「頑張ることをモットーにする人」が陥る3つの罠

他人の評価が幸せの基準になっていませんか?(写真:metamorworks/PIXTA)
「私たちは『苦難の時代』の真っただ中にいる」と語るのは、 1800年にフランスで創立されたカトリックの女子修道会「聖心会」のシスター、鈴木秀子氏。生活が激変し、将来の見通しが立たない今、まじめな頑張り屋さんほど出口のない罠に陥りやすい。そんなピンチに効く処方箋を、シスター鈴木の著書『あきらめよう、あきらめよう 不安、イライラ、怒り、執着を消すヒント』から紹介する。
新型コロナウイルスの感染拡大以降、先行きがまったく見えない中、誰もが大きな不安と戦っています。「こんなときこそ頑張らなくては」と気を張っている人もたくさんいるでしょう。でも、頑張り続けた結果、心を擦り減らしてしまっていませんか?
これは40代女性のSさんから伺ったお話です。
「私たち夫婦には小さな子どもが2人いまして、すぐに家中が散らかります。毎日、掃除をしてばかりです。夫は『散らかったままでいいよ』と気にもしません。でも、近所に住んでいる姑が時々遊びにくるので、片付けないといけないのです。『子どもの面倒を見て、家事もしっかりできるいいお嫁さん』だと、お義母さんに思われたいのです」
Sさんの「『いい嫁』と人に思われたい」気持ちはよくわかります。そのおかげで家中がきれいなのもいいことです。でも、Sさんは、お姑さんの評価がなければ「私は幸せだ」と感じられなくなってしまっています。このままでは、お姑さんの目をずっと気にして頑張り続けなければいけません。Sさん自身が幸せだと思えるようになるためには、考え方を変えるだけでいいのです。「家はスッキリきれいにしておいたほうが家族も、お義母さんも、そして私自身も気持ちのいい時間を過ごせる。だから、きれいにしておこう」と。お姑さんからの評価に向いていた目を、自分や家族の幸せのほうへ向けるのです。お姑さんへのおもてなしが、自分の中でたとえ30%しかできなかったとしても、「なぜ30%しかできなかったのか」と自分の理想に執着しているうちは、苦しくなるばかりです。「一生懸命やったから、これでいい」と思えるようになりましょう。そして、最も手放すべき執着は、「ほめられたい」という気持ちです。「認められたい」「ほめられたい」という執着は、どんな人にでも死ぬまであります。でも、その執着にこだわりすぎると、いつしか「ほめられること」や「認められること」に依存するようになり、自分自身の本当の気持ちを殺すことになってしまいます。誰だって、いちどほめられれば「もっとほめられたい」と願うようになります。つまり、「ほめられること」には中毒性があるのです。「ほめられたい」という執着が行動の原動力になることはありますが、その反面、ほめられなかったときの落胆は大きくなり、不幸の引き金となってしまいます。「ほめられたい」という気持ちを手放して、「みんなが気持ちよく過ごせれば、それでいい」と考え方を切り替えること。そうすればSさんの心には平安が訪れ、笑顔が戻ってくるはすです。その笑顔は、きっと家族みんなの心まで明るくするでしょう。必要なのは2種類の「あきらめ」心のありよう次第で、不幸にはしない。それを可能にするのが「あきらめよう」という考え方です。私はこの考えを「聖なるあきらめ」と呼んで、大事にしています。もともと「あきらめる」には2つの異なる意味があります。ひとつは「諦める」「投げ出す」「執着しない」という意味。そして、もうひとつは「明らめる」と書きます。これは、仏教の言葉で、「物事を明らかにする」「真理に達する」「つまびらかにする」という意味を持ちます。ケースのSさんは、お姑さんからほめられたいという気持ちをあきらめて(諦めて)、「家はスッキリきれいにしておいたほうが、みんなが気持ちのいい時間を過ごせる」と、自分にとって何が幸せなのかということをあきらめ(明らめ)ました。「あきらめる」という言莱には、どうしても否定的な印象を持ってしまうかもしれません。「あきらめるなんて、とんでもない!」と思われる方も多いでしょう。もちろん、単に「断念する」という意味で「あきらめてください」と言っているのではありません。いい意味での「あきらめる」、そんな使い方もあるのです。頑張りすぎて自分を苦しめる前に、「聖なるあきらめ」で賢くあきらめていきましょう。すると、自分でも気づいていなかったけれど、自分にとって本当に大切だったことが見えるようになってくるのです。Iさんという女性のお話をしたいと思います。Iさんは、次のように胸中を明かしてくれました。「45歳になってさまざまな不調に悩まされるようになり、婦人科に行くと更年期障害と診断されました。大きな病気ではないとわかったので安心しました。でも、精神的にしんどい毎日が続いています。子どもたちも自立し、そろそろ私も楽になれる時期のはずなのに、なぜこんなに重苦しいのか。恨みつらみが増えて、さらにはそんな自分がイヤになり……という悪循環に陥っています」こういった悩みは、Iさんに限らず、多くの中高年女性から相談されます。女性にとって一番生きるのがつらい時期というのがあります。それは、更年期障害になる前の38歳ごろからの10年間で、その人の価値観などが大きく変わる時期なのです。その「真っ暗なトンネル」のような苦しい10年間では、肉体面での変化ももちろん気になりますが、それは最初だけです。それよりも、その年齢になって初めて見えてくる人生の景色をめいっぱい満喫するほうが賢いとはいえないでしょうか。この「真っ暗なトンネル」を越えると、皆さんは今までのことがまるでうそのように悩みから卒業していかれます。このような話をIさんにしたところ、「自分はまだ長いトンネルの中にいる。でも、トンネルには必ず終わりがあると知って安心した」と喜んでくれました。自分の力では変えられないことを「あきらめる」Iさんとは事情は違えど、今まさにコロナ禍という先行きの不透明な「真っ暗なトンネル」の中で苦しんでいる人は少なくありません。「聖なるあきらめ」の第一歩は、現状を把握するために「あきらめる(明らめる)」ことから始めます。すると、物事には「自分の力で変えられること」と「自分の力では変えられないこと」との2つがあるのだとわかります。自分で変えられることを見つけたら、さっそく変えてみてください。一方で、変えられないことを無理に変えようと執着すると、自分も周囲の人も疲れてしまいます。自分で変えられないことは「あきらめて(諦めて)」みましょう。「諦められない」は、執着の心から生まれます。「あの時ああすればよかった」「こうすべきだった」などと自分を責めながら、過去の時間の中で生きることです。あるいは、まだ来てもいない未来を先取りし、「こんなことが起こったらどうしよう」と、はてしなく悩み続けることです。過去と未来の時間の中で永遠の迷子になってしまうこと、これが最も強い執着です。「あきらめる(諦める)」とは、この執着を捨てることです。自分は今「真っ暗なトンネル」の中にいるのだと状況をあきらめ(明らめ)たうえで、自分では変えられないことについてはあきらめて(諦めて)、エネルギーを注ぐのはやめましょう。そして、そこから「最善の道」を選ぶことができればいいですね。最善の道を探すコツは、目的を思い出すこと。何のためにそうするのかを、あらためて「あきらめる(明らめる)」のです。すると、変えられないことの他に、いろんな選択肢が見えてくるはずです。理想と現実とのギャップが生むジレンマ「私は正直なところ、親の介護から逃げたいと願っています。仕事に支障が出てしまうからです。親には申し訳ないけれど、施設に入ってもらおうかと考えています。私は冷たい息子なのでしょうか?」このような相談をいただいたことがありました。「親の世話をしたい気持ちはあるけれど、自分の時間を削られては困る」というジレンマが透けて見えるようです。とくに男性の場合は、一家の大黒柱であるうえに働き盛りの年代であることが多く、悩ましいものです。さらに、コロナ禍での感染防止や自粛要請のもと、年老いた親の世話や介護をどうすればよいのか、真面目な人ほど親の気持ちや世間体を考えて、途方に暮れているかもしれません。いったいどうすればいいのでしょうか。親に介護が必要になったとき、「親にとっても、自分自身にとっても100%の満足はない」、まずそう明らめて(認識して)ください。なぜなら、親子といえども利害が衝突することは必ずあり、双方に100%の「最善の道」が開けていることはめったにないからです。冷たく聞こえるかもしれませんが、「親にも自分にも、ある程度の負担は生じるはず」と最初から諦めて期待をしないことが大切です。誰だって「つねに最善の道を選びたい」と願うのが人情です。この向上心は成長のために必要な欲求でもあります。けれども、どんなに頑張っている人にも、限界はつきまとうものです。それは、お金や時間に余裕がある人でも同様です。たとえば、老人ホームヘ親に入所してもらうというケースについて考えてみましょう。「うちの親は、このエリアで一番いい老人ホ-ムに入所してもらおう」 真面目な頑張り屋さんは、そんな思いで資金を潤沢に用意しようとするかもしれません。でも、希望の施設が満員で入れない可能性もあります。また、「理想の老人ホーム」の条件を挙げ始めると、山のように出てくるかもしれません。でも、理想を全部かなえることは、最初から諦めておきましょう。なにごとも「すべてがうまくいくわけがない」というこの世の真理を明らめる(わきまえる)べきです。こんなときは、現実的な条件の中で、自分自身や周りの人を犠牲にしない道を選んでいきましょう。頑張り屋さんにとって「自分を犠牲にしない」という姿勢はとても大切です。なぜなら、どんなにいいことをしたとしても自分への負荷が大きかった場合、あとで必ず怒りがふつふつとわいてくるものだからです。老人ホームの候補を絞り、入所先を決めることができたら、「このホームは、ほかの施設に比べてスタッフが無愛想だ」などと減点法で見るのではなく、「庭に花壇があって、いい雰囲気だ」というように加点法で見ていきましょう。そして、「老人ホーム探しは、やれるだけやった」と自分の頑張りを認めて、心を満足させることが大事です。離れている大切な人に温かさを伝えること老人ホームへ親に入所してもらったら、親はその日から一日の大部分をひとり、個室で過ごすことになります。「いざ離れるとさみしい」「心配でならない」などと感情に流されてソワソワするのではなく、「離れたところにいる親に、温かさを伝えること」に力を注いでいきたいものです。コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
でも、Sさんは、お姑さんの評価がなければ「私は幸せだ」と感じられなくなってしまっています。このままでは、お姑さんの目をずっと気にして頑張り続けなければいけません。Sさん自身が幸せだと思えるようになるためには、考え方を変えるだけでいいのです。「家はスッキリきれいにしておいたほうが家族も、お義母さんも、そして私自身も気持ちのいい時間を過ごせる。だから、きれいにしておこう」と。お姑さんからの評価に向いていた目を、自分や家族の幸せのほうへ向けるのです。お姑さんへのおもてなしが、自分の中でたとえ30%しかできなかったとしても、「なぜ30%しかできなかったのか」と自分の理想に執着しているうちは、苦しくなるばかりです。「一生懸命やったから、これでいい」と思えるようになりましょう。そして、最も手放すべき執着は、「ほめられたい」という気持ちです。「認められたい」「ほめられたい」という執着は、どんな人にでも死ぬまであります。でも、その執着にこだわりすぎると、いつしか「ほめられること」や「認められること」に依存するようになり、自分自身の本当の気持ちを殺すことになってしまいます。誰だって、いちどほめられれば「もっとほめられたい」と願うようになります。つまり、「ほめられること」には中毒性があるのです。「ほめられたい」という執着が行動の原動力になることはありますが、その反面、ほめられなかったときの落胆は大きくなり、不幸の引き金となってしまいます。「ほめられたい」という気持ちを手放して、「みんなが気持ちよく過ごせれば、それでいい」と考え方を切り替えること。そうすればSさんの心には平安が訪れ、笑顔が戻ってくるはすです。その笑顔は、きっと家族みんなの心まで明るくするでしょう。必要なのは2種類の「あきらめ」心のありよう次第で、不幸にはしない。それを可能にするのが「あきらめよう」という考え方です。私はこの考えを「聖なるあきらめ」と呼んで、大事にしています。もともと「あきらめる」には2つの異なる意味があります。ひとつは「諦める」「投げ出す」「執着しない」という意味。そして、もうひとつは「明らめる」と書きます。これは、仏教の言葉で、「物事を明らかにする」「真理に達する」「つまびらかにする」という意味を持ちます。ケースのSさんは、お姑さんからほめられたいという気持ちをあきらめて(諦めて)、「家はスッキリきれいにしておいたほうが、みんなが気持ちのいい時間を過ごせる」と、自分にとって何が幸せなのかということをあきらめ(明らめ)ました。「あきらめる」という言莱には、どうしても否定的な印象を持ってしまうかもしれません。「あきらめるなんて、とんでもない!」と思われる方も多いでしょう。もちろん、単に「断念する」という意味で「あきらめてください」と言っているのではありません。いい意味での「あきらめる」、そんな使い方もあるのです。頑張りすぎて自分を苦しめる前に、「聖なるあきらめ」で賢くあきらめていきましょう。すると、自分でも気づいていなかったけれど、自分にとって本当に大切だったことが見えるようになってくるのです。Iさんという女性のお話をしたいと思います。Iさんは、次のように胸中を明かしてくれました。「45歳になってさまざまな不調に悩まされるようになり、婦人科に行くと更年期障害と診断されました。大きな病気ではないとわかったので安心しました。でも、精神的にしんどい毎日が続いています。子どもたちも自立し、そろそろ私も楽になれる時期のはずなのに、なぜこんなに重苦しいのか。恨みつらみが増えて、さらにはそんな自分がイヤになり……という悪循環に陥っています」こういった悩みは、Iさんに限らず、多くの中高年女性から相談されます。女性にとって一番生きるのがつらい時期というのがあります。それは、更年期障害になる前の38歳ごろからの10年間で、その人の価値観などが大きく変わる時期なのです。その「真っ暗なトンネル」のような苦しい10年間では、肉体面での変化ももちろん気になりますが、それは最初だけです。それよりも、その年齢になって初めて見えてくる人生の景色をめいっぱい満喫するほうが賢いとはいえないでしょうか。この「真っ暗なトンネル」を越えると、皆さんは今までのことがまるでうそのように悩みから卒業していかれます。このような話をIさんにしたところ、「自分はまだ長いトンネルの中にいる。でも、トンネルには必ず終わりがあると知って安心した」と喜んでくれました。自分の力では変えられないことを「あきらめる」Iさんとは事情は違えど、今まさにコロナ禍という先行きの不透明な「真っ暗なトンネル」の中で苦しんでいる人は少なくありません。「聖なるあきらめ」の第一歩は、現状を把握するために「あきらめる(明らめる)」ことから始めます。すると、物事には「自分の力で変えられること」と「自分の力では変えられないこと」との2つがあるのだとわかります。自分で変えられることを見つけたら、さっそく変えてみてください。一方で、変えられないことを無理に変えようと執着すると、自分も周囲の人も疲れてしまいます。自分で変えられないことは「あきらめて(諦めて)」みましょう。「諦められない」は、執着の心から生まれます。「あの時ああすればよかった」「こうすべきだった」などと自分を責めながら、過去の時間の中で生きることです。あるいは、まだ来てもいない未来を先取りし、「こんなことが起こったらどうしよう」と、はてしなく悩み続けることです。過去と未来の時間の中で永遠の迷子になってしまうこと、これが最も強い執着です。「あきらめる(諦める)」とは、この執着を捨てることです。自分は今「真っ暗なトンネル」の中にいるのだと状況をあきらめ(明らめ)たうえで、自分では変えられないことについてはあきらめて(諦めて)、エネルギーを注ぐのはやめましょう。そして、そこから「最善の道」を選ぶことができればいいですね。最善の道を探すコツは、目的を思い出すこと。何のためにそうするのかを、あらためて「あきらめる(明らめる)」のです。すると、変えられないことの他に、いろんな選択肢が見えてくるはずです。理想と現実とのギャップが生むジレンマ「私は正直なところ、親の介護から逃げたいと願っています。仕事に支障が出てしまうからです。親には申し訳ないけれど、施設に入ってもらおうかと考えています。私は冷たい息子なのでしょうか?」このような相談をいただいたことがありました。「親の世話をしたい気持ちはあるけれど、自分の時間を削られては困る」というジレンマが透けて見えるようです。とくに男性の場合は、一家の大黒柱であるうえに働き盛りの年代であることが多く、悩ましいものです。さらに、コロナ禍での感染防止や自粛要請のもと、年老いた親の世話や介護をどうすればよいのか、真面目な人ほど親の気持ちや世間体を考えて、途方に暮れているかもしれません。いったいどうすればいいのでしょうか。親に介護が必要になったとき、「親にとっても、自分自身にとっても100%の満足はない」、まずそう明らめて(認識して)ください。なぜなら、親子といえども利害が衝突することは必ずあり、双方に100%の「最善の道」が開けていることはめったにないからです。冷たく聞こえるかもしれませんが、「親にも自分にも、ある程度の負担は生じるはず」と最初から諦めて期待をしないことが大切です。誰だって「つねに最善の道を選びたい」と願うのが人情です。この向上心は成長のために必要な欲求でもあります。けれども、どんなに頑張っている人にも、限界はつきまとうものです。それは、お金や時間に余裕がある人でも同様です。たとえば、老人ホームヘ親に入所してもらうというケースについて考えてみましょう。「うちの親は、このエリアで一番いい老人ホ-ムに入所してもらおう」 真面目な頑張り屋さんは、そんな思いで資金を潤沢に用意しようとするかもしれません。でも、希望の施設が満員で入れない可能性もあります。また、「理想の老人ホーム」の条件を挙げ始めると、山のように出てくるかもしれません。でも、理想を全部かなえることは、最初から諦めておきましょう。なにごとも「すべてがうまくいくわけがない」というこの世の真理を明らめる(わきまえる)べきです。こんなときは、現実的な条件の中で、自分自身や周りの人を犠牲にしない道を選んでいきましょう。頑張り屋さんにとって「自分を犠牲にしない」という姿勢はとても大切です。なぜなら、どんなにいいことをしたとしても自分への負荷が大きかった場合、あとで必ず怒りがふつふつとわいてくるものだからです。老人ホームの候補を絞り、入所先を決めることができたら、「このホームは、ほかの施設に比べてスタッフが無愛想だ」などと減点法で見るのではなく、「庭に花壇があって、いい雰囲気だ」というように加点法で見ていきましょう。そして、「老人ホーム探しは、やれるだけやった」と自分の頑張りを認めて、心を満足させることが大事です。離れている大切な人に温かさを伝えること老人ホームへ親に入所してもらったら、親はその日から一日の大部分をひとり、個室で過ごすことになります。「いざ離れるとさみしい」「心配でならない」などと感情に流されてソワソワするのではなく、「離れたところにいる親に、温かさを伝えること」に力を注いでいきたいものです。コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
