【私生活に干渉しすぎな職場を退職】眞子さまと小室圭さんの結婚報道に、露呈したこの国の「自己矛盾」 バッシングに「大義」はあるか

小室圭さんへご結婚、おめでとうございます。〈秋篠宮家の長女眞子さまが、婚約が内定している小室圭さんと年内に結婚する方向で調整していることが、関係者への取材でわかった。結婚式をはじめ、結婚に関する諸行事は行わない方針。眞子さまは日本で婚姻届を提出して皇籍離脱した後に米国へ移り、小室さんと同国を拠点に生活するという。通例では女性皇族が結婚する際、一般の結納にあたる「納采の儀」や天皇、皇后両陛下にあいさつする「朝見の儀」などの儀式を経て結婚式に臨む。これらの儀式は行わない予定で、現在の皇室の結婚様式が定まった戦後以降で初めての事例となる〉(朝日新聞「眞子さま、小室圭さんと年内結婚へ調整 儀式行わず米国拠点の方向」[2021年9月1日] より引用)

多くの障壁やトラブルを乗り越え、数々の誹謗中傷の嵐にもめげず、よくぞ愛を貫いた、と申し上げたい。Photo by iStock 世間からのネガティブなプライバシー暴露とバッシングが吹き荒れるなか、私はこの「現代ビジネス」誌上で小室氏をはっきりと擁護した。 私はその記事によって、左からも右からも非難されて軽く炎上したが、それもいまとなってはよい思い出だ。あれからもう2年以上が経った。これほどの逆風のなかでも潰えなかった二人の愛は、まぎれもなく本物だったのだ。いままでさんざんに「小室圭叩き」によって稼いだメディアは、実際のところ小室氏に取材料も謝礼もびた一文とて支払っていない。かれらがこれまで「小室圭速報」で荒稼ぎしたカネの1%でも小室氏に支払っていれば、「小室家の借金問題」など一瞬で解決し、むしろ大量のお釣りが来ていたことだろう。本メディアを運営する講談社をはじめとする大手出版各社は、さんざん小室氏の人生をオモチャにして稼がせてもらったのだ。禊ぎの意味も含めて盛大にご祝儀を出し、お二人のニューヨークへの旅立ちを祝福するべきだろう。「誹謗中傷」に関するダブルスタンダードこの数年間にわたる、小室氏と一連の出来事に対する世間の反応を、私は暗澹たる気分で眺めていた。というのも、彼や彼の家族に対する世間の言動は、それこそ「ダブスタ」「矛盾」「言行不一致」のオンパレードだったからだ。昨今、著名人の自死が相次いだことにより、インターネット上では「誹謗中傷はいけない」「なくすべきだ」「厳罰化するべきだ」などといった機運が盛り上がっている。だがそんな状況でも、ひとたび小室氏の最新の動向を伝えるニュースが流れれば、彼や彼の母親に対する罵詈雑言が噴出しない時はなかった。「詐欺師」「母子ともにそろってクズ」「怪しい商売をしている」などといった心無い声が多く向けられていた。 世間の多くの人は都合よく忘却しているようだが、彼は交際相手がたまたま皇族であっただけの「私人」である。私のように言論を生業にして世間にもの申す仕事をしている者でもなければ、なかば「公人」のごとき扱いを受けるタレントでも、ましてや政治家でもないので、これほどまでの誹謗中傷を甘受するべき道理などありえない。小室氏を「いくら誹謗中傷しても問題にならないサンドバッグ」にしてきた世間やメディアが、同じ口で「誹謗中傷は人を殺しかねないんだ! やめていかなければならないんだ!」などと連帯を示す光景には鼻白む思いであった。綺麗ごとを並べたてるかれらはみな、小室氏のメンタル・タフネスが並外れて強靭であることに甘えきっていたのではないか。「能力差別はいけないこと」また小室氏を「能力が低い」とか「収入が低い」「頭が悪い」などと嘲笑する向きもそうだ。小室氏はアメリカのロースクールに通い、そこで英語の論文を執筆している。私はその論文を実際に読んだが、内容的に拙劣であるとは感じなかった(そもそも専門誌の誌面に論文が掲載されること自体、並大抵のことではないのだが)。現在の小室氏をどう過小に評価しても「無能」でもなんでもないだろう。そもそも論として、かりに「無能」だったとして、それがなんだというのか。たしかに最初の報道がなされた当時には、某メガバンクを早期退職したばかりで、まだ社会人としての経験が浅かったことは否めない。そのため、過去に皇族の女性を妻として迎えてきた人々に比べれば多少は「見劣り」する部分があったかもしれない。だが人間は成長するものだ。この期に及んでなお小室氏の能力を云々することには、さすがに正当性を感じない。 つい先日、メンタリストDaiGoの「ホームレス者・生活保護受給者差別」に、「能力主義的な差別」だとか「優生思想」だとか声を挙げてあれほど糾弾しておきながら 、小室氏に対しては能力主義丸出しのコメントを向ける人びとが大量にいる。小室氏に向けられるこうした能力差別をもとにした侮蔑的な論調には、世間一般の人びとだけでなく一部の知識人や文化人もカジュアルに便乗していた。これを批判してこなかったような人びとに、メンタリストDaiGo氏や彼の言説に対する「正義の怒り」を向ける資格など本来はないだろう。三笠宮さまの意見書まだ書いておくべきことはある。「眞子さまは、こんな身元の怪しい/危うい奴と結婚するべきではない」といった声も、平時の世間の論調とはまったく逆行するものだ。ましてや「親の素性が怪しい者はダメだ」「母子家庭の者はダメだ」などといった言動は、まぎれもない差別であり言語道断だ。つねづね自由恋愛を称賛し、婚姻に関する親からの支配的な口出しを疎んじて「当人同士が決めて幸せならそれでよいのだ!」と突き返す個人主義的な自由恋愛の風潮を礼賛しておきながら、いざ小室氏のことになれば手のひらを反して、氏の母親の「素行不良」を持ち出し、結婚相手に相応しくないなどと言い出す。