンボール」の珍しい柄で、「そんな、シャツ売ってるんだ」と面白がっていた。こちらに来たばかりで友だちがいないと私は打ち明け、「気が向いたらショートメールでもして」と、その場でケータイ番号を伝えました。学年も同じでしたから。簡単な自己紹介のメールは、その日の晩に来ました。 それからメールをしたり電話で話したり。会うことはまだありませんでしたが、ひと月ほど経った頃、時々電話の向こうで子供の声が聞こえることに気が付いたのです。聞くと「娘がいる」という。「別居したのは1年少し前で、つい最近、離婚が成立した。3歳の娘がいるんだよ」。それが長女・夢妃(むうあ)でした。 私は正直、まったく気にならなかった。私の両親も「バツ1」同士でしたし。「じゃあ、今度三人でご飯でも行こうよ」と言うと、恵はこう口にしました。「別居して、日立に帰ってきて4、5人の人から誘われた。最初はみんなさ、子供も一緒にと言うんだけれど、その後、必ず二人で会いたいと言い始める。夢妃が急に具合が悪くなってドタキャンすると、本当かと疑われる。三人で出掛けても、すぐにあの子も帰りたがるし」「1度目の結婚生活を思い出すと体が震えて…」 実家を出て、県営団地を借りたと連絡があったのは、出会って2カ月後の7月半ばです。親には反対され、消費者金融からも工面したそうですが、訪ねると、風呂釜や家財道具もなかった。古いコンクリート作りで、30棟近くある団地の、階段脇1階に部屋はありました。その晩に初めて作ってくれたのが、焼うどんです。キャベツ、玉ねぎ、ウインナーに塩と胡椒で味付けしてあるだけの簡単な料理でしたが、これ以降、私の大好物でした。 私は水戸のドン・キホーテで、アンパンマンの「ままごとセット」を買って用意していました。夢妃がアンパンマンが大好きと、聞いていたから。私たちがテレビを見ていると起きてきて、初めて会いました。プレゼントを手渡すと、「ありがとう」と、はにかみながら口にしていたその表情は、今も折に触れ思い出します。 3日後の日曜日、私たちは三人で、県南部・阿見町にあるアウトレットモールに出掛けています。嫌がったらどうしようと気にしていると、夢妃は「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と手を握ってくれた。トイレに行った二人を待ちながらひとり「サーティワン」に並んでいると、人ごみの中に二人が手を繋いで帰ってくる姿が見えました。私はそれを目にして、「この人と一緒になるのかも」と思ったのです。 恵の様子がおかしくなったのはその帰り道、高速で水戸に入ろうというあたりでした。助手席で下を向き、ハンドルを持つ私の左手をギュッと握る。驚いて「どうしたの?」と聞くと、「1度目の結婚生活を水戸でしていて、当時のことを思い出すと身体が震えて止まらなくなる」という。精神科にも通い、一時は薬を飲んでいたと。発作はそれからも続き、この後も1年ほどは恵と水戸に行くことは一切ありませんでした。父の名の1文字託した「長男・幸虎(たから)」 この日を境に、私たちは一緒に暮らすようになりました。月3万円の家賃は折半にし、私が風呂釜やエアコン、足りない家財道具を買い揃えた。といっても、妻は実家によく泊まっていたし、私も頻繁に千葉と往復していたので、本格的に同棲を始めたのは付き合って3カ月後、妻が妊娠してからです。妻は生理不順でピルを飲んでいたのですが、私が知らない間に服薬を止めていて、「計画的だったの?」と後に笑い合った記憶があります。ともに親は、結婚には大反対でした。 私の心配は、自分の子供が生まれたら夢妃が可愛くなくなってしまうのでは、ということでした。そして、恵の両親は俺の子供を可愛がってくれるのか。そんな取り留めのない話を、妻と繰り返ししたのを覚えています。私は出産の立ち会いを希望し、「父親教室」にも通い、検診にも付き添いました。平成22年8月23日、こうして長男・幸虎(たから)が生まれたのです。私は本当に、うれしかった。 この1年半前、つまり私が恵と出会う3カ月ほど前、私は63歳で父を亡くしていましたから。父は大型トレーラーの運転手で、同居していた父の弟も同じ会社でトラックの運転手。家には車のおもちゃが溢れていて、私も将来は運転手か整備士になりたいと口にしていました。 遅くに授かった子で一人っ子でしたので、父は「ハチミツに砂糖をかけたくらい甘い」と母に叱られていました。ろくに勉強もせず、バイクを乗り回しては停学、喫煙が見つかっては停学を繰り返していた私は高校を中退。親の脛をかじりながら、車のブローカーやパチンコ屋の「サクラ」などをしてぷらぷらしていたのです。 父の癌が見つかったのはそのような時です。ステージIVAの直腸癌でした。母によれば、最後まで父は私の身を気にかけていて、「育て方を間違えたか」「心配だ」と口にしていたそうです。このまま八街にいてもまともになれない。半ば逃げるような気持ちで茨城に来たのは、このすぐ後です。少なくとも今、私は仕事を持ち、家族ができた。だから初めての子供に、父の名の1文字をどうしても託したかった。調べていると「幸」に「たか」の読みがある。干支が寅だったので、虎のようにたくましくと、「幸虎」と名付けたのです。無免許運転で逮捕、収監 ところが幸虎が生まれてひと月後、私は無免許運転で逮捕されました。4年前に千葉で事故を起こし、執行猶予中だった私は在宅で起訴され、栃木県の黒羽刑務所に収監されました。妻は両親には「夫は出張中」と嘘をついていたようです。日立から黒羽までは小さい子を乗せ下道を行けば、3時間はかかります。ミルクやオムツ交換もある。幸虎を連れ、妻はよく面会に来てくれた。毎日のように手紙をくれて、出所する頃には200通近くになりました。 収監されて半年後に起きたのが東日本大震災でした。黒羽刑務所もかなり長い時間揺れ、揺れが止まるとヘルメットをかぶった刑務官たちが見回りにきた。ただし、外があんなことになっていると知ったのは、翌日流れたラジオからです。私たちのアパートは高台にあったのですが妻の実家は海側で、これは確実にまずい。妻や子供たちが実家にいた可能性も拭えない。新聞の死亡者欄に名前はないか、確かめる日が続きました。同室には岩手や宮城の出身者もいて、知人の名を見つけ、涙する人もいましたから。「全員大丈夫だから」という妻の手紙が届いたのは、10日ほど経った頃でした。妻は隣町の病院に勤め、二人の子供は保育園に預けていた。その日、普段なら車で30分のところ、国道は津波で通行止め、山道も崩れ、4時間かけて保育園に向かったそうです。園児たちは近くの小学校に避難していて、夢妃と幸虎、二人の顔を見るまで、生きた心地がしなかったと綴っていました。 4カ月後、1カ月半の仮釈放をもらい、私は出所しました。7月12日です。幸虎は私が入所した時には首も据わっていなかったのに、「もうすぐ歩くのでは」と思うほど成長していて、驚いた記憶があります。「真面目になるから」と妻に詫び、私は水道工事の仕事に就きました。ただ運転免許がないので日給が7千円。月に14万円にしかならなかった。それも仕方がないと考えていましたが、一人親方のその会社は集金が遅れがちとかで、給料も滞るようになりました。 妻と相談して、結局その会社は辞めました。母や千葉の友人に借金し、何とか暮らしていたのがこの時期です。まだ入籍していなかったので母子手当と児童手当も受給していたのですが、それも生活費に回していました。パチンコ屋に通い、勝ったら5万、10万と恵に渡すという日々が半年ほど続きましたが、建設現場の仕事を紹介され、給料は1日1万1千円になりました。次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族に 2カ月が経った頃、妻のお腹に子供がいるのが分かります。こうして平成24年9月6日の早朝に生まれたのが、次男・龍煌(りゅあ)です。長男が虎だったので、次男にも干支の龍を付けました。 子供も3人と家族も増え、生活はきつかったけれども、楽しかった。給料日前は「あまり予算がないから」と、近所の市営動物園を利用しました。子供の入場料は100円で、ライオンもキリンもカバもいて、動物好きの子供たちには充分でした。夢妃も小学1年になっていて、弟たちの面倒を何かと見たがったものです。 しかし、それまでのツケはどうしようもなく膨らんでいたのでした。アパートの家賃の支払次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族にいが少しずつ遅れ、携帯電話の使用料も不通になる寸前で振り込む繰り返し。二ヵ月にいっぺんの市からの手当で、その場は何とか持ち直す。仕事で世話になっている知人には、よくこう言われました。「前借りはかまわない。でも今月三万足りないってことは、来月六万足りなくなるんだぞ」 私はどこか、開き直っていたのかもしれません。そのうち、同居しているのを市に知られ、母子手当も停止されました。こうして2カ月に1度入っていた20万円の手当は、一切入らなくなりました。記憶を辿ってみれば、私たちは当時、一番ケンカをしていたように思います。 最初は妻のことをおとなしい子と見ていました。でも、1年も経つと、私に身体ごと向かってくるようになっていた。妻は中学時代、柔道を習っていて、146センチと小柄なのに、172センチで体重100キロの私を投げる。一方、私も手を出すようになっていました。ただ、その後は反省し、そのようなケンカはなくなりましたが、事件後、「DV夫だった」とマスコミには書かれます。授かった双子の男の子 「頼瑠(らいる)と澪瑠(れいる)」 そのような日々を送る中、授かったのが双子の男の子だったのです。私はすぐに新聞配達のアルバイトを始めました。夜中1時には販売店に出勤し、300世帯分の朝刊を組み、早朝、順路帳を頼りに一軒一軒配達して歩きました。朝5時頃いったん帰宅し、昼間の仕事に向かう。1カ月後、合わせて30万円以上の給料が手に入り、「これなら何とかなる」、心強く思ったものです。 母が胃癌だと分かったのは、ちょうどその頃です。父が亡くなって実家のローンがきつくなり、母は叔父と八街を離れ、四街道のアパートで暮らしていました。育った家もなくなって、私もめったに帰省せず、電話で話せば口ゲンカばかり。母からの電話にも居留守を使うようになっていた。「お母さん、手術したからな」という叔父からの電話で、初めて知りました。 母は少し痩せていました。でも元気そうで、「胃を全部取ったから、少しずつしか食べられないんだ」と口にしていました。ほどなくして母は退院し、「あれが食べたい、これが食べたい」とメールしてくるようになった。「元気になったらおっちゃん(叔父)と一緒に日立においで。美味しい魚を食べに那珂湊へ行こう」と、私は返事をしたものです。 平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
もし許されるなら一度だけ、一瞬でもいいから、墓前で手を合わせたいと願うばかりです。24歳で知り合った妻と長女の夢妃(むうあ) 妻・恵と知り合ったのは平成21年の5月、私は24歳でした。それまでは千葉県八街(やちまた)市の実家にいましたが、父を亡くし少しはまともにならなければと、知人の紹介で茨城の建設現場で働き始めたのです。その日、誤ってハンマーで手を打ってしまい、いやいや病院に連れていかれました。会計のためロビーで座って待っていると、「ケータイ、落としてますよ」、そう言って私のスマホを拾ってくれた。それが恵でした。 恵は薬局で事務員をしていました。私が着ていた土木作業用の「ダボシャツ」がマンガ「ドラゴンボール」の珍しい柄で、「そんな、シャツ売ってるんだ」と面白がっていた。こちらに来たばかりで友だちがいないと私は打ち明け、「気が向いたらショートメールでもして」と、その場でケータイ番号を伝えました。学年も同じでしたから。簡単な自己紹介のメールは、その日の晩に来ました。 それからメールをしたり電話で話したり。会うことはまだありませんでしたが、ひと月ほど経った頃、時々電話の向こうで子供の声が聞こえることに気が付いたのです。聞くと「娘がいる」という。「別居したのは1年少し前で、つい最近、離婚が成立した。3歳の娘がいるんだよ」。それが長女・夢妃(むうあ)でした。 私は正直、まったく気にならなかった。私の両親も「バツ1」同士でしたし。「じゃあ、今度三人でご飯でも行こうよ」と言うと、恵はこう口にしました。「別居して、日立に帰ってきて4、5人の人から誘われた。最初はみんなさ、子供も一緒にと言うんだけれど、その後、必ず二人で会いたいと言い始める。夢妃が急に具合が悪くなってドタキャンすると、本当かと疑われる。三人で出掛けても、すぐにあの子も帰りたがるし」「1度目の結婚生活を思い出すと体が震えて…」 実家を出て、県営団地を借りたと連絡があったのは、出会って2カ月後の7月半ばです。親には反対され、消費者金融からも工面したそうですが、訪ねると、風呂釜や家財道具もなかった。古いコンクリート作りで、30棟近くある団地の、階段脇1階に部屋はありました。その晩に初めて作ってくれたのが、焼うどんです。キャベツ、玉ねぎ、ウインナーに塩と胡椒で味付けしてあるだけの簡単な料理でしたが、これ以降、私の大好物でした。 私は水戸のドン・キホーテで、アンパンマンの「ままごとセット」を買って用意していました。夢妃がアンパンマンが大好きと、聞いていたから。私たちがテレビを見ていると起きてきて、初めて会いました。プレゼントを手渡すと、「ありがとう」と、はにかみながら口にしていたその表情は、今も折に触れ思い出します。 3日後の日曜日、私たちは三人で、県南部・阿見町にあるアウトレットモールに出掛けています。嫌がったらどうしようと気にしていると、夢妃は「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と手を握ってくれた。トイレに行った二人を待ちながらひとり「サーティワン」に並んでいると、人ごみの中に二人が手を繋いで帰ってくる姿が見えました。私はそれを目にして、「この人と一緒になるのかも」と思ったのです。 恵の様子がおかしくなったのはその帰り道、高速で水戸に入ろうというあたりでした。助手席で下を向き、ハンドルを持つ私の左手をギュッと握る。驚いて「どうしたの?」と聞くと、「1度目の結婚生活を水戸でしていて、当時のことを思い出すと身体が震えて止まらなくなる」という。精神科にも通い、一時は薬を飲んでいたと。発作はそれからも続き、この後も1年ほどは恵と水戸に行くことは一切ありませんでした。父の名の1文字託した「長男・幸虎(たから)」 この日を境に、私たちは一緒に暮らすようになりました。月3万円の家賃は折半にし、私が風呂釜やエアコン、足りない家財道具を買い揃えた。といっても、妻は実家によく泊まっていたし、私も頻繁に千葉と往復していたので、本格的に同棲を始めたのは付き合って3カ月後、妻が妊娠してからです。妻は生理不順でピルを飲んでいたのですが、私が知らない間に服薬を止めていて、「計画的だったの?」と後に笑い合った記憶があります。ともに親は、結婚には大反対でした。 私の心配は、自分の子供が生まれたら夢妃が可愛くなくなってしまうのでは、ということでした。そして、恵の両親は俺の子供を可愛がってくれるのか。そんな取り留めのない話を、妻と繰り返ししたのを覚えています。私は出産の立ち会いを希望し、「父親教室」にも通い、検診にも付き添いました。平成22年8月23日、こうして長男・幸虎(たから)が生まれたのです。私は本当に、うれしかった。 この1年半前、つまり私が恵と出会う3カ月ほど前、私は63歳で父を亡くしていましたから。父は大型トレーラーの運転手で、同居していた父の弟も同じ会社でトラックの運転手。家には車のおもちゃが溢れていて、私も将来は運転手か整備士になりたいと口にしていました。 遅くに授かった子で一人っ子でしたので、父は「ハチミツに砂糖をかけたくらい甘い」と母に叱られていました。ろくに勉強もせず、バイクを乗り回しては停学、喫煙が見つかっては停学を繰り返していた私は高校を中退。親の脛をかじりながら、車のブローカーやパチンコ屋の「サクラ」などをしてぷらぷらしていたのです。 父の癌が見つかったのはそのような時です。ステージIVAの直腸癌でした。母によれば、最後まで父は私の身を気にかけていて、「育て方を間違えたか」「心配だ」と口にしていたそうです。このまま八街にいてもまともになれない。半ば逃げるような気持ちで茨城に来たのは、このすぐ後です。少なくとも今、私は仕事を持ち、家族ができた。だから初めての子供に、父の名の1文字をどうしても託したかった。調べていると「幸」に「たか」の読みがある。干支が寅だったので、虎のようにたくましくと、「幸虎」と名付けたのです。無免許運転で逮捕、収監 ところが幸虎が生まれてひと月後、私は無免許運転で逮捕されました。4年前に千葉で事故を起こし、執行猶予中だった私は在宅で起訴され、栃木県の黒羽刑務所に収監されました。妻は両親には「夫は出張中」と嘘をついていたようです。日立から黒羽までは小さい子を乗せ下道を行けば、3時間はかかります。ミルクやオムツ交換もある。幸虎を連れ、妻はよく面会に来てくれた。毎日のように手紙をくれて、出所する頃には200通近くになりました。 収監されて半年後に起きたのが東日本大震災でした。黒羽刑務所もかなり長い時間揺れ、揺れが止まるとヘルメットをかぶった刑務官たちが見回りにきた。ただし、外があんなことになっていると知ったのは、翌日流れたラジオからです。私たちのアパートは高台にあったのですが妻の実家は海側で、これは確実にまずい。妻や子供たちが実家にいた可能性も拭えない。新聞の死亡者欄に名前はないか、確かめる日が続きました。同室には岩手や宮城の出身者もいて、知人の名を見つけ、涙する人もいましたから。「全員大丈夫だから」という妻の手紙が届いたのは、10日ほど経った頃でした。妻は隣町の病院に勤め、二人の子供は保育園に預けていた。その日、普段なら車で30分のところ、国道は津波で通行止め、山道も崩れ、4時間かけて保育園に向かったそうです。園児たちは近くの小学校に避難していて、夢妃と幸虎、二人の顔を見るまで、生きた心地がしなかったと綴っていました。 4カ月後、1カ月半の仮釈放をもらい、私は出所しました。7月12日です。幸虎は私が入所した時には首も据わっていなかったのに、「もうすぐ歩くのでは」と思うほど成長していて、驚いた記憶があります。「真面目になるから」と妻に詫び、私は水道工事の仕事に就きました。ただ運転免許がないので日給が7千円。月に14万円にしかならなかった。それも仕方がないと考えていましたが、一人親方のその会社は集金が遅れがちとかで、給料も滞るようになりました。 妻と相談して、結局その会社は辞めました。母や千葉の友人に借金し、何とか暮らしていたのがこの時期です。まだ入籍していなかったので母子手当と児童手当も受給していたのですが、それも生活費に回していました。パチンコ屋に通い、勝ったら5万、10万と恵に渡すという日々が半年ほど続きましたが、建設現場の仕事を紹介され、給料は1日1万1千円になりました。次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族に 2カ月が経った頃、妻のお腹に子供がいるのが分かります。こうして平成24年9月6日の早朝に生まれたのが、次男・龍煌(りゅあ)です。長男が虎だったので、次男にも干支の龍を付けました。 子供も3人と家族も増え、生活はきつかったけれども、楽しかった。給料日前は「あまり予算がないから」と、近所の市営動物園を利用しました。子供の入場料は100円で、ライオンもキリンもカバもいて、動物好きの子供たちには充分でした。夢妃も小学1年になっていて、弟たちの面倒を何かと見たがったものです。 しかし、それまでのツケはどうしようもなく膨らんでいたのでした。アパートの家賃の支払次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族にいが少しずつ遅れ、携帯電話の使用料も不通になる寸前で振り込む繰り返し。二ヵ月にいっぺんの市からの手当で、その場は何とか持ち直す。仕事で世話になっている知人には、よくこう言われました。「前借りはかまわない。でも今月三万足りないってことは、来月六万足りなくなるんだぞ」 私はどこか、開き直っていたのかもしれません。そのうち、同居しているのを市に知られ、母子手当も停止されました。こうして2カ月に1度入っていた20万円の手当は、一切入らなくなりました。記憶を辿ってみれば、私たちは当時、一番ケンカをしていたように思います。 最初は妻のことをおとなしい子と見ていました。でも、1年も経つと、私に身体ごと向かってくるようになっていた。妻は中学時代、柔道を習っていて、146センチと小柄なのに、172センチで体重100キロの私を投げる。一方、私も手を出すようになっていました。ただ、その後は反省し、そのようなケンカはなくなりましたが、事件後、「DV夫だった」とマスコミには書かれます。授かった双子の男の子 「頼瑠(らいる)と澪瑠(れいる)」 そのような日々を送る中、授かったのが双子の男の子だったのです。私はすぐに新聞配達のアルバイトを始めました。夜中1時には販売店に出勤し、300世帯分の朝刊を組み、早朝、順路帳を頼りに一軒一軒配達して歩きました。朝5時頃いったん帰宅し、昼間の仕事に向かう。1カ月後、合わせて30万円以上の給料が手に入り、「これなら何とかなる」、心強く思ったものです。 母が胃癌だと分かったのは、ちょうどその頃です。父が亡くなって実家のローンがきつくなり、母は叔父と八街を離れ、四街道のアパートで暮らしていました。育った家もなくなって、私もめったに帰省せず、電話で話せば口ゲンカばかり。母からの電話にも居留守を使うようになっていた。「お母さん、手術したからな」という叔父からの電話で、初めて知りました。 母は少し痩せていました。でも元気そうで、「胃を全部取ったから、少しずつしか食べられないんだ」と口にしていました。ほどなくして母は退院し、「あれが食べたい、これが食べたい」とメールしてくるようになった。「元気になったらおっちゃん(叔父)と一緒に日立においで。美味しい魚を食べに那珂湊へ行こう」と、私は返事をしたものです。 平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
