「事件、二度と」池田小遺族、亡き娘への思い胸に歩んだ20年

幼い我が子を、安全だと信じていた学校で失った。「何が起きたのか。なぜ防げなかったのか」。2001年に児童8人が殺害された大阪教育大付属池田小事件から8日で20年になる。長女麻希さん(当時7歳)を亡くした酒井肇さん(59)と智恵さん(60)は悲しみをこらえ、学校の安全や、犯罪被害者支援の充実のために奔走。節目に作った振り返りの年表に書き込んだ講演や研修などの項目はA4判8枚分に及んだ。亡き娘への思いが20年の歩みを支えてきた。【石川隆宣】
小学校開門中の安全体制、6割が把握せず
智恵さんは、文部科学省が16年に定めた「学校事故対応に関する指針」の策定に遺族として14年から関わった。その結果、「生命に関わる緊急事案は報告よりも救命処置を優先する」など事件の教訓が数多く盛り込まれた。指針通りに死亡事故の調査がされていないケースがあるなど課題は残るが、再発防止につなげる具体的な枠組みができた。学校の校門も、事件を機に閉じるのが当たり前になり、学校訪問時に無断で入れることはまずない。
「娘の死を受け入れるためにも、事実がどうしても知りたかった」と智恵さんは訴える。麻希さんは教室の後方出口付近で刺されてから廊下を約50メートル歩いて力尽きた。学校関係者からは決して聞かされることのなかった最期の様子。事件の3カ月後、大阪府警が廊下に残された血痕をDNA型鑑定して分かった。「生きたい」という娘の思いに初めて触れることができたという。「麻希は戻っては来ないけれど、私たちの経験を蓄積し、共有することで、少しでも不幸が減るのなら。結果として再発防止につながる」と語る。メディアの役割と責任の重さ 私(記者)は、事件翌年の02年秋、付属池田小がある池田市を含む大阪府北部の担当になり、取材を通じて酒井さん夫妻と知り合った。事件現場の校舎が取り壊される前に遺族に公開された02年11月。教室の机が子どもたちの逃げ道の妨げになったことを知って感じた、いたたまれなさとやりきれなさ。事件拡大の責任や再発防止で国と合意した03年6月には、4時間近くに及んだ遺族の記者会見にも出席した。今は成人しているが、私の長女も当時は小学生になったばかり。子どもを失うつらさを想像すると、涙が止まらなくなった。結局、記事は先輩記者がまとめ、私はただの一行も書けず、メモも読み返せる字ではなかった。 肇さんは会社員として仕事を続けながら、被害者支援や学校の安全を巡り、休日を使って全国各地で講演した。学校で銃が乱射され生徒ら13人が殺害された米コロラド州のコロンバイン高校にも出向き、遺族と交流。学校での事故から子どもを守る東京での集会にも参加した。「報道による被害を少しでも減らし、報道の恩恵を増やしてほしい」との思いから、毎年のように新聞社やテレビ局の新入社員に体験を話し、新聞労連(日本新聞労働組合連合)の研修で講師を務めた経験もある。 報道人として切実に受け止めなければならない問題も肇さんから聞かされた。事件当日、学校上空を取材で旋回する報道各社のヘリ。「あのとき娘を運んでくれていたら」。麻希さんは失血死だった。医師は「あと5分あったら手の施しようがあったかも」と悔やんだ。学校から救急車で搬送された大阪大病院(大阪府吹田市)まであと少しのところで心停止した。葬儀の日の朝。娘に最後の手紙を書くため、便箋を買いに自宅マンションを出た肇さんを、遺族と気付かず、カジュアルな格好でたばこを吸いながら談笑していた報道関係者がいた。「結局、いつものルーティンの一コマなのか。一体、どんな気持ちで取材しているのか」と不信感を抱いた。 報道の被害に遭ってなお、取材を受け続けてくれるのは、事件の検証や責任の追及はメディアの大きな役割だと考えるからだ。その責任の重さを思う。 「娘が生きていたときと同じように娘のために時間を使いたい」。東京での講演に同行した際のこと。麻希さんの写真をそばに置き、そっとなでる肇さんの姿に、深い悲しみと、二度とこのような事件を起こしてはならないという強い決意を感じた。「学校の安全を考えて行動する日に」 肇さんは20年の節目に「もし私が教師として現場にいても何もできなかったかもしれない。責めたいという思いはない」と打ち明ける。「でもどうして助けられなかったのか、教訓につなげるには客観的に振り返る必要がある」と考えている。智恵さんも期待していることがある。 「9月1日が防災の日として認識され、各地で避難訓練が行われているように、6月8日は、付属池田小だけでなく、学校の安全を考えて行動する。そんな日になればいい」