Sさん自身が幸せだと思えるようになるためには、考え方を変えるだけでいいのです。「家はスッキリきれいにしておいたほうが家族も、お義母さんも、そして私自身も気持ちのいい時間を過ごせる。だから、きれいにしておこう」と。お姑さんからの評価に向いていた目を、自分や家族の幸せのほうへ向けるのです。お姑さんへのおもてなしが、自分の中でたとえ30%しかできなかったとしても、「なぜ30%しかできなかったのか」と自分の理想に執着しているうちは、苦しくなるばかりです。「一生懸命やったから、これでいい」と思えるようになりましょう。そして、最も手放すべき執着は、「ほめられたい」という気持ちです。「認められたい」「ほめられたい」という執着は、どんな人にでも死ぬまであります。でも、その執着にこだわりすぎると、いつしか「ほめられること」や「認められること」に依存するようになり、自分自身の本当の気持ちを殺すことになってしまいます。誰だって、いちどほめられれば「もっとほめられたい」と願うようになります。つまり、「ほめられること」には中毒性があるのです。「ほめられたい」という執着が行動の原動力になることはありますが、その反面、ほめられなかったときの落胆は大きくなり、不幸の引き金となってしまいます。「ほめられたい」という気持ちを手放して、「みんなが気持ちよく過ごせれば、それでいい」と考え方を切り替えること。そうすればSさんの心には平安が訪れ、笑顔が戻ってくるはすです。その笑顔は、きっと家族みんなの心まで明るくするでしょう。必要なのは2種類の「あきらめ」心のありよう次第で、不幸にはしない。それを可能にするのが「あきらめよう」という考え方です。私はこの考えを「聖なるあきらめ」と呼んで、大事にしています。もともと「あきらめる」には2つの異なる意味があります。ひとつは「諦める」「投げ出す」「執着しない」という意味。そして、もうひとつは「明らめる」と書きます。これは、仏教の言葉で、「物事を明らかにする」「真理に達する」「つまびらかにする」という意味を持ちます。ケースのSさんは、お姑さんからほめられたいという気持ちをあきらめて(諦めて)、「家はスッキリきれいにしておいたほうが、みんなが気持ちのいい時間を過ごせる」と、自分にとって何が幸せなのかということをあきらめ(明らめ)ました。「あきらめる」という言莱には、どうしても否定的な印象を持ってしまうかもしれません。「あきらめるなんて、とんでもない!」と思われる方も多いでしょう。もちろん、単に「断念する」という意味で「あきらめてください」と言っているのではありません。いい意味での「あきらめる」、そんな使い方もあるのです。頑張りすぎて自分を苦しめる前に、「聖なるあきらめ」で賢くあきらめていきましょう。すると、自分でも気づいていなかったけれど、自分にとって本当に大切だったことが見えるようになってくるのです。Iさんという女性のお話をしたいと思います。Iさんは、次のように胸中を明かしてくれました。「45歳になってさまざまな不調に悩まされるようになり、婦人科に行くと更年期障害と診断されました。大きな病気ではないとわかったので安心しました。でも、精神的にしんどい毎日が続いています。子どもたちも自立し、そろそろ私も楽になれる時期のはずなのに、なぜこんなに重苦しいのか。恨みつらみが増えて、さらにはそんな自分がイヤになり……という悪循環に陥っています」こういった悩みは、Iさんに限らず、多くの中高年女性から相談されます。女性にとって一番生きるのがつらい時期というのがあります。それは、更年期障害になる前の38歳ごろからの10年間で、その人の価値観などが大きく変わる時期なのです。その「真っ暗なトンネル」のような苦しい10年間では、肉体面での変化ももちろん気になりますが、それは最初だけです。それよりも、その年齢になって初めて見えてくる人生の景色をめいっぱい満喫するほうが賢いとはいえないでしょうか。この「真っ暗なトンネル」を越えると、皆さんは今までのことがまるでうそのように悩みから卒業していかれます。このような話をIさんにしたところ、「自分はまだ長いトンネルの中にいる。でも、トンネルには必ず終わりがあると知って安心した」と喜んでくれました。自分の力では変えられないことを「あきらめる」Iさんとは事情は違えど、今まさにコロナ禍という先行きの不透明な「真っ暗なトンネル」の中で苦しんでいる人は少なくありません。「聖なるあきらめ」の第一歩は、現状を把握するために「あきらめる(明らめる)」ことから始めます。すると、物事には「自分の力で変えられること」と「自分の力では変えられないこと」との2つがあるのだとわかります。自分で変えられることを見つけたら、さっそく変えてみてください。一方で、変えられないことを無理に変えようと執着すると、自分も周囲の人も疲れてしまいます。自分で変えられないことは「あきらめて(諦めて)」みましょう。「諦められない」は、執着の心から生まれます。「あの時ああすればよかった」「こうすべきだった」などと自分を責めながら、過去の時間の中で生きることです。あるいは、まだ来てもいない未来を先取りし、「こんなことが起こったらどうしよう」と、はてしなく悩み続けることです。過去と未来の時間の中で永遠の迷子になってしまうこと、これが最も強い執着です。「あきらめる(諦める)」とは、この執着を捨てることです。自分は今「真っ暗なトンネル」の中にいるのだと状況をあきらめ(明らめ)たうえで、自分では変えられないことについてはあきらめて(諦めて)、エネルギーを注ぐのはやめましょう。そして、そこから「最善の道」を選ぶことができればいいですね。最善の道を探すコツは、目的を思い出すこと。何のためにそうするのかを、あらためて「あきらめる(明らめる)」のです。すると、変えられないことの他に、いろんな選択肢が見えてくるはずです。理想と現実とのギャップが生むジレンマ「私は正直なところ、親の介護から逃げたいと願っています。仕事に支障が出てしまうからです。親には申し訳ないけれど、施設に入ってもらおうかと考えています。私は冷たい息子なのでしょうか?」このような相談をいただいたことがありました。「親の世話をしたい気持ちはあるけれど、自分の時間を削られては困る」というジレンマが透けて見えるようです。とくに男性の場合は、一家の大黒柱であるうえに働き盛りの年代であることが多く、悩ましいものです。さらに、コロナ禍での感染防止や自粛要請のもと、年老いた親の世話や介護をどうすればよいのか、真面目な人ほど親の気持ちや世間体を考えて、途方に暮れているかもしれません。いったいどうすればいいのでしょうか。親に介護が必要になったとき、「親にとっても、自分自身にとっても100%の満足はない」、まずそう明らめて(認識して)ください。なぜなら、親子といえども利害が衝突することは必ずあり、双方に100%の「最善の道」が開けていることはめったにないからです。冷たく聞こえるかもしれませんが、「親にも自分にも、ある程度の負担は生じるはず」と最初から諦めて期待をしないことが大切です。誰だって「つねに最善の道を選びたい」と願うのが人情です。この向上心は成長のために必要な欲求でもあります。けれども、どんなに頑張っている人にも、限界はつきまとうものです。それは、お金や時間に余裕がある人でも同様です。たとえば、老人ホームヘ親に入所してもらうというケースについて考えてみましょう。「うちの親は、このエリアで一番いい老人ホ-ムに入所してもらおう」 真面目な頑張り屋さんは、そんな思いで資金を潤沢に用意しようとするかもしれません。でも、希望の施設が満員で入れない可能性もあります。また、「理想の老人ホーム」の条件を挙げ始めると、山のように出てくるかもしれません。でも、理想を全部かなえることは、最初から諦めておきましょう。なにごとも「すべてがうまくいくわけがない」というこの世の真理を明らめる(わきまえる)べきです。こんなときは、現実的な条件の中で、自分自身や周りの人を犠牲にしない道を選んでいきましょう。頑張り屋さんにとって「自分を犠牲にしない」という姿勢はとても大切です。なぜなら、どんなにいいことをしたとしても自分への負荷が大きかった場合、あとで必ず怒りがふつふつとわいてくるものだからです。老人ホームの候補を絞り、入所先を決めることができたら、「このホームは、ほかの施設に比べてスタッフが無愛想だ」などと減点法で見るのではなく、「庭に花壇があって、いい雰囲気だ」というように加点法で見ていきましょう。そして、「老人ホーム探しは、やれるだけやった」と自分の頑張りを認めて、心を満足させることが大事です。離れている大切な人に温かさを伝えること老人ホームへ親に入所してもらったら、親はその日から一日の大部分をひとり、個室で過ごすことになります。「いざ離れるとさみしい」「心配でならない」などと感情に流されてソワソワするのではなく、「離れたところにいる親に、温かさを伝えること」に力を注いでいきたいものです。コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
お姑さんへのおもてなしが、自分の中でたとえ30%しかできなかったとしても、「なぜ30%しかできなかったのか」と自分の理想に執着しているうちは、苦しくなるばかりです。「一生懸命やったから、これでいい」と思えるようになりましょう。そして、最も手放すべき執着は、「ほめられたい」という気持ちです。「認められたい」「ほめられたい」という執着は、どんな人にでも死ぬまであります。でも、その執着にこだわりすぎると、いつしか「ほめられること」や「認められること」に依存するようになり、自分自身の本当の気持ちを殺すことになってしまいます。誰だって、いちどほめられれば「もっとほめられたい」と願うようになります。つまり、「ほめられること」には中毒性があるのです。「ほめられたい」という執着が行動の原動力になることはありますが、その反面、ほめられなかったときの落胆は大きくなり、不幸の引き金となってしまいます。「ほめられたい」という気持ちを手放して、「みんなが気持ちよく過ごせれば、それでいい」と考え方を切り替えること。そうすればSさんの心には平安が訪れ、笑顔が戻ってくるはすです。その笑顔は、きっと家族みんなの心まで明るくするでしょう。必要なのは2種類の「あきらめ」心のありよう次第で、不幸にはしない。それを可能にするのが「あきらめよう」という考え方です。私はこの考えを「聖なるあきらめ」と呼んで、大事にしています。もともと「あきらめる」には2つの異なる意味があります。ひとつは「諦める」「投げ出す」「執着しない」という意味。そして、もうひとつは「明らめる」と書きます。これは、仏教の言葉で、「物事を明らかにする」「真理に達する」「つまびらかにする」という意味を持ちます。ケースのSさんは、お姑さんからほめられたいという気持ちをあきらめて(諦めて)、「家はスッキリきれいにしておいたほうが、みんなが気持ちのいい時間を過ごせる」と、自分にとって何が幸せなのかということをあきらめ(明らめ)ました。「あきらめる」という言莱には、どうしても否定的な印象を持ってしまうかもしれません。「あきらめるなんて、とんでもない!」と思われる方も多いでしょう。もちろん、単に「断念する」という意味で「あきらめてください」と言っているのではありません。いい意味での「あきらめる」、そんな使い方もあるのです。頑張りすぎて自分を苦しめる前に、「聖なるあきらめ」で賢くあきらめていきましょう。すると、自分でも気づいていなかったけれど、自分にとって本当に大切だったことが見えるようになってくるのです。Iさんという女性のお話をしたいと思います。Iさんは、次のように胸中を明かしてくれました。「45歳になってさまざまな不調に悩まされるようになり、婦人科に行くと更年期障害と診断されました。大きな病気ではないとわかったので安心しました。でも、精神的にしんどい毎日が続いています。子どもたちも自立し、そろそろ私も楽になれる時期のはずなのに、なぜこんなに重苦しいのか。恨みつらみが増えて、さらにはそんな自分がイヤになり……という悪循環に陥っています」こういった悩みは、Iさんに限らず、多くの中高年女性から相談されます。女性にとって一番生きるのがつらい時期というのがあります。それは、更年期障害になる前の38歳ごろからの10年間で、その人の価値観などが大きく変わる時期なのです。その「真っ暗なトンネル」のような苦しい10年間では、肉体面での変化ももちろん気になりますが、それは最初だけです。それよりも、その年齢になって初めて見えてくる人生の景色をめいっぱい満喫するほうが賢いとはいえないでしょうか。この「真っ暗なトンネル」を越えると、皆さんは今までのことがまるでうそのように悩みから卒業していかれます。このような話をIさんにしたところ、「自分はまだ長いトンネルの中にいる。でも、トンネルには必ず終わりがあると知って安心した」と喜んでくれました。自分の力では変えられないことを「あきらめる」Iさんとは事情は違えど、今まさにコロナ禍という先行きの不透明な「真っ暗なトンネル」の中で苦しんでいる人は少なくありません。「聖なるあきらめ」の第一歩は、現状を把握するために「あきらめる(明らめる)」ことから始めます。すると、物事には「自分の力で変えられること」と「自分の力では変えられないこと」との2つがあるのだとわかります。自分で変えられることを見つけたら、さっそく変えてみてください。一方で、変えられないことを無理に変えようと執着すると、自分も周囲の人も疲れてしまいます。自分で変えられないことは「あきらめて(諦めて)」みましょう。「諦められない」は、執着の心から生まれます。「あの時ああすればよかった」「こうすべきだった」などと自分を責めながら、過去の時間の中で生きることです。あるいは、まだ来てもいない未来を先取りし、「こんなことが起こったらどうしよう」と、はてしなく悩み続けることです。過去と未来の時間の中で永遠の迷子になってしまうこと、これが最も強い執着です。「あきらめる(諦める)」とは、この執着を捨てることです。自分は今「真っ暗なトンネル」の中にいるのだと状況をあきらめ(明らめ)たうえで、自分では変えられないことについてはあきらめて(諦めて)、エネルギーを注ぐのはやめましょう。そして、そこから「最善の道」を選ぶことができればいいですね。最善の道を探すコツは、目的を思い出すこと。何のためにそうするのかを、あらためて「あきらめる(明らめる)」のです。すると、変えられないことの他に、いろんな選択肢が見えてくるはずです。理想と現実とのギャップが生むジレンマ「私は正直なところ、親の介護から逃げたいと願っています。仕事に支障が出てしまうからです。親には申し訳ないけれど、施設に入ってもらおうかと考えています。私は冷たい息子なのでしょうか?」このような相談をいただいたことがありました。「親の世話をしたい気持ちはあるけれど、自分の時間を削られては困る」というジレンマが透けて見えるようです。とくに男性の場合は、一家の大黒柱であるうえに働き盛りの年代であることが多く、悩ましいものです。さらに、コロナ禍での感染防止や自粛要請のもと、年老いた親の世話や介護をどうすればよいのか、真面目な人ほど親の気持ちや世間体を考えて、途方に暮れているかもしれません。いったいどうすればいいのでしょうか。親に介護が必要になったとき、「親にとっても、自分自身にとっても100%の満足はない」、まずそう明らめて(認識して)ください。なぜなら、親子といえども利害が衝突することは必ずあり、双方に100%の「最善の道」が開けていることはめったにないからです。冷たく聞こえるかもしれませんが、「親にも自分にも、ある程度の負担は生じるはず」と最初から諦めて期待をしないことが大切です。誰だって「つねに最善の道を選びたい」と願うのが人情です。この向上心は成長のために必要な欲求でもあります。けれども、どんなに頑張っている人にも、限界はつきまとうものです。それは、お金や時間に余裕がある人でも同様です。たとえば、老人ホームヘ親に入所してもらうというケースについて考えてみましょう。「うちの親は、このエリアで一番いい老人ホ-ムに入所してもらおう」 真面目な頑張り屋さんは、そんな思いで資金を潤沢に用意しようとするかもしれません。でも、希望の施設が満員で入れない可能性もあります。また、「理想の老人ホーム」の条件を挙げ始めると、山のように出てくるかもしれません。でも、理想を全部かなえることは、最初から諦めておきましょう。なにごとも「すべてがうまくいくわけがない」というこの世の真理を明らめる(わきまえる)べきです。こんなときは、現実的な条件の中で、自分自身や周りの人を犠牲にしない道を選んでいきましょう。頑張り屋さんにとって「自分を犠牲にしない」という姿勢はとても大切です。なぜなら、どんなにいいことをしたとしても自分への負荷が大きかった場合、あとで必ず怒りがふつふつとわいてくるものだからです。老人ホームの候補を絞り、入所先を決めることができたら、「このホームは、ほかの施設に比べてスタッフが無愛想だ」などと減点法で見るのではなく、「庭に花壇があって、いい雰囲気だ」というように加点法で見ていきましょう。そして、「老人ホーム探しは、やれるだけやった」と自分の頑張りを認めて、心を満足させることが大事です。離れている大切な人に温かさを伝えること老人ホームへ親に入所してもらったら、親はその日から一日の大部分をひとり、個室で過ごすことになります。「いざ離れるとさみしい」「心配でならない」などと感情に流されてソワソワするのではなく、「離れたところにいる親に、温かさを伝えること」に力を注いでいきたいものです。コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
そして、最も手放すべき執着は、「ほめられたい」という気持ちです。「認められたい」「ほめられたい」という執着は、どんな人にでも死ぬまであります。でも、その執着にこだわりすぎると、いつしか「ほめられること」や「認められること」に依存するようになり、自分自身の本当の気持ちを殺すことになってしまいます。誰だって、いちどほめられれば「もっとほめられたい」と願うようになります。つまり、「ほめられること」には中毒性があるのです。「ほめられたい」という執着が行動の原動力になることはありますが、その反面、ほめられなかったときの落胆は大きくなり、不幸の引き金となってしまいます。「ほめられたい」という気持ちを手放して、「みんなが気持ちよく過ごせれば、それでいい」と考え方を切り替えること。そうすればSさんの心には平安が訪れ、笑顔が戻ってくるはすです。その笑顔は、きっと家族みんなの心まで明るくするでしょう。必要なのは2種類の「あきらめ」心のありよう次第で、不幸にはしない。それを可能にするのが「あきらめよう」という考え方です。私はこの考えを「聖なるあきらめ」と呼んで、大事にしています。もともと「あきらめる」には2つの異なる意味があります。ひとつは「諦める」「投げ出す」「執着しない」という意味。そして、もうひとつは「明らめる」と書きます。これは、仏教の言葉で、「物事を明らかにする」「真理に達する」「つまびらかにする」という意味を持ちます。ケースのSさんは、お姑さんからほめられたいという気持ちをあきらめて(諦めて)、「家はスッキリきれいにしておいたほうが、みんなが気持ちのいい時間を過ごせる」と、自分にとって何が幸せなのかということをあきらめ(明らめ)ました。「あきらめる」という言莱には、どうしても否定的な印象を持ってしまうかもしれません。「あきらめるなんて、とんでもない!」と思われる方も多いでしょう。もちろん、単に「断念する」という意味で「あきらめてください」と言っているのではありません。いい意味での「あきらめる」、そんな使い方もあるのです。頑張りすぎて自分を苦しめる前に、「聖なるあきらめ」で賢くあきらめていきましょう。すると、自分でも気づいていなかったけれど、自分にとって本当に大切だったことが見えるようになってくるのです。Iさんという女性のお話をしたいと思います。Iさんは、次のように胸中を明かしてくれました。「45歳になってさまざまな不調に悩まされるようになり、婦人科に行くと更年期障害と診断されました。大きな病気ではないとわかったので安心しました。でも、精神的にしんどい毎日が続いています。子どもたちも自立し、そろそろ私も楽になれる時期のはずなのに、なぜこんなに重苦しいのか。恨みつらみが増えて、さらにはそんな自分がイヤになり……という悪循環に陥っています」こういった悩みは、Iさんに限らず、多くの中高年女性から相談されます。女性にとって一番生きるのがつらい時期というのがあります。それは、更年期障害になる前の38歳ごろからの10年間で、その人の価値観などが大きく変わる時期なのです。その「真っ暗なトンネル」のような苦しい10年間では、肉体面での変化ももちろん気になりますが、それは最初だけです。それよりも、その年齢になって初めて見えてくる人生の景色をめいっぱい満喫するほうが賢いとはいえないでしょうか。この「真っ暗なトンネル」を越えると、皆さんは今までのことがまるでうそのように悩みから卒業していかれます。このような話をIさんにしたところ、「自分はまだ長いトンネルの中にいる。でも、トンネルには必ず終わりがあると知って安心した」と喜んでくれました。自分の力では変えられないことを「あきらめる」Iさんとは事情は違えど、今まさにコロナ禍という先行きの不透明な「真っ暗なトンネル」の中で苦しんでいる人は少なくありません。「聖なるあきらめ」の第一歩は、現状を把握するために「あきらめる(明らめる)」ことから始めます。すると、物事には「自分の力で変えられること」と「自分の力では変えられないこと」との2つがあるのだとわかります。自分で変えられることを見つけたら、さっそく変えてみてください。一方で、変えられないことを無理に変えようと執着すると、自分も周囲の人も疲れてしまいます。自分で変えられないことは「あきらめて(諦めて)」みましょう。「諦められない」は、執着の心から生まれます。「あの時ああすればよかった」「こうすべきだった」などと自分を責めながら、過去の時間の中で生きることです。あるいは、まだ来てもいない未来を先取りし、「こんなことが起こったらどうしよう」と、はてしなく悩み続けることです。過去と未来の時間の中で永遠の迷子になってしまうこと、これが最も強い執着です。「あきらめる(諦める)」とは、この執着を捨てることです。自分は今「真っ暗なトンネル」の中にいるのだと状況をあきらめ(明らめ)たうえで、自分では変えられないことについてはあきらめて(諦めて)、エネルギーを注ぐのはやめましょう。そして、そこから「最善の道」を選ぶことができればいいですね。最善の道を探すコツは、目的を思い出すこと。何のためにそうするのかを、あらためて「あきらめる(明らめる)」のです。すると、変えられないことの他に、いろんな選択肢が見えてくるはずです。理想と現実とのギャップが生むジレンマ「私は正直なところ、親の介護から逃げたいと願っています。仕事に支障が出てしまうからです。親には申し訳ないけれど、施設に入ってもらおうかと考えています。私は冷たい息子なのでしょうか?」このような相談をいただいたことがありました。「親の世話をしたい気持ちはあるけれど、自分の時間を削られては困る」というジレンマが透けて見えるようです。とくに男性の場合は、一家の大黒柱であるうえに働き盛りの年代であることが多く、悩ましいものです。さらに、コロナ禍での感染防止や自粛要請のもと、年老いた親の世話や介護をどうすればよいのか、真面目な人ほど親の気持ちや世間体を考えて、途方に暮れているかもしれません。いったいどうすればいいのでしょうか。親に介護が必要になったとき、「親にとっても、自分自身にとっても100%の満足はない」、まずそう明らめて(認識して)ください。なぜなら、親子といえども利害が衝突することは必ずあり、双方に100%の「最善の道」が開けていることはめったにないからです。冷たく聞こえるかもしれませんが、「親にも自分にも、ある程度の負担は生じるはず」と最初から諦めて期待をしないことが大切です。誰だって「つねに最善の道を選びたい」と願うのが人情です。この向上心は成長のために必要な欲求でもあります。けれども、どんなに頑張っている人にも、限界はつきまとうものです。それは、お金や時間に余裕がある人でも同様です。たとえば、老人ホームヘ親に入所してもらうというケースについて考えてみましょう。「うちの親は、このエリアで一番いい老人ホ-ムに入所してもらおう」 真面目な頑張り屋さんは、そんな思いで資金を潤沢に用意しようとするかもしれません。でも、希望の施設が満員で入れない可能性もあります。また、「理想の老人ホーム」の条件を挙げ始めると、山のように出てくるかもしれません。でも、理想を全部かなえることは、最初から諦めておきましょう。なにごとも「すべてがうまくいくわけがない」というこの世の真理を明らめる(わきまえる)べきです。こんなときは、現実的な条件の中で、自分自身や周りの人を犠牲にしない道を選んでいきましょう。頑張り屋さんにとって「自分を犠牲にしない」という姿勢はとても大切です。なぜなら、どんなにいいことをしたとしても自分への負荷が大きかった場合、あとで必ず怒りがふつふつとわいてくるものだからです。老人ホームの候補を絞り、入所先を決めることができたら、「このホームは、ほかの施設に比べてスタッフが無愛想だ」などと減点法で見るのではなく、「庭に花壇があって、いい雰囲気だ」というように加点法で見ていきましょう。そして、「老人ホーム探しは、やれるだけやった」と自分の頑張りを認めて、心を満足させることが大事です。離れている大切な人に温かさを伝えること老人ホームへ親に入所してもらったら、親はその日から一日の大部分をひとり、個室で過ごすことになります。「いざ離れるとさみしい」「心配でならない」などと感情に流されてソワソワするのではなく、「離れたところにいる親に、温かさを伝えること」に力を注いでいきたいものです。コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