妻・恵と知り合ったのは平成21年の5月、私は24歳でした。それまでは千葉県八街(やちまた)市の実家にいましたが、父を亡くし少しはまともにならなければと、知人の紹介で茨城の建設現場で働き始めたのです。その日、誤ってハンマーで手を打ってしまい、いやいや病院に連れていかれました。会計のためロビーで座って待っていると、「ケータイ、落としてますよ」、そう言って私のスマホを拾ってくれた。それが恵でした。 恵は薬局で事務員をしていました。私が着ていた土木作業用の「ダボシャツ」がマンガ「ドラゴンボール」の珍しい柄で、「そんな、シャツ売ってるんだ」と面白がっていた。こちらに来たばかりで友だちがいないと私は打ち明け、「気が向いたらショートメールでもして」と、その場でケータイ番号を伝えました。学年も同じでしたから。簡単な自己紹介のメールは、その日の晩に来ました。 それからメールをしたり電話で話したり。会うことはまだありませんでしたが、ひと月ほど経った頃、時々電話の向こうで子供の声が聞こえることに気が付いたのです。聞くと「娘がいる」という。「別居したのは1年少し前で、つい最近、離婚が成立した。3歳の娘がいるんだよ」。それが長女・夢妃(むうあ)でした。 私は正直、まったく気にならなかった。私の両親も「バツ1」同士でしたし。「じゃあ、今度三人でご飯でも行こうよ」と言うと、恵はこう口にしました。「別居して、日立に帰ってきて4、5人の人から誘われた。最初はみんなさ、子供も一緒にと言うんだけれど、その後、必ず二人で会いたいと言い始める。夢妃が急に具合が悪くなってドタキャンすると、本当かと疑われる。三人で出掛けても、すぐにあの子も帰りたがるし」「1度目の結婚生活を思い出すと体が震えて…」 実家を出て、県営団地を借りたと連絡があったのは、出会って2カ月後の7月半ばです。親には反対され、消費者金融からも工面したそうですが、訪ねると、風呂釜や家財道具もなかった。古いコンクリート作りで、30棟近くある団地の、階段脇1階に部屋はありました。その晩に初めて作ってくれたのが、焼うどんです。キャベツ、玉ねぎ、ウインナーに塩と胡椒で味付けしてあるだけの簡単な料理でしたが、これ以降、私の大好物でした。 私は水戸のドン・キホーテで、アンパンマンの「ままごとセット」を買って用意していました。夢妃がアンパンマンが大好きと、聞いていたから。私たちがテレビを見ていると起きてきて、初めて会いました。プレゼントを手渡すと、「ありがとう」と、はにかみながら口にしていたその表情は、今も折に触れ思い出します。 3日後の日曜日、私たちは三人で、県南部・阿見町にあるアウトレットモールに出掛けています。嫌がったらどうしようと気にしていると、夢妃は「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と手を握ってくれた。トイレに行った二人を待ちながらひとり「サーティワン」に並んでいると、人ごみの中に二人が手を繋いで帰ってくる姿が見えました。私はそれを目にして、「この人と一緒になるのかも」と思ったのです。 恵の様子がおかしくなったのはその帰り道、高速で水戸に入ろうというあたりでした。助手席で下を向き、ハンドルを持つ私の左手をギュッと握る。驚いて「どうしたの?」と聞くと、「1度目の結婚生活を水戸でしていて、当時のことを思い出すと身体が震えて止まらなくなる」という。精神科にも通い、一時は薬を飲んでいたと。発作はそれからも続き、この後も1年ほどは恵と水戸に行くことは一切ありませんでした。父の名の1文字託した「長男・幸虎(たから)」 この日を境に、私たちは一緒に暮らすようになりました。月3万円の家賃は折半にし、私が風呂釜やエアコン、足りない家財道具を買い揃えた。といっても、妻は実家によく泊まっていたし、私も頻繁に千葉と往復していたので、本格的に同棲を始めたのは付き合って3カ月後、妻が妊娠してからです。妻は生理不順でピルを飲んでいたのですが、私が知らない間に服薬を止めていて、「計画的だったの?」と後に笑い合った記憶があります。ともに親は、結婚には大反対でした。 私の心配は、自分の子供が生まれたら夢妃が可愛くなくなってしまうのでは、ということでした。そして、恵の両親は俺の子供を可愛がってくれるのか。そんな取り留めのない話を、妻と繰り返ししたのを覚えています。私は出産の立ち会いを希望し、「父親教室」にも通い、検診にも付き添いました。平成22年8月23日、こうして長男・幸虎(たから)が生まれたのです。私は本当に、うれしかった。 この1年半前、つまり私が恵と出会う3カ月ほど前、私は63歳で父を亡くしていましたから。父は大型トレーラーの運転手で、同居していた父の弟も同じ会社でトラックの運転手。家には車のおもちゃが溢れていて、私も将来は運転手か整備士になりたいと口にしていました。 遅くに授かった子で一人っ子でしたので、父は「ハチミツに砂糖をかけたくらい甘い」と母に叱られていました。ろくに勉強もせず、バイクを乗り回しては停学、喫煙が見つかっては停学を繰り返していた私は高校を中退。親の脛をかじりながら、車のブローカーやパチンコ屋の「サクラ」などをしてぷらぷらしていたのです。 父の癌が見つかったのはそのような時です。ステージIVAの直腸癌でした。母によれば、最後まで父は私の身を気にかけていて、「育て方を間違えたか」「心配だ」と口にしていたそうです。このまま八街にいてもまともになれない。半ば逃げるような気持ちで茨城に来たのは、このすぐ後です。少なくとも今、私は仕事を持ち、家族ができた。だから初めての子供に、父の名の1文字をどうしても託したかった。調べていると「幸」に「たか」の読みがある。干支が寅だったので、虎のようにたくましくと、「幸虎」と名付けたのです。無免許運転で逮捕、収監 ところが幸虎が生まれてひと月後、私は無免許運転で逮捕されました。4年前に千葉で事故を起こし、執行猶予中だった私は在宅で起訴され、栃木県の黒羽刑務所に収監されました。妻は両親には「夫は出張中」と嘘をついていたようです。日立から黒羽までは小さい子を乗せ下道を行けば、3時間はかかります。ミルクやオムツ交換もある。幸虎を連れ、妻はよく面会に来てくれた。毎日のように手紙をくれて、出所する頃には200通近くになりました。 収監されて半年後に起きたのが東日本大震災でした。黒羽刑務所もかなり長い時間揺れ、揺れが止まるとヘルメットをかぶった刑務官たちが見回りにきた。ただし、外があんなことになっていると知ったのは、翌日流れたラジオからです。私たちのアパートは高台にあったのですが妻の実家は海側で、これは確実にまずい。妻や子供たちが実家にいた可能性も拭えない。新聞の死亡者欄に名前はないか、確かめる日が続きました。同室には岩手や宮城の出身者もいて、知人の名を見つけ、涙する人もいましたから。「全員大丈夫だから」という妻の手紙が届いたのは、10日ほど経った頃でした。妻は隣町の病院に勤め、二人の子供は保育園に預けていた。その日、普段なら車で30分のところ、国道は津波で通行止め、山道も崩れ、4時間かけて保育園に向かったそうです。園児たちは近くの小学校に避難していて、夢妃と幸虎、二人の顔を見るまで、生きた心地がしなかったと綴っていました。 4カ月後、1カ月半の仮釈放をもらい、私は出所しました。7月12日です。幸虎は私が入所した時には首も据わっていなかったのに、「もうすぐ歩くのでは」と思うほど成長していて、驚いた記憶があります。「真面目になるから」と妻に詫び、私は水道工事の仕事に就きました。ただ運転免許がないので日給が7千円。月に14万円にしかならなかった。それも仕方がないと考えていましたが、一人親方のその会社は集金が遅れがちとかで、給料も滞るようになりました。 妻と相談して、結局その会社は辞めました。母や千葉の友人に借金し、何とか暮らしていたのがこの時期です。まだ入籍していなかったので母子手当と児童手当も受給していたのですが、それも生活費に回していました。パチンコ屋に通い、勝ったら5万、10万と恵に渡すという日々が半年ほど続きましたが、建設現場の仕事を紹介され、給料は1日1万1千円になりました。次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族に 2カ月が経った頃、妻のお腹に子供がいるのが分かります。こうして平成24年9月6日の早朝に生まれたのが、次男・龍煌(りゅあ)です。長男が虎だったので、次男にも干支の龍を付けました。 子供も3人と家族も増え、生活はきつかったけれども、楽しかった。給料日前は「あまり予算がないから」と、近所の市営動物園を利用しました。子供の入場料は100円で、ライオンもキリンもカバもいて、動物好きの子供たちには充分でした。夢妃も小学1年になっていて、弟たちの面倒を何かと見たがったものです。 しかし、それまでのツケはどうしようもなく膨らんでいたのでした。アパートの家賃の支払次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族にいが少しずつ遅れ、携帯電話の使用料も不通になる寸前で振り込む繰り返し。二ヵ月にいっぺんの市からの手当で、その場は何とか持ち直す。仕事で世話になっている知人には、よくこう言われました。「前借りはかまわない。でも今月三万足りないってことは、来月六万足りなくなるんだぞ」 私はどこか、開き直っていたのかもしれません。そのうち、同居しているのを市に知られ、母子手当も停止されました。こうして2カ月に1度入っていた20万円の手当は、一切入らなくなりました。記憶を辿ってみれば、私たちは当時、一番ケンカをしていたように思います。 最初は妻のことをおとなしい子と見ていました。でも、1年も経つと、私に身体ごと向かってくるようになっていた。妻は中学時代、柔道を習っていて、146センチと小柄なのに、172センチで体重100キロの私を投げる。一方、私も手を出すようになっていました。ただ、その後は反省し、そのようなケンカはなくなりましたが、事件後、「DV夫だった」とマスコミには書かれます。授かった双子の男の子 「頼瑠(らいる)と澪瑠(れいる)」 そのような日々を送る中、授かったのが双子の男の子だったのです。私はすぐに新聞配達のアルバイトを始めました。夜中1時には販売店に出勤し、300世帯分の朝刊を組み、早朝、順路帳を頼りに一軒一軒配達して歩きました。朝5時頃いったん帰宅し、昼間の仕事に向かう。1カ月後、合わせて30万円以上の給料が手に入り、「これなら何とかなる」、心強く思ったものです。 母が胃癌だと分かったのは、ちょうどその頃です。父が亡くなって実家のローンがきつくなり、母は叔父と八街を離れ、四街道のアパートで暮らしていました。育った家もなくなって、私もめったに帰省せず、電話で話せば口ゲンカばかり。母からの電話にも居留守を使うようになっていた。「お母さん、手術したからな」という叔父からの電話で、初めて知りました。 母は少し痩せていました。でも元気そうで、「胃を全部取ったから、少しずつしか食べられないんだ」と口にしていました。ほどなくして母は退院し、「あれが食べたい、これが食べたい」とメールしてくるようになった。「元気になったらおっちゃん(叔父)と一緒に日立においで。美味しい魚を食べに那珂湊へ行こう」と、私は返事をしたものです。 平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
恵は薬局で事務員をしていました。私が着ていた土木作業用の「ダボシャツ」がマンガ「ドラゴンボール」の珍しい柄で、「そんな、シャツ売ってるんだ」と面白がっていた。こちらに来たばかりで友だちがいないと私は打ち明け、「気が向いたらショートメールでもして」と、その場でケータイ番号を伝えました。学年も同じでしたから。簡単な自己紹介のメールは、その日の晩に来ました。 それからメールをしたり電話で話したり。会うことはまだありませんでしたが、ひと月ほど経った頃、時々電話の向こうで子供の声が聞こえることに気が付いたのです。聞くと「娘がいる」という。「別居したのは1年少し前で、つい最近、離婚が成立した。3歳の娘がいるんだよ」。それが長女・夢妃(むうあ)でした。 私は正直、まったく気にならなかった。私の両親も「バツ1」同士でしたし。「じゃあ、今度三人でご飯でも行こうよ」と言うと、恵はこう口にしました。「別居して、日立に帰ってきて4、5人の人から誘われた。最初はみんなさ、子供も一緒にと言うんだけれど、その後、必ず二人で会いたいと言い始める。夢妃が急に具合が悪くなってドタキャンすると、本当かと疑われる。三人で出掛けても、すぐにあの子も帰りたがるし」「1度目の結婚生活を思い出すと体が震えて…」 実家を出て、県営団地を借りたと連絡があったのは、出会って2カ月後の7月半ばです。親には反対され、消費者金融からも工面したそうですが、訪ねると、風呂釜や家財道具もなかった。古いコンクリート作りで、30棟近くある団地の、階段脇1階に部屋はありました。その晩に初めて作ってくれたのが、焼うどんです。キャベツ、玉ねぎ、ウインナーに塩と胡椒で味付けしてあるだけの簡単な料理でしたが、これ以降、私の大好物でした。 私は水戸のドン・キホーテで、アンパンマンの「ままごとセット」を買って用意していました。夢妃がアンパンマンが大好きと、聞いていたから。私たちがテレビを見ていると起きてきて、初めて会いました。プレゼントを手渡すと、「ありがとう」と、はにかみながら口にしていたその表情は、今も折に触れ思い出します。 3日後の日曜日、私たちは三人で、県南部・阿見町にあるアウトレットモールに出掛けています。嫌がったらどうしようと気にしていると、夢妃は「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と手を握ってくれた。トイレに行った二人を待ちながらひとり「サーティワン」に並んでいると、人ごみの中に二人が手を繋いで帰ってくる姿が見えました。私はそれを目にして、「この人と一緒になるのかも」と思ったのです。 恵の様子がおかしくなったのはその帰り道、高速で水戸に入ろうというあたりでした。助手席で下を向き、ハンドルを持つ私の左手をギュッと握る。驚いて「どうしたの?」と聞くと、「1度目の結婚生活を水戸でしていて、当時のことを思い出すと身体が震えて止まらなくなる」という。精神科にも通い、一時は薬を飲んでいたと。発作はそれからも続き、この後も1年ほどは恵と水戸に行くことは一切ありませんでした。父の名の1文字託した「長男・幸虎(たから)」 この日を境に、私たちは一緒に暮らすようになりました。月3万円の家賃は折半にし、私が風呂釜やエアコン、足りない家財道具を買い揃えた。といっても、妻は実家によく泊まっていたし、私も頻繁に千葉と往復していたので、本格的に同棲を始めたのは付き合って3カ月後、妻が妊娠してからです。妻は生理不順でピルを飲んでいたのですが、私が知らない間に服薬を止めていて、「計画的だったの?」と後に笑い合った記憶があります。ともに親は、結婚には大反対でした。 私の心配は、自分の子供が生まれたら夢妃が可愛くなくなってしまうのでは、ということでした。そして、恵の両親は俺の子供を可愛がってくれるのか。そんな取り留めのない話を、妻と繰り返ししたのを覚えています。私は出産の立ち会いを希望し、「父親教室」にも通い、検診にも付き添いました。平成22年8月23日、こうして長男・幸虎(たから)が生まれたのです。私は本当に、うれしかった。 この1年半前、つまり私が恵と出会う3カ月ほど前、私は63歳で父を亡くしていましたから。父は大型トレーラーの運転手で、同居していた父の弟も同じ会社でトラックの運転手。家には車のおもちゃが溢れていて、私も将来は運転手か整備士になりたいと口にしていました。 遅くに授かった子で一人っ子でしたので、父は「ハチミツに砂糖をかけたくらい甘い」と母に叱られていました。ろくに勉強もせず、バイクを乗り回しては停学、喫煙が見つかっては停学を繰り返していた私は高校を中退。親の脛をかじりながら、車のブローカーやパチンコ屋の「サクラ」などをしてぷらぷらしていたのです。 父の癌が見つかったのはそのような時です。ステージIVAの直腸癌でした。母によれば、最後まで父は私の身を気にかけていて、「育て方を間違えたか」「心配だ」と口にしていたそうです。このまま八街にいてもまともになれない。半ば逃げるような気持ちで茨城に来たのは、このすぐ後です。少なくとも今、私は仕事を持ち、家族ができた。だから初めての子供に、父の名の1文字をどうしても託したかった。調べていると「幸」に「たか」の読みがある。干支が寅だったので、虎のようにたくましくと、「幸虎」と名付けたのです。無免許運転で逮捕、収監 ところが幸虎が生まれてひと月後、私は無免許運転で逮捕されました。4年前に千葉で事故を起こし、執行猶予中だった私は在宅で起訴され、栃木県の黒羽刑務所に収監されました。妻は両親には「夫は出張中」と嘘をついていたようです。日立から黒羽までは小さい子を乗せ下道を行けば、3時間はかかります。ミルクやオムツ交換もある。幸虎を連れ、妻はよく面会に来てくれた。毎日のように手紙をくれて、出所する頃には200通近くになりました。 収監されて半年後に起きたのが東日本大震災でした。黒羽刑務所もかなり長い時間揺れ、揺れが止まるとヘルメットをかぶった刑務官たちが見回りにきた。ただし、外があんなことになっていると知ったのは、翌日流れたラジオからです。私たちのアパートは高台にあったのですが妻の実家は海側で、これは確実にまずい。妻や子供たちが実家にいた可能性も拭えない。新聞の死亡者欄に名前はないか、確かめる日が続きました。同室には岩手や宮城の出身者もいて、知人の名を見つけ、涙する人もいましたから。「全員大丈夫だから」という妻の手紙が届いたのは、10日ほど経った頃でした。妻は隣町の病院に勤め、二人の子供は保育園に預けていた。その日、普段なら車で30分のところ、国道は津波で通行止め、山道も崩れ、4時間かけて保育園に向かったそうです。園児たちは近くの小学校に避難していて、夢妃と幸虎、二人の顔を見るまで、生きた心地がしなかったと綴っていました。 4カ月後、1カ月半の仮釈放をもらい、私は出所しました。7月12日です。幸虎は私が入所した時には首も据わっていなかったのに、「もうすぐ歩くのでは」と思うほど成長していて、驚いた記憶があります。「真面目になるから」と妻に詫び、私は水道工事の仕事に就きました。ただ運転免許がないので日給が7千円。月に14万円にしかならなかった。それも仕方がないと考えていましたが、一人親方のその会社は集金が遅れがちとかで、給料も滞るようになりました。 妻と相談して、結局その会社は辞めました。母や千葉の友人に借金し、何とか暮らしていたのがこの時期です。まだ入籍していなかったので母子手当と児童手当も受給していたのですが、それも生活費に回していました。パチンコ屋に通い、勝ったら5万、10万と恵に渡すという日々が半年ほど続きましたが、建設現場の仕事を紹介され、給料は1日1万1千円になりました。次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族に 2カ月が経った頃、妻のお腹に子供がいるのが分かります。こうして平成24年9月6日の早朝に生まれたのが、次男・龍煌(りゅあ)です。長男が虎だったので、次男にも干支の龍を付けました。 子供も3人と家族も増え、生活はきつかったけれども、楽しかった。給料日前は「あまり予算がないから」と、近所の市営動物園を利用しました。子供の入場料は100円で、ライオンもキリンもカバもいて、動物好きの子供たちには充分でした。夢妃も小学1年になっていて、弟たちの面倒を何かと見たがったものです。 しかし、それまでのツケはどうしようもなく膨らんでいたのでした。アパートの家賃の支払次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族にいが少しずつ遅れ、携帯電話の使用料も不通になる寸前で振り込む繰り返し。二ヵ月にいっぺんの市からの手当で、その場は何とか持ち直す。仕事で世話になっている知人には、よくこう言われました。「前借りはかまわない。でも今月三万足りないってことは、来月六万足りなくなるんだぞ」 私はどこか、開き直っていたのかもしれません。そのうち、同居しているのを市に知られ、母子手当も停止されました。こうして2カ月に1度入っていた20万円の手当は、一切入らなくなりました。記憶を辿ってみれば、私たちは当時、一番ケンカをしていたように思います。 最初は妻のことをおとなしい子と見ていました。でも、1年も経つと、私に身体ごと向かってくるようになっていた。妻は中学時代、柔道を習っていて、146センチと小柄なのに、172センチで体重100キロの私を投げる。一方、私も手を出すようになっていました。ただ、その後は反省し、そのようなケンカはなくなりましたが、事件後、「DV夫だった」とマスコミには書かれます。授かった双子の男の子 「頼瑠(らいる)と澪瑠(れいる)」 そのような日々を送る中、授かったのが双子の男の子だったのです。私はすぐに新聞配達のアルバイトを始めました。夜中1時には販売店に出勤し、300世帯分の朝刊を組み、早朝、順路帳を頼りに一軒一軒配達して歩きました。朝5時頃いったん帰宅し、昼間の仕事に向かう。1カ月後、合わせて30万円以上の給料が手に入り、「これなら何とかなる」、心強く思ったものです。 母が胃癌だと分かったのは、ちょうどその頃です。父が亡くなって実家のローンがきつくなり、母は叔父と八街を離れ、四街道のアパートで暮らしていました。育った家もなくなって、私もめったに帰省せず、電話で話せば口ゲンカばかり。母からの電話にも居留守を使うようになっていた。「お母さん、手術したからな」という叔父からの電話で、初めて知りました。 母は少し痩せていました。でも元気そうで、「胃を全部取ったから、少しずつしか食べられないんだ」と口にしていました。ほどなくして母は退院し、「あれが食べたい、これが食べたい」とメールしてくるようになった。「元気になったらおっちゃん(叔父)と一緒に日立においで。美味しい魚を食べに那珂湊へ行こう」と、私は返事をしたものです。 平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
それからメールをしたり電話で話したり。会うことはまだありませんでしたが、ひと月ほど経った頃、時々電話の向こうで子供の声が聞こえることに気が付いたのです。聞くと「娘がいる」という。「別居したのは1年少し前で、つい最近、離婚が成立した。3歳の娘がいるんだよ」。それが長女・夢妃(むうあ)でした。 私は正直、まったく気にならなかった。私の両親も「バツ1」同士でしたし。「じゃあ、今度三人でご飯でも行こうよ」と言うと、恵はこう口にしました。「別居して、日立に帰ってきて4、5人の人から誘われた。最初はみんなさ、子供も一緒にと言うんだけれど、その後、必ず二人で会いたいと言い始める。夢妃が急に具合が悪くなってドタキャンすると、本当かと疑われる。三人で出掛けても、すぐにあの子も帰りたがるし」「1度目の結婚生活を思い出すと体が震えて…」 実家を出て、県営団地を借りたと連絡があったのは、出会って2カ月後の7月半ばです。親には反対され、消費者金融からも工面したそうですが、訪ねると、風呂釜や家財道具もなかった。古いコンクリート作りで、30棟近くある団地の、階段脇1階に部屋はありました。その晩に初めて作ってくれたのが、焼うどんです。キャベツ、玉ねぎ、ウインナーに塩と胡椒で味付けしてあるだけの簡単な料理でしたが、これ以降、私の大好物でした。 私は水戸のドン・キホーテで、アンパンマンの「ままごとセット」を買って用意していました。夢妃がアンパンマンが大好きと、聞いていたから。私たちがテレビを見ていると起きてきて、初めて会いました。プレゼントを手渡すと、「ありがとう」と、はにかみながら口にしていたその表情は、今も折に触れ思い出します。 3日後の日曜日、私たちは三人で、県南部・阿見町にあるアウトレットモールに出掛けています。嫌がったらどうしようと気にしていると、夢妃は「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と手を握ってくれた。トイレに行った二人を待ちながらひとり「サーティワン」に並んでいると、人ごみの中に二人が手を繋いで帰ってくる姿が見えました。私はそれを目にして、「この人と一緒になるのかも」と思ったのです。 恵の様子がおかしくなったのはその帰り道、高速で水戸に入ろうというあたりでした。助手席で下を向き、ハンドルを持つ私の左手をギュッと握る。驚いて「どうしたの?」と聞くと、「1度目の結婚生活を水戸でしていて、当時のことを思い出すと身体が震えて止まらなくなる」という。精神科にも通い、一時は薬を飲んでいたと。発作はそれからも続き、この後も1年ほどは恵と水戸に行くことは一切ありませんでした。父の名の1文字託した「長男・幸虎(たから)」 この日を境に、私たちは一緒に暮らすようになりました。月3万円の家賃は折半にし、私が風呂釜やエアコン、足りない家財道具を買い揃えた。といっても、妻は実家によく泊まっていたし、私も頻繁に千葉と往復していたので、本格的に同棲を始めたのは付き合って3カ月後、妻が妊娠してからです。妻は生理不順でピルを飲んでいたのですが、私が知らない間に服薬を止めていて、「計画的だったの?」と後に笑い合った記憶があります。ともに親は、結婚には大反対でした。 私の心配は、自分の子供が生まれたら夢妃が可愛くなくなってしまうのでは、ということでした。そして、恵の両親は俺の子供を可愛がってくれるのか。そんな取り留めのない話を、妻と繰り返ししたのを覚えています。私は出産の立ち会いを希望し、「父親教室」にも通い、検診にも付き添いました。平成22年8月23日、こうして長男・幸虎(たから)が生まれたのです。私は本当に、うれしかった。 この1年半前、つまり私が恵と出会う3カ月ほど前、私は63歳で父を亡くしていましたから。父は大型トレーラーの運転手で、同居していた父の弟も同じ会社でトラックの運転手。家には車のおもちゃが溢れていて、私も将来は運転手か整備士になりたいと口にしていました。 遅くに授かった子で一人っ子でしたので、父は「ハチミツに砂糖をかけたくらい甘い」と母に叱られていました。ろくに勉強もせず、バイクを乗り回しては停学、喫煙が見つかっては停学を繰り返していた私は高校を中退。親の脛をかじりながら、車のブローカーやパチンコ屋の「サクラ」などをしてぷらぷらしていたのです。 父の癌が見つかったのはそのような時です。ステージIVAの直腸癌でした。