【細川 幸一】小山田圭吾、森喜朗、佐々木宏…東京オリンピック「3つの問題発言」の共通点 あまりにも酷い「内輪ノリ」

コロナ禍で1年延長の上でようやく開会式に漕ぎついた東京五輪。開会式の数日前には楽曲を担当するチームの一員に任命されたミュージシャン小山田圭吾氏が、過去に雑誌などで障がい者への虐待と言ってよいほどのいじめを告白していたとして問題視されて辞任となり、担当した4分間の楽曲が差し替えられるトラブルに見舞われた。
小山田圭吾氏〔PHOTO〕Gettyimages

そもそも、2015年に東京五輪のメイン会場となる新国立競技場の設計白紙撤回、当初デザインされた五輪エンブレムの模倣との指摘後の撤回などが起きていた。
その後、今年2月の森喜朗東京五輪・パラリンピック大会組織委員会会長の女性差別発言による辞任、3月には開閉会式の演出を統括する佐々木宏氏の出演予定だった女性タレントの容姿を侮辱するような発言での辞任など、トラブルが相次いでいた。そして開会直前の小山田騒動だ。
メディアからは、コロナ禍による延長もあり、「呪われた五輪」とも言われている。そうした中で、東京大会の基本コンセプト「多様性」に著しく反するような行動を過去に取り、当時25歳を過ぎて、それを反省することもなく武勇伝のように雑誌に語った人物を、なぜ組織委員会は音楽担当として採用したのかという批判が相次いだ。
この問題は多くのメディアで扱われているが、小山田氏を擁護する見解も聞かれた。過去の行為によって人間の存在や職業を批判するのはおかしいという意見だ。そして、その時代は現在とは違い、コンプライアンスなどの言葉もなく、当たり前であったという意見だ。前者については筆者も同感だ。過去の違法行為だけをもって、現在のその人の存在を否定したり、その職業を批判することは基本的に控えるべきだ。しかし、今回は世紀の祭典とされる五輪の、もっともメッセージ性の強い開会式の音楽担当になぜ彼を起用したかということが問題であり、それは批判されてしかるべきと思う。また後者の「昔は当たり前だった」、「時代が変わった」というような意見については強烈な違和感を持つ。小山田氏の大会担当辞退をめぐるゴタゴタは他のメディアでも報じているが、差別や虐待がどう考えられてきたのかはあまり語られていないので、このことを考えたいと思う。森・佐々木・小山田発言の共通点当該の発言や行為の問題点については後述するが、彼らに共通するのは「仲間うちの本音を語ってしまった」ことが外にもれて大騒ぎになったことであるように思う。誰でも本音と建て前を持っており、世の中、本音をすべて口に出してしまっては人間関係・物事は成り立たない。森氏の発言は、日本オリンピック委員会(JOC)臨時評議員会で「女性がたくさん入っている理事会の会議は、時間がかかります」、「女性っていうのは競争意識が強い。誰か1人が手をあげていうと、自分もいわなきゃいけないと思うんでしょうね。それでみんな発言されるんです」といった内容だ。東京五輪組織委員会会長を辞任した森喜朗氏[Photo by gettyimages] 同会議を「内輪」の会議と思ったのだろうか。政治家の不用意な発言は党内会議や地元の有力者向け会合などで起こることが多い。佐々木氏の発言は演出を担うチーム内のLINEに女性タレントを豚に見立てた演出を提案したものだ(そのため、LINEでの会話が漏れたことを問題視する意見もある)。小山田氏の雑誌での発言は、まだ携帯電話もネットもない時代だ。同じ音楽趣味を持つ読者向けの雑誌ということで本音をおかしく語ることが読者に心地よいと想像しての発言であったのだろう。しかも、今回の騒動で、当時の編集担当が謝罪したが、編集者も仲間うちの感覚であったのだと思う。こうした仲間内の考えや常識が世間ばなれし、世の中の市民感覚とそもそも離れていて、昔は、それはその場限りのものとして、一般社会に気づかれず、通り過ぎてきたが、IT化が進み、一瞬にして発言や書いたものがSNSなどで伝わる時代になって、その問題性が注目されるようになったということであろう。そもそも、かつて、通信と放送は別個のものであった。通信とは郵便の信書や電話など、一対一でなされ、その情報は守秘されるものである。一方、放送とは電波を利用して一対多数の一方向の伝達手段により情報を広く世間に伝えるもので、その社会性から放送を行える者は許可を得た事業者である。しかし、ネット社会となり、SNSなどの発達により通信が放送のような効果をもたらし、一個人のつぶやきがまたたく間に10万、100万の人々に伝わる社会になっている。これは素晴らしいことで、多大な効用を社会にもたらしているが、一方で差別発言や誹謗中傷、ステルスマーケティングなどの問題を引きこしている。それに気づかず、仲間うちのノリで本音を語ったり、リップサービス的に大げさに面白おかしく語ったことが即座に社会に流れ、炎上するというケースが多い。過去のものでもひとたびSNSなどに取り上げられれば瞬く間に世間に広がる。Photo by iStock 何が「問題」だったのか?森氏の「女性が入っている会議は時間が長い…」という発言だが、私自身今まで審議会などに出ていてそのように感じたことはない。森氏がそのように実感してきたのだとすれば、むしろ男社会の忖度や根回しが当たり前の世界で、実際に会議の場ではすでに物事が決まっており、シャンシャンで終わるという経験を長く持っているからではないだろうか。もしそうしたやり方を快く思わない女性委員が増え、真摯に議論しようとして会議が長くなっているのであれば、それは非難すべきではなく、本来の在り方だ。佐々木氏の発言は、小山田氏の発言とも共通するのだが、広告やイベントを生業とする人たちの一部が共有している一種のカルチャーなのかとも感じる。そして音楽雑誌の編集者や組織委員会の演出担当グループも同じ感覚を持っているがゆえに、一般社会でどのように思われるかを理解せず、仲間内のノリが社会でも受けると思って、こうした事態になっているのではないだろうか。ひとつ、私が強烈な違和感を持つのは、小山田氏の小学校から高校くらいまでに同級生に行った虐待と言ってよいレベルのいじめが、今と違ってその時代には当たり前であったかのような一部の見解だ。私は小山田氏とほぼ同じ世代だが、自分が生徒だった時代にこうした、いじめが当たり前だったとはまったく思わない。私は都内の公立小学校、中学校に通ったが、いじめをしたこともされたことも見たこともない。けんかや、多少のトラブルで仲間外れというようなことはあったが、その関係が長く続くことはなかった。 中学校の時は1学年6クラスあって、1クラスが知的障がい者のクラスだった。小山田氏の場合はクラスに障がい者がいたようなので、その点は違うが、当然、当校下校で一緒になるし、遠足なども一緒だった。そこで、友人が差別的発言をしたり、いじめをする姿を見たことはなかった。問題があったとすれば教師の側も含めて、そもそも「共生」という考えはなかった。関心も協調も乏しかったのは事実だ。逆に中学校時代、一人の音楽教師の考えに怒りを覚えたことが鮮明に記憶に残っている。とても熱心な音楽教師がいて、リコーダー部を熱心に指導していた。西洋音楽に陶酔していることを子どもながら感じていたが、あるとき、ピアノを弾きながら、知的障がいを持つ生徒の真似をして、「君らは彼らと違うのだからこの音楽のすばらしさを分かるだろう」と発言した。私は当時、音楽に関心を持っていなかったが、音楽家としては立派でも人間として酷い人だと感じた。音楽の良さを理解できるか否かで人を評価し、知的障がいがある人は音楽を理解できないと決めつけていることに強烈な反感を覚えた。小山田氏もこうした勘違いを犯していたののだろうか。小山田氏の子ども時代の同級生に対する言葉や行為は異常だ。もしこのような行為が異常ではない教育現場が本当にあったとすれば、由々しき問題だ。そしてそれを1995年頃、25歳を過ぎても反省もせず、面白おかしく武勇伝のように語り、しかも、いじめをした同級生の家族からの当時の年賀状まで晒して、からかっている。しかも、雑誌の編集者が問題とも思わず、活字にして掲載する異常さは何なのだろうか。これも音楽界で生業を得る仲間内のノリだったのであろうか。 「市民社会」で求められる振る舞い昔、会社員が企業戦士と言われ、日本型の会社のあり方、働き方が批判されていたころ、ある辛口の経済評論家が、社員を「社畜」と表現し、日本人は学校を卒業すると「社会人」になるのではなく、「会社人」になるだけだと言っていたことがあり、なるほどと思った。これは、勤め人でなくても言えることで、職業人としては優秀でカネを稼げても、一部の業界の雰囲気や価値観にとらわれてしまう人は少なくない。より広い視野を持って「市民」としての責任を自覚し、「市民社会」を構成するメンバーとして行動できない人が少なくないことを示しているように思う。そこで私が「これこそが市民だ」と強烈に感じた経験を紹介したい。アメリカのカルフォルニア州バークレーの小さい郵便局に行った時の経験だ。日本も同じだが、番号カードを取って順番を待つ仕組みになっていた。それでも狭い郵便局だったので、客は一列に並んで順番を待っていた。画像はイメージです[Photo by iStock]列の一番前には気の弱そうな白人男性がいた。局員が「ネクスト!」とその男性を呼んだのだが、彼は番号カードを持っていなかった。それを知った局員は「ノー、ネクスト!」と言った。私はこの光景を見て、変に厳しい局員だと思ったら、列の一番後ろの女性が「彼はちゃんと並んでいた。ずるはしていない!」と叫んだ。私は、これで問題が解決と思ったが、局員が「ダメだ!」と言った。局員の頑固さに驚いたが、「決まりなのだから仕方ない、彼は番号カードを取って一番後ろに並び直すしかないな」と、思った。その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
前者については筆者も同感だ。過去の違法行為だけをもって、現在のその人の存在を否定したり、その職業を批判することは基本的に控えるべきだ。しかし、今回は世紀の祭典とされる五輪の、もっともメッセージ性の強い開会式の音楽担当になぜ彼を起用したかということが問題であり、それは批判されてしかるべきと思う。また後者の「昔は当たり前だった」、「時代が変わった」というような意見については強烈な違和感を持つ。小山田氏の大会担当辞退をめぐるゴタゴタは他のメディアでも報じているが、差別や虐待がどう考えられてきたのかはあまり語られていないので、このことを考えたいと思う。森・佐々木・小山田発言の共通点当該の発言や行為の問題点については後述するが、彼らに共通するのは「仲間うちの本音を語ってしまった」ことが外にもれて大騒ぎになったことであるように思う。誰でも本音と建て前を持っており、世の中、本音をすべて口に出してしまっては人間関係・物事は成り立たない。森氏の発言は、日本オリンピック委員会(JOC)臨時評議員会で「女性がたくさん入っている理事会の会議は、時間がかかります」、「女性っていうのは競争意識が強い。誰か1人が手をあげていうと、自分もいわなきゃいけないと思うんでしょうね。それでみんな発言されるんです」といった内容だ。東京五輪組織委員会会長を辞任した森喜朗氏[Photo by gettyimages] 同会議を「内輪」の会議と思ったのだろうか。政治家の不用意な発言は党内会議や地元の有力者向け会合などで起こることが多い。佐々木氏の発言は演出を担うチーム内のLINEに女性タレントを豚に見立てた演出を提案したものだ(そのため、LINEでの会話が漏れたことを問題視する意見もある)。小山田氏の雑誌での発言は、まだ携帯電話もネットもない時代だ。同じ音楽趣味を持つ読者向けの雑誌ということで本音をおかしく語ることが読者に心地よいと想像しての発言であったのだろう。しかも、今回の騒動で、当時の編集担当が謝罪したが、編集者も仲間うちの感覚であったのだと思う。こうした仲間内の考えや常識が世間ばなれし、世の中の市民感覚とそもそも離れていて、昔は、それはその場限りのものとして、一般社会に気づかれず、通り過ぎてきたが、IT化が進み、一瞬にして発言や書いたものがSNSなどで伝わる時代になって、その問題性が注目されるようになったということであろう。そもそも、かつて、通信と放送は別個のものであった。通信とは郵便の信書や電話など、一対一でなされ、その情報は守秘されるものである。一方、放送とは電波を利用して一対多数の一方向の伝達手段により情報を広く世間に伝えるもので、その社会性から放送を行える者は許可を得た事業者である。しかし、ネット社会となり、SNSなどの発達により通信が放送のような効果をもたらし、一個人のつぶやきがまたたく間に10万、100万の人々に伝わる社会になっている。これは素晴らしいことで、多大な効用を社会にもたらしているが、一方で差別発言や誹謗中傷、ステルスマーケティングなどの問題を引きこしている。それに気づかず、仲間うちのノリで本音を語ったり、リップサービス的に大げさに面白おかしく語ったことが即座に社会に流れ、炎上するというケースが多い。過去のものでもひとたびSNSなどに取り上げられれば瞬く間に世間に広がる。Photo by iStock 何が「問題」だったのか?森氏の「女性が入っている会議は時間が長い…」という発言だが、私自身今まで審議会などに出ていてそのように感じたことはない。森氏がそのように実感してきたのだとすれば、むしろ男社会の忖度や根回しが当たり前の世界で、実際に会議の場ではすでに物事が決まっており、シャンシャンで終わるという経験を長く持っているからではないだろうか。もしそうしたやり方を快く思わない女性委員が増え、真摯に議論しようとして会議が長くなっているのであれば、それは非難すべきではなく、本来の在り方だ。佐々木氏の発言は、小山田氏の発言とも共通するのだが、広告やイベントを生業とする人たちの一部が共有している一種のカルチャーなのかとも感じる。そして音楽雑誌の編集者や組織委員会の演出担当グループも同じ感覚を持っているがゆえに、一般社会でどのように思われるかを理解せず、仲間内のノリが社会でも受けると思って、こうした事態になっているのではないだろうか。ひとつ、私が強烈な違和感を持つのは、小山田氏の小学校から高校くらいまでに同級生に行った虐待と言ってよいレベルのいじめが、今と違ってその時代には当たり前であったかのような一部の見解だ。私は小山田氏とほぼ同じ世代だが、自分が生徒だった時代にこうした、いじめが当たり前だったとはまったく思わない。私は都内の公立小学校、中学校に通ったが、いじめをしたこともされたことも見たこともない。けんかや、多少のトラブルで仲間外れというようなことはあったが、その関係が長く続くことはなかった。 中学校の時は1学年6クラスあって、1クラスが知的障がい者のクラスだった。小山田氏の場合はクラスに障がい者がいたようなので、その点は違うが、当然、当校下校で一緒になるし、遠足なども一緒だった。そこで、友人が差別的発言をしたり、いじめをする姿を見たことはなかった。問題があったとすれば教師の側も含めて、そもそも「共生」という考えはなかった。関心も協調も乏しかったのは事実だ。逆に中学校時代、一人の音楽教師の考えに怒りを覚えたことが鮮明に記憶に残っている。とても熱心な音楽教師がいて、リコーダー部を熱心に指導していた。西洋音楽に陶酔していることを子どもながら感じていたが、あるとき、ピアノを弾きながら、知的障がいを持つ生徒の真似をして、「君らは彼らと違うのだからこの音楽のすばらしさを分かるだろう」と発言した。私は当時、音楽に関心を持っていなかったが、音楽家としては立派でも人間として酷い人だと感じた。音楽の良さを理解できるか否かで人を評価し、知的障がいがある人は音楽を理解できないと決めつけていることに強烈な反感を覚えた。小山田氏もこうした勘違いを犯していたののだろうか。小山田氏の子ども時代の同級生に対する言葉や行為は異常だ。もしこのような行為が異常ではない教育現場が本当にあったとすれば、由々しき問題だ。そしてそれを1995年頃、25歳を過ぎても反省もせず、面白おかしく武勇伝のように語り、しかも、いじめをした同級生の家族からの当時の年賀状まで晒して、からかっている。しかも、雑誌の編集者が問題とも思わず、活字にして掲載する異常さは何なのだろうか。これも音楽界で生業を得る仲間内のノリだったのであろうか。 「市民社会」で求められる振る舞い昔、会社員が企業戦士と言われ、日本型の会社のあり方、働き方が批判されていたころ、ある辛口の経済評論家が、社員を「社畜」と表現し、日本人は学校を卒業すると「社会人」になるのではなく、「会社人」になるだけだと言っていたことがあり、なるほどと思った。これは、勤め人でなくても言えることで、職業人としては優秀でカネを稼げても、一部の業界の雰囲気や価値観にとらわれてしまう人は少なくない。より広い視野を持って「市民」としての責任を自覚し、「市民社会」を構成するメンバーとして行動できない人が少なくないことを示しているように思う。そこで私が「これこそが市民だ」と強烈に感じた経験を紹介したい。アメリカのカルフォルニア州バークレーの小さい郵便局に行った時の経験だ。日本も同じだが、番号カードを取って順番を待つ仕組みになっていた。それでも狭い郵便局だったので、客は一列に並んで順番を待っていた。画像はイメージです[Photo by iStock]列の一番前には気の弱そうな白人男性がいた。局員が「ネクスト!」とその男性を呼んだのだが、彼は番号カードを持っていなかった。それを知った局員は「ノー、ネクスト!」と言った。私はこの光景を見て、変に厳しい局員だと思ったら、列の一番後ろの女性が「彼はちゃんと並んでいた。ずるはしていない!」と叫んだ。私は、これで問題が解決と思ったが、局員が「ダメだ!」と言った。局員の頑固さに驚いたが、「決まりなのだから仕方ない、彼は番号カードを取って一番後ろに並び直すしかないな」と、思った。その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