誰だって、いちどほめられれば「もっとほめられたい」と願うようになります。つまり、「ほめられること」には中毒性があるのです。「ほめられたい」という執着が行動の原動力になることはありますが、その反面、ほめられなかったときの落胆は大きくなり、不幸の引き金となってしまいます。「ほめられたい」という気持ちを手放して、「みんなが気持ちよく過ごせれば、それでいい」と考え方を切り替えること。そうすればSさんの心には平安が訪れ、笑顔が戻ってくるはすです。その笑顔は、きっと家族みんなの心まで明るくするでしょう。必要なのは2種類の「あきらめ」心のありよう次第で、不幸にはしない。それを可能にするのが「あきらめよう」という考え方です。私はこの考えを「聖なるあきらめ」と呼んで、大事にしています。もともと「あきらめる」には2つの異なる意味があります。ひとつは「諦める」「投げ出す」「執着しない」という意味。そして、もうひとつは「明らめる」と書きます。これは、仏教の言葉で、「物事を明らかにする」「真理に達する」「つまびらかにする」という意味を持ちます。ケースのSさんは、お姑さんからほめられたいという気持ちをあきらめて(諦めて)、「家はスッキリきれいにしておいたほうが、みんなが気持ちのいい時間を過ごせる」と、自分にとって何が幸せなのかということをあきらめ(明らめ)ました。「あきらめる」という言莱には、どうしても否定的な印象を持ってしまうかもしれません。「あきらめるなんて、とんでもない!」と思われる方も多いでしょう。もちろん、単に「断念する」という意味で「あきらめてください」と言っているのではありません。いい意味での「あきらめる」、そんな使い方もあるのです。頑張りすぎて自分を苦しめる前に、「聖なるあきらめ」で賢くあきらめていきましょう。すると、自分でも気づいていなかったけれど、自分にとって本当に大切だったことが見えるようになってくるのです。Iさんという女性のお話をしたいと思います。Iさんは、次のように胸中を明かしてくれました。「45歳になってさまざまな不調に悩まされるようになり、婦人科に行くと更年期障害と診断されました。大きな病気ではないとわかったので安心しました。でも、精神的にしんどい毎日が続いています。子どもたちも自立し、そろそろ私も楽になれる時期のはずなのに、なぜこんなに重苦しいのか。恨みつらみが増えて、さらにはそんな自分がイヤになり……という悪循環に陥っています」こういった悩みは、Iさんに限らず、多くの中高年女性から相談されます。女性にとって一番生きるのがつらい時期というのがあります。それは、更年期障害になる前の38歳ごろからの10年間で、その人の価値観などが大きく変わる時期なのです。その「真っ暗なトンネル」のような苦しい10年間では、肉体面での変化ももちろん気になりますが、それは最初だけです。それよりも、その年齢になって初めて見えてくる人生の景色をめいっぱい満喫するほうが賢いとはいえないでしょうか。この「真っ暗なトンネル」を越えると、皆さんは今までのことがまるでうそのように悩みから卒業していかれます。このような話をIさんにしたところ、「自分はまだ長いトンネルの中にいる。でも、トンネルには必ず終わりがあると知って安心した」と喜んでくれました。自分の力では変えられないことを「あきらめる」Iさんとは事情は違えど、今まさにコロナ禍という先行きの不透明な「真っ暗なトンネル」の中で苦しんでいる人は少なくありません。「聖なるあきらめ」の第一歩は、現状を把握するために「あきらめる(明らめる)」ことから始めます。すると、物事には「自分の力で変えられること」と「自分の力では変えられないこと」との2つがあるのだとわかります。自分で変えられることを見つけたら、さっそく変えてみてください。一方で、変えられないことを無理に変えようと執着すると、自分も周囲の人も疲れてしまいます。自分で変えられないことは「あきらめて(諦めて)」みましょう。「諦められない」は、執着の心から生まれます。「あの時ああすればよかった」「こうすべきだった」などと自分を責めながら、過去の時間の中で生きることです。あるいは、まだ来てもいない未来を先取りし、「こんなことが起こったらどうしよう」と、はてしなく悩み続けることです。過去と未来の時間の中で永遠の迷子になってしまうこと、これが最も強い執着です。「あきらめる(諦める)」とは、この執着を捨てることです。自分は今「真っ暗なトンネル」の中にいるのだと状況をあきらめ(明らめ)たうえで、自分では変えられないことについてはあきらめて(諦めて)、エネルギーを注ぐのはやめましょう。そして、そこから「最善の道」を選ぶことができればいいですね。最善の道を探すコツは、目的を思い出すこと。何のためにそうするのかを、あらためて「あきらめる(明らめる)」のです。すると、変えられないことの他に、いろんな選択肢が見えてくるはずです。理想と現実とのギャップが生むジレンマ「私は正直なところ、親の介護から逃げたいと願っています。仕事に支障が出てしまうからです。親には申し訳ないけれど、施設に入ってもらおうかと考えています。私は冷たい息子なのでしょうか?」このような相談をいただいたことがありました。「親の世話をしたい気持ちはあるけれど、自分の時間を削られては困る」というジレンマが透けて見えるようです。とくに男性の場合は、一家の大黒柱であるうえに働き盛りの年代であることが多く、悩ましいものです。さらに、コロナ禍での感染防止や自粛要請のもと、年老いた親の世話や介護をどうすればよいのか、真面目な人ほど親の気持ちや世間体を考えて、途方に暮れているかもしれません。いったいどうすればいいのでしょうか。親に介護が必要になったとき、「親にとっても、自分自身にとっても100%の満足はない」、まずそう明らめて(認識して)ください。なぜなら、親子といえども利害が衝突することは必ずあり、双方に100%の「最善の道」が開けていることはめったにないからです。冷たく聞こえるかもしれませんが、「親にも自分にも、ある程度の負担は生じるはず」と最初から諦めて期待をしないことが大切です。誰だって「つねに最善の道を選びたい」と願うのが人情です。この向上心は成長のために必要な欲求でもあります。けれども、どんなに頑張っている人にも、限界はつきまとうものです。それは、お金や時間に余裕がある人でも同様です。たとえば、老人ホームヘ親に入所してもらうというケースについて考えてみましょう。「うちの親は、このエリアで一番いい老人ホ-ムに入所してもらおう」 真面目な頑張り屋さんは、そんな思いで資金を潤沢に用意しようとするかもしれません。でも、希望の施設が満員で入れない可能性もあります。また、「理想の老人ホーム」の条件を挙げ始めると、山のように出てくるかもしれません。でも、理想を全部かなえることは、最初から諦めておきましょう。なにごとも「すべてがうまくいくわけがない」というこの世の真理を明らめる(わきまえる)べきです。こんなときは、現実的な条件の中で、自分自身や周りの人を犠牲にしない道を選んでいきましょう。頑張り屋さんにとって「自分を犠牲にしない」という姿勢はとても大切です。なぜなら、どんなにいいことをしたとしても自分への負荷が大きかった場合、あとで必ず怒りがふつふつとわいてくるものだからです。老人ホームの候補を絞り、入所先を決めることができたら、「このホームは、ほかの施設に比べてスタッフが無愛想だ」などと減点法で見るのではなく、「庭に花壇があって、いい雰囲気だ」というように加点法で見ていきましょう。そして、「老人ホーム探しは、やれるだけやった」と自分の頑張りを認めて、心を満足させることが大事です。離れている大切な人に温かさを伝えること老人ホームへ親に入所してもらったら、親はその日から一日の大部分をひとり、個室で過ごすことになります。「いざ離れるとさみしい」「心配でならない」などと感情に流されてソワソワするのではなく、「離れたところにいる親に、温かさを伝えること」に力を注いでいきたいものです。コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
「ほめられたい」という気持ちを手放して、「みんなが気持ちよく過ごせれば、それでいい」と考え方を切り替えること。そうすればSさんの心には平安が訪れ、笑顔が戻ってくるはすです。その笑顔は、きっと家族みんなの心まで明るくするでしょう。必要なのは2種類の「あきらめ」心のありよう次第で、不幸にはしない。それを可能にするのが「あきらめよう」という考え方です。私はこの考えを「聖なるあきらめ」と呼んで、大事にしています。もともと「あきらめる」には2つの異なる意味があります。ひとつは「諦める」「投げ出す」「執着しない」という意味。そして、もうひとつは「明らめる」と書きます。これは、仏教の言葉で、「物事を明らかにする」「真理に達する」「つまびらかにする」という意味を持ちます。ケースのSさんは、お姑さんからほめられたいという気持ちをあきらめて(諦めて)、「家はスッキリきれいにしておいたほうが、みんなが気持ちのいい時間を過ごせる」と、自分にとって何が幸せなのかということをあきらめ(明らめ)ました。「あきらめる」という言莱には、どうしても否定的な印象を持ってしまうかもしれません。「あきらめるなんて、とんでもない!」と思われる方も多いでしょう。もちろん、単に「断念する」という意味で「あきらめてください」と言っているのではありません。いい意味での「あきらめる」、そんな使い方もあるのです。頑張りすぎて自分を苦しめる前に、「聖なるあきらめ」で賢くあきらめていきましょう。すると、自分でも気づいていなかったけれど、自分にとって本当に大切だったことが見えるようになってくるのです。Iさんという女性のお話をしたいと思います。Iさんは、次のように胸中を明かしてくれました。「45歳になってさまざまな不調に悩まされるようになり、婦人科に行くと更年期障害と診断されました。大きな病気ではないとわかったので安心しました。でも、精神的にしんどい毎日が続いています。子どもたちも自立し、そろそろ私も楽になれる時期のはずなのに、なぜこんなに重苦しいのか。恨みつらみが増えて、さらにはそんな自分がイヤになり……という悪循環に陥っています」こういった悩みは、Iさんに限らず、多くの中高年女性から相談されます。女性にとって一番生きるのがつらい時期というのがあります。それは、更年期障害になる前の38歳ごろからの10年間で、その人の価値観などが大きく変わる時期なのです。その「真っ暗なトンネル」のような苦しい10年間では、肉体面での変化ももちろん気になりますが、それは最初だけです。それよりも、その年齢になって初めて見えてくる人生の景色をめいっぱい満喫するほうが賢いとはいえないでしょうか。この「真っ暗なトンネル」を越えると、皆さんは今までのことがまるでうそのように悩みから卒業していかれます。このような話をIさんにしたところ、「自分はまだ長いトンネルの中にいる。でも、トンネルには必ず終わりがあると知って安心した」と喜んでくれました。自分の力では変えられないことを「あきらめる」Iさんとは事情は違えど、今まさにコロナ禍という先行きの不透明な「真っ暗なトンネル」の中で苦しんでいる人は少なくありません。「聖なるあきらめ」の第一歩は、現状を把握するために「あきらめる(明らめる)」ことから始めます。すると、物事には「自分の力で変えられること」と「自分の力では変えられないこと」との2つがあるのだとわかります。自分で変えられることを見つけたら、さっそく変えてみてください。一方で、変えられないことを無理に変えようと執着すると、自分も周囲の人も疲れてしまいます。自分で変えられないことは「あきらめて(諦めて)」みましょう。「諦められない」は、執着の心から生まれます。「あの時ああすればよかった」「こうすべきだった」などと自分を責めながら、過去の時間の中で生きることです。あるいは、まだ来てもいない未来を先取りし、「こんなことが起こったらどうしよう」と、はてしなく悩み続けることです。過去と未来の時間の中で永遠の迷子になってしまうこと、これが最も強い執着です。「あきらめる(諦める)」とは、この執着を捨てることです。自分は今「真っ暗なトンネル」の中にいるのだと状況をあきらめ(明らめ)たうえで、自分では変えられないことについてはあきらめて(諦めて)、エネルギーを注ぐのはやめましょう。そして、そこから「最善の道」を選ぶことができればいいですね。最善の道を探すコツは、目的を思い出すこと。何のためにそうするのかを、あらためて「あきらめる(明らめる)」のです。すると、変えられないことの他に、いろんな選択肢が見えてくるはずです。理想と現実とのギャップが生むジレンマ「私は正直なところ、親の介護から逃げたいと願っています。仕事に支障が出てしまうからです。親には申し訳ないけれど、施設に入ってもらおうかと考えています。私は冷たい息子なのでしょうか?」このような相談をいただいたことがありました。「親の世話をしたい気持ちはあるけれど、自分の時間を削られては困る」というジレンマが透けて見えるようです。とくに男性の場合は、一家の大黒柱であるうえに働き盛りの年代であることが多く、悩ましいものです。さらに、コロナ禍での感染防止や自粛要請のもと、年老いた親の世話や介護をどうすればよいのか、真面目な人ほど親の気持ちや世間体を考えて、途方に暮れているかもしれません。いったいどうすればいいのでしょうか。親に介護が必要になったとき、「親にとっても、自分自身にとっても100%の満足はない」、まずそう明らめて(認識して)ください。なぜなら、親子といえども利害が衝突することは必ずあり、双方に100%の「最善の道」が開けていることはめったにないからです。冷たく聞こえるかもしれませんが、「親にも自分にも、ある程度の負担は生じるはず」と最初から諦めて期待をしないことが大切です。誰だって「つねに最善の道を選びたい」と願うのが人情です。この向上心は成長のために必要な欲求でもあります。けれども、どんなに頑張っている人にも、限界はつきまとうものです。それは、お金や時間に余裕がある人でも同様です。たとえば、老人ホームヘ親に入所してもらうというケースについて考えてみましょう。「うちの親は、このエリアで一番いい老人ホ-ムに入所してもらおう」 真面目な頑張り屋さんは、そんな思いで資金を潤沢に用意しようとするかもしれません。でも、希望の施設が満員で入れない可能性もあります。また、「理想の老人ホーム」の条件を挙げ始めると、山のように出てくるかもしれません。でも、理想を全部かなえることは、最初から諦めておきましょう。なにごとも「すべてがうまくいくわけがない」というこの世の真理を明らめる(わきまえる)べきです。こんなときは、現実的な条件の中で、自分自身や周りの人を犠牲にしない道を選んでいきましょう。頑張り屋さんにとって「自分を犠牲にしない」という姿勢はとても大切です。なぜなら、どんなにいいことをしたとしても自分への負荷が大きかった場合、あとで必ず怒りがふつふつとわいてくるものだからです。老人ホームの候補を絞り、入所先を決めることができたら、「このホームは、ほかの施設に比べてスタッフが無愛想だ」などと減点法で見るのではなく、「庭に花壇があって、いい雰囲気だ」というように加点法で見ていきましょう。そして、「老人ホーム探しは、やれるだけやった」と自分の頑張りを認めて、心を満足させることが大事です。離れている大切な人に温かさを伝えること老人ホームへ親に入所してもらったら、親はその日から一日の大部分をひとり、個室で過ごすことになります。「いざ離れるとさみしい」「心配でならない」などと感情に流されてソワソワするのではなく、「離れたところにいる親に、温かさを伝えること」に力を注いでいきたいものです。コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
心のありよう次第で、不幸にはしない。それを可能にするのが「あきらめよう」という考え方です。私はこの考えを「聖なるあきらめ」と呼んで、大事にしています。もともと「あきらめる」には2つの異なる意味があります。ひとつは「諦める」「投げ出す」「執着しない」という意味。そして、もうひとつは「明らめる」と書きます。これは、仏教の言葉で、「物事を明らかにする」「真理に達する」「つまびらかにする」という意味を持ちます。ケースのSさんは、お姑さんからほめられたいという気持ちをあきらめて(諦めて)、「家はスッキリきれいにしておいたほうが、みんなが気持ちのいい時間を過ごせる」と、自分にとって何が幸せなのかということをあきらめ(明らめ)ました。「あきらめる」という言莱には、どうしても否定的な印象を持ってしまうかもしれません。「あきらめるなんて、とんでもない!」と思われる方も多いでしょう。もちろん、単に「断念する」という意味で「あきらめてください」と言っているのではありません。いい意味での「あきらめる」、そんな使い方もあるのです。頑張りすぎて自分を苦しめる前に、「聖なるあきらめ」で賢くあきらめていきましょう。すると、自分でも気づいていなかったけれど、自分にとって本当に大切だったことが見えるようになってくるのです。Iさんという女性のお話をしたいと思います。Iさんは、次のように胸中を明かしてくれました。「45歳になってさまざまな不調に悩まされるようになり、婦人科に行くと更年期障害と診断されました。大きな病気ではないとわかったので安心しました。でも、精神的にしんどい毎日が続いています。子どもたちも自立し、そろそろ私も楽になれる時期のはずなのに、なぜこんなに重苦しいのか。恨みつらみが増えて、さらにはそんな自分がイヤになり……という悪循環に陥っています」こういった悩みは、Iさんに限らず、多くの中高年女性から相談されます。女性にとって一番生きるのがつらい時期というのがあります。それは、更年期障害になる前の38歳ごろからの10年間で、その人の価値観などが大きく変わる時期なのです。その「真っ暗なトンネル」のような苦しい10年間では、肉体面での変化ももちろん気になりますが、それは最初だけです。それよりも、その年齢になって初めて見えてくる人生の景色をめいっぱい満喫するほうが賢いとはいえないでしょうか。この「真っ暗なトンネル」を越えると、皆さんは今までのことがまるでうそのように悩みから卒業していかれます。このような話をIさんにしたところ、「自分はまだ長いトンネルの中にいる。でも、トンネルには必ず終わりがあると知って安心した」と喜んでくれました。自分の力では変えられないことを「あきらめる」Iさんとは事情は違えど、今まさにコロナ禍という先行きの不透明な「真っ暗なトンネル」の中で苦しんでいる人は少なくありません。「聖なるあきらめ」の第一歩は、現状を把握するために「あきらめる(明らめる)」ことから始めます。すると、物事には「自分の力で変えられること」と「自分の力では変えられないこと」との2つがあるのだとわかります。自分で変えられることを見つけたら、さっそく変えてみてください。一方で、変えられないことを無理に変えようと執着すると、自分も周囲の人も疲れてしまいます。自分で変えられないことは「あきらめて(諦めて)」みましょう。「諦められない」は、執着の心から生まれます。「あの時ああすればよかった」「こうすべきだった」などと自分を責めながら、過去の時間の中で生きることです。