母によれば、最後まで父は私の身を気にかけていて、「育て方を間違えたか」「心配だ」と口にしていたそうです。このまま八街にいてもまともになれない。半ば逃げるような気持ちで茨城に来たのは、このすぐ後です。少なくとも今、私は仕事を持ち、家族ができた。だから初めての子供に、父の名の1文字をどうしても託したかった。調べていると「幸」に「たか」の読みがある。干支が寅だったので、虎のようにたくましくと、「幸虎」と名付けたのです。無免許運転で逮捕、収監 ところが幸虎が生まれてひと月後、私は無免許運転で逮捕されました。4年前に千葉で事故を起こし、執行猶予中だった私は在宅で起訴され、栃木県の黒羽刑務所に収監されました。妻は両親には「夫は出張中」と嘘をついていたようです。日立から黒羽までは小さい子を乗せ下道を行けば、3時間はかかります。ミルクやオムツ交換もある。幸虎を連れ、妻はよく面会に来てくれた。毎日のように手紙をくれて、出所する頃には200通近くになりました。 収監されて半年後に起きたのが東日本大震災でした。黒羽刑務所もかなり長い時間揺れ、揺れが止まるとヘルメットをかぶった刑務官たちが見回りにきた。ただし、外があんなことになっていると知ったのは、翌日流れたラジオからです。私たちのアパートは高台にあったのですが妻の実家は海側で、これは確実にまずい。妻や子供たちが実家にいた可能性も拭えない。新聞の死亡者欄に名前はないか、確かめる日が続きました。同室には岩手や宮城の出身者もいて、知人の名を見つけ、涙する人もいましたから。「全員大丈夫だから」という妻の手紙が届いたのは、10日ほど経った頃でした。妻は隣町の病院に勤め、二人の子供は保育園に預けていた。その日、普段なら車で30分のところ、国道は津波で通行止め、山道も崩れ、4時間かけて保育園に向かったそうです。園児たちは近くの小学校に避難していて、夢妃と幸虎、二人の顔を見るまで、生きた心地がしなかったと綴っていました。 4カ月後、1カ月半の仮釈放をもらい、私は出所しました。7月12日です。幸虎は私が入所した時には首も据わっていなかったのに、「もうすぐ歩くのでは」と思うほど成長していて、驚いた記憶があります。「真面目になるから」と妻に詫び、私は水道工事の仕事に就きました。ただ運転免許がないので日給が7千円。月に14万円にしかならなかった。それも仕方がないと考えていましたが、一人親方のその会社は集金が遅れがちとかで、給料も滞るようになりました。 妻と相談して、結局その会社は辞めました。母や千葉の友人に借金し、何とか暮らしていたのがこの時期です。まだ入籍していなかったので母子手当と児童手当も受給していたのですが、それも生活費に回していました。パチンコ屋に通い、勝ったら5万、10万と恵に渡すという日々が半年ほど続きましたが、建設現場の仕事を紹介され、給料は1日1万1千円になりました。次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族に 2カ月が経った頃、妻のお腹に子供がいるのが分かります。こうして平成24年9月6日の早朝に生まれたのが、次男・龍煌(りゅあ)です。長男が虎だったので、次男にも干支の龍を付けました。 子供も3人と家族も増え、生活はきつかったけれども、楽しかった。給料日前は「あまり予算がないから」と、近所の市営動物園を利用しました。子供の入場料は100円で、ライオンもキリンもカバもいて、動物好きの子供たちには充分でした。夢妃も小学1年になっていて、弟たちの面倒を何かと見たがったものです。 しかし、それまでのツケはどうしようもなく膨らんでいたのでした。アパートの家賃の支払次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族にいが少しずつ遅れ、携帯電話の使用料も不通になる寸前で振り込む繰り返し。二ヵ月にいっぺんの市からの手当で、その場は何とか持ち直す。仕事で世話になっている知人には、よくこう言われました。「前借りはかまわない。でも今月三万足りないってことは、来月六万足りなくなるんだぞ」 私はどこか、開き直っていたのかもしれません。そのうち、同居しているのを市に知られ、母子手当も停止されました。こうして2カ月に1度入っていた20万円の手当は、一切入らなくなりました。記憶を辿ってみれば、私たちは当時、一番ケンカをしていたように思います。 最初は妻のことをおとなしい子と見ていました。でも、1年も経つと、私に身体ごと向かってくるようになっていた。妻は中学時代、柔道を習っていて、146センチと小柄なのに、172センチで体重100キロの私を投げる。一方、私も手を出すようになっていました。ただ、その後は反省し、そのようなケンカはなくなりましたが、事件後、「DV夫だった」とマスコミには書かれます。授かった双子の男の子 「頼瑠(らいる)と澪瑠(れいる)」 そのような日々を送る中、授かったのが双子の男の子だったのです。私はすぐに新聞配達のアルバイトを始めました。夜中1時には販売店に出勤し、300世帯分の朝刊を組み、早朝、順路帳を頼りに一軒一軒配達して歩きました。朝5時頃いったん帰宅し、昼間の仕事に向かう。1カ月後、合わせて30万円以上の給料が手に入り、「これなら何とかなる」、心強く思ったものです。 母が胃癌だと分かったのは、ちょうどその頃です。父が亡くなって実家のローンがきつくなり、母は叔父と八街を離れ、四街道のアパートで暮らしていました。育った家もなくなって、私もめったに帰省せず、電話で話せば口ゲンカばかり。母からの電話にも居留守を使うようになっていた。「お母さん、手術したからな」という叔父からの電話で、初めて知りました。 母は少し痩せていました。でも元気そうで、「胃を全部取ったから、少しずつしか食べられないんだ」と口にしていました。ほどなくして母は退院し、「あれが食べたい、これが食べたい」とメールしてくるようになった。「元気になったらおっちゃん(叔父)と一緒に日立においで。美味しい魚を食べに那珂湊へ行こう」と、私は返事をしたものです。 平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
私は正直、まったく気にならなかった。私の両親も「バツ1」同士でしたし。「じゃあ、今度三人でご飯でも行こうよ」と言うと、恵はこう口にしました。「別居して、日立に帰ってきて4、5人の人から誘われた。最初はみんなさ、子供も一緒にと言うんだけれど、その後、必ず二人で会いたいと言い始める。夢妃が急に具合が悪くなってドタキャンすると、本当かと疑われる。三人で出掛けても、すぐにあの子も帰りたがるし」「1度目の結婚生活を思い出すと体が震えて…」 実家を出て、県営団地を借りたと連絡があったのは、出会って2カ月後の7月半ばです。親には反対され、消費者金融からも工面したそうですが、訪ねると、風呂釜や家財道具もなかった。古いコンクリート作りで、30棟近くある団地の、階段脇1階に部屋はありました。その晩に初めて作ってくれたのが、焼うどんです。キャベツ、玉ねぎ、ウインナーに塩と胡椒で味付けしてあるだけの簡単な料理でしたが、これ以降、私の大好物でした。 私は水戸のドン・キホーテで、アンパンマンの「ままごとセット」を買って用意していました。夢妃がアンパンマンが大好きと、聞いていたから。私たちがテレビを見ていると起きてきて、初めて会いました。プレゼントを手渡すと、「ありがとう」と、はにかみながら口にしていたその表情は、今も折に触れ思い出します。 3日後の日曜日、私たちは三人で、県南部・阿見町にあるアウトレットモールに出掛けています。嫌がったらどうしようと気にしていると、夢妃は「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と手を握ってくれた。トイレに行った二人を待ちながらひとり「サーティワン」に並んでいると、人ごみの中に二人が手を繋いで帰ってくる姿が見えました。私はそれを目にして、「この人と一緒になるのかも」と思ったのです。 恵の様子がおかしくなったのはその帰り道、高速で水戸に入ろうというあたりでした。助手席で下を向き、ハンドルを持つ私の左手をギュッと握る。驚いて「どうしたの?」と聞くと、「1度目の結婚生活を水戸でしていて、当時のことを思い出すと身体が震えて止まらなくなる」という。精神科にも通い、一時は薬を飲んでいたと。発作はそれからも続き、この後も1年ほどは恵と水戸に行くことは一切ありませんでした。父の名の1文字託した「長男・幸虎(たから)」 この日を境に、私たちは一緒に暮らすようになりました。月3万円の家賃は折半にし、私が風呂釜やエアコン、足りない家財道具を買い揃えた。といっても、妻は実家によく泊まっていたし、私も頻繁に千葉と往復していたので、本格的に同棲を始めたのは付き合って3カ月後、妻が妊娠してからです。妻は生理不順でピルを飲んでいたのですが、私が知らない間に服薬を止めていて、「計画的だったの?」と後に笑い合った記憶があります。ともに親は、結婚には大反対でした。 私の心配は、自分の子供が生まれたら夢妃が可愛くなくなってしまうのでは、ということでした。そして、恵の両親は俺の子供を可愛がってくれるのか。そんな取り留めのない話を、妻と繰り返ししたのを覚えています。私は出産の立ち会いを希望し、「父親教室」にも通い、検診にも付き添いました。平成22年8月23日、こうして長男・幸虎(たから)が生まれたのです。私は本当に、うれしかった。 この1年半前、つまり私が恵と出会う3カ月ほど前、私は63歳で父を亡くしていましたから。父は大型トレーラーの運転手で、同居していた父の弟も同じ会社でトラックの運転手。家には車のおもちゃが溢れていて、私も将来は運転手か整備士になりたいと口にしていました。 遅くに授かった子で一人っ子でしたので、父は「ハチミツに砂糖をかけたくらい甘い」と母に叱られていました。ろくに勉強もせず、バイクを乗り回しては停学、喫煙が見つかっては停学を繰り返していた私は高校を中退。親の脛をかじりながら、車のブローカーやパチンコ屋の「サクラ」などをしてぷらぷらしていたのです。 父の癌が見つかったのはそのような時です。ステージIVAの直腸癌でした。母によれば、最後まで父は私の身を気にかけていて、「育て方を間違えたか」「心配だ」と口にしていたそうです。このまま八街にいてもまともになれない。半ば逃げるような気持ちで茨城に来たのは、このすぐ後です。少なくとも今、私は仕事を持ち、家族ができた。だから初めての子供に、父の名の1文字をどうしても託したかった。調べていると「幸」に「たか」の読みがある。干支が寅だったので、虎のようにたくましくと、「幸虎」と名付けたのです。無免許運転で逮捕、収監 ところが幸虎が生まれてひと月後、私は無免許運転で逮捕されました。4年前に千葉で事故を起こし、執行猶予中だった私は在宅で起訴され、栃木県の黒羽刑務所に収監されました。妻は両親には「夫は出張中」と嘘をついていたようです。日立から黒羽までは小さい子を乗せ下道を行けば、3時間はかかります。ミルクやオムツ交換もある。幸虎を連れ、妻はよく面会に来てくれた。毎日のように手紙をくれて、出所する頃には200通近くになりました。 収監されて半年後に起きたのが東日本大震災でした。黒羽刑務所もかなり長い時間揺れ、揺れが止まるとヘルメットをかぶった刑務官たちが見回りにきた。ただし、外があんなことになっていると知ったのは、翌日流れたラジオからです。私たちのアパートは高台にあったのですが妻の実家は海側で、これは確実にまずい。妻や子供たちが実家にいた可能性も拭えない。新聞の死亡者欄に名前はないか、確かめる日が続きました。同室には岩手や宮城の出身者もいて、知人の名を見つけ、涙する人もいましたから。「全員大丈夫だから」という妻の手紙が届いたのは、10日ほど経った頃でした。妻は隣町の病院に勤め、二人の子供は保育園に預けていた。その日、普段なら車で30分のところ、国道は津波で通行止め、山道も崩れ、4時間かけて保育園に向かったそうです。園児たちは近くの小学校に避難していて、夢妃と幸虎、二人の顔を見るまで、生きた心地がしなかったと綴っていました。 4カ月後、1カ月半の仮釈放をもらい、私は出所しました。7月12日です。幸虎は私が入所した時には首も据わっていなかったのに、「もうすぐ歩くのでは」と思うほど成長していて、驚いた記憶があります。「真面目になるから」と妻に詫び、私は水道工事の仕事に就きました。ただ運転免許がないので日給が7千円。月に14万円にしかならなかった。それも仕方がないと考えていましたが、一人親方のその会社は集金が遅れがちとかで、給料も滞るようになりました。 妻と相談して、結局その会社は辞めました。母や千葉の友人に借金し、何とか暮らしていたのがこの時期です。まだ入籍していなかったので母子手当と児童手当も受給していたのですが、それも生活費に回していました。パチンコ屋に通い、勝ったら5万、10万と恵に渡すという日々が半年ほど続きましたが、建設現場の仕事を紹介され、給料は1日1万1千円になりました。次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族に 2カ月が経った頃、妻のお腹に子供がいるのが分かります。こうして平成24年9月6日の早朝に生まれたのが、次男・龍煌(りゅあ)です。長男が虎だったので、次男にも干支の龍を付けました。 子供も3人と家族も増え、生活はきつかったけれども、楽しかった。給料日前は「あまり予算がないから」と、近所の市営動物園を利用しました。子供の入場料は100円で、ライオンもキリンもカバもいて、動物好きの子供たちには充分でした。夢妃も小学1年になっていて、弟たちの面倒を何かと見たがったものです。 しかし、それまでのツケはどうしようもなく膨らんでいたのでした。アパートの家賃の支払次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族にいが少しずつ遅れ、携帯電話の使用料も不通になる寸前で振り込む繰り返し。二ヵ月にいっぺんの市からの手当で、その場は何とか持ち直す。仕事で世話になっている知人には、よくこう言われました。「前借りはかまわない。でも今月三万足りないってことは、来月六万足りなくなるんだぞ」 私はどこか、開き直っていたのかもしれません。そのうち、同居しているのを市に知られ、母子手当も停止されました。こうして2カ月に1度入っていた20万円の手当は、一切入らなくなりました。記憶を辿ってみれば、私たちは当時、一番ケンカをしていたように思います。 最初は妻のことをおとなしい子と見ていました。でも、1年も経つと、私に身体ごと向かってくるようになっていた。妻は中学時代、柔道を習っていて、146センチと小柄なのに、172センチで体重100キロの私を投げる。一方、私も手を出すようになっていました。ただ、その後は反省し、そのようなケンカはなくなりましたが、事件後、「DV夫だった」とマスコミには書かれます。授かった双子の男の子 「頼瑠(らいる)と澪瑠(れいる)」 そのような日々を送る中、授かったのが双子の男の子だったのです。私はすぐに新聞配達のアルバイトを始めました。夜中1時には販売店に出勤し、300世帯分の朝刊を組み、早朝、順路帳を頼りに一軒一軒配達して歩きました。朝5時頃いったん帰宅し、昼間の仕事に向かう。1カ月後、合わせて30万円以上の給料が手に入り、「これなら何とかなる」、心強く思ったものです。 母が胃癌だと分かったのは、ちょうどその頃です。父が亡くなって実家のローンがきつくなり、母は叔父と八街を離れ、四街道のアパートで暮らしていました。育った家もなくなって、私もめったに帰省せず、電話で話せば口ゲンカばかり。母からの電話にも居留守を使うようになっていた。「お母さん、手術したからな」という叔父からの電話で、初めて知りました。 母は少し痩せていました。でも元気そうで、「胃を全部取ったから、少しずつしか食べられないんだ」と口にしていました。ほどなくして母は退院し、「あれが食べたい、これが食べたい」とメールしてくるようになった。「元気になったらおっちゃん(叔父)と一緒に日立においで。美味しい魚を食べに那珂湊へ行こう」と、私は返事をしたものです。 平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
「別居して、日立に帰ってきて4、5人の人から誘われた。最初はみんなさ、子供も一緒にと言うんだけれど、その後、必ず二人で会いたいと言い始める。夢妃が急に具合が悪くなってドタキャンすると、本当かと疑われる。三人で出掛けても、すぐにあの子も帰りたがるし」「1度目の結婚生活を思い出すと体が震えて…」 実家を出て、県営団地を借りたと連絡があったのは、出会って2カ月後の7月半ばです。親には反対され、消費者金融からも工面したそうですが、訪ねると、風呂釜や家財道具もなかった。古いコンクリート作りで、30棟近くある団地の、階段脇1階に部屋はありました。その晩に初めて作ってくれたのが、焼うどんです。キャベツ、玉ねぎ、ウインナーに塩と胡椒で味付けしてあるだけの簡単な料理でしたが、これ以降、私の大好物でした。 私は水戸のドン・キホーテで、アンパンマンの「ままごとセット」を買って用意していました。夢妃がアンパンマンが大好きと、聞いていたから。私たちがテレビを見ていると起きてきて、初めて会いました。プレゼントを手渡すと、「ありがとう」と、はにかみながら口にしていたその表情は、今も折に触れ思い出します。 3日後の日曜日、私たちは三人で、県南部・阿見町にあるアウトレットモールに出掛けています。嫌がったらどうしようと気にしていると、夢妃は「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と手を握ってくれた。トイレに行った二人を待ちながらひとり「サーティワン」に並んでいると、人ごみの中に二人が手を繋いで帰ってくる姿が見えました。私はそれを目にして、「この人と一緒になるのかも」と思ったのです。 恵の様子がおかしくなったのはその帰り道、高速で水戸に入ろうというあたりでした。助手席で下を向き、ハンドルを持つ私の左手をギュッと握る。驚いて「どうしたの?」と聞くと、「1度目の結婚生活を水戸でしていて、当時のことを思い出すと身体が震えて止まらなくなる」という。精神科にも通い、一時は薬を飲んでいたと。発作はそれからも続き、この後も1年ほどは恵と水戸に行くことは一切ありませんでした。父の名の1文字託した「長男・幸虎(たから)」 この日を境に、私たちは一緒に暮らすようになりました。月3万円の家賃は折半にし、私が風呂釜やエアコン、足りない家財道具を買い揃えた。といっても、妻は実家によく泊まっていたし、私も頻繁に千葉と往復していたので、本格的に同棲を始めたのは付き合って3カ月後、妻が妊娠してからです。妻は生理不順でピルを飲んでいたのですが、私が知らない間に服薬を止めていて、「計画的だったの?」と後に笑い合った記憶があります。ともに親は、結婚には大反対でした。 私の心配は、自分の子供が生まれたら夢妃が可愛くなくなってしまうのでは、ということでした。そして、恵の両親は俺の子供を可愛がってくれるのか。そんな取り留めのない話を、妻と繰り返ししたのを覚えています。私は出産の立ち会いを希望し、「父親教室」にも通い、検診にも付き添いました。平成22年8月23日、こうして長男・幸虎(たから)が生まれたのです。私は本当に、うれしかった。 この1年半前、つまり私が恵と出会う3カ月ほど前、私は63歳で父を亡くしていましたから。父は大型トレーラーの運転手で、同居していた父の弟も同じ会社でトラックの運転手。家には車のおもちゃが溢れていて、私も将来は運転手か整備士になりたいと口にしていました。 遅くに授かった子で一人っ子でしたので、父は「ハチミツに砂糖をかけたくらい甘い」と母に叱られていました。ろくに勉強もせず、バイクを乗り回しては停学、喫煙が見つかっては停学を繰り返していた私は高校を中退。親の脛をかじりながら、車のブローカーやパチンコ屋の「サクラ」などをしてぷらぷらしていたのです。 父の癌が見つかったのはそのような時です。ステージIVAの直腸癌でした。母によれば、最後まで父は私の身を気にかけていて、「育て方を間違えたか」「心配だ」と口にしていたそうです。このまま八街にいてもまともになれない。半ば逃げるような気持ちで茨城に来たのは、このすぐ後です。少なくとも今、私は仕事を持ち、家族ができた。だから初めての子供に、父の名の1文字をどうしても託したかった。調べていると「幸」に「たか」の読みがある。干支が寅だったので、虎のようにたくましくと、「幸虎」と名付けたのです。無免許運転で逮捕、収監 ところが幸虎が生まれてひと月後、私は無免許運転で逮捕されました。4年前に千葉で事故を起こし、執行猶予中だった私は在宅で起訴され、栃木県の黒羽刑務所に収監されました。妻は両親には「夫は出張中」と嘘をついていたようです。日立から黒羽までは小さい子を乗せ下道を行けば、3時間はかかります。ミルクやオムツ交換もある。幸虎を連れ、妻はよく面会に来てくれた。毎日のように手紙をくれて、出所する頃には200通近くになりました。 収監されて半年後に起きたのが東日本大震災でした。黒羽刑務所もかなり長い時間揺れ、揺れが止まるとヘルメットをかぶった刑務官たちが見回りにきた。ただし、外があんなことになっていると知ったのは、翌日流れたラジオからです。私たちのアパートは高台にあったのですが妻の実家は海側で、これは確実にまずい。妻や子供たちが実家にいた可能性も拭えない。新聞の死亡者欄に名前はないか、確かめる日が続きました。同室には岩手や宮城の出身者もいて、知人の名を見つけ、涙する人もいましたから。「全員大丈夫だから」という妻の手紙が届いたのは、10日ほど経った頃でした。妻は隣町の病院に勤め、二人の子供は保育園に預けていた。その日、普段なら車で30分のところ、国道は津波で通行止め、山道も崩れ、4時間かけて保育園に向かったそうです。園児たちは近くの小学校に避難していて、夢妃と幸虎、二人の顔を見るまで、生きた心地がしなかったと綴っていました。 4カ月後、1カ月半の仮釈放をもらい、私は出所しました。7月12日です。幸虎は私が入所した時には首も据わっていなかったのに、「もうすぐ歩くのでは」と思うほど成長していて、驚いた記憶があります。「真面目になるから」と妻に詫び、私は水道工事の仕事に就きました。ただ運転免許がないので日給が7千円。月に14万円にしかならなかった。それも仕方がないと考えていましたが、一人親方のその会社は集金が遅れがちとかで、給料も滞るようになりました。 妻と相談して、結局その会社は辞めました。母や千葉の友人に借金し、何とか暮らしていたのがこの時期です。まだ入籍していなかったので母子手当と児童手当も受給していたのですが、それも生活費に回していました。パチンコ屋に通い、勝ったら5万、10万と恵に渡すという日々が半年ほど続きましたが、建設現場の仕事を紹介され、給料は1日1万1千円になりました。次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族に 2カ月が経った頃、妻のお腹に子供がいるのが分かります。こうして平成24年9月6日の早朝に生まれたのが、次男・龍煌(りゅあ)です。長男が虎だったので、次男にも干支の龍を付けました。 子供も3人と家族も増え、生活はきつかったけれども、楽しかった。給料日前は「あまり予算がないから」と、近所の市営動物園を利用しました。子供の入場料は100円で、ライオンもキリンもカバもいて、動物好きの子供たちには充分でした。夢妃も小学1年になっていて、弟たちの面倒を何かと見たがったものです。 しかし、それまでのツケはどうしようもなく膨らんでいたのでした。アパートの家賃の支払次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族にいが少しずつ遅れ、携帯電話の使用料も不通になる寸前で振り込む繰り返し。二ヵ月にいっぺんの市からの手当で、その場は何とか持ち直す。仕事で世話になっている知人には、よくこう言われました。「前借りはかまわない。でも今月三万足りないってことは、来月六万足りなくなるんだぞ」 私はどこか、開き直っていたのかもしれません。そのうち、同居しているのを市に知られ、母子手当も停止されました。こうして2カ月に1度入っていた20万円の手当は、一切入らなくなりました。記憶を辿ってみれば、私たちは当時、一番ケンカをしていたように思います。 最初は妻のことをおとなしい子と見ていました。でも、1年も経つと、私に身体ごと向かってくるようになっていた。妻は中学時代、柔道を習っていて、146センチと小柄なのに、172センチで体重100キロの私を投げる。一方、私も手を出すようになっていました。ただ、その後は反省し、そのようなケンカはなくなりましたが、事件後、「DV夫だった」とマスコミには書かれます。授かった双子の男の子 「頼瑠(らいる)と澪瑠(れいる)」 そのような日々を送る中、授かったのが双子の男の子だったのです。私はすぐに新聞配達のアルバイトを始めました。夜中1時には販売店に出勤し、300世帯分の朝刊を組み、早朝、順路帳を頼りに一軒一軒配達して歩きました。朝5時頃いったん帰宅し、昼間の仕事に向かう。1カ月後、合わせて30万円以上の給料が手に入り、「これなら何とかなる」、心強く思ったものです。 母が胃癌だと分かったのは、ちょうどその頃です。父が亡くなって実家のローンがきつくなり、母は叔父と八街を離れ、四街道のアパートで暮らしていました。育った家もなくなって、私もめったに帰省せず、電話で話せば口ゲンカばかり。母からの電話にも居留守を使うようになっていた。「お母さん、手術したからな」という叔父からの電話で、初めて知りました。 母は少し痩せていました。でも元気そうで、「胃を全部取ったから、少しずつしか食べられないんだ」と口にしていました。ほどなくして母は退院し、「あれが食べたい、これが食べたい」とメールしてくるようになった。「元気になったらおっちゃん(叔父)と一緒に日立においで。美味しい魚を食べに那珂湊へ行こう」と、私は返事をしたものです。 平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