また後者の「昔は当たり前だった」、「時代が変わった」というような意見については強烈な違和感を持つ。小山田氏の大会担当辞退をめぐるゴタゴタは他のメディアでも報じているが、差別や虐待がどう考えられてきたのかはあまり語られていないので、このことを考えたいと思う。森・佐々木・小山田発言の共通点当該の発言や行為の問題点については後述するが、彼らに共通するのは「仲間うちの本音を語ってしまった」ことが外にもれて大騒ぎになったことであるように思う。誰でも本音と建て前を持っており、世の中、本音をすべて口に出してしまっては人間関係・物事は成り立たない。森氏の発言は、日本オリンピック委員会(JOC)臨時評議員会で「女性がたくさん入っている理事会の会議は、時間がかかります」、「女性っていうのは競争意識が強い。誰か1人が手をあげていうと、自分もいわなきゃいけないと思うんでしょうね。それでみんな発言されるんです」といった内容だ。東京五輪組織委員会会長を辞任した森喜朗氏[Photo by gettyimages] 同会議を「内輪」の会議と思ったのだろうか。政治家の不用意な発言は党内会議や地元の有力者向け会合などで起こることが多い。佐々木氏の発言は演出を担うチーム内のLINEに女性タレントを豚に見立てた演出を提案したものだ(そのため、LINEでの会話が漏れたことを問題視する意見もある)。小山田氏の雑誌での発言は、まだ携帯電話もネットもない時代だ。同じ音楽趣味を持つ読者向けの雑誌ということで本音をおかしく語ることが読者に心地よいと想像しての発言であったのだろう。しかも、今回の騒動で、当時の編集担当が謝罪したが、編集者も仲間うちの感覚であったのだと思う。こうした仲間内の考えや常識が世間ばなれし、世の中の市民感覚とそもそも離れていて、昔は、それはその場限りのものとして、一般社会に気づかれず、通り過ぎてきたが、IT化が進み、一瞬にして発言や書いたものがSNSなどで伝わる時代になって、その問題性が注目されるようになったということであろう。そもそも、かつて、通信と放送は別個のものであった。通信とは郵便の信書や電話など、一対一でなされ、その情報は守秘されるものである。一方、放送とは電波を利用して一対多数の一方向の伝達手段により情報を広く世間に伝えるもので、その社会性から放送を行える者は許可を得た事業者である。しかし、ネット社会となり、SNSなどの発達により通信が放送のような効果をもたらし、一個人のつぶやきがまたたく間に10万、100万の人々に伝わる社会になっている。これは素晴らしいことで、多大な効用を社会にもたらしているが、一方で差別発言や誹謗中傷、ステルスマーケティングなどの問題を引きこしている。それに気づかず、仲間うちのノリで本音を語ったり、リップサービス的に大げさに面白おかしく語ったことが即座に社会に流れ、炎上するというケースが多い。過去のものでもひとたびSNSなどに取り上げられれば瞬く間に世間に広がる。Photo by iStock 何が「問題」だったのか?森氏の「女性が入っている会議は時間が長い…」という発言だが、私自身今まで審議会などに出ていてそのように感じたことはない。森氏がそのように実感してきたのだとすれば、むしろ男社会の忖度や根回しが当たり前の世界で、実際に会議の場ではすでに物事が決まっており、シャンシャンで終わるという経験を長く持っているからではないだろうか。もしそうしたやり方を快く思わない女性委員が増え、真摯に議論しようとして会議が長くなっているのであれば、それは非難すべきではなく、本来の在り方だ。佐々木氏の発言は、小山田氏の発言とも共通するのだが、広告やイベントを生業とする人たちの一部が共有している一種のカルチャーなのかとも感じる。そして音楽雑誌の編集者や組織委員会の演出担当グループも同じ感覚を持っているがゆえに、一般社会でどのように思われるかを理解せず、仲間内のノリが社会でも受けると思って、こうした事態になっているのではないだろうか。ひとつ、私が強烈な違和感を持つのは、小山田氏の小学校から高校くらいまでに同級生に行った虐待と言ってよいレベルのいじめが、今と違ってその時代には当たり前であったかのような一部の見解だ。私は小山田氏とほぼ同じ世代だが、自分が生徒だった時代にこうした、いじめが当たり前だったとはまったく思わない。私は都内の公立小学校、中学校に通ったが、いじめをしたこともされたことも見たこともない。けんかや、多少のトラブルで仲間外れというようなことはあったが、その関係が長く続くことはなかった。 中学校の時は1学年6クラスあって、1クラスが知的障がい者のクラスだった。小山田氏の場合はクラスに障がい者がいたようなので、その点は違うが、当然、当校下校で一緒になるし、遠足なども一緒だった。そこで、友人が差別的発言をしたり、いじめをする姿を見たことはなかった。問題があったとすれば教師の側も含めて、そもそも「共生」という考えはなかった。関心も協調も乏しかったのは事実だ。逆に中学校時代、一人の音楽教師の考えに怒りを覚えたことが鮮明に記憶に残っている。とても熱心な音楽教師がいて、リコーダー部を熱心に指導していた。西洋音楽に陶酔していることを子どもながら感じていたが、あるとき、ピアノを弾きながら、知的障がいを持つ生徒の真似をして、「君らは彼らと違うのだからこの音楽のすばらしさを分かるだろう」と発言した。私は当時、音楽に関心を持っていなかったが、音楽家としては立派でも人間として酷い人だと感じた。音楽の良さを理解できるか否かで人を評価し、知的障がいがある人は音楽を理解できないと決めつけていることに強烈な反感を覚えた。小山田氏もこうした勘違いを犯していたののだろうか。小山田氏の子ども時代の同級生に対する言葉や行為は異常だ。もしこのような行為が異常ではない教育現場が本当にあったとすれば、由々しき問題だ。そしてそれを1995年頃、25歳を過ぎても反省もせず、面白おかしく武勇伝のように語り、しかも、いじめをした同級生の家族からの当時の年賀状まで晒して、からかっている。しかも、雑誌の編集者が問題とも思わず、活字にして掲載する異常さは何なのだろうか。これも音楽界で生業を得る仲間内のノリだったのであろうか。 「市民社会」で求められる振る舞い昔、会社員が企業戦士と言われ、日本型の会社のあり方、働き方が批判されていたころ、ある辛口の経済評論家が、社員を「社畜」と表現し、日本人は学校を卒業すると「社会人」になるのではなく、「会社人」になるだけだと言っていたことがあり、なるほどと思った。これは、勤め人でなくても言えることで、職業人としては優秀でカネを稼げても、一部の業界の雰囲気や価値観にとらわれてしまう人は少なくない。より広い視野を持って「市民」としての責任を自覚し、「市民社会」を構成するメンバーとして行動できない人が少なくないことを示しているように思う。そこで私が「これこそが市民だ」と強烈に感じた経験を紹介したい。アメリカのカルフォルニア州バークレーの小さい郵便局に行った時の経験だ。日本も同じだが、番号カードを取って順番を待つ仕組みになっていた。それでも狭い郵便局だったので、客は一列に並んで順番を待っていた。画像はイメージです[Photo by iStock]列の一番前には気の弱そうな白人男性がいた。局員が「ネクスト!」とその男性を呼んだのだが、彼は番号カードを持っていなかった。それを知った局員は「ノー、ネクスト!」と言った。私はこの光景を見て、変に厳しい局員だと思ったら、列の一番後ろの女性が「彼はちゃんと並んでいた。ずるはしていない!」と叫んだ。私は、これで問題が解決と思ったが、局員が「ダメだ!」と言った。局員の頑固さに驚いたが、「決まりなのだから仕方ない、彼は番号カードを取って一番後ろに並び直すしかないな」と、思った。その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
当該の発言や行為の問題点については後述するが、彼らに共通するのは「仲間うちの本音を語ってしまった」ことが外にもれて大騒ぎになったことであるように思う。誰でも本音と建て前を持っており、世の中、本音をすべて口に出してしまっては人間関係・物事は成り立たない。森氏の発言は、日本オリンピック委員会(JOC)臨時評議員会で「女性がたくさん入っている理事会の会議は、時間がかかります」、「女性っていうのは競争意識が強い。誰か1人が手をあげていうと、自分もいわなきゃいけないと思うんでしょうね。それでみんな発言されるんです」といった内容だ。東京五輪組織委員会会長を辞任した森喜朗氏[Photo by gettyimages] 同会議を「内輪」の会議と思ったのだろうか。政治家の不用意な発言は党内会議や地元の有力者向け会合などで起こることが多い。佐々木氏の発言は演出を担うチーム内のLINEに女性タレントを豚に見立てた演出を提案したものだ(そのため、LINEでの会話が漏れたことを問題視する意見もある)。小山田氏の雑誌での発言は、まだ携帯電話もネットもない時代だ。同じ音楽趣味を持つ読者向けの雑誌ということで本音をおかしく語ることが読者に心地よいと想像しての発言であったのだろう。しかも、今回の騒動で、当時の編集担当が謝罪したが、編集者も仲間うちの感覚であったのだと思う。こうした仲間内の考えや常識が世間ばなれし、世の中の市民感覚とそもそも離れていて、昔は、それはその場限りのものとして、一般社会に気づかれず、通り過ぎてきたが、IT化が進み、一瞬にして発言や書いたものがSNSなどで伝わる時代になって、その問題性が注目されるようになったということであろう。そもそも、かつて、通信と放送は別個のものであった。通信とは郵便の信書や電話など、一対一でなされ、その情報は守秘されるものである。一方、放送とは電波を利用して一対多数の一方向の伝達手段により情報を広く世間に伝えるもので、その社会性から放送を行える者は許可を得た事業者である。しかし、ネット社会となり、SNSなどの発達により通信が放送のような効果をもたらし、一個人のつぶやきがまたたく間に10万、100万の人々に伝わる社会になっている。これは素晴らしいことで、多大な効用を社会にもたらしているが、一方で差別発言や誹謗中傷、ステルスマーケティングなどの問題を引きこしている。それに気づかず、仲間うちのノリで本音を語ったり、リップサービス的に大げさに面白おかしく語ったことが即座に社会に流れ、炎上するというケースが多い。過去のものでもひとたびSNSなどに取り上げられれば瞬く間に世間に広がる。Photo by iStock 何が「問題」だったのか?森氏の「女性が入っている会議は時間が長い…」という発言だが、私自身今まで審議会などに出ていてそのように感じたことはない。森氏がそのように実感してきたのだとすれば、むしろ男社会の忖度や根回しが当たり前の世界で、実際に会議の場ではすでに物事が決まっており、シャンシャンで終わるという経験を長く持っているからではないだろうか。もしそうしたやり方を快く思わない女性委員が増え、真摯に議論しようとして会議が長くなっているのであれば、それは非難すべきではなく、本来の在り方だ。佐々木氏の発言は、小山田氏の発言とも共通するのだが、広告やイベントを生業とする人たちの一部が共有している一種のカルチャーなのかとも感じる。そして音楽雑誌の編集者や組織委員会の演出担当グループも同じ感覚を持っているがゆえに、一般社会でどのように思われるかを理解せず、仲間内のノリが社会でも受けると思って、こうした事態になっているのではないだろうか。ひとつ、私が強烈な違和感を持つのは、小山田氏の小学校から高校くらいまでに同級生に行った虐待と言ってよいレベルのいじめが、今と違ってその時代には当たり前であったかのような一部の見解だ。私は小山田氏とほぼ同じ世代だが、自分が生徒だった時代にこうした、いじめが当たり前だったとはまったく思わない。私は都内の公立小学校、中学校に通ったが、いじめをしたこともされたことも見たこともない。けんかや、多少のトラブルで仲間外れというようなことはあったが、その関係が長く続くことはなかった。 中学校の時は1学年6クラスあって、1クラスが知的障がい者のクラスだった。小山田氏の場合はクラスに障がい者がいたようなので、その点は違うが、当然、当校下校で一緒になるし、遠足なども一緒だった。そこで、友人が差別的発言をしたり、いじめをする姿を見たことはなかった。問題があったとすれば教師の側も含めて、そもそも「共生」という考えはなかった。関心も協調も乏しかったのは事実だ。逆に中学校時代、一人の音楽教師の考えに怒りを覚えたことが鮮明に記憶に残っている。とても熱心な音楽教師がいて、リコーダー部を熱心に指導していた。西洋音楽に陶酔していることを子どもながら感じていたが、あるとき、ピアノを弾きながら、知的障がいを持つ生徒の真似をして、「君らは彼らと違うのだからこの音楽のすばらしさを分かるだろう」と発言した。私は当時、音楽に関心を持っていなかったが、音楽家としては立派でも人間として酷い人だと感じた。音楽の良さを理解できるか否かで人を評価し、知的障がいがある人は音楽を理解できないと決めつけていることに強烈な反感を覚えた。小山田氏もこうした勘違いを犯していたののだろうか。小山田氏の子ども時代の同級生に対する言葉や行為は異常だ。もしこのような行為が異常ではない教育現場が本当にあったとすれば、由々しき問題だ。そしてそれを1995年頃、25歳を過ぎても反省もせず、面白おかしく武勇伝のように語り、しかも、いじめをした同級生の家族からの当時の年賀状まで晒して、からかっている。しかも、雑誌の編集者が問題とも思わず、活字にして掲載する異常さは何なのだろうか。これも音楽界で生業を得る仲間内のノリだったのであろうか。 「市民社会」で求められる振る舞い昔、会社員が企業戦士と言われ、日本型の会社のあり方、働き方が批判されていたころ、ある辛口の経済評論家が、社員を「社畜」と表現し、日本人は学校を卒業すると「社会人」になるのではなく、「会社人」になるだけだと言っていたことがあり、なるほどと思った。これは、勤め人でなくても言えることで、職業人としては優秀でカネを稼げても、一部の業界の雰囲気や価値観にとらわれてしまう人は少なくない。より広い視野を持って「市民」としての責任を自覚し、「市民社会」を構成するメンバーとして行動できない人が少なくないことを示しているように思う。そこで私が「これこそが市民だ」と強烈に感じた経験を紹介したい。アメリカのカルフォルニア州バークレーの小さい郵便局に行った時の経験だ。日本も同じだが、番号カードを取って順番を待つ仕組みになっていた。それでも狭い郵便局だったので、客は一列に並んで順番を待っていた。画像はイメージです[Photo by iStock]列の一番前には気の弱そうな白人男性がいた。局員が「ネクスト!」とその男性を呼んだのだが、彼は番号カードを持っていなかった。それを知った局員は「ノー、ネクスト!」と言った。私はこの光景を見て、変に厳しい局員だと思ったら、列の一番後ろの女性が「彼はちゃんと並んでいた。ずるはしていない!」と叫んだ。私は、これで問題が解決と思ったが、局員が「ダメだ!」と言った。局員の頑固さに驚いたが、「決まりなのだから仕方ない、彼は番号カードを取って一番後ろに並び直すしかないな」と、思った。その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
森氏の発言は、日本オリンピック委員会(JOC)臨時評議員会で「女性がたくさん入っている理事会の会議は、時間がかかります」、「女性っていうのは競争意識が強い。誰か1人が手をあげていうと、自分もいわなきゃいけないと思うんでしょうね。それでみんな発言されるんです」といった内容だ。東京五輪組織委員会会長を辞任した森喜朗氏[Photo by gettyimages] 同会議を「内輪」の会議と思ったのだろうか。政治家の不用意な発言は党内会議や地元の有力者向け会合などで起こることが多い。佐々木氏の発言は演出を担うチーム内のLINEに女性タレントを豚に見立てた演出を提案したものだ(そのため、LINEでの会話が漏れたことを問題視する意見もある)。小山田氏の雑誌での発言は、まだ携帯電話もネットもない時代だ。同じ音楽趣味を持つ読者向けの雑誌ということで本音をおかしく語ることが読者に心地よいと想像しての発言であったのだろう。しかも、今回の騒動で、当時の編集担当が謝罪したが、編集者も仲間うちの感覚であったのだと思う。こうした仲間内の考えや常識が世間ばなれし、世の中の市民感覚とそもそも離れていて、昔は、それはその場限りのものとして、一般社会に気づかれず、通り過ぎてきたが、IT化が進み、一瞬にして発言や書いたものがSNSなどで伝わる時代になって、その問題性が注目されるようになったということであろう。そもそも、かつて、通信と放送は別個のものであった。通信とは郵便の信書や電話など、一対一でなされ、その情報は守秘されるものである。一方、放送とは電波を利用して一対多数の一方向の伝達手段により情報を広く世間に伝えるもので、その社会性から放送を行える者は許可を得た事業者である。しかし、ネット社会となり、SNSなどの発達により通信が放送のような効果をもたらし、一個人のつぶやきがまたたく間に10万、100万の人々に伝わる社会になっている。これは素晴らしいことで、多大な効用を社会にもたらしているが、一方で差別発言や誹謗中傷、ステルスマーケティングなどの問題を引きこしている。それに気づかず、仲間うちのノリで本音を語ったり、リップサービス的に大げさに面白おかしく語ったことが即座に社会に流れ、炎上するというケースが多い。過去のものでもひとたびSNSなどに取り上げられれば瞬く間に世間に広がる。Photo by iStock 何が「問題」だったのか?森氏の「女性が入っている会議は時間が長い…」という発言だが、私自身今まで審議会などに出ていてそのように感じたことはない。森氏がそのように実感してきたのだとすれば、むしろ男社会の忖度や根回しが当たり前の世界で、実際に会議の場ではすでに物事が決まっており、シャンシャンで終わるという経験を長く持っているからではないだろうか。もしそうしたやり方を快く思わない女性委員が増え、真摯に議論しようとして会議が長くなっているのであれば、それは非難すべきではなく、本来の在り方だ。佐々木氏の発言は、小山田氏の発言とも共通するのだが、広告やイベントを生業とする人たちの一部が共有している一種のカルチャーなのかとも感じる。そして音楽雑誌の編集者や組織委員会の演出担当グループも同じ感覚を持っているがゆえに、一般社会でどのように思われるかを理解せず、仲間内のノリが社会でも受けると思って、こうした事態になっているのではないだろうか。ひとつ、私が強烈な違和感を持つのは、小山田氏の小学校から高校くらいまでに同級生に行った虐待と言ってよいレベルのいじめが、今と違ってその時代には当たり前であったかのような一部の見解だ。私は小山田氏とほぼ同じ世代だが、自分が生徒だった時代にこうした、いじめが当たり前だったとはまったく思わない。私は都内の公立小学校、中学校に通ったが、いじめをしたこともされたことも見たこともない。けんかや、多少のトラブルで仲間外れというようなことはあったが、その関係が長く続くことはなかった。 中学校の時は1学年6クラスあって、1クラスが知的障がい者のクラスだった。小山田氏の場合はクラスに障がい者がいたようなので、その点は違うが、当然、当校下校で一緒になるし、遠足なども一緒だった。そこで、友人が差別的発言をしたり、いじめをする姿を見たことはなかった。問題があったとすれば教師の側も含めて、そもそも「共生」という考えはなかった。関心も協調も乏しかったのは事実だ。逆に中学校時代、一人の音楽教師の考えに怒りを覚えたことが鮮明に記憶に残っている。とても熱心な音楽教師がいて、リコーダー部を熱心に指導していた。西洋音楽に陶酔していることを子どもながら感じていたが、あるとき、ピアノを弾きながら、知的障がいを持つ生徒の真似をして、「君らは彼らと違うのだからこの音楽のすばらしさを分かるだろう」と発言した。私は当時、音楽に関心を持っていなかったが、音楽家としては立派でも人間として酷い人だと感じた。音楽の良さを理解できるか否かで人を評価し、知的障がいがある人は音楽を理解できないと決めつけていることに強烈な反感を覚えた。小山田氏もこうした勘違いを犯していたののだろうか。小山田氏の子ども時代の同級生に対する言葉や行為は異常だ。もしこのような行為が異常ではない教育現場が本当にあったとすれば、由々しき問題だ。そしてそれを1995年頃、25歳を過ぎても反省もせず、面白おかしく武勇伝のように語り、しかも、いじめをした同級生の家族からの当時の年賀状まで晒して、からかっている。しかも、雑誌の編集者が問題とも思わず、活字にして掲載する異常さは何なのだろうか。これも音楽界で生業を得る仲間内のノリだったのであろうか。 「市民社会」で求められる振る舞い昔、会社員が企業戦士と言われ、日本型の会社のあり方、働き方が批判されていたころ、ある辛口の経済評論家が、社員を「社畜」と表現し、日本人は学校を卒業すると「社会人」になるのではなく、「会社人」になるだけだと言っていたことがあり、なるほどと思った。これは、勤め人でなくても言えることで、職業人としては優秀でカネを稼げても、一部の業界の雰囲気や価値観にとらわれてしまう人は少なくない。より広い視野を持って「市民」としての責任を自覚し、「市民社会」を構成するメンバーとして行動できない人が少なくないことを示しているように思う。そこで私が「これこそが市民だ」と強烈に感じた経験を紹介したい。アメリカのカルフォルニア州バークレーの小さい郵便局に行った時の経験だ。日本も同じだが、番号カードを取って順番を待つ仕組みになっていた。それでも狭い郵便局だったので、客は一列に並んで順番を待っていた。画像はイメージです[Photo by iStock]列の一番前には気の弱そうな白人男性がいた。局員が「ネクスト!」とその男性を呼んだのだが、彼は番号カードを持っていなかった。それを知った局員は「ノー、ネクスト!」と言った。私はこの光景を見て、変に厳しい局員だと思ったら、列の一番後ろの女性が「彼はちゃんと並んでいた。ずるはしていない!」と叫んだ。私は、これで問題が解決と思ったが、局員が「ダメだ!」と言った。局員の頑固さに驚いたが、「決まりなのだから仕方ない、彼は番号カードを取って一番後ろに並び直すしかないな」と、思った。その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