これをダブルスタンダードと言わずしてなんであるか。 「自由恋愛や結婚に親は介入する権利はない。当人同士の自己決定権の問題だ。法律にもそう記述されている」とか「加害者の家族や親類はその行為とは無関係なのだから、連帯責任のようなムラ的な差別は許されない」などと威勢の良かった人びとはいったいどこにいったのか。いまこそ出番ではないか。「市民社会が個人主義に基づく自由恋愛を肯定していたとしても、それは一般市民の話であって皇族は別だ」とするよくある反論があるが、これについては故・三笠宮さまの意見書がすべてだろう。自由主義・民主主義・人権思想が肯定される現代日本において皇族にだけ、市民社会に当然に付与されているような権利や尊厳が与えられないのは、それこそ皇族に対する人権侵害なのである――と。〈私は皇族の婚姻を皇室会議にかける案には抗議を申込む。勅許も削除したい。新民法(案)では婚姻に親の同意さへ必要としなくなつた。当然皇族も同様に取扱はるべきである。皇族だけこの自由を認めないのは皇族の人格に対する侮辱である。(中略)愛といふものは絶対に第三者には理解出来ないし、又理論でも片付けられないものである。婚姻が不成立の場合でもその原因が当事者のどちらか一方の反対による時には仮令片方の愛が強くても「愛する相手の自由意志を尊重することこそ、即ち相手を最も愛することだ」といつたあきらめも出来るが、それが第三者の而も会議といふ甚だ冷い無情な方法で否決されたら決して承知出来るものではなく、寧(むし)ろ反抗心を燃え立たすばかりで、下手をすると其の本人の一生をあやまらせる原因となるかもしれない。さういふと「でも其の婚姻の相手が皇族たるにふさはしくない者だつたら困る」といふ人が出てくるであらうが私はそれはその皇族に対する小さい時からの性問題に関する教育なり指導なりが悪かつた最後の結果で、そこ迄に立至つてから結婚して悪いの何のと言ふのは既に手遅れであることを強調したい〉(日本経済新聞「三笠宮さまの意見書全文」[2016年11月3日]より引用、※太字は御田寺による) 基本的人権や自由主義を全否定する真正の保守主義者や尊王論者ならば、小室氏と眞子さまの交際や結婚について批判する筋合いもあるだろう。だが、平時においては個々人の自由や人権を擁護するリベラリズムを支持しておきながら、小室氏と眞子さまの私的選択の自由を尊王論者よろしくバッシングしていた者たちは、自分の言行不一致を反省してもらいたい。ネットの有象無象にかぎらず、テレビの知識人やコメンテーターでも文化人やオピニオンリーダーでも、そうした者は大勢いた。恥を知るべきだろう。ある人間のパートナーシップが親の意志によって支配されることを否定する「自由恋愛社会」を支持しているのであれば、小室圭氏と眞子さまの結婚もその社会で生じる当然の帰結のひとつである。これを批判するのは「女性をパートナーに迎える男は、女性以上にすぐれた男でなければならない」という規範意識の表れである。 「彼は例外」と言えるのか、言っていいのかこの3年近くに及ぶ一連の騒動は、普段は自由で個人主義的な風潮を支持しているはずの社会や人びと(一般市民だけでなく知識人や有識者含む)が、とたんに旧弊な「ムラ」の理屈を突きつけて小室氏にバッシングを展開した挙句、眞子さまと小室氏を実質的に日本で暮らせなくするという結末に終わったのだ。小室氏に向けられていた「ダブスタ」「矛盾」「言行不一致」の嵐は、たまたまそのターゲットが彼だったから向けられていたわけではないと、私は予感していた。むしろ、これらこそが日本の市民社会に広く浸透している本音であり、今後なにか別のトリガーがあれば、他のさまざまな人物や事物に、彼が向けられたのと同じ言動やまなざしが向けられることになるだろう――と、当時から考えていた。――その予感は現在、完全に的中していたと言わざるを得ないだろう。世間の人びとは、口先では自由の大切さを語って見せるが、いざ自分の気に入らない人間の自由、あるいは気に入らないタイプの自由の行使の仕方を見かけたら、直前までの態度をあっさりと放棄して、まるで憲兵にでもなったつもりで「お前には自由は相応しくない」と詰め寄り、あるいは「このような自由の行使をゆるしてもよいのか」と政治権力に告発する。社会的生命を絶って「キャンセル」するべくあらゆる手を尽くす。 「社会的に望ましい者だけが、自由を付与されるべきだ」と自由主義者が平然と語る。「悪人にはわれわれ善良な市民と等しい人権や尊厳を与えるべきではない。即刻社会から追い出すべきだ」と人権活動家が声をあげる。「罪刑法定主義など男性優位社会の象徴なのだから潰してしまえ」と法律家が開陳する。「心無い誹謗中傷は人を追いつめるが、こんなクズは死んで当然だ、徹底的に追い込め」とインターネットで自警団が跳梁跋扈する。――そんな時代にわれわれは生きている。小室氏が味わってきた3年間は、いま私たちの暮らす社会を覆いつくす暗雲の小さな予告編に過ぎなかった。小室氏はこの国を離れて当然だろう。私は小室氏と眞子さまの旅立ちを心から祝福したい。「自由」の国アメリカで、どうか幸せな家庭を築いてほしい。本記事と以前の小室氏をテーマにした記事でいただいた原稿料を、それぞれ小室氏にご祝儀としてお渡ししたい。冗談ではなく、本気で言っているので、小室氏からのご連絡をお待ちしております。
ご結婚、おめでとうございます。
〈秋篠宮家の長女眞子さまが、婚約が内定している小室圭さんと年内に結婚する方向で調整していることが、関係者への取材でわかった。結婚式をはじめ、結婚に関する諸行事は行わない方針。眞子さまは日本で婚姻届を提出して皇籍離脱した後に米国へ移り、小室さんと同国を拠点に生活するという。