実家を出て、県営団地を借りたと連絡があったのは、出会って2カ月後の7月半ばです。親には反対され、消費者金融からも工面したそうですが、訪ねると、風呂釜や家財道具もなかった。古いコンクリート作りで、30棟近くある団地の、階段脇1階に部屋はありました。その晩に初めて作ってくれたのが、焼うどんです。キャベツ、玉ねぎ、ウインナーに塩と胡椒で味付けしてあるだけの簡単な料理でしたが、これ以降、私の大好物でした。 私は水戸のドン・キホーテで、アンパンマンの「ままごとセット」を買って用意していました。夢妃がアンパンマンが大好きと、聞いていたから。私たちがテレビを見ていると起きてきて、初めて会いました。プレゼントを手渡すと、「ありがとう」と、はにかみながら口にしていたその表情は、今も折に触れ思い出します。 3日後の日曜日、私たちは三人で、県南部・阿見町にあるアウトレットモールに出掛けています。嫌がったらどうしようと気にしていると、夢妃は「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と手を握ってくれた。トイレに行った二人を待ちながらひとり「サーティワン」に並んでいると、人ごみの中に二人が手を繋いで帰ってくる姿が見えました。私はそれを目にして、「この人と一緒になるのかも」と思ったのです。 恵の様子がおかしくなったのはその帰り道、高速で水戸に入ろうというあたりでした。助手席で下を向き、ハンドルを持つ私の左手をギュッと握る。驚いて「どうしたの?」と聞くと、「1度目の結婚生活を水戸でしていて、当時のことを思い出すと身体が震えて止まらなくなる」という。精神科にも通い、一時は薬を飲んでいたと。発作はそれからも続き、この後も1年ほどは恵と水戸に行くことは一切ありませんでした。父の名の1文字託した「長男・幸虎(たから)」 この日を境に、私たちは一緒に暮らすようになりました。月3万円の家賃は折半にし、私が風呂釜やエアコン、足りない家財道具を買い揃えた。といっても、妻は実家によく泊まっていたし、私も頻繁に千葉と往復していたので、本格的に同棲を始めたのは付き合って3カ月後、妻が妊娠してからです。妻は生理不順でピルを飲んでいたのですが、私が知らない間に服薬を止めていて、「計画的だったの?」と後に笑い合った記憶があります。ともに親は、結婚には大反対でした。 私の心配は、自分の子供が生まれたら夢妃が可愛くなくなってしまうのでは、ということでした。そして、恵の両親は俺の子供を可愛がってくれるのか。そんな取り留めのない話を、妻と繰り返ししたのを覚えています。私は出産の立ち会いを希望し、「父親教室」にも通い、検診にも付き添いました。平成22年8月23日、こうして長男・幸虎(たから)が生まれたのです。私は本当に、うれしかった。 この1年半前、つまり私が恵と出会う3カ月ほど前、私は63歳で父を亡くしていましたから。父は大型トレーラーの運転手で、同居していた父の弟も同じ会社でトラックの運転手。家には車のおもちゃが溢れていて、私も将来は運転手か整備士になりたいと口にしていました。 遅くに授かった子で一人っ子でしたので、父は「ハチミツに砂糖をかけたくらい甘い」と母に叱られていました。ろくに勉強もせず、バイクを乗り回しては停学、喫煙が見つかっては停学を繰り返していた私は高校を中退。親の脛をかじりながら、車のブローカーやパチンコ屋の「サクラ」などをしてぷらぷらしていたのです。 父の癌が見つかったのはそのような時です。ステージIVAの直腸癌でした。母によれば、最後まで父は私の身を気にかけていて、「育て方を間違えたか」「心配だ」と口にしていたそうです。このまま八街にいてもまともになれない。半ば逃げるような気持ちで茨城に来たのは、このすぐ後です。少なくとも今、私は仕事を持ち、家族ができた。だから初めての子供に、父の名の1文字をどうしても託したかった。調べていると「幸」に「たか」の読みがある。干支が寅だったので、虎のようにたくましくと、「幸虎」と名付けたのです。無免許運転で逮捕、収監 ところが幸虎が生まれてひと月後、私は無免許運転で逮捕されました。4年前に千葉で事故を起こし、執行猶予中だった私は在宅で起訴され、栃木県の黒羽刑務所に収監されました。妻は両親には「夫は出張中」と嘘をついていたようです。日立から黒羽までは小さい子を乗せ下道を行けば、3時間はかかります。ミルクやオムツ交換もある。幸虎を連れ、妻はよく面会に来てくれた。毎日のように手紙をくれて、出所する頃には200通近くになりました。 収監されて半年後に起きたのが東日本大震災でした。黒羽刑務所もかなり長い時間揺れ、揺れが止まるとヘルメットをかぶった刑務官たちが見回りにきた。ただし、外があんなことになっていると知ったのは、翌日流れたラジオからです。私たちのアパートは高台にあったのですが妻の実家は海側で、これは確実にまずい。妻や子供たちが実家にいた可能性も拭えない。新聞の死亡者欄に名前はないか、確かめる日が続きました。同室には岩手や宮城の出身者もいて、知人の名を見つけ、涙する人もいましたから。「全員大丈夫だから」という妻の手紙が届いたのは、10日ほど経った頃でした。妻は隣町の病院に勤め、二人の子供は保育園に預けていた。その日、普段なら車で30分のところ、国道は津波で通行止め、山道も崩れ、4時間かけて保育園に向かったそうです。園児たちは近くの小学校に避難していて、夢妃と幸虎、二人の顔を見るまで、生きた心地がしなかったと綴っていました。 4カ月後、1カ月半の仮釈放をもらい、私は出所しました。7月12日です。幸虎は私が入所した時には首も据わっていなかったのに、「もうすぐ歩くのでは」と思うほど成長していて、驚いた記憶があります。「真面目になるから」と妻に詫び、私は水道工事の仕事に就きました。ただ運転免許がないので日給が7千円。月に14万円にしかならなかった。それも仕方がないと考えていましたが、一人親方のその会社は集金が遅れがちとかで、給料も滞るようになりました。 妻と相談して、結局その会社は辞めました。母や千葉の友人に借金し、何とか暮らしていたのがこの時期です。まだ入籍していなかったので母子手当と児童手当も受給していたのですが、それも生活費に回していました。パチンコ屋に通い、勝ったら5万、10万と恵に渡すという日々が半年ほど続きましたが、建設現場の仕事を紹介され、給料は1日1万1千円になりました。次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族に 2カ月が経った頃、妻のお腹に子供がいるのが分かります。こうして平成24年9月6日の早朝に生まれたのが、次男・龍煌(りゅあ)です。長男が虎だったので、次男にも干支の龍を付けました。 子供も3人と家族も増え、生活はきつかったけれども、楽しかった。給料日前は「あまり予算がないから」と、近所の市営動物園を利用しました。子供の入場料は100円で、ライオンもキリンもカバもいて、動物好きの子供たちには充分でした。夢妃も小学1年になっていて、弟たちの面倒を何かと見たがったものです。 しかし、それまでのツケはどうしようもなく膨らんでいたのでした。アパートの家賃の支払次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族にいが少しずつ遅れ、携帯電話の使用料も不通になる寸前で振り込む繰り返し。二ヵ月にいっぺんの市からの手当で、その場は何とか持ち直す。仕事で世話になっている知人には、よくこう言われました。「前借りはかまわない。でも今月三万足りないってことは、来月六万足りなくなるんだぞ」 私はどこか、開き直っていたのかもしれません。そのうち、同居しているのを市に知られ、母子手当も停止されました。こうして2カ月に1度入っていた20万円の手当は、一切入らなくなりました。記憶を辿ってみれば、私たちは当時、一番ケンカをしていたように思います。 最初は妻のことをおとなしい子と見ていました。でも、1年も経つと、私に身体ごと向かってくるようになっていた。妻は中学時代、柔道を習っていて、146センチと小柄なのに、172センチで体重100キロの私を投げる。一方、私も手を出すようになっていました。ただ、その後は反省し、そのようなケンカはなくなりましたが、事件後、「DV夫だった」とマスコミには書かれます。授かった双子の男の子 「頼瑠(らいる)と澪瑠(れいる)」 そのような日々を送る中、授かったのが双子の男の子だったのです。私はすぐに新聞配達のアルバイトを始めました。夜中1時には販売店に出勤し、300世帯分の朝刊を組み、早朝、順路帳を頼りに一軒一軒配達して歩きました。朝5時頃いったん帰宅し、昼間の仕事に向かう。1カ月後、合わせて30万円以上の給料が手に入り、「これなら何とかなる」、心強く思ったものです。 母が胃癌だと分かったのは、ちょうどその頃です。父が亡くなって実家のローンがきつくなり、母は叔父と八街を離れ、四街道のアパートで暮らしていました。育った家もなくなって、私もめったに帰省せず、電話で話せば口ゲンカばかり。母からの電話にも居留守を使うようになっていた。「お母さん、手術したからな」という叔父からの電話で、初めて知りました。 母は少し痩せていました。でも元気そうで、「胃を全部取ったから、少しずつしか食べられないんだ」と口にしていました。ほどなくして母は退院し、「あれが食べたい、これが食べたい」とメールしてくるようになった。「元気になったらおっちゃん(叔父)と一緒に日立においで。美味しい魚を食べに那珂湊へ行こう」と、私は返事をしたものです。 平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
私は水戸のドン・キホーテで、アンパンマンの「ままごとセット」を買って用意していました。夢妃がアンパンマンが大好きと、聞いていたから。私たちがテレビを見ていると起きてきて、初めて会いました。プレゼントを手渡すと、「ありがとう」と、はにかみながら口にしていたその表情は、今も折に触れ思い出します。 3日後の日曜日、私たちは三人で、県南部・阿見町にあるアウトレットモールに出掛けています。嫌がったらどうしようと気にしていると、夢妃は「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と手を握ってくれた。トイレに行った二人を待ちながらひとり「サーティワン」に並んでいると、人ごみの中に二人が手を繋いで帰ってくる姿が見えました。私はそれを目にして、「この人と一緒になるのかも」と思ったのです。 恵の様子がおかしくなったのはその帰り道、高速で水戸に入ろうというあたりでした。助手席で下を向き、ハンドルを持つ私の左手をギュッと握る。驚いて「どうしたの?」と聞くと、「1度目の結婚生活を水戸でしていて、当時のことを思い出すと身体が震えて止まらなくなる」という。精神科にも通い、一時は薬を飲んでいたと。発作はそれからも続き、この後も1年ほどは恵と水戸に行くことは一切ありませんでした。父の名の1文字託した「長男・幸虎(たから)」 この日を境に、私たちは一緒に暮らすようになりました。月3万円の家賃は折半にし、私が風呂釜やエアコン、足りない家財道具を買い揃えた。といっても、妻は実家によく泊まっていたし、私も頻繁に千葉と往復していたので、本格的に同棲を始めたのは付き合って3カ月後、妻が妊娠してからです。妻は生理不順でピルを飲んでいたのですが、私が知らない間に服薬を止めていて、「計画的だったの?」と後に笑い合った記憶があります。ともに親は、結婚には大反対でした。 私の心配は、自分の子供が生まれたら夢妃が可愛くなくなってしまうのでは、ということでした。そして、恵の両親は俺の子供を可愛がってくれるのか。そんな取り留めのない話を、妻と繰り返ししたのを覚えています。私は出産の立ち会いを希望し、「父親教室」にも通い、検診にも付き添いました。平成22年8月23日、こうして長男・幸虎(たから)が生まれたのです。私は本当に、うれしかった。 この1年半前、つまり私が恵と出会う3カ月ほど前、私は63歳で父を亡くしていましたから。父は大型トレーラーの運転手で、同居していた父の弟も同じ会社でトラックの運転手。家には車のおもちゃが溢れていて、私も将来は運転手か整備士になりたいと口にしていました。 遅くに授かった子で一人っ子でしたので、父は「ハチミツに砂糖をかけたくらい甘い」と母に叱られていました。ろくに勉強もせず、バイクを乗り回しては停学、喫煙が見つかっては停学を繰り返していた私は高校を中退。親の脛をかじりながら、車のブローカーやパチンコ屋の「サクラ」などをしてぷらぷらしていたのです。 父の癌が見つかったのはそのような時です。ステージIVAの直腸癌でした。母によれば、最後まで父は私の身を気にかけていて、「育て方を間違えたか」「心配だ」と口にしていたそうです。このまま八街にいてもまともになれない。半ば逃げるような気持ちで茨城に来たのは、このすぐ後です。少なくとも今、私は仕事を持ち、家族ができた。だから初めての子供に、父の名の1文字をどうしても託したかった。調べていると「幸」に「たか」の読みがある。干支が寅だったので、虎のようにたくましくと、「幸虎」と名付けたのです。無免許運転で逮捕、収監 ところが幸虎が生まれてひと月後、私は無免許運転で逮捕されました。4年前に千葉で事故を起こし、執行猶予中だった私は在宅で起訴され、栃木県の黒羽刑務所に収監されました。妻は両親には「夫は出張中」と嘘をついていたようです。日立から黒羽までは小さい子を乗せ下道を行けば、3時間はかかります。ミルクやオムツ交換もある。幸虎を連れ、妻はよく面会に来てくれた。毎日のように手紙をくれて、出所する頃には200通近くになりました。 収監されて半年後に起きたのが東日本大震災でした。黒羽刑務所もかなり長い時間揺れ、揺れが止まるとヘルメットをかぶった刑務官たちが見回りにきた。ただし、外があんなことになっていると知ったのは、翌日流れたラジオからです。私たちのアパートは高台にあったのですが妻の実家は海側で、これは確実にまずい。妻や子供たちが実家にいた可能性も拭えない。新聞の死亡者欄に名前はないか、確かめる日が続きました。同室には岩手や宮城の出身者もいて、知人の名を見つけ、涙する人もいましたから。「全員大丈夫だから」という妻の手紙が届いたのは、10日ほど経った頃でした。妻は隣町の病院に勤め、二人の子供は保育園に預けていた。その日、普段なら車で30分のところ、国道は津波で通行止め、山道も崩れ、4時間かけて保育園に向かったそうです。園児たちは近くの小学校に避難していて、夢妃と幸虎、二人の顔を見るまで、生きた心地がしなかったと綴っていました。 4カ月後、1カ月半の仮釈放をもらい、私は出所しました。7月12日です。幸虎は私が入所した時には首も据わっていなかったのに、「もうすぐ歩くのでは」と思うほど成長していて、驚いた記憶があります。「真面目になるから」と妻に詫び、私は水道工事の仕事に就きました。ただ運転免許がないので日給が7千円。月に14万円にしかならなかった。それも仕方がないと考えていましたが、一人親方のその会社は集金が遅れがちとかで、給料も滞るようになりました。 妻と相談して、結局その会社は辞めました。母や千葉の友人に借金し、何とか暮らしていたのがこの時期です。まだ入籍していなかったので母子手当と児童手当も受給していたのですが、それも生活費に回していました。パチンコ屋に通い、勝ったら5万、10万と恵に渡すという日々が半年ほど続きましたが、建設現場の仕事を紹介され、給料は1日1万1千円になりました。次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族に 2カ月が経った頃、妻のお腹に子供がいるのが分かります。こうして平成24年9月6日の早朝に生まれたのが、次男・龍煌(りゅあ)です。長男が虎だったので、次男にも干支の龍を付けました。 子供も3人と家族も増え、生活はきつかったけれども、楽しかった。給料日前は「あまり予算がないから」と、近所の市営動物園を利用しました。子供の入場料は100円で、ライオンもキリンもカバもいて、動物好きの子供たちには充分でした。夢妃も小学1年になっていて、弟たちの面倒を何かと見たがったものです。 しかし、それまでのツケはどうしようもなく膨らんでいたのでした。アパートの家賃の支払次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族にいが少しずつ遅れ、携帯電話の使用料も不通になる寸前で振り込む繰り返し。二ヵ月にいっぺんの市からの手当で、その場は何とか持ち直す。仕事で世話になっている知人には、よくこう言われました。「前借りはかまわない。でも今月三万足りないってことは、来月六万足りなくなるんだぞ」 私はどこか、開き直っていたのかもしれません。そのうち、同居しているのを市に知られ、母子手当も停止されました。こうして2カ月に1度入っていた20万円の手当は、一切入らなくなりました。記憶を辿ってみれば、私たちは当時、一番ケンカをしていたように思います。 最初は妻のことをおとなしい子と見ていました。でも、1年も経つと、私に身体ごと向かってくるようになっていた。妻は中学時代、柔道を習っていて、146センチと小柄なのに、172センチで体重100キロの私を投げる。一方、私も手を出すようになっていました。ただ、その後は反省し、そのようなケンカはなくなりましたが、事件後、「DV夫だった」とマスコミには書かれます。授かった双子の男の子 「頼瑠(らいる)と澪瑠(れいる)」 そのような日々を送る中、授かったのが双子の男の子だったのです。私はすぐに新聞配達のアルバイトを始めました。夜中1時には販売店に出勤し、300世帯分の朝刊を組み、早朝、順路帳を頼りに一軒一軒配達して歩きました。朝5時頃いったん帰宅し、昼間の仕事に向かう。1カ月後、合わせて30万円以上の給料が手に入り、「これなら何とかなる」、心強く思ったものです。 母が胃癌だと分かったのは、ちょうどその頃です。父が亡くなって実家のローンがきつくなり、母は叔父と八街を離れ、四街道のアパートで暮らしていました。育った家もなくなって、私もめったに帰省せず、電話で話せば口ゲンカばかり。母からの電話にも居留守を使うようになっていた。「お母さん、手術したからな」という叔父からの電話で、初めて知りました。 母は少し痩せていました。でも元気そうで、「胃を全部取ったから、少しずつしか食べられないんだ」と口にしていました。ほどなくして母は退院し、「あれが食べたい、これが食べたい」とメールしてくるようになった。「元気になったらおっちゃん(叔父)と一緒に日立においで。美味しい魚を食べに那珂湊へ行こう」と、私は返事をしたものです。 平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
3日後の日曜日、私たちは三人で、県南部・阿見町にあるアウトレットモールに出掛けています。嫌がったらどうしようと気にしていると、夢妃は「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と手を握ってくれた。トイレに行った二人を待ちながらひとり「サーティワン」に並んでいると、人ごみの中に二人が手を繋いで帰ってくる姿が見えました。私はそれを目にして、「この人と一緒になるのかも」と思ったのです。 恵の様子がおかしくなったのはその帰り道、高速で水戸に入ろうというあたりでした。助手席で下を向き、ハンドルを持つ私の左手をギュッと握る。驚いて「どうしたの?」と聞くと、「1度目の結婚生活を水戸でしていて、当時のことを思い出すと身体が震えて止まらなくなる」という。精神科にも通い、一時は薬を飲んでいたと。発作はそれからも続き、この後も1年ほどは恵と水戸に行くことは一切ありませんでした。父の名の1文字託した「長男・幸虎(たから)」 この日を境に、私たちは一緒に暮らすようになりました。月3万円の家賃は折半にし、私が風呂釜やエアコン、足りない家財道具を買い揃えた。といっても、妻は実家によく泊まっていたし、私も頻繁に千葉と往復していたので、本格的に同棲を始めたのは付き合って3カ月後、妻が妊娠してからです。妻は生理不順でピルを飲んでいたのですが、私が知らない間に服薬を止めていて、「計画的だったの?」と後に笑い合った記憶があります。ともに親は、結婚には大反対でした。 私の心配は、自分の子供が生まれたら夢妃が可愛くなくなってしまうのでは、ということでした。そして、恵の両親は俺の子供を可愛がってくれるのか。そんな取り留めのない話を、妻と繰り返ししたのを覚えています。私は出産の立ち会いを希望し、「父親教室」にも通い、検診にも付き添いました。平成22年8月23日、こうして長男・幸虎(たから)が生まれたのです。私は本当に、うれしかった。 この1年半前、つまり私が恵と出会う3カ月ほど前、私は63歳で父を亡くしていましたから。父は大型トレーラーの運転手で、同居していた父の弟も同じ会社でトラックの運転手。家には車のおもちゃが溢れていて、私も将来は運転手か整備士になりたいと口にしていました。 遅くに授かった子で一人っ子でしたので、父は「ハチミツに砂糖をかけたくらい甘い」と母に叱られていました。ろくに勉強もせず、バイクを乗り回しては停学、喫煙が見つかっては停学を繰り返していた私は高校を中退。親の脛をかじりながら、車のブローカーやパチンコ屋の「サクラ」などをしてぷらぷらしていたのです。 父の癌が見つかったのはそのような時です。ステージIVAの直腸癌でした。母によれば、最後まで父は私の身を気にかけていて、「育て方を間違えたか」「心配だ」と口にしていたそうです。このまま八街にいてもまともになれない。半ば逃げるような気持ちで茨城に来たのは、このすぐ後です。少なくとも今、私は仕事を持ち、家族ができた。だから初めての子供に、父の名の1文字をどうしても託したかった。調べていると「幸」に「たか」の読みがある。干支が寅だったので、虎のようにたくましくと、「幸虎」と名付けたのです。無免許運転で逮捕、収監 ところが幸虎が生まれてひと月後、私は無免許運転で逮捕されました。4年前に千葉で事故を起こし、執行猶予中だった私は在宅で起訴され、栃木県の黒羽刑務所に収監されました。妻は両親には「夫は出張中」と嘘をついていたようです。日立から黒羽までは小さい子を乗せ下道を行けば、3時間はかかります。ミルクやオムツ交換もある。幸虎を連れ、妻はよく面会に来てくれた。毎日のように手紙をくれて、出所する頃には200通近くになりました。 収監されて半年後に起きたのが東日本大震災でした。黒羽刑務所もかなり長い時間揺れ、揺れが止まるとヘルメットをかぶった刑務官たちが見回りにきた。