東京五輪組織委員会会長を辞任した森喜朗氏[Photo by gettyimages] 同会議を「内輪」の会議と思ったのだろうか。政治家の不用意な発言は党内会議や地元の有力者向け会合などで起こることが多い。佐々木氏の発言は演出を担うチーム内のLINEに女性タレントを豚に見立てた演出を提案したものだ(そのため、LINEでの会話が漏れたことを問題視する意見もある)。小山田氏の雑誌での発言は、まだ携帯電話もネットもない時代だ。同じ音楽趣味を持つ読者向けの雑誌ということで本音をおかしく語ることが読者に心地よいと想像しての発言であったのだろう。しかも、今回の騒動で、当時の編集担当が謝罪したが、編集者も仲間うちの感覚であったのだと思う。こうした仲間内の考えや常識が世間ばなれし、世の中の市民感覚とそもそも離れていて、昔は、それはその場限りのものとして、一般社会に気づかれず、通り過ぎてきたが、IT化が進み、一瞬にして発言や書いたものがSNSなどで伝わる時代になって、その問題性が注目されるようになったということであろう。そもそも、かつて、通信と放送は別個のものであった。通信とは郵便の信書や電話など、一対一でなされ、その情報は守秘されるものである。一方、放送とは電波を利用して一対多数の一方向の伝達手段により情報を広く世間に伝えるもので、その社会性から放送を行える者は許可を得た事業者である。しかし、ネット社会となり、SNSなどの発達により通信が放送のような効果をもたらし、一個人のつぶやきがまたたく間に10万、100万の人々に伝わる社会になっている。これは素晴らしいことで、多大な効用を社会にもたらしているが、一方で差別発言や誹謗中傷、ステルスマーケティングなどの問題を引きこしている。それに気づかず、仲間うちのノリで本音を語ったり、リップサービス的に大げさに面白おかしく語ったことが即座に社会に流れ、炎上するというケースが多い。過去のものでもひとたびSNSなどに取り上げられれば瞬く間に世間に広がる。Photo by iStock 何が「問題」だったのか?森氏の「女性が入っている会議は時間が長い…」という発言だが、私自身今まで審議会などに出ていてそのように感じたことはない。森氏がそのように実感してきたのだとすれば、むしろ男社会の忖度や根回しが当たり前の世界で、実際に会議の場ではすでに物事が決まっており、シャンシャンで終わるという経験を長く持っているからではないだろうか。もしそうしたやり方を快く思わない女性委員が増え、真摯に議論しようとして会議が長くなっているのであれば、それは非難すべきではなく、本来の在り方だ。佐々木氏の発言は、小山田氏の発言とも共通するのだが、広告やイベントを生業とする人たちの一部が共有している一種のカルチャーなのかとも感じる。そして音楽雑誌の編集者や組織委員会の演出担当グループも同じ感覚を持っているがゆえに、一般社会でどのように思われるかを理解せず、仲間内のノリが社会でも受けると思って、こうした事態になっているのではないだろうか。ひとつ、私が強烈な違和感を持つのは、小山田氏の小学校から高校くらいまでに同級生に行った虐待と言ってよいレベルのいじめが、今と違ってその時代には当たり前であったかのような一部の見解だ。私は小山田氏とほぼ同じ世代だが、自分が生徒だった時代にこうした、いじめが当たり前だったとはまったく思わない。私は都内の公立小学校、中学校に通ったが、いじめをしたこともされたことも見たこともない。けんかや、多少のトラブルで仲間外れというようなことはあったが、その関係が長く続くことはなかった。 中学校の時は1学年6クラスあって、1クラスが知的障がい者のクラスだった。小山田氏の場合はクラスに障がい者がいたようなので、その点は違うが、当然、当校下校で一緒になるし、遠足なども一緒だった。そこで、友人が差別的発言をしたり、いじめをする姿を見たことはなかった。問題があったとすれば教師の側も含めて、そもそも「共生」という考えはなかった。関心も協調も乏しかったのは事実だ。逆に中学校時代、一人の音楽教師の考えに怒りを覚えたことが鮮明に記憶に残っている。とても熱心な音楽教師がいて、リコーダー部を熱心に指導していた。西洋音楽に陶酔していることを子どもながら感じていたが、あるとき、ピアノを弾きながら、知的障がいを持つ生徒の真似をして、「君らは彼らと違うのだからこの音楽のすばらしさを分かるだろう」と発言した。私は当時、音楽に関心を持っていなかったが、音楽家としては立派でも人間として酷い人だと感じた。音楽の良さを理解できるか否かで人を評価し、知的障がいがある人は音楽を理解できないと決めつけていることに強烈な反感を覚えた。小山田氏もこうした勘違いを犯していたののだろうか。小山田氏の子ども時代の同級生に対する言葉や行為は異常だ。もしこのような行為が異常ではない教育現場が本当にあったとすれば、由々しき問題だ。そしてそれを1995年頃、25歳を過ぎても反省もせず、面白おかしく武勇伝のように語り、しかも、いじめをした同級生の家族からの当時の年賀状まで晒して、からかっている。しかも、雑誌の編集者が問題とも思わず、活字にして掲載する異常さは何なのだろうか。これも音楽界で生業を得る仲間内のノリだったのであろうか。 「市民社会」で求められる振る舞い昔、会社員が企業戦士と言われ、日本型の会社のあり方、働き方が批判されていたころ、ある辛口の経済評論家が、社員を「社畜」と表現し、日本人は学校を卒業すると「社会人」になるのではなく、「会社人」になるだけだと言っていたことがあり、なるほどと思った。これは、勤め人でなくても言えることで、職業人としては優秀でカネを稼げても、一部の業界の雰囲気や価値観にとらわれてしまう人は少なくない。より広い視野を持って「市民」としての責任を自覚し、「市民社会」を構成するメンバーとして行動できない人が少なくないことを示しているように思う。そこで私が「これこそが市民だ」と強烈に感じた経験を紹介したい。アメリカのカルフォルニア州バークレーの小さい郵便局に行った時の経験だ。日本も同じだが、番号カードを取って順番を待つ仕組みになっていた。それでも狭い郵便局だったので、客は一列に並んで順番を待っていた。画像はイメージです[Photo by iStock]列の一番前には気の弱そうな白人男性がいた。局員が「ネクスト!」とその男性を呼んだのだが、彼は番号カードを持っていなかった。それを知った局員は「ノー、ネクスト!」と言った。私はこの光景を見て、変に厳しい局員だと思ったら、列の一番後ろの女性が「彼はちゃんと並んでいた。ずるはしていない!」と叫んだ。私は、これで問題が解決と思ったが、局員が「ダメだ!」と言った。局員の頑固さに驚いたが、「決まりなのだから仕方ない、彼は番号カードを取って一番後ろに並び直すしかないな」と、思った。その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
同会議を「内輪」の会議と思ったのだろうか。政治家の不用意な発言は党内会議や地元の有力者向け会合などで起こることが多い。佐々木氏の発言は演出を担うチーム内のLINEに女性タレントを豚に見立てた演出を提案したものだ(そのため、LINEでの会話が漏れたことを問題視する意見もある)。小山田氏の雑誌での発言は、まだ携帯電話もネットもない時代だ。同じ音楽趣味を持つ読者向けの雑誌ということで本音をおかしく語ることが読者に心地よいと想像しての発言であったのだろう。しかも、今回の騒動で、当時の編集担当が謝罪したが、編集者も仲間うちの感覚であったのだと思う。こうした仲間内の考えや常識が世間ばなれし、世の中の市民感覚とそもそも離れていて、昔は、それはその場限りのものとして、一般社会に気づかれず、通り過ぎてきたが、IT化が進み、一瞬にして発言や書いたものがSNSなどで伝わる時代になって、その問題性が注目されるようになったということであろう。そもそも、かつて、通信と放送は別個のものであった。通信とは郵便の信書や電話など、一対一でなされ、その情報は守秘されるものである。一方、放送とは電波を利用して一対多数の一方向の伝達手段により情報を広く世間に伝えるもので、その社会性から放送を行える者は許可を得た事業者である。しかし、ネット社会となり、SNSなどの発達により通信が放送のような効果をもたらし、一個人のつぶやきがまたたく間に10万、100万の人々に伝わる社会になっている。これは素晴らしいことで、多大な効用を社会にもたらしているが、一方で差別発言や誹謗中傷、ステルスマーケティングなどの問題を引きこしている。それに気づかず、仲間うちのノリで本音を語ったり、リップサービス的に大げさに面白おかしく語ったことが即座に社会に流れ、炎上するというケースが多い。過去のものでもひとたびSNSなどに取り上げられれば瞬く間に世間に広がる。Photo by iStock 何が「問題」だったのか?森氏の「女性が入っている会議は時間が長い…」という発言だが、私自身今まで審議会などに出ていてそのように感じたことはない。森氏がそのように実感してきたのだとすれば、むしろ男社会の忖度や根回しが当たり前の世界で、実際に会議の場ではすでに物事が決まっており、シャンシャンで終わるという経験を長く持っているからではないだろうか。もしそうしたやり方を快く思わない女性委員が増え、真摯に議論しようとして会議が長くなっているのであれば、それは非難すべきではなく、本来の在り方だ。佐々木氏の発言は、小山田氏の発言とも共通するのだが、広告やイベントを生業とする人たちの一部が共有している一種のカルチャーなのかとも感じる。そして音楽雑誌の編集者や組織委員会の演出担当グループも同じ感覚を持っているがゆえに、一般社会でどのように思われるかを理解せず、仲間内のノリが社会でも受けると思って、こうした事態になっているのではないだろうか。ひとつ、私が強烈な違和感を持つのは、小山田氏の小学校から高校くらいまでに同級生に行った虐待と言ってよいレベルのいじめが、今と違ってその時代には当たり前であったかのような一部の見解だ。私は小山田氏とほぼ同じ世代だが、自分が生徒だった時代にこうした、いじめが当たり前だったとはまったく思わない。私は都内の公立小学校、中学校に通ったが、いじめをしたこともされたことも見たこともない。けんかや、多少のトラブルで仲間外れというようなことはあったが、その関係が長く続くことはなかった。 中学校の時は1学年6クラスあって、1クラスが知的障がい者のクラスだった。小山田氏の場合はクラスに障がい者がいたようなので、その点は違うが、当然、当校下校で一緒になるし、遠足なども一緒だった。そこで、友人が差別的発言をしたり、いじめをする姿を見たことはなかった。問題があったとすれば教師の側も含めて、そもそも「共生」という考えはなかった。関心も協調も乏しかったのは事実だ。逆に中学校時代、一人の音楽教師の考えに怒りを覚えたことが鮮明に記憶に残っている。とても熱心な音楽教師がいて、リコーダー部を熱心に指導していた。西洋音楽に陶酔していることを子どもながら感じていたが、あるとき、ピアノを弾きながら、知的障がいを持つ生徒の真似をして、「君らは彼らと違うのだからこの音楽のすばらしさを分かるだろう」と発言した。私は当時、音楽に関心を持っていなかったが、音楽家としては立派でも人間として酷い人だと感じた。音楽の良さを理解できるか否かで人を評価し、知的障がいがある人は音楽を理解できないと決めつけていることに強烈な反感を覚えた。小山田氏もこうした勘違いを犯していたののだろうか。小山田氏の子ども時代の同級生に対する言葉や行為は異常だ。もしこのような行為が異常ではない教育現場が本当にあったとすれば、由々しき問題だ。そしてそれを1995年頃、25歳を過ぎても反省もせず、面白おかしく武勇伝のように語り、しかも、いじめをした同級生の家族からの当時の年賀状まで晒して、からかっている。しかも、雑誌の編集者が問題とも思わず、活字にして掲載する異常さは何なのだろうか。これも音楽界で生業を得る仲間内のノリだったのであろうか。 「市民社会」で求められる振る舞い昔、会社員が企業戦士と言われ、日本型の会社のあり方、働き方が批判されていたころ、ある辛口の経済評論家が、社員を「社畜」と表現し、日本人は学校を卒業すると「社会人」になるのではなく、「会社人」になるだけだと言っていたことがあり、なるほどと思った。これは、勤め人でなくても言えることで、職業人としては優秀でカネを稼げても、一部の業界の雰囲気や価値観にとらわれてしまう人は少なくない。より広い視野を持って「市民」としての責任を自覚し、「市民社会」を構成するメンバーとして行動できない人が少なくないことを示しているように思う。そこで私が「これこそが市民だ」と強烈に感じた経験を紹介したい。アメリカのカルフォルニア州バークレーの小さい郵便局に行った時の経験だ。日本も同じだが、番号カードを取って順番を待つ仕組みになっていた。それでも狭い郵便局だったので、客は一列に並んで順番を待っていた。画像はイメージです[Photo by iStock]列の一番前には気の弱そうな白人男性がいた。局員が「ネクスト!」とその男性を呼んだのだが、彼は番号カードを持っていなかった。それを知った局員は「ノー、ネクスト!」と言った。私はこの光景を見て、変に厳しい局員だと思ったら、列の一番後ろの女性が「彼はちゃんと並んでいた。ずるはしていない!」と叫んだ。私は、これで問題が解決と思ったが、局員が「ダメだ!」と言った。局員の頑固さに驚いたが、「決まりなのだから仕方ない、彼は番号カードを取って一番後ろに並び直すしかないな」と、思った。その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
同会議を「内輪」の会議と思ったのだろうか。政治家の不用意な発言は党内会議や地元の有力者向け会合などで起こることが多い。佐々木氏の発言は演出を担うチーム内のLINEに女性タレントを豚に見立てた演出を提案したものだ(そのため、LINEでの会話が漏れたことを問題視する意見もある)。小山田氏の雑誌での発言は、まだ携帯電話もネットもない時代だ。同じ音楽趣味を持つ読者向けの雑誌ということで本音をおかしく語ることが読者に心地よいと想像しての発言であったのだろう。しかも、今回の騒動で、当時の編集担当が謝罪したが、編集者も仲間うちの感覚であったのだと思う。こうした仲間内の考えや常識が世間ばなれし、世の中の市民感覚とそもそも離れていて、昔は、それはその場限りのものとして、一般社会に気づかれず、通り過ぎてきたが、IT化が進み、一瞬にして発言や書いたものがSNSなどで伝わる時代になって、その問題性が注目されるようになったということであろう。そもそも、かつて、通信と放送は別個のものであった。通信とは郵便の信書や電話など、一対一でなされ、その情報は守秘されるものである。一方、放送とは電波を利用して一対多数の一方向の伝達手段により情報を広く世間に伝えるもので、その社会性から放送を行える者は許可を得た事業者である。しかし、ネット社会となり、SNSなどの発達により通信が放送のような効果をもたらし、一個人のつぶやきがまたたく間に10万、100万の人々に伝わる社会になっている。これは素晴らしいことで、多大な効用を社会にもたらしているが、一方で差別発言や誹謗中傷、ステルスマーケティングなどの問題を引きこしている。それに気づかず、仲間うちのノリで本音を語ったり、リップサービス的に大げさに面白おかしく語ったことが即座に社会に流れ、炎上するというケースが多い。過去のものでもひとたびSNSなどに取り上げられれば瞬く間に世間に広がる。Photo by iStock 何が「問題」だったのか?森氏の「女性が入っている会議は時間が長い…」という発言だが、私自身今まで審議会などに出ていてそのように感じたことはない。森氏がそのように実感してきたのだとすれば、むしろ男社会の忖度や根回しが当たり前の世界で、実際に会議の場ではすでに物事が決まっており、シャンシャンで終わるという経験を長く持っているからではないだろうか。もしそうしたやり方を快く思わない女性委員が増え、真摯に議論しようとして会議が長くなっているのであれば、それは非難すべきではなく、本来の在り方だ。佐々木氏の発言は、小山田氏の発言とも共通するのだが、広告やイベントを生業とする人たちの一部が共有している一種のカルチャーなのかとも感じる。そして音楽雑誌の編集者や組織委員会の演出担当グループも同じ感覚を持っているがゆえに、一般社会でどのように思われるかを理解せず、仲間内のノリが社会でも受けると思って、こうした事態になっているのではないだろうか。ひとつ、私が強烈な違和感を持つのは、小山田氏の小学校から高校くらいまでに同級生に行った虐待と言ってよいレベルのいじめが、今と違ってその時代には当たり前であったかのような一部の見解だ。私は小山田氏とほぼ同じ世代だが、自分が生徒だった時代にこうした、いじめが当たり前だったとはまったく思わない。私は都内の公立小学校、中学校に通ったが、いじめをしたこともされたことも見たこともない。けんかや、多少のトラブルで仲間外れというようなことはあったが、その関係が長く続くことはなかった。 中学校の時は1学年6クラスあって、1クラスが知的障がい者のクラスだった。小山田氏の場合はクラスに障がい者がいたようなので、その点は違うが、当然、当校下校で一緒になるし、遠足なども一緒だった。そこで、友人が差別的発言をしたり、いじめをする姿を見たことはなかった。問題があったとすれば教師の側も含めて、そもそも「共生」という考えはなかった。関心も協調も乏しかったのは事実だ。逆に中学校時代、一人の音楽教師の考えに怒りを覚えたことが鮮明に記憶に残っている。とても熱心な音楽教師がいて、リコーダー部を熱心に指導していた。西洋音楽に陶酔していることを子どもながら感じていたが、あるとき、ピアノを弾きながら、知的障がいを持つ生徒の真似をして、「君らは彼らと違うのだからこの音楽のすばらしさを分かるだろう」と発言した。私は当時、音楽に関心を持っていなかったが、音楽家としては立派でも人間として酷い人だと感じた。音楽の良さを理解できるか否かで人を評価し、知的障がいがある人は音楽を理解できないと決めつけていることに強烈な反感を覚えた。小山田氏もこうした勘違いを犯していたののだろうか。小山田氏の子ども時代の同級生に対する言葉や行為は異常だ。もしこのような行為が異常ではない教育現場が本当にあったとすれば、由々しき問題だ。そしてそれを1995年頃、25歳を過ぎても反省もせず、面白おかしく武勇伝のように語り、しかも、いじめをした同級生の家族からの当時の年賀状まで晒して、からかっている。しかも、雑誌の編集者が問題とも思わず、活字にして掲載する異常さは何なのだろうか。これも音楽界で生業を得る仲間内のノリだったのであろうか。 「市民社会」で求められる振る舞い昔、会社員が企業戦士と言われ、日本型の会社のあり方、働き方が批判されていたころ、ある辛口の経済評論家が、社員を「社畜」と表現し、日本人は学校を卒業すると「社会人」になるのではなく、「会社人」になるだけだと言っていたことがあり、なるほどと思った。これは、勤め人でなくても言えることで、職業人としては優秀でカネを稼げても、一部の業界の雰囲気や価値観にとらわれてしまう人は少なくない。より広い視野を持って「市民」としての責任を自覚し、「市民社会」を構成するメンバーとして行動できない人が少なくないことを示しているように思う。そこで私が「これこそが市民だ」と強烈に感じた経験を紹介したい。アメリカのカルフォルニア州バークレーの小さい郵便局に行った時の経験だ。日本も同じだが、番号カードを取って順番を待つ仕組みになっていた。それでも狭い郵便局だったので、客は一列に並んで順番を待っていた。画像はイメージです[Photo by iStock]列の一番前には気の弱そうな白人男性がいた。局員が「ネクスト!」とその男性を呼んだのだが、彼は番号カードを持っていなかった。それを知った局員は「ノー、ネクスト!」と言った。私はこの光景を見て、変に厳しい局員だと思ったら、列の一番後ろの女性が「彼はちゃんと並んでいた。ずるはしていない!」と叫んだ。私は、これで問題が解決と思ったが、局員が「ダメだ!」と言った。局員の頑固さに驚いたが、「決まりなのだから仕方ない、彼は番号カードを取って一番後ろに並び直すしかないな」と、思った。その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