あるいは、まだ来てもいない未来を先取りし、「こんなことが起こったらどうしよう」と、はてしなく悩み続けることです。過去と未来の時間の中で永遠の迷子になってしまうこと、これが最も強い執着です。「あきらめる(諦める)」とは、この執着を捨てることです。自分は今「真っ暗なトンネル」の中にいるのだと状況をあきらめ(明らめ)たうえで、自分では変えられないことについてはあきらめて(諦めて)、エネルギーを注ぐのはやめましょう。そして、そこから「最善の道」を選ぶことができればいいですね。最善の道を探すコツは、目的を思い出すこと。何のためにそうするのかを、あらためて「あきらめる(明らめる)」のです。すると、変えられないことの他に、いろんな選択肢が見えてくるはずです。理想と現実とのギャップが生むジレンマ「私は正直なところ、親の介護から逃げたいと願っています。仕事に支障が出てしまうからです。親には申し訳ないけれど、施設に入ってもらおうかと考えています。私は冷たい息子なのでしょうか?」このような相談をいただいたことがありました。「親の世話をしたい気持ちはあるけれど、自分の時間を削られては困る」というジレンマが透けて見えるようです。とくに男性の場合は、一家の大黒柱であるうえに働き盛りの年代であることが多く、悩ましいものです。さらに、コロナ禍での感染防止や自粛要請のもと、年老いた親の世話や介護をどうすればよいのか、真面目な人ほど親の気持ちや世間体を考えて、途方に暮れているかもしれません。いったいどうすればいいのでしょうか。親に介護が必要になったとき、「親にとっても、自分自身にとっても100%の満足はない」、まずそう明らめて(認識して)ください。なぜなら、親子といえども利害が衝突することは必ずあり、双方に100%の「最善の道」が開けていることはめったにないからです。冷たく聞こえるかもしれませんが、「親にも自分にも、ある程度の負担は生じるはず」と最初から諦めて期待をしないことが大切です。誰だって「つねに最善の道を選びたい」と願うのが人情です。この向上心は成長のために必要な欲求でもあります。けれども、どんなに頑張っている人にも、限界はつきまとうものです。それは、お金や時間に余裕がある人でも同様です。たとえば、老人ホームヘ親に入所してもらうというケースについて考えてみましょう。「うちの親は、このエリアで一番いい老人ホ-ムに入所してもらおう」 真面目な頑張り屋さんは、そんな思いで資金を潤沢に用意しようとするかもしれません。でも、希望の施設が満員で入れない可能性もあります。また、「理想の老人ホーム」の条件を挙げ始めると、山のように出てくるかもしれません。でも、理想を全部かなえることは、最初から諦めておきましょう。なにごとも「すべてがうまくいくわけがない」というこの世の真理を明らめる(わきまえる)べきです。こんなときは、現実的な条件の中で、自分自身や周りの人を犠牲にしない道を選んでいきましょう。頑張り屋さんにとって「自分を犠牲にしない」という姿勢はとても大切です。なぜなら、どんなにいいことをしたとしても自分への負荷が大きかった場合、あとで必ず怒りがふつふつとわいてくるものだからです。老人ホームの候補を絞り、入所先を決めることができたら、「このホームは、ほかの施設に比べてスタッフが無愛想だ」などと減点法で見るのではなく、「庭に花壇があって、いい雰囲気だ」というように加点法で見ていきましょう。そして、「老人ホーム探しは、やれるだけやった」と自分の頑張りを認めて、心を満足させることが大事です。離れている大切な人に温かさを伝えること老人ホームへ親に入所してもらったら、親はその日から一日の大部分をひとり、個室で過ごすことになります。「いざ離れるとさみしい」「心配でならない」などと感情に流されてソワソワするのではなく、「離れたところにいる親に、温かさを伝えること」に力を注いでいきたいものです。コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
もともと「あきらめる」には2つの異なる意味があります。ひとつは「諦める」「投げ出す」「執着しない」という意味。そして、もうひとつは「明らめる」と書きます。これは、仏教の言葉で、「物事を明らかにする」「真理に達する」「つまびらかにする」という意味を持ちます。ケースのSさんは、お姑さんからほめられたいという気持ちをあきらめて(諦めて)、「家はスッキリきれいにしておいたほうが、みんなが気持ちのいい時間を過ごせる」と、自分にとって何が幸せなのかということをあきらめ(明らめ)ました。「あきらめる」という言莱には、どうしても否定的な印象を持ってしまうかもしれません。「あきらめるなんて、とんでもない!」と思われる方も多いでしょう。もちろん、単に「断念する」という意味で「あきらめてください」と言っているのではありません。いい意味での「あきらめる」、そんな使い方もあるのです。頑張りすぎて自分を苦しめる前に、「聖なるあきらめ」で賢くあきらめていきましょう。すると、自分でも気づいていなかったけれど、自分にとって本当に大切だったことが見えるようになってくるのです。Iさんという女性のお話をしたいと思います。Iさんは、次のように胸中を明かしてくれました。「45歳になってさまざまな不調に悩まされるようになり、婦人科に行くと更年期障害と診断されました。大きな病気ではないとわかったので安心しました。でも、精神的にしんどい毎日が続いています。子どもたちも自立し、そろそろ私も楽になれる時期のはずなのに、なぜこんなに重苦しいのか。恨みつらみが増えて、さらにはそんな自分がイヤになり……という悪循環に陥っています」こういった悩みは、Iさんに限らず、多くの中高年女性から相談されます。女性にとって一番生きるのがつらい時期というのがあります。それは、更年期障害になる前の38歳ごろからの10年間で、その人の価値観などが大きく変わる時期なのです。その「真っ暗なトンネル」のような苦しい10年間では、肉体面での変化ももちろん気になりますが、それは最初だけです。それよりも、その年齢になって初めて見えてくる人生の景色をめいっぱい満喫するほうが賢いとはいえないでしょうか。この「真っ暗なトンネル」を越えると、皆さんは今までのことがまるでうそのように悩みから卒業していかれます。このような話をIさんにしたところ、「自分はまだ長いトンネルの中にいる。でも、トンネルには必ず終わりがあると知って安心した」と喜んでくれました。自分の力では変えられないことを「あきらめる」Iさんとは事情は違えど、今まさにコロナ禍という先行きの不透明な「真っ暗なトンネル」の中で苦しんでいる人は少なくありません。「聖なるあきらめ」の第一歩は、現状を把握するために「あきらめる(明らめる)」ことから始めます。すると、物事には「自分の力で変えられること」と「自分の力では変えられないこと」との2つがあるのだとわかります。自分で変えられることを見つけたら、さっそく変えてみてください。一方で、変えられないことを無理に変えようと執着すると、自分も周囲の人も疲れてしまいます。自分で変えられないことは「あきらめて(諦めて)」みましょう。「諦められない」は、執着の心から生まれます。「あの時ああすればよかった」「こうすべきだった」などと自分を責めながら、過去の時間の中で生きることです。あるいは、まだ来てもいない未来を先取りし、「こんなことが起こったらどうしよう」と、はてしなく悩み続けることです。過去と未来の時間の中で永遠の迷子になってしまうこと、これが最も強い執着です。「あきらめる(諦める)」とは、この執着を捨てることです。自分は今「真っ暗なトンネル」の中にいるのだと状況をあきらめ(明らめ)たうえで、自分では変えられないことについてはあきらめて(諦めて)、エネルギーを注ぐのはやめましょう。そして、そこから「最善の道」を選ぶことができればいいですね。最善の道を探すコツは、目的を思い出すこと。何のためにそうするのかを、あらためて「あきらめる(明らめる)」のです。すると、変えられないことの他に、いろんな選択肢が見えてくるはずです。理想と現実とのギャップが生むジレンマ「私は正直なところ、親の介護から逃げたいと願っています。仕事に支障が出てしまうからです。親には申し訳ないけれど、施設に入ってもらおうかと考えています。私は冷たい息子なのでしょうか?」このような相談をいただいたことがありました。「親の世話をしたい気持ちはあるけれど、自分の時間を削られては困る」というジレンマが透けて見えるようです。とくに男性の場合は、一家の大黒柱であるうえに働き盛りの年代であることが多く、悩ましいものです。さらに、コロナ禍での感染防止や自粛要請のもと、年老いた親の世話や介護をどうすればよいのか、真面目な人ほど親の気持ちや世間体を考えて、途方に暮れているかもしれません。いったいどうすればいいのでしょうか。親に介護が必要になったとき、「親にとっても、自分自身にとっても100%の満足はない」、まずそう明らめて(認識して)ください。なぜなら、親子といえども利害が衝突することは必ずあり、双方に100%の「最善の道」が開けていることはめったにないからです。冷たく聞こえるかもしれませんが、「親にも自分にも、ある程度の負担は生じるはず」と最初から諦めて期待をしないことが大切です。誰だって「つねに最善の道を選びたい」と願うのが人情です。この向上心は成長のために必要な欲求でもあります。けれども、どんなに頑張っている人にも、限界はつきまとうものです。それは、お金や時間に余裕がある人でも同様です。たとえば、老人ホームヘ親に入所してもらうというケースについて考えてみましょう。「うちの親は、このエリアで一番いい老人ホ-ムに入所してもらおう」 真面目な頑張り屋さんは、そんな思いで資金を潤沢に用意しようとするかもしれません。でも、希望の施設が満員で入れない可能性もあります。また、「理想の老人ホーム」の条件を挙げ始めると、山のように出てくるかもしれません。でも、理想を全部かなえることは、最初から諦めておきましょう。なにごとも「すべてがうまくいくわけがない」というこの世の真理を明らめる(わきまえる)べきです。こんなときは、現実的な条件の中で、自分自身や周りの人を犠牲にしない道を選んでいきましょう。頑張り屋さんにとって「自分を犠牲にしない」という姿勢はとても大切です。なぜなら、どんなにいいことをしたとしても自分への負荷が大きかった場合、あとで必ず怒りがふつふつとわいてくるものだからです。老人ホームの候補を絞り、入所先を決めることができたら、「このホームは、ほかの施設に比べてスタッフが無愛想だ」などと減点法で見るのではなく、「庭に花壇があって、いい雰囲気だ」というように加点法で見ていきましょう。そして、「老人ホーム探しは、やれるだけやった」と自分の頑張りを認めて、心を満足させることが大事です。離れている大切な人に温かさを伝えること老人ホームへ親に入所してもらったら、親はその日から一日の大部分をひとり、個室で過ごすことになります。「いざ離れるとさみしい」「心配でならない」などと感情に流されてソワソワするのではなく、「離れたところにいる親に、温かさを伝えること」に力を注いでいきたいものです。コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
ケースのSさんは、お姑さんからほめられたいという気持ちをあきらめて(諦めて)、「家はスッキリきれいにしておいたほうが、みんなが気持ちのいい時間を過ごせる」と、自分にとって何が幸せなのかということをあきらめ(明らめ)ました。「あきらめる」という言莱には、どうしても否定的な印象を持ってしまうかもしれません。「あきらめるなんて、とんでもない!」と思われる方も多いでしょう。もちろん、単に「断念する」という意味で「あきらめてください」と言っているのではありません。いい意味での「あきらめる」、そんな使い方もあるのです。頑張りすぎて自分を苦しめる前に、「聖なるあきらめ」で賢くあきらめていきましょう。すると、自分でも気づいていなかったけれど、自分にとって本当に大切だったことが見えるようになってくるのです。Iさんという女性のお話をしたいと思います。Iさんは、次のように胸中を明かしてくれました。「45歳になってさまざまな不調に悩まされるようになり、婦人科に行くと更年期障害と診断されました。大きな病気ではないとわかったので安心しました。でも、精神的にしんどい毎日が続いています。子どもたちも自立し、そろそろ私も楽になれる時期のはずなのに、なぜこんなに重苦しいのか。恨みつらみが増えて、さらにはそんな自分がイヤになり……という悪循環に陥っています」こういった悩みは、Iさんに限らず、多くの中高年女性から相談されます。女性にとって一番生きるのがつらい時期というのがあります。それは、更年期障害になる前の38歳ごろからの10年間で、その人の価値観などが大きく変わる時期なのです。その「真っ暗なトンネル」のような苦しい10年間では、肉体面での変化ももちろん気になりますが、それは最初だけです。それよりも、その年齢になって初めて見えてくる人生の景色をめいっぱい満喫するほうが賢いとはいえないでしょうか。この「真っ暗なトンネル」を越えると、皆さんは今までのことがまるでうそのように悩みから卒業していかれます。このような話をIさんにしたところ、「自分はまだ長いトンネルの中にいる。でも、トンネルには必ず終わりがあると知って安心した」と喜んでくれました。自分の力では変えられないことを「あきらめる」Iさんとは事情は違えど、今まさにコロナ禍という先行きの不透明な「真っ暗なトンネル」の中で苦しんでいる人は少なくありません。「聖なるあきらめ」の第一歩は、現状を把握するために「あきらめる(明らめる)」ことから始めます。すると、物事には「自分の力で変えられること」と「自分の力では変えられないこと」との2つがあるのだとわかります。自分で変えられることを見つけたら、さっそく変えてみてください。一方で、変えられないことを無理に変えようと執着すると、自分も周囲の人も疲れてしまいます。自分で変えられないことは「あきらめて(諦めて)」みましょう。「諦められない」は、執着の心から生まれます。「あの時ああすればよかった」「こうすべきだった」などと自分を責めながら、過去の時間の中で生きることです。あるいは、まだ来てもいない未来を先取りし、「こんなことが起こったらどうしよう」と、はてしなく悩み続けることです。過去と未来の時間の中で永遠の迷子になってしまうこと、これが最も強い執着です。「あきらめる(諦める)」とは、この執着を捨てることです。自分は今「真っ暗なトンネル」の中にいるのだと状況をあきらめ(明らめ)たうえで、自分では変えられないことについてはあきらめて(諦めて)、エネルギーを注ぐのはやめましょう。そして、そこから「最善の道」を選ぶことができればいいですね。最善の道を探すコツは、目的を思い出すこと。何のためにそうするのかを、あらためて「あきらめる(明らめる)」のです。すると、変えられないことの他に、いろんな選択肢が見えてくるはずです。理想と現実とのギャップが生むジレンマ「私は正直なところ、親の介護から逃げたいと願っています。仕事に支障が出てしまうからです。親には申し訳ないけれど、施設に入ってもらおうかと考えています。私は冷たい息子なのでしょうか?」このような相談をいただいたことがありました。「親の世話をしたい気持ちはあるけれど、自分の時間を削られては困る」というジレンマが透けて見えるようです。とくに男性の場合は、一家の大黒柱であるうえに働き盛りの年代であることが多く、悩ましいものです。さらに、コロナ禍での感染防止や自粛要請のもと、年老いた親の世話や介護をどうすればよいのか、真面目な人ほど親の気持ちや世間体を考えて、途方に暮れているかもしれません。いったいどうすればいいのでしょうか。親に介護が必要になったとき、「親にとっても、自分自身にとっても100%の満足はない」、まずそう明らめて(認識して)ください。なぜなら、親子といえども利害が衝突することは必ずあり、双方に100%の「最善の道」が開けていることはめったにないからです。冷たく聞こえるかもしれませんが、「親にも自分にも、ある程度の負担は生じるはず」と最初から諦めて期待をしないことが大切です。誰だって「つねに最善の道を選びたい」と願うのが人情です。この向上心は成長のために必要な欲求でもあります。けれども、どんなに頑張っている人にも、限界はつきまとうものです。それは、お金や時間に余裕がある人でも同様です。たとえば、老人ホームヘ親に入所してもらうというケースについて考えてみましょう。「うちの親は、このエリアで一番いい老人ホ-ムに入所してもらおう」 真面目な頑張り屋さんは、そんな思いで資金を潤沢に用意しようとするかもしれません。でも、希望の施設が満員で入れない可能性もあります。また、「理想の老人ホーム」の条件を挙げ始めると、山のように出てくるかもしれません。でも、理想を全部かなえることは、最初から諦めておきましょう。なにごとも「すべてがうまくいくわけがない」というこの世の真理を明らめる(わきまえる)べきです。こんなときは、現実的な条件の中で、自分自身や周りの人を犠牲にしない道を選んでいきましょう。頑張り屋さんにとって「自分を犠牲にしない」という姿勢はとても大切です。なぜなら、どんなにいいことをしたとしても自分への負荷が大きかった場合、あとで必ず怒りがふつふつとわいてくるものだからです。老人ホームの候補を絞り、入所先を決めることができたら、「このホームは、ほかの施設に比べてスタッフが無愛想だ」などと減点法で見るのではなく、「庭に花壇があって、いい雰囲気だ」というように加点法で見ていきましょう。そして、「老人ホーム探しは、やれるだけやった」と自分の頑張りを認めて、心を満足させることが大事です。離れている大切な人に温かさを伝えること老人ホームへ親に入所してもらったら、親はその日から一日の大部分をひとり、個室で過ごすことになります。「いざ離れるとさみしい」「心配でならない」などと感情に流されてソワソワするのではなく、「離れたところにいる親に、温かさを伝えること」に力を注いでいきたいものです。コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
「あきらめる」という言莱には、どうしても否定的な印象を持ってしまうかもしれません。「あきらめるなんて、とんでもない!」と思われる方も多いでしょう。もちろん、単に「断念する」という意味で「あきらめてください」と言っているのではありません。いい意味での「あきらめる」、そんな使い方もあるのです。頑張りすぎて自分を苦しめる前に、「聖なるあきらめ」で賢くあきらめていきましょう。すると、自分でも気づいていなかったけれど、自分にとって本当に大切だったことが見えるようになってくるのです。Iさんという女性のお話をしたいと思います。Iさんは、次のように胸中を明かしてくれました。「45歳になってさまざまな不調に悩まされるようになり、婦人科に行くと更年期障害と診断されました。大きな病気ではないとわかったので安心しました。でも、精神的にしんどい毎日が続いています。子どもたちも自立し、そろそろ私も楽になれる時期のはずなのに、なぜこんなに重苦しいのか。恨みつらみが増えて、さらにはそんな自分がイヤになり……という悪循環に陥っています」こういった悩みは、Iさんに限らず、多くの中高年女性から相談されます。女性にとって一番生きるのがつらい時期というのがあります。それは、更年期障害になる前の38歳ごろからの10年間で、その人の価値観などが大きく変わる時期なのです。その「真っ暗なトンネル」のような苦しい10年間では、肉体面での変化ももちろん気になりますが、それは最初だけです。それよりも、その年齢になって初めて見えてくる人生の景色をめいっぱい満喫するほうが賢いとはいえないでしょうか。この「真っ暗なトンネル」を越えると、皆さんは今までのことがまるでうそのように悩みから卒業していかれます。このような話をIさんにしたところ、「自分はまだ長いトンネルの中にいる。でも、トンネルには必ず終わりがあると知って安心した」と喜んでくれました。自分の力では変えられないことを「あきらめる」Iさんとは事情は違えど、今まさにコロナ禍という先行きの不透明な「真っ暗なトンネル」の中で苦しんでいる人は少なくありません。「聖なるあきらめ」の第一歩は、現状を把握するために「あきらめる(明らめる)」ことから始めます。すると、物事には「自分の力で変えられること」と「自分の力では変えられないこと」との2つがあるのだとわかります。自分で変えられることを見つけたら、さっそく変えてみてください。一方で、変えられないことを無理に変えようと執着すると、自分も周囲の人も疲れてしまいます。自分で変えられないことは「あきらめて(諦めて)」みましょう。「諦められない」は、執着の心から生まれます。「あの時ああすればよかった」「こうすべきだった」などと自分を責めながら、過去の時間の中で生きることです。あるいは、まだ来てもいない未来を先取りし、「こんなことが起こったらどうしよう」と、はてしなく悩み続けることです。過去と未来の時間の中で永遠の迷子になってしまうこと、これが最も強い執着です。「あきらめる(諦める)」とは、この執着を捨てることです。自分は今「真っ暗なトンネル」の中にいるのだと状況をあきらめ(明らめ)たうえで、自分では変えられないことについてはあきらめて(諦めて)、エネルギーを注ぐのはやめましょう。そして、そこから「最善の道」を選ぶことができればいいですね。最善の道を探すコツは、目的を思い出すこと。何のためにそうするのかを、あらためて「あきらめる(明らめる)」のです。すると、変えられないことの他に、いろんな選択肢が見えてくるはずです。理想と現実とのギャップが生むジレンマ「私は正直なところ、親の介護から逃げたいと願っています。仕事に支障が出てしまうからです。親には申し訳ないけれど、施設に入ってもらおうかと考えています。私は冷たい息子なのでしょうか?」このような相談をいただいたことがありました。「親の世話をしたい気持ちはあるけれど、自分の時間を削られては困る」というジレンマが透けて見えるようです。とくに男性の場合は、一家の大黒柱であるうえに働き盛りの年代であることが多く、悩ましいものです。さらに、コロナ禍での感染防止や自粛要請のもと、年老いた親の世話や介護をどうすればよいのか、真面目な人ほど親の気持ちや世間体を考えて、途方に暮れているかもしれません。いったいどうすればいいのでしょうか。親に介護が必要になったとき、「親にとっても、自分自身にとっても100%の満足はない」、まずそう明らめて(認識して)ください。なぜなら、親子といえども利害が衝突することは必ずあり、双方に100%の「最善の道」が開けていることはめったにないからです。冷たく聞こえるかもしれませんが、「親にも自分にも、ある程度の負担は生じるはず」と最初から諦めて期待をしないことが大切です。誰だって「つねに最善の道を選びたい」と願うのが人情です。この向上心は成長のために必要な欲求でもあります。けれども、どんなに頑張っている人にも、限界はつきまとうものです。それは、お金や時間に余裕がある人でも同様です。たとえば、老人ホームヘ親に入所してもらうというケースについて考えてみましょう。「うちの親は、このエリアで一番いい老人ホ-ムに入所してもらおう」 真面目な頑張り屋さんは、そんな思いで資金を潤沢に用意しようとするかもしれません。でも、希望の施設が満員で入れない可能性もあります。また、「理想の老人ホーム」の条件を挙げ始めると、山のように出てくるかもしれません。でも、理想を全部かなえることは、最初から諦めておきましょう。なにごとも「すべてがうまくいくわけがない」というこの世の真理を明らめる(わきまえる)べきです。こんなときは、現実的な条件の中で、自分自身や周りの人を犠牲にしない道を選んでいきましょう。頑張り屋さんにとって「自分を犠牲にしない」という姿勢はとても大切です。なぜなら、どんなにいいことをしたとしても自分への負荷が大きかった場合、あとで必ず怒りがふつふつとわいてくるものだからです。老人ホームの候補を絞り、入所先を決めることができたら、「このホームは、ほかの施設に比べてスタッフが無愛想だ」などと減点法で見るのではなく、「庭に花壇があって、いい雰囲気だ」というように加点法で見ていきましょう。そして、「老人ホーム探しは、やれるだけやった」と自分の頑張りを認めて、心を満足させることが大事です。離れている大切な人に温かさを伝えること老人ホームへ親に入所してもらったら、親はその日から一日の大部分をひとり、個室で過ごすことになります。「いざ離れるとさみしい」「心配でならない」などと感情に流されてソワソワするのではなく、「離れたところにいる親に、温かさを伝えること」に力を注いでいきたいものです。コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