ただし、外があんなことになっていると知ったのは、翌日流れたラジオからです。私たちのアパートは高台にあったのですが妻の実家は海側で、これは確実にまずい。妻や子供たちが実家にいた可能性も拭えない。新聞の死亡者欄に名前はないか、確かめる日が続きました。同室には岩手や宮城の出身者もいて、知人の名を見つけ、涙する人もいましたから。「全員大丈夫だから」という妻の手紙が届いたのは、10日ほど経った頃でした。妻は隣町の病院に勤め、二人の子供は保育園に預けていた。その日、普段なら車で30分のところ、国道は津波で通行止め、山道も崩れ、4時間かけて保育園に向かったそうです。園児たちは近くの小学校に避難していて、夢妃と幸虎、二人の顔を見るまで、生きた心地がしなかったと綴っていました。 4カ月後、1カ月半の仮釈放をもらい、私は出所しました。7月12日です。幸虎は私が入所した時には首も据わっていなかったのに、「もうすぐ歩くのでは」と思うほど成長していて、驚いた記憶があります。「真面目になるから」と妻に詫び、私は水道工事の仕事に就きました。ただ運転免許がないので日給が7千円。月に14万円にしかならなかった。それも仕方がないと考えていましたが、一人親方のその会社は集金が遅れがちとかで、給料も滞るようになりました。 妻と相談して、結局その会社は辞めました。母や千葉の友人に借金し、何とか暮らしていたのがこの時期です。まだ入籍していなかったので母子手当と児童手当も受給していたのですが、それも生活費に回していました。パチンコ屋に通い、勝ったら5万、10万と恵に渡すという日々が半年ほど続きましたが、建設現場の仕事を紹介され、給料は1日1万1千円になりました。次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族に 2カ月が経った頃、妻のお腹に子供がいるのが分かります。こうして平成24年9月6日の早朝に生まれたのが、次男・龍煌(りゅあ)です。長男が虎だったので、次男にも干支の龍を付けました。 子供も3人と家族も増え、生活はきつかったけれども、楽しかった。給料日前は「あまり予算がないから」と、近所の市営動物園を利用しました。子供の入場料は100円で、ライオンもキリンもカバもいて、動物好きの子供たちには充分でした。夢妃も小学1年になっていて、弟たちの面倒を何かと見たがったものです。 しかし、それまでのツケはどうしようもなく膨らんでいたのでした。アパートの家賃の支払次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族にいが少しずつ遅れ、携帯電話の使用料も不通になる寸前で振り込む繰り返し。二ヵ月にいっぺんの市からの手当で、その場は何とか持ち直す。仕事で世話になっている知人には、よくこう言われました。「前借りはかまわない。でも今月三万足りないってことは、来月六万足りなくなるんだぞ」 私はどこか、開き直っていたのかもしれません。そのうち、同居しているのを市に知られ、母子手当も停止されました。こうして2カ月に1度入っていた20万円の手当は、一切入らなくなりました。記憶を辿ってみれば、私たちは当時、一番ケンカをしていたように思います。 最初は妻のことをおとなしい子と見ていました。でも、1年も経つと、私に身体ごと向かってくるようになっていた。妻は中学時代、柔道を習っていて、146センチと小柄なのに、172センチで体重100キロの私を投げる。一方、私も手を出すようになっていました。ただ、その後は反省し、そのようなケンカはなくなりましたが、事件後、「DV夫だった」とマスコミには書かれます。授かった双子の男の子 「頼瑠(らいる)と澪瑠(れいる)」 そのような日々を送る中、授かったのが双子の男の子だったのです。私はすぐに新聞配達のアルバイトを始めました。夜中1時には販売店に出勤し、300世帯分の朝刊を組み、早朝、順路帳を頼りに一軒一軒配達して歩きました。朝5時頃いったん帰宅し、昼間の仕事に向かう。1カ月後、合わせて30万円以上の給料が手に入り、「これなら何とかなる」、心強く思ったものです。 母が胃癌だと分かったのは、ちょうどその頃です。父が亡くなって実家のローンがきつくなり、母は叔父と八街を離れ、四街道のアパートで暮らしていました。育った家もなくなって、私もめったに帰省せず、電話で話せば口ゲンカばかり。母からの電話にも居留守を使うようになっていた。「お母さん、手術したからな」という叔父からの電話で、初めて知りました。 母は少し痩せていました。でも元気そうで、「胃を全部取ったから、少しずつしか食べられないんだ」と口にしていました。ほどなくして母は退院し、「あれが食べたい、これが食べたい」とメールしてくるようになった。「元気になったらおっちゃん(叔父)と一緒に日立においで。美味しい魚を食べに那珂湊へ行こう」と、私は返事をしたものです。 平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
恵の様子がおかしくなったのはその帰り道、高速で水戸に入ろうというあたりでした。助手席で下を向き、ハンドルを持つ私の左手をギュッと握る。驚いて「どうしたの?」と聞くと、「1度目の結婚生活を水戸でしていて、当時のことを思い出すと身体が震えて止まらなくなる」という。精神科にも通い、一時は薬を飲んでいたと。発作はそれからも続き、この後も1年ほどは恵と水戸に行くことは一切ありませんでした。父の名の1文字託した「長男・幸虎(たから)」 この日を境に、私たちは一緒に暮らすようになりました。月3万円の家賃は折半にし、私が風呂釜やエアコン、足りない家財道具を買い揃えた。といっても、妻は実家によく泊まっていたし、私も頻繁に千葉と往復していたので、本格的に同棲を始めたのは付き合って3カ月後、妻が妊娠してからです。妻は生理不順でピルを飲んでいたのですが、私が知らない間に服薬を止めていて、「計画的だったの?」と後に笑い合った記憶があります。ともに親は、結婚には大反対でした。 私の心配は、自分の子供が生まれたら夢妃が可愛くなくなってしまうのでは、ということでした。そして、恵の両親は俺の子供を可愛がってくれるのか。そんな取り留めのない話を、妻と繰り返ししたのを覚えています。私は出産の立ち会いを希望し、「父親教室」にも通い、検診にも付き添いました。平成22年8月23日、こうして長男・幸虎(たから)が生まれたのです。私は本当に、うれしかった。 この1年半前、つまり私が恵と出会う3カ月ほど前、私は63歳で父を亡くしていましたから。父は大型トレーラーの運転手で、同居していた父の弟も同じ会社でトラックの運転手。家には車のおもちゃが溢れていて、私も将来は運転手か整備士になりたいと口にしていました。 遅くに授かった子で一人っ子でしたので、父は「ハチミツに砂糖をかけたくらい甘い」と母に叱られていました。ろくに勉強もせず、バイクを乗り回しては停学、喫煙が見つかっては停学を繰り返していた私は高校を中退。親の脛をかじりながら、車のブローカーやパチンコ屋の「サクラ」などをしてぷらぷらしていたのです。 父の癌が見つかったのはそのような時です。ステージIVAの直腸癌でした。母によれば、最後まで父は私の身を気にかけていて、「育て方を間違えたか」「心配だ」と口にしていたそうです。このまま八街にいてもまともになれない。半ば逃げるような気持ちで茨城に来たのは、このすぐ後です。少なくとも今、私は仕事を持ち、家族ができた。だから初めての子供に、父の名の1文字をどうしても託したかった。調べていると「幸」に「たか」の読みがある。干支が寅だったので、虎のようにたくましくと、「幸虎」と名付けたのです。無免許運転で逮捕、収監 ところが幸虎が生まれてひと月後、私は無免許運転で逮捕されました。4年前に千葉で事故を起こし、執行猶予中だった私は在宅で起訴され、栃木県の黒羽刑務所に収監されました。妻は両親には「夫は出張中」と嘘をついていたようです。日立から黒羽までは小さい子を乗せ下道を行けば、3時間はかかります。ミルクやオムツ交換もある。幸虎を連れ、妻はよく面会に来てくれた。毎日のように手紙をくれて、出所する頃には200通近くになりました。 収監されて半年後に起きたのが東日本大震災でした。黒羽刑務所もかなり長い時間揺れ、揺れが止まるとヘルメットをかぶった刑務官たちが見回りにきた。ただし、外があんなことになっていると知ったのは、翌日流れたラジオからです。私たちのアパートは高台にあったのですが妻の実家は海側で、これは確実にまずい。妻や子供たちが実家にいた可能性も拭えない。新聞の死亡者欄に名前はないか、確かめる日が続きました。同室には岩手や宮城の出身者もいて、知人の名を見つけ、涙する人もいましたから。「全員大丈夫だから」という妻の手紙が届いたのは、10日ほど経った頃でした。妻は隣町の病院に勤め、二人の子供は保育園に預けていた。その日、普段なら車で30分のところ、国道は津波で通行止め、山道も崩れ、4時間かけて保育園に向かったそうです。園児たちは近くの小学校に避難していて、夢妃と幸虎、二人の顔を見るまで、生きた心地がしなかったと綴っていました。 4カ月後、1カ月半の仮釈放をもらい、私は出所しました。7月12日です。幸虎は私が入所した時には首も据わっていなかったのに、「もうすぐ歩くのでは」と思うほど成長していて、驚いた記憶があります。「真面目になるから」と妻に詫び、私は水道工事の仕事に就きました。ただ運転免許がないので日給が7千円。月に14万円にしかならなかった。それも仕方がないと考えていましたが、一人親方のその会社は集金が遅れがちとかで、給料も滞るようになりました。 妻と相談して、結局その会社は辞めました。母や千葉の友人に借金し、何とか暮らしていたのがこの時期です。まだ入籍していなかったので母子手当と児童手当も受給していたのですが、それも生活費に回していました。パチンコ屋に通い、勝ったら5万、10万と恵に渡すという日々が半年ほど続きましたが、建設現場の仕事を紹介され、給料は1日1万1千円になりました。次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族に 2カ月が経った頃、妻のお腹に子供がいるのが分かります。こうして平成24年9月6日の早朝に生まれたのが、次男・龍煌(りゅあ)です。長男が虎だったので、次男にも干支の龍を付けました。 子供も3人と家族も増え、生活はきつかったけれども、楽しかった。給料日前は「あまり予算がないから」と、近所の市営動物園を利用しました。子供の入場料は100円で、ライオンもキリンもカバもいて、動物好きの子供たちには充分でした。夢妃も小学1年になっていて、弟たちの面倒を何かと見たがったものです。 しかし、それまでのツケはどうしようもなく膨らんでいたのでした。アパートの家賃の支払次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族にいが少しずつ遅れ、携帯電話の使用料も不通になる寸前で振り込む繰り返し。二ヵ月にいっぺんの市からの手当で、その場は何とか持ち直す。仕事で世話になっている知人には、よくこう言われました。「前借りはかまわない。でも今月三万足りないってことは、来月六万足りなくなるんだぞ」 私はどこか、開き直っていたのかもしれません。そのうち、同居しているのを市に知られ、母子手当も停止されました。こうして2カ月に1度入っていた20万円の手当は、一切入らなくなりました。記憶を辿ってみれば、私たちは当時、一番ケンカをしていたように思います。 最初は妻のことをおとなしい子と見ていました。でも、1年も経つと、私に身体ごと向かってくるようになっていた。妻は中学時代、柔道を習っていて、146センチと小柄なのに、172センチで体重100キロの私を投げる。一方、私も手を出すようになっていました。ただ、その後は反省し、そのようなケンカはなくなりましたが、事件後、「DV夫だった」とマスコミには書かれます。授かった双子の男の子 「頼瑠(らいる)と澪瑠(れいる)」 そのような日々を送る中、授かったのが双子の男の子だったのです。私はすぐに新聞配達のアルバイトを始めました。夜中1時には販売店に出勤し、300世帯分の朝刊を組み、早朝、順路帳を頼りに一軒一軒配達して歩きました。朝5時頃いったん帰宅し、昼間の仕事に向かう。1カ月後、合わせて30万円以上の給料が手に入り、「これなら何とかなる」、心強く思ったものです。 母が胃癌だと分かったのは、ちょうどその頃です。父が亡くなって実家のローンがきつくなり、母は叔父と八街を離れ、四街道のアパートで暮らしていました。育った家もなくなって、私もめったに帰省せず、電話で話せば口ゲンカばかり。母からの電話にも居留守を使うようになっていた。「お母さん、手術したからな」という叔父からの電話で、初めて知りました。 母は少し痩せていました。でも元気そうで、「胃を全部取ったから、少しずつしか食べられないんだ」と口にしていました。ほどなくして母は退院し、「あれが食べたい、これが食べたい」とメールしてくるようになった。「元気になったらおっちゃん(叔父)と一緒に日立においで。美味しい魚を食べに那珂湊へ行こう」と、私は返事をしたものです。 平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
この日を境に、私たちは一緒に暮らすようになりました。月3万円の家賃は折半にし、私が風呂釜やエアコン、足りない家財道具を買い揃えた。といっても、妻は実家によく泊まっていたし、私も頻繁に千葉と往復していたので、本格的に同棲を始めたのは付き合って3カ月後、妻が妊娠してからです。妻は生理不順でピルを飲んでいたのですが、私が知らない間に服薬を止めていて、「計画的だったの?」と後に笑い合った記憶があります。ともに親は、結婚には大反対でした。 私の心配は、自分の子供が生まれたら夢妃が可愛くなくなってしまうのでは、ということでした。そして、恵の両親は俺の子供を可愛がってくれるのか。そんな取り留めのない話を、妻と繰り返ししたのを覚えています。私は出産の立ち会いを希望し、「父親教室」にも通い、検診にも付き添いました。平成22年8月23日、こうして長男・幸虎(たから)が生まれたのです。私は本当に、うれしかった。 この1年半前、つまり私が恵と出会う3カ月ほど前、私は63歳で父を亡くしていましたから。父は大型トレーラーの運転手で、同居していた父の弟も同じ会社でトラックの運転手。家には車のおもちゃが溢れていて、私も将来は運転手か整備士になりたいと口にしていました。 遅くに授かった子で一人っ子でしたので、父は「ハチミツに砂糖をかけたくらい甘い」と母に叱られていました。ろくに勉強もせず、バイクを乗り回しては停学、喫煙が見つかっては停学を繰り返していた私は高校を中退。親の脛をかじりながら、車のブローカーやパチンコ屋の「サクラ」などをしてぷらぷらしていたのです。 父の癌が見つかったのはそのような時です。ステージIVAの直腸癌でした。母によれば、最後まで父は私の身を気にかけていて、「育て方を間違えたか」「心配だ」と口にしていたそうです。このまま八街にいてもまともになれない。半ば逃げるような気持ちで茨城に来たのは、このすぐ後です。少なくとも今、私は仕事を持ち、家族ができた。だから初めての子供に、父の名の1文字をどうしても託したかった。調べていると「幸」に「たか」の読みがある。干支が寅だったので、虎のようにたくましくと、「幸虎」と名付けたのです。無免許運転で逮捕、収監 ところが幸虎が生まれてひと月後、私は無免許運転で逮捕されました。4年前に千葉で事故を起こし、執行猶予中だった私は在宅で起訴され、栃木県の黒羽刑務所に収監されました。妻は両親には「夫は出張中」と嘘をついていたようです。日立から黒羽までは小さい子を乗せ下道を行けば、3時間はかかります。ミルクやオムツ交換もある。幸虎を連れ、妻はよく面会に来てくれた。毎日のように手紙をくれて、出所する頃には200通近くになりました。 収監されて半年後に起きたのが東日本大震災でした。黒羽刑務所もかなり長い時間揺れ、揺れが止まるとヘルメットをかぶった刑務官たちが見回りにきた。ただし、外があんなことになっていると知ったのは、翌日流れたラジオからです。私たちのアパートは高台にあったのですが妻の実家は海側で、これは確実にまずい。妻や子供たちが実家にいた可能性も拭えない。新聞の死亡者欄に名前はないか、確かめる日が続きました。同室には岩手や宮城の出身者もいて、知人の名を見つけ、涙する人もいましたから。「全員大丈夫だから」という妻の手紙が届いたのは、10日ほど経った頃でした。妻は隣町の病院に勤め、二人の子供は保育園に預けていた。その日、普段なら車で30分のところ、国道は津波で通行止め、山道も崩れ、4時間かけて保育園に向かったそうです。園児たちは近くの小学校に避難していて、夢妃と幸虎、二人の顔を見るまで、生きた心地がしなかったと綴っていました。 4カ月後、1カ月半の仮釈放をもらい、私は出所しました。7月12日です。幸虎は私が入所した時には首も据わっていなかったのに、「もうすぐ歩くのでは」と思うほど成長していて、驚いた記憶があります。「真面目になるから」と妻に詫び、私は水道工事の仕事に就きました。ただ運転免許がないので日給が7千円。月に14万円にしかならなかった。それも仕方がないと考えていましたが、一人親方のその会社は集金が遅れがちとかで、給料も滞るようになりました。 妻と相談して、結局その会社は辞めました。母や千葉の友人に借金し、何とか暮らしていたのがこの時期です。まだ入籍していなかったので母子手当と児童手当も受給していたのですが、それも生活費に回していました。パチンコ屋に通い、勝ったら5万、10万と恵に渡すという日々が半年ほど続きましたが、建設現場の仕事を紹介され、給料は1日1万1千円になりました。次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族に 2カ月が経った頃、妻のお腹に子供がいるのが分かります。こうして平成24年9月6日の早朝に生まれたのが、次男・龍煌(りゅあ)です。長男が虎だったので、次男にも干支の龍を付けました。 子供も3人と家族も増え、生活はきつかったけれども、楽しかった。給料日前は「あまり予算がないから」と、近所の市営動物園を利用しました。子供の入場料は100円で、ライオンもキリンもカバもいて、動物好きの子供たちには充分でした。夢妃も小学1年になっていて、弟たちの面倒を何かと見たがったものです。 しかし、それまでのツケはどうしようもなく膨らんでいたのでした。アパートの家賃の支払次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族にいが少しずつ遅れ、携帯電話の使用料も不通になる寸前で振り込む繰り返し。二ヵ月にいっぺんの市からの手当で、その場は何とか持ち直す。仕事で世話になっている知人には、よくこう言われました。「前借りはかまわない。でも今月三万足りないってことは、来月六万足りなくなるんだぞ」 私はどこか、開き直っていたのかもしれません。そのうち、同居しているのを市に知られ、母子手当も停止されました。こうして2カ月に1度入っていた20万円の手当は、一切入らなくなりました。記憶を辿ってみれば、私たちは当時、一番ケンカをしていたように思います。 最初は妻のことをおとなしい子と見ていました。でも、1年も経つと、私に身体ごと向かってくるようになっていた。妻は中学時代、柔道を習っていて、146センチと小柄なのに、172センチで体重100キロの私を投げる。一方、私も手を出すようになっていました。ただ、その後は反省し、そのようなケンカはなくなりましたが、事件後、「DV夫だった」とマスコミには書かれます。授かった双子の男の子 「頼瑠(らいる)と澪瑠(れいる)」 そのような日々を送る中、授かったのが双子の男の子だったのです。私はすぐに新聞配達のアルバイトを始めました。夜中1時には販売店に出勤し、300世帯分の朝刊を組み、早朝、順路帳を頼りに一軒一軒配達して歩きました。朝5時頃いったん帰宅し、昼間の仕事に向かう。1カ月後、合わせて30万円以上の給料が手に入り、「これなら何とかなる」、心強く思ったものです。 母が胃癌だと分かったのは、ちょうどその頃です。父が亡くなって実家のローンがきつくなり、母は叔父と八街を離れ、四街道のアパートで暮らしていました。育った家もなくなって、私もめったに帰省せず、電話で話せば口ゲンカばかり。母からの電話にも居留守を使うようになっていた。「お母さん、手術したからな」という叔父からの電話で、初めて知りました。 母は少し痩せていました。でも元気そうで、「胃を全部取ったから、少しずつしか食べられないんだ」と口にしていました。ほどなくして母は退院し、「あれが食べたい、これが食べたい」とメールしてくるようになった。「元気になったらおっちゃん(叔父)と一緒に日立においで。美味しい魚を食べに那珂湊へ行こう」と、私は返事をしたものです。 平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