佐々木氏の発言は演出を担うチーム内のLINEに女性タレントを豚に見立てた演出を提案したものだ(そのため、LINEでの会話が漏れたことを問題視する意見もある)。小山田氏の雑誌での発言は、まだ携帯電話もネットもない時代だ。同じ音楽趣味を持つ読者向けの雑誌ということで本音をおかしく語ることが読者に心地よいと想像しての発言であったのだろう。しかも、今回の騒動で、当時の編集担当が謝罪したが、編集者も仲間うちの感覚であったのだと思う。こうした仲間内の考えや常識が世間ばなれし、世の中の市民感覚とそもそも離れていて、昔は、それはその場限りのものとして、一般社会に気づかれず、通り過ぎてきたが、IT化が進み、一瞬にして発言や書いたものがSNSなどで伝わる時代になって、その問題性が注目されるようになったということであろう。そもそも、かつて、通信と放送は別個のものであった。通信とは郵便の信書や電話など、一対一でなされ、その情報は守秘されるものである。一方、放送とは電波を利用して一対多数の一方向の伝達手段により情報を広く世間に伝えるもので、その社会性から放送を行える者は許可を得た事業者である。しかし、ネット社会となり、SNSなどの発達により通信が放送のような効果をもたらし、一個人のつぶやきがまたたく間に10万、100万の人々に伝わる社会になっている。これは素晴らしいことで、多大な効用を社会にもたらしているが、一方で差別発言や誹謗中傷、ステルスマーケティングなどの問題を引きこしている。それに気づかず、仲間うちのノリで本音を語ったり、リップサービス的に大げさに面白おかしく語ったことが即座に社会に流れ、炎上するというケースが多い。過去のものでもひとたびSNSなどに取り上げられれば瞬く間に世間に広がる。Photo by iStock 何が「問題」だったのか?森氏の「女性が入っている会議は時間が長い…」という発言だが、私自身今まで審議会などに出ていてそのように感じたことはない。森氏がそのように実感してきたのだとすれば、むしろ男社会の忖度や根回しが当たり前の世界で、実際に会議の場ではすでに物事が決まっており、シャンシャンで終わるという経験を長く持っているからではないだろうか。もしそうしたやり方を快く思わない女性委員が増え、真摯に議論しようとして会議が長くなっているのであれば、それは非難すべきではなく、本来の在り方だ。佐々木氏の発言は、小山田氏の発言とも共通するのだが、広告やイベントを生業とする人たちの一部が共有している一種のカルチャーなのかとも感じる。そして音楽雑誌の編集者や組織委員会の演出担当グループも同じ感覚を持っているがゆえに、一般社会でどのように思われるかを理解せず、仲間内のノリが社会でも受けると思って、こうした事態になっているのではないだろうか。ひとつ、私が強烈な違和感を持つのは、小山田氏の小学校から高校くらいまでに同級生に行った虐待と言ってよいレベルのいじめが、今と違ってその時代には当たり前であったかのような一部の見解だ。私は小山田氏とほぼ同じ世代だが、自分が生徒だった時代にこうした、いじめが当たり前だったとはまったく思わない。私は都内の公立小学校、中学校に通ったが、いじめをしたこともされたことも見たこともない。けんかや、多少のトラブルで仲間外れというようなことはあったが、その関係が長く続くことはなかった。 中学校の時は1学年6クラスあって、1クラスが知的障がい者のクラスだった。小山田氏の場合はクラスに障がい者がいたようなので、その点は違うが、当然、当校下校で一緒になるし、遠足なども一緒だった。そこで、友人が差別的発言をしたり、いじめをする姿を見たことはなかった。問題があったとすれば教師の側も含めて、そもそも「共生」という考えはなかった。関心も協調も乏しかったのは事実だ。逆に中学校時代、一人の音楽教師の考えに怒りを覚えたことが鮮明に記憶に残っている。とても熱心な音楽教師がいて、リコーダー部を熱心に指導していた。西洋音楽に陶酔していることを子どもながら感じていたが、あるとき、ピアノを弾きながら、知的障がいを持つ生徒の真似をして、「君らは彼らと違うのだからこの音楽のすばらしさを分かるだろう」と発言した。私は当時、音楽に関心を持っていなかったが、音楽家としては立派でも人間として酷い人だと感じた。音楽の良さを理解できるか否かで人を評価し、知的障がいがある人は音楽を理解できないと決めつけていることに強烈な反感を覚えた。小山田氏もこうした勘違いを犯していたののだろうか。小山田氏の子ども時代の同級生に対する言葉や行為は異常だ。もしこのような行為が異常ではない教育現場が本当にあったとすれば、由々しき問題だ。そしてそれを1995年頃、25歳を過ぎても反省もせず、面白おかしく武勇伝のように語り、しかも、いじめをした同級生の家族からの当時の年賀状まで晒して、からかっている。しかも、雑誌の編集者が問題とも思わず、活字にして掲載する異常さは何なのだろうか。これも音楽界で生業を得る仲間内のノリだったのであろうか。 「市民社会」で求められる振る舞い昔、会社員が企業戦士と言われ、日本型の会社のあり方、働き方が批判されていたころ、ある辛口の経済評論家が、社員を「社畜」と表現し、日本人は学校を卒業すると「社会人」になるのではなく、「会社人」になるだけだと言っていたことがあり、なるほどと思った。これは、勤め人でなくても言えることで、職業人としては優秀でカネを稼げても、一部の業界の雰囲気や価値観にとらわれてしまう人は少なくない。より広い視野を持って「市民」としての責任を自覚し、「市民社会」を構成するメンバーとして行動できない人が少なくないことを示しているように思う。そこで私が「これこそが市民だ」と強烈に感じた経験を紹介したい。アメリカのカルフォルニア州バークレーの小さい郵便局に行った時の経験だ。日本も同じだが、番号カードを取って順番を待つ仕組みになっていた。それでも狭い郵便局だったので、客は一列に並んで順番を待っていた。画像はイメージです[Photo by iStock]列の一番前には気の弱そうな白人男性がいた。局員が「ネクスト!」とその男性を呼んだのだが、彼は番号カードを持っていなかった。それを知った局員は「ノー、ネクスト!」と言った。私はこの光景を見て、変に厳しい局員だと思ったら、列の一番後ろの女性が「彼はちゃんと並んでいた。ずるはしていない!」と叫んだ。私は、これで問題が解決と思ったが、局員が「ダメだ!」と言った。局員の頑固さに驚いたが、「決まりなのだから仕方ない、彼は番号カードを取って一番後ろに並び直すしかないな」と、思った。その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
しかも、今回の騒動で、当時の編集担当が謝罪したが、編集者も仲間うちの感覚であったのだと思う。こうした仲間内の考えや常識が世間ばなれし、世の中の市民感覚とそもそも離れていて、昔は、それはその場限りのものとして、一般社会に気づかれず、通り過ぎてきたが、IT化が進み、一瞬にして発言や書いたものがSNSなどで伝わる時代になって、その問題性が注目されるようになったということであろう。そもそも、かつて、通信と放送は別個のものであった。通信とは郵便の信書や電話など、一対一でなされ、その情報は守秘されるものである。一方、放送とは電波を利用して一対多数の一方向の伝達手段により情報を広く世間に伝えるもので、その社会性から放送を行える者は許可を得た事業者である。しかし、ネット社会となり、SNSなどの発達により通信が放送のような効果をもたらし、一個人のつぶやきがまたたく間に10万、100万の人々に伝わる社会になっている。これは素晴らしいことで、多大な効用を社会にもたらしているが、一方で差別発言や誹謗中傷、ステルスマーケティングなどの問題を引きこしている。それに気づかず、仲間うちのノリで本音を語ったり、リップサービス的に大げさに面白おかしく語ったことが即座に社会に流れ、炎上するというケースが多い。過去のものでもひとたびSNSなどに取り上げられれば瞬く間に世間に広がる。Photo by iStock 何が「問題」だったのか?森氏の「女性が入っている会議は時間が長い…」という発言だが、私自身今まで審議会などに出ていてそのように感じたことはない。森氏がそのように実感してきたのだとすれば、むしろ男社会の忖度や根回しが当たり前の世界で、実際に会議の場ではすでに物事が決まっており、シャンシャンで終わるという経験を長く持っているからではないだろうか。もしそうしたやり方を快く思わない女性委員が増え、真摯に議論しようとして会議が長くなっているのであれば、それは非難すべきではなく、本来の在り方だ。佐々木氏の発言は、小山田氏の発言とも共通するのだが、広告やイベントを生業とする人たちの一部が共有している一種のカルチャーなのかとも感じる。そして音楽雑誌の編集者や組織委員会の演出担当グループも同じ感覚を持っているがゆえに、一般社会でどのように思われるかを理解せず、仲間内のノリが社会でも受けると思って、こうした事態になっているのではないだろうか。ひとつ、私が強烈な違和感を持つのは、小山田氏の小学校から高校くらいまでに同級生に行った虐待と言ってよいレベルのいじめが、今と違ってその時代には当たり前であったかのような一部の見解だ。私は小山田氏とほぼ同じ世代だが、自分が生徒だった時代にこうした、いじめが当たり前だったとはまったく思わない。私は都内の公立小学校、中学校に通ったが、いじめをしたこともされたことも見たこともない。けんかや、多少のトラブルで仲間外れというようなことはあったが、その関係が長く続くことはなかった。 中学校の時は1学年6クラスあって、1クラスが知的障がい者のクラスだった。小山田氏の場合はクラスに障がい者がいたようなので、その点は違うが、当然、当校下校で一緒になるし、遠足なども一緒だった。そこで、友人が差別的発言をしたり、いじめをする姿を見たことはなかった。問題があったとすれば教師の側も含めて、そもそも「共生」という考えはなかった。関心も協調も乏しかったのは事実だ。逆に中学校時代、一人の音楽教師の考えに怒りを覚えたことが鮮明に記憶に残っている。とても熱心な音楽教師がいて、リコーダー部を熱心に指導していた。西洋音楽に陶酔していることを子どもながら感じていたが、あるとき、ピアノを弾きながら、知的障がいを持つ生徒の真似をして、「君らは彼らと違うのだからこの音楽のすばらしさを分かるだろう」と発言した。私は当時、音楽に関心を持っていなかったが、音楽家としては立派でも人間として酷い人だと感じた。音楽の良さを理解できるか否かで人を評価し、知的障がいがある人は音楽を理解できないと決めつけていることに強烈な反感を覚えた。小山田氏もこうした勘違いを犯していたののだろうか。小山田氏の子ども時代の同級生に対する言葉や行為は異常だ。もしこのような行為が異常ではない教育現場が本当にあったとすれば、由々しき問題だ。そしてそれを1995年頃、25歳を過ぎても反省もせず、面白おかしく武勇伝のように語り、しかも、いじめをした同級生の家族からの当時の年賀状まで晒して、からかっている。しかも、雑誌の編集者が問題とも思わず、活字にして掲載する異常さは何なのだろうか。これも音楽界で生業を得る仲間内のノリだったのであろうか。 「市民社会」で求められる振る舞い昔、会社員が企業戦士と言われ、日本型の会社のあり方、働き方が批判されていたころ、ある辛口の経済評論家が、社員を「社畜」と表現し、日本人は学校を卒業すると「社会人」になるのではなく、「会社人」になるだけだと言っていたことがあり、なるほどと思った。これは、勤め人でなくても言えることで、職業人としては優秀でカネを稼げても、一部の業界の雰囲気や価値観にとらわれてしまう人は少なくない。より広い視野を持って「市民」としての責任を自覚し、「市民社会」を構成するメンバーとして行動できない人が少なくないことを示しているように思う。そこで私が「これこそが市民だ」と強烈に感じた経験を紹介したい。アメリカのカルフォルニア州バークレーの小さい郵便局に行った時の経験だ。日本も同じだが、番号カードを取って順番を待つ仕組みになっていた。それでも狭い郵便局だったので、客は一列に並んで順番を待っていた。画像はイメージです[Photo by iStock]列の一番前には気の弱そうな白人男性がいた。局員が「ネクスト!」とその男性を呼んだのだが、彼は番号カードを持っていなかった。それを知った局員は「ノー、ネクスト!」と言った。私はこの光景を見て、変に厳しい局員だと思ったら、列の一番後ろの女性が「彼はちゃんと並んでいた。ずるはしていない!」と叫んだ。私は、これで問題が解決と思ったが、局員が「ダメだ!」と言った。局員の頑固さに驚いたが、「決まりなのだから仕方ない、彼は番号カードを取って一番後ろに並び直すしかないな」と、思った。その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
こうした仲間内の考えや常識が世間ばなれし、世の中の市民感覚とそもそも離れていて、昔は、それはその場限りのものとして、一般社会に気づかれず、通り過ぎてきたが、IT化が進み、一瞬にして発言や書いたものがSNSなどで伝わる時代になって、その問題性が注目されるようになったということであろう。そもそも、かつて、通信と放送は別個のものであった。通信とは郵便の信書や電話など、一対一でなされ、その情報は守秘されるものである。一方、放送とは電波を利用して一対多数の一方向の伝達手段により情報を広く世間に伝えるもので、その社会性から放送を行える者は許可を得た事業者である。しかし、ネット社会となり、SNSなどの発達により通信が放送のような効果をもたらし、一個人のつぶやきがまたたく間に10万、100万の人々に伝わる社会になっている。これは素晴らしいことで、多大な効用を社会にもたらしているが、一方で差別発言や誹謗中傷、ステルスマーケティングなどの問題を引きこしている。それに気づかず、仲間うちのノリで本音を語ったり、リップサービス的に大げさに面白おかしく語ったことが即座に社会に流れ、炎上するというケースが多い。過去のものでもひとたびSNSなどに取り上げられれば瞬く間に世間に広がる。Photo by iStock 何が「問題」だったのか?森氏の「女性が入っている会議は時間が長い…」という発言だが、私自身今まで審議会などに出ていてそのように感じたことはない。森氏がそのように実感してきたのだとすれば、むしろ男社会の忖度や根回しが当たり前の世界で、実際に会議の場ではすでに物事が決まっており、シャンシャンで終わるという経験を長く持っているからではないだろうか。もしそうしたやり方を快く思わない女性委員が増え、真摯に議論しようとして会議が長くなっているのであれば、それは非難すべきではなく、本来の在り方だ。佐々木氏の発言は、小山田氏の発言とも共通するのだが、広告やイベントを生業とする人たちの一部が共有している一種のカルチャーなのかとも感じる。そして音楽雑誌の編集者や組織委員会の演出担当グループも同じ感覚を持っているがゆえに、一般社会でどのように思われるかを理解せず、仲間内のノリが社会でも受けると思って、こうした事態になっているのではないだろうか。ひとつ、私が強烈な違和感を持つのは、小山田氏の小学校から高校くらいまでに同級生に行った虐待と言ってよいレベルのいじめが、今と違ってその時代には当たり前であったかのような一部の見解だ。私は小山田氏とほぼ同じ世代だが、自分が生徒だった時代にこうした、いじめが当たり前だったとはまったく思わない。私は都内の公立小学校、中学校に通ったが、いじめをしたこともされたことも見たこともない。けんかや、多少のトラブルで仲間外れというようなことはあったが、その関係が長く続くことはなかった。 中学校の時は1学年6クラスあって、1クラスが知的障がい者のクラスだった。小山田氏の場合はクラスに障がい者がいたようなので、その点は違うが、当然、当校下校で一緒になるし、遠足なども一緒だった。そこで、友人が差別的発言をしたり、いじめをする姿を見たことはなかった。問題があったとすれば教師の側も含めて、そもそも「共生」という考えはなかった。関心も協調も乏しかったのは事実だ。逆に中学校時代、一人の音楽教師の考えに怒りを覚えたことが鮮明に記憶に残っている。とても熱心な音楽教師がいて、リコーダー部を熱心に指導していた。西洋音楽に陶酔していることを子どもながら感じていたが、あるとき、ピアノを弾きながら、知的障がいを持つ生徒の真似をして、「君らは彼らと違うのだからこの音楽のすばらしさを分かるだろう」と発言した。私は当時、音楽に関心を持っていなかったが、音楽家としては立派でも人間として酷い人だと感じた。音楽の良さを理解できるか否かで人を評価し、知的障がいがある人は音楽を理解できないと決めつけていることに強烈な反感を覚えた。小山田氏もこうした勘違いを犯していたののだろうか。小山田氏の子ども時代の同級生に対する言葉や行為は異常だ。もしこのような行為が異常ではない教育現場が本当にあったとすれば、由々しき問題だ。そしてそれを1995年頃、25歳を過ぎても反省もせず、面白おかしく武勇伝のように語り、しかも、いじめをした同級生の家族からの当時の年賀状まで晒して、からかっている。しかも、雑誌の編集者が問題とも思わず、活字にして掲載する異常さは何なのだろうか。これも音楽界で生業を得る仲間内のノリだったのであろうか。 「市民社会」で求められる振る舞い昔、会社員が企業戦士と言われ、日本型の会社のあり方、働き方が批判されていたころ、ある辛口の経済評論家が、社員を「社畜」と表現し、日本人は学校を卒業すると「社会人」になるのではなく、「会社人」になるだけだと言っていたことがあり、なるほどと思った。これは、勤め人でなくても言えることで、職業人としては優秀でカネを稼げても、一部の業界の雰囲気や価値観にとらわれてしまう人は少なくない。より広い視野を持って「市民」としての責任を自覚し、「市民社会」を構成するメンバーとして行動できない人が少なくないことを示しているように思う。そこで私が「これこそが市民だ」と強烈に感じた経験を紹介したい。アメリカのカルフォルニア州バークレーの小さい郵便局に行った時の経験だ。日本も同じだが、番号カードを取って順番を待つ仕組みになっていた。それでも狭い郵便局だったので、客は一列に並んで順番を待っていた。画像はイメージです[Photo by iStock]列の一番前には気の弱そうな白人男性がいた。局員が「ネクスト!」とその男性を呼んだのだが、彼は番号カードを持っていなかった。それを知った局員は「ノー、ネクスト!」と言った。私はこの光景を見て、変に厳しい局員だと思ったら、列の一番後ろの女性が「彼はちゃんと並んでいた。ずるはしていない!」と叫んだ。私は、これで問題が解決と思ったが、局員が「ダメだ!」と言った。局員の頑固さに驚いたが、「決まりなのだから仕方ない、彼は番号カードを取って一番後ろに並び直すしかないな」と、思った。その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