メディアの役割と責任の重さ 私(記者)は、事件翌年の02年秋、付属池田小がある池田市を含む大阪府北部の担当になり、取材を通じて酒井さん夫妻と知り合った。事件現場の校舎が取り壊される前に遺族に公開された02年11月。教室の机が子どもたちの逃げ道の妨げになったことを知って感じた、いたたまれなさとやりきれなさ。事件拡大の責任や再発防止で国と合意した03年6月には、4時間近くに及んだ遺族の記者会見にも出席した。今は成人しているが、私の長女も当時は小学生になったばかり。子どもを失うつらさを想像すると、涙が止まらなくなった。結局、記事は先輩記者がまとめ、私はただの一行も書けず、メモも読み返せる字ではなかった。 肇さんは会社員として仕事を続けながら、被害者支援や学校の安全を巡り、休日を使って全国各地で講演した。学校で銃が乱射され生徒ら13人が殺害された米コロラド州のコロンバイン高校にも出向き、遺族と交流。学校での事故から子どもを守る東京での集会にも参加した。「報道による被害を少しでも減らし、報道の恩恵を増やしてほしい」との思いから、毎年のように新聞社やテレビ局の新入社員に体験を話し、新聞労連(日本新聞労働組合連合)の研修で講師を務めた経験もある。 報道人として切実に受け止めなければならない問題も肇さんから聞かされた。事件当日、学校上空を取材で旋回する報道各社のヘリ。「あのとき娘を運んでくれていたら」。麻希さんは失血死だった。医師は「あと5分あったら手の施しようがあったかも」と悔やんだ。学校から救急車で搬送された大阪大病院(大阪府吹田市)まであと少しのところで心停止した。葬儀の日の朝。娘に最後の手紙を書くため、便箋を買いに自宅マンションを出た肇さんを、遺族と気付かず、カジュアルな格好でたばこを吸いながら談笑していた報道関係者がいた。「結局、いつものルーティンの一コマなのか。一体、どんな気持ちで取材しているのか」と不信感を抱いた。 報道の被害に遭ってなお、取材を受け続けてくれるのは、事件の検証や責任の追及はメディアの大きな役割だと考えるからだ。その責任の重さを思う。 「娘が生きていたときと同じように娘のために時間を使いたい」。東京での講演に同行した際のこと。麻希さんの写真をそばに置き、そっとなでる肇さんの姿に、深い悲しみと、二度とこのような事件を起こしてはならないという強い決意を感じた。「学校の安全を考えて行動する日に」 肇さんは20年の節目に「もし私が教師として現場にいても何もできなかったかもしれない。責めたいという思いはない」と打ち明ける。「でもどうして助けられなかったのか、教訓につなげるには客観的に振り返る必要がある」と考えている。智恵さんも期待していることがある。 「9月1日が防災の日として認識され、各地で避難訓練が行われているように、6月8日は、付属池田小だけでなく、学校の安全を考えて行動する。そんな日になればいい」
私(記者)は、事件翌年の02年秋、付属池田小がある池田市を含む大阪府北部の担当になり、取材を通じて酒井さん夫妻と知り合った。事件現場の校舎が取り壊される前に遺族に公開された02年11月。教室の机が子どもたちの逃げ道の妨げになったことを知って感じた、いたたまれなさとやりきれなさ。事件拡大の責任や再発防止で国と合意した03年6月には、4時間近くに及んだ遺族の記者会見にも出席した。今は成人しているが、私の長女も当時は小学生になったばかり。子どもを失うつらさを想像すると、涙が止まらなくなった。結局、記事は先輩記者がまとめ、私はただの一行も書けず、メモも読み返せる字ではなかった。 肇さんは会社員として仕事を続けながら、被害者支援や学校の安全を巡り、休日を使って全国各地で講演した。学校で銃が乱射され生徒ら13人が殺害された米コロラド州のコロンバイン高校にも出向き、遺族と交流。学校での事故から子どもを守る東京での集会にも参加した。