「京アニ事件」から2年 青葉真司の「呪われた」家系図 祖父、父、妹が揃って自殺

令和元年7月18日に起きた京都アニメーション放火殺傷事件。犯人である青葉真司の足跡を辿ると、祖父、父、そして妹が揃って自殺していたことが判明。「呪われた」としか言えない青葉家の歴史に迫る。令和元年に起こった象徴的な事件を追うノンフィクション『令和元年のテロリズム』(新潮社)を刊行したライターの磯部涼氏によるルポ。連載第8回。
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【写真】青葉が最後に暮らしたアパート
青葉真司が生まれてから京都に向かうまでの41年間の歩みを車で辿っていると、とあるエリアをぐるぐると回ることになる。そして窓の外を流れる広大な田畑と面白みのないロードサイド店舗を見続けることになる。青葉は埼玉県南東部から茨城県南西部にかけての各所を転々として半生を過ごした。つまり彼は北関東(*8)ののっぺりとした風景に半ば閉じ込められていたわけだが、そこを抜け出すための出口と定めたのが〈京都アニメーション大賞〉で、しかし穴の向こうに見える世界は次第に歪んでいった。前述の2地点の内、前者のさいたま市が青葉の生地、後者の常総市は彼の両親の生地にあたる。ひとりの犯罪者について考えるとき、生い立ちに意味を見出すことには慎重にならなければいけない。それでも青葉を取材しているとその呪われた――という言葉さえ使いたくなるような家族を巡る物語に、運命めいたものを感じずにはいられないことも確かだ。
青葉真司の父・正雄(仮名)は昭和8年、現在は常総市に属するS町で生まれた。平屋だったという実家は既に取り壊されてアパートが建っているが、その前に広がる田地の風景は当時とたいして変わらないだろう。ただし青葉家の所有していた土地は狭く、暮らしは厳しかったという。(真司の祖父にあたる)正雄の父は家計を支えるために副業で、荷馬車を使って遥々東京まで品物を運んでいく、今で言う運送屋をしていた。町の人々は彼を「働き者だった」と思い返す。「飼っていた馬が白かったので、“白馬車”さんって呼ばれていました。馬が可哀そうだからって、自分がいくら疲れていても馬の背中には乗らない、気持ちの優しいひとでしたね」。そんな“白馬車”さんの最期は自死だった。「癌になって、病院に入るお金もないから苦しんで。首をくくってしまったんです」。
*8 北関東の定義はさまざまだが、ここでは東京より北の埼玉県、茨城県、群馬県、栃木県を指している。不倫、駆け落ちした父親 対して、正雄について訊くと「農家を継いだけど、あまりしみじみまじめに仕事をやる人間じゃなかったよな」「あのひとは働くのが嫌いでね」「でも男っぷりは良かった。口も上手かったから、女にはモテたよ」などという答えが返ってくる。田地を放ったらかしにしてさまざまなことに首を突っ込んでいた正雄は、一時期、選挙運動に夢中になっていた。近隣のM町にある寺の住職が地方選に立候補した際に手伝いをしたのだが、こちらでは働き振りが認められ、以降も住職の車や寺が運営していた保育施設の送迎バスの運転を任されるようになる。住職は平成10年に他界。保育施設の現在の理事長が「自分は直接会ったことはない」と断った上で、正雄について知っていることを教えてくれた。「今から50年近く前のことになるかと思いますが、正雄さんがここでバスの運転手をしていたことは確かです。ただ正規の職員ではありませんでした。常勤の運転手が休んだりして穴が空いた時に頼まれていたようですね。他にも住職のおつかいだとか将棋の相手だとか……。毎月決まった給料を払っていたわけではなく、その都度、仕事した分のお金を手渡しする形だったと聞いています。昔はそういう、何をやっているのか分からないようなひとが地域にちらほらといたんです」 いわゆる雑用係のようなものだったのだろう正雄は、やがて同保育施設で働く女性と結婚。実家で両親と共に暮らし、最終的に6人の子供をもうける。ところがある時、彼は別の職員と不倫関係になり、駆け落ちしてしまう。その相手が青葉真司の母、登紀子(仮名)だ。正雄たちの駆け落ちは、小さな町では大事件として語り継がれていた。「当時既に白馬車さんもお婆さんも亡くなっていたんで、お嫁さんと子供たちが取り残されてしまって」「食っていけないから上の子供たちから順に働きに出るようになって、それでひとり減りふたり減り、結局誰もいなくなった」。ある男性が、正雄が残した田地の様子が気になって見に行くと、別の人物が農作業をしていた。「正雄が田んぼを売っぱらっちゃったんだ。そういう男なんだよ」。また、ある女性は言う。「ただ、駆け落ちした後もここの家にちょこちょこと帰ってきていたんです。6人兄妹の最後の女の子はその頃にできた子だって言うんだからねぇ」。その後の前妻の行方を知るひとは誰もいなかった。そして皆、青葉真司が起こした事件に困惑していた。「犯人が正雄の子供だって聞いてびっくりしたよ。でも駆け落ちした女性との間の子供は見たこともない。大火傷をして、治療されているんでしょう? どうせ死刑になるんだから、放っておけばいいのに」。「部屋中がゴミだらけで衝撃を受けた」 一方、青葉真司の母・登紀子は昭和25年生まれで、正雄とは年が17歳も離れている。彼女の地元は現在はS町と同じ常総市に属するOS町。高校卒業後に前述の保育施設で働き始め、毎朝、バスで通っていたという。町の老人は、登紀子の父親が彼女を自転車の後ろに乗せてバス停へ向かう姿を記憶している。「でも奥さんがいる男性とくっついて出ていってしまってねぇ。この辺じゃあそんな話は珍しかったからよく覚えているよ」。登紀子の父は元軍人で、町では“海軍さん”と呼ばれていた。彼女の実家はいわゆる分家。同じ通りにある本家から土地を分けてもらい独立したようだ。本家の立派なつくりに対して、登紀子の実家は小さい。そしてその裏にはやはり小さな畑がある。海軍さんは復員した後、近くの工場に働きに出ていたということで、白馬車さんと同様、農業だけでは生活していけなかったのだろう。登紀子は正雄と駆け落ちした後、長い間、父のいるOS町に帰ってこなかった。 逃げるようにそれぞれの生地を飛び出した正雄と登紀子は、新たな土地で3人の子供を授かる。昭和53年生まれの青葉真司は真ん中で、上には兄が、下には妹がいる。青葉家の足取りで確認できる最も古い場所は、真司が小学生から中学生にかけて暮らした埼玉県さいたま市緑区N町の国道沿いに建つアパートだ。訪ねると郵便受けにはチラシがぎゅうぎゅうに押し込まれ、雨戸を閉め切っている部屋も多く、インターフォンを押しても反応がないので既に廃墟になっているのかと思われたが、立ち去ろうとした時、錆びついた階段を老人が降りてきた。築40年ほどだというから青葉家が住んでいた頃はまださほど古くなっていなかったはずだ。しかし真司の小学校の同級生が記憶しているのは、部屋の荒れた様子である。「青葉とはクラスが一緒で仲良くしていました。友達は少なくて、遊んでいたのは僕ともうひとりぐらいでしたね。ひとことで言えば何を考えているかよく分からないやつでした」。彼は言う。「あだ名は“バオウ”。当時は『北斗の拳』が流行っていて、あいつは体が大きかったから(登場キャラクターの)“ラオウ”と青葉の“バ”をかけて。自宅にも遊びに行きましたが、部屋中がゴミだらけで衝撃を受けましたね。食べ終わった容器もそのままでとにかく汚かった。あとあいつは服がいつも同じで。事件の後に出回った卒業アルバムの写真、あのGジャンを毎日着ていましたよ」。彼は真司に万引きに誘われたことも印象に残っているという。「まだ小学校低学年でしたからびっくりしましたね。スーパーでお菓子を盗ろうと言っていたので、いま思えば親にあまり買ってもらえなかったのかもしれません」。小学生で万引きをすることがそこまで特異だとも思わないし、ましてやその後に起こした放火殺傷事件と結びつけるべきではないが、同級生たちが青葉家に関して決して豊かではないイメージを持っていたことは、青葉真司のバックグラウンドについて考える上では重要だろう。 中学生時代の知人もやはり同じようなイメージを持っていた。「クラスは別でしたが同じ柔道部だったので、覚えていますよ。友達があいつの家に遊びに行ったら部屋がしょんべん臭かったみたいで、乱取りで僕が青葉と組んだとき『あいつ、臭くなかったか?』と聞かれたりしました」。そしてある日、真司は姿を消す。「中学1年生の終わりか2年生の頃、学校に来なくなったんです。先生がホームルームで『みんな、青葉を知らないか?』と生徒に聞いていましたから、転校というよりも突然いなくなった感じで。友達も少なかったので、何でいなくなったのか何処に行ったのか分からずじまいですが」。この頃、青葉家はひと知れず同じ緑区内で5キロほど離れたD町に移っていた。母親は姿を消し、父親は自死 若い青葉真司は地道に人生を歩もうとしていたようにも思える。定時制高校時代は埼玉県庁の文書課で非常勤職員として、卒業後はコンビニエンス・ストアでアルバイトとして勤務。20歳頃からさいたま市の隣の春日部市でひとり暮らしを始めた。しかし一方で青葉家は次第に崩壊し、真司も不幸に足を取られていく。まず、不倫を経て駆け落ちまでした登紀子は、結局、夫と3人の子供を残して家を出てしまう。その後、正雄はタクシー運転手として生計を立てていたが、交通事故を起こしたことで解雇された上に怪我をしたため働けなくなり、家賃の支払いさえままならなくなる。そして平成11年、彼は父親と同じように自死する。 登紀子に去られ、長男と真司が独立した後、正雄と長女が住んでいたD町のアパートの部屋を訪ねてみたが、ドアの前は物置き場と化していた。20年前、正雄が命を絶った後も長女は弁当屋で働きながらその部屋で暮らし続けたという。しかし彼女も不意に姿を消す。以来、大家は気味が悪くなって部屋を貸すのを止めてしまったのだと、近隣住民は語る。「娘さんが野良猫に餌付けをしていたんだけど、うるさいし汚いから迷惑だと注意したら、『あんたらには私の気持ちなんか分からないよ』と言われたことを覚えているね」。妹も自殺していた 長女の行方を追っていると、意外なところで証言を得ることができた。父親の自殺から約10年後、彼女は常総市のとある寺を訪れている。対応した住職は京都アニメーションの放火殺傷事件が起こったあと、周囲に聞いた話からかつて会ったその女性が青葉真司の妹だったと気付き、はっとした。「うちに来た時、彼女は叫んでいました。気がおかしくなって何かが見えるという感じで、確か『GACKTの霊がいる』みたいなことを言っていた記憶があります。ひとりでは歩けないような状態で、付き添っていた年配の女性によると『本人がどうしてもお寺で除霊をしてほしいと言っている』と」。 ふたりはその前に他の寺で除霊を依頼したが断られたため、ここにやってきたのだという。「ただ“除霊”というものはうちではできないので、ご祈祷という形でもいいかと提案しました。それで『いい』と言うので、太鼓を叩いてお経をあげてという通常の形式でご祈祷をしたら、彼女は少し落ち着いたようで安心しました」。そして長女はこのまま祈祷を続けてほしいと頼むが、住職には用事があった。「その時は夏で……彼女が来たのはお昼の12時半とか午後1時頃だったと思うんですが、2時から施餓鬼という年中行事が予定されていたんです。だから断って、『すいませんね、本堂で休んでいいですから』と声をかけ、私は出かけた。その後、1時間ほどそこにいて帰っていったと聞いています」。 ところが翌日、住職は驚くような話を耳にする。「彼女はうちのお寺にご祈祷に来た、次の日に亡くなりました。自殺です。すぐそこの学校の倉庫で首を吊っていたと。前日にお寺に立ち寄ったということで警察がうちを訪ねて来ました。朝、練習に来た運動部の子が倉庫を開けたところ、中で亡くなっていたそうです。その後、子供たちのトラウマになってしまったため倉庫は壊されました」。祖父、父、妹――3代続けての自死に因果を感じない方が難しいだろう。もしくは青葉家にかかった呪いとは、日本の下層に広がる沼に足を取られたことに他ならない。それは一度はまると抜け出せなくなってしまうものだ。下着泥棒で逮捕 青葉真司もまたその負の連鎖を断ち切ることができなかった。彼が人生を踏み外したのは平成18年のことだ。同年のある春の朝、青葉がひとり暮らしをしていた春日部市のアパートに警察がやってくる。容疑は下着泥棒。コンビニエンス・ストアの夜勤明けだった彼は寝間着姿のまま連行されたという。母の登紀子は離婚後も子供たちを気にかけていたようで、留置場にいる間の家賃は彼女が支払った。青葉は執行猶予判決を受けるがアパートを退去することになり、常総市に住んでいた登紀子のもとへ身を寄せる。その後、複数の人材派遣会社に登録し、仕事を転々としていった。 平成20年6月には同じく非正規雇用労働者だった25歳の加藤智大が、トラックで通行人をはね、更に路上に降りて歩行者天国を楽しむ人々をナイフで次々と切りつけ、7人が死亡、10人が負傷した秋葉原殺傷事件が起こる。そこに就職氷河期世代が持つ社会に対する苛立ちと繋がる部分を見て取り、テロリズムとして捉える考え方がある(*9)。同年12月31日から翌年1月5日にかけては、自立生活サポートセンター〈もやい〉の事務局長・湯浅誠らが住居を失った非正規雇用労働者を保護するため、東京都千代田区の日比谷公園に〈年越し派遣村〉を開設。プレカリアート(不安定な労働者)としての彼らは急速に社会問題化していった。青葉は昭和53年生まれ、加藤は昭和57年生まれで、共に就職氷河期世代にあたる。後者の事件と前者の事件との間には約10年の時差があり、その期間における青葉の経歴を検証すると、同時代の政治や労働運動が救うことができなかった人間の姿が浮かび上がってくるだろう。もしくは同じく改元直後に起きた川崎20人殺傷事件の犯人・岩崎隆一と、元農林水産省事務次官による家庭内殺人事件の被害者・熊澤英一郎も共に一般的な働き方からドロップアウトしてしまった人物だが、昭和50年生まれでやはり就職氷河期世代にあたる後者に対して、前者は昭和42年生まれと世代がずれている。一方で、岩崎隆一が引きこもり始めたのは平成10年前後と見られ、就職氷河期と時期が被っているという意味では以上4つの事件は同時代性を持っている。 青葉のケースとしてはその後、職業安定所の仲介で常総市H町の雇用促進住宅に入居、郵便局の配達の仕事にも就くことができた。しかしこの30歳前後の頃から彼の精神は明らかに失調し、頻繁にトラブルを起こすようになる。雇用促進住宅は厚生労働省が管轄する共同住宅で、比較的安い賃料で部屋を借りることができる。近年は地方自治体や民間企業への譲渡が進められており、青葉が住んでいた住宅もつくりはそのまま、現在の運営母体はアメリカの投資会社だ。周辺には有名な菓子メーカーを始め工場が点在、住民もそこで働く移民労働者に入れ替わった。外観はいかにも古びた団地といった感じでも、掲示板には「Quiet Please(静かにしてください)」「NO FIRE ON SITE/NO BARBECUES(ここではバーベキューはできません)」、ゴミ捨て場には「Do not use grocery store plastic bag(レジ袋では出せません)」などと英語の注意書きがたくさん貼られている。建物の前にはカトリック系の教会があって、英語の他、ポルトガル語やスペイン語のミサも行われている。青葉のような労働者は、移民労働者に取って代わられてしまったとも見えた。ただ、後者もまたプレカリアートだという点では問題は繋がっているのだ。*9 東浩紀、平成20年の発言参照コンビニ強盗で再び逮捕、部屋には異様な光景が 青葉は最後に住んでいたアパートと同様、ここでも部屋で大音量で音楽を鳴らし、近隣住民から度々苦情を訴えられている。3DKで4万円という家賃の支払いさえ滞っていたようだが、退去のきっかけとなったのはまたしても逮捕だった。平成24年6月、常総市の隣・坂東市のコンビニエンス・ストアに包丁を持って押し入り、現金約2万円を奪った青葉は、自ら警察署に出頭して強盗及び銃刀法違反容疑で逮捕。懲役3年6カ月の実刑判決を受ける。雇用促進住宅の管理人は警察の立会いのもとで青葉の部屋に踏み込むが、ゴミが散乱、ノートパソコンの画面や壁が叩き壊され、床にハンマーが転がっていた光景に異様なものを感じたという。最後のアパートから持ち出された円筒形のスピーカー“キャノン”も先端が叩き壊したように割れていた。青葉の失調は破壊衝動として表れることも多かったのだろう。この2度目の逮捕で母・登紀子も流石に青葉を見放し、縁を切ってしまったようだ。実母の現在の家を訪れると… 青葉家が崩壊していく一方で、そこから離れた登紀子はまた別の家庭を築いた。生地の常総市OS町では両親は他界、ふたりの子供は、駆け落ちした登紀子だけでなく兄も外に出て家を継がなかったため、既に実家は廃屋になっていた。ガラス戸を覗くと玄関先にはアルバムが開いたまま置かれていて、軍服姿の人物が写っている写真が見えた。父=海軍さんの葬式の際、登紀子は幼少期の真司を連れて地元に戻ってきたという。久し振りに会った親戚は「『あら、何人兄弟?』と聞いたら、『3匹!』って。あっけらかんとした感じが如何にも彼女らしかったわ」と振り返る。登紀子は正雄と別れたあとに再婚したが、最近は新しい家族と実家の裏にある小さな畑に来ては趣味で野菜を育てているようだ。 登紀子の中で正雄との不倫から始まり、息子の放火殺傷事件にまで至った青葉家の波乱は決着したのか。話が聞きたくて、彼女が新しい家庭を築いているとある住宅街を訪れた。夕方6時頃に一軒家のインターフォンを鳴らすと、夕飯の支度中だったのだろう、エプロン姿の女性が出てきた。「はい、何でしょう」。登紀子だ。青葉真司に何処か似た雰囲気を持っている。用件を告げると、彼女ははっきりとした口調で「ごめんなさい、取材はお断りしているので」と答えてまた家の中へ戻って行った。冬の住宅街は暗くなり、家々に灯る明かりがそこで営まれる暮らしがあることを示していた。 第9回に続く。2021年7月17日 掲載
対して、正雄について訊くと「農家を継いだけど、あまりしみじみまじめに仕事をやる人間じゃなかったよな」「あのひとは働くのが嫌いでね」「でも男っぷりは良かった。口も上手かったから、女にはモテたよ」などという答えが返ってくる。田地を放ったらかしにしてさまざまなことに首を突っ込んでいた正雄は、一時期、選挙運動に夢中になっていた。近隣のM町にある寺の住職が地方選に立候補した際に手伝いをしたのだが、こちらでは働き振りが認められ、以降も住職の車や寺が運営していた保育施設の送迎バスの運転を任されるようになる。住職は平成10年に他界。保育施設の現在の理事長が「自分は直接会ったことはない」と断った上で、正雄について知っていることを教えてくれた。「今から50年近く前のことになるかと思いますが、正雄さんがここでバスの運転手をしていたことは確かです。ただ正規の職員ではありませんでした。常勤の運転手が休んだりして穴が空いた時に頼まれていたようですね。他にも住職のおつかいだとか将棋の相手だとか……。毎月決まった給料を払っていたわけではなく、その都度、仕事した分のお金を手渡しする形だったと聞いています。昔はそういう、何をやっているのか分からないようなひとが地域にちらほらといたんです」 いわゆる雑用係のようなものだったのだろう正雄は、やがて同保育施設で働く女性と結婚。実家で両親と共に暮らし、最終的に6人の子供をもうける。ところがある時、彼は別の職員と不倫関係になり、駆け落ちしてしまう。その相手が青葉真司の母、登紀子(仮名)だ。正雄たちの駆け落ちは、小さな町では大事件として語り継がれていた。「当時既に白馬車さんもお婆さんも亡くなっていたんで、お嫁さんと子供たちが取り残されてしまって」「食っていけないから上の子供たちから順に働きに出るようになって、それでひとり減りふたり減り、結局誰もいなくなった」。ある男性が、正雄が残した田地の様子が気になって見に行くと、別の人物が農作業をしていた。「正雄が田んぼを売っぱらっちゃったんだ。そういう男なんだよ」。また、ある女性は言う。「ただ、駆け落ちした後もここの家にちょこちょこと帰ってきていたんです。6人兄妹の最後の女の子はその頃にできた子だって言うんだからねぇ」。その後の前妻の行方を知るひとは誰もいなかった。そして皆、青葉真司が起こした事件に困惑していた。「犯人が正雄の子供だって聞いてびっくりしたよ。でも駆け落ちした女性との間の子供は見たこともない。大火傷をして、治療されているんでしょう? どうせ死刑になるんだから、放っておけばいいのに」。「部屋中がゴミだらけで衝撃を受けた」 一方、青葉真司の母・登紀子は昭和25年生まれで、正雄とは年が17歳も離れている。彼女の地元は現在はS町と同じ常総市に属するOS町。高校卒業後に前述の保育施設で働き始め、毎朝、バスで通っていたという。町の老人は、登紀子の父親が彼女を自転車の後ろに乗せてバス停へ向かう姿を記憶している。「でも奥さんがいる男性とくっついて出ていってしまってねぇ。この辺じゃあそんな話は珍しかったからよく覚えているよ」。登紀子の父は元軍人で、町では“海軍さん”と呼ばれていた。彼女の実家はいわゆる分家。同じ通りにある本家から土地を分けてもらい独立したようだ。