通例では女性皇族が結婚する際、一般の結納にあたる「納采の儀」や天皇、皇后両陛下にあいさつする「朝見の儀」などの儀式を経て結婚式に臨む。これらの儀式は行わない予定で、現在の皇室の結婚様式が定まった戦後以降で初めての事例となる〉(朝日新聞「眞子さま、小室圭さんと年内結婚へ調整 儀式行わず米国拠点の方向」[2021年9月1日] より引用)
多くの障壁やトラブルを乗り越え、数々の誹謗中傷の嵐にもめげず、よくぞ愛を貫いた、と申し上げたい。
Photo by iStock

世間からのネガティブなプライバシー暴露とバッシングが吹き荒れるなか、私はこの「現代ビジネス」誌上で小室氏をはっきりと擁護した。 私はその記事によって、左からも右からも非難されて軽く炎上したが、それもいまとなってはよい思い出だ。あれからもう2年以上が経った。これほどの逆風のなかでも潰えなかった二人の愛は、まぎれもなく本物だったのだ。
いままでさんざんに「小室圭叩き」によって稼いだメディアは、実際のところ小室氏に取材料も謝礼もびた一文とて支払っていない。かれらがこれまで「小室圭速報」で荒稼ぎしたカネの1%でも小室氏に支払っていれば、「小室家の借金問題」など一瞬で解決し、むしろ大量のお釣りが来ていたことだろう。本メディアを運営する講談社をはじめとする大手出版各社は、さんざん小室氏の人生をオモチャにして稼がせてもらったのだ。禊ぎの意味も含めて盛大にご祝儀を出し、お二人のニューヨークへの旅立ちを祝福するべきだろう。「誹謗中傷」に関するダブルスタンダードこの数年間にわたる、小室氏と一連の出来事に対する世間の反応を、私は暗澹たる気分で眺めていた。というのも、彼や彼の家族に対する世間の言動は、それこそ「ダブスタ」「矛盾」「言行不一致」のオンパレードだったからだ。昨今、著名人の自死が相次いだことにより、インターネット上では「誹謗中傷はいけない」「なくすべきだ」「厳罰化するべきだ」などといった機運が盛り上がっている。だがそんな状況でも、ひとたび小室氏の最新の動向を伝えるニュースが流れれば、彼や彼の母親に対する罵詈雑言が噴出しない時はなかった。「詐欺師」「母子ともにそろってクズ」「怪しい商売をしている」などといった心無い声が多く向けられていた。 世間の多くの人は都合よく忘却しているようだが、彼は交際相手がたまたま皇族であっただけの「私人」である。私のように言論を生業にして世間にもの申す仕事をしている者でもなければ、なかば「公人」のごとき扱いを受けるタレントでも、ましてや政治家でもないので、これほどまでの誹謗中傷を甘受するべき道理などありえない。小室氏を「いくら誹謗中傷しても問題にならないサンドバッグ」にしてきた世間やメディアが、同じ口で「誹謗中傷は人を殺しかねないんだ! やめていかなければならないんだ!」などと連帯を示す光景には鼻白む思いであった。綺麗ごとを並べたてるかれらはみな、小室氏のメンタル・タフネスが並外れて強靭であることに甘えきっていたのではないか。「能力差別はいけないこと」また小室氏を「能力が低い」とか「収入が低い」「頭が悪い」などと嘲笑する向きもそうだ。小室氏はアメリカのロースクールに通い、そこで英語の論文を執筆している。私はその論文を実際に読んだが、内容的に拙劣であるとは感じなかった(そもそも専門誌の誌面に論文が掲載されること自体、並大抵のことではないのだが)。現在の小室氏をどう過小に評価しても「無能」でもなんでもないだろう。そもそも論として、かりに「無能」だったとして、それがなんだというのか。たしかに最初の報道がなされた当時には、某メガバンクを早期退職したばかりで、まだ社会人としての経験が浅かったことは否めない。そのため、過去に皇族の女性を妻として迎えてきた人々に比べれば多少は「見劣り」する部分があったかもしれない。だが人間は成長するものだ。この期に及んでなお小室氏の能力を云々することには、さすがに正当性を感じない。 つい先日、メンタリストDaiGoの「ホームレス者・生活保護受給者差別」に、「能力主義的な差別」だとか「優生思想」だとか声を挙げてあれほど糾弾しておきながら 、小室氏に対しては能力主義丸出しのコメントを向ける人びとが大量にいる。小室氏に向けられるこうした能力差別をもとにした侮蔑的な論調には、世間一般の人びとだけでなく一部の知識人や文化人もカジュアルに便乗していた。これを批判してこなかったような人びとに、メンタリストDaiGo氏や彼の言説に対する「正義の怒り」を向ける資格など本来はないだろう。三笠宮さまの意見書まだ書いておくべきことはある。「眞子さまは、こんな身元の怪しい/危うい奴と結婚するべきではない」といった声も、平時の世間の論調とはまったく逆行するものだ。ましてや「親の素性が怪しい者はダメだ」「母子家庭の者はダメだ」などといった言動は、まぎれもない差別であり言語道断だ。つねづね自由恋愛を称賛し、婚姻に関する親からの支配的な口出しを疎んじて「当人同士が決めて幸せならそれでよいのだ!」と突き返す個人主義的な自由恋愛の風潮を礼賛しておきながら、いざ小室氏のことになれば手のひらを反して、氏の母親の「素行不良」を持ち出し、結婚相手に相応しくないなどと言い出す。これをダブルスタンダードと言わずしてなんであるか。 「自由恋愛や結婚に親は介入する権利はない。当人同士の自己決定権の問題だ。法律にもそう記述されている」とか「加害者の家族や親類はその行為とは無関係なのだから、連帯責任のようなムラ的な差別は許されない」などと威勢の良かった人びとはいったいどこにいったのか。いまこそ出番ではないか。「市民社会が個人主義に基づく自由恋愛を肯定していたとしても、それは一般市民の話であって皇族は別だ」とするよくある反論があるが、これについては故・三笠宮さまの意見書がすべてだろう。