頑張りすぎて自分を苦しめる前に、「聖なるあきらめ」で賢くあきらめていきましょう。すると、自分でも気づいていなかったけれど、自分にとって本当に大切だったことが見えるようになってくるのです。Iさんという女性のお話をしたいと思います。Iさんは、次のように胸中を明かしてくれました。「45歳になってさまざまな不調に悩まされるようになり、婦人科に行くと更年期障害と診断されました。大きな病気ではないとわかったので安心しました。でも、精神的にしんどい毎日が続いています。子どもたちも自立し、そろそろ私も楽になれる時期のはずなのに、なぜこんなに重苦しいのか。恨みつらみが増えて、さらにはそんな自分がイヤになり……という悪循環に陥っています」こういった悩みは、Iさんに限らず、多くの中高年女性から相談されます。女性にとって一番生きるのがつらい時期というのがあります。それは、更年期障害になる前の38歳ごろからの10年間で、その人の価値観などが大きく変わる時期なのです。その「真っ暗なトンネル」のような苦しい10年間では、肉体面での変化ももちろん気になりますが、それは最初だけです。それよりも、その年齢になって初めて見えてくる人生の景色をめいっぱい満喫するほうが賢いとはいえないでしょうか。この「真っ暗なトンネル」を越えると、皆さんは今までのことがまるでうそのように悩みから卒業していかれます。このような話をIさんにしたところ、「自分はまだ長いトンネルの中にいる。でも、トンネルには必ず終わりがあると知って安心した」と喜んでくれました。自分の力では変えられないことを「あきらめる」Iさんとは事情は違えど、今まさにコロナ禍という先行きの不透明な「真っ暗なトンネル」の中で苦しんでいる人は少なくありません。「聖なるあきらめ」の第一歩は、現状を把握するために「あきらめる(明らめる)」ことから始めます。すると、物事には「自分の力で変えられること」と「自分の力では変えられないこと」との2つがあるのだとわかります。自分で変えられることを見つけたら、さっそく変えてみてください。一方で、変えられないことを無理に変えようと執着すると、自分も周囲の人も疲れてしまいます。自分で変えられないことは「あきらめて(諦めて)」みましょう。「諦められない」は、執着の心から生まれます。「あの時ああすればよかった」「こうすべきだった」などと自分を責めながら、過去の時間の中で生きることです。あるいは、まだ来てもいない未来を先取りし、「こんなことが起こったらどうしよう」と、はてしなく悩み続けることです。過去と未来の時間の中で永遠の迷子になってしまうこと、これが最も強い執着です。「あきらめる(諦める)」とは、この執着を捨てることです。自分は今「真っ暗なトンネル」の中にいるのだと状況をあきらめ(明らめ)たうえで、自分では変えられないことについてはあきらめて(諦めて)、エネルギーを注ぐのはやめましょう。そして、そこから「最善の道」を選ぶことができればいいですね。最善の道を探すコツは、目的を思い出すこと。何のためにそうするのかを、あらためて「あきらめる(明らめる)」のです。すると、変えられないことの他に、いろんな選択肢が見えてくるはずです。理想と現実とのギャップが生むジレンマ「私は正直なところ、親の介護から逃げたいと願っています。仕事に支障が出てしまうからです。親には申し訳ないけれど、施設に入ってもらおうかと考えています。私は冷たい息子なのでしょうか?」このような相談をいただいたことがありました。「親の世話をしたい気持ちはあるけれど、自分の時間を削られては困る」というジレンマが透けて見えるようです。とくに男性の場合は、一家の大黒柱であるうえに働き盛りの年代であることが多く、悩ましいものです。さらに、コロナ禍での感染防止や自粛要請のもと、年老いた親の世話や介護をどうすればよいのか、真面目な人ほど親の気持ちや世間体を考えて、途方に暮れているかもしれません。いったいどうすればいいのでしょうか。親に介護が必要になったとき、「親にとっても、自分自身にとっても100%の満足はない」、まずそう明らめて(認識して)ください。なぜなら、親子といえども利害が衝突することは必ずあり、双方に100%の「最善の道」が開けていることはめったにないからです。冷たく聞こえるかもしれませんが、「親にも自分にも、ある程度の負担は生じるはず」と最初から諦めて期待をしないことが大切です。誰だって「つねに最善の道を選びたい」と願うのが人情です。この向上心は成長のために必要な欲求でもあります。けれども、どんなに頑張っている人にも、限界はつきまとうものです。それは、お金や時間に余裕がある人でも同様です。たとえば、老人ホームヘ親に入所してもらうというケースについて考えてみましょう。「うちの親は、このエリアで一番いい老人ホ-ムに入所してもらおう」 真面目な頑張り屋さんは、そんな思いで資金を潤沢に用意しようとするかもしれません。でも、希望の施設が満員で入れない可能性もあります。また、「理想の老人ホーム」の条件を挙げ始めると、山のように出てくるかもしれません。でも、理想を全部かなえることは、最初から諦めておきましょう。なにごとも「すべてがうまくいくわけがない」というこの世の真理を明らめる(わきまえる)べきです。こんなときは、現実的な条件の中で、自分自身や周りの人を犠牲にしない道を選んでいきましょう。頑張り屋さんにとって「自分を犠牲にしない」という姿勢はとても大切です。なぜなら、どんなにいいことをしたとしても自分への負荷が大きかった場合、あとで必ず怒りがふつふつとわいてくるものだからです。老人ホームの候補を絞り、入所先を決めることができたら、「このホームは、ほかの施設に比べてスタッフが無愛想だ」などと減点法で見るのではなく、「庭に花壇があって、いい雰囲気だ」というように加点法で見ていきましょう。そして、「老人ホーム探しは、やれるだけやった」と自分の頑張りを認めて、心を満足させることが大事です。離れている大切な人に温かさを伝えること老人ホームへ親に入所してもらったら、親はその日から一日の大部分をひとり、個室で過ごすことになります。「いざ離れるとさみしい」「心配でならない」などと感情に流されてソワソワするのではなく、「離れたところにいる親に、温かさを伝えること」に力を注いでいきたいものです。コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
Iさんという女性のお話をしたいと思います。Iさんは、次のように胸中を明かしてくれました。「45歳になってさまざまな不調に悩まされるようになり、婦人科に行くと更年期障害と診断されました。大きな病気ではないとわかったので安心しました。でも、精神的にしんどい毎日が続いています。子どもたちも自立し、そろそろ私も楽になれる時期のはずなのに、なぜこんなに重苦しいのか。恨みつらみが増えて、さらにはそんな自分がイヤになり……という悪循環に陥っています」こういった悩みは、Iさんに限らず、多くの中高年女性から相談されます。女性にとって一番生きるのがつらい時期というのがあります。それは、更年期障害になる前の38歳ごろからの10年間で、その人の価値観などが大きく変わる時期なのです。その「真っ暗なトンネル」のような苦しい10年間では、肉体面での変化ももちろん気になりますが、それは最初だけです。それよりも、その年齢になって初めて見えてくる人生の景色をめいっぱい満喫するほうが賢いとはいえないでしょうか。この「真っ暗なトンネル」を越えると、皆さんは今までのことがまるでうそのように悩みから卒業していかれます。このような話をIさんにしたところ、「自分はまだ長いトンネルの中にいる。でも、トンネルには必ず終わりがあると知って安心した」と喜んでくれました。自分の力では変えられないことを「あきらめる」Iさんとは事情は違えど、今まさにコロナ禍という先行きの不透明な「真っ暗なトンネル」の中で苦しんでいる人は少なくありません。「聖なるあきらめ」の第一歩は、現状を把握するために「あきらめる(明らめる)」ことから始めます。すると、物事には「自分の力で変えられること」と「自分の力では変えられないこと」との2つがあるのだとわかります。自分で変えられることを見つけたら、さっそく変えてみてください。一方で、変えられないことを無理に変えようと執着すると、自分も周囲の人も疲れてしまいます。自分で変えられないことは「あきらめて(諦めて)」みましょう。「諦められない」は、執着の心から生まれます。「あの時ああすればよかった」「こうすべきだった」などと自分を責めながら、過去の時間の中で生きることです。あるいは、まだ来てもいない未来を先取りし、「こんなことが起こったらどうしよう」と、はてしなく悩み続けることです。過去と未来の時間の中で永遠の迷子になってしまうこと、これが最も強い執着です。「あきらめる(諦める)」とは、この執着を捨てることです。自分は今「真っ暗なトンネル」の中にいるのだと状況をあきらめ(明らめ)たうえで、自分では変えられないことについてはあきらめて(諦めて)、エネルギーを注ぐのはやめましょう。そして、そこから「最善の道」を選ぶことができればいいですね。最善の道を探すコツは、目的を思い出すこと。何のためにそうするのかを、あらためて「あきらめる(明らめる)」のです。すると、変えられないことの他に、いろんな選択肢が見えてくるはずです。理想と現実とのギャップが生むジレンマ「私は正直なところ、親の介護から逃げたいと願っています。仕事に支障が出てしまうからです。親には申し訳ないけれど、施設に入ってもらおうかと考えています。私は冷たい息子なのでしょうか?」このような相談をいただいたことがありました。「親の世話をしたい気持ちはあるけれど、自分の時間を削られては困る」というジレンマが透けて見えるようです。とくに男性の場合は、一家の大黒柱であるうえに働き盛りの年代であることが多く、悩ましいものです。さらに、コロナ禍での感染防止や自粛要請のもと、年老いた親の世話や介護をどうすればよいのか、真面目な人ほど親の気持ちや世間体を考えて、途方に暮れているかもしれません。いったいどうすればいいのでしょうか。親に介護が必要になったとき、「親にとっても、自分自身にとっても100%の満足はない」、まずそう明らめて(認識して)ください。なぜなら、親子といえども利害が衝突することは必ずあり、双方に100%の「最善の道」が開けていることはめったにないからです。冷たく聞こえるかもしれませんが、「親にも自分にも、ある程度の負担は生じるはず」と最初から諦めて期待をしないことが大切です。誰だって「つねに最善の道を選びたい」と願うのが人情です。この向上心は成長のために必要な欲求でもあります。けれども、どんなに頑張っている人にも、限界はつきまとうものです。それは、お金や時間に余裕がある人でも同様です。たとえば、老人ホームヘ親に入所してもらうというケースについて考えてみましょう。「うちの親は、このエリアで一番いい老人ホ-ムに入所してもらおう」 真面目な頑張り屋さんは、そんな思いで資金を潤沢に用意しようとするかもしれません。でも、希望の施設が満員で入れない可能性もあります。また、「理想の老人ホーム」の条件を挙げ始めると、山のように出てくるかもしれません。でも、理想を全部かなえることは、最初から諦めておきましょう。なにごとも「すべてがうまくいくわけがない」というこの世の真理を明らめる(わきまえる)べきです。こんなときは、現実的な条件の中で、自分自身や周りの人を犠牲にしない道を選んでいきましょう。頑張り屋さんにとって「自分を犠牲にしない」という姿勢はとても大切です。なぜなら、どんなにいいことをしたとしても自分への負荷が大きかった場合、あとで必ず怒りがふつふつとわいてくるものだからです。老人ホームの候補を絞り、入所先を決めることができたら、「このホームは、ほかの施設に比べてスタッフが無愛想だ」などと減点法で見るのではなく、「庭に花壇があって、いい雰囲気だ」というように加点法で見ていきましょう。そして、「老人ホーム探しは、やれるだけやった」と自分の頑張りを認めて、心を満足させることが大事です。離れている大切な人に温かさを伝えること老人ホームへ親に入所してもらったら、親はその日から一日の大部分をひとり、個室で過ごすことになります。「いざ離れるとさみしい」「心配でならない」などと感情に流されてソワソワするのではなく、「離れたところにいる親に、温かさを伝えること」に力を注いでいきたいものです。コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
「45歳になってさまざまな不調に悩まされるようになり、婦人科に行くと更年期障害と診断されました。大きな病気ではないとわかったので安心しました。でも、精神的にしんどい毎日が続いています。子どもたちも自立し、そろそろ私も楽になれる時期のはずなのに、なぜこんなに重苦しいのか。恨みつらみが増えて、さらにはそんな自分がイヤになり……という悪循環に陥っています」こういった悩みは、Iさんに限らず、多くの中高年女性から相談されます。女性にとって一番生きるのがつらい時期というのがあります。それは、更年期障害になる前の38歳ごろからの10年間で、その人の価値観などが大きく変わる時期なのです。その「真っ暗なトンネル」のような苦しい10年間では、肉体面での変化ももちろん気になりますが、それは最初だけです。それよりも、その年齢になって初めて見えてくる人生の景色をめいっぱい満喫するほうが賢いとはいえないでしょうか。この「真っ暗なトンネル」を越えると、皆さんは今までのことがまるでうそのように悩みから卒業していかれます。このような話をIさんにしたところ、「自分はまだ長いトンネルの中にいる。でも、トンネルには必ず終わりがあると知って安心した」と喜んでくれました。自分の力では変えられないことを「あきらめる」Iさんとは事情は違えど、今まさにコロナ禍という先行きの不透明な「真っ暗なトンネル」の中で苦しんでいる人は少なくありません。「聖なるあきらめ」の第一歩は、現状を把握するために「あきらめる(明らめる)」ことから始めます。すると、物事には「自分の力で変えられること」と「自分の力では変えられないこと」との2つがあるのだとわかります。自分で変えられることを見つけたら、さっそく変えてみてください。一方で、変えられないことを無理に変えようと執着すると、自分も周囲の人も疲れてしまいます。自分で変えられないことは「あきらめて(諦めて)」みましょう。「諦められない」は、執着の心から生まれます。「あの時ああすればよかった」「こうすべきだった」などと自分を責めながら、過去の時間の中で生きることです。あるいは、まだ来てもいない未来を先取りし、「こんなことが起こったらどうしよう」と、はてしなく悩み続けることです。過去と未来の時間の中で永遠の迷子になってしまうこと、これが最も強い執着です。「あきらめる(諦める)」とは、この執着を捨てることです。自分は今「真っ暗なトンネル」の中にいるのだと状況をあきらめ(明らめ)たうえで、自分では変えられないことについてはあきらめて(諦めて)、エネルギーを注ぐのはやめましょう。そして、そこから「最善の道」を選ぶことができればいいですね。最善の道を探すコツは、目的を思い出すこと。何のためにそうするのかを、あらためて「あきらめる(明らめる)」のです。すると、変えられないことの他に、いろんな選択肢が見えてくるはずです。理想と現実とのギャップが生むジレンマ「私は正直なところ、親の介護から逃げたいと願っています。仕事に支障が出てしまうからです。親には申し訳ないけれど、施設に入ってもらおうかと考えています。私は冷たい息子なのでしょうか?」このような相談をいただいたことがありました。「親の世話をしたい気持ちはあるけれど、自分の時間を削られては困る」というジレンマが透けて見えるようです。とくに男性の場合は、一家の大黒柱であるうえに働き盛りの年代であることが多く、悩ましいものです。さらに、コロナ禍での感染防止や自粛要請のもと、年老いた親の世話や介護をどうすればよいのか、真面目な人ほど親の気持ちや世間体を考えて、途方に暮れているかもしれません。いったいどうすればいいのでしょうか。親に介護が必要になったとき、「親にとっても、自分自身にとっても100%の満足はない」、まずそう明らめて(認識して)ください。なぜなら、親子といえども利害が衝突することは必ずあり、双方に100%の「最善の道」が開けていることはめったにないからです。冷たく聞こえるかもしれませんが、「親にも自分にも、ある程度の負担は生じるはず」と最初から諦めて期待をしないことが大切です。誰だって「つねに最善の道を選びたい」と願うのが人情です。この向上心は成長のために必要な欲求でもあります。けれども、どんなに頑張っている人にも、限界はつきまとうものです。それは、お金や時間に余裕がある人でも同様です。たとえば、老人ホームヘ親に入所してもらうというケースについて考えてみましょう。「うちの親は、このエリアで一番いい老人ホ-ムに入所してもらおう」 真面目な頑張り屋さんは、そんな思いで資金を潤沢に用意しようとするかもしれません。でも、希望の施設が満員で入れない可能性もあります。また、「理想の老人ホーム」の条件を挙げ始めると、山のように出てくるかもしれません。でも、理想を全部かなえることは、最初から諦めておきましょう。なにごとも「すべてがうまくいくわけがない」というこの世の真理を明らめる(わきまえる)べきです。こんなときは、現実的な条件の中で、自分自身や周りの人を犠牲にしない道を選んでいきましょう。頑張り屋さんにとって「自分を犠牲にしない」という姿勢はとても大切です。なぜなら、どんなにいいことをしたとしても自分への負荷が大きかった場合、あとで必ず怒りがふつふつとわいてくるものだからです。老人ホームの候補を絞り、入所先を決めることができたら、「このホームは、ほかの施設に比べてスタッフが無愛想だ」などと減点法で見るのではなく、「庭に花壇があって、いい雰囲気だ」というように加点法で見ていきましょう。そして、「老人ホーム探しは、やれるだけやった」と自分の頑張りを認めて、心を満足させることが大事です。離れている大切な人に温かさを伝えること老人ホームへ親に入所してもらったら、親はその日から一日の大部分をひとり、個室で過ごすことになります。「いざ離れるとさみしい」「心配でならない」などと感情に流されてソワソワするのではなく、「離れたところにいる親に、温かさを伝えること」に力を注いでいきたいものです。コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