私の心配は、自分の子供が生まれたら夢妃が可愛くなくなってしまうのでは、ということでした。そして、恵の両親は俺の子供を可愛がってくれるのか。そんな取り留めのない話を、妻と繰り返ししたのを覚えています。私は出産の立ち会いを希望し、「父親教室」にも通い、検診にも付き添いました。平成22年8月23日、こうして長男・幸虎(たから)が生まれたのです。私は本当に、うれしかった。 この1年半前、つまり私が恵と出会う3カ月ほど前、私は63歳で父を亡くしていましたから。父は大型トレーラーの運転手で、同居していた父の弟も同じ会社でトラックの運転手。家には車のおもちゃが溢れていて、私も将来は運転手か整備士になりたいと口にしていました。 遅くに授かった子で一人っ子でしたので、父は「ハチミツに砂糖をかけたくらい甘い」と母に叱られていました。ろくに勉強もせず、バイクを乗り回しては停学、喫煙が見つかっては停学を繰り返していた私は高校を中退。親の脛をかじりながら、車のブローカーやパチンコ屋の「サクラ」などをしてぷらぷらしていたのです。 父の癌が見つかったのはそのような時です。ステージIVAの直腸癌でした。母によれば、最後まで父は私の身を気にかけていて、「育て方を間違えたか」「心配だ」と口にしていたそうです。このまま八街にいてもまともになれない。半ば逃げるような気持ちで茨城に来たのは、このすぐ後です。少なくとも今、私は仕事を持ち、家族ができた。だから初めての子供に、父の名の1文字をどうしても託したかった。調べていると「幸」に「たか」の読みがある。干支が寅だったので、虎のようにたくましくと、「幸虎」と名付けたのです。無免許運転で逮捕、収監 ところが幸虎が生まれてひと月後、私は無免許運転で逮捕されました。4年前に千葉で事故を起こし、執行猶予中だった私は在宅で起訴され、栃木県の黒羽刑務所に収監されました。妻は両親には「夫は出張中」と嘘をついていたようです。日立から黒羽までは小さい子を乗せ下道を行けば、3時間はかかります。ミルクやオムツ交換もある。幸虎を連れ、妻はよく面会に来てくれた。毎日のように手紙をくれて、出所する頃には200通近くになりました。 収監されて半年後に起きたのが東日本大震災でした。黒羽刑務所もかなり長い時間揺れ、揺れが止まるとヘルメットをかぶった刑務官たちが見回りにきた。ただし、外があんなことになっていると知ったのは、翌日流れたラジオからです。私たちのアパートは高台にあったのですが妻の実家は海側で、これは確実にまずい。妻や子供たちが実家にいた可能性も拭えない。新聞の死亡者欄に名前はないか、確かめる日が続きました。同室には岩手や宮城の出身者もいて、知人の名を見つけ、涙する人もいましたから。「全員大丈夫だから」という妻の手紙が届いたのは、10日ほど経った頃でした。妻は隣町の病院に勤め、二人の子供は保育園に預けていた。その日、普段なら車で30分のところ、国道は津波で通行止め、山道も崩れ、4時間かけて保育園に向かったそうです。園児たちは近くの小学校に避難していて、夢妃と幸虎、二人の顔を見るまで、生きた心地がしなかったと綴っていました。 4カ月後、1カ月半の仮釈放をもらい、私は出所しました。7月12日です。幸虎は私が入所した時には首も据わっていなかったのに、「もうすぐ歩くのでは」と思うほど成長していて、驚いた記憶があります。「真面目になるから」と妻に詫び、私は水道工事の仕事に就きました。ただ運転免許がないので日給が7千円。月に14万円にしかならなかった。それも仕方がないと考えていましたが、一人親方のその会社は集金が遅れがちとかで、給料も滞るようになりました。 妻と相談して、結局その会社は辞めました。母や千葉の友人に借金し、何とか暮らしていたのがこの時期です。まだ入籍していなかったので母子手当と児童手当も受給していたのですが、それも生活費に回していました。パチンコ屋に通い、勝ったら5万、10万と恵に渡すという日々が半年ほど続きましたが、建設現場の仕事を紹介され、給料は1日1万1千円になりました。次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族に 2カ月が経った頃、妻のお腹に子供がいるのが分かります。こうして平成24年9月6日の早朝に生まれたのが、次男・龍煌(りゅあ)です。長男が虎だったので、次男にも干支の龍を付けました。 子供も3人と家族も増え、生活はきつかったけれども、楽しかった。給料日前は「あまり予算がないから」と、近所の市営動物園を利用しました。子供の入場料は100円で、ライオンもキリンもカバもいて、動物好きの子供たちには充分でした。夢妃も小学1年になっていて、弟たちの面倒を何かと見たがったものです。 しかし、それまでのツケはどうしようもなく膨らんでいたのでした。アパートの家賃の支払次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族にいが少しずつ遅れ、携帯電話の使用料も不通になる寸前で振り込む繰り返し。二ヵ月にいっぺんの市からの手当で、その場は何とか持ち直す。仕事で世話になっている知人には、よくこう言われました。「前借りはかまわない。でも今月三万足りないってことは、来月六万足りなくなるんだぞ」 私はどこか、開き直っていたのかもしれません。そのうち、同居しているのを市に知られ、母子手当も停止されました。こうして2カ月に1度入っていた20万円の手当は、一切入らなくなりました。記憶を辿ってみれば、私たちは当時、一番ケンカをしていたように思います。 最初は妻のことをおとなしい子と見ていました。でも、1年も経つと、私に身体ごと向かってくるようになっていた。妻は中学時代、柔道を習っていて、146センチと小柄なのに、172センチで体重100キロの私を投げる。一方、私も手を出すようになっていました。ただ、その後は反省し、そのようなケンカはなくなりましたが、事件後、「DV夫だった」とマスコミには書かれます。授かった双子の男の子 「頼瑠(らいる)と澪瑠(れいる)」 そのような日々を送る中、授かったのが双子の男の子だったのです。私はすぐに新聞配達のアルバイトを始めました。夜中1時には販売店に出勤し、300世帯分の朝刊を組み、早朝、順路帳を頼りに一軒一軒配達して歩きました。朝5時頃いったん帰宅し、昼間の仕事に向かう。1カ月後、合わせて30万円以上の給料が手に入り、「これなら何とかなる」、心強く思ったものです。 母が胃癌だと分かったのは、ちょうどその頃です。父が亡くなって実家のローンがきつくなり、母は叔父と八街を離れ、四街道のアパートで暮らしていました。育った家もなくなって、私もめったに帰省せず、電話で話せば口ゲンカばかり。母からの電話にも居留守を使うようになっていた。「お母さん、手術したからな」という叔父からの電話で、初めて知りました。 母は少し痩せていました。でも元気そうで、「胃を全部取ったから、少しずつしか食べられないんだ」と口にしていました。ほどなくして母は退院し、「あれが食べたい、これが食べたい」とメールしてくるようになった。「元気になったらおっちゃん(叔父)と一緒に日立においで。美味しい魚を食べに那珂湊へ行こう」と、私は返事をしたものです。 平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
この1年半前、つまり私が恵と出会う3カ月ほど前、私は63歳で父を亡くしていましたから。父は大型トレーラーの運転手で、同居していた父の弟も同じ会社でトラックの運転手。家には車のおもちゃが溢れていて、私も将来は運転手か整備士になりたいと口にしていました。 遅くに授かった子で一人っ子でしたので、父は「ハチミツに砂糖をかけたくらい甘い」と母に叱られていました。ろくに勉強もせず、バイクを乗り回しては停学、喫煙が見つかっては停学を繰り返していた私は高校を中退。親の脛をかじりながら、車のブローカーやパチンコ屋の「サクラ」などをしてぷらぷらしていたのです。 父の癌が見つかったのはそのような時です。ステージIVAの直腸癌でした。母によれば、最後まで父は私の身を気にかけていて、「育て方を間違えたか」「心配だ」と口にしていたそうです。このまま八街にいてもまともになれない。半ば逃げるような気持ちで茨城に来たのは、このすぐ後です。少なくとも今、私は仕事を持ち、家族ができた。だから初めての子供に、父の名の1文字をどうしても託したかった。調べていると「幸」に「たか」の読みがある。干支が寅だったので、虎のようにたくましくと、「幸虎」と名付けたのです。無免許運転で逮捕、収監 ところが幸虎が生まれてひと月後、私は無免許運転で逮捕されました。4年前に千葉で事故を起こし、執行猶予中だった私は在宅で起訴され、栃木県の黒羽刑務所に収監されました。妻は両親には「夫は出張中」と嘘をついていたようです。日立から黒羽までは小さい子を乗せ下道を行けば、3時間はかかります。ミルクやオムツ交換もある。幸虎を連れ、妻はよく面会に来てくれた。毎日のように手紙をくれて、出所する頃には200通近くになりました。 収監されて半年後に起きたのが東日本大震災でした。黒羽刑務所もかなり長い時間揺れ、揺れが止まるとヘルメットをかぶった刑務官たちが見回りにきた。ただし、外があんなことになっていると知ったのは、翌日流れたラジオからです。私たちのアパートは高台にあったのですが妻の実家は海側で、これは確実にまずい。妻や子供たちが実家にいた可能性も拭えない。新聞の死亡者欄に名前はないか、確かめる日が続きました。同室には岩手や宮城の出身者もいて、知人の名を見つけ、涙する人もいましたから。「全員大丈夫だから」という妻の手紙が届いたのは、10日ほど経った頃でした。妻は隣町の病院に勤め、二人の子供は保育園に預けていた。その日、普段なら車で30分のところ、国道は津波で通行止め、山道も崩れ、4時間かけて保育園に向かったそうです。園児たちは近くの小学校に避難していて、夢妃と幸虎、二人の顔を見るまで、生きた心地がしなかったと綴っていました。 4カ月後、1カ月半の仮釈放をもらい、私は出所しました。7月12日です。幸虎は私が入所した時には首も据わっていなかったのに、「もうすぐ歩くのでは」と思うほど成長していて、驚いた記憶があります。「真面目になるから」と妻に詫び、私は水道工事の仕事に就きました。ただ運転免許がないので日給が7千円。月に14万円にしかならなかった。それも仕方がないと考えていましたが、一人親方のその会社は集金が遅れがちとかで、給料も滞るようになりました。 妻と相談して、結局その会社は辞めました。母や千葉の友人に借金し、何とか暮らしていたのがこの時期です。まだ入籍していなかったので母子手当と児童手当も受給していたのですが、それも生活費に回していました。パチンコ屋に通い、勝ったら5万、10万と恵に渡すという日々が半年ほど続きましたが、建設現場の仕事を紹介され、給料は1日1万1千円になりました。次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族に 2カ月が経った頃、妻のお腹に子供がいるのが分かります。こうして平成24年9月6日の早朝に生まれたのが、次男・龍煌(りゅあ)です。長男が虎だったので、次男にも干支の龍を付けました。 子供も3人と家族も増え、生活はきつかったけれども、楽しかった。給料日前は「あまり予算がないから」と、近所の市営動物園を利用しました。子供の入場料は100円で、ライオンもキリンもカバもいて、動物好きの子供たちには充分でした。夢妃も小学1年になっていて、弟たちの面倒を何かと見たがったものです。 しかし、それまでのツケはどうしようもなく膨らんでいたのでした。アパートの家賃の支払次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族にいが少しずつ遅れ、携帯電話の使用料も不通になる寸前で振り込む繰り返し。二ヵ月にいっぺんの市からの手当で、その場は何とか持ち直す。仕事で世話になっている知人には、よくこう言われました。「前借りはかまわない。でも今月三万足りないってことは、来月六万足りなくなるんだぞ」 私はどこか、開き直っていたのかもしれません。そのうち、同居しているのを市に知られ、母子手当も停止されました。こうして2カ月に1度入っていた20万円の手当は、一切入らなくなりました。記憶を辿ってみれば、私たちは当時、一番ケンカをしていたように思います。 最初は妻のことをおとなしい子と見ていました。でも、1年も経つと、私に身体ごと向かってくるようになっていた。妻は中学時代、柔道を習っていて、146センチと小柄なのに、172センチで体重100キロの私を投げる。一方、私も手を出すようになっていました。ただ、その後は反省し、そのようなケンカはなくなりましたが、事件後、「DV夫だった」とマスコミには書かれます。授かった双子の男の子 「頼瑠(らいる)と澪瑠(れいる)」 そのような日々を送る中、授かったのが双子の男の子だったのです。私はすぐに新聞配達のアルバイトを始めました。夜中1時には販売店に出勤し、300世帯分の朝刊を組み、早朝、順路帳を頼りに一軒一軒配達して歩きました。朝5時頃いったん帰宅し、昼間の仕事に向かう。1カ月後、合わせて30万円以上の給料が手に入り、「これなら何とかなる」、心強く思ったものです。 母が胃癌だと分かったのは、ちょうどその頃です。父が亡くなって実家のローンがきつくなり、母は叔父と八街を離れ、四街道のアパートで暮らしていました。育った家もなくなって、私もめったに帰省せず、電話で話せば口ゲンカばかり。母からの電話にも居留守を使うようになっていた。「お母さん、手術したからな」という叔父からの電話で、初めて知りました。 母は少し痩せていました。でも元気そうで、「胃を全部取ったから、少しずつしか食べられないんだ」と口にしていました。ほどなくして母は退院し、「あれが食べたい、これが食べたい」とメールしてくるようになった。「元気になったらおっちゃん(叔父)と一緒に日立においで。美味しい魚を食べに那珂湊へ行こう」と、私は返事をしたものです。 平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
遅くに授かった子で一人っ子でしたので、父は「ハチミツに砂糖をかけたくらい甘い」と母に叱られていました。ろくに勉強もせず、バイクを乗り回しては停学、喫煙が見つかっては停学を繰り返していた私は高校を中退。親の脛をかじりながら、車のブローカーやパチンコ屋の「サクラ」などをしてぷらぷらしていたのです。 父の癌が見つかったのはそのような時です。ステージIVAの直腸癌でした。母によれば、最後まで父は私の身を気にかけていて、「育て方を間違えたか」「心配だ」と口にしていたそうです。このまま八街にいてもまともになれない。半ば逃げるような気持ちで茨城に来たのは、このすぐ後です。少なくとも今、私は仕事を持ち、家族ができた。だから初めての子供に、父の名の1文字をどうしても託したかった。調べていると「幸」に「たか」の読みがある。干支が寅だったので、虎のようにたくましくと、「幸虎」と名付けたのです。無免許運転で逮捕、収監 ところが幸虎が生まれてひと月後、私は無免許運転で逮捕されました。4年前に千葉で事故を起こし、執行猶予中だった私は在宅で起訴され、栃木県の黒羽刑務所に収監されました。妻は両親には「夫は出張中」と嘘をついていたようです。日立から黒羽までは小さい子を乗せ下道を行けば、3時間はかかります。ミルクやオムツ交換もある。幸虎を連れ、妻はよく面会に来てくれた。毎日のように手紙をくれて、出所する頃には200通近くになりました。 収監されて半年後に起きたのが東日本大震災でした。黒羽刑務所もかなり長い時間揺れ、揺れが止まるとヘルメットをかぶった刑務官たちが見回りにきた。ただし、外があんなことになっていると知ったのは、翌日流れたラジオからです。私たちのアパートは高台にあったのですが妻の実家は海側で、これは確実にまずい。妻や子供たちが実家にいた可能性も拭えない。新聞の死亡者欄に名前はないか、確かめる日が続きました。同室には岩手や宮城の出身者もいて、知人の名を見つけ、涙する人もいましたから。「全員大丈夫だから」という妻の手紙が届いたのは、10日ほど経った頃でした。妻は隣町の病院に勤め、二人の子供は保育園に預けていた。その日、普段なら車で30分のところ、国道は津波で通行止め、山道も崩れ、4時間かけて保育園に向かったそうです。園児たちは近くの小学校に避難していて、夢妃と幸虎、二人の顔を見るまで、生きた心地がしなかったと綴っていました。 4カ月後、1カ月半の仮釈放をもらい、私は出所しました。7月12日です。幸虎は私が入所した時には首も据わっていなかったのに、「もうすぐ歩くのでは」と思うほど成長していて、驚いた記憶があります。「真面目になるから」と妻に詫び、私は水道工事の仕事に就きました。ただ運転免許がないので日給が7千円。月に14万円にしかならなかった。それも仕方がないと考えていましたが、一人親方のその会社は集金が遅れがちとかで、給料も滞るようになりました。 妻と相談して、結局その会社は辞めました。母や千葉の友人に借金し、何とか暮らしていたのがこの時期です。まだ入籍していなかったので母子手当と児童手当も受給していたのですが、それも生活費に回していました。パチンコ屋に通い、勝ったら5万、10万と恵に渡すという日々が半年ほど続きましたが、建設現場の仕事を紹介され、給料は1日1万1千円になりました。次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族に 2カ月が経った頃、妻のお腹に子供がいるのが分かります。こうして平成24年9月6日の早朝に生まれたのが、次男・龍煌(りゅあ)です。長男が虎だったので、次男にも干支の龍を付けました。 子供も3人と家族も増え、生活はきつかったけれども、楽しかった。給料日前は「あまり予算がないから」と、近所の市営動物園を利用しました。子供の入場料は100円で、ライオンもキリンもカバもいて、動物好きの子供たちには充分でした。夢妃も小学1年になっていて、弟たちの面倒を何かと見たがったものです。 しかし、それまでのツケはどうしようもなく膨らんでいたのでした。アパートの家賃の支払次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族にいが少しずつ遅れ、携帯電話の使用料も不通になる寸前で振り込む繰り返し。二ヵ月にいっぺんの市からの手当で、その場は何とか持ち直す。仕事で世話になっている知人には、よくこう言われました。「前借りはかまわない。でも今月三万足りないってことは、来月六万足りなくなるんだぞ」 私はどこか、開き直っていたのかもしれません。そのうち、同居しているのを市に知られ、母子手当も停止されました。こうして2カ月に1度入っていた20万円の手当は、一切入らなくなりました。記憶を辿ってみれば、私たちは当時、一番ケンカをしていたように思います。 最初は妻のことをおとなしい子と見ていました。でも、1年も経つと、私に身体ごと向かってくるようになっていた。妻は中学時代、柔道を習っていて、146センチと小柄なのに、172センチで体重100キロの私を投げる。一方、私も手を出すようになっていました。ただ、その後は反省し、そのようなケンカはなくなりましたが、事件後、「DV夫だった」とマスコミには書かれます。授かった双子の男の子 「頼瑠(らいる)と澪瑠(れいる)」 そのような日々を送る中、授かったのが双子の男の子だったのです。私はすぐに新聞配達のアルバイトを始めました。夜中1時には販売店に出勤し、300世帯分の朝刊を組み、早朝、順路帳を頼りに一軒一軒配達して歩きました。朝5時頃いったん帰宅し、昼間の仕事に向かう。1カ月後、合わせて30万円以上の給料が手に入り、「これなら何とかなる」、心強く思ったものです。 母が胃癌だと分かったのは、ちょうどその頃です。父が亡くなって実家のローンがきつくなり、母は叔父と八街を離れ、四街道のアパートで暮らしていました。育った家もなくなって、私もめったに帰省せず、電話で話せば口ゲンカばかり。母からの電話にも居留守を使うようになっていた。「お母さん、手術したからな」という叔父からの電話で、初めて知りました。 母は少し痩せていました。でも元気そうで、「胃を全部取ったから、少しずつしか食べられないんだ」と口にしていました。ほどなくして母は退院し、「あれが食べたい、これが食べたい」とメールしてくるようになった。「元気になったらおっちゃん(叔父)と一緒に日立においで。美味しい魚を食べに那珂湊へ行こう」と、私は返事をしたものです。 平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
父の癌が見つかったのはそのような時です。ステージIVAの直腸癌でした。母によれば、最後まで父は私の身を気にかけていて、「育て方を間違えたか」「心配だ」と口にしていたそうです。このまま八街にいてもまともになれない。半ば逃げるような気持ちで茨城に来たのは、このすぐ後です。少なくとも今、私は仕事を持ち、家族ができた。だから初めての子供に、父の名の1文字をどうしても託したかった。調べていると「幸」に「たか」の読みがある。干支が寅だったので、虎のようにたくましくと、「幸虎」と名付けたのです。無免許運転で逮捕、収監 ところが幸虎が生まれてひと月後、私は無免許運転で逮捕されました。4年前に千葉で事故を起こし、執行猶予中だった私は在宅で起訴され、栃木県の黒羽刑務所に収監されました。妻は両親には「夫は出張中」と嘘をついていたようです。日立から黒羽までは小さい子を乗せ下道を行けば、3時間はかかります。ミルクやオムツ交換もある。幸虎を連れ、妻はよく面会に来てくれた。毎日のように手紙をくれて、出所する頃には200通近くになりました。 収監されて半年後に起きたのが東日本大震災でした。黒羽刑務所もかなり長い時間揺れ、揺れが止まるとヘルメットをかぶった刑務官たちが見回りにきた。ただし、外があんなことになっていると知ったのは、翌日流れたラジオからです。私たちのアパートは高台にあったのですが妻の実家は海側で、これは確実にまずい。妻や子供たちが実家にいた可能性も拭えない。新聞の死亡者欄に名前はないか、確かめる日が続きました。同室には岩手や宮城の出身者もいて、知人の名を見つけ、涙する人もいましたから。「全員大丈夫だから」という妻の手紙が届いたのは、10日ほど経った頃でした。妻は隣町の病院に勤め、二人の子供は保育園に預けていた。その日、普段なら車で30分のところ、国道は津波で通行止め、山道も崩れ、4時間かけて保育園に向かったそうです。園児たちは近くの小学校に避難していて、夢妃と幸虎、二人の顔を見るまで、生きた心地がしなかったと綴っていました。 4カ月後、1カ月半の仮釈放をもらい、私は出所しました。7月12日です。幸虎は私が入所した時には首も据わっていなかったのに、「もうすぐ歩くのでは」と思うほど成長していて、驚いた記憶があります。「真面目になるから」と妻に詫び、私は水道工事の仕事に就きました。ただ運転免許がないので日給が7千円。月に14万円にしかならなかった。それも仕方がないと考えていましたが、一人親方のその会社は集金が遅れがちとかで、給料も滞るようになりました。 妻と相談して、結局その会社は辞めました。母や千葉の友人に借金し、何とか暮らしていたのがこの時期です。まだ入籍していなかったので母子手当と児童手当も受給していたのですが、それも生活費に回していました。パチンコ屋に通い、勝ったら5万、10万と恵に渡すという日々が半年ほど続きましたが、建設現場の仕事を紹介され、給料は1日1万1千円になりました。次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族に 2カ月が経った頃、妻のお腹に子供がいるのが分かります。こうして平成24年9月6日の早朝に生まれたのが、次男・龍煌(りゅあ)です。長男が虎だったので、次男にも干支の龍を付けました。 子供も3人と家族も増え、生活はきつかったけれども、楽しかった。給料日前は「あまり予算がないから」と、近所の市営動物園を利用しました。子供の入場料は100円で、ライオンもキリンもカバもいて、動物好きの子供たちには充分でした。夢妃も小学1年になっていて、弟たちの面倒を何かと見たがったものです。 しかし、それまでのツケはどうしようもなく膨らんでいたのでした。アパートの家賃の支払次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族にいが少しずつ遅れ、携帯電話の使用料も不通になる寸前で振り込む繰り返し。二ヵ月にいっぺんの市からの手当で、その場は何とか持ち直す。仕事で世話になっている知人には、よくこう言われました。「前借りはかまわない。でも今月三万足りないってことは、来月六万足りなくなるんだぞ」 私はどこか、開き直っていたのかもしれません。そのうち、同居しているのを市に知られ、母子手当も停止されました。こうして2カ月に1度入っていた20万円の手当は、一切入らなくなりました。記憶を辿ってみれば、私たちは当時、一番ケンカをしていたように思います。 最初は妻のことをおとなしい子と見ていました。でも、1年も経つと、私に身体ごと向かってくるようになっていた。妻は中学時代、柔道を習っていて、146センチと小柄なのに、172センチで体重100キロの私を投げる。一方、私も手を出すようになっていました。ただ、その後は反省し、そのようなケンカはなくなりましたが、事件後、「DV夫だった」とマスコミには書かれます。授かった双子の男の子 「頼瑠(らいる)と澪瑠(れいる)」 そのような日々を送る中、授かったのが双子の男の子だったのです。私はすぐに新聞配達のアルバイトを始めました。夜中1時には販売店に出勤し、300世帯分の朝刊を組み、早朝、順路帳を頼りに一軒一軒配達して歩きました。朝5時頃いったん帰宅し、昼間の仕事に向かう。1カ月後、合わせて30万円以上の給料が手に入り、「これなら何とかなる」、心強く思ったものです。 母が胃癌だと分かったのは、ちょうどその頃です。父が亡くなって実家のローンがきつくなり、母は叔父と八街を離れ、四街道のアパートで暮らしていました。育った家もなくなって、私もめったに帰省せず、電話で話せば口ゲンカばかり。母からの電話にも居留守を使うようになっていた。「お母さん、手術したからな」という叔父からの電話で、初めて知りました。 母は少し痩せていました。でも元気そうで、「胃を全部取ったから、少しずつしか食べられないんだ」と口にしていました。ほどなくして母は退院し、「あれが食べたい、これが食べたい」とメールしてくるようになった。「元気になったらおっちゃん(叔父)と一緒に日立においで。美味しい魚を食べに那珂湊へ行こう」と、私は返事をしたものです。 平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