「報道による被害を少しでも減らし、報道の恩恵を増やしてほしい」との思いから、毎年のように新聞社やテレビ局の新入社員に体験を話し、新聞労連(日本新聞労働組合連合)の研修で講師を務めた経験もある。 報道人として切実に受け止めなければならない問題も肇さんから聞かされた。事件当日、学校上空を取材で旋回する報道各社のヘリ。「あのとき娘を運んでくれていたら」。麻希さんは失血死だった。医師は「あと5分あったら手の施しようがあったかも」と悔やんだ。学校から救急車で搬送された大阪大病院(大阪府吹田市)まであと少しのところで心停止した。葬儀の日の朝。娘に最後の手紙を書くため、便箋を買いに自宅マンションを出た肇さんを、遺族と気付かず、カジュアルな格好でたばこを吸いながら談笑していた報道関係者がいた。「結局、いつものルーティンの一コマなのか。一体、どんな気持ちで取材しているのか」と不信感を抱いた。 報道の被害に遭ってなお、取材を受け続けてくれるのは、事件の検証や責任の追及はメディアの大きな役割だと考えるからだ。その責任の重さを思う。 「娘が生きていたときと同じように娘のために時間を使いたい」。東京での講演に同行した際のこと。麻希さんの写真をそばに置き、そっとなでる肇さんの姿に、深い悲しみと、二度とこのような事件を起こしてはならないという強い決意を感じた。「学校の安全を考えて行動する日に」 肇さんは20年の節目に「もし私が教師として現場にいても何もできなかったかもしれない。責めたいという思いはない」と打ち明ける。「でもどうして助けられなかったのか、教訓につなげるには客観的に振り返る必要がある」と考えている。智恵さんも期待していることがある。 「9月1日が防災の日として認識され、各地で避難訓練が行われているように、6月8日は、付属池田小だけでなく、学校の安全を考えて行動する。そんな日になればいい」
肇さんは会社員として仕事を続けながら、被害者支援や学校の安全を巡り、休日を使って全国各地で講演した。学校で銃が乱射され生徒ら13人が殺害された米コロラド州のコロンバイン高校にも出向き、遺族と交流。学校での事故から子どもを守る東京での集会にも参加した。「報道による被害を少しでも減らし、報道の恩恵を増やしてほしい」との思いから、毎年のように新聞社やテレビ局の新入社員に体験を話し、新聞労連(日本新聞労働組合連合)の研修で講師を務めた経験もある。 報道人として切実に受け止めなければならない問題も肇さんから聞かされた。事件当日、学校上空を取材で旋回する報道各社のヘリ。「あのとき娘を運んでくれていたら」。麻希さんは失血死だった。医師は「あと5分あったら手の施しようがあったかも」と悔やんだ。学校から救急車で搬送された大阪大病院(大阪府吹田市)まであと少しのところで心停止した。葬儀の日の朝。娘に最後の手紙を書くため、便箋を買いに自宅マンションを出た肇さんを、遺族と気付かず、カジュアルな格好でたばこを吸いながら談笑していた報道関係者がいた。「結局、いつものルーティンの一コマなのか。一体、どんな気持ちで取材しているのか」と不信感を抱いた。 報道の被害に遭ってなお、取材を受け続けてくれるのは、事件の検証や責任の追及はメディアの大きな役割だと考えるからだ。その責任の重さを思う。 「娘が生きていたときと同じように娘のために時間を使いたい」。東京での講演に同行した際のこと。麻希さんの写真をそばに置き、そっとなでる肇さんの姿に、深い悲しみと、二度とこのような事件を起こしてはならないという強い決意を感じた。「学校の安全を考えて行動する日に」 肇さんは20年の節目に「もし私が教師として現場にいても何もできなかったかもしれない。責めたいという思いはない」と打ち明ける。「でもどうして助けられなかったのか、教訓につなげるには客観的に振り返る必要がある」と考えている。智恵さんも期待していることがある。 「9月1日が防災の日として認識され、各地で避難訓練が行われているように、6月8日は、付属池田小だけでなく、学校の安全を考えて行動する。そんな日になればいい」