自由主義・民主主義・人権思想が肯定される現代日本において皇族にだけ、市民社会に当然に付与されているような権利や尊厳が与えられないのは、それこそ皇族に対する人権侵害なのである――と。〈私は皇族の婚姻を皇室会議にかける案には抗議を申込む。勅許も削除したい。新民法(案)では婚姻に親の同意さへ必要としなくなつた。当然皇族も同様に取扱はるべきである。皇族だけこの自由を認めないのは皇族の人格に対する侮辱である。(中略)愛といふものは絶対に第三者には理解出来ないし、又理論でも片付けられないものである。婚姻が不成立の場合でもその原因が当事者のどちらか一方の反対による時には仮令片方の愛が強くても「愛する相手の自由意志を尊重することこそ、即ち相手を最も愛することだ」といつたあきらめも出来るが、それが第三者の而も会議といふ甚だ冷い無情な方法で否決されたら決して承知出来るものではなく、寧(むし)ろ反抗心を燃え立たすばかりで、下手をすると其の本人の一生をあやまらせる原因となるかもしれない。さういふと「でも其の婚姻の相手が皇族たるにふさはしくない者だつたら困る」といふ人が出てくるであらうが私はそれはその皇族に対する小さい時からの性問題に関する教育なり指導なりが悪かつた最後の結果で、そこ迄に立至つてから結婚して悪いの何のと言ふのは既に手遅れであることを強調したい〉(日本経済新聞「三笠宮さまの意見書全文」[2016年11月3日]より引用、※太字は御田寺による) 基本的人権や自由主義を全否定する真正の保守主義者や尊王論者ならば、小室氏と眞子さまの交際や結婚について批判する筋合いもあるだろう。だが、平時においては個々人の自由や人権を擁護するリベラリズムを支持しておきながら、小室氏と眞子さまの私的選択の自由を尊王論者よろしくバッシングしていた者たちは、自分の言行不一致を反省してもらいたい。ネットの有象無象にかぎらず、テレビの知識人やコメンテーターでも文化人やオピニオンリーダーでも、そうした者は大勢いた。恥を知るべきだろう。ある人間のパートナーシップが親の意志によって支配されることを否定する「自由恋愛社会」を支持しているのであれば、小室圭氏と眞子さまの結婚もその社会で生じる当然の帰結のひとつである。これを批判するのは「女性をパートナーに迎える男は、女性以上にすぐれた男でなければならない」という規範意識の表れである。 「彼は例外」と言えるのか、言っていいのかこの3年近くに及ぶ一連の騒動は、普段は自由で個人主義的な風潮を支持しているはずの社会や人びと(一般市民だけでなく知識人や有識者含む)が、とたんに旧弊な「ムラ」の理屈を突きつけて小室氏にバッシングを展開した挙句、眞子さまと小室氏を実質的に日本で暮らせなくするという結末に終わったのだ。小室氏に向けられていた「ダブスタ」「矛盾」「言行不一致」の嵐は、たまたまそのターゲットが彼だったから向けられていたわけではないと、私は予感していた。むしろ、これらこそが日本の市民社会に広く浸透している本音であり、今後なにか別のトリガーがあれば、他のさまざまな人物や事物に、彼が向けられたのと同じ言動やまなざしが向けられることになるだろう――と、当時から考えていた。――その予感は現在、完全に的中していたと言わざるを得ないだろう。世間の人びとは、口先では自由の大切さを語って見せるが、いざ自分の気に入らない人間の自由、あるいは気に入らないタイプの自由の行使の仕方を見かけたら、直前までの態度をあっさりと放棄して、まるで憲兵にでもなったつもりで「お前には自由は相応しくない」と詰め寄り、あるいは「このような自由の行使をゆるしてもよいのか」と政治権力に告発する。社会的生命を絶って「キャンセル」するべくあらゆる手を尽くす。 「社会的に望ましい者だけが、自由を付与されるべきだ」と自由主義者が平然と語る。「悪人にはわれわれ善良な市民と等しい人権や尊厳を与えるべきではない。即刻社会から追い出すべきだ」と人権活動家が声をあげる。「罪刑法定主義など男性優位社会の象徴なのだから潰してしまえ」と法律家が開陳する。「心無い誹謗中傷は人を追いつめるが、こんなクズは死んで当然だ、徹底的に追い込め」とインターネットで自警団が跳梁跋扈する。――そんな時代にわれわれは生きている。小室氏が味わってきた3年間は、いま私たちの暮らす社会を覆いつくす暗雲の小さな予告編に過ぎなかった。小室氏はこの国を離れて当然だろう。私は小室氏と眞子さまの旅立ちを心から祝福したい。「自由」の国アメリカで、どうか幸せな家庭を築いてほしい。本記事と以前の小室氏をテーマにした記事でいただいた原稿料を、それぞれ小室氏にご祝儀としてお渡ししたい。冗談ではなく、本気で言っているので、小室氏からのご連絡をお待ちしております。
この数年間にわたる、小室氏と一連の出来事に対する世間の反応を、私は暗澹たる気分で眺めていた。というのも、彼や彼の家族に対する世間の言動は、それこそ「ダブスタ」「矛盾」「言行不一致」のオンパレードだったからだ。昨今、著名人の自死が相次いだことにより、インターネット上では「誹謗中傷はいけない」「なくすべきだ」「厳罰化するべきだ」などといった機運が盛り上がっている。だがそんな状況でも、ひとたび小室氏の最新の動向を伝えるニュースが流れれば、彼や彼の母親に対する罵詈雑言が噴出しない時はなかった。「詐欺師」「母子ともにそろってクズ」「怪しい商売をしている」などといった心無い声が多く向けられていた。 世間の多くの人は都合よく忘却しているようだが、彼は交際相手がたまたま皇族であっただけの「私人」である。