こういった悩みは、Iさんに限らず、多くの中高年女性から相談されます。女性にとって一番生きるのがつらい時期というのがあります。それは、更年期障害になる前の38歳ごろからの10年間で、その人の価値観などが大きく変わる時期なのです。その「真っ暗なトンネル」のような苦しい10年間では、肉体面での変化ももちろん気になりますが、それは最初だけです。それよりも、その年齢になって初めて見えてくる人生の景色をめいっぱい満喫するほうが賢いとはいえないでしょうか。この「真っ暗なトンネル」を越えると、皆さんは今までのことがまるでうそのように悩みから卒業していかれます。このような話をIさんにしたところ、「自分はまだ長いトンネルの中にいる。でも、トンネルには必ず終わりがあると知って安心した」と喜んでくれました。自分の力では変えられないことを「あきらめる」Iさんとは事情は違えど、今まさにコロナ禍という先行きの不透明な「真っ暗なトンネル」の中で苦しんでいる人は少なくありません。「聖なるあきらめ」の第一歩は、現状を把握するために「あきらめる(明らめる)」ことから始めます。すると、物事には「自分の力で変えられること」と「自分の力では変えられないこと」との2つがあるのだとわかります。自分で変えられることを見つけたら、さっそく変えてみてください。一方で、変えられないことを無理に変えようと執着すると、自分も周囲の人も疲れてしまいます。自分で変えられないことは「あきらめて(諦めて)」みましょう。「諦められない」は、執着の心から生まれます。「あの時ああすればよかった」「こうすべきだった」などと自分を責めながら、過去の時間の中で生きることです。あるいは、まだ来てもいない未来を先取りし、「こんなことが起こったらどうしよう」と、はてしなく悩み続けることです。過去と未来の時間の中で永遠の迷子になってしまうこと、これが最も強い執着です。「あきらめる(諦める)」とは、この執着を捨てることです。自分は今「真っ暗なトンネル」の中にいるのだと状況をあきらめ(明らめ)たうえで、自分では変えられないことについてはあきらめて(諦めて)、エネルギーを注ぐのはやめましょう。そして、そこから「最善の道」を選ぶことができればいいですね。最善の道を探すコツは、目的を思い出すこと。何のためにそうするのかを、あらためて「あきらめる(明らめる)」のです。すると、変えられないことの他に、いろんな選択肢が見えてくるはずです。理想と現実とのギャップが生むジレンマ「私は正直なところ、親の介護から逃げたいと願っています。仕事に支障が出てしまうからです。親には申し訳ないけれど、施設に入ってもらおうかと考えています。私は冷たい息子なのでしょうか?」このような相談をいただいたことがありました。「親の世話をしたい気持ちはあるけれど、自分の時間を削られては困る」というジレンマが透けて見えるようです。とくに男性の場合は、一家の大黒柱であるうえに働き盛りの年代であることが多く、悩ましいものです。さらに、コロナ禍での感染防止や自粛要請のもと、年老いた親の世話や介護をどうすればよいのか、真面目な人ほど親の気持ちや世間体を考えて、途方に暮れているかもしれません。いったいどうすればいいのでしょうか。親に介護が必要になったとき、「親にとっても、自分自身にとっても100%の満足はない」、まずそう明らめて(認識して)ください。なぜなら、親子といえども利害が衝突することは必ずあり、双方に100%の「最善の道」が開けていることはめったにないからです。冷たく聞こえるかもしれませんが、「親にも自分にも、ある程度の負担は生じるはず」と最初から諦めて期待をしないことが大切です。誰だって「つねに最善の道を選びたい」と願うのが人情です。この向上心は成長のために必要な欲求でもあります。けれども、どんなに頑張っている人にも、限界はつきまとうものです。それは、お金や時間に余裕がある人でも同様です。たとえば、老人ホームヘ親に入所してもらうというケースについて考えてみましょう。「うちの親は、このエリアで一番いい老人ホ-ムに入所してもらおう」 真面目な頑張り屋さんは、そんな思いで資金を潤沢に用意しようとするかもしれません。でも、希望の施設が満員で入れない可能性もあります。また、「理想の老人ホーム」の条件を挙げ始めると、山のように出てくるかもしれません。でも、理想を全部かなえることは、最初から諦めておきましょう。なにごとも「すべてがうまくいくわけがない」というこの世の真理を明らめる(わきまえる)べきです。こんなときは、現実的な条件の中で、自分自身や周りの人を犠牲にしない道を選んでいきましょう。頑張り屋さんにとって「自分を犠牲にしない」という姿勢はとても大切です。なぜなら、どんなにいいことをしたとしても自分への負荷が大きかった場合、あとで必ず怒りがふつふつとわいてくるものだからです。老人ホームの候補を絞り、入所先を決めることができたら、「このホームは、ほかの施設に比べてスタッフが無愛想だ」などと減点法で見るのではなく、「庭に花壇があって、いい雰囲気だ」というように加点法で見ていきましょう。そして、「老人ホーム探しは、やれるだけやった」と自分の頑張りを認めて、心を満足させることが大事です。離れている大切な人に温かさを伝えること老人ホームへ親に入所してもらったら、親はその日から一日の大部分をひとり、個室で過ごすことになります。「いざ離れるとさみしい」「心配でならない」などと感情に流されてソワソワするのではなく、「離れたところにいる親に、温かさを伝えること」に力を注いでいきたいものです。コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
このような話をIさんにしたところ、「自分はまだ長いトンネルの中にいる。でも、トンネルには必ず終わりがあると知って安心した」と喜んでくれました。自分の力では変えられないことを「あきらめる」Iさんとは事情は違えど、今まさにコロナ禍という先行きの不透明な「真っ暗なトンネル」の中で苦しんでいる人は少なくありません。「聖なるあきらめ」の第一歩は、現状を把握するために「あきらめる(明らめる)」ことから始めます。すると、物事には「自分の力で変えられること」と「自分の力では変えられないこと」との2つがあるのだとわかります。自分で変えられることを見つけたら、さっそく変えてみてください。一方で、変えられないことを無理に変えようと執着すると、自分も周囲の人も疲れてしまいます。自分で変えられないことは「あきらめて(諦めて)」みましょう。「諦められない」は、執着の心から生まれます。「あの時ああすればよかった」「こうすべきだった」などと自分を責めながら、過去の時間の中で生きることです。あるいは、まだ来てもいない未来を先取りし、「こんなことが起こったらどうしよう」と、はてしなく悩み続けることです。過去と未来の時間の中で永遠の迷子になってしまうこと、これが最も強い執着です。「あきらめる(諦める)」とは、この執着を捨てることです。自分は今「真っ暗なトンネル」の中にいるのだと状況をあきらめ(明らめ)たうえで、自分では変えられないことについてはあきらめて(諦めて)、エネルギーを注ぐのはやめましょう。そして、そこから「最善の道」を選ぶことができればいいですね。最善の道を探すコツは、目的を思い出すこと。何のためにそうするのかを、あらためて「あきらめる(明らめる)」のです。すると、変えられないことの他に、いろんな選択肢が見えてくるはずです。理想と現実とのギャップが生むジレンマ「私は正直なところ、親の介護から逃げたいと願っています。仕事に支障が出てしまうからです。親には申し訳ないけれど、施設に入ってもらおうかと考えています。私は冷たい息子なのでしょうか?」このような相談をいただいたことがありました。「親の世話をしたい気持ちはあるけれど、自分の時間を削られては困る」というジレンマが透けて見えるようです。とくに男性の場合は、一家の大黒柱であるうえに働き盛りの年代であることが多く、悩ましいものです。さらに、コロナ禍での感染防止や自粛要請のもと、年老いた親の世話や介護をどうすればよいのか、真面目な人ほど親の気持ちや世間体を考えて、途方に暮れているかもしれません。いったいどうすればいいのでしょうか。親に介護が必要になったとき、「親にとっても、自分自身にとっても100%の満足はない」、まずそう明らめて(認識して)ください。なぜなら、親子といえども利害が衝突することは必ずあり、双方に100%の「最善の道」が開けていることはめったにないからです。冷たく聞こえるかもしれませんが、「親にも自分にも、ある程度の負担は生じるはず」と最初から諦めて期待をしないことが大切です。誰だって「つねに最善の道を選びたい」と願うのが人情です。この向上心は成長のために必要な欲求でもあります。けれども、どんなに頑張っている人にも、限界はつきまとうものです。それは、お金や時間に余裕がある人でも同様です。たとえば、老人ホームヘ親に入所してもらうというケースについて考えてみましょう。「うちの親は、このエリアで一番いい老人ホ-ムに入所してもらおう」 真面目な頑張り屋さんは、そんな思いで資金を潤沢に用意しようとするかもしれません。でも、希望の施設が満員で入れない可能性もあります。また、「理想の老人ホーム」の条件を挙げ始めると、山のように出てくるかもしれません。でも、理想を全部かなえることは、最初から諦めておきましょう。なにごとも「すべてがうまくいくわけがない」というこの世の真理を明らめる(わきまえる)べきです。こんなときは、現実的な条件の中で、自分自身や周りの人を犠牲にしない道を選んでいきましょう。頑張り屋さんにとって「自分を犠牲にしない」という姿勢はとても大切です。なぜなら、どんなにいいことをしたとしても自分への負荷が大きかった場合、あとで必ず怒りがふつふつとわいてくるものだからです。老人ホームの候補を絞り、入所先を決めることができたら、「このホームは、ほかの施設に比べてスタッフが無愛想だ」などと減点法で見るのではなく、「庭に花壇があって、いい雰囲気だ」というように加点法で見ていきましょう。そして、「老人ホーム探しは、やれるだけやった」と自分の頑張りを認めて、心を満足させることが大事です。離れている大切な人に温かさを伝えること老人ホームへ親に入所してもらったら、親はその日から一日の大部分をひとり、個室で過ごすことになります。「いざ離れるとさみしい」「心配でならない」などと感情に流されてソワソワするのではなく、「離れたところにいる親に、温かさを伝えること」に力を注いでいきたいものです。コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
Iさんとは事情は違えど、今まさにコロナ禍という先行きの不透明な「真っ暗なトンネル」の中で苦しんでいる人は少なくありません。「聖なるあきらめ」の第一歩は、現状を把握するために「あきらめる(明らめる)」ことから始めます。すると、物事には「自分の力で変えられること」と「自分の力では変えられないこと」との2つがあるのだとわかります。自分で変えられることを見つけたら、さっそく変えてみてください。一方で、変えられないことを無理に変えようと執着すると、自分も周囲の人も疲れてしまいます。自分で変えられないことは「あきらめて(諦めて)」みましょう。「諦められない」は、執着の心から生まれます。「あの時ああすればよかった」「こうすべきだった」などと自分を責めながら、過去の時間の中で生きることです。あるいは、まだ来てもいない未来を先取りし、「こんなことが起こったらどうしよう」と、はてしなく悩み続けることです。過去と未来の時間の中で永遠の迷子になってしまうこと、これが最も強い執着です。「あきらめる(諦める)」とは、この執着を捨てることです。自分は今「真っ暗なトンネル」の中にいるのだと状況をあきらめ(明らめ)たうえで、自分では変えられないことについてはあきらめて(諦めて)、エネルギーを注ぐのはやめましょう。そして、そこから「最善の道」を選ぶことができればいいですね。最善の道を探すコツは、目的を思い出すこと。何のためにそうするのかを、あらためて「あきらめる(明らめる)」のです。すると、変えられないことの他に、いろんな選択肢が見えてくるはずです。理想と現実とのギャップが生むジレンマ「私は正直なところ、親の介護から逃げたいと願っています。仕事に支障が出てしまうからです。親には申し訳ないけれど、施設に入ってもらおうかと考えています。私は冷たい息子なのでしょうか?」このような相談をいただいたことがありました。「親の世話をしたい気持ちはあるけれど、自分の時間を削られては困る」というジレンマが透けて見えるようです。とくに男性の場合は、一家の大黒柱であるうえに働き盛りの年代であることが多く、悩ましいものです。さらに、コロナ禍での感染防止や自粛要請のもと、年老いた親の世話や介護をどうすればよいのか、真面目な人ほど親の気持ちや世間体を考えて、途方に暮れているかもしれません。いったいどうすればいいのでしょうか。親に介護が必要になったとき、「親にとっても、自分自身にとっても100%の満足はない」、まずそう明らめて(認識して)ください。なぜなら、親子といえども利害が衝突することは必ずあり、双方に100%の「最善の道」が開けていることはめったにないからです。冷たく聞こえるかもしれませんが、「親にも自分にも、ある程度の負担は生じるはず」と最初から諦めて期待をしないことが大切です。誰だって「つねに最善の道を選びたい」と願うのが人情です。この向上心は成長のために必要な欲求でもあります。けれども、どんなに頑張っている人にも、限界はつきまとうものです。それは、お金や時間に余裕がある人でも同様です。たとえば、老人ホームヘ親に入所してもらうというケースについて考えてみましょう。「うちの親は、このエリアで一番いい老人ホ-ムに入所してもらおう」 真面目な頑張り屋さんは、そんな思いで資金を潤沢に用意しようとするかもしれません。でも、希望の施設が満員で入れない可能性もあります。また、「理想の老人ホーム」の条件を挙げ始めると、山のように出てくるかもしれません。でも、理想を全部かなえることは、最初から諦めておきましょう。なにごとも「すべてがうまくいくわけがない」というこの世の真理を明らめる(わきまえる)べきです。こんなときは、現実的な条件の中で、自分自身や周りの人を犠牲にしない道を選んでいきましょう。頑張り屋さんにとって「自分を犠牲にしない」という姿勢はとても大切です。なぜなら、どんなにいいことをしたとしても自分への負荷が大きかった場合、あとで必ず怒りがふつふつとわいてくるものだからです。老人ホームの候補を絞り、入所先を決めることができたら、「このホームは、ほかの施設に比べてスタッフが無愛想だ」などと減点法で見るのではなく、「庭に花壇があって、いい雰囲気だ」というように加点法で見ていきましょう。そして、「老人ホーム探しは、やれるだけやった」と自分の頑張りを認めて、心を満足させることが大事です。離れている大切な人に温かさを伝えること老人ホームへ親に入所してもらったら、親はその日から一日の大部分をひとり、個室で過ごすことになります。「いざ離れるとさみしい」「心配でならない」などと感情に流されてソワソワするのではなく、「離れたところにいる親に、温かさを伝えること」に力を注いでいきたいものです。コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
「聖なるあきらめ」の第一歩は、現状を把握するために「あきらめる(明らめる)」ことから始めます。すると、物事には「自分の力で変えられること」と「自分の力では変えられないこと」との2つがあるのだとわかります。自分で変えられることを見つけたら、さっそく変えてみてください。一方で、変えられないことを無理に変えようと執着すると、自分も周囲の人も疲れてしまいます。自分で変えられないことは「あきらめて(諦めて)」みましょう。「諦められない」は、執着の心から生まれます。「あの時ああすればよかった」「こうすべきだった」などと自分を責めながら、過去の時間の中で生きることです。あるいは、まだ来てもいない未来を先取りし、「こんなことが起こったらどうしよう」と、はてしなく悩み続けることです。過去と未来の時間の中で永遠の迷子になってしまうこと、これが最も強い執着です。「あきらめる(諦める)」とは、この執着を捨てることです。自分は今「真っ暗なトンネル」の中にいるのだと状況をあきらめ(明らめ)たうえで、自分では変えられないことについてはあきらめて(諦めて)、エネルギーを注ぐのはやめましょう。そして、そこから「最善の道」を選ぶことができればいいですね。最善の道を探すコツは、目的を思い出すこと。何のためにそうするのかを、あらためて「あきらめる(明らめる)」のです。すると、変えられないことの他に、いろんな選択肢が見えてくるはずです。理想と現実とのギャップが生むジレンマ「私は正直なところ、親の介護から逃げたいと願っています。仕事に支障が出てしまうからです。親には申し訳ないけれど、施設に入ってもらおうかと考えています。私は冷たい息子なのでしょうか?」このような相談をいただいたことがありました。「親の世話をしたい気持ちはあるけれど、自分の時間を削られては困る」というジレンマが透けて見えるようです。とくに男性の場合は、一家の大黒柱であるうえに働き盛りの年代であることが多く、悩ましいものです。さらに、コロナ禍での感染防止や自粛要請のもと、年老いた親の世話や介護をどうすればよいのか、真面目な人ほど親の気持ちや世間体を考えて、途方に暮れているかもしれません。いったいどうすればいいのでしょうか。親に介護が必要になったとき、「親にとっても、自分自身にとっても100%の満足はない」、まずそう明らめて(認識して)ください。なぜなら、親子といえども利害が衝突することは必ずあり、双方に100%の「最善の道」が開けていることはめったにないからです。冷たく聞こえるかもしれませんが、「親にも自分にも、ある程度の負担は生じるはず」と最初から諦めて期待をしないことが大切です。誰だって「つねに最善の道を選びたい」と願うのが人情です。この向上心は成長のために必要な欲求でもあります。けれども、どんなに頑張っている人にも、限界はつきまとうものです。それは、お金や時間に余裕がある人でも同様です。たとえば、老人ホームヘ親に入所してもらうというケースについて考えてみましょう。「うちの親は、このエリアで一番いい老人ホ-ムに入所してもらおう」 真面目な頑張り屋さんは、そんな思いで資金を潤沢に用意しようとするかもしれません。でも、希望の施設が満員で入れない可能性もあります。また、「理想の老人ホーム」の条件を挙げ始めると、山のように出てくるかもしれません。でも、理想を全部かなえることは、最初から諦めておきましょう。なにごとも「すべてがうまくいくわけがない」というこの世の真理を明らめる(わきまえる)べきです。こんなときは、現実的な条件の中で、自分自身や周りの人を犠牲にしない道を選んでいきましょう。頑張り屋さんにとって「自分を犠牲にしない」という姿勢はとても大切です。なぜなら、どんなにいいことをしたとしても自分への負荷が大きかった場合、あとで必ず怒りがふつふつとわいてくるものだからです。老人ホームの候補を絞り、入所先を決めることができたら、「このホームは、ほかの施設に比べてスタッフが無愛想だ」などと減点法で見るのではなく、「庭に花壇があって、いい雰囲気だ」というように加点法で見ていきましょう。そして、「老人ホーム探しは、やれるだけやった」と自分の頑張りを認めて、心を満足させることが大事です。離れている大切な人に温かさを伝えること老人ホームへ親に入所してもらったら、親はその日から一日の大部分をひとり、個室で過ごすことになります。「いざ離れるとさみしい」「心配でならない」などと感情に流されてソワソワするのではなく、「離れたところにいる親に、温かさを伝えること」に力を注いでいきたいものです。コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