本家の立派なつくりに対して、登紀子の実家は小さい。そしてその裏にはやはり小さな畑がある。海軍さんは復員した後、近くの工場に働きに出ていたということで、白馬車さんと同様、農業だけでは生活していけなかったのだろう。登紀子は正雄と駆け落ちした後、長い間、父のいるOS町に帰ってこなかった。 逃げるようにそれぞれの生地を飛び出した正雄と登紀子は、新たな土地で3人の子供を授かる。昭和53年生まれの青葉真司は真ん中で、上には兄が、下には妹がいる。青葉家の足取りで確認できる最も古い場所は、真司が小学生から中学生にかけて暮らした埼玉県さいたま市緑区N町の国道沿いに建つアパートだ。訪ねると郵便受けにはチラシがぎゅうぎゅうに押し込まれ、雨戸を閉め切っている部屋も多く、インターフォンを押しても反応がないので既に廃墟になっているのかと思われたが、立ち去ろうとした時、錆びついた階段を老人が降りてきた。築40年ほどだというから青葉家が住んでいた頃はまださほど古くなっていなかったはずだ。しかし真司の小学校の同級生が記憶しているのは、部屋の荒れた様子である。「青葉とはクラスが一緒で仲良くしていました。友達は少なくて、遊んでいたのは僕ともうひとりぐらいでしたね。ひとことで言えば何を考えているかよく分からないやつでした」。彼は言う。「あだ名は“バオウ”。当時は『北斗の拳』が流行っていて、あいつは体が大きかったから(登場キャラクターの)“ラオウ”と青葉の“バ”をかけて。自宅にも遊びに行きましたが、部屋中がゴミだらけで衝撃を受けましたね。食べ終わった容器もそのままでとにかく汚かった。あとあいつは服がいつも同じで。事件の後に出回った卒業アルバムの写真、あのGジャンを毎日着ていましたよ」。彼は真司に万引きに誘われたことも印象に残っているという。「まだ小学校低学年でしたからびっくりしましたね。スーパーでお菓子を盗ろうと言っていたので、いま思えば親にあまり買ってもらえなかったのかもしれません」。小学生で万引きをすることがそこまで特異だとも思わないし、ましてやその後に起こした放火殺傷事件と結びつけるべきではないが、同級生たちが青葉家に関して決して豊かではないイメージを持っていたことは、青葉真司のバックグラウンドについて考える上では重要だろう。 中学生時代の知人もやはり同じようなイメージを持っていた。「クラスは別でしたが同じ柔道部だったので、覚えていますよ。友達があいつの家に遊びに行ったら部屋がしょんべん臭かったみたいで、乱取りで僕が青葉と組んだとき『あいつ、臭くなかったか?』と聞かれたりしました」。そしてある日、真司は姿を消す。「中学1年生の終わりか2年生の頃、学校に来なくなったんです。先生がホームルームで『みんな、青葉を知らないか?』と生徒に聞いていましたから、転校というよりも突然いなくなった感じで。友達も少なかったので、何でいなくなったのか何処に行ったのか分からずじまいですが」。この頃、青葉家はひと知れず同じ緑区内で5キロほど離れたD町に移っていた。母親は姿を消し、父親は自死 若い青葉真司は地道に人生を歩もうとしていたようにも思える。定時制高校時代は埼玉県庁の文書課で非常勤職員として、卒業後はコンビニエンス・ストアでアルバイトとして勤務。20歳頃からさいたま市の隣の春日部市でひとり暮らしを始めた。しかし一方で青葉家は次第に崩壊し、真司も不幸に足を取られていく。まず、不倫を経て駆け落ちまでした登紀子は、結局、夫と3人の子供を残して家を出てしまう。その後、正雄はタクシー運転手として生計を立てていたが、交通事故を起こしたことで解雇された上に怪我をしたため働けなくなり、家賃の支払いさえままならなくなる。そして平成11年、彼は父親と同じように自死する。 登紀子に去られ、長男と真司が独立した後、正雄と長女が住んでいたD町のアパートの部屋を訪ねてみたが、ドアの前は物置き場と化していた。20年前、正雄が命を絶った後も長女は弁当屋で働きながらその部屋で暮らし続けたという。しかし彼女も不意に姿を消す。以来、大家は気味が悪くなって部屋を貸すのを止めてしまったのだと、近隣住民は語る。「娘さんが野良猫に餌付けをしていたんだけど、うるさいし汚いから迷惑だと注意したら、『あんたらには私の気持ちなんか分からないよ』と言われたことを覚えているね」。妹も自殺していた 長女の行方を追っていると、意外なところで証言を得ることができた。父親の自殺から約10年後、彼女は常総市のとある寺を訪れている。対応した住職は京都アニメーションの放火殺傷事件が起こったあと、周囲に聞いた話からかつて会ったその女性が青葉真司の妹だったと気付き、はっとした。「うちに来た時、彼女は叫んでいました。気がおかしくなって何かが見えるという感じで、確か『GACKTの霊がいる』みたいなことを言っていた記憶があります。ひとりでは歩けないような状態で、付き添っていた年配の女性によると『本人がどうしてもお寺で除霊をしてほしいと言っている』と」。 ふたりはその前に他の寺で除霊を依頼したが断られたため、ここにやってきたのだという。「ただ“除霊”というものはうちではできないので、ご祈祷という形でもいいかと提案しました。それで『いい』と言うので、太鼓を叩いてお経をあげてという通常の形式でご祈祷をしたら、彼女は少し落ち着いたようで安心しました」。そして長女はこのまま祈祷を続けてほしいと頼むが、住職には用事があった。「その時は夏で……彼女が来たのはお昼の12時半とか午後1時頃だったと思うんですが、2時から施餓鬼という年中行事が予定されていたんです。だから断って、『すいませんね、本堂で休んでいいですから』と声をかけ、私は出かけた。その後、1時間ほどそこにいて帰っていったと聞いています」。 ところが翌日、住職は驚くような話を耳にする。「彼女はうちのお寺にご祈祷に来た、次の日に亡くなりました。自殺です。すぐそこの学校の倉庫で首を吊っていたと。前日にお寺に立ち寄ったということで警察がうちを訪ねて来ました。朝、練習に来た運動部の子が倉庫を開けたところ、中で亡くなっていたそうです。その後、子供たちのトラウマになってしまったため倉庫は壊されました」。祖父、父、妹――3代続けての自死に因果を感じない方が難しいだろう。もしくは青葉家にかかった呪いとは、日本の下層に広がる沼に足を取られたことに他ならない。それは一度はまると抜け出せなくなってしまうものだ。下着泥棒で逮捕 青葉真司もまたその負の連鎖を断ち切ることができなかった。彼が人生を踏み外したのは平成18年のことだ。同年のある春の朝、青葉がひとり暮らしをしていた春日部市のアパートに警察がやってくる。容疑は下着泥棒。コンビニエンス・ストアの夜勤明けだった彼は寝間着姿のまま連行されたという。母の登紀子は離婚後も子供たちを気にかけていたようで、留置場にいる間の家賃は彼女が支払った。青葉は執行猶予判決を受けるがアパートを退去することになり、常総市に住んでいた登紀子のもとへ身を寄せる。その後、複数の人材派遣会社に登録し、仕事を転々としていった。 平成20年6月には同じく非正規雇用労働者だった25歳の加藤智大が、トラックで通行人をはね、更に路上に降りて歩行者天国を楽しむ人々をナイフで次々と切りつけ、7人が死亡、10人が負傷した秋葉原殺傷事件が起こる。そこに就職氷河期世代が持つ社会に対する苛立ちと繋がる部分を見て取り、テロリズムとして捉える考え方がある(*9)。同年12月31日から翌年1月5日にかけては、自立生活サポートセンター〈もやい〉の事務局長・湯浅誠らが住居を失った非正規雇用労働者を保護するため、東京都千代田区の日比谷公園に〈年越し派遣村〉を開設。プレカリアート(不安定な労働者)としての彼らは急速に社会問題化していった。青葉は昭和53年生まれ、加藤は昭和57年生まれで、共に就職氷河期世代にあたる。後者の事件と前者の事件との間には約10年の時差があり、その期間における青葉の経歴を検証すると、同時代の政治や労働運動が救うことができなかった人間の姿が浮かび上がってくるだろう。もしくは同じく改元直後に起きた川崎20人殺傷事件の犯人・岩崎隆一と、元農林水産省事務次官による家庭内殺人事件の被害者・熊澤英一郎も共に一般的な働き方からドロップアウトしてしまった人物だが、昭和50年生まれでやはり就職氷河期世代にあたる後者に対して、前者は昭和42年生まれと世代がずれている。一方で、岩崎隆一が引きこもり始めたのは平成10年前後と見られ、就職氷河期と時期が被っているという意味では以上4つの事件は同時代性を持っている。 青葉のケースとしてはその後、職業安定所の仲介で常総市H町の雇用促進住宅に入居、郵便局の配達の仕事にも就くことができた。しかしこの30歳前後の頃から彼の精神は明らかに失調し、頻繁にトラブルを起こすようになる。雇用促進住宅は厚生労働省が管轄する共同住宅で、比較的安い賃料で部屋を借りることができる。近年は地方自治体や民間企業への譲渡が進められており、青葉が住んでいた住宅もつくりはそのまま、現在の運営母体はアメリカの投資会社だ。周辺には有名な菓子メーカーを始め工場が点在、住民もそこで働く移民労働者に入れ替わった。外観はいかにも古びた団地といった感じでも、掲示板には「Quiet Please(静かにしてください)」「NO FIRE ON SITE/NO BARBECUES(ここではバーベキューはできません)」、ゴミ捨て場には「Do not use grocery store plastic bag(レジ袋では出せません)」などと英語の注意書きがたくさん貼られている。建物の前にはカトリック系の教会があって、英語の他、ポルトガル語やスペイン語のミサも行われている。青葉のような労働者は、移民労働者に取って代わられてしまったとも見えた。ただ、後者もまたプレカリアートだという点では問題は繋がっているのだ。*9 東浩紀、平成20年の発言参照コンビニ強盗で再び逮捕、部屋には異様な光景が 青葉は最後に住んでいたアパートと同様、ここでも部屋で大音量で音楽を鳴らし、近隣住民から度々苦情を訴えられている。3DKで4万円という家賃の支払いさえ滞っていたようだが、退去のきっかけとなったのはまたしても逮捕だった。平成24年6月、常総市の隣・坂東市のコンビニエンス・ストアに包丁を持って押し入り、現金約2万円を奪った青葉は、自ら警察署に出頭して強盗及び銃刀法違反容疑で逮捕。懲役3年6カ月の実刑判決を受ける。雇用促進住宅の管理人は警察の立会いのもとで青葉の部屋に踏み込むが、ゴミが散乱、ノートパソコンの画面や壁が叩き壊され、床にハンマーが転がっていた光景に異様なものを感じたという。最後のアパートから持ち出された円筒形のスピーカー“キャノン”も先端が叩き壊したように割れていた。青葉の失調は破壊衝動として表れることも多かったのだろう。この2度目の逮捕で母・登紀子も流石に青葉を見放し、縁を切ってしまったようだ。実母の現在の家を訪れると… 青葉家が崩壊していく一方で、そこから離れた登紀子はまた別の家庭を築いた。生地の常総市OS町では両親は他界、ふたりの子供は、駆け落ちした登紀子だけでなく兄も外に出て家を継がなかったため、既に実家は廃屋になっていた。ガラス戸を覗くと玄関先にはアルバムが開いたまま置かれていて、軍服姿の人物が写っている写真が見えた。父=海軍さんの葬式の際、登紀子は幼少期の真司を連れて地元に戻ってきたという。久し振りに会った親戚は「『あら、何人兄弟?』と聞いたら、『3匹!』って。あっけらかんとした感じが如何にも彼女らしかったわ」と振り返る。登紀子は正雄と別れたあとに再婚したが、最近は新しい家族と実家の裏にある小さな畑に来ては趣味で野菜を育てているようだ。 登紀子の中で正雄との不倫から始まり、息子の放火殺傷事件にまで至った青葉家の波乱は決着したのか。話が聞きたくて、彼女が新しい家庭を築いているとある住宅街を訪れた。夕方6時頃に一軒家のインターフォンを鳴らすと、夕飯の支度中だったのだろう、エプロン姿の女性が出てきた。「はい、何でしょう」。登紀子だ。青葉真司に何処か似た雰囲気を持っている。用件を告げると、彼女ははっきりとした口調で「ごめんなさい、取材はお断りしているので」と答えてまた家の中へ戻って行った。冬の住宅街は暗くなり、家々に灯る明かりがそこで営まれる暮らしがあることを示していた。 第9回に続く。2021年7月17日 掲載
「今から50年近く前のことになるかと思いますが、正雄さんがここでバスの運転手をしていたことは確かです。ただ正規の職員ではありませんでした。常勤の運転手が休んだりして穴が空いた時に頼まれていたようですね。他にも住職のおつかいだとか将棋の相手だとか……。毎月決まった給料を払っていたわけではなく、その都度、仕事した分のお金を手渡しする形だったと聞いています。昔はそういう、何をやっているのか分からないようなひとが地域にちらほらといたんです」 いわゆる雑用係のようなものだったのだろう正雄は、やがて同保育施設で働く女性と結婚。実家で両親と共に暮らし、最終的に6人の子供をもうける。ところがある時、彼は別の職員と不倫関係になり、駆け落ちしてしまう。その相手が青葉真司の母、登紀子(仮名)だ。正雄たちの駆け落ちは、小さな町では大事件として語り継がれていた。「当時既に白馬車さんもお婆さんも亡くなっていたんで、お嫁さんと子供たちが取り残されてしまって」「食っていけないから上の子供たちから順に働きに出るようになって、それでひとり減りふたり減り、結局誰もいなくなった」。ある男性が、正雄が残した田地の様子が気になって見に行くと、別の人物が農作業をしていた。「正雄が田んぼを売っぱらっちゃったんだ。そういう男なんだよ」。また、ある女性は言う。「ただ、駆け落ちした後もここの家にちょこちょこと帰ってきていたんです。6人兄妹の最後の女の子はその頃にできた子だって言うんだからねぇ」。その後の前妻の行方を知るひとは誰もいなかった。そして皆、青葉真司が起こした事件に困惑していた。「犯人が正雄の子供だって聞いてびっくりしたよ。でも駆け落ちした女性との間の子供は見たこともない。大火傷をして、治療されているんでしょう? どうせ死刑になるんだから、放っておけばいいのに」。「部屋中がゴミだらけで衝撃を受けた」 一方、青葉真司の母・登紀子は昭和25年生まれで、正雄とは年が17歳も離れている。彼女の地元は現在はS町と同じ常総市に属するOS町。高校卒業後に前述の保育施設で働き始め、毎朝、バスで通っていたという。町の老人は、登紀子の父親が彼女を自転車の後ろに乗せてバス停へ向かう姿を記憶している。「でも奥さんがいる男性とくっついて出ていってしまってねぇ。この辺じゃあそんな話は珍しかったからよく覚えているよ」。登紀子の父は元軍人で、町では“海軍さん”と呼ばれていた。彼女の実家はいわゆる分家。同じ通りにある本家から土地を分けてもらい独立したようだ。本家の立派なつくりに対して、登紀子の実家は小さい。そしてその裏にはやはり小さな畑がある。海軍さんは復員した後、近くの工場に働きに出ていたということで、白馬車さんと同様、農業だけでは生活していけなかったのだろう。登紀子は正雄と駆け落ちした後、長い間、父のいるOS町に帰ってこなかった。 逃げるようにそれぞれの生地を飛び出した正雄と登紀子は、新たな土地で3人の子供を授かる。昭和53年生まれの青葉真司は真ん中で、上には兄が、下には妹がいる。青葉家の足取りで確認できる最も古い場所は、真司が小学生から中学生にかけて暮らした埼玉県さいたま市緑区N町の国道沿いに建つアパートだ。訪ねると郵便受けにはチラシがぎゅうぎゅうに押し込まれ、雨戸を閉め切っている部屋も多く、インターフォンを押しても反応がないので既に廃墟になっているのかと思われたが、立ち去ろうとした時、錆びついた階段を老人が降りてきた。築40年ほどだというから青葉家が住んでいた頃はまださほど古くなっていなかったはずだ。しかし真司の小学校の同級生が記憶しているのは、部屋の荒れた様子である。「青葉とはクラスが一緒で仲良くしていました。友達は少なくて、遊んでいたのは僕ともうひとりぐらいでしたね。ひとことで言えば何を考えているかよく分からないやつでした」。彼は言う。「あだ名は“バオウ”。当時は『北斗の拳』が流行っていて、あいつは体が大きかったから(登場キャラクターの)“ラオウ”と青葉の“バ”をかけて。自宅にも遊びに行きましたが、部屋中がゴミだらけで衝撃を受けましたね。食べ終わった容器もそのままでとにかく汚かった。あとあいつは服がいつも同じで。事件の後に出回った卒業アルバムの写真、あのGジャンを毎日着ていましたよ」。彼は真司に万引きに誘われたことも印象に残っているという。「まだ小学校低学年でしたからびっくりしましたね。スーパーでお菓子を盗ろうと言っていたので、いま思えば親にあまり買ってもらえなかったのかもしれません」。小学生で万引きをすることがそこまで特異だとも思わないし、ましてやその後に起こした放火殺傷事件と結びつけるべきではないが、同級生たちが青葉家に関して決して豊かではないイメージを持っていたことは、青葉真司のバックグラウンドについて考える上では重要だろう。 中学生時代の知人もやはり同じようなイメージを持っていた。「クラスは別でしたが同じ柔道部だったので、覚えていますよ。友達があいつの家に遊びに行ったら部屋がしょんべん臭かったみたいで、乱取りで僕が青葉と組んだとき『あいつ、臭くなかったか?』と聞かれたりしました」。そしてある日、真司は姿を消す。「中学1年生の終わりか2年生の頃、学校に来なくなったんです。先生がホームルームで『みんな、青葉を知らないか?』と生徒に聞いていましたから、転校というよりも突然いなくなった感じで。友達も少なかったので、何でいなくなったのか何処に行ったのか分からずじまいですが」。この頃、青葉家はひと知れず同じ緑区内で5キロほど離れたD町に移っていた。母親は姿を消し、父親は自死 若い青葉真司は地道に人生を歩もうとしていたようにも思える。定時制高校時代は埼玉県庁の文書課で非常勤職員として、卒業後はコンビニエンス・ストアでアルバイトとして勤務。20歳頃からさいたま市の隣の春日部市でひとり暮らしを始めた。しかし一方で青葉家は次第に崩壊し、真司も不幸に足を取られていく。まず、不倫を経て駆け落ちまでした登紀子は、結局、夫と3人の子供を残して家を出てしまう。その後、正雄はタクシー運転手として生計を立てていたが、交通事故を起こしたことで解雇された上に怪我をしたため働けなくなり、家賃の支払いさえままならなくなる。そして平成11年、彼は父親と同じように自死する。 登紀子に去られ、長男と真司が独立した後、正雄と長女が住んでいたD町のアパートの部屋を訪ねてみたが、ドアの前は物置き場と化していた。20年前、正雄が命を絶った後も長女は弁当屋で働きながらその部屋で暮らし続けたという。しかし彼女も不意に姿を消す。以来、大家は気味が悪くなって部屋を貸すのを止めてしまったのだと、近隣住民は語る。「娘さんが野良猫に餌付けをしていたんだけど、うるさいし汚いから迷惑だと注意したら、『あんたらには私の気持ちなんか分からないよ』と言われたことを覚えているね」。妹も自殺していた 長女の行方を追っていると、意外なところで証言を得ることができた。父親の自殺から約10年後、彼女は常総市のとある寺を訪れている。対応した住職は京都アニメーションの放火殺傷事件が起こったあと、周囲に聞いた話からかつて会ったその女性が青葉真司の妹だったと気付き、はっとした。「うちに来た時、彼女は叫んでいました。気がおかしくなって何かが見えるという感じで、確か『GACKTの霊がいる』みたいなことを言っていた記憶があります。ひとりでは歩けないような状態で、付き添っていた年配の女性によると『本人がどうしてもお寺で除霊をしてほしいと言っている』と」。 ふたりはその前に他の寺で除霊を依頼したが断られたため、ここにやってきたのだという。「ただ“除霊”というものはうちではできないので、ご祈祷という形でもいいかと提案しました。それで『いい』と言うので、太鼓を叩いてお経をあげてという通常の形式でご祈祷をしたら、彼女は少し落ち着いたようで安心しました」。そして長女はこのまま祈祷を続けてほしいと頼むが、住職には用事があった。「その時は夏で……彼女が来たのはお昼の12時半とか午後1時頃だったと思うんですが、2時から施餓鬼という年中行事が予定されていたんです。だから断って、『すいませんね、本堂で休んでいいですから』と声をかけ、私は出かけた。その後、1時間ほどそこにいて帰っていったと聞いています」。 ところが翌日、住職は驚くような話を耳にする。「彼女はうちのお寺にご祈祷に来た、次の日に亡くなりました。自殺です。すぐそこの学校の倉庫で首を吊っていたと。前日にお寺に立ち寄ったということで警察がうちを訪ねて来ました。朝、練習に来た運動部の子が倉庫を開けたところ、中で亡くなっていたそうです。その後、子供たちのトラウマになってしまったため倉庫は壊されました」。祖父、父、妹――3代続けての自死に因果を感じない方が難しいだろう。もしくは青葉家にかかった呪いとは、日本の下層に広がる沼に足を取られたことに他ならない。それは一度はまると抜け出せなくなってしまうものだ。下着泥棒で逮捕 青葉真司もまたその負の連鎖を断ち切ることができなかった。彼が人生を踏み外したのは平成18年のことだ。同年のある春の朝、青葉がひとり暮らしをしていた春日部市のアパートに警察がやってくる。