私のように言論を生業にして世間にもの申す仕事をしている者でもなければ、なかば「公人」のごとき扱いを受けるタレントでも、ましてや政治家でもないので、これほどまでの誹謗中傷を甘受するべき道理などありえない。小室氏を「いくら誹謗中傷しても問題にならないサンドバッグ」にしてきた世間やメディアが、同じ口で「誹謗中傷は人を殺しかねないんだ! やめていかなければならないんだ!」などと連帯を示す光景には鼻白む思いであった。綺麗ごとを並べたてるかれらはみな、小室氏のメンタル・タフネスが並外れて強靭であることに甘えきっていたのではないか。「能力差別はいけないこと」また小室氏を「能力が低い」とか「収入が低い」「頭が悪い」などと嘲笑する向きもそうだ。小室氏はアメリカのロースクールに通い、そこで英語の論文を執筆している。私はその論文を実際に読んだが、内容的に拙劣であるとは感じなかった(そもそも専門誌の誌面に論文が掲載されること自体、並大抵のことではないのだが)。現在の小室氏をどう過小に評価しても「無能」でもなんでもないだろう。そもそも論として、かりに「無能」だったとして、それがなんだというのか。たしかに最初の報道がなされた当時には、某メガバンクを早期退職したばかりで、まだ社会人としての経験が浅かったことは否めない。そのため、過去に皇族の女性を妻として迎えてきた人々に比べれば多少は「見劣り」する部分があったかもしれない。だが人間は成長するものだ。この期に及んでなお小室氏の能力を云々することには、さすがに正当性を感じない。 つい先日、メンタリストDaiGoの「ホームレス者・生活保護受給者差別」に、「能力主義的な差別」だとか「優生思想」だとか声を挙げてあれほど糾弾しておきながら 、小室氏に対しては能力主義丸出しのコメントを向ける人びとが大量にいる。小室氏に向けられるこうした能力差別をもとにした侮蔑的な論調には、世間一般の人びとだけでなく一部の知識人や文化人もカジュアルに便乗していた。これを批判してこなかったような人びとに、メンタリストDaiGo氏や彼の言説に対する「正義の怒り」を向ける資格など本来はないだろう。三笠宮さまの意見書まだ書いておくべきことはある。「眞子さまは、こんな身元の怪しい/危うい奴と結婚するべきではない」といった声も、平時の世間の論調とはまったく逆行するものだ。ましてや「親の素性が怪しい者はダメだ」「母子家庭の者はダメだ」などといった言動は、まぎれもない差別であり言語道断だ。つねづね自由恋愛を称賛し、婚姻に関する親からの支配的な口出しを疎んじて「当人同士が決めて幸せならそれでよいのだ!」と突き返す個人主義的な自由恋愛の風潮を礼賛しておきながら、いざ小室氏のことになれば手のひらを反して、氏の母親の「素行不良」を持ち出し、結婚相手に相応しくないなどと言い出す。これをダブルスタンダードと言わずしてなんであるか。 「自由恋愛や結婚に親は介入する権利はない。当人同士の自己決定権の問題だ。法律にもそう記述されている」とか「加害者の家族や親類はその行為とは無関係なのだから、連帯責任のようなムラ的な差別は許されない」などと威勢の良かった人びとはいったいどこにいったのか。いまこそ出番ではないか。「市民社会が個人主義に基づく自由恋愛を肯定していたとしても、それは一般市民の話であって皇族は別だ」とするよくある反論があるが、これについては故・三笠宮さまの意見書がすべてだろう。自由主義・民主主義・人権思想が肯定される現代日本において皇族にだけ、市民社会に当然に付与されているような権利や尊厳が与えられないのは、それこそ皇族に対する人権侵害なのである――と。〈私は皇族の婚姻を皇室会議にかける案には抗議を申込む。勅許も削除したい。新民法(案)では婚姻に親の同意さへ必要としなくなつた。当然皇族も同様に取扱はるべきである。皇族だけこの自由を認めないのは皇族の人格に対する侮辱である。(中略)愛といふものは絶対に第三者には理解出来ないし、又理論でも片付けられないものである。婚姻が不成立の場合でもその原因が当事者のどちらか一方の反対による時には仮令片方の愛が強くても「愛する相手の自由意志を尊重することこそ、即ち相手を最も愛することだ」といつたあきらめも出来るが、それが第三者の而も会議といふ甚だ冷い無情な方法で否決されたら決して承知出来るものではなく、寧(むし)ろ反抗心を燃え立たすばかりで、下手をすると其の本人の一生をあやまらせる原因となるかもしれない。さういふと「でも其の婚姻の相手が皇族たるにふさはしくない者だつたら困る」といふ人が出てくるであらうが私はそれはその皇族に対する小さい時からの性問題に関する教育なり指導なりが悪かつた最後の結果で、そこ迄に立至つてから結婚して悪いの何のと言ふのは既に手遅れであることを強調したい〉(日本経済新聞「三笠宮さまの意見書全文」[2016年11月3日]より引用、※太字は御田寺による) 基本的人権や自由主義を全否定する真正の保守主義者や尊王論者ならば、小室氏と眞子さまの交際や結婚について批判する筋合いもあるだろう。だが、平時においては個々人の自由や人権を擁護するリベラリズムを支持しておきながら、小室氏と眞子さまの私的選択の自由を尊王論者よろしくバッシングしていた者たちは、自分の言行不一致を反省してもらいたい。ネットの有象無象にかぎらず、テレビの知識人やコメンテーターでも文化人やオピニオンリーダーでも、そうした者は大勢いた。恥を知るべきだろう。ある人間のパートナーシップが親の意志によって支配されることを否定する「自由恋愛社会」を支持しているのであれば、小室圭氏と眞子さまの結婚もその社会で生じる当然の帰結のひとつである。これを批判するのは「女性をパートナーに迎える男は、女性以上にすぐれた男でなければならない」という規範意識の表れである。 