そもそも、かつて、通信と放送は別個のものであった。通信とは郵便の信書や電話など、一対一でなされ、その情報は守秘されるものである。一方、放送とは電波を利用して一対多数の一方向の伝達手段により情報を広く世間に伝えるもので、その社会性から放送を行える者は許可を得た事業者である。しかし、ネット社会となり、SNSなどの発達により通信が放送のような効果をもたらし、一個人のつぶやきがまたたく間に10万、100万の人々に伝わる社会になっている。これは素晴らしいことで、多大な効用を社会にもたらしているが、一方で差別発言や誹謗中傷、ステルスマーケティングなどの問題を引きこしている。それに気づかず、仲間うちのノリで本音を語ったり、リップサービス的に大げさに面白おかしく語ったことが即座に社会に流れ、炎上するというケースが多い。過去のものでもひとたびSNSなどに取り上げられれば瞬く間に世間に広がる。Photo by iStock 何が「問題」だったのか?森氏の「女性が入っている会議は時間が長い…」という発言だが、私自身今まで審議会などに出ていてそのように感じたことはない。森氏がそのように実感してきたのだとすれば、むしろ男社会の忖度や根回しが当たり前の世界で、実際に会議の場ではすでに物事が決まっており、シャンシャンで終わるという経験を長く持っているからではないだろうか。もしそうしたやり方を快く思わない女性委員が増え、真摯に議論しようとして会議が長くなっているのであれば、それは非難すべきではなく、本来の在り方だ。佐々木氏の発言は、小山田氏の発言とも共通するのだが、広告やイベントを生業とする人たちの一部が共有している一種のカルチャーなのかとも感じる。そして音楽雑誌の編集者や組織委員会の演出担当グループも同じ感覚を持っているがゆえに、一般社会でどのように思われるかを理解せず、仲間内のノリが社会でも受けると思って、こうした事態になっているのではないだろうか。ひとつ、私が強烈な違和感を持つのは、小山田氏の小学校から高校くらいまでに同級生に行った虐待と言ってよいレベルのいじめが、今と違ってその時代には当たり前であったかのような一部の見解だ。私は小山田氏とほぼ同じ世代だが、自分が生徒だった時代にこうした、いじめが当たり前だったとはまったく思わない。私は都内の公立小学校、中学校に通ったが、いじめをしたこともされたことも見たこともない。けんかや、多少のトラブルで仲間外れというようなことはあったが、その関係が長く続くことはなかった。 中学校の時は1学年6クラスあって、1クラスが知的障がい者のクラスだった。小山田氏の場合はクラスに障がい者がいたようなので、その点は違うが、当然、当校下校で一緒になるし、遠足なども一緒だった。そこで、友人が差別的発言をしたり、いじめをする姿を見たことはなかった。問題があったとすれば教師の側も含めて、そもそも「共生」という考えはなかった。関心も協調も乏しかったのは事実だ。逆に中学校時代、一人の音楽教師の考えに怒りを覚えたことが鮮明に記憶に残っている。とても熱心な音楽教師がいて、リコーダー部を熱心に指導していた。西洋音楽に陶酔していることを子どもながら感じていたが、あるとき、ピアノを弾きながら、知的障がいを持つ生徒の真似をして、「君らは彼らと違うのだからこの音楽のすばらしさを分かるだろう」と発言した。私は当時、音楽に関心を持っていなかったが、音楽家としては立派でも人間として酷い人だと感じた。音楽の良さを理解できるか否かで人を評価し、知的障がいがある人は音楽を理解できないと決めつけていることに強烈な反感を覚えた。小山田氏もこうした勘違いを犯していたののだろうか。小山田氏の子ども時代の同級生に対する言葉や行為は異常だ。もしこのような行為が異常ではない教育現場が本当にあったとすれば、由々しき問題だ。そしてそれを1995年頃、25歳を過ぎても反省もせず、面白おかしく武勇伝のように語り、しかも、いじめをした同級生の家族からの当時の年賀状まで晒して、からかっている。しかも、雑誌の編集者が問題とも思わず、活字にして掲載する異常さは何なのだろうか。これも音楽界で生業を得る仲間内のノリだったのであろうか。 「市民社会」で求められる振る舞い昔、会社員が企業戦士と言われ、日本型の会社のあり方、働き方が批判されていたころ、ある辛口の経済評論家が、社員を「社畜」と表現し、日本人は学校を卒業すると「社会人」になるのではなく、「会社人」になるだけだと言っていたことがあり、なるほどと思った。これは、勤め人でなくても言えることで、職業人としては優秀でカネを稼げても、一部の業界の雰囲気や価値観にとらわれてしまう人は少なくない。より広い視野を持って「市民」としての責任を自覚し、「市民社会」を構成するメンバーとして行動できない人が少なくないことを示しているように思う。そこで私が「これこそが市民だ」と強烈に感じた経験を紹介したい。アメリカのカルフォルニア州バークレーの小さい郵便局に行った時の経験だ。日本も同じだが、番号カードを取って順番を待つ仕組みになっていた。それでも狭い郵便局だったので、客は一列に並んで順番を待っていた。画像はイメージです[Photo by iStock]列の一番前には気の弱そうな白人男性がいた。局員が「ネクスト!」とその男性を呼んだのだが、彼は番号カードを持っていなかった。それを知った局員は「ノー、ネクスト!」と言った。私はこの光景を見て、変に厳しい局員だと思ったら、列の一番後ろの女性が「彼はちゃんと並んでいた。ずるはしていない!」と叫んだ。私は、これで問題が解決と思ったが、局員が「ダメだ!」と言った。局員の頑固さに驚いたが、「決まりなのだから仕方ない、彼は番号カードを取って一番後ろに並び直すしかないな」と、思った。その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
しかし、ネット社会となり、SNSなどの発達により通信が放送のような効果をもたらし、一個人のつぶやきがまたたく間に10万、100万の人々に伝わる社会になっている。これは素晴らしいことで、多大な効用を社会にもたらしているが、一方で差別発言や誹謗中傷、ステルスマーケティングなどの問題を引きこしている。それに気づかず、仲間うちのノリで本音を語ったり、リップサービス的に大げさに面白おかしく語ったことが即座に社会に流れ、炎上するというケースが多い。過去のものでもひとたびSNSなどに取り上げられれば瞬く間に世間に広がる。Photo by iStock 何が「問題」だったのか?森氏の「女性が入っている会議は時間が長い…」という発言だが、私自身今まで審議会などに出ていてそのように感じたことはない。森氏がそのように実感してきたのだとすれば、むしろ男社会の忖度や根回しが当たり前の世界で、実際に会議の場ではすでに物事が決まっており、シャンシャンで終わるという経験を長く持っているからではないだろうか。もしそうしたやり方を快く思わない女性委員が増え、真摯に議論しようとして会議が長くなっているのであれば、それは非難すべきではなく、本来の在り方だ。佐々木氏の発言は、小山田氏の発言とも共通するのだが、広告やイベントを生業とする人たちの一部が共有している一種のカルチャーなのかとも感じる。そして音楽雑誌の編集者や組織委員会の演出担当グループも同じ感覚を持っているがゆえに、一般社会でどのように思われるかを理解せず、仲間内のノリが社会でも受けると思って、こうした事態になっているのではないだろうか。ひとつ、私が強烈な違和感を持つのは、小山田氏の小学校から高校くらいまでに同級生に行った虐待と言ってよいレベルのいじめが、今と違ってその時代には当たり前であったかのような一部の見解だ。私は小山田氏とほぼ同じ世代だが、自分が生徒だった時代にこうした、いじめが当たり前だったとはまったく思わない。私は都内の公立小学校、中学校に通ったが、いじめをしたこともされたことも見たこともない。けんかや、多少のトラブルで仲間外れというようなことはあったが、その関係が長く続くことはなかった。 中学校の時は1学年6クラスあって、1クラスが知的障がい者のクラスだった。小山田氏の場合はクラスに障がい者がいたようなので、その点は違うが、当然、当校下校で一緒になるし、遠足なども一緒だった。そこで、友人が差別的発言をしたり、いじめをする姿を見たことはなかった。問題があったとすれば教師の側も含めて、そもそも「共生」という考えはなかった。関心も協調も乏しかったのは事実だ。逆に中学校時代、一人の音楽教師の考えに怒りを覚えたことが鮮明に記憶に残っている。とても熱心な音楽教師がいて、リコーダー部を熱心に指導していた。西洋音楽に陶酔していることを子どもながら感じていたが、あるとき、ピアノを弾きながら、知的障がいを持つ生徒の真似をして、「君らは彼らと違うのだからこの音楽のすばらしさを分かるだろう」と発言した。私は当時、音楽に関心を持っていなかったが、音楽家としては立派でも人間として酷い人だと感じた。音楽の良さを理解できるか否かで人を評価し、知的障がいがある人は音楽を理解できないと決めつけていることに強烈な反感を覚えた。小山田氏もこうした勘違いを犯していたののだろうか。小山田氏の子ども時代の同級生に対する言葉や行為は異常だ。もしこのような行為が異常ではない教育現場が本当にあったとすれば、由々しき問題だ。そしてそれを1995年頃、25歳を過ぎても反省もせず、面白おかしく武勇伝のように語り、しかも、いじめをした同級生の家族からの当時の年賀状まで晒して、からかっている。しかも、雑誌の編集者が問題とも思わず、活字にして掲載する異常さは何なのだろうか。これも音楽界で生業を得る仲間内のノリだったのであろうか。 「市民社会」で求められる振る舞い昔、会社員が企業戦士と言われ、日本型の会社のあり方、働き方が批判されていたころ、ある辛口の経済評論家が、社員を「社畜」と表現し、日本人は学校を卒業すると「社会人」になるのではなく、「会社人」になるだけだと言っていたことがあり、なるほどと思った。これは、勤め人でなくても言えることで、職業人としては優秀でカネを稼げても、一部の業界の雰囲気や価値観にとらわれてしまう人は少なくない。より広い視野を持って「市民」としての責任を自覚し、「市民社会」を構成するメンバーとして行動できない人が少なくないことを示しているように思う。そこで私が「これこそが市民だ」と強烈に感じた経験を紹介したい。アメリカのカルフォルニア州バークレーの小さい郵便局に行った時の経験だ。日本も同じだが、番号カードを取って順番を待つ仕組みになっていた。それでも狭い郵便局だったので、客は一列に並んで順番を待っていた。画像はイメージです[Photo by iStock]列の一番前には気の弱そうな白人男性がいた。局員が「ネクスト!」とその男性を呼んだのだが、彼は番号カードを持っていなかった。それを知った局員は「ノー、ネクスト!」と言った。私はこの光景を見て、変に厳しい局員だと思ったら、列の一番後ろの女性が「彼はちゃんと並んでいた。ずるはしていない!」と叫んだ。私は、これで問題が解決と思ったが、局員が「ダメだ!」と言った。局員の頑固さに驚いたが、「決まりなのだから仕方ない、彼は番号カードを取って一番後ろに並び直すしかないな」と、思った。その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
それに気づかず、仲間うちのノリで本音を語ったり、リップサービス的に大げさに面白おかしく語ったことが即座に社会に流れ、炎上するというケースが多い。過去のものでもひとたびSNSなどに取り上げられれば瞬く間に世間に広がる。Photo by iStock 何が「問題」だったのか?森氏の「女性が入っている会議は時間が長い…」という発言だが、私自身今まで審議会などに出ていてそのように感じたことはない。森氏がそのように実感してきたのだとすれば、むしろ男社会の忖度や根回しが当たり前の世界で、実際に会議の場ではすでに物事が決まっており、シャンシャンで終わるという経験を長く持っているからではないだろうか。もしそうしたやり方を快く思わない女性委員が増え、真摯に議論しようとして会議が長くなっているのであれば、それは非難すべきではなく、本来の在り方だ。佐々木氏の発言は、小山田氏の発言とも共通するのだが、広告やイベントを生業とする人たちの一部が共有している一種のカルチャーなのかとも感じる。そして音楽雑誌の編集者や組織委員会の演出担当グループも同じ感覚を持っているがゆえに、一般社会でどのように思われるかを理解せず、仲間内のノリが社会でも受けると思って、こうした事態になっているのではないだろうか。ひとつ、私が強烈な違和感を持つのは、小山田氏の小学校から高校くらいまでに同級生に行った虐待と言ってよいレベルのいじめが、今と違ってその時代には当たり前であったかのような一部の見解だ。私は小山田氏とほぼ同じ世代だが、自分が生徒だった時代にこうした、いじめが当たり前だったとはまったく思わない。私は都内の公立小学校、中学校に通ったが、いじめをしたこともされたことも見たこともない。けんかや、多少のトラブルで仲間外れというようなことはあったが、その関係が長く続くことはなかった。 中学校の時は1学年6クラスあって、1クラスが知的障がい者のクラスだった。小山田氏の場合はクラスに障がい者がいたようなので、その点は違うが、当然、当校下校で一緒になるし、遠足なども一緒だった。そこで、友人が差別的発言をしたり、いじめをする姿を見たことはなかった。問題があったとすれば教師の側も含めて、そもそも「共生」という考えはなかった。関心も協調も乏しかったのは事実だ。逆に中学校時代、一人の音楽教師の考えに怒りを覚えたことが鮮明に記憶に残っている。とても熱心な音楽教師がいて、リコーダー部を熱心に指導していた。西洋音楽に陶酔していることを子どもながら感じていたが、あるとき、ピアノを弾きながら、知的障がいを持つ生徒の真似をして、「君らは彼らと違うのだからこの音楽のすばらしさを分かるだろう」と発言した。私は当時、音楽に関心を持っていなかったが、音楽家としては立派でも人間として酷い人だと感じた。音楽の良さを理解できるか否かで人を評価し、知的障がいがある人は音楽を理解できないと決めつけていることに強烈な反感を覚えた。小山田氏もこうした勘違いを犯していたののだろうか。小山田氏の子ども時代の同級生に対する言葉や行為は異常だ。もしこのような行為が異常ではない教育現場が本当にあったとすれば、由々しき問題だ。そしてそれを1995年頃、25歳を過ぎても反省もせず、面白おかしく武勇伝のように語り、しかも、いじめをした同級生の家族からの当時の年賀状まで晒して、からかっている。しかも、雑誌の編集者が問題とも思わず、活字にして掲載する異常さは何なのだろうか。これも音楽界で生業を得る仲間内のノリだったのであろうか。 「市民社会」で求められる振る舞い昔、会社員が企業戦士と言われ、日本型の会社のあり方、働き方が批判されていたころ、ある辛口の経済評論家が、社員を「社畜」と表現し、日本人は学校を卒業すると「社会人」になるのではなく、「会社人」になるだけだと言っていたことがあり、なるほどと思った。これは、勤め人でなくても言えることで、職業人としては優秀でカネを稼げても、一部の業界の雰囲気や価値観にとらわれてしまう人は少なくない。より広い視野を持って「市民」としての責任を自覚し、「市民社会」を構成するメンバーとして行動できない人が少なくないことを示しているように思う。そこで私が「これこそが市民だ」と強烈に感じた経験を紹介したい。アメリカのカルフォルニア州バークレーの小さい郵便局に行った時の経験だ。日本も同じだが、番号カードを取って順番を待つ仕組みになっていた。それでも狭い郵便局だったので、客は一列に並んで順番を待っていた。画像はイメージです[Photo by iStock]列の一番前には気の弱そうな白人男性がいた。局員が「ネクスト!」とその男性を呼んだのだが、彼は番号カードを持っていなかった。それを知った局員は「ノー、ネクスト!」と言った。私はこの光景を見て、変に厳しい局員だと思ったら、列の一番後ろの女性が「彼はちゃんと並んでいた。ずるはしていない!」と叫んだ。私は、これで問題が解決と思ったが、局員が「ダメだ!」と言った。局員の頑固さに驚いたが、「決まりなのだから仕方ない、彼は番号カードを取って一番後ろに並び直すしかないな」と、思った。その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