自分で変えられることを見つけたら、さっそく変えてみてください。一方で、変えられないことを無理に変えようと執着すると、自分も周囲の人も疲れてしまいます。自分で変えられないことは「あきらめて(諦めて)」みましょう。「諦められない」は、執着の心から生まれます。「あの時ああすればよかった」「こうすべきだった」などと自分を責めながら、過去の時間の中で生きることです。あるいは、まだ来てもいない未来を先取りし、「こんなことが起こったらどうしよう」と、はてしなく悩み続けることです。過去と未来の時間の中で永遠の迷子になってしまうこと、これが最も強い執着です。「あきらめる(諦める)」とは、この執着を捨てることです。自分は今「真っ暗なトンネル」の中にいるのだと状況をあきらめ(明らめ)たうえで、自分では変えられないことについてはあきらめて(諦めて)、エネルギーを注ぐのはやめましょう。そして、そこから「最善の道」を選ぶことができればいいですね。最善の道を探すコツは、目的を思い出すこと。何のためにそうするのかを、あらためて「あきらめる(明らめる)」のです。すると、変えられないことの他に、いろんな選択肢が見えてくるはずです。理想と現実とのギャップが生むジレンマ「私は正直なところ、親の介護から逃げたいと願っています。仕事に支障が出てしまうからです。親には申し訳ないけれど、施設に入ってもらおうかと考えています。私は冷たい息子なのでしょうか?」このような相談をいただいたことがありました。「親の世話をしたい気持ちはあるけれど、自分の時間を削られては困る」というジレンマが透けて見えるようです。とくに男性の場合は、一家の大黒柱であるうえに働き盛りの年代であることが多く、悩ましいものです。さらに、コロナ禍での感染防止や自粛要請のもと、年老いた親の世話や介護をどうすればよいのか、真面目な人ほど親の気持ちや世間体を考えて、途方に暮れているかもしれません。いったいどうすればいいのでしょうか。親に介護が必要になったとき、「親にとっても、自分自身にとっても100%の満足はない」、まずそう明らめて(認識して)ください。なぜなら、親子といえども利害が衝突することは必ずあり、双方に100%の「最善の道」が開けていることはめったにないからです。冷たく聞こえるかもしれませんが、「親にも自分にも、ある程度の負担は生じるはず」と最初から諦めて期待をしないことが大切です。誰だって「つねに最善の道を選びたい」と願うのが人情です。この向上心は成長のために必要な欲求でもあります。けれども、どんなに頑張っている人にも、限界はつきまとうものです。それは、お金や時間に余裕がある人でも同様です。たとえば、老人ホームヘ親に入所してもらうというケースについて考えてみましょう。「うちの親は、このエリアで一番いい老人ホ-ムに入所してもらおう」 真面目な頑張り屋さんは、そんな思いで資金を潤沢に用意しようとするかもしれません。でも、希望の施設が満員で入れない可能性もあります。また、「理想の老人ホーム」の条件を挙げ始めると、山のように出てくるかもしれません。でも、理想を全部かなえることは、最初から諦めておきましょう。なにごとも「すべてがうまくいくわけがない」というこの世の真理を明らめる(わきまえる)べきです。こんなときは、現実的な条件の中で、自分自身や周りの人を犠牲にしない道を選んでいきましょう。頑張り屋さんにとって「自分を犠牲にしない」という姿勢はとても大切です。なぜなら、どんなにいいことをしたとしても自分への負荷が大きかった場合、あとで必ず怒りがふつふつとわいてくるものだからです。老人ホームの候補を絞り、入所先を決めることができたら、「このホームは、ほかの施設に比べてスタッフが無愛想だ」などと減点法で見るのではなく、「庭に花壇があって、いい雰囲気だ」というように加点法で見ていきましょう。そして、「老人ホーム探しは、やれるだけやった」と自分の頑張りを認めて、心を満足させることが大事です。離れている大切な人に温かさを伝えること老人ホームへ親に入所してもらったら、親はその日から一日の大部分をひとり、個室で過ごすことになります。「いざ離れるとさみしい」「心配でならない」などと感情に流されてソワソワするのではなく、「離れたところにいる親に、温かさを伝えること」に力を注いでいきたいものです。コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
「諦められない」は、執着の心から生まれます。「あの時ああすればよかった」「こうすべきだった」などと自分を責めながら、過去の時間の中で生きることです。あるいは、まだ来てもいない未来を先取りし、「こんなことが起こったらどうしよう」と、はてしなく悩み続けることです。過去と未来の時間の中で永遠の迷子になってしまうこと、これが最も強い執着です。「あきらめる(諦める)」とは、この執着を捨てることです。自分は今「真っ暗なトンネル」の中にいるのだと状況をあきらめ(明らめ)たうえで、自分では変えられないことについてはあきらめて(諦めて)、エネルギーを注ぐのはやめましょう。そして、そこから「最善の道」を選ぶことができればいいですね。最善の道を探すコツは、目的を思い出すこと。何のためにそうするのかを、あらためて「あきらめる(明らめる)」のです。すると、変えられないことの他に、いろんな選択肢が見えてくるはずです。理想と現実とのギャップが生むジレンマ「私は正直なところ、親の介護から逃げたいと願っています。仕事に支障が出てしまうからです。親には申し訳ないけれど、施設に入ってもらおうかと考えています。私は冷たい息子なのでしょうか?」このような相談をいただいたことがありました。「親の世話をしたい気持ちはあるけれど、自分の時間を削られては困る」というジレンマが透けて見えるようです。とくに男性の場合は、一家の大黒柱であるうえに働き盛りの年代であることが多く、悩ましいものです。さらに、コロナ禍での感染防止や自粛要請のもと、年老いた親の世話や介護をどうすればよいのか、真面目な人ほど親の気持ちや世間体を考えて、途方に暮れているかもしれません。いったいどうすればいいのでしょうか。親に介護が必要になったとき、「親にとっても、自分自身にとっても100%の満足はない」、まずそう明らめて(認識して)ください。なぜなら、親子といえども利害が衝突することは必ずあり、双方に100%の「最善の道」が開けていることはめったにないからです。冷たく聞こえるかもしれませんが、「親にも自分にも、ある程度の負担は生じるはず」と最初から諦めて期待をしないことが大切です。誰だって「つねに最善の道を選びたい」と願うのが人情です。この向上心は成長のために必要な欲求でもあります。けれども、どんなに頑張っている人にも、限界はつきまとうものです。それは、お金や時間に余裕がある人でも同様です。たとえば、老人ホームヘ親に入所してもらうというケースについて考えてみましょう。「うちの親は、このエリアで一番いい老人ホ-ムに入所してもらおう」 真面目な頑張り屋さんは、そんな思いで資金を潤沢に用意しようとするかもしれません。でも、希望の施設が満員で入れない可能性もあります。また、「理想の老人ホーム」の条件を挙げ始めると、山のように出てくるかもしれません。でも、理想を全部かなえることは、最初から諦めておきましょう。なにごとも「すべてがうまくいくわけがない」というこの世の真理を明らめる(わきまえる)べきです。こんなときは、現実的な条件の中で、自分自身や周りの人を犠牲にしない道を選んでいきましょう。頑張り屋さんにとって「自分を犠牲にしない」という姿勢はとても大切です。なぜなら、どんなにいいことをしたとしても自分への負荷が大きかった場合、あとで必ず怒りがふつふつとわいてくるものだからです。老人ホームの候補を絞り、入所先を決めることができたら、「このホームは、ほかの施設に比べてスタッフが無愛想だ」などと減点法で見るのではなく、「庭に花壇があって、いい雰囲気だ」というように加点法で見ていきましょう。そして、「老人ホーム探しは、やれるだけやった」と自分の頑張りを認めて、心を満足させることが大事です。離れている大切な人に温かさを伝えること老人ホームへ親に入所してもらったら、親はその日から一日の大部分をひとり、個室で過ごすことになります。「いざ離れるとさみしい」「心配でならない」などと感情に流されてソワソワするのではなく、「離れたところにいる親に、温かさを伝えること」に力を注いでいきたいものです。コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
過去と未来の時間の中で永遠の迷子になってしまうこと、これが最も強い執着です。「あきらめる(諦める)」とは、この執着を捨てることです。自分は今「真っ暗なトンネル」の中にいるのだと状況をあきらめ(明らめ)たうえで、自分では変えられないことについてはあきらめて(諦めて)、エネルギーを注ぐのはやめましょう。そして、そこから「最善の道」を選ぶことができればいいですね。最善の道を探すコツは、目的を思い出すこと。何のためにそうするのかを、あらためて「あきらめる(明らめる)」のです。すると、変えられないことの他に、いろんな選択肢が見えてくるはずです。理想と現実とのギャップが生むジレンマ「私は正直なところ、親の介護から逃げたいと願っています。仕事に支障が出てしまうからです。親には申し訳ないけれど、施設に入ってもらおうかと考えています。私は冷たい息子なのでしょうか?」このような相談をいただいたことがありました。「親の世話をしたい気持ちはあるけれど、自分の時間を削られては困る」というジレンマが透けて見えるようです。とくに男性の場合は、一家の大黒柱であるうえに働き盛りの年代であることが多く、悩ましいものです。さらに、コロナ禍での感染防止や自粛要請のもと、年老いた親の世話や介護をどうすればよいのか、真面目な人ほど親の気持ちや世間体を考えて、途方に暮れているかもしれません。いったいどうすればいいのでしょうか。親に介護が必要になったとき、「親にとっても、自分自身にとっても100%の満足はない」、まずそう明らめて(認識して)ください。なぜなら、親子といえども利害が衝突することは必ずあり、双方に100%の「最善の道」が開けていることはめったにないからです。冷たく聞こえるかもしれませんが、「親にも自分にも、ある程度の負担は生じるはず」と最初から諦めて期待をしないことが大切です。誰だって「つねに最善の道を選びたい」と願うのが人情です。この向上心は成長のために必要な欲求でもあります。けれども、どんなに頑張っている人にも、限界はつきまとうものです。それは、お金や時間に余裕がある人でも同様です。たとえば、老人ホームヘ親に入所してもらうというケースについて考えてみましょう。「うちの親は、このエリアで一番いい老人ホ-ムに入所してもらおう」 真面目な頑張り屋さんは、そんな思いで資金を潤沢に用意しようとするかもしれません。でも、希望の施設が満員で入れない可能性もあります。また、「理想の老人ホーム」の条件を挙げ始めると、山のように出てくるかもしれません。でも、理想を全部かなえることは、最初から諦めておきましょう。なにごとも「すべてがうまくいくわけがない」というこの世の真理を明らめる(わきまえる)べきです。こんなときは、現実的な条件の中で、自分自身や周りの人を犠牲にしない道を選んでいきましょう。頑張り屋さんにとって「自分を犠牲にしない」という姿勢はとても大切です。なぜなら、どんなにいいことをしたとしても自分への負荷が大きかった場合、あとで必ず怒りがふつふつとわいてくるものだからです。老人ホームの候補を絞り、入所先を決めることができたら、「このホームは、ほかの施設に比べてスタッフが無愛想だ」などと減点法で見るのではなく、「庭に花壇があって、いい雰囲気だ」というように加点法で見ていきましょう。そして、「老人ホーム探しは、やれるだけやった」と自分の頑張りを認めて、心を満足させることが大事です。離れている大切な人に温かさを伝えること老人ホームへ親に入所してもらったら、親はその日から一日の大部分をひとり、個室で過ごすことになります。「いざ離れるとさみしい」「心配でならない」などと感情に流されてソワソワするのではなく、「離れたところにいる親に、温かさを伝えること」に力を注いでいきたいものです。コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
自分は今「真っ暗なトンネル」の中にいるのだと状況をあきらめ(明らめ)たうえで、自分では変えられないことについてはあきらめて(諦めて)、エネルギーを注ぐのはやめましょう。そして、そこから「最善の道」を選ぶことができればいいですね。最善の道を探すコツは、目的を思い出すこと。何のためにそうするのかを、あらためて「あきらめる(明らめる)」のです。すると、変えられないことの他に、いろんな選択肢が見えてくるはずです。理想と現実とのギャップが生むジレンマ「私は正直なところ、親の介護から逃げたいと願っています。仕事に支障が出てしまうからです。親には申し訳ないけれど、施設に入ってもらおうかと考えています。私は冷たい息子なのでしょうか?」このような相談をいただいたことがありました。「親の世話をしたい気持ちはあるけれど、自分の時間を削られては困る」というジレンマが透けて見えるようです。とくに男性の場合は、一家の大黒柱であるうえに働き盛りの年代であることが多く、悩ましいものです。さらに、コロナ禍での感染防止や自粛要請のもと、年老いた親の世話や介護をどうすればよいのか、真面目な人ほど親の気持ちや世間体を考えて、途方に暮れているかもしれません。いったいどうすればいいのでしょうか。親に介護が必要になったとき、「親にとっても、自分自身にとっても100%の満足はない」、まずそう明らめて(認識して)ください。なぜなら、親子といえども利害が衝突することは必ずあり、双方に100%の「最善の道」が開けていることはめったにないからです。冷たく聞こえるかもしれませんが、「親にも自分にも、ある程度の負担は生じるはず」と最初から諦めて期待をしないことが大切です。誰だって「つねに最善の道を選びたい」と願うのが人情です。この向上心は成長のために必要な欲求でもあります。けれども、どんなに頑張っている人にも、限界はつきまとうものです。それは、お金や時間に余裕がある人でも同様です。たとえば、老人ホームヘ親に入所してもらうというケースについて考えてみましょう。「うちの親は、このエリアで一番いい老人ホ-ムに入所してもらおう」 真面目な頑張り屋さんは、そんな思いで資金を潤沢に用意しようとするかもしれません。でも、希望の施設が満員で入れない可能性もあります。また、「理想の老人ホーム」の条件を挙げ始めると、山のように出てくるかもしれません。でも、理想を全部かなえることは、最初から諦めておきましょう。なにごとも「すべてがうまくいくわけがない」というこの世の真理を明らめる(わきまえる)べきです。こんなときは、現実的な条件の中で、自分自身や周りの人を犠牲にしない道を選んでいきましょう。頑張り屋さんにとって「自分を犠牲にしない」という姿勢はとても大切です。なぜなら、どんなにいいことをしたとしても自分への負荷が大きかった場合、あとで必ず怒りがふつふつとわいてくるものだからです。老人ホームの候補を絞り、入所先を決めることができたら、「このホームは、ほかの施設に比べてスタッフが無愛想だ」などと減点法で見るのではなく、「庭に花壇があって、いい雰囲気だ」というように加点法で見ていきましょう。そして、「老人ホーム探しは、やれるだけやった」と自分の頑張りを認めて、心を満足させることが大事です。離れている大切な人に温かさを伝えること老人ホームへ親に入所してもらったら、親はその日から一日の大部分をひとり、個室で過ごすことになります。「いざ離れるとさみしい」「心配でならない」などと感情に流されてソワソワするのではなく、「離れたところにいる親に、温かさを伝えること」に力を注いでいきたいものです。コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
最善の道を探すコツは、目的を思い出すこと。何のためにそうするのかを、あらためて「あきらめる(明らめる)」のです。すると、変えられないことの他に、いろんな選択肢が見えてくるはずです。理想と現実とのギャップが生むジレンマ「私は正直なところ、親の介護から逃げたいと願っています。仕事に支障が出てしまうからです。親には申し訳ないけれど、施設に入ってもらおうかと考えています。私は冷たい息子なのでしょうか?」このような相談をいただいたことがありました。「親の世話をしたい気持ちはあるけれど、自分の時間を削られては困る」というジレンマが透けて見えるようです。とくに男性の場合は、一家の大黒柱であるうえに働き盛りの年代であることが多く、悩ましいものです。さらに、コロナ禍での感染防止や自粛要請のもと、年老いた親の世話や介護をどうすればよいのか、真面目な人ほど親の気持ちや世間体を考えて、途方に暮れているかもしれません。いったいどうすればいいのでしょうか。親に介護が必要になったとき、「親にとっても、自分自身にとっても100%の満足はない」、まずそう明らめて(認識して)ください。なぜなら、親子といえども利害が衝突することは必ずあり、双方に100%の「最善の道」が開けていることはめったにないからです。冷たく聞こえるかもしれませんが、「親にも自分にも、ある程度の負担は生じるはず」と最初から諦めて期待をしないことが大切です。誰だって「つねに最善の道を選びたい」と願うのが人情です。この向上心は成長のために必要な欲求でもあります。けれども、どんなに頑張っている人にも、限界はつきまとうものです。それは、お金や時間に余裕がある人でも同様です。たとえば、老人ホームヘ親に入所してもらうというケースについて考えてみましょう。「うちの親は、このエリアで一番いい老人ホ-ムに入所してもらおう」 真面目な頑張り屋さんは、そんな思いで資金を潤沢に用意しようとするかもしれません。でも、希望の施設が満員で入れない可能性もあります。また、「理想の老人ホーム」の条件を挙げ始めると、山のように出てくるかもしれません。でも、理想を全部かなえることは、最初から諦めておきましょう。なにごとも「すべてがうまくいくわけがない」というこの世の真理を明らめる(わきまえる)べきです。こんなときは、現実的な条件の中で、自分自身や周りの人を犠牲にしない道を選んでいきましょう。頑張り屋さんにとって「自分を犠牲にしない」という姿勢はとても大切です。なぜなら、どんなにいいことをしたとしても自分への負荷が大きかった場合、あとで必ず怒りがふつふつとわいてくるものだからです。老人ホームの候補を絞り、入所先を決めることができたら、「このホームは、ほかの施設に比べてスタッフが無愛想だ」などと減点法で見るのではなく、「庭に花壇があって、いい雰囲気だ」というように加点法で見ていきましょう。そして、「老人ホーム探しは、やれるだけやった」と自分の頑張りを認めて、心を満足させることが大事です。離れている大切な人に温かさを伝えること老人ホームへ親に入所してもらったら、親はその日から一日の大部分をひとり、個室で過ごすことになります。「いざ離れるとさみしい」「心配でならない」などと感情に流されてソワソワするのではなく、「離れたところにいる親に、温かさを伝えること」に力を注いでいきたいものです。コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
「私は正直なところ、親の介護から逃げたいと願っています。仕事に支障が出てしまうからです。親には申し訳ないけれど、施設に入ってもらおうかと考えています。私は冷たい息子なのでしょうか?」このような相談をいただいたことがありました。「親の世話をしたい気持ちはあるけれど、自分の時間を削られては困る」というジレンマが透けて見えるようです。とくに男性の場合は、一家の大黒柱であるうえに働き盛りの年代であることが多く、悩ましいものです。さらに、コロナ禍での感染防止や自粛要請のもと、年老いた親の世話や介護をどうすればよいのか、真面目な人ほど親の気持ちや世間体を考えて、途方に暮れているかもしれません。いったいどうすればいいのでしょうか。親に介護が必要になったとき、「親にとっても、自分自身にとっても100%の満足はない」、まずそう明らめて(認識して)ください。なぜなら、親子といえども利害が衝突することは必ずあり、双方に100%の「最善の道」が開けていることはめったにないからです。冷たく聞こえるかもしれませんが、「親にも自分にも、ある程度の負担は生じるはず」と最初から諦めて期待をしないことが大切です。誰だって「つねに最善の道を選びたい」と願うのが人情です。この向上心は成長のために必要な欲求でもあります。けれども、どんなに頑張っている人にも、限界はつきまとうものです。それは、お金や時間に余裕がある人でも同様です。たとえば、老人ホームヘ親に入所してもらうというケースについて考えてみましょう。「うちの親は、このエリアで一番いい老人ホ-ムに入所してもらおう」 真面目な頑張り屋さんは、そんな思いで資金を潤沢に用意しようとするかもしれません。でも、希望の施設が満員で入れない可能性もあります。また、「理想の老人ホーム」の条件を挙げ始めると、山のように出てくるかもしれません。でも、理想を全部かなえることは、最初から諦めておきましょう。なにごとも「すべてがうまくいくわけがない」というこの世の真理を明らめる(わきまえる)べきです。こんなときは、現実的な条件の中で、自分自身や周りの人を犠牲にしない道を選んでいきましょう。頑張り屋さんにとって「自分を犠牲にしない」という姿勢はとても大切です。なぜなら、どんなにいいことをしたとしても自分への負荷が大きかった場合、あとで必ず怒りがふつふつとわいてくるものだからです。老人ホームの候補を絞り、入所先を決めることができたら、「このホームは、ほかの施設に比べてスタッフが無愛想だ」などと減点法で見るのではなく、「庭に花壇があって、いい雰囲気だ」というように加点法で見ていきましょう。そして、「老人ホーム探しは、やれるだけやった」と自分の頑張りを認めて、心を満足させることが大事です。離れている大切な人に温かさを伝えること老人ホームへ親に入所してもらったら、親はその日から一日の大部分をひとり、個室で過ごすことになります。「いざ離れるとさみしい」「心配でならない」などと感情に流されてソワソワするのではなく、「離れたところにいる親に、温かさを伝えること」に力を注いでいきたいものです。コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