「彼は例外」と言えるのか、言っていいのかこの3年近くに及ぶ一連の騒動は、普段は自由で個人主義的な風潮を支持しているはずの社会や人びと(一般市民だけでなく知識人や有識者含む)が、とたんに旧弊な「ムラ」の理屈を突きつけて小室氏にバッシングを展開した挙句、眞子さまと小室氏を実質的に日本で暮らせなくするという結末に終わったのだ。小室氏に向けられていた「ダブスタ」「矛盾」「言行不一致」の嵐は、たまたまそのターゲットが彼だったから向けられていたわけではないと、私は予感していた。むしろ、これらこそが日本の市民社会に広く浸透している本音であり、今後なにか別のトリガーがあれば、他のさまざまな人物や事物に、彼が向けられたのと同じ言動やまなざしが向けられることになるだろう――と、当時から考えていた。――その予感は現在、完全に的中していたと言わざるを得ないだろう。世間の人びとは、口先では自由の大切さを語って見せるが、いざ自分の気に入らない人間の自由、あるいは気に入らないタイプの自由の行使の仕方を見かけたら、直前までの態度をあっさりと放棄して、まるで憲兵にでもなったつもりで「お前には自由は相応しくない」と詰め寄り、あるいは「このような自由の行使をゆるしてもよいのか」と政治権力に告発する。社会的生命を絶って「キャンセル」するべくあらゆる手を尽くす。 「社会的に望ましい者だけが、自由を付与されるべきだ」と自由主義者が平然と語る。「悪人にはわれわれ善良な市民と等しい人権や尊厳を与えるべきではない。即刻社会から追い出すべきだ」と人権活動家が声をあげる。「罪刑法定主義など男性優位社会の象徴なのだから潰してしまえ」と法律家が開陳する。「心無い誹謗中傷は人を追いつめるが、こんなクズは死んで当然だ、徹底的に追い込め」とインターネットで自警団が跳梁跋扈する。――そんな時代にわれわれは生きている。小室氏が味わってきた3年間は、いま私たちの暮らす社会を覆いつくす暗雲の小さな予告編に過ぎなかった。小室氏はこの国を離れて当然だろう。私は小室氏と眞子さまの旅立ちを心から祝福したい。「自由」の国アメリカで、どうか幸せな家庭を築いてほしい。本記事と以前の小室氏をテーマにした記事でいただいた原稿料を、それぞれ小室氏にご祝儀としてお渡ししたい。冗談ではなく、本気で言っているので、小室氏からのご連絡をお待ちしております。
昨今、著名人の自死が相次いだことにより、インターネット上では「誹謗中傷はいけない」「なくすべきだ」「厳罰化するべきだ」などといった機運が盛り上がっている。だがそんな状況でも、ひとたび小室氏の最新の動向を伝えるニュースが流れれば、彼や彼の母親に対する罵詈雑言が噴出しない時はなかった。「詐欺師」「母子ともにそろってクズ」「怪しい商売をしている」などといった心無い声が多く向けられていた。 世間の多くの人は都合よく忘却しているようだが、彼は交際相手がたまたま皇族であっただけの「私人」である。私のように言論を生業にして世間にもの申す仕事をしている者でもなければ、なかば「公人」のごとき扱いを受けるタレントでも、ましてや政治家でもないので、これほどまでの誹謗中傷を甘受するべき道理などありえない。小室氏を「いくら誹謗中傷しても問題にならないサンドバッグ」にしてきた世間やメディアが、同じ口で「誹謗中傷は人を殺しかねないんだ! やめていかなければならないんだ!」などと連帯を示す光景には鼻白む思いであった。綺麗ごとを並べたてるかれらはみな、小室氏のメンタル・タフネスが並外れて強靭であることに甘えきっていたのではないか。「能力差別はいけないこと」また小室氏を「能力が低い」とか「収入が低い」「頭が悪い」などと嘲笑する向きもそうだ。小室氏はアメリカのロースクールに通い、そこで英語の論文を執筆している。私はその論文を実際に読んだが、内容的に拙劣であるとは感じなかった(そもそも専門誌の誌面に論文が掲載されること自体、並大抵のことではないのだが)。現在の小室氏をどう過小に評価しても「無能」でもなんでもないだろう。そもそも論として、かりに「無能」だったとして、それがなんだというのか。たしかに最初の報道がなされた当時には、某メガバンクを早期退職したばかりで、まだ社会人としての経験が浅かったことは否めない。そのため、過去に皇族の女性を妻として迎えてきた人々に比べれば多少は「見劣り」する部分があったかもしれない。だが人間は成長するものだ。この期に及んでなお小室氏の能力を云々することには、さすがに正当性を感じない。 つい先日、メンタリストDaiGoの「ホームレス者・生活保護受給者差別」に、「能力主義的な差別」だとか「優生思想」だとか声を挙げてあれほど糾弾しておきながら 、小室氏に対しては能力主義丸出しのコメントを向ける人びとが大量にいる。小室氏に向けられるこうした能力差別をもとにした侮蔑的な論調には、世間一般の人びとだけでなく一部の知識人や文化人もカジュアルに便乗していた。これを批判してこなかったような人びとに、メンタリストDaiGo氏や彼の言説に対する「正義の怒り」を向ける資格など本来はないだろう。三笠宮さまの意見書まだ書いておくべきことはある。「眞子さまは、こんな身元の怪しい/危うい奴と結婚するべきではない」といった声も、平時の世間の論調とはまったく逆行するものだ。ましてや「親の素性が怪しい者はダメだ」「母子家庭の者はダメだ」などといった言動は、まぎれもない差別であり言語道断だ。つねづね自由恋愛を称賛し、婚姻に関する親からの支配的な口出しを疎んじて「当人同士が決めて幸せならそれでよいのだ!」と突き返す個人主義的な自由恋愛の風潮を礼賛しておきながら、いざ小室氏のことになれば手のひらを反して、氏の母親の「素行不良」を持ち出し、結婚相手に相応しくないなどと言い出す。