Photo by iStock 何が「問題」だったのか?森氏の「女性が入っている会議は時間が長い…」という発言だが、私自身今まで審議会などに出ていてそのように感じたことはない。森氏がそのように実感してきたのだとすれば、むしろ男社会の忖度や根回しが当たり前の世界で、実際に会議の場ではすでに物事が決まっており、シャンシャンで終わるという経験を長く持っているからではないだろうか。もしそうしたやり方を快く思わない女性委員が増え、真摯に議論しようとして会議が長くなっているのであれば、それは非難すべきではなく、本来の在り方だ。佐々木氏の発言は、小山田氏の発言とも共通するのだが、広告やイベントを生業とする人たちの一部が共有している一種のカルチャーなのかとも感じる。そして音楽雑誌の編集者や組織委員会の演出担当グループも同じ感覚を持っているがゆえに、一般社会でどのように思われるかを理解せず、仲間内のノリが社会でも受けると思って、こうした事態になっているのではないだろうか。ひとつ、私が強烈な違和感を持つのは、小山田氏の小学校から高校くらいまでに同級生に行った虐待と言ってよいレベルのいじめが、今と違ってその時代には当たり前であったかのような一部の見解だ。私は小山田氏とほぼ同じ世代だが、自分が生徒だった時代にこうした、いじめが当たり前だったとはまったく思わない。私は都内の公立小学校、中学校に通ったが、いじめをしたこともされたことも見たこともない。けんかや、多少のトラブルで仲間外れというようなことはあったが、その関係が長く続くことはなかった。 中学校の時は1学年6クラスあって、1クラスが知的障がい者のクラスだった。小山田氏の場合はクラスに障がい者がいたようなので、その点は違うが、当然、当校下校で一緒になるし、遠足なども一緒だった。そこで、友人が差別的発言をしたり、いじめをする姿を見たことはなかった。問題があったとすれば教師の側も含めて、そもそも「共生」という考えはなかった。関心も協調も乏しかったのは事実だ。逆に中学校時代、一人の音楽教師の考えに怒りを覚えたことが鮮明に記憶に残っている。とても熱心な音楽教師がいて、リコーダー部を熱心に指導していた。西洋音楽に陶酔していることを子どもながら感じていたが、あるとき、ピアノを弾きながら、知的障がいを持つ生徒の真似をして、「君らは彼らと違うのだからこの音楽のすばらしさを分かるだろう」と発言した。私は当時、音楽に関心を持っていなかったが、音楽家としては立派でも人間として酷い人だと感じた。音楽の良さを理解できるか否かで人を評価し、知的障がいがある人は音楽を理解できないと決めつけていることに強烈な反感を覚えた。小山田氏もこうした勘違いを犯していたののだろうか。小山田氏の子ども時代の同級生に対する言葉や行為は異常だ。もしこのような行為が異常ではない教育現場が本当にあったとすれば、由々しき問題だ。そしてそれを1995年頃、25歳を過ぎても反省もせず、面白おかしく武勇伝のように語り、しかも、いじめをした同級生の家族からの当時の年賀状まで晒して、からかっている。しかも、雑誌の編集者が問題とも思わず、活字にして掲載する異常さは何なのだろうか。これも音楽界で生業を得る仲間内のノリだったのであろうか。 「市民社会」で求められる振る舞い昔、会社員が企業戦士と言われ、日本型の会社のあり方、働き方が批判されていたころ、ある辛口の経済評論家が、社員を「社畜」と表現し、日本人は学校を卒業すると「社会人」になるのではなく、「会社人」になるだけだと言っていたことがあり、なるほどと思った。これは、勤め人でなくても言えることで、職業人としては優秀でカネを稼げても、一部の業界の雰囲気や価値観にとらわれてしまう人は少なくない。より広い視野を持って「市民」としての責任を自覚し、「市民社会」を構成するメンバーとして行動できない人が少なくないことを示しているように思う。そこで私が「これこそが市民だ」と強烈に感じた経験を紹介したい。アメリカのカルフォルニア州バークレーの小さい郵便局に行った時の経験だ。日本も同じだが、番号カードを取って順番を待つ仕組みになっていた。それでも狭い郵便局だったので、客は一列に並んで順番を待っていた。画像はイメージです[Photo by iStock]列の一番前には気の弱そうな白人男性がいた。局員が「ネクスト!」とその男性を呼んだのだが、彼は番号カードを持っていなかった。それを知った局員は「ノー、ネクスト!」と言った。私はこの光景を見て、変に厳しい局員だと思ったら、列の一番後ろの女性が「彼はちゃんと並んでいた。ずるはしていない!」と叫んだ。私は、これで問題が解決と思ったが、局員が「ダメだ!」と言った。局員の頑固さに驚いたが、「決まりなのだから仕方ない、彼は番号カードを取って一番後ろに並び直すしかないな」と、思った。その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
何が「問題」だったのか?森氏の「女性が入っている会議は時間が長い…」という発言だが、私自身今まで審議会などに出ていてそのように感じたことはない。森氏がそのように実感してきたのだとすれば、むしろ男社会の忖度や根回しが当たり前の世界で、実際に会議の場ではすでに物事が決まっており、シャンシャンで終わるという経験を長く持っているからではないだろうか。もしそうしたやり方を快く思わない女性委員が増え、真摯に議論しようとして会議が長くなっているのであれば、それは非難すべきではなく、本来の在り方だ。佐々木氏の発言は、小山田氏の発言とも共通するのだが、広告やイベントを生業とする人たちの一部が共有している一種のカルチャーなのかとも感じる。そして音楽雑誌の編集者や組織委員会の演出担当グループも同じ感覚を持っているがゆえに、一般社会でどのように思われるかを理解せず、仲間内のノリが社会でも受けると思って、こうした事態になっているのではないだろうか。ひとつ、私が強烈な違和感を持つのは、小山田氏の小学校から高校くらいまでに同級生に行った虐待と言ってよいレベルのいじめが、今と違ってその時代には当たり前であったかのような一部の見解だ。私は小山田氏とほぼ同じ世代だが、自分が生徒だった時代にこうした、いじめが当たり前だったとはまったく思わない。私は都内の公立小学校、中学校に通ったが、いじめをしたこともされたことも見たこともない。けんかや、多少のトラブルで仲間外れというようなことはあったが、その関係が長く続くことはなかった。 中学校の時は1学年6クラスあって、1クラスが知的障がい者のクラスだった。小山田氏の場合はクラスに障がい者がいたようなので、その点は違うが、当然、当校下校で一緒になるし、遠足なども一緒だった。そこで、友人が差別的発言をしたり、いじめをする姿を見たことはなかった。問題があったとすれば教師の側も含めて、そもそも「共生」という考えはなかった。関心も協調も乏しかったのは事実だ。逆に中学校時代、一人の音楽教師の考えに怒りを覚えたことが鮮明に記憶に残っている。とても熱心な音楽教師がいて、リコーダー部を熱心に指導していた。西洋音楽に陶酔していることを子どもながら感じていたが、あるとき、ピアノを弾きながら、知的障がいを持つ生徒の真似をして、「君らは彼らと違うのだからこの音楽のすばらしさを分かるだろう」と発言した。私は当時、音楽に関心を持っていなかったが、音楽家としては立派でも人間として酷い人だと感じた。音楽の良さを理解できるか否かで人を評価し、知的障がいがある人は音楽を理解できないと決めつけていることに強烈な反感を覚えた。小山田氏もこうした勘違いを犯していたののだろうか。小山田氏の子ども時代の同級生に対する言葉や行為は異常だ。もしこのような行為が異常ではない教育現場が本当にあったとすれば、由々しき問題だ。そしてそれを1995年頃、25歳を過ぎても反省もせず、面白おかしく武勇伝のように語り、しかも、いじめをした同級生の家族からの当時の年賀状まで晒して、からかっている。しかも、雑誌の編集者が問題とも思わず、活字にして掲載する異常さは何なのだろうか。これも音楽界で生業を得る仲間内のノリだったのであろうか。 「市民社会」で求められる振る舞い昔、会社員が企業戦士と言われ、日本型の会社のあり方、働き方が批判されていたころ、ある辛口の経済評論家が、社員を「社畜」と表現し、日本人は学校を卒業すると「社会人」になるのではなく、「会社人」になるだけだと言っていたことがあり、なるほどと思った。これは、勤め人でなくても言えることで、職業人としては優秀でカネを稼げても、一部の業界の雰囲気や価値観にとらわれてしまう人は少なくない。より広い視野を持って「市民」としての責任を自覚し、「市民社会」を構成するメンバーとして行動できない人が少なくないことを示しているように思う。そこで私が「これこそが市民だ」と強烈に感じた経験を紹介したい。アメリカのカルフォルニア州バークレーの小さい郵便局に行った時の経験だ。日本も同じだが、番号カードを取って順番を待つ仕組みになっていた。それでも狭い郵便局だったので、客は一列に並んで順番を待っていた。画像はイメージです[Photo by iStock]列の一番前には気の弱そうな白人男性がいた。局員が「ネクスト!」とその男性を呼んだのだが、彼は番号カードを持っていなかった。それを知った局員は「ノー、ネクスト!」と言った。私はこの光景を見て、変に厳しい局員だと思ったら、列の一番後ろの女性が「彼はちゃんと並んでいた。ずるはしていない!」と叫んだ。私は、これで問題が解決と思ったが、局員が「ダメだ!」と言った。局員の頑固さに驚いたが、「決まりなのだから仕方ない、彼は番号カードを取って一番後ろに並び直すしかないな」と、思った。その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
森氏の「女性が入っている会議は時間が長い…」という発言だが、私自身今まで審議会などに出ていてそのように感じたことはない。森氏がそのように実感してきたのだとすれば、むしろ男社会の忖度や根回しが当たり前の世界で、実際に会議の場ではすでに物事が決まっており、シャンシャンで終わるという経験を長く持っているからではないだろうか。もしそうしたやり方を快く思わない女性委員が増え、真摯に議論しようとして会議が長くなっているのであれば、それは非難すべきではなく、本来の在り方だ。佐々木氏の発言は、小山田氏の発言とも共通するのだが、広告やイベントを生業とする人たちの一部が共有している一種のカルチャーなのかとも感じる。そして音楽雑誌の編集者や組織委員会の演出担当グループも同じ感覚を持っているがゆえに、一般社会でどのように思われるかを理解せず、仲間内のノリが社会でも受けると思って、こうした事態になっているのではないだろうか。ひとつ、私が強烈な違和感を持つのは、小山田氏の小学校から高校くらいまでに同級生に行った虐待と言ってよいレベルのいじめが、今と違ってその時代には当たり前であったかのような一部の見解だ。私は小山田氏とほぼ同じ世代だが、自分が生徒だった時代にこうした、いじめが当たり前だったとはまったく思わない。私は都内の公立小学校、中学校に通ったが、いじめをしたこともされたことも見たこともない。けんかや、多少のトラブルで仲間外れというようなことはあったが、その関係が長く続くことはなかった。 中学校の時は1学年6クラスあって、1クラスが知的障がい者のクラスだった。小山田氏の場合はクラスに障がい者がいたようなので、その点は違うが、当然、当校下校で一緒になるし、遠足なども一緒だった。そこで、友人が差別的発言をしたり、いじめをする姿を見たことはなかった。問題があったとすれば教師の側も含めて、そもそも「共生」という考えはなかった。関心も協調も乏しかったのは事実だ。逆に中学校時代、一人の音楽教師の考えに怒りを覚えたことが鮮明に記憶に残っている。とても熱心な音楽教師がいて、リコーダー部を熱心に指導していた。西洋音楽に陶酔していることを子どもながら感じていたが、あるとき、ピアノを弾きながら、知的障がいを持つ生徒の真似をして、「君らは彼らと違うのだからこの音楽のすばらしさを分かるだろう」と発言した。私は当時、音楽に関心を持っていなかったが、音楽家としては立派でも人間として酷い人だと感じた。音楽の良さを理解できるか否かで人を評価し、知的障がいがある人は音楽を理解できないと決めつけていることに強烈な反感を覚えた。小山田氏もこうした勘違いを犯していたののだろうか。小山田氏の子ども時代の同級生に対する言葉や行為は異常だ。もしこのような行為が異常ではない教育現場が本当にあったとすれば、由々しき問題だ。そしてそれを1995年頃、25歳を過ぎても反省もせず、面白おかしく武勇伝のように語り、しかも、いじめをした同級生の家族からの当時の年賀状まで晒して、からかっている。しかも、雑誌の編集者が問題とも思わず、活字にして掲載する異常さは何なのだろうか。これも音楽界で生業を得る仲間内のノリだったのであろうか。 「市民社会」で求められる振る舞い昔、会社員が企業戦士と言われ、日本型の会社のあり方、働き方が批判されていたころ、ある辛口の経済評論家が、社員を「社畜」と表現し、日本人は学校を卒業すると「社会人」になるのではなく、「会社人」になるだけだと言っていたことがあり、なるほどと思った。これは、勤め人でなくても言えることで、職業人としては優秀でカネを稼げても、一部の業界の雰囲気や価値観にとらわれてしまう人は少なくない。より広い視野を持って「市民」としての責任を自覚し、「市民社会」を構成するメンバーとして行動できない人が少なくないことを示しているように思う。そこで私が「これこそが市民だ」と強烈に感じた経験を紹介したい。アメリカのカルフォルニア州バークレーの小さい郵便局に行った時の経験だ。日本も同じだが、番号カードを取って順番を待つ仕組みになっていた。それでも狭い郵便局だったので、客は一列に並んで順番を待っていた。画像はイメージです[Photo by iStock]列の一番前には気の弱そうな白人男性がいた。局員が「ネクスト!」とその男性を呼んだのだが、彼は番号カードを持っていなかった。それを知った局員は「ノー、ネクスト!」と言った。私はこの光景を見て、変に厳しい局員だと思ったら、列の一番後ろの女性が「彼はちゃんと並んでいた。ずるはしていない!」と叫んだ。私は、これで問題が解決と思ったが、局員が「ダメだ!」と言った。局員の頑固さに驚いたが、「決まりなのだから仕方ない、彼は番号カードを取って一番後ろに並び直すしかないな」と、思った。その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
もしそうしたやり方を快く思わない女性委員が増え、真摯に議論しようとして会議が長くなっているのであれば、それは非難すべきではなく、本来の在り方だ。佐々木氏の発言は、小山田氏の発言とも共通するのだが、広告やイベントを生業とする人たちの一部が共有している一種のカルチャーなのかとも感じる。そして音楽雑誌の編集者や組織委員会の演出担当グループも同じ感覚を持っているがゆえに、一般社会でどのように思われるかを理解せず、仲間内のノリが社会でも受けると思って、こうした事態になっているのではないだろうか。ひとつ、私が強烈な違和感を持つのは、小山田氏の小学校から高校くらいまでに同級生に行った虐待と言ってよいレベルのいじめが、今と違ってその時代には当たり前であったかのような一部の見解だ。私は小山田氏とほぼ同じ世代だが、自分が生徒だった時代にこうした、いじめが当たり前だったとはまったく思わない。私は都内の公立小学校、中学校に通ったが、いじめをしたこともされたことも見たこともない。けんかや、多少のトラブルで仲間外れというようなことはあったが、その関係が長く続くことはなかった。 中学校の時は1学年6クラスあって、1クラスが知的障がい者のクラスだった。小山田氏の場合はクラスに障がい者がいたようなので、その点は違うが、当然、当校下校で一緒になるし、遠足なども一緒だった。そこで、友人が差別的発言をしたり、いじめをする姿を見たことはなかった。問題があったとすれば教師の側も含めて、そもそも「共生」という考えはなかった。関心も協調も乏しかったのは事実だ。逆に中学校時代、一人の音楽教師の考えに怒りを覚えたことが鮮明に記憶に残っている。とても熱心な音楽教師がいて、リコーダー部を熱心に指導していた。西洋音楽に陶酔していることを子どもながら感じていたが、あるとき、ピアノを弾きながら、知的障がいを持つ生徒の真似をして、「君らは彼らと違うのだからこの音楽のすばらしさを分かるだろう」と発言した。私は当時、音楽に関心を持っていなかったが、音楽家としては立派でも人間として酷い人だと感じた。音楽の良さを理解できるか否かで人を評価し、知的障がいがある人は音楽を理解できないと決めつけていることに強烈な反感を覚えた。小山田氏もこうした勘違いを犯していたののだろうか。小山田氏の子ども時代の同級生に対する言葉や行為は異常だ。もしこのような行為が異常ではない教育現場が本当にあったとすれば、由々しき問題だ。そしてそれを1995年頃、25歳を過ぎても反省もせず、面白おかしく武勇伝のように語り、しかも、いじめをした同級生の家族からの当時の年賀状まで晒して、からかっている。しかも、雑誌の編集者が問題とも思わず、活字にして掲載する異常さは何なのだろうか。これも音楽界で生業を得る仲間内のノリだったのであろうか。 「市民社会」で求められる振る舞い昔、会社員が企業戦士と言われ、日本型の会社のあり方、働き方が批判されていたころ、ある辛口の経済評論家が、社員を「社畜」と表現し、日本人は学校を卒業すると「社会人」になるのではなく、「会社人」になるだけだと言っていたことがあり、なるほどと思った。これは、勤め人でなくても言えることで、職業人としては優秀でカネを稼げても、一部の業界の雰囲気や価値観にとらわれてしまう人は少なくない。より広い視野を持って「市民」としての責任を自覚し、「市民社会」を構成するメンバーとして行動できない人が少なくないことを示しているように思う。そこで私が「これこそが市民だ」と強烈に感じた経験を紹介したい。アメリカのカルフォルニア州バークレーの小さい郵便局に行った時の経験だ。日本も同じだが、番号カードを取って順番を待つ仕組みになっていた。それでも狭い郵便局だったので、客は一列に並んで順番を待っていた。画像はイメージです[Photo by iStock]列の一番前には気の弱そうな白人男性がいた。局員が「ネクスト!」とその男性を呼んだのだが、彼は番号カードを持っていなかった。それを知った局員は「ノー、ネクスト!」と言った。私はこの光景を見て、変に厳しい局員だと思ったら、列の一番後ろの女性が「彼はちゃんと並んでいた。ずるはしていない!」と叫んだ。私は、これで問題が解決と思ったが、局員が「ダメだ!」と言った。局員の頑固さに驚いたが、「決まりなのだから仕方ない、彼は番号カードを取って一番後ろに並び直すしかないな」と、思った。その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