ところが幸虎が生まれてひと月後、私は無免許運転で逮捕されました。4年前に千葉で事故を起こし、執行猶予中だった私は在宅で起訴され、栃木県の黒羽刑務所に収監されました。妻は両親には「夫は出張中」と嘘をついていたようです。日立から黒羽までは小さい子を乗せ下道を行けば、3時間はかかります。ミルクやオムツ交換もある。幸虎を連れ、妻はよく面会に来てくれた。毎日のように手紙をくれて、出所する頃には200通近くになりました。 収監されて半年後に起きたのが東日本大震災でした。黒羽刑務所もかなり長い時間揺れ、揺れが止まるとヘルメットをかぶった刑務官たちが見回りにきた。ただし、外があんなことになっていると知ったのは、翌日流れたラジオからです。私たちのアパートは高台にあったのですが妻の実家は海側で、これは確実にまずい。妻や子供たちが実家にいた可能性も拭えない。新聞の死亡者欄に名前はないか、確かめる日が続きました。同室には岩手や宮城の出身者もいて、知人の名を見つけ、涙する人もいましたから。「全員大丈夫だから」という妻の手紙が届いたのは、10日ほど経った頃でした。妻は隣町の病院に勤め、二人の子供は保育園に預けていた。その日、普段なら車で30分のところ、国道は津波で通行止め、山道も崩れ、4時間かけて保育園に向かったそうです。園児たちは近くの小学校に避難していて、夢妃と幸虎、二人の顔を見るまで、生きた心地がしなかったと綴っていました。 4カ月後、1カ月半の仮釈放をもらい、私は出所しました。7月12日です。幸虎は私が入所した時には首も据わっていなかったのに、「もうすぐ歩くのでは」と思うほど成長していて、驚いた記憶があります。「真面目になるから」と妻に詫び、私は水道工事の仕事に就きました。ただ運転免許がないので日給が7千円。月に14万円にしかならなかった。それも仕方がないと考えていましたが、一人親方のその会社は集金が遅れがちとかで、給料も滞るようになりました。 妻と相談して、結局その会社は辞めました。母や千葉の友人に借金し、何とか暮らしていたのがこの時期です。まだ入籍していなかったので母子手当と児童手当も受給していたのですが、それも生活費に回していました。パチンコ屋に通い、勝ったら5万、10万と恵に渡すという日々が半年ほど続きましたが、建設現場の仕事を紹介され、給料は1日1万1千円になりました。次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族に 2カ月が経った頃、妻のお腹に子供がいるのが分かります。こうして平成24年9月6日の早朝に生まれたのが、次男・龍煌(りゅあ)です。長男が虎だったので、次男にも干支の龍を付けました。 子供も3人と家族も増え、生活はきつかったけれども、楽しかった。給料日前は「あまり予算がないから」と、近所の市営動物園を利用しました。子供の入場料は100円で、ライオンもキリンもカバもいて、動物好きの子供たちには充分でした。夢妃も小学1年になっていて、弟たちの面倒を何かと見たがったものです。 しかし、それまでのツケはどうしようもなく膨らんでいたのでした。アパートの家賃の支払次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族にいが少しずつ遅れ、携帯電話の使用料も不通になる寸前で振り込む繰り返し。二ヵ月にいっぺんの市からの手当で、その場は何とか持ち直す。仕事で世話になっている知人には、よくこう言われました。「前借りはかまわない。でも今月三万足りないってことは、来月六万足りなくなるんだぞ」 私はどこか、開き直っていたのかもしれません。そのうち、同居しているのを市に知られ、母子手当も停止されました。こうして2カ月に1度入っていた20万円の手当は、一切入らなくなりました。記憶を辿ってみれば、私たちは当時、一番ケンカをしていたように思います。 最初は妻のことをおとなしい子と見ていました。でも、1年も経つと、私に身体ごと向かってくるようになっていた。妻は中学時代、柔道を習っていて、146センチと小柄なのに、172センチで体重100キロの私を投げる。一方、私も手を出すようになっていました。ただ、その後は反省し、そのようなケンカはなくなりましたが、事件後、「DV夫だった」とマスコミには書かれます。授かった双子の男の子 「頼瑠(らいる)と澪瑠(れいる)」 そのような日々を送る中、授かったのが双子の男の子だったのです。私はすぐに新聞配達のアルバイトを始めました。夜中1時には販売店に出勤し、300世帯分の朝刊を組み、早朝、順路帳を頼りに一軒一軒配達して歩きました。朝5時頃いったん帰宅し、昼間の仕事に向かう。1カ月後、合わせて30万円以上の給料が手に入り、「これなら何とかなる」、心強く思ったものです。 母が胃癌だと分かったのは、ちょうどその頃です。父が亡くなって実家のローンがきつくなり、母は叔父と八街を離れ、四街道のアパートで暮らしていました。育った家もなくなって、私もめったに帰省せず、電話で話せば口ゲンカばかり。母からの電話にも居留守を使うようになっていた。「お母さん、手術したからな」という叔父からの電話で、初めて知りました。 母は少し痩せていました。でも元気そうで、「胃を全部取ったから、少しずつしか食べられないんだ」と口にしていました。ほどなくして母は退院し、「あれが食べたい、これが食べたい」とメールしてくるようになった。「元気になったらおっちゃん(叔父)と一緒に日立においで。美味しい魚を食べに那珂湊へ行こう」と、私は返事をしたものです。 平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
収監されて半年後に起きたのが東日本大震災でした。黒羽刑務所もかなり長い時間揺れ、揺れが止まるとヘルメットをかぶった刑務官たちが見回りにきた。ただし、外があんなことになっていると知ったのは、翌日流れたラジオからです。私たちのアパートは高台にあったのですが妻の実家は海側で、これは確実にまずい。妻や子供たちが実家にいた可能性も拭えない。新聞の死亡者欄に名前はないか、確かめる日が続きました。同室には岩手や宮城の出身者もいて、知人の名を見つけ、涙する人もいましたから。「全員大丈夫だから」という妻の手紙が届いたのは、10日ほど経った頃でした。妻は隣町の病院に勤め、二人の子供は保育園に預けていた。その日、普段なら車で30分のところ、国道は津波で通行止め、山道も崩れ、4時間かけて保育園に向かったそうです。園児たちは近くの小学校に避難していて、夢妃と幸虎、二人の顔を見るまで、生きた心地がしなかったと綴っていました。 4カ月後、1カ月半の仮釈放をもらい、私は出所しました。7月12日です。幸虎は私が入所した時には首も据わっていなかったのに、「もうすぐ歩くのでは」と思うほど成長していて、驚いた記憶があります。「真面目になるから」と妻に詫び、私は水道工事の仕事に就きました。ただ運転免許がないので日給が7千円。月に14万円にしかならなかった。それも仕方がないと考えていましたが、一人親方のその会社は集金が遅れがちとかで、給料も滞るようになりました。 妻と相談して、結局その会社は辞めました。母や千葉の友人に借金し、何とか暮らしていたのがこの時期です。まだ入籍していなかったので母子手当と児童手当も受給していたのですが、それも生活費に回していました。パチンコ屋に通い、勝ったら5万、10万と恵に渡すという日々が半年ほど続きましたが、建設現場の仕事を紹介され、給料は1日1万1千円になりました。次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族に 2カ月が経った頃、妻のお腹に子供がいるのが分かります。こうして平成24年9月6日の早朝に生まれたのが、次男・龍煌(りゅあ)です。長男が虎だったので、次男にも干支の龍を付けました。 子供も3人と家族も増え、生活はきつかったけれども、楽しかった。給料日前は「あまり予算がないから」と、近所の市営動物園を利用しました。子供の入場料は100円で、ライオンもキリンもカバもいて、動物好きの子供たちには充分でした。夢妃も小学1年になっていて、弟たちの面倒を何かと見たがったものです。 しかし、それまでのツケはどうしようもなく膨らんでいたのでした。アパートの家賃の支払次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族にいが少しずつ遅れ、携帯電話の使用料も不通になる寸前で振り込む繰り返し。二ヵ月にいっぺんの市からの手当で、その場は何とか持ち直す。仕事で世話になっている知人には、よくこう言われました。「前借りはかまわない。でも今月三万足りないってことは、来月六万足りなくなるんだぞ」 私はどこか、開き直っていたのかもしれません。そのうち、同居しているのを市に知られ、母子手当も停止されました。こうして2カ月に1度入っていた20万円の手当は、一切入らなくなりました。記憶を辿ってみれば、私たちは当時、一番ケンカをしていたように思います。 最初は妻のことをおとなしい子と見ていました。でも、1年も経つと、私に身体ごと向かってくるようになっていた。妻は中学時代、柔道を習っていて、146センチと小柄なのに、172センチで体重100キロの私を投げる。一方、私も手を出すようになっていました。ただ、その後は反省し、そのようなケンカはなくなりましたが、事件後、「DV夫だった」とマスコミには書かれます。授かった双子の男の子 「頼瑠(らいる)と澪瑠(れいる)」 そのような日々を送る中、授かったのが双子の男の子だったのです。私はすぐに新聞配達のアルバイトを始めました。夜中1時には販売店に出勤し、300世帯分の朝刊を組み、早朝、順路帳を頼りに一軒一軒配達して歩きました。朝5時頃いったん帰宅し、昼間の仕事に向かう。1カ月後、合わせて30万円以上の給料が手に入り、「これなら何とかなる」、心強く思ったものです。 母が胃癌だと分かったのは、ちょうどその頃です。父が亡くなって実家のローンがきつくなり、母は叔父と八街を離れ、四街道のアパートで暮らしていました。育った家もなくなって、私もめったに帰省せず、電話で話せば口ゲンカばかり。母からの電話にも居留守を使うようになっていた。「お母さん、手術したからな」という叔父からの電話で、初めて知りました。 母は少し痩せていました。でも元気そうで、「胃を全部取ったから、少しずつしか食べられないんだ」と口にしていました。ほどなくして母は退院し、「あれが食べたい、これが食べたい」とメールしてくるようになった。「元気になったらおっちゃん(叔父)と一緒に日立においで。美味しい魚を食べに那珂湊へ行こう」と、私は返事をしたものです。 平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
「全員大丈夫だから」という妻の手紙が届いたのは、10日ほど経った頃でした。妻は隣町の病院に勤め、二人の子供は保育園に預けていた。その日、普段なら車で30分のところ、国道は津波で通行止め、山道も崩れ、4時間かけて保育園に向かったそうです。園児たちは近くの小学校に避難していて、夢妃と幸虎、二人の顔を見るまで、生きた心地がしなかったと綴っていました。 4カ月後、1カ月半の仮釈放をもらい、私は出所しました。7月12日です。幸虎は私が入所した時には首も据わっていなかったのに、「もうすぐ歩くのでは」と思うほど成長していて、驚いた記憶があります。「真面目になるから」と妻に詫び、私は水道工事の仕事に就きました。ただ運転免許がないので日給が7千円。月に14万円にしかならなかった。それも仕方がないと考えていましたが、一人親方のその会社は集金が遅れがちとかで、給料も滞るようになりました。 妻と相談して、結局その会社は辞めました。母や千葉の友人に借金し、何とか暮らしていたのがこの時期です。まだ入籍していなかったので母子手当と児童手当も受給していたのですが、それも生活費に回していました。パチンコ屋に通い、勝ったら5万、10万と恵に渡すという日々が半年ほど続きましたが、建設現場の仕事を紹介され、給料は1日1万1千円になりました。次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族に 2カ月が経った頃、妻のお腹に子供がいるのが分かります。こうして平成24年9月6日の早朝に生まれたのが、次男・龍煌(りゅあ)です。長男が虎だったので、次男にも干支の龍を付けました。 子供も3人と家族も増え、生活はきつかったけれども、楽しかった。給料日前は「あまり予算がないから」と、近所の市営動物園を利用しました。子供の入場料は100円で、ライオンもキリンもカバもいて、動物好きの子供たちには充分でした。夢妃も小学1年になっていて、弟たちの面倒を何かと見たがったものです。 しかし、それまでのツケはどうしようもなく膨らんでいたのでした。アパートの家賃の支払次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族にいが少しずつ遅れ、携帯電話の使用料も不通になる寸前で振り込む繰り返し。二ヵ月にいっぺんの市からの手当で、その場は何とか持ち直す。仕事で世話になっている知人には、よくこう言われました。「前借りはかまわない。でも今月三万足りないってことは、来月六万足りなくなるんだぞ」 私はどこか、開き直っていたのかもしれません。そのうち、同居しているのを市に知られ、母子手当も停止されました。こうして2カ月に1度入っていた20万円の手当は、一切入らなくなりました。記憶を辿ってみれば、私たちは当時、一番ケンカをしていたように思います。 最初は妻のことをおとなしい子と見ていました。でも、1年も経つと、私に身体ごと向かってくるようになっていた。妻は中学時代、柔道を習っていて、146センチと小柄なのに、172センチで体重100キロの私を投げる。一方、私も手を出すようになっていました。ただ、その後は反省し、そのようなケンカはなくなりましたが、事件後、「DV夫だった」とマスコミには書かれます。授かった双子の男の子 「頼瑠(らいる)と澪瑠(れいる)」 そのような日々を送る中、授かったのが双子の男の子だったのです。私はすぐに新聞配達のアルバイトを始めました。夜中1時には販売店に出勤し、300世帯分の朝刊を組み、早朝、順路帳を頼りに一軒一軒配達して歩きました。朝5時頃いったん帰宅し、昼間の仕事に向かう。1カ月後、合わせて30万円以上の給料が手に入り、「これなら何とかなる」、心強く思ったものです。 母が胃癌だと分かったのは、ちょうどその頃です。父が亡くなって実家のローンがきつくなり、母は叔父と八街を離れ、四街道のアパートで暮らしていました。育った家もなくなって、私もめったに帰省せず、電話で話せば口ゲンカばかり。母からの電話にも居留守を使うようになっていた。「お母さん、手術したからな」という叔父からの電話で、初めて知りました。 母は少し痩せていました。でも元気そうで、「胃を全部取ったから、少しずつしか食べられないんだ」と口にしていました。ほどなくして母は退院し、「あれが食べたい、これが食べたい」とメールしてくるようになった。「元気になったらおっちゃん(叔父)と一緒に日立においで。美味しい魚を食べに那珂湊へ行こう」と、私は返事をしたものです。 平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
4カ月後、1カ月半の仮釈放をもらい、私は出所しました。7月12日です。幸虎は私が入所した時には首も据わっていなかったのに、「もうすぐ歩くのでは」と思うほど成長していて、驚いた記憶があります。「真面目になるから」と妻に詫び、私は水道工事の仕事に就きました。ただ運転免許がないので日給が7千円。月に14万円にしかならなかった。それも仕方がないと考えていましたが、一人親方のその会社は集金が遅れがちとかで、給料も滞るようになりました。 妻と相談して、結局その会社は辞めました。母や千葉の友人に借金し、何とか暮らしていたのがこの時期です。まだ入籍していなかったので母子手当と児童手当も受給していたのですが、それも生活費に回していました。パチンコ屋に通い、勝ったら5万、10万と恵に渡すという日々が半年ほど続きましたが、建設現場の仕事を紹介され、給料は1日1万1千円になりました。次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族に 2カ月が経った頃、妻のお腹に子供がいるのが分かります。こうして平成24年9月6日の早朝に生まれたのが、次男・龍煌(りゅあ)です。長男が虎だったので、次男にも干支の龍を付けました。 子供も3人と家族も増え、生活はきつかったけれども、楽しかった。給料日前は「あまり予算がないから」と、近所の市営動物園を利用しました。子供の入場料は100円で、ライオンもキリンもカバもいて、動物好きの子供たちには充分でした。夢妃も小学1年になっていて、弟たちの面倒を何かと見たがったものです。 しかし、それまでのツケはどうしようもなく膨らんでいたのでした。アパートの家賃の支払次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族にいが少しずつ遅れ、携帯電話の使用料も不通になる寸前で振り込む繰り返し。二ヵ月にいっぺんの市からの手当で、その場は何とか持ち直す。仕事で世話になっている知人には、よくこう言われました。「前借りはかまわない。でも今月三万足りないってことは、来月六万足りなくなるんだぞ」 私はどこか、開き直っていたのかもしれません。そのうち、同居しているのを市に知られ、母子手当も停止されました。こうして2カ月に1度入っていた20万円の手当は、一切入らなくなりました。記憶を辿ってみれば、私たちは当時、一番ケンカをしていたように思います。 最初は妻のことをおとなしい子と見ていました。でも、1年も経つと、私に身体ごと向かってくるようになっていた。妻は中学時代、柔道を習っていて、146センチと小柄なのに、172センチで体重100キロの私を投げる。一方、私も手を出すようになっていました。ただ、その後は反省し、そのようなケンカはなくなりましたが、事件後、「DV夫だった」とマスコミには書かれます。授かった双子の男の子 「頼瑠(らいる)と澪瑠(れいる)」 そのような日々を送る中、授かったのが双子の男の子だったのです。私はすぐに新聞配達のアルバイトを始めました。夜中1時には販売店に出勤し、300世帯分の朝刊を組み、早朝、順路帳を頼りに一軒一軒配達して歩きました。朝5時頃いったん帰宅し、昼間の仕事に向かう。1カ月後、合わせて30万円以上の給料が手に入り、「これなら何とかなる」、心強く思ったものです。 母が胃癌だと分かったのは、ちょうどその頃です。父が亡くなって実家のローンがきつくなり、母は叔父と八街を離れ、四街道のアパートで暮らしていました。育った家もなくなって、私もめったに帰省せず、電話で話せば口ゲンカばかり。母からの電話にも居留守を使うようになっていた。「お母さん、手術したからな」という叔父からの電話で、初めて知りました。 母は少し痩せていました。でも元気そうで、「胃を全部取ったから、少しずつしか食べられないんだ」と口にしていました。ほどなくして母は退院し、「あれが食べたい、これが食べたい」とメールしてくるようになった。「元気になったらおっちゃん(叔父)と一緒に日立においで。美味しい魚を食べに那珂湊へ行こう」と、私は返事をしたものです。 平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
妻と相談して、結局その会社は辞めました。母や千葉の友人に借金し、何とか暮らしていたのがこの時期です。まだ入籍していなかったので母子手当と児童手当も受給していたのですが、それも生活費に回していました。パチンコ屋に通い、勝ったら5万、10万と恵に渡すという日々が半年ほど続きましたが、建設現場の仕事を紹介され、給料は1日1万1千円になりました。次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族に 2カ月が経った頃、妻のお腹に子供がいるのが分かります。こうして平成24年9月6日の早朝に生まれたのが、次男・龍煌(りゅあ)です。長男が虎だったので、次男にも干支の龍を付けました。 子供も3人と家族も増え、生活はきつかったけれども、楽しかった。給料日前は「あまり予算がないから」と、近所の市営動物園を利用しました。子供の入場料は100円で、ライオンもキリンもカバもいて、動物好きの子供たちには充分でした。夢妃も小学1年になっていて、弟たちの面倒を何かと見たがったものです。 しかし、それまでのツケはどうしようもなく膨らんでいたのでした。アパートの家賃の支払次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族にいが少しずつ遅れ、携帯電話の使用料も不通になる寸前で振り込む繰り返し。二ヵ月にいっぺんの市からの手当で、その場は何とか持ち直す。仕事で世話になっている知人には、よくこう言われました。「前借りはかまわない。でも今月三万足りないってことは、来月六万足りなくなるんだぞ」 私はどこか、開き直っていたのかもしれません。そのうち、同居しているのを市に知られ、母子手当も停止されました。こうして2カ月に1度入っていた20万円の手当は、一切入らなくなりました。記憶を辿ってみれば、私たちは当時、一番ケンカをしていたように思います。 最初は妻のことをおとなしい子と見ていました。でも、1年も経つと、私に身体ごと向かってくるようになっていた。妻は中学時代、柔道を習っていて、146センチと小柄なのに、172センチで体重100キロの私を投げる。一方、私も手を出すようになっていました。ただ、その後は反省し、そのようなケンカはなくなりましたが、事件後、「DV夫だった」とマスコミには書かれます。授かった双子の男の子 「頼瑠(らいる)と澪瑠(れいる)」 そのような日々を送る中、授かったのが双子の男の子だったのです。私はすぐに新聞配達のアルバイトを始めました。夜中1時には販売店に出勤し、300世帯分の朝刊を組み、早朝、順路帳を頼りに一軒一軒配達して歩きました。朝5時頃いったん帰宅し、昼間の仕事に向かう。1カ月後、合わせて30万円以上の給料が手に入り、「これなら何とかなる」、心強く思ったものです。 母が胃癌だと分かったのは、ちょうどその頃です。父が亡くなって実家のローンがきつくなり、母は叔父と八街を離れ、四街道のアパートで暮らしていました。育った家もなくなって、私もめったに帰省せず、電話で話せば口ゲンカばかり。母からの電話にも居留守を使うようになっていた。「お母さん、手術したからな」という叔父からの電話で、初めて知りました。 母は少し痩せていました。でも元気そうで、「胃を全部取ったから、少しずつしか食べられないんだ」と口にしていました。ほどなくして母は退院し、「あれが食べたい、これが食べたい」とメールしてくるようになった。「元気になったらおっちゃん(叔父)と一緒に日立においで。美味しい魚を食べに那珂湊へ行こう」と、私は返事をしたものです。 平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
2カ月が経った頃、妻のお腹に子供がいるのが分かります。こうして平成24年9月6日の早朝に生まれたのが、次男・龍煌(りゅあ)です。長男が虎だったので、次男にも干支の龍を付けました。 子供も3人と家族も増え、生活はきつかったけれども、楽しかった。給料日前は「あまり予算がないから」と、近所の市営動物園を利用しました。子供の入場料は100円で、ライオンもキリンもカバもいて、動物好きの子供たちには充分でした。夢妃も小学1年になっていて、弟たちの面倒を何かと見たがったものです。 しかし、それまでのツケはどうしようもなく膨らんでいたのでした。アパートの家賃の支払次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族にいが少しずつ遅れ、携帯電話の使用料も不通になる寸前で振り込む繰り返し。二ヵ月にいっぺんの市からの手当で、その場は何とか持ち直す。仕事で世話になっている知人には、よくこう言われました。「前借りはかまわない。でも今月三万足りないってことは、来月六万足りなくなるんだぞ」 私はどこか、開き直っていたのかもしれません。そのうち、同居しているのを市に知られ、母子手当も停止されました。こうして2カ月に1度入っていた20万円の手当は、一切入らなくなりました。記憶を辿ってみれば、私たちは当時、一番ケンカをしていたように思います。 最初は妻のことをおとなしい子と見ていました。でも、1年も経つと、私に身体ごと向かってくるようになっていた。妻は中学時代、柔道を習っていて、146センチと小柄なのに、172センチで体重100キロの私を投げる。一方、私も手を出すようになっていました。ただ、その後は反省し、そのようなケンカはなくなりましたが、事件後、「DV夫だった」とマスコミには書かれます。授かった双子の男の子 「頼瑠(らいる)と澪瑠(れいる)」 そのような日々を送る中、授かったのが双子の男の子だったのです。私はすぐに新聞配達のアルバイトを始めました。夜中1時には販売店に出勤し、300世帯分の朝刊を組み、早朝、順路帳を頼りに一軒一軒配達して歩きました。朝5時頃いったん帰宅し、昼間の仕事に向かう。1カ月後、合わせて30万円以上の給料が手に入り、「これなら何とかなる」、心強く思ったものです。 母が胃癌だと分かったのは、ちょうどその頃です。父が亡くなって実家のローンがきつくなり、母は叔父と八街を離れ、四街道のアパートで暮らしていました。育った家もなくなって、私もめったに帰省せず、電話で話せば口ゲンカばかり。母からの電話にも居留守を使うようになっていた。「お母さん、手術したからな」という叔父からの電話で、初めて知りました。 母は少し痩せていました。でも元気そうで、「胃を全部取ったから、少しずつしか食べられないんだ」と口にしていました。ほどなくして母は退院し、「あれが食べたい、これが食べたい」とメールしてくるようになった。「元気になったらおっちゃん(叔父)と一緒に日立においで。美味しい魚を食べに那珂湊へ行こう」と、私は返事をしたものです。 平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