容疑は下着泥棒。コンビニエンス・ストアの夜勤明けだった彼は寝間着姿のまま連行されたという。母の登紀子は離婚後も子供たちを気にかけていたようで、留置場にいる間の家賃は彼女が支払った。青葉は執行猶予判決を受けるがアパートを退去することになり、常総市に住んでいた登紀子のもとへ身を寄せる。その後、複数の人材派遣会社に登録し、仕事を転々としていった。 平成20年6月には同じく非正規雇用労働者だった25歳の加藤智大が、トラックで通行人をはね、更に路上に降りて歩行者天国を楽しむ人々をナイフで次々と切りつけ、7人が死亡、10人が負傷した秋葉原殺傷事件が起こる。そこに就職氷河期世代が持つ社会に対する苛立ちと繋がる部分を見て取り、テロリズムとして捉える考え方がある(*9)。同年12月31日から翌年1月5日にかけては、自立生活サポートセンター〈もやい〉の事務局長・湯浅誠らが住居を失った非正規雇用労働者を保護するため、東京都千代田区の日比谷公園に〈年越し派遣村〉を開設。プレカリアート(不安定な労働者)としての彼らは急速に社会問題化していった。青葉は昭和53年生まれ、加藤は昭和57年生まれで、共に就職氷河期世代にあたる。後者の事件と前者の事件との間には約10年の時差があり、その期間における青葉の経歴を検証すると、同時代の政治や労働運動が救うことができなかった人間の姿が浮かび上がってくるだろう。もしくは同じく改元直後に起きた川崎20人殺傷事件の犯人・岩崎隆一と、元農林水産省事務次官による家庭内殺人事件の被害者・熊澤英一郎も共に一般的な働き方からドロップアウトしてしまった人物だが、昭和50年生まれでやはり就職氷河期世代にあたる後者に対して、前者は昭和42年生まれと世代がずれている。一方で、岩崎隆一が引きこもり始めたのは平成10年前後と見られ、就職氷河期と時期が被っているという意味では以上4つの事件は同時代性を持っている。 青葉のケースとしてはその後、職業安定所の仲介で常総市H町の雇用促進住宅に入居、郵便局の配達の仕事にも就くことができた。しかしこの30歳前後の頃から彼の精神は明らかに失調し、頻繁にトラブルを起こすようになる。雇用促進住宅は厚生労働省が管轄する共同住宅で、比較的安い賃料で部屋を借りることができる。近年は地方自治体や民間企業への譲渡が進められており、青葉が住んでいた住宅もつくりはそのまま、現在の運営母体はアメリカの投資会社だ。周辺には有名な菓子メーカーを始め工場が点在、住民もそこで働く移民労働者に入れ替わった。外観はいかにも古びた団地といった感じでも、掲示板には「Quiet Please(静かにしてください)」「NO FIRE ON SITE/NO BARBECUES(ここではバーベキューはできません)」、ゴミ捨て場には「Do not use grocery store plastic bag(レジ袋では出せません)」などと英語の注意書きがたくさん貼られている。建物の前にはカトリック系の教会があって、英語の他、ポルトガル語やスペイン語のミサも行われている。青葉のような労働者は、移民労働者に取って代わられてしまったとも見えた。ただ、後者もまたプレカリアートだという点では問題は繋がっているのだ。*9 東浩紀、平成20年の発言参照コンビニ強盗で再び逮捕、部屋には異様な光景が 青葉は最後に住んでいたアパートと同様、ここでも部屋で大音量で音楽を鳴らし、近隣住民から度々苦情を訴えられている。3DKで4万円という家賃の支払いさえ滞っていたようだが、退去のきっかけとなったのはまたしても逮捕だった。平成24年6月、常総市の隣・坂東市のコンビニエンス・ストアに包丁を持って押し入り、現金約2万円を奪った青葉は、自ら警察署に出頭して強盗及び銃刀法違反容疑で逮捕。懲役3年6カ月の実刑判決を受ける。雇用促進住宅の管理人は警察の立会いのもとで青葉の部屋に踏み込むが、ゴミが散乱、ノートパソコンの画面や壁が叩き壊され、床にハンマーが転がっていた光景に異様なものを感じたという。最後のアパートから持ち出された円筒形のスピーカー“キャノン”も先端が叩き壊したように割れていた。青葉の失調は破壊衝動として表れることも多かったのだろう。この2度目の逮捕で母・登紀子も流石に青葉を見放し、縁を切ってしまったようだ。実母の現在の家を訪れると… 青葉家が崩壊していく一方で、そこから離れた登紀子はまた別の家庭を築いた。生地の常総市OS町では両親は他界、ふたりの子供は、駆け落ちした登紀子だけでなく兄も外に出て家を継がなかったため、既に実家は廃屋になっていた。ガラス戸を覗くと玄関先にはアルバムが開いたまま置かれていて、軍服姿の人物が写っている写真が見えた。父=海軍さんの葬式の際、登紀子は幼少期の真司を連れて地元に戻ってきたという。久し振りに会った親戚は「『あら、何人兄弟?』と聞いたら、『3匹!』って。あっけらかんとした感じが如何にも彼女らしかったわ」と振り返る。登紀子は正雄と別れたあとに再婚したが、最近は新しい家族と実家の裏にある小さな畑に来ては趣味で野菜を育てているようだ。 登紀子の中で正雄との不倫から始まり、息子の放火殺傷事件にまで至った青葉家の波乱は決着したのか。話が聞きたくて、彼女が新しい家庭を築いているとある住宅街を訪れた。夕方6時頃に一軒家のインターフォンを鳴らすと、夕飯の支度中だったのだろう、エプロン姿の女性が出てきた。「はい、何でしょう」。登紀子だ。青葉真司に何処か似た雰囲気を持っている。用件を告げると、彼女ははっきりとした口調で「ごめんなさい、取材はお断りしているので」と答えてまた家の中へ戻って行った。冬の住宅街は暗くなり、家々に灯る明かりがそこで営まれる暮らしがあることを示していた。 第9回に続く。2021年7月17日 掲載
いわゆる雑用係のようなものだったのだろう正雄は、やがて同保育施設で働く女性と結婚。実家で両親と共に暮らし、最終的に6人の子供をもうける。ところがある時、彼は別の職員と不倫関係になり、駆け落ちしてしまう。その相手が青葉真司の母、登紀子(仮名)だ。正雄たちの駆け落ちは、小さな町では大事件として語り継がれていた。「当時既に白馬車さんもお婆さんも亡くなっていたんで、お嫁さんと子供たちが取り残されてしまって」「食っていけないから上の子供たちから順に働きに出るようになって、それでひとり減りふたり減り、結局誰もいなくなった」。ある男性が、正雄が残した田地の様子が気になって見に行くと、別の人物が農作業をしていた。「正雄が田んぼを売っぱらっちゃったんだ。そういう男なんだよ」。また、ある女性は言う。「ただ、駆け落ちした後もここの家にちょこちょこと帰ってきていたんです。6人兄妹の最後の女の子はその頃にできた子だって言うんだからねぇ」。その後の前妻の行方を知るひとは誰もいなかった。そして皆、青葉真司が起こした事件に困惑していた。「犯人が正雄の子供だって聞いてびっくりしたよ。でも駆け落ちした女性との間の子供は見たこともない。大火傷をして、治療されているんでしょう? どうせ死刑になるんだから、放っておけばいいのに」。「部屋中がゴミだらけで衝撃を受けた」 一方、青葉真司の母・登紀子は昭和25年生まれで、正雄とは年が17歳も離れている。彼女の地元は現在はS町と同じ常総市に属するOS町。高校卒業後に前述の保育施設で働き始め、毎朝、バスで通っていたという。町の老人は、登紀子の父親が彼女を自転車の後ろに乗せてバス停へ向かう姿を記憶している。「でも奥さんがいる男性とくっついて出ていってしまってねぇ。この辺じゃあそんな話は珍しかったからよく覚えているよ」。登紀子の父は元軍人で、町では“海軍さん”と呼ばれていた。彼女の実家はいわゆる分家。同じ通りにある本家から土地を分けてもらい独立したようだ。本家の立派なつくりに対して、登紀子の実家は小さい。そしてその裏にはやはり小さな畑がある。海軍さんは復員した後、近くの工場に働きに出ていたということで、白馬車さんと同様、農業だけでは生活していけなかったのだろう。登紀子は正雄と駆け落ちした後、長い間、父のいるOS町に帰ってこなかった。 逃げるようにそれぞれの生地を飛び出した正雄と登紀子は、新たな土地で3人の子供を授かる。昭和53年生まれの青葉真司は真ん中で、上には兄が、下には妹がいる。青葉家の足取りで確認できる最も古い場所は、真司が小学生から中学生にかけて暮らした埼玉県さいたま市緑区N町の国道沿いに建つアパートだ。訪ねると郵便受けにはチラシがぎゅうぎゅうに押し込まれ、雨戸を閉め切っている部屋も多く、インターフォンを押しても反応がないので既に廃墟になっているのかと思われたが、立ち去ろうとした時、錆びついた階段を老人が降りてきた。築40年ほどだというから青葉家が住んでいた頃はまださほど古くなっていなかったはずだ。しかし真司の小学校の同級生が記憶しているのは、部屋の荒れた様子である。「青葉とはクラスが一緒で仲良くしていました。友達は少なくて、遊んでいたのは僕ともうひとりぐらいでしたね。ひとことで言えば何を考えているかよく分からないやつでした」。彼は言う。「あだ名は“バオウ”。当時は『北斗の拳』が流行っていて、あいつは体が大きかったから(登場キャラクターの)“ラオウ”と青葉の“バ”をかけて。自宅にも遊びに行きましたが、部屋中がゴミだらけで衝撃を受けましたね。食べ終わった容器もそのままでとにかく汚かった。あとあいつは服がいつも同じで。事件の後に出回った卒業アルバムの写真、あのGジャンを毎日着ていましたよ」。彼は真司に万引きに誘われたことも印象に残っているという。「まだ小学校低学年でしたからびっくりしましたね。スーパーでお菓子を盗ろうと言っていたので、いま思えば親にあまり買ってもらえなかったのかもしれません」。小学生で万引きをすることがそこまで特異だとも思わないし、ましてやその後に起こした放火殺傷事件と結びつけるべきではないが、同級生たちが青葉家に関して決して豊かではないイメージを持っていたことは、青葉真司のバックグラウンドについて考える上では重要だろう。 中学生時代の知人もやはり同じようなイメージを持っていた。「クラスは別でしたが同じ柔道部だったので、覚えていますよ。友達があいつの家に遊びに行ったら部屋がしょんべん臭かったみたいで、乱取りで僕が青葉と組んだとき『あいつ、臭くなかったか?』と聞かれたりしました」。そしてある日、真司は姿を消す。「中学1年生の終わりか2年生の頃、学校に来なくなったんです。先生がホームルームで『みんな、青葉を知らないか?』と生徒に聞いていましたから、転校というよりも突然いなくなった感じで。友達も少なかったので、何でいなくなったのか何処に行ったのか分からずじまいですが」。この頃、青葉家はひと知れず同じ緑区内で5キロほど離れたD町に移っていた。母親は姿を消し、父親は自死 若い青葉真司は地道に人生を歩もうとしていたようにも思える。定時制高校時代は埼玉県庁の文書課で非常勤職員として、卒業後はコンビニエンス・ストアでアルバイトとして勤務。20歳頃からさいたま市の隣の春日部市でひとり暮らしを始めた。しかし一方で青葉家は次第に崩壊し、真司も不幸に足を取られていく。まず、不倫を経て駆け落ちまでした登紀子は、結局、夫と3人の子供を残して家を出てしまう。その後、正雄はタクシー運転手として生計を立てていたが、交通事故を起こしたことで解雇された上に怪我をしたため働けなくなり、家賃の支払いさえままならなくなる。そして平成11年、彼は父親と同じように自死する。 登紀子に去られ、長男と真司が独立した後、正雄と長女が住んでいたD町のアパートの部屋を訪ねてみたが、ドアの前は物置き場と化していた。20年前、正雄が命を絶った後も長女は弁当屋で働きながらその部屋で暮らし続けたという。しかし彼女も不意に姿を消す。以来、大家は気味が悪くなって部屋を貸すのを止めてしまったのだと、近隣住民は語る。「娘さんが野良猫に餌付けをしていたんだけど、うるさいし汚いから迷惑だと注意したら、『あんたらには私の気持ちなんか分からないよ』と言われたことを覚えているね」。妹も自殺していた 長女の行方を追っていると、意外なところで証言を得ることができた。父親の自殺から約10年後、彼女は常総市のとある寺を訪れている。対応した住職は京都アニメーションの放火殺傷事件が起こったあと、周囲に聞いた話からかつて会ったその女性が青葉真司の妹だったと気付き、はっとした。「うちに来た時、彼女は叫んでいました。気がおかしくなって何かが見えるという感じで、確か『GACKTの霊がいる』みたいなことを言っていた記憶があります。ひとりでは歩けないような状態で、付き添っていた年配の女性によると『本人がどうしてもお寺で除霊をしてほしいと言っている』と」。 ふたりはその前に他の寺で除霊を依頼したが断られたため、ここにやってきたのだという。「ただ“除霊”というものはうちではできないので、ご祈祷という形でもいいかと提案しました。それで『いい』と言うので、太鼓を叩いてお経をあげてという通常の形式でご祈祷をしたら、彼女は少し落ち着いたようで安心しました」。そして長女はこのまま祈祷を続けてほしいと頼むが、住職には用事があった。「その時は夏で……彼女が来たのはお昼の12時半とか午後1時頃だったと思うんですが、2時から施餓鬼という年中行事が予定されていたんです。だから断って、『すいませんね、本堂で休んでいいですから』と声をかけ、私は出かけた。その後、1時間ほどそこにいて帰っていったと聞いています」。 ところが翌日、住職は驚くような話を耳にする。「彼女はうちのお寺にご祈祷に来た、次の日に亡くなりました。自殺です。すぐそこの学校の倉庫で首を吊っていたと。前日にお寺に立ち寄ったということで警察がうちを訪ねて来ました。朝、練習に来た運動部の子が倉庫を開けたところ、中で亡くなっていたそうです。その後、子供たちのトラウマになってしまったため倉庫は壊されました」。祖父、父、妹――3代続けての自死に因果を感じない方が難しいだろう。もしくは青葉家にかかった呪いとは、日本の下層に広がる沼に足を取られたことに他ならない。それは一度はまると抜け出せなくなってしまうものだ。下着泥棒で逮捕 青葉真司もまたその負の連鎖を断ち切ることができなかった。彼が人生を踏み外したのは平成18年のことだ。同年のある春の朝、青葉がひとり暮らしをしていた春日部市のアパートに警察がやってくる。容疑は下着泥棒。コンビニエンス・ストアの夜勤明けだった彼は寝間着姿のまま連行されたという。母の登紀子は離婚後も子供たちを気にかけていたようで、留置場にいる間の家賃は彼女が支払った。青葉は執行猶予判決を受けるがアパートを退去することになり、常総市に住んでいた登紀子のもとへ身を寄せる。その後、複数の人材派遣会社に登録し、仕事を転々としていった。 平成20年6月には同じく非正規雇用労働者だった25歳の加藤智大が、トラックで通行人をはね、更に路上に降りて歩行者天国を楽しむ人々をナイフで次々と切りつけ、7人が死亡、10人が負傷した秋葉原殺傷事件が起こる。そこに就職氷河期世代が持つ社会に対する苛立ちと繋がる部分を見て取り、テロリズムとして捉える考え方がある(*9)。同年12月31日から翌年1月5日にかけては、自立生活サポートセンター〈もやい〉の事務局長・湯浅誠らが住居を失った非正規雇用労働者を保護するため、東京都千代田区の日比谷公園に〈年越し派遣村〉を開設。プレカリアート(不安定な労働者)としての彼らは急速に社会問題化していった。青葉は昭和53年生まれ、加藤は昭和57年生まれで、共に就職氷河期世代にあたる。後者の事件と前者の事件との間には約10年の時差があり、その期間における青葉の経歴を検証すると、同時代の政治や労働運動が救うことができなかった人間の姿が浮かび上がってくるだろう。もしくは同じく改元直後に起きた川崎20人殺傷事件の犯人・岩崎隆一と、元農林水産省事務次官による家庭内殺人事件の被害者・熊澤英一郎も共に一般的な働き方からドロップアウトしてしまった人物だが、昭和50年生まれでやはり就職氷河期世代にあたる後者に対して、前者は昭和42年生まれと世代がずれている。一方で、岩崎隆一が引きこもり始めたのは平成10年前後と見られ、就職氷河期と時期が被っているという意味では以上4つの事件は同時代性を持っている。 青葉のケースとしてはその後、職業安定所の仲介で常総市H町の雇用促進住宅に入居、郵便局の配達の仕事にも就くことができた。しかしこの30歳前後の頃から彼の精神は明らかに失調し、頻繁にトラブルを起こすようになる。雇用促進住宅は厚生労働省が管轄する共同住宅で、比較的安い賃料で部屋を借りることができる。近年は地方自治体や民間企業への譲渡が進められており、青葉が住んでいた住宅もつくりはそのまま、現在の運営母体はアメリカの投資会社だ。周辺には有名な菓子メーカーを始め工場が点在、住民もそこで働く移民労働者に入れ替わった。外観はいかにも古びた団地といった感じでも、掲示板には「Quiet Please(静かにしてください)」「NO FIRE ON SITE/NO BARBECUES(ここではバーベキューはできません)」、ゴミ捨て場には「Do not use grocery store plastic bag(レジ袋では出せません)」などと英語の注意書きがたくさん貼られている。建物の前にはカトリック系の教会があって、英語の他、ポルトガル語やスペイン語のミサも行われている。青葉のような労働者は、移民労働者に取って代わられてしまったとも見えた。ただ、後者もまたプレカリアートだという点では問題は繋がっているのだ。*9 東浩紀、平成20年の発言参照コンビニ強盗で再び逮捕、部屋には異様な光景が 青葉は最後に住んでいたアパートと同様、ここでも部屋で大音量で音楽を鳴らし、近隣住民から度々苦情を訴えられている。3DKで4万円という家賃の支払いさえ滞っていたようだが、退去のきっかけとなったのはまたしても逮捕だった。平成24年6月、常総市の隣・坂東市のコンビニエンス・ストアに包丁を持って押し入り、現金約2万円を奪った青葉は、自ら警察署に出頭して強盗及び銃刀法違反容疑で逮捕。懲役3年6カ月の実刑判決を受ける。雇用促進住宅の管理人は警察の立会いのもとで青葉の部屋に踏み込むが、ゴミが散乱、ノートパソコンの画面や壁が叩き壊され、床にハンマーが転がっていた光景に異様なものを感じたという。最後のアパートから持ち出された円筒形のスピーカー“キャノン”も先端が叩き壊したように割れていた。青葉の失調は破壊衝動として表れることも多かったのだろう。この2度目の逮捕で母・登紀子も流石に青葉を見放し、縁を切ってしまったようだ。実母の現在の家を訪れると… 青葉家が崩壊していく一方で、そこから離れた登紀子はまた別の家庭を築いた。生地の常総市OS町では両親は他界、ふたりの子供は、駆け落ちした登紀子だけでなく兄も外に出て家を継がなかったため、既に実家は廃屋になっていた。ガラス戸を覗くと玄関先にはアルバムが開いたまま置かれていて、軍服姿の人物が写っている写真が見えた。父=海軍さんの葬式の際、登紀子は幼少期の真司を連れて地元に戻ってきたという。久し振りに会った親戚は「『あら、何人兄弟?』と聞いたら、『3匹!』って。あっけらかんとした感じが如何にも彼女らしかったわ」と振り返る。登紀子は正雄と別れたあとに再婚したが、最近は新しい家族と実家の裏にある小さな畑に来ては趣味で野菜を育てているようだ。 登紀子の中で正雄との不倫から始まり、息子の放火殺傷事件にまで至った青葉家の波乱は決着したのか。話が聞きたくて、彼女が新しい家庭を築いているとある住宅街を訪れた。夕方6時頃に一軒家のインターフォンを鳴らすと、夕飯の支度中だったのだろう、エプロン姿の女性が出てきた。「はい、何でしょう」。登紀子だ。青葉真司に何処か似た雰囲気を持っている。用件を告げると、彼女ははっきりとした口調で「ごめんなさい、取材はお断りしているので」と答えてまた家の中へ戻って行った。冬の住宅街は暗くなり、家々に灯る明かりがそこで営まれる暮らしがあることを示していた。 第9回に続く。2021年7月17日 掲載