これをダブルスタンダードと言わずしてなんであるか。 「自由恋愛や結婚に親は介入する権利はない。当人同士の自己決定権の問題だ。法律にもそう記述されている」とか「加害者の家族や親類はその行為とは無関係なのだから、連帯責任のようなムラ的な差別は許されない」などと威勢の良かった人びとはいったいどこにいったのか。いまこそ出番ではないか。「市民社会が個人主義に基づく自由恋愛を肯定していたとしても、それは一般市民の話であって皇族は別だ」とするよくある反論があるが、これについては故・三笠宮さまの意見書がすべてだろう。自由主義・民主主義・人権思想が肯定される現代日本において皇族にだけ、市民社会に当然に付与されているような権利や尊厳が与えられないのは、それこそ皇族に対する人権侵害なのである――と。〈私は皇族の婚姻を皇室会議にかける案には抗議を申込む。勅許も削除したい。新民法(案)では婚姻に親の同意さへ必要としなくなつた。当然皇族も同様に取扱はるべきである。皇族だけこの自由を認めないのは皇族の人格に対する侮辱である。(中略)愛といふものは絶対に第三者には理解出来ないし、又理論でも片付けられないものである。婚姻が不成立の場合でもその原因が当事者のどちらか一方の反対による時には仮令片方の愛が強くても「愛する相手の自由意志を尊重することこそ、即ち相手を最も愛することだ」といつたあきらめも出来るが、それが第三者の而も会議といふ甚だ冷い無情な方法で否決されたら決して承知出来るものではなく、寧(むし)ろ反抗心を燃え立たすばかりで、下手をすると其の本人の一生をあやまらせる原因となるかもしれない。さういふと「でも其の婚姻の相手が皇族たるにふさはしくない者だつたら困る」といふ人が出てくるであらうが私はそれはその皇族に対する小さい時からの性問題に関する教育なり指導なりが悪かつた最後の結果で、そこ迄に立至つてから結婚して悪いの何のと言ふのは既に手遅れであることを強調したい〉(日本経済新聞「三笠宮さまの意見書全文」[2016年11月3日]より引用、※太字は御田寺による) 基本的人権や自由主義を全否定する真正の保守主義者や尊王論者ならば、小室氏と眞子さまの交際や結婚について批判する筋合いもあるだろう。だが、平時においては個々人の自由や人権を擁護するリベラリズムを支持しておきながら、小室氏と眞子さまの私的選択の自由を尊王論者よろしくバッシングしていた者たちは、自分の言行不一致を反省してもらいたい。ネットの有象無象にかぎらず、テレビの知識人やコメンテーターでも文化人やオピニオンリーダーでも、そうした者は大勢いた。恥を知るべきだろう。ある人間のパートナーシップが親の意志によって支配されることを否定する「自由恋愛社会」を支持しているのであれば、小室圭氏と眞子さまの結婚もその社会で生じる当然の帰結のひとつである。これを批判するのは「女性をパートナーに迎える男は、女性以上にすぐれた男でなければならない」という規範意識の表れである。 「彼は例外」と言えるのか、言っていいのかこの3年近くに及ぶ一連の騒動は、普段は自由で個人主義的な風潮を支持しているはずの社会や人びと(一般市民だけでなく知識人や有識者含む)が、とたんに旧弊な「ムラ」の理屈を突きつけて小室氏にバッシングを展開した挙句、眞子さまと小室氏を実質的に日本で暮らせなくするという結末に終わったのだ。小室氏に向けられていた「ダブスタ」「矛盾」「言行不一致」の嵐は、たまたまそのターゲットが彼だったから向けられていたわけではないと、私は予感していた。むしろ、これらこそが日本の市民社会に広く浸透している本音であり、今後なにか別のトリガーがあれば、他のさまざまな人物や事物に、彼が向けられたのと同じ言動やまなざしが向けられることになるだろう――と、当時から考えていた。――その予感は現在、完全に的中していたと言わざるを得ないだろう。世間の人びとは、口先では自由の大切さを語って見せるが、いざ自分の気に入らない人間の自由、あるいは気に入らないタイプの自由の行使の仕方を見かけたら、直前までの態度をあっさりと放棄して、まるで憲兵にでもなったつもりで「お前には自由は相応しくない」と詰め寄り、あるいは「このような自由の行使をゆるしてもよいのか」と政治権力に告発する。社会的生命を絶って「キャンセル」するべくあらゆる手を尽くす。 「社会的に望ましい者だけが、自由を付与されるべきだ」と自由主義者が平然と語る。「悪人にはわれわれ善良な市民と等しい人権や尊厳を与えるべきではない。即刻社会から追い出すべきだ」と人権活動家が声をあげる。「罪刑法定主義など男性優位社会の象徴なのだから潰してしまえ」と法律家が開陳する。「心無い誹謗中傷は人を追いつめるが、こんなクズは死んで当然だ、徹底的に追い込め」とインターネットで自警団が跳梁跋扈する。――そんな時代にわれわれは生きている。小室氏が味わってきた3年間は、いま私たちの暮らす社会を覆いつくす暗雲の小さな予告編に過ぎなかった。小室氏はこの国を離れて当然だろう。私は小室氏と眞子さまの旅立ちを心から祝福したい。「自由」の国アメリカで、どうか幸せな家庭を築いてほしい。本記事と以前の小室氏をテーマにした記事でいただいた原稿料を、それぞれ小室氏にご祝儀としてお渡ししたい。冗談ではなく、本気で言っているので、小室氏からのご連絡をお待ちしております。