子供も3人と家族も増え、生活はきつかったけれども、楽しかった。給料日前は「あまり予算がないから」と、近所の市営動物園を利用しました。子供の入場料は100円で、ライオンもキリンもカバもいて、動物好きの子供たちには充分でした。夢妃も小学1年になっていて、弟たちの面倒を何かと見たがったものです。 しかし、それまでのツケはどうしようもなく膨らんでいたのでした。アパートの家賃の支払次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族にいが少しずつ遅れ、携帯電話の使用料も不通になる寸前で振り込む繰り返し。二ヵ月にいっぺんの市からの手当で、その場は何とか持ち直す。仕事で世話になっている知人には、よくこう言われました。「前借りはかまわない。でも今月三万足りないってことは、来月六万足りなくなるんだぞ」 私はどこか、開き直っていたのかもしれません。そのうち、同居しているのを市に知られ、母子手当も停止されました。こうして2カ月に1度入っていた20万円の手当は、一切入らなくなりました。記憶を辿ってみれば、私たちは当時、一番ケンカをしていたように思います。 最初は妻のことをおとなしい子と見ていました。でも、1年も経つと、私に身体ごと向かってくるようになっていた。妻は中学時代、柔道を習っていて、146センチと小柄なのに、172センチで体重100キロの私を投げる。一方、私も手を出すようになっていました。ただ、その後は反省し、そのようなケンカはなくなりましたが、事件後、「DV夫だった」とマスコミには書かれます。授かった双子の男の子 「頼瑠(らいる)と澪瑠(れいる)」 そのような日々を送る中、授かったのが双子の男の子だったのです。私はすぐに新聞配達のアルバイトを始めました。夜中1時には販売店に出勤し、300世帯分の朝刊を組み、早朝、順路帳を頼りに一軒一軒配達して歩きました。朝5時頃いったん帰宅し、昼間の仕事に向かう。1カ月後、合わせて30万円以上の給料が手に入り、「これなら何とかなる」、心強く思ったものです。 母が胃癌だと分かったのは、ちょうどその頃です。父が亡くなって実家のローンがきつくなり、母は叔父と八街を離れ、四街道のアパートで暮らしていました。育った家もなくなって、私もめったに帰省せず、電話で話せば口ゲンカばかり。母からの電話にも居留守を使うようになっていた。「お母さん、手術したからな」という叔父からの電話で、初めて知りました。 母は少し痩せていました。でも元気そうで、「胃を全部取ったから、少しずつしか食べられないんだ」と口にしていました。ほどなくして母は退院し、「あれが食べたい、これが食べたい」とメールしてくるようになった。「元気になったらおっちゃん(叔父)と一緒に日立においで。美味しい魚を食べに那珂湊へ行こう」と、私は返事をしたものです。 平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
しかし、それまでのツケはどうしようもなく膨らんでいたのでした。アパートの家賃の支払次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族にいが少しずつ遅れ、携帯電話の使用料も不通になる寸前で振り込む繰り返し。二ヵ月にいっぺんの市からの手当で、その場は何とか持ち直す。仕事で世話になっている知人には、よくこう言われました。「前借りはかまわない。でも今月三万足りないってことは、来月六万足りなくなるんだぞ」 私はどこか、開き直っていたのかもしれません。そのうち、同居しているのを市に知られ、母子手当も停止されました。こうして2カ月に1度入っていた20万円の手当は、一切入らなくなりました。記憶を辿ってみれば、私たちは当時、一番ケンカをしていたように思います。 最初は妻のことをおとなしい子と見ていました。でも、1年も経つと、私に身体ごと向かってくるようになっていた。妻は中学時代、柔道を習っていて、146センチと小柄なのに、172センチで体重100キロの私を投げる。一方、私も手を出すようになっていました。ただ、その後は反省し、そのようなケンカはなくなりましたが、事件後、「DV夫だった」とマスコミには書かれます。授かった双子の男の子 「頼瑠(らいる)と澪瑠(れいる)」 そのような日々を送る中、授かったのが双子の男の子だったのです。私はすぐに新聞配達のアルバイトを始めました。夜中1時には販売店に出勤し、300世帯分の朝刊を組み、早朝、順路帳を頼りに一軒一軒配達して歩きました。朝5時頃いったん帰宅し、昼間の仕事に向かう。1カ月後、合わせて30万円以上の給料が手に入り、「これなら何とかなる」、心強く思ったものです。 母が胃癌だと分かったのは、ちょうどその頃です。父が亡くなって実家のローンがきつくなり、母は叔父と八街を離れ、四街道のアパートで暮らしていました。育った家もなくなって、私もめったに帰省せず、電話で話せば口ゲンカばかり。母からの電話にも居留守を使うようになっていた。「お母さん、手術したからな」という叔父からの電話で、初めて知りました。 母は少し痩せていました。でも元気そうで、「胃を全部取ったから、少しずつしか食べられないんだ」と口にしていました。ほどなくして母は退院し、「あれが食べたい、これが食べたい」とメールしてくるようになった。「元気になったらおっちゃん(叔父)と一緒に日立においで。美味しい魚を食べに那珂湊へ行こう」と、私は返事をしたものです。 平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
「前借りはかまわない。でも今月三万足りないってことは、来月六万足りなくなるんだぞ」 私はどこか、開き直っていたのかもしれません。そのうち、同居しているのを市に知られ、母子手当も停止されました。こうして2カ月に1度入っていた20万円の手当は、一切入らなくなりました。記憶を辿ってみれば、私たちは当時、一番ケンカをしていたように思います。 最初は妻のことをおとなしい子と見ていました。でも、1年も経つと、私に身体ごと向かってくるようになっていた。妻は中学時代、柔道を習っていて、146センチと小柄なのに、172センチで体重100キロの私を投げる。一方、私も手を出すようになっていました。ただ、その後は反省し、そのようなケンカはなくなりましたが、事件後、「DV夫だった」とマスコミには書かれます。授かった双子の男の子 「頼瑠(らいる)と澪瑠(れいる)」 そのような日々を送る中、授かったのが双子の男の子だったのです。私はすぐに新聞配達のアルバイトを始めました。夜中1時には販売店に出勤し、300世帯分の朝刊を組み、早朝、順路帳を頼りに一軒一軒配達して歩きました。朝5時頃いったん帰宅し、昼間の仕事に向かう。1カ月後、合わせて30万円以上の給料が手に入り、「これなら何とかなる」、心強く思ったものです。 母が胃癌だと分かったのは、ちょうどその頃です。父が亡くなって実家のローンがきつくなり、母は叔父と八街を離れ、四街道のアパートで暮らしていました。育った家もなくなって、私もめったに帰省せず、電話で話せば口ゲンカばかり。母からの電話にも居留守を使うようになっていた。「お母さん、手術したからな」という叔父からの電話で、初めて知りました。 母は少し痩せていました。でも元気そうで、「胃を全部取ったから、少しずつしか食べられないんだ」と口にしていました。ほどなくして母は退院し、「あれが食べたい、これが食べたい」とメールしてくるようになった。「元気になったらおっちゃん(叔父)と一緒に日立においで。美味しい魚を食べに那珂湊へ行こう」と、私は返事をしたものです。 平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
私はどこか、開き直っていたのかもしれません。そのうち、同居しているのを市に知られ、母子手当も停止されました。こうして2カ月に1度入っていた20万円の手当は、一切入らなくなりました。記憶を辿ってみれば、私たちは当時、一番ケンカをしていたように思います。 最初は妻のことをおとなしい子と見ていました。でも、1年も経つと、私に身体ごと向かってくるようになっていた。妻は中学時代、柔道を習っていて、146センチと小柄なのに、172センチで体重100キロの私を投げる。一方、私も手を出すようになっていました。ただ、その後は反省し、そのようなケンカはなくなりましたが、事件後、「DV夫だった」とマスコミには書かれます。授かった双子の男の子 「頼瑠(らいる)と澪瑠(れいる)」 そのような日々を送る中、授かったのが双子の男の子だったのです。私はすぐに新聞配達のアルバイトを始めました。夜中1時には販売店に出勤し、300世帯分の朝刊を組み、早朝、順路帳を頼りに一軒一軒配達して歩きました。朝5時頃いったん帰宅し、昼間の仕事に向かう。1カ月後、合わせて30万円以上の給料が手に入り、「これなら何とかなる」、心強く思ったものです。 母が胃癌だと分かったのは、ちょうどその頃です。父が亡くなって実家のローンがきつくなり、母は叔父と八街を離れ、四街道のアパートで暮らしていました。育った家もなくなって、私もめったに帰省せず、電話で話せば口ゲンカばかり。母からの電話にも居留守を使うようになっていた。「お母さん、手術したからな」という叔父からの電話で、初めて知りました。 母は少し痩せていました。でも元気そうで、「胃を全部取ったから、少しずつしか食べられないんだ」と口にしていました。ほどなくして母は退院し、「あれが食べたい、これが食べたい」とメールしてくるようになった。「元気になったらおっちゃん(叔父)と一緒に日立においで。美味しい魚を食べに那珂湊へ行こう」と、私は返事をしたものです。 平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
最初は妻のことをおとなしい子と見ていました。でも、1年も経つと、私に身体ごと向かってくるようになっていた。妻は中学時代、柔道を習っていて、146センチと小柄なのに、172センチで体重100キロの私を投げる。一方、私も手を出すようになっていました。ただ、その後は反省し、そのようなケンカはなくなりましたが、事件後、「DV夫だった」とマスコミには書かれます。授かった双子の男の子 「頼瑠(らいる)と澪瑠(れいる)」 そのような日々を送る中、授かったのが双子の男の子だったのです。私はすぐに新聞配達のアルバイトを始めました。夜中1時には販売店に出勤し、300世帯分の朝刊を組み、早朝、順路帳を頼りに一軒一軒配達して歩きました。朝5時頃いったん帰宅し、昼間の仕事に向かう。1カ月後、合わせて30万円以上の給料が手に入り、「これなら何とかなる」、心強く思ったものです。 母が胃癌だと分かったのは、ちょうどその頃です。父が亡くなって実家のローンがきつくなり、母は叔父と八街を離れ、四街道のアパートで暮らしていました。育った家もなくなって、私もめったに帰省せず、電話で話せば口ゲンカばかり。母からの電話にも居留守を使うようになっていた。「お母さん、手術したからな」という叔父からの電話で、初めて知りました。 母は少し痩せていました。でも元気そうで、「胃を全部取ったから、少しずつしか食べられないんだ」と口にしていました。ほどなくして母は退院し、「あれが食べたい、これが食べたい」とメールしてくるようになった。「元気になったらおっちゃん(叔父)と一緒に日立においで。美味しい魚を食べに那珂湊へ行こう」と、私は返事をしたものです。 平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
そのような日々を送る中、授かったのが双子の男の子だったのです。私はすぐに新聞配達のアルバイトを始めました。夜中1時には販売店に出勤し、300世帯分の朝刊を組み、早朝、順路帳を頼りに一軒一軒配達して歩きました。朝5時頃いったん帰宅し、昼間の仕事に向かう。1カ月後、合わせて30万円以上の給料が手に入り、「これなら何とかなる」、心強く思ったものです。 母が胃癌だと分かったのは、ちょうどその頃です。父が亡くなって実家のローンがきつくなり、母は叔父と八街を離れ、四街道のアパートで暮らしていました。育った家もなくなって、私もめったに帰省せず、電話で話せば口ゲンカばかり。母からの電話にも居留守を使うようになっていた。「お母さん、手術したからな」という叔父からの電話で、初めて知りました。 母は少し痩せていました。でも元気そうで、「胃を全部取ったから、少しずつしか食べられないんだ」と口にしていました。ほどなくして母は退院し、「あれが食べたい、これが食べたい」とメールしてくるようになった。「元気になったらおっちゃん(叔父)と一緒に日立においで。美味しい魚を食べに那珂湊へ行こう」と、私は返事をしたものです。 平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
母が胃癌だと分かったのは、ちょうどその頃です。父が亡くなって実家のローンがきつくなり、母は叔父と八街を離れ、四街道のアパートで暮らしていました。育った家もなくなって、私もめったに帰省せず、電話で話せば口ゲンカばかり。母からの電話にも居留守を使うようになっていた。「お母さん、手術したからな」という叔父からの電話で、初めて知りました。 母は少し痩せていました。でも元気そうで、「胃を全部取ったから、少しずつしか食べられないんだ」と口にしていました。ほどなくして母は退院し、「あれが食べたい、これが食べたい」とメールしてくるようになった。「元気になったらおっちゃん(叔父)と一緒に日立においで。美味しい魚を食べに那珂湊へ行こう」と、私は返事をしたものです。 平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
母は少し痩せていました。でも元気そうで、「胃を全部取ったから、少しずつしか食べられないんだ」と口にしていました。ほどなくして母は退院し、「あれが食べたい、これが食べたい」とメールしてくるようになった。「元気になったらおっちゃん(叔父)と一緒に日立においで。美味しい魚を食べに那珂湊へ行こう」と、私は返事をしたものです。 平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。2時間で1万5千円 福島原発での仕事 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。帰宅が遅くなった妻「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
「スナックで週2、3日、アルバイトする」と妻が言い出したのは、幸虎が小学校に上がるこの年の春でした。昼の仕事と掛け持ちです。私もようやく6月になって、自動車ガラス店に職を見つけました。「これが最後のチャンスだからね。次辞めたら知らないよ」と、妻からは言われています。 妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
妻が夜いない日は、私が保育園の迎えに行き、食事を作り、子供たちを風呂に入れました。子供たちと餃子をひとつずつ皮で包んだり、フライパンいっぱいの大きなハンバーグを1枚焼いて、それをみんなで切り分けたり。ご飯を炊き、洗い物もしてくれるほど、夢妃は大きくなっていました。 私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
私はいつも妻が帰宅するまで待っていました。が、零時、1時がそのうち3時、4時になっていった。「店の女の子に駐車場で捕まって立ち話をしていた」と妻は説明する。私は心配になって、何回か店の近くまで見に行っています。駐車場や近くのコンビニで店の子と一緒にいる妻の姿を見つけ、安心したものでした。 その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
その後も遅くなる理由を尋ね、妻に逆切れされた日もあります。「もう俺の給料も入っているんだから辞めてほしい」と言っても、「気晴らしになるから」と。それもそうかと考え直し、「もう疑うのは止める」と宣言しました。ところがその矢先、妻の車に乗った際、何か違和感を感じたのです。「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
「誰か乗せた?」「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
「頼まれて、ママを乗せて送って行った」 その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
その時はそういう答えでした。「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
「店のお客さんを送って行った」と言って、明け方に帰宅した日もありました。私はカッとなり「タイヤを外して、乗れないようにしてやる」と、ジャッキを手に外に出ました。妻は私に掴みかかってきて、押し合いになり妻が転んだのです。近所の人に目撃され、事件後、「暴力をふるっていた」と書かれることになります。 そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
そのうち、妻は「お客さんからもらった」と言っては、土産を持ち帰るようになりました。子供たちへの菓子から始まり、「調子悪いって言ったらくれた」とガスコンロまで。それから加熱式タバコ「アイコス」を吸うようになっていました。それも「もらった」という説明だった。 妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
妻はたびたび胃痛を訴えるようになっていました。体調が悪いから、勤め先で点滴してもらうとも言っていました。家事もほとんどしないようになり、食事はすべて私が作るようになっていった。私にもそれまでの引け目がありました。 でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
でも妻は仕事は休まず、スナックにも通っていました。帰りが遅く見に行くと、すでに閉店していて妻の車もない、という日が何度かありました。しかし口を出さないと約束していたので、私は黙っていたのです。盗み見た妻のスマホに男とのやり取り こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
こうして迎えたのが、9月30日でした。その日は長女と長男の通う小学校の運動会で、夢妃にとっては小学校最後の、1年生の幸虎にとっては最初の運動会でした。幸虎は人見知りで心配だったのですが、思いのほか早く学校に慣れて、私も妻も安堵したものです。 その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
その日は私も撮影に張り切っていて、朝、うきうきしながら家を出たのです。一辺が3メートルある「タープテント」を応援席で組み立てて、中央にテーブルを置く。開会式が終わったあたりで妻の両親たちが到着しました。 妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻ってくる姿が前方に見えました。「○○という人と、どこまでいっているの?」「もしかしてケータイ見たの?」 私は正直に答え、車を自宅に向け発進させました。妻は黙って下を向いています。「家に行っているんだろ?」「何度か行った」 私は肉体関係についても尋ねましたが、妻は「それはない」と否定しました。「その人に対して気持ちがあるの?」「うん。離婚したいと思っている」 私は何も返せませんでした。 この日は土曜日でした。スナックのバイトの日です。「話し合いたいから休んでくれないか」と頼むと、「今日は女の子が少ないから休めない」という返事。「起きて待っているから、店の後、その人の家に行ったりしないで帰って来てほしい」 妻も了解し午後7時頃、家を出ていきました。 私は子供たちに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、9時過ぎには下の三人を寝かし付けました。夢妃と幸虎と、私の撮影した運動会のビデオを見ました。二人も妻を待っていたのですが、1時、2時となっても帰って来なかった。3時を過ぎ、私は自分の車でスナックに行くと、妻の車はなく、店も照明が落ちていました。 以前、妻がガスコンロを持ち帰った時、「お客さんがパチンコで勝ったからって」と妻が言い、その客の話題になったことがありました。住所もだいたい聞いていたので、私は何となくそのあたりを流していたのです。すると裏の通りに、妻の白いエルグランドが見えました。 このときほど頭に血が上った経験を、私は知りません。まわりにはアパートがいくつもありますが、この中のどれかに妻は確実に男といる。ひとつずつピンポンを鳴らすかとも考えましたが、思い悩み、世話になっていた知人に電話をしました。 私は事情を説明し、「今から乗り込もうと思う」と伝えると、彼は「部屋もわからないだろう。車の写メだけ撮って、まわれ右して帰れ」と言う。 エルグランドのマフラーの音が近づいて来て、恵が帰宅したのは午前4時頃でした。「遅かったね、忙しかったの?」と話をふると「店の子に捕まって話してた」という。「車、見つけちゃった」 私は正直に伝えました。「家に帰りづらかったから……」「そんなに好きなのか」「好きかと言われれば好きかな。何も考えないでいられて、楽なんだ」「それで俺とは離婚したいってこと?」「その人と離婚の話とは別です」 空は明るくなり、頼瑠と澪瑠が目を覚まし起きて来ました。話を中断し、恵は双子をあやしながら寝室に行き、寝てしまいました。私はまったく眠る気がせず、そのまま起きていたのです。(以下、後篇) ※2021年6月8日配信予定デイリー新潮編集部2021年6月7日 掲載
妻がおかず類を、義母がごはん類を担当し、持ち寄っていました。点滴のおかげか、妻も調子が良さそうで、朝早くから台所で準備をしていました。妻が台所に立つのを見たのは、1カ月ぶりでした。 私は撮影場所とテントとの往復で忙しく働いていました。夢妃は「借り物競走」で1着、幸虎は「駆けっこ」で3着。幸虎のダンスが終わって弁当の時間になり、妻と義母がテーブルの上に料理を広げていきます。妻はスマホでそれを撮影していて、私は「インスタにでも載せるのか」と見ていました。 運動会は引き分けで幕を閉じ、子供たち二人は一度、教室に戻りました。しばらくして妻が下駄箱まで迎えに行き、下の子たちは後ろの席でDVDを見ていた。何気なく助手席に目をやると、妻のアイフォンが置いてありました。それまでも何度か隠れて見たことはあったのですが、パスワードを入力しラインを開くと、何人かの店の客とのやりとりが見える。一番上にあったトークをタップすると、送信されていたのは、先ほど家族で囲んだ弁当の写真だったのです。〈頑張って作ったよー〉とあった。〈今日、昼休みそっち行くね〉〈何か食べたいものある?〉〈早く一緒に寝たい〉〈好きだよー〉〈早くダンナとケリつけてね、待ってるから〉 あの時、妻のスマホさえ見なければ、今、私はこんなところにいなかったのではないかとも思います。落ち着こうと、深呼吸をしていると、妻が長女と長男を連れ戻