報道人として切実に受け止めなければならない問題も肇さんから聞かされた。事件当日、学校上空を取材で旋回する報道各社のヘリ。「あのとき娘を運んでくれていたら」。麻希さんは失血死だった。医師は「あと5分あったら手の施しようがあったかも」と悔やんだ。学校から救急車で搬送された大阪大病院(大阪府吹田市)まであと少しのところで心停止した。葬儀の日の朝。娘に最後の手紙を書くため、便箋を買いに自宅マンションを出た肇さんを、遺族と気付かず、カジュアルな格好でたばこを吸いながら談笑していた報道関係者がいた。「結局、いつものルーティンの一コマなのか。一体、どんな気持ちで取材しているのか」と不信感を抱いた。 報道の被害に遭ってなお、取材を受け続けてくれるのは、事件の検証や責任の追及はメディアの大きな役割だと考えるからだ。その責任の重さを思う。 「娘が生きていたときと同じように娘のために時間を使いたい」。東京での講演に同行した際のこと。麻希さんの写真をそばに置き、そっとなでる肇さんの姿に、深い悲しみと、二度とこのような事件を起こしてはならないという強い決意を感じた。「学校の安全を考えて行動する日に」 肇さんは20年の節目に「もし私が教師として現場にいても何もできなかったかもしれない。責めたいという思いはない」と打ち明ける。「でもどうして助けられなかったのか、教訓につなげるには客観的に振り返る必要がある」と考えている。智恵さんも期待していることがある。 「9月1日が防災の日として認識され、各地で避難訓練が行われているように、6月8日は、付属池田小だけでなく、学校の安全を考えて行動する。そんな日になればいい」
報道の被害に遭ってなお、取材を受け続けてくれるのは、事件の検証や責任の追及はメディアの大きな役割だと考えるからだ。その責任の重さを思う。 「娘が生きていたときと同じように娘のために時間を使いたい」。東京での講演に同行した際のこと。麻希さんの写真をそばに置き、そっとなでる肇さんの姿に、深い悲しみと、二度とこのような事件を起こしてはならないという強い決意を感じた。「学校の安全を考えて行動する日に」 肇さんは20年の節目に「もし私が教師として現場にいても何もできなかったかもしれない。責めたいという思いはない」と打ち明ける。「でもどうして助けられなかったのか、教訓につなげるには客観的に振り返る必要がある」と考えている。智恵さんも期待していることがある。 「9月1日が防災の日として認識され、各地で避難訓練が行われているように、6月8日は、付属池田小だけでなく、学校の安全を考えて行動する。そんな日になればいい」
「娘が生きていたときと同じように娘のために時間を使いたい」。東京での講演に同行した際のこと。麻希さんの写真をそばに置き、そっとなでる肇さんの姿に、深い悲しみと、二度とこのような事件を起こしてはならないという強い決意を感じた。「学校の安全を考えて行動する日に」 肇さんは20年の節目に「もし私が教師として現場にいても何もできなかったかもしれない。責めたいという思いはない」と打ち明ける。「でもどうして助けられなかったのか、教訓につなげるには客観的に振り返る必要がある」と考えている。智恵さんも期待していることがある。 「9月1日が防災の日として認識され、各地で避難訓練が行われているように、6月8日は、付属池田小だけでなく、学校の安全を考えて行動する。そんな日になればいい」
「学校の安全を考えて行動する日に」 肇さんは20年の節目に「もし私が教師として現場にいても何もできなかったかもしれない。責めたいという思いはない」と打ち明ける。「でもどうして助けられなかったのか、教訓につなげるには客観的に振り返る必要がある」と考えている。智恵さんも期待していることがある。 「9月1日が防災の日として認識され、各地で避難訓練が行われているように、6月8日は、付属池田小だけでなく、学校の安全を考えて行動する。そんな日になればいい」
肇さんは20年の節目に「もし私が教師として現場にいても何もできなかったかもしれない。責めたいという思いはない」と打ち明ける。「でもどうして助けられなかったのか、教訓につなげるには客観的に振り返る必要がある」と考えている。智恵さんも期待していることがある。 「9月1日が防災の日として認識され、各地で避難訓練が行われているように、6月8日は、付属池田小だけでなく、学校の安全を考えて行動する。そんな日になればいい」
「9月1日が防災の日として認識され、各地で避難訓練が行われているように、6月8日は、付属池田小だけでなく、学校の安全を考えて行動する。そんな日になればいい」