一方、青葉真司の母・登紀子は昭和25年生まれで、正雄とは年が17歳も離れている。彼女の地元は現在はS町と同じ常総市に属するOS町。高校卒業後に前述の保育施設で働き始め、毎朝、バスで通っていたという。町の老人は、登紀子の父親が彼女を自転車の後ろに乗せてバス停へ向かう姿を記憶している。「でも奥さんがいる男性とくっついて出ていってしまってねぇ。この辺じゃあそんな話は珍しかったからよく覚えているよ」。登紀子の父は元軍人で、町では“海軍さん”と呼ばれていた。彼女の実家はいわゆる分家。同じ通りにある本家から土地を分けてもらい独立したようだ。本家の立派なつくりに対して、登紀子の実家は小さい。そしてその裏にはやはり小さな畑がある。海軍さんは復員した後、近くの工場に働きに出ていたということで、白馬車さんと同様、農業だけでは生活していけなかったのだろう。登紀子は正雄と駆け落ちした後、長い間、父のいるOS町に帰ってこなかった。 逃げるようにそれぞれの生地を飛び出した正雄と登紀子は、新たな土地で3人の子供を授かる。昭和53年生まれの青葉真司は真ん中で、上には兄が、下には妹がいる。青葉家の足取りで確認できる最も古い場所は、真司が小学生から中学生にかけて暮らした埼玉県さいたま市緑区N町の国道沿いに建つアパートだ。訪ねると郵便受けにはチラシがぎゅうぎゅうに押し込まれ、雨戸を閉め切っている部屋も多く、インターフォンを押しても反応がないので既に廃墟になっているのかと思われたが、立ち去ろうとした時、錆びついた階段を老人が降りてきた。築40年ほどだというから青葉家が住んでいた頃はまださほど古くなっていなかったはずだ。しかし真司の小学校の同級生が記憶しているのは、部屋の荒れた様子である。「青葉とはクラスが一緒で仲良くしていました。友達は少なくて、遊んでいたのは僕ともうひとりぐらいでしたね。ひとことで言えば何を考えているかよく分からないやつでした」。彼は言う。「あだ名は“バオウ”。当時は『北斗の拳』が流行っていて、あいつは体が大きかったから(登場キャラクターの)“ラオウ”と青葉の“バ”をかけて。自宅にも遊びに行きましたが、部屋中がゴミだらけで衝撃を受けましたね。食べ終わった容器もそのままでとにかく汚かった。あとあいつは服がいつも同じで。事件の後に出回った卒業アルバムの写真、あのGジャンを毎日着ていましたよ」。彼は真司に万引きに誘われたことも印象に残っているという。「まだ小学校低学年でしたからびっくりしましたね。スーパーでお菓子を盗ろうと言っていたので、いま思えば親にあまり買ってもらえなかったのかもしれません」。小学生で万引きをすることがそこまで特異だとも思わないし、ましてやその後に起こした放火殺傷事件と結びつけるべきではないが、同級生たちが青葉家に関して決して豊かではないイメージを持っていたことは、青葉真司のバックグラウンドについて考える上では重要だろう。 中学生時代の知人もやはり同じようなイメージを持っていた。「クラスは別でしたが同じ柔道部だったので、覚えていますよ。友達があいつの家に遊びに行ったら部屋がしょんべん臭かったみたいで、乱取りで僕が青葉と組んだとき『あいつ、臭くなかったか?』と聞かれたりしました」。そしてある日、真司は姿を消す。「中学1年生の終わりか2年生の頃、学校に来なくなったんです。先生がホームルームで『みんな、青葉を知らないか?』と生徒に聞いていましたから、転校というよりも突然いなくなった感じで。友達も少なかったので、何でいなくなったのか何処に行ったのか分からずじまいですが」。この頃、青葉家はひと知れず同じ緑区内で5キロほど離れたD町に移っていた。母親は姿を消し、父親は自死 若い青葉真司は地道に人生を歩もうとしていたようにも思える。定時制高校時代は埼玉県庁の文書課で非常勤職員として、卒業後はコンビニエンス・ストアでアルバイトとして勤務。20歳頃からさいたま市の隣の春日部市でひとり暮らしを始めた。しかし一方で青葉家は次第に崩壊し、真司も不幸に足を取られていく。まず、不倫を経て駆け落ちまでした登紀子は、結局、夫と3人の子供を残して家を出てしまう。その後、正雄はタクシー運転手として生計を立てていたが、交通事故を起こしたことで解雇された上に怪我をしたため働けなくなり、家賃の支払いさえままならなくなる。そして平成11年、彼は父親と同じように自死する。 登紀子に去られ、長男と真司が独立した後、正雄と長女が住んでいたD町のアパートの部屋を訪ねてみたが、ドアの前は物置き場と化していた。20年前、正雄が命を絶った後も長女は弁当屋で働きながらその部屋で暮らし続けたという。しかし彼女も不意に姿を消す。以来、大家は気味が悪くなって部屋を貸すのを止めてしまったのだと、近隣住民は語る。「娘さんが野良猫に餌付けをしていたんだけど、うるさいし汚いから迷惑だと注意したら、『あんたらには私の気持ちなんか分からないよ』と言われたことを覚えているね」。妹も自殺していた 長女の行方を追っていると、意外なところで証言を得ることができた。父親の自殺から約10年後、彼女は常総市のとある寺を訪れている。対応した住職は京都アニメーションの放火殺傷事件が起こったあと、周囲に聞いた話からかつて会ったその女性が青葉真司の妹だったと気付き、はっとした。「うちに来た時、彼女は叫んでいました。気がおかしくなって何かが見えるという感じで、確か『GACKTの霊がいる』みたいなことを言っていた記憶があります。ひとりでは歩けないような状態で、付き添っていた年配の女性によると『本人がどうしてもお寺で除霊をしてほしいと言っている』と」。 ふたりはその前に他の寺で除霊を依頼したが断られたため、ここにやってきたのだという。「ただ“除霊”というものはうちではできないので、ご祈祷という形でもいいかと提案しました。それで『いい』と言うので、太鼓を叩いてお経をあげてという通常の形式でご祈祷をしたら、彼女は少し落ち着いたようで安心しました」。そして長女はこのまま祈祷を続けてほしいと頼むが、住職には用事があった。「その時は夏で……彼女が来たのはお昼の12時半とか午後1時頃だったと思うんですが、2時から施餓鬼という年中行事が予定されていたんです。だから断って、『すいませんね、本堂で休んでいいですから』と声をかけ、私は出かけた。その後、1時間ほどそこにいて帰っていったと聞いています」。 ところが翌日、住職は驚くような話を耳にする。「彼女はうちのお寺にご祈祷に来た、次の日に亡くなりました。自殺です。すぐそこの学校の倉庫で首を吊っていたと。前日にお寺に立ち寄ったということで警察がうちを訪ねて来ました。朝、練習に来た運動部の子が倉庫を開けたところ、中で亡くなっていたそうです。その後、子供たちのトラウマになってしまったため倉庫は壊されました」。祖父、父、妹――3代続けての自死に因果を感じない方が難しいだろう。もしくは青葉家にかかった呪いとは、日本の下層に広がる沼に足を取られたことに他ならない。それは一度はまると抜け出せなくなってしまうものだ。下着泥棒で逮捕 青葉真司もまたその負の連鎖を断ち切ることができなかった。彼が人生を踏み外したのは平成18年のことだ。同年のある春の朝、青葉がひとり暮らしをしていた春日部市のアパートに警察がやってくる。容疑は下着泥棒。コンビニエンス・ストアの夜勤明けだった彼は寝間着姿のまま連行されたという。母の登紀子は離婚後も子供たちを気にかけていたようで、留置場にいる間の家賃は彼女が支払った。青葉は執行猶予判決を受けるがアパートを退去することになり、常総市に住んでいた登紀子のもとへ身を寄せる。その後、複数の人材派遣会社に登録し、仕事を転々としていった。 平成20年6月には同じく非正規雇用労働者だった25歳の加藤智大が、トラックで通行人をはね、更に路上に降りて歩行者天国を楽しむ人々をナイフで次々と切りつけ、7人が死亡、10人が負傷した秋葉原殺傷事件が起こる。そこに就職氷河期世代が持つ社会に対する苛立ちと繋がる部分を見て取り、テロリズムとして捉える考え方がある(*9)。同年12月31日から翌年1月5日にかけては、自立生活サポートセンター〈もやい〉の事務局長・湯浅誠らが住居を失った非正規雇用労働者を保護するため、東京都千代田区の日比谷公園に〈年越し派遣村〉を開設。プレカリアート(不安定な労働者)としての彼らは急速に社会問題化していった。青葉は昭和53年生まれ、加藤は昭和57年生まれで、共に就職氷河期世代にあたる。後者の事件と前者の事件との間には約10年の時差があり、その期間における青葉の経歴を検証すると、同時代の政治や労働運動が救うことができなかった人間の姿が浮かび上がってくるだろう。もしくは同じく改元直後に起きた川崎20人殺傷事件の犯人・岩崎隆一と、元農林水産省事務次官による家庭内殺人事件の被害者・熊澤英一郎も共に一般的な働き方からドロップアウトしてしまった人物だが、昭和50年生まれでやはり就職氷河期世代にあたる後者に対して、前者は昭和42年生まれと世代がずれている。一方で、岩崎隆一が引きこもり始めたのは平成10年前後と見られ、就職氷河期と時期が被っているという意味では以上4つの事件は同時代性を持っている。 青葉のケースとしてはその後、職業安定所の仲介で常総市H町の雇用促進住宅に入居、郵便局の配達の仕事にも就くことができた。しかしこの30歳前後の頃から彼の精神は明らかに失調し、頻繁にトラブルを起こすようになる。雇用促進住宅は厚生労働省が管轄する共同住宅で、比較的安い賃料で部屋を借りることができる。近年は地方自治体や民間企業への譲渡が進められており、青葉が住んでいた住宅もつくりはそのまま、現在の運営母体はアメリカの投資会社だ。周辺には有名な菓子メーカーを始め工場が点在、住民もそこで働く移民労働者に入れ替わった。外観はいかにも古びた団地といった感じでも、掲示板には「Quiet Please(静かにしてください)」「NO FIRE ON SITE/NO BARBECUES(ここではバーベキューはできません)」、ゴミ捨て場には「Do not use grocery store plastic bag(レジ袋では出せません)」などと英語の注意書きがたくさん貼られている。建物の前にはカトリック系の教会があって、英語の他、ポルトガル語やスペイン語のミサも行われている。青葉のような労働者は、移民労働者に取って代わられてしまったとも見えた。ただ、後者もまたプレカリアートだという点では問題は繋がっているのだ。*9 東浩紀、平成20年の発言参照コンビニ強盗で再び逮捕、部屋には異様な光景が 青葉は最後に住んでいたアパートと同様、ここでも部屋で大音量で音楽を鳴らし、近隣住民から度々苦情を訴えられている。3DKで4万円という家賃の支払いさえ滞っていたようだが、退去のきっかけとなったのはまたしても逮捕だった。平成24年6月、常総市の隣・坂東市のコンビニエンス・ストアに包丁を持って押し入り、現金約2万円を奪った青葉は、自ら警察署に出頭して強盗及び銃刀法違反容疑で逮捕。懲役3年6カ月の実刑判決を受ける。雇用促進住宅の管理人は警察の立会いのもとで青葉の部屋に踏み込むが、ゴミが散乱、ノートパソコンの画面や壁が叩き壊され、床にハンマーが転がっていた光景に異様なものを感じたという。最後のアパートから持ち出された円筒形のスピーカー“キャノン”も先端が叩き壊したように割れていた。青葉の失調は破壊衝動として表れることも多かったのだろう。この2度目の逮捕で母・登紀子も流石に青葉を見放し、縁を切ってしまったようだ。実母の現在の家を訪れると… 青葉家が崩壊していく一方で、そこから離れた登紀子はまた別の家庭を築いた。生地の常総市OS町では両親は他界、ふたりの子供は、駆け落ちした登紀子だけでなく兄も外に出て家を継がなかったため、既に実家は廃屋になっていた。ガラス戸を覗くと玄関先にはアルバムが開いたまま置かれていて、軍服姿の人物が写っている写真が見えた。父=海軍さんの葬式の際、登紀子は幼少期の真司を連れて地元に戻ってきたという。久し振りに会った親戚は「『あら、何人兄弟?』と聞いたら、『3匹!』って。あっけらかんとした感じが如何にも彼女らしかったわ」と振り返る。登紀子は正雄と別れたあとに再婚したが、最近は新しい家族と実家の裏にある小さな畑に来ては趣味で野菜を育てているようだ。 登紀子の中で正雄との不倫から始まり、息子の放火殺傷事件にまで至った青葉家の波乱は決着したのか。話が聞きたくて、彼女が新しい家庭を築いているとある住宅街を訪れた。夕方6時頃に一軒家のインターフォンを鳴らすと、夕飯の支度中だったのだろう、エプロン姿の女性が出てきた。「はい、何でしょう」。登紀子だ。青葉真司に何処か似た雰囲気を持っている。用件を告げると、彼女ははっきりとした口調で「ごめんなさい、取材はお断りしているので」と答えてまた家の中へ戻って行った。冬の住宅街は暗くなり、家々に灯る明かりがそこで営まれる暮らしがあることを示していた。 第9回に続く。2021年7月17日 掲載
逃げるようにそれぞれの生地を飛び出した正雄と登紀子は、新たな土地で3人の子供を授かる。昭和53年生まれの青葉真司は真ん中で、上には兄が、下には妹がいる。青葉家の足取りで確認できる最も古い場所は、真司が小学生から中学生にかけて暮らした埼玉県さいたま市緑区N町の国道沿いに建つアパートだ。訪ねると郵便受けにはチラシがぎゅうぎゅうに押し込まれ、雨戸を閉め切っている部屋も多く、インターフォンを押しても反応がないので既に廃墟になっているのかと思われたが、立ち去ろうとした時、錆びついた階段を老人が降りてきた。築40年ほどだというから青葉家が住んでいた頃はまださほど古くなっていなかったはずだ。しかし真司の小学校の同級生が記憶しているのは、部屋の荒れた様子である。「青葉とはクラスが一緒で仲良くしていました。友達は少なくて、遊んでいたのは僕ともうひとりぐらいでしたね。ひとことで言えば何を考えているかよく分からないやつでした」。彼は言う。「あだ名は“バオウ”。当時は『北斗の拳』が流行っていて、あいつは体が大きかったから(登場キャラクターの)“ラオウ”と青葉の“バ”をかけて。自宅にも遊びに行きましたが、部屋中がゴミだらけで衝撃を受けましたね。食べ終わった容器もそのままでとにかく汚かった。あとあいつは服がいつも同じで。事件の後に出回った卒業アルバムの写真、あのGジャンを毎日着ていましたよ」。彼は真司に万引きに誘われたことも印象に残っているという。「まだ小学校低学年でしたからびっくりしましたね。スーパーでお菓子を盗ろうと言っていたので、いま思えば親にあまり買ってもらえなかったのかもしれません」。小学生で万引きをすることがそこまで特異だとも思わないし、ましてやその後に起こした放火殺傷事件と結びつけるべきではないが、同級生たちが青葉家に関して決して豊かではないイメージを持っていたことは、青葉真司のバックグラウンドについて考える上では重要だろう。 中学生時代の知人もやはり同じようなイメージを持っていた。「クラスは別でしたが同じ柔道部だったので、覚えていますよ。友達があいつの家に遊びに行ったら部屋がしょんべん臭かったみたいで、乱取りで僕が青葉と組んだとき『あいつ、臭くなかったか?』と聞かれたりしました」。そしてある日、真司は姿を消す。「中学1年生の終わりか2年生の頃、学校に来なくなったんです。先生がホームルームで『みんな、青葉を知らないか?』と生徒に聞いていましたから、転校というよりも突然いなくなった感じで。友達も少なかったので、何でいなくなったのか何処に行ったのか分からずじまいですが」。この頃、青葉家はひと知れず同じ緑区内で5キロほど離れたD町に移っていた。母親は姿を消し、父親は自死 若い青葉真司は地道に人生を歩もうとしていたようにも思える。定時制高校時代は埼玉県庁の文書課で非常勤職員として、卒業後はコンビニエンス・ストアでアルバイトとして勤務。20歳頃からさいたま市の隣の春日部市でひとり暮らしを始めた。しかし一方で青葉家は次第に崩壊し、真司も不幸に足を取られていく。まず、不倫を経て駆け落ちまでした登紀子は、結局、夫と3人の子供を残して家を出てしまう。その後、正雄はタクシー運転手として生計を立てていたが、交通事故を起こしたことで解雇された上に怪我をしたため働けなくなり、家賃の支払いさえままならなくなる。そして平成11年、彼は父親と同じように自死する。 登紀子に去られ、長男と真司が独立した後、正雄と長女が住んでいたD町のアパートの部屋を訪ねてみたが、ドアの前は物置き場と化していた。20年前、正雄が命を絶った後も長女は弁当屋で働きながらその部屋で暮らし続けたという。しかし彼女も不意に姿を消す。以来、大家は気味が悪くなって部屋を貸すのを止めてしまったのだと、近隣住民は語る。「娘さんが野良猫に餌付けをしていたんだけど、うるさいし汚いから迷惑だと注意したら、『あんたらには私の気持ちなんか分からないよ』と言われたことを覚えているね」。妹も自殺していた 長女の行方を追っていると、意外なところで証言を得ることができた。父親の自殺から約10年後、彼女は常総市のとある寺を訪れている。対応した住職は京都アニメーションの放火殺傷事件が起こったあと、周囲に聞いた話からかつて会ったその女性が青葉真司の妹だったと気付き、はっとした。「うちに来た時、彼女は叫んでいました。気がおかしくなって何かが見えるという感じで、確か『GACKTの霊がいる』みたいなことを言っていた記憶があります。ひとりでは歩けないような状態で、付き添っていた年配の女性によると『本人がどうしてもお寺で除霊をしてほしいと言っている』と」。 ふたりはその前に他の寺で除霊を依頼したが断られたため、ここにやってきたのだという。「ただ“除霊”というものはうちではできないので、ご祈祷という形でもいいかと提案しました。それで『いい』と言うので、太鼓を叩いてお経をあげてという通常の形式でご祈祷をしたら、彼女は少し落ち着いたようで安心しました」。そして長女はこのまま祈祷を続けてほしいと頼むが、住職には用事があった。「その時は夏で……彼女が来たのはお昼の12時半とか午後1時頃だったと思うんですが、2時から施餓鬼という年中行事が予定されていたんです。だから断って、『すいませんね、本堂で休んでいいですから』と声をかけ、私は出かけた。その後、1時間ほどそこにいて帰っていったと聞いています」。 ところが翌日、住職は驚くような話を耳にする。「彼女はうちのお寺にご祈祷に来た、次の日に亡くなりました。自殺です。すぐそこの学校の倉庫で首を吊っていたと。前日にお寺に立ち寄ったということで警察がうちを訪ねて来ました。朝、練習に来た運動部の子が倉庫を開けたところ、中で亡くなっていたそうです。その後、子供たちのトラウマになってしまったため倉庫は壊されました」。祖父、父、妹――3代続けての自死に因果を感じない方が難しいだろう。もしくは青葉家にかかった呪いとは、日本の下層に広がる沼に足を取られたことに他ならない。それは一度はまると抜け出せなくなってしまうものだ。下着泥棒で逮捕 青葉真司もまたその負の連鎖を断ち切ることができなかった。彼が人生を踏み外したのは平成18年のことだ。同年のある春の朝、青葉がひとり暮らしをしていた春日部市のアパートに警察がやってくる。容疑は下着泥棒。コンビニエンス・ストアの夜勤明けだった彼は寝間着姿のまま連行されたという。母の登紀子は離婚後も子供たちを気にかけていたようで、留置場にいる間の家賃は彼女が支払った。青葉は執行猶予判決を受けるがアパートを退去することになり、常総市に住んでいた登紀子のもとへ身を寄せる。その後、複数の人材派遣会社に登録し、仕事を転々としていった。 平成20年6月には同じく非正規雇用労働者だった25歳の加藤智大が、トラックで通行人をはね、更に路上に降りて歩行者天国を楽しむ人々をナイフで次々と切りつけ、7人が死亡、10人が負傷した秋葉原殺傷事件が起こる。そこに就職氷河期世代が持つ社会に対する苛立ちと繋がる部分を見て取り、テロリズムとして捉える考え方がある(*9)。同年12月31日から翌年1月5日にかけては、自立生活サポートセンター〈もやい〉の事務局長・湯浅誠らが住居を失った非正規雇用労働者を保護するため、東京都千代田区の日比谷公園に〈年越し派遣村〉を開設。プレカリアート(不安定な労働者)としての彼らは急速に社会問題化していった。青葉は昭和53年生まれ、加藤は昭和57年生まれで、共に就職氷河期世代にあたる。後者の事件と前者の事件との間には約10年の時差があり、その期間における青葉の経歴を検証すると、同時代の政治や労働運動が救うことができなかった人間の姿が浮かび上がってくるだろう。もしくは同じく改元直後に起きた川崎20人殺傷事件の犯人・岩崎隆一と、元農林水産省事務次官による家庭内殺人事件の被害者・熊澤英一郎も共に一般的な働き方からドロップアウトしてしまった人物だが、昭和50年生まれでやはり就職氷河期世代にあたる後者に対して、前者は昭和42年生まれと世代がずれている。一方で、岩崎隆一が引きこもり始めたのは平成10年前後と見られ、就職氷河期と時期が被っているという意味では以上4つの事件は同時代性を持っている。 青葉のケースとしてはその後、職業安定所の仲介で常総市H町の雇用促進住宅に入居、郵便局の配達の仕事にも就くことができた。しかしこの30歳前後の頃から彼の精神は明らかに失調し、頻繁にトラブルを起こすようになる。雇用促進住宅は厚生労働省が管轄する共同住宅で、比較的安い賃料で部屋を借りることができる。近年は地方自治体や民間企業への譲渡が進められており、青葉が住んでいた住宅もつくりはそのまま、現在の運営母体はアメリカの投資会社だ。周辺には有名な菓子メーカーを始め工場が点在、住民もそこで働く移民労働者に入れ替わった。外観はいかにも古びた団地といった感じでも、掲示板には「Quiet Please(静かにしてください)」「NO FIRE ON SITE/NO BARBECUES(ここではバーベキューはできません)」、ゴミ捨て場には「Do not use grocery store plastic bag(レジ袋では出せません)」などと英語の注意書きがたくさん貼られている。建物の前にはカトリック系の教会があって、英語の他、ポルトガル語やスペイン語のミサも行われている。青葉のような労働者は、移民労働者に取って代わられてしまったとも見えた。ただ、後者もまたプレカリアートだという点では問題は繋がっているのだ。*9 東浩紀、平成20年の発言参照コンビニ強盗で再び逮捕、部屋には異様な光景が 青葉は最後に住んでいたアパートと同様、ここでも部屋で大音量で音楽を鳴らし、近隣住民から度々苦情を訴えられている。3DKで4万円という家賃の支払いさえ滞っていたようだが、退去のきっかけとなったのはまたしても逮捕だった。平成24年6月、常総市の隣・坂東市のコンビニエンス・ストアに包丁を持って押し入り、現金約2万円を奪った青葉は、自ら警察署に出頭して強盗及び銃刀法違反容疑で逮捕。懲役3年6カ月の実刑判決を受ける。雇用促進住宅の管理人は警察の立会いのもとで青葉の部屋に踏み込むが、ゴミが散乱、ノートパソコンの画面や壁が叩き壊され、床にハンマーが転がっていた光景に異様なものを感じたという。最後のアパートから持ち出された円筒形のスピーカー“キャノン”も先端が叩き壊したように割れていた。青葉の失調は破壊衝動として表れることも多かったのだろう。この2度目の逮捕で母・登紀子も流石に青葉を見放し、縁を切ってしまったようだ。実母の現在の家を訪れると… 青葉家が崩壊していく一方で、そこから離れた登紀子はまた別の家庭を築いた。生地の常総市OS町では両親は他界、ふたりの子供は、駆け落ちした登紀子だけでなく兄も外に出て家を継がなかったため、既に実家は廃屋になっていた。ガラス戸を覗くと玄関先にはアルバムが開いたまま置かれていて、軍服姿の人物が写っている写真が見えた。父=海軍さんの葬式の際、登紀子は幼少期の真司を連れて地元に戻ってきたという。久し振りに会った親戚は「『あら、何人兄弟?』と聞いたら、『3匹!』って。あっけらかんとした感じが如何にも彼女らしかったわ」と振り返る。登紀子は正雄と別れたあとに再婚したが、最近は新しい家族と実家の裏にある小さな畑に来ては趣味で野菜を育てているようだ。 登紀子の中で正雄との不倫から始まり、息子の放火殺傷事件にまで至った青葉家の波乱は決着したのか。話が聞きたくて、彼女が新しい家庭を築いているとある住宅街を訪れた。夕方6時頃に一軒家のインターフォンを鳴らすと、夕飯の支度中だったのだろう、エプロン姿の女性が出てきた。「はい、何でしょう」。登紀子だ。青葉真司に何処か似た雰囲気を持っている。用件を告げると、彼女ははっきりとした口調で「ごめんなさい、取材はお断りしているので」と答えてまた家の中へ戻って行った。冬の住宅街は暗くなり、家々に灯る明かりがそこで営まれる暮らしがあることを示していた。 第9回に続く。2021年7月17日 掲載