佐々木氏の発言は、小山田氏の発言とも共通するのだが、広告やイベントを生業とする人たちの一部が共有している一種のカルチャーなのかとも感じる。そして音楽雑誌の編集者や組織委員会の演出担当グループも同じ感覚を持っているがゆえに、一般社会でどのように思われるかを理解せず、仲間内のノリが社会でも受けると思って、こうした事態になっているのではないだろうか。ひとつ、私が強烈な違和感を持つのは、小山田氏の小学校から高校くらいまでに同級生に行った虐待と言ってよいレベルのいじめが、今と違ってその時代には当たり前であったかのような一部の見解だ。私は小山田氏とほぼ同じ世代だが、自分が生徒だった時代にこうした、いじめが当たり前だったとはまったく思わない。私は都内の公立小学校、中学校に通ったが、いじめをしたこともされたことも見たこともない。けんかや、多少のトラブルで仲間外れというようなことはあったが、その関係が長く続くことはなかった。 中学校の時は1学年6クラスあって、1クラスが知的障がい者のクラスだった。小山田氏の場合はクラスに障がい者がいたようなので、その点は違うが、当然、当校下校で一緒になるし、遠足なども一緒だった。そこで、友人が差別的発言をしたり、いじめをする姿を見たことはなかった。問題があったとすれば教師の側も含めて、そもそも「共生」という考えはなかった。関心も協調も乏しかったのは事実だ。逆に中学校時代、一人の音楽教師の考えに怒りを覚えたことが鮮明に記憶に残っている。とても熱心な音楽教師がいて、リコーダー部を熱心に指導していた。西洋音楽に陶酔していることを子どもながら感じていたが、あるとき、ピアノを弾きながら、知的障がいを持つ生徒の真似をして、「君らは彼らと違うのだからこの音楽のすばらしさを分かるだろう」と発言した。私は当時、音楽に関心を持っていなかったが、音楽家としては立派でも人間として酷い人だと感じた。音楽の良さを理解できるか否かで人を評価し、知的障がいがある人は音楽を理解できないと決めつけていることに強烈な反感を覚えた。小山田氏もこうした勘違いを犯していたののだろうか。小山田氏の子ども時代の同級生に対する言葉や行為は異常だ。もしこのような行為が異常ではない教育現場が本当にあったとすれば、由々しき問題だ。そしてそれを1995年頃、25歳を過ぎても反省もせず、面白おかしく武勇伝のように語り、しかも、いじめをした同級生の家族からの当時の年賀状まで晒して、からかっている。しかも、雑誌の編集者が問題とも思わず、活字にして掲載する異常さは何なのだろうか。これも音楽界で生業を得る仲間内のノリだったのであろうか。 「市民社会」で求められる振る舞い昔、会社員が企業戦士と言われ、日本型の会社のあり方、働き方が批判されていたころ、ある辛口の経済評論家が、社員を「社畜」と表現し、日本人は学校を卒業すると「社会人」になるのではなく、「会社人」になるだけだと言っていたことがあり、なるほどと思った。これは、勤め人でなくても言えることで、職業人としては優秀でカネを稼げても、一部の業界の雰囲気や価値観にとらわれてしまう人は少なくない。より広い視野を持って「市民」としての責任を自覚し、「市民社会」を構成するメンバーとして行動できない人が少なくないことを示しているように思う。そこで私が「これこそが市民だ」と強烈に感じた経験を紹介したい。アメリカのカルフォルニア州バークレーの小さい郵便局に行った時の経験だ。日本も同じだが、番号カードを取って順番を待つ仕組みになっていた。それでも狭い郵便局だったので、客は一列に並んで順番を待っていた。画像はイメージです[Photo by iStock]列の一番前には気の弱そうな白人男性がいた。局員が「ネクスト!」とその男性を呼んだのだが、彼は番号カードを持っていなかった。それを知った局員は「ノー、ネクスト!」と言った。私はこの光景を見て、変に厳しい局員だと思ったら、列の一番後ろの女性が「彼はちゃんと並んでいた。ずるはしていない!」と叫んだ。私は、これで問題が解決と思ったが、局員が「ダメだ!」と言った。局員の頑固さに驚いたが、「決まりなのだから仕方ない、彼は番号カードを取って一番後ろに並び直すしかないな」と、思った。その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
ひとつ、私が強烈な違和感を持つのは、小山田氏の小学校から高校くらいまでに同級生に行った虐待と言ってよいレベルのいじめが、今と違ってその時代には当たり前であったかのような一部の見解だ。私は小山田氏とほぼ同じ世代だが、自分が生徒だった時代にこうした、いじめが当たり前だったとはまったく思わない。私は都内の公立小学校、中学校に通ったが、いじめをしたこともされたことも見たこともない。けんかや、多少のトラブルで仲間外れというようなことはあったが、その関係が長く続くことはなかった。 中学校の時は1学年6クラスあって、1クラスが知的障がい者のクラスだった。小山田氏の場合はクラスに障がい者がいたようなので、その点は違うが、当然、当校下校で一緒になるし、遠足なども一緒だった。そこで、友人が差別的発言をしたり、いじめをする姿を見たことはなかった。問題があったとすれば教師の側も含めて、そもそも「共生」という考えはなかった。関心も協調も乏しかったのは事実だ。逆に中学校時代、一人の音楽教師の考えに怒りを覚えたことが鮮明に記憶に残っている。とても熱心な音楽教師がいて、リコーダー部を熱心に指導していた。西洋音楽に陶酔していることを子どもながら感じていたが、あるとき、ピアノを弾きながら、知的障がいを持つ生徒の真似をして、「君らは彼らと違うのだからこの音楽のすばらしさを分かるだろう」と発言した。私は当時、音楽に関心を持っていなかったが、音楽家としては立派でも人間として酷い人だと感じた。音楽の良さを理解できるか否かで人を評価し、知的障がいがある人は音楽を理解できないと決めつけていることに強烈な反感を覚えた。小山田氏もこうした勘違いを犯していたののだろうか。小山田氏の子ども時代の同級生に対する言葉や行為は異常だ。もしこのような行為が異常ではない教育現場が本当にあったとすれば、由々しき問題だ。そしてそれを1995年頃、25歳を過ぎても反省もせず、面白おかしく武勇伝のように語り、しかも、いじめをした同級生の家族からの当時の年賀状まで晒して、からかっている。しかも、雑誌の編集者が問題とも思わず、活字にして掲載する異常さは何なのだろうか。これも音楽界で生業を得る仲間内のノリだったのであろうか。 「市民社会」で求められる振る舞い昔、会社員が企業戦士と言われ、日本型の会社のあり方、働き方が批判されていたころ、ある辛口の経済評論家が、社員を「社畜」と表現し、日本人は学校を卒業すると「社会人」になるのではなく、「会社人」になるだけだと言っていたことがあり、なるほどと思った。これは、勤め人でなくても言えることで、職業人としては優秀でカネを稼げても、一部の業界の雰囲気や価値観にとらわれてしまう人は少なくない。より広い視野を持って「市民」としての責任を自覚し、「市民社会」を構成するメンバーとして行動できない人が少なくないことを示しているように思う。そこで私が「これこそが市民だ」と強烈に感じた経験を紹介したい。アメリカのカルフォルニア州バークレーの小さい郵便局に行った時の経験だ。日本も同じだが、番号カードを取って順番を待つ仕組みになっていた。それでも狭い郵便局だったので、客は一列に並んで順番を待っていた。画像はイメージです[Photo by iStock]列の一番前には気の弱そうな白人男性がいた。局員が「ネクスト!」とその男性を呼んだのだが、彼は番号カードを持っていなかった。それを知った局員は「ノー、ネクスト!」と言った。私はこの光景を見て、変に厳しい局員だと思ったら、列の一番後ろの女性が「彼はちゃんと並んでいた。ずるはしていない!」と叫んだ。私は、これで問題が解決と思ったが、局員が「ダメだ!」と言った。局員の頑固さに驚いたが、「決まりなのだから仕方ない、彼は番号カードを取って一番後ろに並び直すしかないな」と、思った。その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
私は小山田氏とほぼ同じ世代だが、自分が生徒だった時代にこうした、いじめが当たり前だったとはまったく思わない。私は都内の公立小学校、中学校に通ったが、いじめをしたこともされたことも見たこともない。けんかや、多少のトラブルで仲間外れというようなことはあったが、その関係が長く続くことはなかった。 中学校の時は1学年6クラスあって、1クラスが知的障がい者のクラスだった。小山田氏の場合はクラスに障がい者がいたようなので、その点は違うが、当然、当校下校で一緒になるし、遠足なども一緒だった。そこで、友人が差別的発言をしたり、いじめをする姿を見たことはなかった。問題があったとすれば教師の側も含めて、そもそも「共生」という考えはなかった。関心も協調も乏しかったのは事実だ。逆に中学校時代、一人の音楽教師の考えに怒りを覚えたことが鮮明に記憶に残っている。とても熱心な音楽教師がいて、リコーダー部を熱心に指導していた。西洋音楽に陶酔していることを子どもながら感じていたが、あるとき、ピアノを弾きながら、知的障がいを持つ生徒の真似をして、「君らは彼らと違うのだからこの音楽のすばらしさを分かるだろう」と発言した。私は当時、音楽に関心を持っていなかったが、音楽家としては立派でも人間として酷い人だと感じた。音楽の良さを理解できるか否かで人を評価し、知的障がいがある人は音楽を理解できないと決めつけていることに強烈な反感を覚えた。小山田氏もこうした勘違いを犯していたののだろうか。小山田氏の子ども時代の同級生に対する言葉や行為は異常だ。もしこのような行為が異常ではない教育現場が本当にあったとすれば、由々しき問題だ。そしてそれを1995年頃、25歳を過ぎても反省もせず、面白おかしく武勇伝のように語り、しかも、いじめをした同級生の家族からの当時の年賀状まで晒して、からかっている。しかも、雑誌の編集者が問題とも思わず、活字にして掲載する異常さは何なのだろうか。これも音楽界で生業を得る仲間内のノリだったのであろうか。 「市民社会」で求められる振る舞い昔、会社員が企業戦士と言われ、日本型の会社のあり方、働き方が批判されていたころ、ある辛口の経済評論家が、社員を「社畜」と表現し、日本人は学校を卒業すると「社会人」になるのではなく、「会社人」になるだけだと言っていたことがあり、なるほどと思った。これは、勤め人でなくても言えることで、職業人としては優秀でカネを稼げても、一部の業界の雰囲気や価値観にとらわれてしまう人は少なくない。より広い視野を持って「市民」としての責任を自覚し、「市民社会」を構成するメンバーとして行動できない人が少なくないことを示しているように思う。そこで私が「これこそが市民だ」と強烈に感じた経験を紹介したい。アメリカのカルフォルニア州バークレーの小さい郵便局に行った時の経験だ。日本も同じだが、番号カードを取って順番を待つ仕組みになっていた。それでも狭い郵便局だったので、客は一列に並んで順番を待っていた。画像はイメージです[Photo by iStock]列の一番前には気の弱そうな白人男性がいた。局員が「ネクスト!」とその男性を呼んだのだが、彼は番号カードを持っていなかった。それを知った局員は「ノー、ネクスト!」と言った。私はこの光景を見て、変に厳しい局員だと思ったら、列の一番後ろの女性が「彼はちゃんと並んでいた。ずるはしていない!」と叫んだ。私は、これで問題が解決と思ったが、局員が「ダメだ!」と言った。局員の頑固さに驚いたが、「決まりなのだから仕方ない、彼は番号カードを取って一番後ろに並び直すしかないな」と、思った。その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
中学校の時は1学年6クラスあって、1クラスが知的障がい者のクラスだった。小山田氏の場合はクラスに障がい者がいたようなので、その点は違うが、当然、当校下校で一緒になるし、遠足なども一緒だった。そこで、友人が差別的発言をしたり、いじめをする姿を見たことはなかった。問題があったとすれば教師の側も含めて、そもそも「共生」という考えはなかった。関心も協調も乏しかったのは事実だ。逆に中学校時代、一人の音楽教師の考えに怒りを覚えたことが鮮明に記憶に残っている。とても熱心な音楽教師がいて、リコーダー部を熱心に指導していた。西洋音楽に陶酔していることを子どもながら感じていたが、あるとき、ピアノを弾きながら、知的障がいを持つ生徒の真似をして、「君らは彼らと違うのだからこの音楽のすばらしさを分かるだろう」と発言した。私は当時、音楽に関心を持っていなかったが、音楽家としては立派でも人間として酷い人だと感じた。音楽の良さを理解できるか否かで人を評価し、知的障がいがある人は音楽を理解できないと決めつけていることに強烈な反感を覚えた。小山田氏もこうした勘違いを犯していたののだろうか。小山田氏の子ども時代の同級生に対する言葉や行為は異常だ。もしこのような行為が異常ではない教育現場が本当にあったとすれば、由々しき問題だ。そしてそれを1995年頃、25歳を過ぎても反省もせず、面白おかしく武勇伝のように語り、しかも、いじめをした同級生の家族からの当時の年賀状まで晒して、からかっている。しかも、雑誌の編集者が問題とも思わず、活字にして掲載する異常さは何なのだろうか。これも音楽界で生業を得る仲間内のノリだったのであろうか。 「市民社会」で求められる振る舞い昔、会社員が企業戦士と言われ、日本型の会社のあり方、働き方が批判されていたころ、ある辛口の経済評論家が、社員を「社畜」と表現し、日本人は学校を卒業すると「社会人」になるのではなく、「会社人」になるだけだと言っていたことがあり、なるほどと思った。これは、勤め人でなくても言えることで、職業人としては優秀でカネを稼げても、一部の業界の雰囲気や価値観にとらわれてしまう人は少なくない。より広い視野を持って「市民」としての責任を自覚し、「市民社会」を構成するメンバーとして行動できない人が少なくないことを示しているように思う。そこで私が「これこそが市民だ」と強烈に感じた経験を紹介したい。アメリカのカルフォルニア州バークレーの小さい郵便局に行った時の経験だ。日本も同じだが、番号カードを取って順番を待つ仕組みになっていた。それでも狭い郵便局だったので、客は一列に並んで順番を待っていた。画像はイメージです[Photo by iStock]列の一番前には気の弱そうな白人男性がいた。局員が「ネクスト!」とその男性を呼んだのだが、彼は番号カードを持っていなかった。それを知った局員は「ノー、ネクスト!」と言った。私はこの光景を見て、変に厳しい局員だと思ったら、列の一番後ろの女性が「彼はちゃんと並んでいた。ずるはしていない!」と叫んだ。私は、これで問題が解決と思ったが、局員が「ダメだ!」と言った。局員の頑固さに驚いたが、「決まりなのだから仕方ない、彼は番号カードを取って一番後ろに並び直すしかないな」と、思った。その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
中学校の時は1学年6クラスあって、1クラスが知的障がい者のクラスだった。小山田氏の場合はクラスに障がい者がいたようなので、その点は違うが、当然、当校下校で一緒になるし、遠足なども一緒だった。そこで、友人が差別的発言をしたり、いじめをする姿を見たことはなかった。問題があったとすれば教師の側も含めて、そもそも「共生」という考えはなかった。関心も協調も乏しかったのは事実だ。逆に中学校時代、一人の音楽教師の考えに怒りを覚えたことが鮮明に記憶に残っている。とても熱心な音楽教師がいて、リコーダー部を熱心に指導していた。西洋音楽に陶酔していることを子どもながら感じていたが、あるとき、ピアノを弾きながら、知的障がいを持つ生徒の真似をして、「君らは彼らと違うのだからこの音楽のすばらしさを分かるだろう」と発言した。私は当時、音楽に関心を持っていなかったが、音楽家としては立派でも人間として酷い人だと感じた。音楽の良さを理解できるか否かで人を評価し、知的障がいがある人は音楽を理解できないと決めつけていることに強烈な反感を覚えた。小山田氏もこうした勘違いを犯していたののだろうか。小山田氏の子ども時代の同級生に対する言葉や行為は異常だ。もしこのような行為が異常ではない教育現場が本当にあったとすれば、由々しき問題だ。そしてそれを1995年頃、25歳を過ぎても反省もせず、面白おかしく武勇伝のように語り、しかも、いじめをした同級生の家族からの当時の年賀状まで晒して、からかっている。しかも、雑誌の編集者が問題とも思わず、活字にして掲載する異常さは何なのだろうか。これも音楽界で生業を得る仲間内のノリだったのであろうか。 「市民社会」で求められる振る舞い昔、会社員が企業戦士と言われ、日本型の会社のあり方、働き方が批判されていたころ、ある辛口の経済評論家が、社員を「社畜」と表現し、日本人は学校を卒業すると「社会人」になるのではなく、「会社人」になるだけだと言っていたことがあり、なるほどと思った。これは、勤め人でなくても言えることで、職業人としては優秀でカネを稼げても、一部の業界の雰囲気や価値観にとらわれてしまう人は少なくない。より広い視野を持って「市民」としての責任を自覚し、「市民社会」を構成するメンバーとして行動できない人が少なくないことを示しているように思う。そこで私が「これこそが市民だ」と強烈に感じた経験を紹介したい。アメリカのカルフォルニア州バークレーの小さい郵便局に行った時の経験だ。日本も同じだが、番号カードを取って順番を待つ仕組みになっていた。それでも狭い郵便局だったので、客は一列に並んで順番を待っていた。画像はイメージです[Photo by iStock]列の一番前には気の弱そうな白人男性がいた。局員が「ネクスト!」とその男性を呼んだのだが、彼は番号カードを持っていなかった。それを知った局員は「ノー、ネクスト!」と言った。私はこの光景を見て、変に厳しい局員だと思ったら、列の一番後ろの女性が「彼はちゃんと並んでいた。ずるはしていない!」と叫んだ。私は、これで問題が解決と思ったが、局員が「ダメだ!」と言った。局員の頑固さに驚いたが、「決まりなのだから仕方ない、彼は番号カードを取って一番後ろに並び直すしかないな」と、思った。その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
問題があったとすれば教師の側も含めて、そもそも「共生」という考えはなかった。関心も協調も乏しかったのは事実だ。逆に中学校時代、一人の音楽教師の考えに怒りを覚えたことが鮮明に記憶に残っている。とても熱心な音楽教師がいて、リコーダー部を熱心に指導していた。西洋音楽に陶酔していることを子どもながら感じていたが、あるとき、ピアノを弾きながら、知的障がいを持つ生徒の真似をして、「君らは彼らと違うのだからこの音楽のすばらしさを分かるだろう」と発言した。私は当時、音楽に関心を持っていなかったが、音楽家としては立派でも人間として酷い人だと感じた。音楽の良さを理解できるか否かで人を評価し、知的障がいがある人は音楽を理解できないと決めつけていることに強烈な反感を覚えた。小山田氏もこうした勘違いを犯していたののだろうか。小山田氏の子ども時代の同級生に対する言葉や行為は異常だ。もしこのような行為が異常ではない教育現場が本当にあったとすれば、由々しき問題だ。そしてそれを1995年頃、25歳を過ぎても反省もせず、面白おかしく武勇伝のように語り、しかも、いじめをした同級生の家族からの当時の年賀状まで晒して、からかっている。しかも、雑誌の編集者が問題とも思わず、活字にして掲載する異常さは何なのだろうか。これも音楽界で生業を得る仲間内のノリだったのであろうか。 「市民社会」で求められる振る舞い昔、会社員が企業戦士と言われ、日本型の会社のあり方、働き方が批判されていたころ、ある辛口の経済評論家が、社員を「社畜」と表現し、日本人は学校を卒業すると「社会人」になるのではなく、「会社人」になるだけだと言っていたことがあり、なるほどと思った。これは、勤め人でなくても言えることで、職業人としては優秀でカネを稼げても、一部の業界の雰囲気や価値観にとらわれてしまう人は少なくない。より広い視野を持って「市民」としての責任を自覚し、「市民社会」を構成するメンバーとして行動できない人が少なくないことを示しているように思う。そこで私が「これこそが市民だ」と強烈に感じた経験を紹介したい。アメリカのカルフォルニア州バークレーの小さい郵便局に行った時の経験だ。日本も同じだが、番号カードを取って順番を待つ仕組みになっていた。それでも狭い郵便局だったので、客は一列に並んで順番を待っていた。画像はイメージです[Photo by iStock]列の一番前には気の弱そうな白人男性がいた。局員が「ネクスト!」とその男性を呼んだのだが、彼は番号カードを持っていなかった。それを知った局員は「ノー、ネクスト!」と言った。私はこの光景を見て、変に厳しい局員だと思ったら、列の一番後ろの女性が「彼はちゃんと並んでいた。ずるはしていない!」と叫んだ。私は、これで問題が解決と思ったが、局員が「ダメだ!」と言った。局員の頑固さに驚いたが、「決まりなのだから仕方ない、彼は番号カードを取って一番後ろに並び直すしかないな」と、思った。その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