このような相談をいただいたことがありました。「親の世話をしたい気持ちはあるけれど、自分の時間を削られては困る」というジレンマが透けて見えるようです。とくに男性の場合は、一家の大黒柱であるうえに働き盛りの年代であることが多く、悩ましいものです。さらに、コロナ禍での感染防止や自粛要請のもと、年老いた親の世話や介護をどうすればよいのか、真面目な人ほど親の気持ちや世間体を考えて、途方に暮れているかもしれません。いったいどうすればいいのでしょうか。親に介護が必要になったとき、「親にとっても、自分自身にとっても100%の満足はない」、まずそう明らめて(認識して)ください。なぜなら、親子といえども利害が衝突することは必ずあり、双方に100%の「最善の道」が開けていることはめったにないからです。冷たく聞こえるかもしれませんが、「親にも自分にも、ある程度の負担は生じるはず」と最初から諦めて期待をしないことが大切です。誰だって「つねに最善の道を選びたい」と願うのが人情です。この向上心は成長のために必要な欲求でもあります。けれども、どんなに頑張っている人にも、限界はつきまとうものです。それは、お金や時間に余裕がある人でも同様です。たとえば、老人ホームヘ親に入所してもらうというケースについて考えてみましょう。「うちの親は、このエリアで一番いい老人ホ-ムに入所してもらおう」 真面目な頑張り屋さんは、そんな思いで資金を潤沢に用意しようとするかもしれません。でも、希望の施設が満員で入れない可能性もあります。また、「理想の老人ホーム」の条件を挙げ始めると、山のように出てくるかもしれません。でも、理想を全部かなえることは、最初から諦めておきましょう。なにごとも「すべてがうまくいくわけがない」というこの世の真理を明らめる(わきまえる)べきです。こんなときは、現実的な条件の中で、自分自身や周りの人を犠牲にしない道を選んでいきましょう。頑張り屋さんにとって「自分を犠牲にしない」という姿勢はとても大切です。なぜなら、どんなにいいことをしたとしても自分への負荷が大きかった場合、あとで必ず怒りがふつふつとわいてくるものだからです。老人ホームの候補を絞り、入所先を決めることができたら、「このホームは、ほかの施設に比べてスタッフが無愛想だ」などと減点法で見るのではなく、「庭に花壇があって、いい雰囲気だ」というように加点法で見ていきましょう。そして、「老人ホーム探しは、やれるだけやった」と自分の頑張りを認めて、心を満足させることが大事です。離れている大切な人に温かさを伝えること老人ホームへ親に入所してもらったら、親はその日から一日の大部分をひとり、個室で過ごすことになります。「いざ離れるとさみしい」「心配でならない」などと感情に流されてソワソワするのではなく、「離れたところにいる親に、温かさを伝えること」に力を注いでいきたいものです。コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
さらに、コロナ禍での感染防止や自粛要請のもと、年老いた親の世話や介護をどうすればよいのか、真面目な人ほど親の気持ちや世間体を考えて、途方に暮れているかもしれません。いったいどうすればいいのでしょうか。親に介護が必要になったとき、「親にとっても、自分自身にとっても100%の満足はない」、まずそう明らめて(認識して)ください。なぜなら、親子といえども利害が衝突することは必ずあり、双方に100%の「最善の道」が開けていることはめったにないからです。冷たく聞こえるかもしれませんが、「親にも自分にも、ある程度の負担は生じるはず」と最初から諦めて期待をしないことが大切です。誰だって「つねに最善の道を選びたい」と願うのが人情です。この向上心は成長のために必要な欲求でもあります。けれども、どんなに頑張っている人にも、限界はつきまとうものです。それは、お金や時間に余裕がある人でも同様です。たとえば、老人ホームヘ親に入所してもらうというケースについて考えてみましょう。「うちの親は、このエリアで一番いい老人ホ-ムに入所してもらおう」 真面目な頑張り屋さんは、そんな思いで資金を潤沢に用意しようとするかもしれません。でも、希望の施設が満員で入れない可能性もあります。また、「理想の老人ホーム」の条件を挙げ始めると、山のように出てくるかもしれません。でも、理想を全部かなえることは、最初から諦めておきましょう。なにごとも「すべてがうまくいくわけがない」というこの世の真理を明らめる(わきまえる)べきです。こんなときは、現実的な条件の中で、自分自身や周りの人を犠牲にしない道を選んでいきましょう。頑張り屋さんにとって「自分を犠牲にしない」という姿勢はとても大切です。なぜなら、どんなにいいことをしたとしても自分への負荷が大きかった場合、あとで必ず怒りがふつふつとわいてくるものだからです。老人ホームの候補を絞り、入所先を決めることができたら、「このホームは、ほかの施設に比べてスタッフが無愛想だ」などと減点法で見るのではなく、「庭に花壇があって、いい雰囲気だ」というように加点法で見ていきましょう。そして、「老人ホーム探しは、やれるだけやった」と自分の頑張りを認めて、心を満足させることが大事です。離れている大切な人に温かさを伝えること老人ホームへ親に入所してもらったら、親はその日から一日の大部分をひとり、個室で過ごすことになります。「いざ離れるとさみしい」「心配でならない」などと感情に流されてソワソワするのではなく、「離れたところにいる親に、温かさを伝えること」に力を注いでいきたいものです。コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
親に介護が必要になったとき、「親にとっても、自分自身にとっても100%の満足はない」、まずそう明らめて(認識して)ください。なぜなら、親子といえども利害が衝突することは必ずあり、双方に100%の「最善の道」が開けていることはめったにないからです。冷たく聞こえるかもしれませんが、「親にも自分にも、ある程度の負担は生じるはず」と最初から諦めて期待をしないことが大切です。誰だって「つねに最善の道を選びたい」と願うのが人情です。この向上心は成長のために必要な欲求でもあります。けれども、どんなに頑張っている人にも、限界はつきまとうものです。それは、お金や時間に余裕がある人でも同様です。たとえば、老人ホームヘ親に入所してもらうというケースについて考えてみましょう。「うちの親は、このエリアで一番いい老人ホ-ムに入所してもらおう」 真面目な頑張り屋さんは、そんな思いで資金を潤沢に用意しようとするかもしれません。でも、希望の施設が満員で入れない可能性もあります。また、「理想の老人ホーム」の条件を挙げ始めると、山のように出てくるかもしれません。でも、理想を全部かなえることは、最初から諦めておきましょう。なにごとも「すべてがうまくいくわけがない」というこの世の真理を明らめる(わきまえる)べきです。こんなときは、現実的な条件の中で、自分自身や周りの人を犠牲にしない道を選んでいきましょう。頑張り屋さんにとって「自分を犠牲にしない」という姿勢はとても大切です。なぜなら、どんなにいいことをしたとしても自分への負荷が大きかった場合、あとで必ず怒りがふつふつとわいてくるものだからです。老人ホームの候補を絞り、入所先を決めることができたら、「このホームは、ほかの施設に比べてスタッフが無愛想だ」などと減点法で見るのではなく、「庭に花壇があって、いい雰囲気だ」というように加点法で見ていきましょう。そして、「老人ホーム探しは、やれるだけやった」と自分の頑張りを認めて、心を満足させることが大事です。離れている大切な人に温かさを伝えること老人ホームへ親に入所してもらったら、親はその日から一日の大部分をひとり、個室で過ごすことになります。「いざ離れるとさみしい」「心配でならない」などと感情に流されてソワソワするのではなく、「離れたところにいる親に、温かさを伝えること」に力を注いでいきたいものです。コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
誰だって「つねに最善の道を選びたい」と願うのが人情です。この向上心は成長のために必要な欲求でもあります。けれども、どんなに頑張っている人にも、限界はつきまとうものです。それは、お金や時間に余裕がある人でも同様です。たとえば、老人ホームヘ親に入所してもらうというケースについて考えてみましょう。「うちの親は、このエリアで一番いい老人ホ-ムに入所してもらおう」 真面目な頑張り屋さんは、そんな思いで資金を潤沢に用意しようとするかもしれません。でも、希望の施設が満員で入れない可能性もあります。また、「理想の老人ホーム」の条件を挙げ始めると、山のように出てくるかもしれません。でも、理想を全部かなえることは、最初から諦めておきましょう。なにごとも「すべてがうまくいくわけがない」というこの世の真理を明らめる(わきまえる)べきです。こんなときは、現実的な条件の中で、自分自身や周りの人を犠牲にしない道を選んでいきましょう。頑張り屋さんにとって「自分を犠牲にしない」という姿勢はとても大切です。なぜなら、どんなにいいことをしたとしても自分への負荷が大きかった場合、あとで必ず怒りがふつふつとわいてくるものだからです。老人ホームの候補を絞り、入所先を決めることができたら、「このホームは、ほかの施設に比べてスタッフが無愛想だ」などと減点法で見るのではなく、「庭に花壇があって、いい雰囲気だ」というように加点法で見ていきましょう。そして、「老人ホーム探しは、やれるだけやった」と自分の頑張りを認めて、心を満足させることが大事です。離れている大切な人に温かさを伝えること老人ホームへ親に入所してもらったら、親はその日から一日の大部分をひとり、個室で過ごすことになります。「いざ離れるとさみしい」「心配でならない」などと感情に流されてソワソワするのではなく、「離れたところにいる親に、温かさを伝えること」に力を注いでいきたいものです。コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
たとえば、老人ホームヘ親に入所してもらうというケースについて考えてみましょう。「うちの親は、このエリアで一番いい老人ホ-ムに入所してもらおう」 真面目な頑張り屋さんは、そんな思いで資金を潤沢に用意しようとするかもしれません。でも、希望の施設が満員で入れない可能性もあります。また、「理想の老人ホーム」の条件を挙げ始めると、山のように出てくるかもしれません。でも、理想を全部かなえることは、最初から諦めておきましょう。なにごとも「すべてがうまくいくわけがない」というこの世の真理を明らめる(わきまえる)べきです。こんなときは、現実的な条件の中で、自分自身や周りの人を犠牲にしない道を選んでいきましょう。頑張り屋さんにとって「自分を犠牲にしない」という姿勢はとても大切です。なぜなら、どんなにいいことをしたとしても自分への負荷が大きかった場合、あとで必ず怒りがふつふつとわいてくるものだからです。老人ホームの候補を絞り、入所先を決めることができたら、「このホームは、ほかの施設に比べてスタッフが無愛想だ」などと減点法で見るのではなく、「庭に花壇があって、いい雰囲気だ」というように加点法で見ていきましょう。そして、「老人ホーム探しは、やれるだけやった」と自分の頑張りを認めて、心を満足させることが大事です。離れている大切な人に温かさを伝えること老人ホームへ親に入所してもらったら、親はその日から一日の大部分をひとり、個室で過ごすことになります。「いざ離れるとさみしい」「心配でならない」などと感情に流されてソワソワするのではなく、「離れたところにいる親に、温かさを伝えること」に力を注いでいきたいものです。コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
「うちの親は、このエリアで一番いい老人ホ-ムに入所してもらおう」 真面目な頑張り屋さんは、そんな思いで資金を潤沢に用意しようとするかもしれません。でも、希望の施設が満員で入れない可能性もあります。また、「理想の老人ホーム」の条件を挙げ始めると、山のように出てくるかもしれません。でも、理想を全部かなえることは、最初から諦めておきましょう。なにごとも「すべてがうまくいくわけがない」というこの世の真理を明らめる(わきまえる)べきです。こんなときは、現実的な条件の中で、自分自身や周りの人を犠牲にしない道を選んでいきましょう。頑張り屋さんにとって「自分を犠牲にしない」という姿勢はとても大切です。なぜなら、どんなにいいことをしたとしても自分への負荷が大きかった場合、あとで必ず怒りがふつふつとわいてくるものだからです。老人ホームの候補を絞り、入所先を決めることができたら、「このホームは、ほかの施設に比べてスタッフが無愛想だ」などと減点法で見るのではなく、「庭に花壇があって、いい雰囲気だ」というように加点法で見ていきましょう。そして、「老人ホーム探しは、やれるだけやった」と自分の頑張りを認めて、心を満足させることが大事です。離れている大切な人に温かさを伝えること老人ホームへ親に入所してもらったら、親はその日から一日の大部分をひとり、個室で過ごすことになります。「いざ離れるとさみしい」「心配でならない」などと感情に流されてソワソワするのではなく、「離れたところにいる親に、温かさを伝えること」に力を注いでいきたいものです。コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
なにごとも「すべてがうまくいくわけがない」というこの世の真理を明らめる(わきまえる)べきです。こんなときは、現実的な条件の中で、自分自身や周りの人を犠牲にしない道を選んでいきましょう。頑張り屋さんにとって「自分を犠牲にしない」という姿勢はとても大切です。なぜなら、どんなにいいことをしたとしても自分への負荷が大きかった場合、あとで必ず怒りがふつふつとわいてくるものだからです。老人ホームの候補を絞り、入所先を決めることができたら、「このホームは、ほかの施設に比べてスタッフが無愛想だ」などと減点法で見るのではなく、「庭に花壇があって、いい雰囲気だ」というように加点法で見ていきましょう。そして、「老人ホーム探しは、やれるだけやった」と自分の頑張りを認めて、心を満足させることが大事です。離れている大切な人に温かさを伝えること老人ホームへ親に入所してもらったら、親はその日から一日の大部分をひとり、個室で過ごすことになります。「いざ離れるとさみしい」「心配でならない」などと感情に流されてソワソワするのではなく、「離れたところにいる親に、温かさを伝えること」に力を注いでいきたいものです。コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
こんなときは、現実的な条件の中で、自分自身や周りの人を犠牲にしない道を選んでいきましょう。頑張り屋さんにとって「自分を犠牲にしない」という姿勢はとても大切です。なぜなら、どんなにいいことをしたとしても自分への負荷が大きかった場合、あとで必ず怒りがふつふつとわいてくるものだからです。老人ホームの候補を絞り、入所先を決めることができたら、「このホームは、ほかの施設に比べてスタッフが無愛想だ」などと減点法で見るのではなく、「庭に花壇があって、いい雰囲気だ」というように加点法で見ていきましょう。そして、「老人ホーム探しは、やれるだけやった」と自分の頑張りを認めて、心を満足させることが大事です。離れている大切な人に温かさを伝えること老人ホームへ親に入所してもらったら、親はその日から一日の大部分をひとり、個室で過ごすことになります。「いざ離れるとさみしい」「心配でならない」などと感情に流されてソワソワするのではなく、「離れたところにいる親に、温かさを伝えること」に力を注いでいきたいものです。コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
老人ホームの候補を絞り、入所先を決めることができたら、「このホームは、ほかの施設に比べてスタッフが無愛想だ」などと減点法で見るのではなく、「庭に花壇があって、いい雰囲気だ」というように加点法で見ていきましょう。そして、「老人ホーム探しは、やれるだけやった」と自分の頑張りを認めて、心を満足させることが大事です。離れている大切な人に温かさを伝えること老人ホームへ親に入所してもらったら、親はその日から一日の大部分をひとり、個室で過ごすことになります。「いざ離れるとさみしい」「心配でならない」などと感情に流されてソワソワするのではなく、「離れたところにいる親に、温かさを伝えること」に力を注いでいきたいものです。コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
そして、「老人ホーム探しは、やれるだけやった」と自分の頑張りを認めて、心を満足させることが大事です。離れている大切な人に温かさを伝えること老人ホームへ親に入所してもらったら、親はその日から一日の大部分をひとり、個室で過ごすことになります。「いざ離れるとさみしい」「心配でならない」などと感情に流されてソワソワするのではなく、「離れたところにいる親に、温かさを伝えること」に力を注いでいきたいものです。コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
老人ホームへ親に入所してもらったら、親はその日から一日の大部分をひとり、個室で過ごすことになります。「いざ離れるとさみしい」「心配でならない」などと感情に流されてソワソワするのではなく、「離れたところにいる親に、温かさを伝えること」に力を注いでいきたいものです。コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
コロナ禍で会うことがかなわない大切な人たちに対しても、同じように知恵を使い、今の自分にできる「最善の道」を選んでいきましょう。次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
次にご紹介するのは、実際に私が聞いた、温かさを伝える2つの方法です。Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
Xさんは、老人ホームにいる親にシニア向けの携帯電話を持ってもらおうと手続きして、使い方をゼロから教え、毎日のようにメールを送り続けたそうです。「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
「おはよう。昨晩はよく眠れた?」「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
「今日はいい天気で気持ちがいいね。調子はどう?」たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
たった一文のシンプルなメールです。けれども、Xさんのお母さんはメ-ルのやりとりをとても楽しみながら、心穏やかにホームで最期まで過ごされたそうです。この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
この話を聞いてよくわかるのは、離れたところにいる親に愛情を送り続ける大切さです。ホームに入所した親にとって一番怖いのは「家族から見捨てられること」なのです。どんなに物質的に恵まれた環境にいても、家族から邪険にされれば、幸せであるとはいえません。Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
Yさんは、老人ホームにいるお父さんを見舞うたびに、千円札をお小遣いとして渡していたそうです。「頻繁に1万円札を渡すことは、私には少し難しい。けれども千円札であれば、月に数回なら工面することができます。親父は認知症になっていました。だから、たった1枚の千円札を見ても腹を立てたりすることもなく、純粋に『ありがとう、ありがとう』とまるで子どものように大喜びしてくれたのです。父の笑顔に、何度も胸が熱くなったものです」このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
このように、老人ホームに介護をお任せするにしても、そのあとに「聖なるあきらめ」で最善の道を選んでいくことができれば、自分を責めすぎることはありません。「聖なるあきらめ」が、あなたの心を軽くする晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
晴れやかな気持ちで始まったはずの令和という時代が、まさかこのような困難な局面を迎えるとは、いったい誰が予想できたでしょうか。私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
私たちの心の中に生まれた「不安」。不安はストレスを生み、私たちから幸せを遠ざけます。不安が、心の余裕を奪ってしまうからです。本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
本来ならば、いっそう心を寄せ合うべき人との関係がギスギスして、不協和音を立てることになります。しかし、そんな悲しみも、そのまま不幸になるわけではありません。たとえ不幸に思われる状況であっても、心のありよう次第で、不幸にはしない考え方。それが「聖なるあきらめ」です。「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
「聖なるあきらめ」とは、賢く気持ちを切り替えて「あきらめる」ことで、みんなが幸せに近づく行為のこと。世の中が重苦しい不安に覆われているときだからこそ、人の心が軽くなるように、「あきらめよう、あきらめよう」と、私は皆さんに呼びかけたいのです。私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。
私は人との出会いや、聖書や文学作品からの学びから、この考え方にたどり着きました。本書には、たくさんの人に聞いたさまざまな体験を載せています。彼らの話は、私に「聖なるあきらめ」を教えてくれました。本書を通して、他の人の体験を分かち合うことが、よりよい人生を送るうえで大きな力になるのだと、皆さんにもぜひ知ってほしい。そう願っています。