「青葉とはクラスが一緒で仲良くしていました。友達は少なくて、遊んでいたのは僕ともうひとりぐらいでしたね。ひとことで言えば何を考えているかよく分からないやつでした」。彼は言う。「あだ名は“バオウ”。当時は『北斗の拳』が流行っていて、あいつは体が大きかったから(登場キャラクターの)“ラオウ”と青葉の“バ”をかけて。自宅にも遊びに行きましたが、部屋中がゴミだらけで衝撃を受けましたね。食べ終わった容器もそのままでとにかく汚かった。あとあいつは服がいつも同じで。事件の後に出回った卒業アルバムの写真、あのGジャンを毎日着ていましたよ」。彼は真司に万引きに誘われたことも印象に残っているという。「まだ小学校低学年でしたからびっくりしましたね。スーパーでお菓子を盗ろうと言っていたので、いま思えば親にあまり買ってもらえなかったのかもしれません」。小学生で万引きをすることがそこまで特異だとも思わないし、ましてやその後に起こした放火殺傷事件と結びつけるべきではないが、同級生たちが青葉家に関して決して豊かではないイメージを持っていたことは、青葉真司のバックグラウンドについて考える上では重要だろう。 中学生時代の知人もやはり同じようなイメージを持っていた。「クラスは別でしたが同じ柔道部だったので、覚えていますよ。友達があいつの家に遊びに行ったら部屋がしょんべん臭かったみたいで、乱取りで僕が青葉と組んだとき『あいつ、臭くなかったか?』と聞かれたりしました」。そしてある日、真司は姿を消す。「中学1年生の終わりか2年生の頃、学校に来なくなったんです。先生がホームルームで『みんな、青葉を知らないか?』と生徒に聞いていましたから、転校というよりも突然いなくなった感じで。友達も少なかったので、何でいなくなったのか何処に行ったのか分からずじまいですが」。この頃、青葉家はひと知れず同じ緑区内で5キロほど離れたD町に移っていた。母親は姿を消し、父親は自死 若い青葉真司は地道に人生を歩もうとしていたようにも思える。定時制高校時代は埼玉県庁の文書課で非常勤職員として、卒業後はコンビニエンス・ストアでアルバイトとして勤務。20歳頃からさいたま市の隣の春日部市でひとり暮らしを始めた。しかし一方で青葉家は次第に崩壊し、真司も不幸に足を取られていく。まず、不倫を経て駆け落ちまでした登紀子は、結局、夫と3人の子供を残して家を出てしまう。その後、正雄はタクシー運転手として生計を立てていたが、交通事故を起こしたことで解雇された上に怪我をしたため働けなくなり、家賃の支払いさえままならなくなる。そして平成11年、彼は父親と同じように自死する。 登紀子に去られ、長男と真司が独立した後、正雄と長女が住んでいたD町のアパートの部屋を訪ねてみたが、ドアの前は物置き場と化していた。20年前、正雄が命を絶った後も長女は弁当屋で働きながらその部屋で暮らし続けたという。しかし彼女も不意に姿を消す。以来、大家は気味が悪くなって部屋を貸すのを止めてしまったのだと、近隣住民は語る。「娘さんが野良猫に餌付けをしていたんだけど、うるさいし汚いから迷惑だと注意したら、『あんたらには私の気持ちなんか分からないよ』と言われたことを覚えているね」。妹も自殺していた 長女の行方を追っていると、意外なところで証言を得ることができた。父親の自殺から約10年後、彼女は常総市のとある寺を訪れている。対応した住職は京都アニメーションの放火殺傷事件が起こったあと、周囲に聞いた話からかつて会ったその女性が青葉真司の妹だったと気付き、はっとした。「うちに来た時、彼女は叫んでいました。気がおかしくなって何かが見えるという感じで、確か『GACKTの霊がいる』みたいなことを言っていた記憶があります。ひとりでは歩けないような状態で、付き添っていた年配の女性によると『本人がどうしてもお寺で除霊をしてほしいと言っている』と」。 ふたりはその前に他の寺で除霊を依頼したが断られたため、ここにやってきたのだという。「ただ“除霊”というものはうちではできないので、ご祈祷という形でもいいかと提案しました。それで『いい』と言うので、太鼓を叩いてお経をあげてという通常の形式でご祈祷をしたら、彼女は少し落ち着いたようで安心しました」。そして長女はこのまま祈祷を続けてほしいと頼むが、住職には用事があった。「その時は夏で……彼女が来たのはお昼の12時半とか午後1時頃だったと思うんですが、2時から施餓鬼という年中行事が予定されていたんです。だから断って、『すいませんね、本堂で休んでいいですから』と声をかけ、私は出かけた。その後、1時間ほどそこにいて帰っていったと聞いています」。 ところが翌日、住職は驚くような話を耳にする。「彼女はうちのお寺にご祈祷に来た、次の日に亡くなりました。自殺です。すぐそこの学校の倉庫で首を吊っていたと。前日にお寺に立ち寄ったということで警察がうちを訪ねて来ました。朝、練習に来た運動部の子が倉庫を開けたところ、中で亡くなっていたそうです。その後、子供たちのトラウマになってしまったため倉庫は壊されました」。祖父、父、妹――3代続けての自死に因果を感じない方が難しいだろう。もしくは青葉家にかかった呪いとは、日本の下層に広がる沼に足を取られたことに他ならない。それは一度はまると抜け出せなくなってしまうものだ。下着泥棒で逮捕 青葉真司もまたその負の連鎖を断ち切ることができなかった。彼が人生を踏み外したのは平成18年のことだ。同年のある春の朝、青葉がひとり暮らしをしていた春日部市のアパートに警察がやってくる。容疑は下着泥棒。コンビニエンス・ストアの夜勤明けだった彼は寝間着姿のまま連行されたという。母の登紀子は離婚後も子供たちを気にかけていたようで、留置場にいる間の家賃は彼女が支払った。青葉は執行猶予判決を受けるがアパートを退去することになり、常総市に住んでいた登紀子のもとへ身を寄せる。その後、複数の人材派遣会社に登録し、仕事を転々としていった。 平成20年6月には同じく非正規雇用労働者だった25歳の加藤智大が、トラックで通行人をはね、更に路上に降りて歩行者天国を楽しむ人々をナイフで次々と切りつけ、7人が死亡、10人が負傷した秋葉原殺傷事件が起こる。そこに就職氷河期世代が持つ社会に対する苛立ちと繋がる部分を見て取り、テロリズムとして捉える考え方がある(*9)。同年12月31日から翌年1月5日にかけては、自立生活サポートセンター〈もやい〉の事務局長・湯浅誠らが住居を失った非正規雇用労働者を保護するため、東京都千代田区の日比谷公園に〈年越し派遣村〉を開設。プレカリアート(不安定な労働者)としての彼らは急速に社会問題化していった。青葉は昭和53年生まれ、加藤は昭和57年生まれで、共に就職氷河期世代にあたる。後者の事件と前者の事件との間には約10年の時差があり、その期間における青葉の経歴を検証すると、同時代の政治や労働運動が救うことができなかった人間の姿が浮かび上がってくるだろう。もしくは同じく改元直後に起きた川崎20人殺傷事件の犯人・岩崎隆一と、元農林水産省事務次官による家庭内殺人事件の被害者・熊澤英一郎も共に一般的な働き方からドロップアウトしてしまった人物だが、昭和50年生まれでやはり就職氷河期世代にあたる後者に対して、前者は昭和42年生まれと世代がずれている。一方で、岩崎隆一が引きこもり始めたのは平成10年前後と見られ、就職氷河期と時期が被っているという意味では以上4つの事件は同時代性を持っている。 青葉のケースとしてはその後、職業安定所の仲介で常総市H町の雇用促進住宅に入居、郵便局の配達の仕事にも就くことができた。しかしこの30歳前後の頃から彼の精神は明らかに失調し、頻繁にトラブルを起こすようになる。雇用促進住宅は厚生労働省が管轄する共同住宅で、比較的安い賃料で部屋を借りることができる。近年は地方自治体や民間企業への譲渡が進められており、青葉が住んでいた住宅もつくりはそのまま、現在の運営母体はアメリカの投資会社だ。周辺には有名な菓子メーカーを始め工場が点在、住民もそこで働く移民労働者に入れ替わった。外観はいかにも古びた団地といった感じでも、掲示板には「Quiet Please(静かにしてください)」「NO FIRE ON SITE/NO BARBECUES(ここではバーベキューはできません)」、ゴミ捨て場には「Do not use grocery store plastic bag(レジ袋では出せません)」などと英語の注意書きがたくさん貼られている。建物の前にはカトリック系の教会があって、英語の他、ポルトガル語やスペイン語のミサも行われている。青葉のような労働者は、移民労働者に取って代わられてしまったとも見えた。ただ、後者もまたプレカリアートだという点では問題は繋がっているのだ。*9 東浩紀、平成20年の発言参照コンビニ強盗で再び逮捕、部屋には異様な光景が 青葉は最後に住んでいたアパートと同様、ここでも部屋で大音量で音楽を鳴らし、近隣住民から度々苦情を訴えられている。3DKで4万円という家賃の支払いさえ滞っていたようだが、退去のきっかけとなったのはまたしても逮捕だった。平成24年6月、常総市の隣・坂東市のコンビニエンス・ストアに包丁を持って押し入り、現金約2万円を奪った青葉は、自ら警察署に出頭して強盗及び銃刀法違反容疑で逮捕。懲役3年6カ月の実刑判決を受ける。雇用促進住宅の管理人は警察の立会いのもとで青葉の部屋に踏み込むが、ゴミが散乱、ノートパソコンの画面や壁が叩き壊され、床にハンマーが転がっていた光景に異様なものを感じたという。最後のアパートから持ち出された円筒形のスピーカー“キャノン”も先端が叩き壊したように割れていた。青葉の失調は破壊衝動として表れることも多かったのだろう。この2度目の逮捕で母・登紀子も流石に青葉を見放し、縁を切ってしまったようだ。実母の現在の家を訪れると… 青葉家が崩壊していく一方で、そこから離れた登紀子はまた別の家庭を築いた。生地の常総市OS町では両親は他界、ふたりの子供は、駆け落ちした登紀子だけでなく兄も外に出て家を継がなかったため、既に実家は廃屋になっていた。ガラス戸を覗くと玄関先にはアルバムが開いたまま置かれていて、軍服姿の人物が写っている写真が見えた。父=海軍さんの葬式の際、登紀子は幼少期の真司を連れて地元に戻ってきたという。久し振りに会った親戚は「『あら、何人兄弟?』と聞いたら、『3匹!』って。あっけらかんとした感じが如何にも彼女らしかったわ」と振り返る。登紀子は正雄と別れたあとに再婚したが、最近は新しい家族と実家の裏にある小さな畑に来ては趣味で野菜を育てているようだ。 登紀子の中で正雄との不倫から始まり、息子の放火殺傷事件にまで至った青葉家の波乱は決着したのか。話が聞きたくて、彼女が新しい家庭を築いているとある住宅街を訪れた。夕方6時頃に一軒家のインターフォンを鳴らすと、夕飯の支度中だったのだろう、エプロン姿の女性が出てきた。「はい、何でしょう」。登紀子だ。青葉真司に何処か似た雰囲気を持っている。用件を告げると、彼女ははっきりとした口調で「ごめんなさい、取材はお断りしているので」と答えてまた家の中へ戻って行った。冬の住宅街は暗くなり、家々に灯る明かりがそこで営まれる暮らしがあることを示していた。 第9回に続く。2021年7月17日 掲載
中学生時代の知人もやはり同じようなイメージを持っていた。「クラスは別でしたが同じ柔道部だったので、覚えていますよ。友達があいつの家に遊びに行ったら部屋がしょんべん臭かったみたいで、乱取りで僕が青葉と組んだとき『あいつ、臭くなかったか?』と聞かれたりしました」。そしてある日、真司は姿を消す。「中学1年生の終わりか2年生の頃、学校に来なくなったんです。先生がホームルームで『みんな、青葉を知らないか?』と生徒に聞いていましたから、転校というよりも突然いなくなった感じで。友達も少なかったので、何でいなくなったのか何処に行ったのか分からずじまいですが」。この頃、青葉家はひと知れず同じ緑区内で5キロほど離れたD町に移っていた。母親は姿を消し、父親は自死 若い青葉真司は地道に人生を歩もうとしていたようにも思える。定時制高校時代は埼玉県庁の文書課で非常勤職員として、卒業後はコンビニエンス・ストアでアルバイトとして勤務。20歳頃からさいたま市の隣の春日部市でひとり暮らしを始めた。しかし一方で青葉家は次第に崩壊し、真司も不幸に足を取られていく。まず、不倫を経て駆け落ちまでした登紀子は、結局、夫と3人の子供を残して家を出てしまう。その後、正雄はタクシー運転手として生計を立てていたが、交通事故を起こしたことで解雇された上に怪我をしたため働けなくなり、家賃の支払いさえままならなくなる。そして平成11年、彼は父親と同じように自死する。 登紀子に去られ、長男と真司が独立した後、正雄と長女が住んでいたD町のアパートの部屋を訪ねてみたが、ドアの前は物置き場と化していた。20年前、正雄が命を絶った後も長女は弁当屋で働きながらその部屋で暮らし続けたという。しかし彼女も不意に姿を消す。以来、大家は気味が悪くなって部屋を貸すのを止めてしまったのだと、近隣住民は語る。「娘さんが野良猫に餌付けをしていたんだけど、うるさいし汚いから迷惑だと注意したら、『あんたらには私の気持ちなんか分からないよ』と言われたことを覚えているね」。妹も自殺していた 長女の行方を追っていると、意外なところで証言を得ることができた。父親の自殺から約10年後、彼女は常総市のとある寺を訪れている。対応した住職は京都アニメーションの放火殺傷事件が起こったあと、周囲に聞いた話からかつて会ったその女性が青葉真司の妹だったと気付き、はっとした。「うちに来た時、彼女は叫んでいました。気がおかしくなって何かが見えるという感じで、確か『GACKTの霊がいる』みたいなことを言っていた記憶があります。ひとりでは歩けないような状態で、付き添っていた年配の女性によると『本人がどうしてもお寺で除霊をしてほしいと言っている』と」。 ふたりはその前に他の寺で除霊を依頼したが断られたため、ここにやってきたのだという。「ただ“除霊”というものはうちではできないので、ご祈祷という形でもいいかと提案しました。それで『いい』と言うので、太鼓を叩いてお経をあげてという通常の形式でご祈祷をしたら、彼女は少し落ち着いたようで安心しました」。そして長女はこのまま祈祷を続けてほしいと頼むが、住職には用事があった。「その時は夏で……彼女が来たのはお昼の12時半とか午後1時頃だったと思うんですが、2時から施餓鬼という年中行事が予定されていたんです。だから断って、『すいませんね、本堂で休んでいいですから』と声をかけ、私は出かけた。その後、1時間ほどそこにいて帰っていったと聞いています」。 ところが翌日、住職は驚くような話を耳にする。「彼女はうちのお寺にご祈祷に来た、次の日に亡くなりました。自殺です。すぐそこの学校の倉庫で首を吊っていたと。前日にお寺に立ち寄ったということで警察がうちを訪ねて来ました。朝、練習に来た運動部の子が倉庫を開けたところ、中で亡くなっていたそうです。その後、子供たちのトラウマになってしまったため倉庫は壊されました」。祖父、父、妹――3代続けての自死に因果を感じない方が難しいだろう。もしくは青葉家にかかった呪いとは、日本の下層に広がる沼に足を取られたことに他ならない。それは一度はまると抜け出せなくなってしまうものだ。下着泥棒で逮捕 青葉真司もまたその負の連鎖を断ち切ることができなかった。彼が人生を踏み外したのは平成18年のことだ。同年のある春の朝、青葉がひとり暮らしをしていた春日部市のアパートに警察がやってくる。容疑は下着泥棒。コンビニエンス・ストアの夜勤明けだった彼は寝間着姿のまま連行されたという。母の登紀子は離婚後も子供たちを気にかけていたようで、留置場にいる間の家賃は彼女が支払った。青葉は執行猶予判決を受けるがアパートを退去することになり、常総市に住んでいた登紀子のもとへ身を寄せる。その後、複数の人材派遣会社に登録し、仕事を転々としていった。 平成20年6月には同じく非正規雇用労働者だった25歳の加藤智大が、トラックで通行人をはね、更に路上に降りて歩行者天国を楽しむ人々をナイフで次々と切りつけ、7人が死亡、10人が負傷した秋葉原殺傷事件が起こる。そこに就職氷河期世代が持つ社会に対する苛立ちと繋がる部分を見て取り、テロリズムとして捉える考え方がある(*9)。同年12月31日から翌年1月5日にかけては、自立生活サポートセンター〈もやい〉の事務局長・湯浅誠らが住居を失った非正規雇用労働者を保護するため、東京都千代田区の日比谷公園に〈年越し派遣村〉を開設。プレカリアート(不安定な労働者)としての彼らは急速に社会問題化していった。青葉は昭和53年生まれ、加藤は昭和57年生まれで、共に就職氷河期世代にあたる。後者の事件と前者の事件との間には約10年の時差があり、その期間における青葉の経歴を検証すると、同時代の政治や労働運動が救うことができなかった人間の姿が浮かび上がってくるだろう。もしくは同じく改元直後に起きた川崎20人殺傷事件の犯人・岩崎隆一と、元農林水産省事務次官による家庭内殺人事件の被害者・熊澤英一郎も共に一般的な働き方からドロップアウトしてしまった人物だが、昭和50年生まれでやはり就職氷河期世代にあたる後者に対して、前者は昭和42年生まれと世代がずれている。一方で、岩崎隆一が引きこもり始めたのは平成10年前後と見られ、就職氷河期と時期が被っているという意味では以上4つの事件は同時代性を持っている。 青葉のケースとしてはその後、職業安定所の仲介で常総市H町の雇用促進住宅に入居、郵便局の配達の仕事にも就くことができた。しかしこの30歳前後の頃から彼の精神は明らかに失調し、頻繁にトラブルを起こすようになる。雇用促進住宅は厚生労働省が管轄する共同住宅で、比較的安い賃料で部屋を借りることができる。近年は地方自治体や民間企業への譲渡が進められており、青葉が住んでいた住宅もつくりはそのまま、現在の運営母体はアメリカの投資会社だ。周辺には有名な菓子メーカーを始め工場が点在、住民もそこで働く移民労働者に入れ替わった。外観はいかにも古びた団地といった感じでも、掲示板には「Quiet Please(静かにしてください)」「NO FIRE ON SITE/NO BARBECUES(ここではバーベキューはできません)」、ゴミ捨て場には「Do not use grocery store plastic bag(レジ袋では出せません)」などと英語の注意書きがたくさん貼られている。建物の前にはカトリック系の教会があって、英語の他、ポルトガル語やスペイン語のミサも行われている。青葉のような労働者は、移民労働者に取って代わられてしまったとも見えた。ただ、後者もまたプレカリアートだという点では問題は繋がっているのだ。*9 東浩紀、平成20年の発言参照コンビニ強盗で再び逮捕、部屋には異様な光景が 青葉は最後に住んでいたアパートと同様、ここでも部屋で大音量で音楽を鳴らし、近隣住民から度々苦情を訴えられている。3DKで4万円という家賃の支払いさえ滞っていたようだが、退去のきっかけとなったのはまたしても逮捕だった。平成24年6月、常総市の隣・坂東市のコンビニエンス・ストアに包丁を持って押し入り、現金約2万円を奪った青葉は、自ら警察署に出頭して強盗及び銃刀法違反容疑で逮捕。懲役3年6カ月の実刑判決を受ける。雇用促進住宅の管理人は警察の立会いのもとで青葉の部屋に踏み込むが、ゴミが散乱、ノートパソコンの画面や壁が叩き壊され、床にハンマーが転がっていた光景に異様なものを感じたという。最後のアパートから持ち出された円筒形のスピーカー“キャノン”も先端が叩き壊したように割れていた。青葉の失調は破壊衝動として表れることも多かったのだろう。この2度目の逮捕で母・登紀子も流石に青葉を見放し、縁を切ってしまったようだ。実母の現在の家を訪れると… 青葉家が崩壊していく一方で、そこから離れた登紀子はまた別の家庭を築いた。生地の常総市OS町では両親は他界、ふたりの子供は、駆け落ちした登紀子だけでなく兄も外に出て家を継がなかったため、既に実家は廃屋になっていた。ガラス戸を覗くと玄関先にはアルバムが開いたまま置かれていて、軍服姿の人物が写っている写真が見えた。父=海軍さんの葬式の際、登紀子は幼少期の真司を連れて地元に戻ってきたという。久し振りに会った親戚は「『あら、何人兄弟?』と聞いたら、『3匹!』って。あっけらかんとした感じが如何にも彼女らしかったわ」と振り返る。登紀子は正雄と別れたあとに再婚したが、最近は新しい家族と実家の裏にある小さな畑に来ては趣味で野菜を育てているようだ。 登紀子の中で正雄との不倫から始まり、息子の放火殺傷事件にまで至った青葉家の波乱は決着したのか。話が聞きたくて、彼女が新しい家庭を築いているとある住宅街を訪れた。夕方6時頃に一軒家のインターフォンを鳴らすと、夕飯の支度中だったのだろう、エプロン姿の女性が出てきた。「はい、何でしょう」。登紀子だ。青葉真司に何処か似た雰囲気を持っている。用件を告げると、彼女ははっきりとした口調で「ごめんなさい、取材はお断りしているので」と答えてまた家の中へ戻って行った。冬の住宅街は暗くなり、家々に灯る明かりがそこで営まれる暮らしがあることを示していた。 第9回に続く。2021年7月17日 掲載