逆に中学校時代、一人の音楽教師の考えに怒りを覚えたことが鮮明に記憶に残っている。とても熱心な音楽教師がいて、リコーダー部を熱心に指導していた。西洋音楽に陶酔していることを子どもながら感じていたが、あるとき、ピアノを弾きながら、知的障がいを持つ生徒の真似をして、「君らは彼らと違うのだからこの音楽のすばらしさを分かるだろう」と発言した。私は当時、音楽に関心を持っていなかったが、音楽家としては立派でも人間として酷い人だと感じた。音楽の良さを理解できるか否かで人を評価し、知的障がいがある人は音楽を理解できないと決めつけていることに強烈な反感を覚えた。小山田氏もこうした勘違いを犯していたののだろうか。小山田氏の子ども時代の同級生に対する言葉や行為は異常だ。もしこのような行為が異常ではない教育現場が本当にあったとすれば、由々しき問題だ。そしてそれを1995年頃、25歳を過ぎても反省もせず、面白おかしく武勇伝のように語り、しかも、いじめをした同級生の家族からの当時の年賀状まで晒して、からかっている。しかも、雑誌の編集者が問題とも思わず、活字にして掲載する異常さは何なのだろうか。これも音楽界で生業を得る仲間内のノリだったのであろうか。 「市民社会」で求められる振る舞い昔、会社員が企業戦士と言われ、日本型の会社のあり方、働き方が批判されていたころ、ある辛口の経済評論家が、社員を「社畜」と表現し、日本人は学校を卒業すると「社会人」になるのではなく、「会社人」になるだけだと言っていたことがあり、なるほどと思った。これは、勤め人でなくても言えることで、職業人としては優秀でカネを稼げても、一部の業界の雰囲気や価値観にとらわれてしまう人は少なくない。より広い視野を持って「市民」としての責任を自覚し、「市民社会」を構成するメンバーとして行動できない人が少なくないことを示しているように思う。そこで私が「これこそが市民だ」と強烈に感じた経験を紹介したい。アメリカのカルフォルニア州バークレーの小さい郵便局に行った時の経験だ。日本も同じだが、番号カードを取って順番を待つ仕組みになっていた。それでも狭い郵便局だったので、客は一列に並んで順番を待っていた。画像はイメージです[Photo by iStock]列の一番前には気の弱そうな白人男性がいた。局員が「ネクスト!」とその男性を呼んだのだが、彼は番号カードを持っていなかった。それを知った局員は「ノー、ネクスト!」と言った。私はこの光景を見て、変に厳しい局員だと思ったら、列の一番後ろの女性が「彼はちゃんと並んでいた。ずるはしていない!」と叫んだ。私は、これで問題が解決と思ったが、局員が「ダメだ!」と言った。局員の頑固さに驚いたが、「決まりなのだから仕方ない、彼は番号カードを取って一番後ろに並び直すしかないな」と、思った。その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
私は当時、音楽に関心を持っていなかったが、音楽家としては立派でも人間として酷い人だと感じた。音楽の良さを理解できるか否かで人を評価し、知的障がいがある人は音楽を理解できないと決めつけていることに強烈な反感を覚えた。小山田氏もこうした勘違いを犯していたののだろうか。小山田氏の子ども時代の同級生に対する言葉や行為は異常だ。もしこのような行為が異常ではない教育現場が本当にあったとすれば、由々しき問題だ。そしてそれを1995年頃、25歳を過ぎても反省もせず、面白おかしく武勇伝のように語り、しかも、いじめをした同級生の家族からの当時の年賀状まで晒して、からかっている。しかも、雑誌の編集者が問題とも思わず、活字にして掲載する異常さは何なのだろうか。これも音楽界で生業を得る仲間内のノリだったのであろうか。 「市民社会」で求められる振る舞い昔、会社員が企業戦士と言われ、日本型の会社のあり方、働き方が批判されていたころ、ある辛口の経済評論家が、社員を「社畜」と表現し、日本人は学校を卒業すると「社会人」になるのではなく、「会社人」になるだけだと言っていたことがあり、なるほどと思った。これは、勤め人でなくても言えることで、職業人としては優秀でカネを稼げても、一部の業界の雰囲気や価値観にとらわれてしまう人は少なくない。より広い視野を持って「市民」としての責任を自覚し、「市民社会」を構成するメンバーとして行動できない人が少なくないことを示しているように思う。そこで私が「これこそが市民だ」と強烈に感じた経験を紹介したい。アメリカのカルフォルニア州バークレーの小さい郵便局に行った時の経験だ。日本も同じだが、番号カードを取って順番を待つ仕組みになっていた。それでも狭い郵便局だったので、客は一列に並んで順番を待っていた。画像はイメージです[Photo by iStock]列の一番前には気の弱そうな白人男性がいた。局員が「ネクスト!」とその男性を呼んだのだが、彼は番号カードを持っていなかった。それを知った局員は「ノー、ネクスト!」と言った。私はこの光景を見て、変に厳しい局員だと思ったら、列の一番後ろの女性が「彼はちゃんと並んでいた。ずるはしていない!」と叫んだ。私は、これで問題が解決と思ったが、局員が「ダメだ!」と言った。局員の頑固さに驚いたが、「決まりなのだから仕方ない、彼は番号カードを取って一番後ろに並び直すしかないな」と、思った。その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
小山田氏の子ども時代の同級生に対する言葉や行為は異常だ。もしこのような行為が異常ではない教育現場が本当にあったとすれば、由々しき問題だ。そしてそれを1995年頃、25歳を過ぎても反省もせず、面白おかしく武勇伝のように語り、しかも、いじめをした同級生の家族からの当時の年賀状まで晒して、からかっている。しかも、雑誌の編集者が問題とも思わず、活字にして掲載する異常さは何なのだろうか。これも音楽界で生業を得る仲間内のノリだったのであろうか。 「市民社会」で求められる振る舞い昔、会社員が企業戦士と言われ、日本型の会社のあり方、働き方が批判されていたころ、ある辛口の経済評論家が、社員を「社畜」と表現し、日本人は学校を卒業すると「社会人」になるのではなく、「会社人」になるだけだと言っていたことがあり、なるほどと思った。これは、勤め人でなくても言えることで、職業人としては優秀でカネを稼げても、一部の業界の雰囲気や価値観にとらわれてしまう人は少なくない。より広い視野を持って「市民」としての責任を自覚し、「市民社会」を構成するメンバーとして行動できない人が少なくないことを示しているように思う。そこで私が「これこそが市民だ」と強烈に感じた経験を紹介したい。アメリカのカルフォルニア州バークレーの小さい郵便局に行った時の経験だ。日本も同じだが、番号カードを取って順番を待つ仕組みになっていた。それでも狭い郵便局だったので、客は一列に並んで順番を待っていた。画像はイメージです[Photo by iStock]列の一番前には気の弱そうな白人男性がいた。局員が「ネクスト!」とその男性を呼んだのだが、彼は番号カードを持っていなかった。それを知った局員は「ノー、ネクスト!」と言った。私はこの光景を見て、変に厳しい局員だと思ったら、列の一番後ろの女性が「彼はちゃんと並んでいた。ずるはしていない!」と叫んだ。私は、これで問題が解決と思ったが、局員が「ダメだ!」と言った。局員の頑固さに驚いたが、「決まりなのだから仕方ない、彼は番号カードを取って一番後ろに並び直すしかないな」と、思った。その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
しかも、雑誌の編集者が問題とも思わず、活字にして掲載する異常さは何なのだろうか。これも音楽界で生業を得る仲間内のノリだったのであろうか。 「市民社会」で求められる振る舞い昔、会社員が企業戦士と言われ、日本型の会社のあり方、働き方が批判されていたころ、ある辛口の経済評論家が、社員を「社畜」と表現し、日本人は学校を卒業すると「社会人」になるのではなく、「会社人」になるだけだと言っていたことがあり、なるほどと思った。これは、勤め人でなくても言えることで、職業人としては優秀でカネを稼げても、一部の業界の雰囲気や価値観にとらわれてしまう人は少なくない。より広い視野を持って「市民」としての責任を自覚し、「市民社会」を構成するメンバーとして行動できない人が少なくないことを示しているように思う。そこで私が「これこそが市民だ」と強烈に感じた経験を紹介したい。アメリカのカルフォルニア州バークレーの小さい郵便局に行った時の経験だ。日本も同じだが、番号カードを取って順番を待つ仕組みになっていた。それでも狭い郵便局だったので、客は一列に並んで順番を待っていた。画像はイメージです[Photo by iStock]列の一番前には気の弱そうな白人男性がいた。局員が「ネクスト!」とその男性を呼んだのだが、彼は番号カードを持っていなかった。それを知った局員は「ノー、ネクスト!」と言った。私はこの光景を見て、変に厳しい局員だと思ったら、列の一番後ろの女性が「彼はちゃんと並んでいた。ずるはしていない!」と叫んだ。私は、これで問題が解決と思ったが、局員が「ダメだ!」と言った。局員の頑固さに驚いたが、「決まりなのだから仕方ない、彼は番号カードを取って一番後ろに並び直すしかないな」と、思った。その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
「市民社会」で求められる振る舞い昔、会社員が企業戦士と言われ、日本型の会社のあり方、働き方が批判されていたころ、ある辛口の経済評論家が、社員を「社畜」と表現し、日本人は学校を卒業すると「社会人」になるのではなく、「会社人」になるだけだと言っていたことがあり、なるほどと思った。これは、勤め人でなくても言えることで、職業人としては優秀でカネを稼げても、一部の業界の雰囲気や価値観にとらわれてしまう人は少なくない。より広い視野を持って「市民」としての責任を自覚し、「市民社会」を構成するメンバーとして行動できない人が少なくないことを示しているように思う。そこで私が「これこそが市民だ」と強烈に感じた経験を紹介したい。アメリカのカルフォルニア州バークレーの小さい郵便局に行った時の経験だ。日本も同じだが、番号カードを取って順番を待つ仕組みになっていた。それでも狭い郵便局だったので、客は一列に並んで順番を待っていた。画像はイメージです[Photo by iStock]列の一番前には気の弱そうな白人男性がいた。局員が「ネクスト!」とその男性を呼んだのだが、彼は番号カードを持っていなかった。それを知った局員は「ノー、ネクスト!」と言った。私はこの光景を見て、変に厳しい局員だと思ったら、列の一番後ろの女性が「彼はちゃんと並んでいた。ずるはしていない!」と叫んだ。私は、これで問題が解決と思ったが、局員が「ダメだ!」と言った。局員の頑固さに驚いたが、「決まりなのだから仕方ない、彼は番号カードを取って一番後ろに並び直すしかないな」と、思った。その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
昔、会社員が企業戦士と言われ、日本型の会社のあり方、働き方が批判されていたころ、ある辛口の経済評論家が、社員を「社畜」と表現し、日本人は学校を卒業すると「社会人」になるのではなく、「会社人」になるだけだと言っていたことがあり、なるほどと思った。これは、勤め人でなくても言えることで、職業人としては優秀でカネを稼げても、一部の業界の雰囲気や価値観にとらわれてしまう人は少なくない。より広い視野を持って「市民」としての責任を自覚し、「市民社会」を構成するメンバーとして行動できない人が少なくないことを示しているように思う。そこで私が「これこそが市民だ」と強烈に感じた経験を紹介したい。アメリカのカルフォルニア州バークレーの小さい郵便局に行った時の経験だ。日本も同じだが、番号カードを取って順番を待つ仕組みになっていた。それでも狭い郵便局だったので、客は一列に並んで順番を待っていた。画像はイメージです[Photo by iStock]列の一番前には気の弱そうな白人男性がいた。局員が「ネクスト!」とその男性を呼んだのだが、彼は番号カードを持っていなかった。それを知った局員は「ノー、ネクスト!」と言った。私はこの光景を見て、変に厳しい局員だと思ったら、列の一番後ろの女性が「彼はちゃんと並んでいた。ずるはしていない!」と叫んだ。私は、これで問題が解決と思ったが、局員が「ダメだ!」と言った。局員の頑固さに驚いたが、「決まりなのだから仕方ない、彼は番号カードを取って一番後ろに並び直すしかないな」と、思った。その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
これは、勤め人でなくても言えることで、職業人としては優秀でカネを稼げても、一部の業界の雰囲気や価値観にとらわれてしまう人は少なくない。より広い視野を持って「市民」としての責任を自覚し、「市民社会」を構成するメンバーとして行動できない人が少なくないことを示しているように思う。そこで私が「これこそが市民だ」と強烈に感じた経験を紹介したい。アメリカのカルフォルニア州バークレーの小さい郵便局に行った時の経験だ。日本も同じだが、番号カードを取って順番を待つ仕組みになっていた。それでも狭い郵便局だったので、客は一列に並んで順番を待っていた。画像はイメージです[Photo by iStock]列の一番前には気の弱そうな白人男性がいた。局員が「ネクスト!」とその男性を呼んだのだが、彼は番号カードを持っていなかった。それを知った局員は「ノー、ネクスト!」と言った。私はこの光景を見て、変に厳しい局員だと思ったら、列の一番後ろの女性が「彼はちゃんと並んでいた。ずるはしていない!」と叫んだ。私は、これで問題が解決と思ったが、局員が「ダメだ!」と言った。局員の頑固さに驚いたが、「決まりなのだから仕方ない、彼は番号カードを取って一番後ろに並び直すしかないな」と、思った。その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
そこで私が「これこそが市民だ」と強烈に感じた経験を紹介したい。アメリカのカルフォルニア州バークレーの小さい郵便局に行った時の経験だ。日本も同じだが、番号カードを取って順番を待つ仕組みになっていた。それでも狭い郵便局だったので、客は一列に並んで順番を待っていた。画像はイメージです[Photo by iStock]列の一番前には気の弱そうな白人男性がいた。局員が「ネクスト!」とその男性を呼んだのだが、彼は番号カードを持っていなかった。それを知った局員は「ノー、ネクスト!」と言った。私はこの光景を見て、変に厳しい局員だと思ったら、列の一番後ろの女性が「彼はちゃんと並んでいた。ずるはしていない!」と叫んだ。私は、これで問題が解決と思ったが、局員が「ダメだ!」と言った。局員の頑固さに驚いたが、「決まりなのだから仕方ない、彼は番号カードを取って一番後ろに並び直すしかないな」と、思った。その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
画像はイメージです[Photo by iStock]列の一番前には気の弱そうな白人男性がいた。局員が「ネクスト!」とその男性を呼んだのだが、彼は番号カードを持っていなかった。それを知った局員は「ノー、ネクスト!」と言った。私はこの光景を見て、変に厳しい局員だと思ったら、列の一番後ろの女性が「彼はちゃんと並んでいた。ずるはしていない!」と叫んだ。私は、これで問題が解決と思ったが、局員が「ダメだ!」と言った。局員の頑固さに驚いたが、「決まりなのだから仕方ない、彼は番号カードを取って一番後ろに並び直すしかないな」と、思った。その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
列の一番前には気の弱そうな白人男性がいた。局員が「ネクスト!」とその男性を呼んだのだが、彼は番号カードを持っていなかった。それを知った局員は「ノー、ネクスト!」と言った。私はこの光景を見て、変に厳しい局員だと思ったら、列の一番後ろの女性が「彼はちゃんと並んでいた。ずるはしていない!」と叫んだ。私は、これで問題が解決と思ったが、局員が「ダメだ!」と言った。局員の頑固さに驚いたが、「決まりなのだから仕方ない、彼は番号カードを取って一番後ろに並び直すしかないな」と、思った。その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
局員の頑固さに驚いたが、「決まりなのだから仕方ない、彼は番号カードを取って一番後ろに並び直すしかないな」と、思った。その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
その時、信じられない光景を見た。「それなら、後ろの人は彼に番号カードを渡して!」と誰かが叫び、列に並んでいる人が「そうだ、そうだ」と言って、リレー式に前の人に自分の番号カードを渡し、最後の人は改めて発券機からカードを取ったのだ。私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
私は鳥肌が立つようなインパクトを受けた。これこそ「市民」であり、そうした人たちで構成される「市民社会」をアメリカの田舎で見たのだ。後ろに並んでいる人にとっては、先頭の男性一人が並び直せば自分の順番が一つ繰り上がり、皆が「得」することになる。しかし内向きの視点で自分の利益を追求するのではなく、「順番を守る」という社会的な正義を選び実行したのだろう。番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
番号カードはただの印であり、そこにいる人たちでどうすれば正義が実現できるか考え、そのために協力する。これこそ市民社会であり、アメリカの底力を感じた。 今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
今こそ五輪の意味を問うべき日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
日本人は「決まりだから」、「今までそのようにやってきた」、「今さら変えられない」といったマインドが非常に強く、市民としてどう考え行動するかという訓練ができていないように思う。東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。
東京大会の基本コンセプトのひとつが、「多様性と調和」だ。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩」すると説明されている。そうした社会を作り出すのはひとりひとりの「市民」であることを日本人が身に染みて感じる五輪であって欲しい。