若い青葉真司は地道に人生を歩もうとしていたようにも思える。定時制高校時代は埼玉県庁の文書課で非常勤職員として、卒業後はコンビニエンス・ストアでアルバイトとして勤務。20歳頃からさいたま市の隣の春日部市でひとり暮らしを始めた。しかし一方で青葉家は次第に崩壊し、真司も不幸に足を取られていく。まず、不倫を経て駆け落ちまでした登紀子は、結局、夫と3人の子供を残して家を出てしまう。その後、正雄はタクシー運転手として生計を立てていたが、交通事故を起こしたことで解雇された上に怪我をしたため働けなくなり、家賃の支払いさえままならなくなる。そして平成11年、彼は父親と同じように自死する。 登紀子に去られ、長男と真司が独立した後、正雄と長女が住んでいたD町のアパートの部屋を訪ねてみたが、ドアの前は物置き場と化していた。20年前、正雄が命を絶った後も長女は弁当屋で働きながらその部屋で暮らし続けたという。しかし彼女も不意に姿を消す。以来、大家は気味が悪くなって部屋を貸すのを止めてしまったのだと、近隣住民は語る。「娘さんが野良猫に餌付けをしていたんだけど、うるさいし汚いから迷惑だと注意したら、『あんたらには私の気持ちなんか分からないよ』と言われたことを覚えているね」。妹も自殺していた 長女の行方を追っていると、意外なところで証言を得ることができた。父親の自殺から約10年後、彼女は常総市のとある寺を訪れている。対応した住職は京都アニメーションの放火殺傷事件が起こったあと、周囲に聞いた話からかつて会ったその女性が青葉真司の妹だったと気付き、はっとした。「うちに来た時、彼女は叫んでいました。気がおかしくなって何かが見えるという感じで、確か『GACKTの霊がいる』みたいなことを言っていた記憶があります。ひとりでは歩けないような状態で、付き添っていた年配の女性によると『本人がどうしてもお寺で除霊をしてほしいと言っている』と」。 ふたりはその前に他の寺で除霊を依頼したが断られたため、ここにやってきたのだという。「ただ“除霊”というものはうちではできないので、ご祈祷という形でもいいかと提案しました。それで『いい』と言うので、太鼓を叩いてお経をあげてという通常の形式でご祈祷をしたら、彼女は少し落ち着いたようで安心しました」。そして長女はこのまま祈祷を続けてほしいと頼むが、住職には用事があった。「その時は夏で……彼女が来たのはお昼の12時半とか午後1時頃だったと思うんですが、2時から施餓鬼という年中行事が予定されていたんです。だから断って、『すいませんね、本堂で休んでいいですから』と声をかけ、私は出かけた。その後、1時間ほどそこにいて帰っていったと聞いています」。 ところが翌日、住職は驚くような話を耳にする。「彼女はうちのお寺にご祈祷に来た、次の日に亡くなりました。自殺です。すぐそこの学校の倉庫で首を吊っていたと。前日にお寺に立ち寄ったということで警察がうちを訪ねて来ました。朝、練習に来た運動部の子が倉庫を開けたところ、中で亡くなっていたそうです。その後、子供たちのトラウマになってしまったため倉庫は壊されました」。祖父、父、妹――3代続けての自死に因果を感じない方が難しいだろう。もしくは青葉家にかかった呪いとは、日本の下層に広がる沼に足を取られたことに他ならない。それは一度はまると抜け出せなくなってしまうものだ。下着泥棒で逮捕 青葉真司もまたその負の連鎖を断ち切ることができなかった。彼が人生を踏み外したのは平成18年のことだ。同年のある春の朝、青葉がひとり暮らしをしていた春日部市のアパートに警察がやってくる。容疑は下着泥棒。コンビニエンス・ストアの夜勤明けだった彼は寝間着姿のまま連行されたという。母の登紀子は離婚後も子供たちを気にかけていたようで、留置場にいる間の家賃は彼女が支払った。青葉は執行猶予判決を受けるがアパートを退去することになり、常総市に住んでいた登紀子のもとへ身を寄せる。その後、複数の人材派遣会社に登録し、仕事を転々としていった。 平成20年6月には同じく非正規雇用労働者だった25歳の加藤智大が、トラックで通行人をはね、更に路上に降りて歩行者天国を楽しむ人々をナイフで次々と切りつけ、7人が死亡、10人が負傷した秋葉原殺傷事件が起こる。そこに就職氷河期世代が持つ社会に対する苛立ちと繋がる部分を見て取り、テロリズムとして捉える考え方がある(*9)。同年12月31日から翌年1月5日にかけては、自立生活サポートセンター〈もやい〉の事務局長・湯浅誠らが住居を失った非正規雇用労働者を保護するため、東京都千代田区の日比谷公園に〈年越し派遣村〉を開設。プレカリアート(不安定な労働者)としての彼らは急速に社会問題化していった。青葉は昭和53年生まれ、加藤は昭和57年生まれで、共に就職氷河期世代にあたる。後者の事件と前者の事件との間には約10年の時差があり、その期間における青葉の経歴を検証すると、同時代の政治や労働運動が救うことができなかった人間の姿が浮かび上がってくるだろう。もしくは同じく改元直後に起きた川崎20人殺傷事件の犯人・岩崎隆一と、元農林水産省事務次官による家庭内殺人事件の被害者・熊澤英一郎も共に一般的な働き方からドロップアウトしてしまった人物だが、昭和50年生まれでやはり就職氷河期世代にあたる後者に対して、前者は昭和42年生まれと世代がずれている。一方で、岩崎隆一が引きこもり始めたのは平成10年前後と見られ、就職氷河期と時期が被っているという意味では以上4つの事件は同時代性を持っている。 青葉のケースとしてはその後、職業安定所の仲介で常総市H町の雇用促進住宅に入居、郵便局の配達の仕事にも就くことができた。しかしこの30歳前後の頃から彼の精神は明らかに失調し、頻繁にトラブルを起こすようになる。雇用促進住宅は厚生労働省が管轄する共同住宅で、比較的安い賃料で部屋を借りることができる。近年は地方自治体や民間企業への譲渡が進められており、青葉が住んでいた住宅もつくりはそのまま、現在の運営母体はアメリカの投資会社だ。周辺には有名な菓子メーカーを始め工場が点在、住民もそこで働く移民労働者に入れ替わった。外観はいかにも古びた団地といった感じでも、掲示板には「Quiet Please(静かにしてください)」「NO FIRE ON SITE/NO BARBECUES(ここではバーベキューはできません)」、ゴミ捨て場には「Do not use grocery store plastic bag(レジ袋では出せません)」などと英語の注意書きがたくさん貼られている。建物の前にはカトリック系の教会があって、英語の他、ポルトガル語やスペイン語のミサも行われている。青葉のような労働者は、移民労働者に取って代わられてしまったとも見えた。ただ、後者もまたプレカリアートだという点では問題は繋がっているのだ。*9 東浩紀、平成20年の発言参照コンビニ強盗で再び逮捕、部屋には異様な光景が 青葉は最後に住んでいたアパートと同様、ここでも部屋で大音量で音楽を鳴らし、近隣住民から度々苦情を訴えられている。3DKで4万円という家賃の支払いさえ滞っていたようだが、退去のきっかけとなったのはまたしても逮捕だった。平成24年6月、常総市の隣・坂東市のコンビニエンス・ストアに包丁を持って押し入り、現金約2万円を奪った青葉は、自ら警察署に出頭して強盗及び銃刀法違反容疑で逮捕。懲役3年6カ月の実刑判決を受ける。雇用促進住宅の管理人は警察の立会いのもとで青葉の部屋に踏み込むが、ゴミが散乱、ノートパソコンの画面や壁が叩き壊され、床にハンマーが転がっていた光景に異様なものを感じたという。最後のアパートから持ち出された円筒形のスピーカー“キャノン”も先端が叩き壊したように割れていた。青葉の失調は破壊衝動として表れることも多かったのだろう。この2度目の逮捕で母・登紀子も流石に青葉を見放し、縁を切ってしまったようだ。実母の現在の家を訪れると… 青葉家が崩壊していく一方で、そこから離れた登紀子はまた別の家庭を築いた。生地の常総市OS町では両親は他界、ふたりの子供は、駆け落ちした登紀子だけでなく兄も外に出て家を継がなかったため、既に実家は廃屋になっていた。ガラス戸を覗くと玄関先にはアルバムが開いたまま置かれていて、軍服姿の人物が写っている写真が見えた。父=海軍さんの葬式の際、登紀子は幼少期の真司を連れて地元に戻ってきたという。久し振りに会った親戚は「『あら、何人兄弟?』と聞いたら、『3匹!』って。あっけらかんとした感じが如何にも彼女らしかったわ」と振り返る。登紀子は正雄と別れたあとに再婚したが、最近は新しい家族と実家の裏にある小さな畑に来ては趣味で野菜を育てているようだ。 登紀子の中で正雄との不倫から始まり、息子の放火殺傷事件にまで至った青葉家の波乱は決着したのか。話が聞きたくて、彼女が新しい家庭を築いているとある住宅街を訪れた。夕方6時頃に一軒家のインターフォンを鳴らすと、夕飯の支度中だったのだろう、エプロン姿の女性が出てきた。「はい、何でしょう」。登紀子だ。青葉真司に何処か似た雰囲気を持っている。用件を告げると、彼女ははっきりとした口調で「ごめんなさい、取材はお断りしているので」と答えてまた家の中へ戻って行った。冬の住宅街は暗くなり、家々に灯る明かりがそこで営まれる暮らしがあることを示していた。 第9回に続く。2021年7月17日 掲載
登紀子に去られ、長男と真司が独立した後、正雄と長女が住んでいたD町のアパートの部屋を訪ねてみたが、ドアの前は物置き場と化していた。20年前、正雄が命を絶った後も長女は弁当屋で働きながらその部屋で暮らし続けたという。しかし彼女も不意に姿を消す。以来、大家は気味が悪くなって部屋を貸すのを止めてしまったのだと、近隣住民は語る。「娘さんが野良猫に餌付けをしていたんだけど、うるさいし汚いから迷惑だと注意したら、『あんたらには私の気持ちなんか分からないよ』と言われたことを覚えているね」。妹も自殺していた 長女の行方を追っていると、意外なところで証言を得ることができた。父親の自殺から約10年後、彼女は常総市のとある寺を訪れている。対応した住職は京都アニメーションの放火殺傷事件が起こったあと、周囲に聞いた話からかつて会ったその女性が青葉真司の妹だったと気付き、はっとした。「うちに来た時、彼女は叫んでいました。気がおかしくなって何かが見えるという感じで、確か『GACKTの霊がいる』みたいなことを言っていた記憶があります。ひとりでは歩けないような状態で、付き添っていた年配の女性によると『本人がどうしてもお寺で除霊をしてほしいと言っている』と」。 ふたりはその前に他の寺で除霊を依頼したが断られたため、ここにやってきたのだという。「ただ“除霊”というものはうちではできないので、ご祈祷という形でもいいかと提案しました。それで『いい』と言うので、太鼓を叩いてお経をあげてという通常の形式でご祈祷をしたら、彼女は少し落ち着いたようで安心しました」。そして長女はこのまま祈祷を続けてほしいと頼むが、住職には用事があった。「その時は夏で……彼女が来たのはお昼の12時半とか午後1時頃だったと思うんですが、2時から施餓鬼という年中行事が予定されていたんです。だから断って、『すいませんね、本堂で休んでいいですから』と声をかけ、私は出かけた。その後、1時間ほどそこにいて帰っていったと聞いています」。 ところが翌日、住職は驚くような話を耳にする。「彼女はうちのお寺にご祈祷に来た、次の日に亡くなりました。自殺です。すぐそこの学校の倉庫で首を吊っていたと。前日にお寺に立ち寄ったということで警察がうちを訪ねて来ました。朝、練習に来た運動部の子が倉庫を開けたところ、中で亡くなっていたそうです。その後、子供たちのトラウマになってしまったため倉庫は壊されました」。祖父、父、妹――3代続けての自死に因果を感じない方が難しいだろう。もしくは青葉家にかかった呪いとは、日本の下層に広がる沼に足を取られたことに他ならない。それは一度はまると抜け出せなくなってしまうものだ。下着泥棒で逮捕 青葉真司もまたその負の連鎖を断ち切ることができなかった。彼が人生を踏み外したのは平成18年のことだ。同年のある春の朝、青葉がひとり暮らしをしていた春日部市のアパートに警察がやってくる。容疑は下着泥棒。コンビニエンス・ストアの夜勤明けだった彼は寝間着姿のまま連行されたという。母の登紀子は離婚後も子供たちを気にかけていたようで、留置場にいる間の家賃は彼女が支払った。青葉は執行猶予判決を受けるがアパートを退去することになり、常総市に住んでいた登紀子のもとへ身を寄せる。その後、複数の人材派遣会社に登録し、仕事を転々としていった。 平成20年6月には同じく非正規雇用労働者だった25歳の加藤智大が、トラックで通行人をはね、更に路上に降りて歩行者天国を楽しむ人々をナイフで次々と切りつけ、7人が死亡、10人が負傷した秋葉原殺傷事件が起こる。そこに就職氷河期世代が持つ社会に対する苛立ちと繋がる部分を見て取り、テロリズムとして捉える考え方がある(*9)。同年12月31日から翌年1月5日にかけては、自立生活サポートセンター〈もやい〉の事務局長・湯浅誠らが住居を失った非正規雇用労働者を保護するため、東京都千代田区の日比谷公園に〈年越し派遣村〉を開設。プレカリアート(不安定な労働者)としての彼らは急速に社会問題化していった。青葉は昭和53年生まれ、加藤は昭和57年生まれで、共に就職氷河期世代にあたる。後者の事件と前者の事件との間には約10年の時差があり、その期間における青葉の経歴を検証すると、同時代の政治や労働運動が救うことができなかった人間の姿が浮かび上がってくるだろう。もしくは同じく改元直後に起きた川崎20人殺傷事件の犯人・岩崎隆一と、元農林水産省事務次官による家庭内殺人事件の被害者・熊澤英一郎も共に一般的な働き方からドロップアウトしてしまった人物だが、昭和50年生まれでやはり就職氷河期世代にあたる後者に対して、前者は昭和42年生まれと世代がずれている。一方で、岩崎隆一が引きこもり始めたのは平成10年前後と見られ、就職氷河期と時期が被っているという意味では以上4つの事件は同時代性を持っている。 青葉のケースとしてはその後、職業安定所の仲介で常総市H町の雇用促進住宅に入居、郵便局の配達の仕事にも就くことができた。しかしこの30歳前後の頃から彼の精神は明らかに失調し、頻繁にトラブルを起こすようになる。雇用促進住宅は厚生労働省が管轄する共同住宅で、比較的安い賃料で部屋を借りることができる。近年は地方自治体や民間企業への譲渡が進められており、青葉が住んでいた住宅もつくりはそのまま、現在の運営母体はアメリカの投資会社だ。周辺には有名な菓子メーカーを始め工場が点在、住民もそこで働く移民労働者に入れ替わった。外観はいかにも古びた団地といった感じでも、掲示板には「Quiet Please(静かにしてください)」「NO FIRE ON SITE/NO BARBECUES(ここではバーベキューはできません)」、ゴミ捨て場には「Do not use grocery store plastic bag(レジ袋では出せません)」などと英語の注意書きがたくさん貼られている。建物の前にはカトリック系の教会があって、英語の他、ポルトガル語やスペイン語のミサも行われている。青葉のような労働者は、移民労働者に取って代わられてしまったとも見えた。ただ、後者もまたプレカリアートだという点では問題は繋がっているのだ。*9 東浩紀、平成20年の発言参照コンビニ強盗で再び逮捕、部屋には異様な光景が 青葉は最後に住んでいたアパートと同様、ここでも部屋で大音量で音楽を鳴らし、近隣住民から度々苦情を訴えられている。3DKで4万円という家賃の支払いさえ滞っていたようだが、退去のきっかけとなったのはまたしても逮捕だった。平成24年6月、常総市の隣・坂東市のコンビニエンス・ストアに包丁を持って押し入り、現金約2万円を奪った青葉は、自ら警察署に出頭して強盗及び銃刀法違反容疑で逮捕。懲役3年6カ月の実刑判決を受ける。雇用促進住宅の管理人は警察の立会いのもとで青葉の部屋に踏み込むが、ゴミが散乱、ノートパソコンの画面や壁が叩き壊され、床にハンマーが転がっていた光景に異様なものを感じたという。最後のアパートから持ち出された円筒形のスピーカー“キャノン”も先端が叩き壊したように割れていた。青葉の失調は破壊衝動として表れることも多かったのだろう。この2度目の逮捕で母・登紀子も流石に青葉を見放し、縁を切ってしまったようだ。実母の現在の家を訪れると… 青葉家が崩壊していく一方で、そこから離れた登紀子はまた別の家庭を築いた。生地の常総市OS町では両親は他界、ふたりの子供は、駆け落ちした登紀子だけでなく兄も外に出て家を継がなかったため、既に実家は廃屋になっていた。ガラス戸を覗くと玄関先にはアルバムが開いたまま置かれていて、軍服姿の人物が写っている写真が見えた。父=海軍さんの葬式の際、登紀子は幼少期の真司を連れて地元に戻ってきたという。久し振りに会った親戚は「『あら、何人兄弟?』と聞いたら、『3匹!』って。あっけらかんとした感じが如何にも彼女らしかったわ」と振り返る。登紀子は正雄と別れたあとに再婚したが、最近は新しい家族と実家の裏にある小さな畑に来ては趣味で野菜を育てているようだ。 登紀子の中で正雄との不倫から始まり、息子の放火殺傷事件にまで至った青葉家の波乱は決着したのか。話が聞きたくて、彼女が新しい家庭を築いているとある住宅街を訪れた。夕方6時頃に一軒家のインターフォンを鳴らすと、夕飯の支度中だったのだろう、エプロン姿の女性が出てきた。「はい、何でしょう」。登紀子だ。青葉真司に何処か似た雰囲気を持っている。用件を告げると、彼女ははっきりとした口調で「ごめんなさい、取材はお断りしているので」と答えてまた家の中へ戻って行った。冬の住宅街は暗くなり、家々に灯る明かりがそこで営まれる暮らしがあることを示していた。 第9回に続く。2021年7月17日 掲載
長女の行方を追っていると、意外なところで証言を得ることができた。父親の自殺から約10年後、彼女は常総市のとある寺を訪れている。対応した住職は京都アニメーションの放火殺傷事件が起こったあと、周囲に聞いた話からかつて会ったその女性が青葉真司の妹だったと気付き、はっとした。「うちに来た時、彼女は叫んでいました。気がおかしくなって何かが見えるという感じで、確か『GACKTの霊がいる』みたいなことを言っていた記憶があります。ひとりでは歩けないような状態で、付き添っていた年配の女性によると『本人がどうしてもお寺で除霊をしてほしいと言っている』と」。 ふたりはその前に他の寺で除霊を依頼したが断られたため、ここにやってきたのだという。「ただ“除霊”というものはうちではできないので、ご祈祷という形でもいいかと提案しました。それで『いい』と言うので、太鼓を叩いてお経をあげてという通常の形式でご祈祷をしたら、彼女は少し落ち着いたようで安心しました」。そして長女はこのまま祈祷を続けてほしいと頼むが、住職には用事があった。「その時は夏で……彼女が来たのはお昼の12時半とか午後1時頃だったと思うんですが、2時から施餓鬼という年中行事が予定されていたんです。だから断って、『すいませんね、本堂で休んでいいですから』と声をかけ、私は出かけた。その後、1時間ほどそこにいて帰っていったと聞いています」。 ところが翌日、住職は驚くような話を耳にする。「彼女はうちのお寺にご祈祷に来た、次の日に亡くなりました。自殺です。すぐそこの学校の倉庫で首を吊っていたと。前日にお寺に立ち寄ったということで警察がうちを訪ねて来ました。朝、練習に来た運動部の子が倉庫を開けたところ、中で亡くなっていたそうです。その後、子供たちのトラウマになってしまったため倉庫は壊されました」。祖父、父、妹――3代続けての自死に因果を感じない方が難しいだろう。もしくは青葉家にかかった呪いとは、日本の下層に広がる沼に足を取られたことに他ならない。それは一度はまると抜け出せなくなってしまうものだ。下着泥棒で逮捕 青葉真司もまたその負の連鎖を断ち切ることができなかった。彼が人生を踏み外したのは平成18年のことだ。同年のある春の朝、青葉がひとり暮らしをしていた春日部市のアパートに警察がやってくる。容疑は下着泥棒。コンビニエンス・ストアの夜勤明けだった彼は寝間着姿のまま連行されたという。母の登紀子は離婚後も子供たちを気にかけていたようで、留置場にいる間の家賃は彼女が支払った。青葉は執行猶予判決を受けるがアパートを退去することになり、常総市に住んでいた登紀子のもとへ身を寄せる。その後、複数の人材派遣会社に登録し、仕事を転々としていった。 平成20年6月には同じく非正規雇用労働者だった25歳の加藤智大が、トラックで通行人をはね、更に路上に降りて歩行者天国を楽しむ人々をナイフで次々と切りつけ、7人が死亡、10人が負傷した秋葉原殺傷事件が起こる。そこに就職氷河期世代が持つ社会に対する苛立ちと繋がる部分を見て取り、テロリズムとして捉える考え方がある(*9)。同年12月31日から翌年1月5日にかけては、自立生活サポートセンター〈もやい〉の事務局長・湯浅誠らが住居を失った非正規雇用労働者を保護するため、東京都千代田区の日比谷公園に〈年越し派遣村〉を開設。プレカリアート(不安定な労働者)としての彼らは急速に社会問題化していった。青葉は昭和53年生まれ、加藤は昭和57年生まれで、共に就職氷河期世代にあたる。後者の事件と前者の事件との間には約10年の時差があり、その期間における青葉の経歴を検証すると、同時代の政治や労働運動が救うことができなかった人間の姿が浮かび上がってくるだろう。もしくは同じく改元直後に起きた川崎20人殺傷事件の犯人・岩崎隆一と、元農林水産省事務次官による家庭内殺人事件の被害者・熊澤英一郎も共に一般的な働き方からドロップアウトしてしまった人物だが、昭和50年生まれでやはり就職氷河期世代にあたる後者に対して、前者は昭和42年生まれと世代がずれている。一方で、岩崎隆一が引きこもり始めたのは平成10年前後と見られ、就職氷河期と時期が被っているという意味では以上4つの事件は同時代性を持っている。 青葉のケースとしてはその後、職業安定所の仲介で常総市H町の雇用促進住宅に入居、郵便局の配達の仕事にも就くことができた。しかしこの30歳前後の頃から彼の精神は明らかに失調し、頻繁にトラブルを起こすようになる。雇用促進住宅は厚生労働省が管轄する共同住宅で、比較的安い賃料で部屋を借りることができる。近年は地方自治体や民間企業への譲渡が進められており、青葉が住んでいた住宅もつくりはそのまま、現在の運営母体はアメリカの投資会社だ。周辺には有名な菓子メーカーを始め工場が点在、住民もそこで働く移民労働者に入れ替わった。外観はいかにも古びた団地といった感じでも、掲示板には「Quiet Please(静かにしてください)」「NO FIRE ON SITE/NO BARBECUES(ここではバーベキューはできません)」、ゴミ捨て場には「Do not use grocery store plastic bag(レジ袋では出せません)」などと英語の注意書きがたくさん貼られている。建物の前にはカトリック系の教会があって、英語の他、ポルトガル語やスペイン語のミサも行われている。青葉のような労働者は、移民労働者に取って代わられてしまったとも見えた。ただ、後者もまたプレカリアートだという点では問題は繋がっているのだ。*9 東浩紀、平成20年の発言参照コンビニ強盗で再び逮捕、部屋には異様な光景が 青葉は最後に住んでいたアパートと同様、ここでも部屋で大音量で音楽を鳴らし、近隣住民から度々苦情を訴えられている。3DKで4万円という家賃の支払いさえ滞っていたようだが、退去のきっかけとなったのはまたしても逮捕だった。平成24年6月、常総市の隣・坂東市のコンビニエンス・ストアに包丁を持って押し入り、現金約2万円を奪った青葉は、自ら警察署に出頭して強盗及び銃刀法違反容疑で逮捕。懲役3年6カ月の実刑判決を受ける。雇用促進住宅の管理人は警察の立会いのもとで青葉の部屋に踏み込むが、ゴミが散乱、ノートパソコンの画面や壁が叩き壊され、床にハンマーが転がっていた光景に異様なものを感じたという。最後のアパートから持ち出された円筒形のスピーカー“キャノン”も先端が叩き壊したように割れていた。青葉の失調は破壊衝動として表れることも多かったのだろう。この2度目の逮捕で母・登紀子も流石に青葉を見放し、縁を切ってしまったようだ。実母の現在の家を訪れると… 青葉家が崩壊していく一方で、そこから離れた登紀子はまた別の家庭を築いた。生地の常総市OS町では両親は他界、ふたりの子供は、駆け落ちした登紀子だけでなく兄も外に出て家を継がなかったため、既に実家は廃屋になっていた。ガラス戸を覗くと玄関先にはアルバムが開いたまま置かれていて、軍服姿の人物が写っている写真が見えた。父=海軍さんの葬式の際、登紀子は幼少期の真司を連れて地元に戻ってきたという。久し振りに会った親戚は「『あら、何人兄弟?』と聞いたら、『3匹!』って。あっけらかんとした感じが如何にも彼女らしかったわ」と振り返る。登紀子は正雄と別れたあとに再婚したが、最近は新しい家族と実家の裏にある小さな畑に来ては趣味で野菜を育てているようだ。 登紀子の中で正雄との不倫から始まり、息子の放火殺傷事件にまで至った青葉家の波乱は決着したのか。話が聞きたくて、彼女が新しい家庭を築いているとある住宅街を訪れた。夕方6時頃に一軒家のインターフォンを鳴らすと、夕飯の支度中だったのだろう、エプロン姿の女性が出てきた。「はい、何でしょう」。登紀子だ。青葉真司に何処か似た雰囲気を持っている。用件を告げると、彼女ははっきりとした口調で「ごめんなさい、取材はお断りしているので」と答えてまた家の中へ戻って行った。冬の住宅街は暗くなり、家々に灯る明かりがそこで営まれる暮らしがあることを示していた。 第9回に続く。2021年7月17日 掲載
ふたりはその前に他の寺で除霊を依頼したが断られたため、ここにやってきたのだという。「ただ“除霊”というものはうちではできないので、ご祈祷という形でもいいかと提案しました。それで『いい』と言うので、太鼓を叩いてお経をあげてという通常の形式でご祈祷をしたら、彼女は少し落ち着いたようで安心しました」。そして長女はこのまま祈祷を続けてほしいと頼むが、住職には用事があった。「その時は夏で……彼女が来たのはお昼の12時半とか午後1時頃だったと思うんですが、2時から施餓鬼という年中行事が予定されていたんです。だから断って、『すいませんね、本堂で休んでいいですから』と声をかけ、私は出かけた。その後、1時間ほどそこにいて帰っていったと聞いています」。 ところが翌日、住職は驚くような話を耳にする。「彼女はうちのお寺にご祈祷に来た、次の日に亡くなりました。自殺です。すぐそこの学校の倉庫で首を吊っていたと。前日にお寺に立ち寄ったということで警察がうちを訪ねて来ました。朝、練習に来た運動部の子が倉庫を開けたところ、中で亡くなっていたそうです。その後、子供たちのトラウマになってしまったため倉庫は壊されました」。祖父、父、妹――3代続けての自死に因果を感じない方が難しいだろう。もしくは青葉家にかかった呪いとは、日本の下層に広がる沼に足を取られたことに他ならない。それは一度はまると抜け出せなくなってしまうものだ。下着泥棒で逮捕 青葉真司もまたその負の連鎖を断ち切ることができなかった。彼が人生を踏み外したのは平成18年のことだ。同年のある春の朝、青葉がひとり暮らしをしていた春日部市のアパートに警察がやってくる。容疑は下着泥棒。コンビニエンス・ストアの夜勤明けだった彼は寝間着姿のまま連行されたという。母の登紀子は離婚後も子供たちを気にかけていたようで、留置場にいる間の家賃は彼女が支払った。青葉は執行猶予判決を受けるがアパートを退去することになり、常総市に住んでいた登紀子のもとへ身を寄せる。その後、複数の人材派遣会社に登録し、仕事を転々としていった。 平成20年6月には同じく非正規雇用労働者だった25歳の加藤智大が、トラックで通行人をはね、更に路上に降りて歩行者天国を楽しむ人々をナイフで次々と切りつけ、7人が死亡、10人が負傷した秋葉原殺傷事件が起こる。そこに就職氷河期世代が持つ社会に対する苛立ちと繋がる部分を見て取り、テロリズムとして捉える考え方がある(*9)。同年12月31日から翌年1月5日にかけては、自立生活サポートセンター〈もやい〉の事務局長・湯浅誠らが住居を失った非正規雇用労働者を保護するため、東京都千代田区の日比谷公園に〈年越し派遣村〉を開設。プレカリアート(不安定な労働者)としての彼らは急速に社会問題化していった。青葉は昭和53年生まれ、加藤は昭和57年生まれで、共に就職氷河期世代にあたる。後者の事件と前者の事件との間には約10年の時差があり、その期間における青葉の経歴を検証すると、同時代の政治や労働運動が救うことができなかった人間の姿が浮かび上がってくるだろう。もしくは同じく改元直後に起きた川崎20人殺傷事件の犯人・岩崎隆一と、元農林水産省事務次官による家庭内殺人事件の被害者・熊澤英一郎も共に一般的な働き方からドロップアウトしてしまった人物だが、昭和50年生まれでやはり就職氷河期世代にあたる後者に対して、前者は昭和42年生まれと世代がずれている。一方で、岩崎隆一が引きこもり始めたのは平成10年前後と見られ、就職氷河期と時期が被っているという意味では以上4つの事件は同時代性を持っている。 青葉のケースとしてはその後、職業安定所の仲介で常総市H町の雇用促進住宅に入居、郵便局の配達の仕事にも就くことができた。しかしこの30歳前後の頃から彼の精神は明らかに失調し、頻繁にトラブルを起こすようになる。雇用促進住宅は厚生労働省が管轄する共同住宅で、比較的安い賃料で部屋を借りることができる。近年は地方自治体や民間企業への譲渡が進められており、青葉が住んでいた住宅もつくりはそのまま、現在の運営母体はアメリカの投資会社だ。周辺には有名な菓子メーカーを始め工場が点在、住民もそこで働く移民労働者に入れ替わった。外観はいかにも古びた団地といった感じでも、掲示板には「Quiet Please(静かにしてください)」「NO FIRE ON SITE/NO BARBECUES(ここではバーベキューはできません)」、ゴミ捨て場には「Do not use grocery store plastic bag(レジ袋では出せません)」などと英語の注意書きがたくさん貼られている。建物の前にはカトリック系の教会があって、英語の他、ポルトガル語やスペイン語のミサも行われている。青葉のような労働者は、移民労働者に取って代わられてしまったとも見えた。ただ、後者もまたプレカリアートだという点では問題は繋がっているのだ。*9 東浩紀、平成20年の発言参照コンビニ強盗で再び逮捕、部屋には異様な光景が 青葉は最後に住んでいたアパートと同様、ここでも部屋で大音量で音楽を鳴らし、近隣住民から度々苦情を訴えられている。3DKで4万円という家賃の支払いさえ滞っていたようだが、退去のきっかけとなったのはまたしても逮捕だった。平成24年6月、常総市の隣・坂東市のコンビニエンス・ストアに包丁を持って押し入り、現金約2万円を奪った青葉は、自ら警察署に出頭して強盗及び銃刀法違反容疑で逮捕。懲役3年6カ月の実刑判決を受ける。雇用促進住宅の管理人は警察の立会いのもとで青葉の部屋に踏み込むが、ゴミが散乱、ノートパソコンの画面や壁が叩き壊され、床にハンマーが転がっていた光景に異様なものを感じたという。最後のアパートから持ち出された円筒形のスピーカー“キャノン”も先端が叩き壊したように割れていた。青葉の失調は破壊衝動として表れることも多かったのだろう。この2度目の逮捕で母・登紀子も流石に青葉を見放し、縁を切ってしまったようだ。実母の現在の家を訪れると… 青葉家が崩壊していく一方で、そこから離れた登紀子はまた別の家庭を築いた。生地の常総市OS町では両親は他界、ふたりの子供は、駆け落ちした登紀子だけでなく兄も外に出て家を継がなかったため、既に実家は廃屋になっていた。ガラス戸を覗くと玄関先にはアルバムが開いたまま置かれていて、軍服姿の人物が写っている写真が見えた。父=海軍さんの葬式の際、登紀子は幼少期の真司を連れて地元に戻ってきたという。久し振りに会った親戚は「『あら、何人兄弟?』と聞いたら、『3匹!』って。あっけらかんとした感じが如何にも彼女らしかったわ」と振り返る。登紀子は正雄と別れたあとに再婚したが、最近は新しい家族と実家の裏にある小さな畑に来ては趣味で野菜を育てているようだ。 登紀子の中で正雄との不倫から始まり、息子の放火殺傷事件にまで至った青葉家の波乱は決着したのか。話が聞きたくて、彼女が新しい家庭を築いているとある住宅街を訪れた。夕方6時頃に一軒家のインターフォンを鳴らすと、夕飯の支度中だったのだろう、エプロン姿の女性が出てきた。「はい、何でしょう」。登紀子だ。青葉真司に何処か似た雰囲気を持っている。用件を告げると、彼女ははっきりとした口調で「ごめんなさい、取材はお断りしているので」と答えてまた家の中へ戻って行った。冬の住宅街は暗くなり、家々に灯る明かりがそこで営まれる暮らしがあることを示していた。 第9回に続く。2021年7月17日 掲載
ところが翌日、住職は驚くような話を耳にする。「彼女はうちのお寺にご祈祷に来た、次の日に亡くなりました。自殺です。すぐそこの学校の倉庫で首を吊っていたと。前日にお寺に立ち寄ったということで警察がうちを訪ねて来ました。朝、練習に来た運動部の子が倉庫を開けたところ、中で亡くなっていたそうです。その後、子供たちのトラウマになってしまったため倉庫は壊されました」。祖父、父、妹――3代続けての自死に因果を感じない方が難しいだろう。もしくは青葉家にかかった呪いとは、日本の下層に広がる沼に足を取られたことに他ならない。それは一度はまると抜け出せなくなってしまうものだ。下着泥棒で逮捕 青葉真司もまたその負の連鎖を断ち切ることができなかった。彼が人生を踏み外したのは平成18年のことだ。同年のある春の朝、青葉がひとり暮らしをしていた春日部市のアパートに警察がやってくる。容疑は下着泥棒。コンビニエンス・ストアの夜勤明けだった彼は寝間着姿のまま連行されたという。母の登紀子は離婚後も子供たちを気にかけていたようで、留置場にいる間の家賃は彼女が支払った。青葉は執行猶予判決を受けるがアパートを退去することになり、常総市に住んでいた登紀子のもとへ身を寄せる。その後、複数の人材派遣会社に登録し、仕事を転々としていった。 平成20年6月には同じく非正規雇用労働者だった25歳の加藤智大が、トラックで通行人をはね、更に路上に降りて歩行者天国を楽しむ人々をナイフで次々と切りつけ、7人が死亡、10人が負傷した秋葉原殺傷事件が起こる。そこに就職氷河期世代が持つ社会に対する苛立ちと繋がる部分を見て取り、テロリズムとして捉える考え方がある(*9)。同年12月31日から翌年1月5日にかけては、自立生活サポートセンター〈もやい〉の事務局長・湯浅誠らが住居を失った非正規雇用労働者を保護するため、東京都千代田区の日比谷公園に〈年越し派遣村〉を開設。プレカリアート(不安定な労働者)としての彼らは急速に社会問題化していった。青葉は昭和53年生まれ、加藤は昭和57年生まれで、共に就職氷河期世代にあたる。後者の事件と前者の事件との間には約10年の時差があり、その期間における青葉の経歴を検証すると、同時代の政治や労働運動が救うことができなかった人間の姿が浮かび上がってくるだろう。もしくは同じく改元直後に起きた川崎20人殺傷事件の犯人・岩崎隆一と、元農林水産省事務次官による家庭内殺人事件の被害者・熊澤英一郎も共に一般的な働き方からドロップアウトしてしまった人物だが、昭和50年生まれでやはり就職氷河期世代にあたる後者に対して、前者は昭和42年生まれと世代がずれている。一方で、岩崎隆一が引きこもり始めたのは平成10年前後と見られ、就職氷河期と時期が被っているという意味では以上4つの事件は同時代性を持っている。 青葉のケースとしてはその後、職業安定所の仲介で常総市H町の雇用促進住宅に入居、郵便局の配達の仕事にも就くことができた。しかしこの30歳前後の頃から彼の精神は明らかに失調し、頻繁にトラブルを起こすようになる。雇用促進住宅は厚生労働省が管轄する共同住宅で、比較的安い賃料で部屋を借りることができる。近年は地方自治体や民間企業への譲渡が進められており、青葉が住んでいた住宅もつくりはそのまま、現在の運営母体はアメリカの投資会社だ。周辺には有名な菓子メーカーを始め工場が点在、住民もそこで働く移民労働者に入れ替わった。外観はいかにも古びた団地といった感じでも、掲示板には「Quiet Please(静かにしてください)」「NO FIRE ON SITE/NO BARBECUES(ここではバーベキューはできません)」、ゴミ捨て場には「Do not use grocery store plastic bag(レジ袋では出せません)」などと英語の注意書きがたくさん貼られている。建物の前にはカトリック系の教会があって、英語の他、ポルトガル語やスペイン語のミサも行われている。青葉のような労働者は、移民労働者に取って代わられてしまったとも見えた。ただ、後者もまたプレカリアートだという点では問題は繋がっているのだ。*9 東浩紀、平成20年の発言参照コンビニ強盗で再び逮捕、部屋には異様な光景が 青葉は最後に住んでいたアパートと同様、ここでも部屋で大音量で音楽を鳴らし、近隣住民から度々苦情を訴えられている。3DKで4万円という家賃の支払いさえ滞っていたようだが、退去のきっかけとなったのはまたしても逮捕だった。平成24年6月、常総市の隣・坂東市のコンビニエンス・ストアに包丁を持って押し入り、現金約2万円を奪った青葉は、自ら警察署に出頭して強盗及び銃刀法違反容疑で逮捕。懲役3年6カ月の実刑判決を受ける。雇用促進住宅の管理人は警察の立会いのもとで青葉の部屋に踏み込むが、ゴミが散乱、ノートパソコンの画面や壁が叩き壊され、床にハンマーが転がっていた光景に異様なものを感じたという。最後のアパートから持ち出された円筒形のスピーカー“キャノン”も先端が叩き壊したように割れていた。青葉の失調は破壊衝動として表れることも多かったのだろう。この2度目の逮捕で母・登紀子も流石に青葉を見放し、縁を切ってしまったようだ。実母の現在の家を訪れると… 青葉家が崩壊していく一方で、そこから離れた登紀子はまた別の家庭を築いた。生地の常総市OS町では両親は他界、ふたりの子供は、駆け落ちした登紀子だけでなく兄も外に出て家を継がなかったため、既に実家は廃屋になっていた。ガラス戸を覗くと玄関先にはアルバムが開いたまま置かれていて、軍服姿の人物が写っている写真が見えた。父=海軍さんの葬式の際、登紀子は幼少期の真司を連れて地元に戻ってきたという。久し振りに会った親戚は「『あら、何人兄弟?』と聞いたら、『3匹!』って。あっけらかんとした感じが如何にも彼女らしかったわ」と振り返る。登紀子は正雄と別れたあとに再婚したが、最近は新しい家族と実家の裏にある小さな畑に来ては趣味で野菜を育てているようだ。 登紀子の中で正雄との不倫から始まり、息子の放火殺傷事件にまで至った青葉家の波乱は決着したのか。話が聞きたくて、彼女が新しい家庭を築いているとある住宅街を訪れた。夕方6時頃に一軒家のインターフォンを鳴らすと、夕飯の支度中だったのだろう、エプロン姿の女性が出てきた。「はい、何でしょう」。登紀子だ。青葉真司に何処か似た雰囲気を持っている。用件を告げると、彼女ははっきりとした口調で「ごめんなさい、取材はお断りしているので」と答えてまた家の中へ戻って行った。冬の住宅街は暗くなり、家々に灯る明かりがそこで営まれる暮らしがあることを示していた。 第9回に続く。2021年7月17日 掲載
青葉真司もまたその負の連鎖を断ち切ることができなかった。彼が人生を踏み外したのは平成18年のことだ。同年のある春の朝、青葉がひとり暮らしをしていた春日部市のアパートに警察がやってくる。容疑は下着泥棒。コンビニエンス・ストアの夜勤明けだった彼は寝間着姿のまま連行されたという。母の登紀子は離婚後も子供たちを気にかけていたようで、留置場にいる間の家賃は彼女が支払った。青葉は執行猶予判決を受けるがアパートを退去することになり、常総市に住んでいた登紀子のもとへ身を寄せる。その後、複数の人材派遣会社に登録し、仕事を転々としていった。 平成20年6月には同じく非正規雇用労働者だった25歳の加藤智大が、トラックで通行人をはね、更に路上に降りて歩行者天国を楽しむ人々をナイフで次々と切りつけ、7人が死亡、10人が負傷した秋葉原殺傷事件が起こる。そこに就職氷河期世代が持つ社会に対する苛立ちと繋がる部分を見て取り、テロリズムとして捉える考え方がある(*9)。同年12月31日から翌年1月5日にかけては、自立生活サポートセンター〈もやい〉の事務局長・湯浅誠らが住居を失った非正規雇用労働者を保護するため、東京都千代田区の日比谷公園に〈年越し派遣村〉を開設。プレカリアート(不安定な労働者)としての彼らは急速に社会問題化していった。青葉は昭和53年生まれ、加藤は昭和57年生まれで、共に就職氷河期世代にあたる。後者の事件と前者の事件との間には約10年の時差があり、その期間における青葉の経歴を検証すると、同時代の政治や労働運動が救うことができなかった人間の姿が浮かび上がってくるだろう。もしくは同じく改元直後に起きた川崎20人殺傷事件の犯人・岩崎隆一と、元農林水産省事務次官による家庭内殺人事件の被害者・熊澤英一郎も共に一般的な働き方からドロップアウトしてしまった人物だが、昭和50年生まれでやはり就職氷河期世代にあたる後者に対して、前者は昭和42年生まれと世代がずれている。一方で、岩崎隆一が引きこもり始めたのは平成10年前後と見られ、就職氷河期と時期が被っているという意味では以上4つの事件は同時代性を持っている。 青葉のケースとしてはその後、職業安定所の仲介で常総市H町の雇用促進住宅に入居、郵便局の配達の仕事にも就くことができた。しかしこの30歳前後の頃から彼の精神は明らかに失調し、頻繁にトラブルを起こすようになる。雇用促進住宅は厚生労働省が管轄する共同住宅で、比較的安い賃料で部屋を借りることができる。近年は地方自治体や民間企業への譲渡が進められており、青葉が住んでいた住宅もつくりはそのまま、現在の運営母体はアメリカの投資会社だ。周辺には有名な菓子メーカーを始め工場が点在、住民もそこで働く移民労働者に入れ替わった。外観はいかにも古びた団地といった感じでも、掲示板には「Quiet Please(静かにしてください)」「NO FIRE ON SITE/NO BARBECUES(ここではバーベキューはできません)」、ゴミ捨て場には「Do not use grocery store plastic bag(レジ袋では出せません)」などと英語の注意書きがたくさん貼られている。建物の前にはカトリック系の教会があって、英語の他、ポルトガル語やスペイン語のミサも行われている。青葉のような労働者は、移民労働者に取って代わられてしまったとも見えた。ただ、後者もまたプレカリアートだという点では問題は繋がっているのだ。*9 東浩紀、平成20年の発言参照コンビニ強盗で再び逮捕、部屋には異様な光景が 青葉は最後に住んでいたアパートと同様、ここでも部屋で大音量で音楽を鳴らし、近隣住民から度々苦情を訴えられている。3DKで4万円という家賃の支払いさえ滞っていたようだが、退去のきっかけとなったのはまたしても逮捕だった。平成24年6月、常総市の隣・坂東市のコンビニエンス・ストアに包丁を持って押し入り、現金約2万円を奪った青葉は、自ら警察署に出頭して強盗及び銃刀法違反容疑で逮捕。懲役3年6カ月の実刑判決を受ける。雇用促進住宅の管理人は警察の立会いのもとで青葉の部屋に踏み込むが、ゴミが散乱、ノートパソコンの画面や壁が叩き壊され、床にハンマーが転がっていた光景に異様なものを感じたという。最後のアパートから持ち出された円筒形のスピーカー“キャノン”も先端が叩き壊したように割れていた。青葉の失調は破壊衝動として表れることも多かったのだろう。この2度目の逮捕で母・登紀子も流石に青葉を見放し、縁を切ってしまったようだ。実母の現在の家を訪れると… 青葉家が崩壊していく一方で、そこから離れた登紀子はまた別の家庭を築いた。生地の常総市OS町では両親は他界、ふたりの子供は、駆け落ちした登紀子だけでなく兄も外に出て家を継がなかったため、既に実家は廃屋になっていた。ガラス戸を覗くと玄関先にはアルバムが開いたまま置かれていて、軍服姿の人物が写っている写真が見えた。父=海軍さんの葬式の際、登紀子は幼少期の真司を連れて地元に戻ってきたという。久し振りに会った親戚は「『あら、何人兄弟?』と聞いたら、『3匹!』って。あっけらかんとした感じが如何にも彼女らしかったわ」と振り返る。登紀子は正雄と別れたあとに再婚したが、最近は新しい家族と実家の裏にある小さな畑に来ては趣味で野菜を育てているようだ。 登紀子の中で正雄との不倫から始まり、息子の放火殺傷事件にまで至った青葉家の波乱は決着したのか。話が聞きたくて、彼女が新しい家庭を築いているとある住宅街を訪れた。夕方6時頃に一軒家のインターフォンを鳴らすと、夕飯の支度中だったのだろう、エプロン姿の女性が出てきた。「はい、何でしょう」。登紀子だ。青葉真司に何処か似た雰囲気を持っている。用件を告げると、彼女ははっきりとした口調で「ごめんなさい、取材はお断りしているので」と答えてまた家の中へ戻って行った。冬の住宅街は暗くなり、家々に灯る明かりがそこで営まれる暮らしがあることを示していた。 第9回に続く。2021年7月17日 掲載
平成20年6月には同じく非正規雇用労働者だった25歳の加藤智大が、トラックで通行人をはね、更に路上に降りて歩行者天国を楽しむ人々をナイフで次々と切りつけ、7人が死亡、10人が負傷した秋葉原殺傷事件が起こる。そこに就職氷河期世代が持つ社会に対する苛立ちと繋がる部分を見て取り、テロリズムとして捉える考え方がある(*9)。同年12月31日から翌年1月5日にかけては、自立生活サポートセンター〈もやい〉の事務局長・湯浅誠らが住居を失った非正規雇用労働者を保護するため、東京都千代田区の日比谷公園に〈年越し派遣村〉を開設。プレカリアート(不安定な労働者)としての彼らは急速に社会問題化していった。青葉は昭和53年生まれ、加藤は昭和57年生まれで、共に就職氷河期世代にあたる。後者の事件と前者の事件との間には約10年の時差があり、その期間における青葉の経歴を検証すると、同時代の政治や労働運動が救うことができなかった人間の姿が浮かび上がってくるだろう。もしくは同じく改元直後に起きた川崎20人殺傷事件の犯人・岩崎隆一と、元農林水産省事務次官による家庭内殺人事件の被害者・熊澤英一郎も共に一般的な働き方からドロップアウトしてしまった人物だが、昭和50年生まれでやはり就職氷河期世代にあたる後者に対して、前者は昭和42年生まれと世代がずれている。一方で、岩崎隆一が引きこもり始めたのは平成10年前後と見られ、就職氷河期と時期が被っているという意味では以上4つの事件は同時代性を持っている。 青葉のケースとしてはその後、職業安定所の仲介で常総市H町の雇用促進住宅に入居、郵便局の配達の仕事にも就くことができた。しかしこの30歳前後の頃から彼の精神は明らかに失調し、頻繁にトラブルを起こすようになる。雇用促進住宅は厚生労働省が管轄する共同住宅で、比較的安い賃料で部屋を借りることができる。近年は地方自治体や民間企業への譲渡が進められており、青葉が住んでいた住宅もつくりはそのまま、現在の運営母体はアメリカの投資会社だ。周辺には有名な菓子メーカーを始め工場が点在、住民もそこで働く移民労働者に入れ替わった。外観はいかにも古びた団地といった感じでも、掲示板には「Quiet Please(静かにしてください)」「NO FIRE ON SITE/NO BARBECUES(ここではバーベキューはできません)」、ゴミ捨て場には「Do not use grocery store plastic bag(レジ袋では出せません)」などと英語の注意書きがたくさん貼られている。建物の前にはカトリック系の教会があって、英語の他、ポルトガル語やスペイン語のミサも行われている。青葉のような労働者は、移民労働者に取って代わられてしまったとも見えた。ただ、後者もまたプレカリアートだという点では問題は繋がっているのだ。*9 東浩紀、平成20年の発言参照コンビニ強盗で再び逮捕、部屋には異様な光景が 青葉は最後に住んでいたアパートと同様、ここでも部屋で大音量で音楽を鳴らし、近隣住民から度々苦情を訴えられている。3DKで4万円という家賃の支払いさえ滞っていたようだが、退去のきっかけとなったのはまたしても逮捕だった。平成24年6月、常総市の隣・坂東市のコンビニエンス・ストアに包丁を持って押し入り、現金約2万円を奪った青葉は、自ら警察署に出頭して強盗及び銃刀法違反容疑で逮捕。懲役3年6カ月の実刑判決を受ける。雇用促進住宅の管理人は警察の立会いのもとで青葉の部屋に踏み込むが、ゴミが散乱、ノートパソコンの画面や壁が叩き壊され、床にハンマーが転がっていた光景に異様なものを感じたという。最後のアパートから持ち出された円筒形のスピーカー“キャノン”も先端が叩き壊したように割れていた。青葉の失調は破壊衝動として表れることも多かったのだろう。この2度目の逮捕で母・登紀子も流石に青葉を見放し、縁を切ってしまったようだ。実母の現在の家を訪れると… 青葉家が崩壊していく一方で、そこから離れた登紀子はまた別の家庭を築いた。生地の常総市OS町では両親は他界、ふたりの子供は、駆け落ちした登紀子だけでなく兄も外に出て家を継がなかったため、既に実家は廃屋になっていた。ガラス戸を覗くと玄関先にはアルバムが開いたまま置かれていて、軍服姿の人物が写っている写真が見えた。父=海軍さんの葬式の際、登紀子は幼少期の真司を連れて地元に戻ってきたという。久し振りに会った親戚は「『あら、何人兄弟?』と聞いたら、『3匹!』って。あっけらかんとした感じが如何にも彼女らしかったわ」と振り返る。登紀子は正雄と別れたあとに再婚したが、最近は新しい家族と実家の裏にある小さな畑に来ては趣味で野菜を育てているようだ。 登紀子の中で正雄との不倫から始まり、息子の放火殺傷事件にまで至った青葉家の波乱は決着したのか。話が聞きたくて、彼女が新しい家庭を築いているとある住宅街を訪れた。夕方6時頃に一軒家のインターフォンを鳴らすと、夕飯の支度中だったのだろう、エプロン姿の女性が出てきた。「はい、何でしょう」。登紀子だ。青葉真司に何処か似た雰囲気を持っている。用件を告げると、彼女ははっきりとした口調で「ごめんなさい、取材はお断りしているので」と答えてまた家の中へ戻って行った。冬の住宅街は暗くなり、家々に灯る明かりがそこで営まれる暮らしがあることを示していた。 第9回に続く。2021年7月17日 掲載
青葉のケースとしてはその後、職業安定所の仲介で常総市H町の雇用促進住宅に入居、郵便局の配達の仕事にも就くことができた。しかしこの30歳前後の頃から彼の精神は明らかに失調し、頻繁にトラブルを起こすようになる。雇用促進住宅は厚生労働省が管轄する共同住宅で、比較的安い賃料で部屋を借りることができる。近年は地方自治体や民間企業への譲渡が進められており、青葉が住んでいた住宅もつくりはそのまま、現在の運営母体はアメリカの投資会社だ。周辺には有名な菓子メーカーを始め工場が点在、住民もそこで働く移民労働者に入れ替わった。外観はいかにも古びた団地といった感じでも、掲示板には「Quiet Please(静かにしてください)」「NO FIRE ON SITE/NO BARBECUES(ここではバーベキューはできません)」、ゴミ捨て場には「Do not use grocery store plastic bag(レジ袋では出せません)」などと英語の注意書きがたくさん貼られている。建物の前にはカトリック系の教会があって、英語の他、ポルトガル語やスペイン語のミサも行われている。青葉のような労働者は、移民労働者に取って代わられてしまったとも見えた。ただ、後者もまたプレカリアートだという点では問題は繋がっているのだ。*9 東浩紀、平成20年の発言参照コンビニ強盗で再び逮捕、部屋には異様な光景が 青葉は最後に住んでいたアパートと同様、ここでも部屋で大音量で音楽を鳴らし、近隣住民から度々苦情を訴えられている。3DKで4万円という家賃の支払いさえ滞っていたようだが、退去のきっかけとなったのはまたしても逮捕だった。平成24年6月、常総市の隣・坂東市のコンビニエンス・ストアに包丁を持って押し入り、現金約2万円を奪った青葉は、自ら警察署に出頭して強盗及び銃刀法違反容疑で逮捕。懲役3年6カ月の実刑判決を受ける。雇用促進住宅の管理人は警察の立会いのもとで青葉の部屋に踏み込むが、ゴミが散乱、ノートパソコンの画面や壁が叩き壊され、床にハンマーが転がっていた光景に異様なものを感じたという。最後のアパートから持ち出された円筒形のスピーカー“キャノン”も先端が叩き壊したように割れていた。青葉の失調は破壊衝動として表れることも多かったのだろう。この2度目の逮捕で母・登紀子も流石に青葉を見放し、縁を切ってしまったようだ。実母の現在の家を訪れると… 青葉家が崩壊していく一方で、そこから離れた登紀子はまた別の家庭を築いた。生地の常総市OS町では両親は他界、ふたりの子供は、駆け落ちした登紀子だけでなく兄も外に出て家を継がなかったため、既に実家は廃屋になっていた。ガラス戸を覗くと玄関先にはアルバムが開いたまま置かれていて、軍服姿の人物が写っている写真が見えた。父=海軍さんの葬式の際、登紀子は幼少期の真司を連れて地元に戻ってきたという。久し振りに会った親戚は「『あら、何人兄弟?』と聞いたら、『3匹!』って。あっけらかんとした感じが如何にも彼女らしかったわ」と振り返る。登紀子は正雄と別れたあとに再婚したが、最近は新しい家族と実家の裏にある小さな畑に来ては趣味で野菜を育てているようだ。 登紀子の中で正雄との不倫から始まり、息子の放火殺傷事件にまで至った青葉家の波乱は決着したのか。話が聞きたくて、彼女が新しい家庭を築いているとある住宅街を訪れた。夕方6時頃に一軒家のインターフォンを鳴らすと、夕飯の支度中だったのだろう、エプロン姿の女性が出てきた。「はい、何でしょう」。登紀子だ。青葉真司に何処か似た雰囲気を持っている。用件を告げると、彼女ははっきりとした口調で「ごめんなさい、取材はお断りしているので」と答えてまた家の中へ戻って行った。冬の住宅街は暗くなり、家々に灯る明かりがそこで営まれる暮らしがあることを示していた。 第9回に続く。2021年7月17日 掲載
*9 東浩紀、平成20年の発言参照コンビニ強盗で再び逮捕、部屋には異様な光景が 青葉は最後に住んでいたアパートと同様、ここでも部屋で大音量で音楽を鳴らし、近隣住民から度々苦情を訴えられている。3DKで4万円という家賃の支払いさえ滞っていたようだが、退去のきっかけとなったのはまたしても逮捕だった。平成24年6月、常総市の隣・坂東市のコンビニエンス・ストアに包丁を持って押し入り、現金約2万円を奪った青葉は、自ら警察署に出頭して強盗及び銃刀法違反容疑で逮捕。懲役3年6カ月の実刑判決を受ける。雇用促進住宅の管理人は警察の立会いのもとで青葉の部屋に踏み込むが、ゴミが散乱、ノートパソコンの画面や壁が叩き壊され、床にハンマーが転がっていた光景に異様なものを感じたという。最後のアパートから持ち出された円筒形のスピーカー“キャノン”も先端が叩き壊したように割れていた。青葉の失調は破壊衝動として表れることも多かったのだろう。この2度目の逮捕で母・登紀子も流石に青葉を見放し、縁を切ってしまったようだ。実母の現在の家を訪れると… 青葉家が崩壊していく一方で、そこから離れた登紀子はまた別の家庭を築いた。生地の常総市OS町では両親は他界、ふたりの子供は、駆け落ちした登紀子だけでなく兄も外に出て家を継がなかったため、既に実家は廃屋になっていた。ガラス戸を覗くと玄関先にはアルバムが開いたまま置かれていて、軍服姿の人物が写っている写真が見えた。父=海軍さんの葬式の際、登紀子は幼少期の真司を連れて地元に戻ってきたという。久し振りに会った親戚は「『あら、何人兄弟?』と聞いたら、『3匹!』って。あっけらかんとした感じが如何にも彼女らしかったわ」と振り返る。登紀子は正雄と別れたあとに再婚したが、最近は新しい家族と実家の裏にある小さな畑に来ては趣味で野菜を育てているようだ。 登紀子の中で正雄との不倫から始まり、息子の放火殺傷事件にまで至った青葉家の波乱は決着したのか。話が聞きたくて、彼女が新しい家庭を築いているとある住宅街を訪れた。夕方6時頃に一軒家のインターフォンを鳴らすと、夕飯の支度中だったのだろう、エプロン姿の女性が出てきた。「はい、何でしょう」。登紀子だ。青葉真司に何処か似た雰囲気を持っている。用件を告げると、彼女ははっきりとした口調で「ごめんなさい、取材はお断りしているので」と答えてまた家の中へ戻って行った。冬の住宅街は暗くなり、家々に灯る明かりがそこで営まれる暮らしがあることを示していた。 第9回に続く。2021年7月17日 掲載
青葉は最後に住んでいたアパートと同様、ここでも部屋で大音量で音楽を鳴らし、近隣住民から度々苦情を訴えられている。3DKで4万円という家賃の支払いさえ滞っていたようだが、退去のきっかけとなったのはまたしても逮捕だった。平成24年6月、常総市の隣・坂東市のコンビニエンス・ストアに包丁を持って押し入り、現金約2万円を奪った青葉は、自ら警察署に出頭して強盗及び銃刀法違反容疑で逮捕。懲役3年6カ月の実刑判決を受ける。雇用促進住宅の管理人は警察の立会いのもとで青葉の部屋に踏み込むが、ゴミが散乱、ノートパソコンの画面や壁が叩き壊され、床にハンマーが転がっていた光景に異様なものを感じたという。最後のアパートから持ち出された円筒形のスピーカー“キャノン”も先端が叩き壊したように割れていた。青葉の失調は破壊衝動として表れることも多かったのだろう。この2度目の逮捕で母・登紀子も流石に青葉を見放し、縁を切ってしまったようだ。実母の現在の家を訪れると… 青葉家が崩壊していく一方で、そこから離れた登紀子はまた別の家庭を築いた。生地の常総市OS町では両親は他界、ふたりの子供は、駆け落ちした登紀子だけでなく兄も外に出て家を継がなかったため、既に実家は廃屋になっていた。ガラス戸を覗くと玄関先にはアルバムが開いたまま置かれていて、軍服姿の人物が写っている写真が見えた。父=海軍さんの葬式の際、登紀子は幼少期の真司を連れて地元に戻ってきたという。久し振りに会った親戚は「『あら、何人兄弟?』と聞いたら、『3匹!』って。あっけらかんとした感じが如何にも彼女らしかったわ」と振り返る。登紀子は正雄と別れたあとに再婚したが、最近は新しい家族と実家の裏にある小さな畑に来ては趣味で野菜を育てているようだ。 登紀子の中で正雄との不倫から始まり、息子の放火殺傷事件にまで至った青葉家の波乱は決着したのか。話が聞きたくて、彼女が新しい家庭を築いているとある住宅街を訪れた。夕方6時頃に一軒家のインターフォンを鳴らすと、夕飯の支度中だったのだろう、エプロン姿の女性が出てきた。「はい、何でしょう」。登紀子だ。青葉真司に何処か似た雰囲気を持っている。用件を告げると、彼女ははっきりとした口調で「ごめんなさい、取材はお断りしているので」と答えてまた家の中へ戻って行った。冬の住宅街は暗くなり、家々に灯る明かりがそこで営まれる暮らしがあることを示していた。 第9回に続く。2021年7月17日 掲載
青葉家が崩壊していく一方で、そこから離れた登紀子はまた別の家庭を築いた。生地の常総市OS町では両親は他界、ふたりの子供は、駆け落ちした登紀子だけでなく兄も外に出て家を継がなかったため、既に実家は廃屋になっていた。ガラス戸を覗くと玄関先にはアルバムが開いたまま置かれていて、軍服姿の人物が写っている写真が見えた。父=海軍さんの葬式の際、登紀子は幼少期の真司を連れて地元に戻ってきたという。久し振りに会った親戚は「『あら、何人兄弟?』と聞いたら、『3匹!』って。あっけらかんとした感じが如何にも彼女らしかったわ」と振り返る。登紀子は正雄と別れたあとに再婚したが、最近は新しい家族と実家の裏にある小さな畑に来ては趣味で野菜を育てているようだ。 登紀子の中で正雄との不倫から始まり、息子の放火殺傷事件にまで至った青葉家の波乱は決着したのか。話が聞きたくて、彼女が新しい家庭を築いているとある住宅街を訪れた。夕方6時頃に一軒家のインターフォンを鳴らすと、夕飯の支度中だったのだろう、エプロン姿の女性が出てきた。「はい、何でしょう」。登紀子だ。青葉真司に何処か似た雰囲気を持っている。用件を告げると、彼女ははっきりとした口調で「ごめんなさい、取材はお断りしているので」と答えてまた家の中へ戻って行った。冬の住宅街は暗くなり、家々に灯る明かりがそこで営まれる暮らしがあることを示していた。 第9回に続く。2021年7月17日 掲載
登紀子の中で正雄との不倫から始まり、息子の放火殺傷事件にまで至った青葉家の波乱は決着したのか。話が聞きたくて、彼女が新しい家庭を築いているとある住宅街を訪れた。夕方6時頃に一軒家のインターフォンを鳴らすと、夕飯の支度中だったのだろう、エプロン姿の女性が出てきた。「はい、何でしょう」。登紀子だ。青葉真司に何処か似た雰囲気を持っている。用件を告げると、彼女ははっきりとした口調で「ごめんなさい、取材はお断りしているので」と答えてまた家の中へ戻って行った。冬の住宅街は暗くなり、家々に灯る明かりがそこで営まれる暮らしがあることを示していた。 第9回に続く。2021年7月17日 掲載
第9回に続く。2021年7月17日 掲載
2021年7月17日 掲載