世間の多くの人は都合よく忘却しているようだが、彼は交際相手がたまたま皇族であっただけの「私人」である。私のように言論を生業にして世間にもの申す仕事をしている者でもなければ、なかば「公人」のごとき扱いを受けるタレントでも、ましてや政治家でもないので、これほどまでの誹謗中傷を甘受するべき道理などありえない。小室氏を「いくら誹謗中傷しても問題にならないサンドバッグ」にしてきた世間やメディアが、同じ口で「誹謗中傷は人を殺しかねないんだ! やめていかなければならないんだ!」などと連帯を示す光景には鼻白む思いであった。綺麗ごとを並べたてるかれらはみな、小室氏のメンタル・タフネスが並外れて強靭であることに甘えきっていたのではないか。「能力差別はいけないこと」また小室氏を「能力が低い」とか「収入が低い」「頭が悪い」などと嘲笑する向きもそうだ。小室氏はアメリカのロースクールに通い、そこで英語の論文を執筆している。私はその論文を実際に読んだが、内容的に拙劣であるとは感じなかった(そもそも専門誌の誌面に論文が掲載されること自体、並大抵のことではないのだが)。現在の小室氏をどう過小に評価しても「無能」でもなんでもないだろう。そもそも論として、かりに「無能」だったとして、それがなんだというのか。たしかに最初の報道がなされた当時には、某メガバンクを早期退職したばかりで、まだ社会人としての経験が浅かったことは否めない。そのため、過去に皇族の女性を妻として迎えてきた人々に比べれば多少は「見劣り」する部分があったかもしれない。だが人間は成長するものだ。この期に及んでなお小室氏の能力を云々することには、さすがに正当性を感じない。 つい先日、メンタリストDaiGoの「ホームレス者・生活保護受給者差別」に、「能力主義的な差別」だとか「優生思想」だとか声を挙げてあれほど糾弾しておきながら 、小室氏に対しては能力主義丸出しのコメントを向ける人びとが大量にいる。小室氏に向けられるこうした能力差別をもとにした侮蔑的な論調には、世間一般の人びとだけでなく一部の知識人や文化人もカジュアルに便乗していた。これを批判してこなかったような人びとに、メンタリストDaiGo氏や彼の言説に対する「正義の怒り」を向ける資格など本来はないだろう。三笠宮さまの意見書まだ書いておくべきことはある。「眞子さまは、こんな身元の怪しい/危うい奴と結婚するべきではない」といった声も、平時の世間の論調とはまったく逆行するものだ。ましてや「親の素性が怪しい者はダメだ」「母子家庭の者はダメだ」などといった言動は、まぎれもない差別であり言語道断だ。つねづね自由恋愛を称賛し、婚姻に関する親からの支配的な口出しを疎んじて「当人同士が決めて幸せならそれでよいのだ!」と突き返す個人主義的な自由恋愛の風潮を礼賛しておきながら、いざ小室氏のことになれば手のひらを反して、氏の母親の「素行不良」を持ち出し、結婚相手に相応しくないなどと言い出す。これをダブルスタンダードと言わずしてなんであるか。 「自由恋愛や結婚に親は介入する権利はない。当人同士の自己決定権の問題だ。法律にもそう記述されている」とか「加害者の家族や親類はその行為とは無関係なのだから、連帯責任のようなムラ的な差別は許されない」などと威勢の良かった人びとはいったいどこにいったのか。いまこそ出番ではないか。「市民社会が個人主義に基づく自由恋愛を肯定していたとしても、それは一般市民の話であって皇族は別だ」とするよくある反論があるが、これについては故・三笠宮さまの意見書がすべてだろう。自由主義・民主主義・人権思想が肯定される現代日本において皇族にだけ、市民社会に当然に付与されているような権利や尊厳が与えられないのは、それこそ皇族に対する人権侵害なのである――と。〈私は皇族の婚姻を皇室会議にかける案には抗議を申込む。勅許も削除したい。新民法(案)では婚姻に親の同意さへ必要としなくなつた。当然皇族も同様に取扱はるべきである。皇族だけこの自由を認めないのは皇族の人格に対する侮辱である。(中略)愛といふものは絶対に第三者には理解出来ないし、又理論でも片付けられないものである。婚姻が不成立の場合でもその原因が当事者のどちらか一方の反対による時には仮令片方の愛が強くても「愛する相手の自由意志を尊重することこそ、即ち相手を最も愛することだ」といつたあきらめも出来るが、それが第三者の而も会議といふ甚だ冷い無情な方法で否決されたら決して承知出来るものではなく、寧(むし)ろ反抗心を燃え立たすばかりで、下手をすると其の本人の一生をあやまらせる原因となるかもしれない。さういふと「でも其の婚姻の相手が皇族たるにふさはしくない者だつたら困る」といふ人が出てくるであらうが私はそれはその皇族に対する小さい時からの性問題に関する教育なり指導なりが悪かつた最後の結果で、そこ迄に立至つてから結婚して悪いの何のと言ふのは既に手遅れであることを強調したい〉(日本経済新聞「三笠宮さまの意見書全文」[2016年11月3日]より引用、※太字は御田寺による) 基本的人権や自由主義を全否定する真正の保守主義者や尊王論者ならば、小室氏と眞子さまの交際や結婚について批判する筋合いもあるだろう。だが、平時においては個々人の自由や人権を擁護するリベラリズムを支持しておきながら、小室氏と眞子さまの私的選択の自由を尊王論者よろしくバッシングしていた者たちは、自分の言行不一致を反省してもらいたい。ネットの有象無象にかぎらず、テレビの知識人やコメンテーターでも文化人やオピニオンリーダーでも、そうした者は大勢いた。恥を知るべきだろう。ある人間のパートナーシップが親の意志によって支配されることを否定する「自由恋愛社会」を支持しているのであれば、小室圭氏と眞子さまの結婚もその社会で生じる当然の帰結のひとつである。これを批判するのは「女性をパートナーに迎える男は、女性以上にすぐれた男でなければならない」という規範意識の表れである。 「彼は例外」と言えるのか、言っていいのかこの3年近くに及ぶ一連の騒動は、普段は自由で個人主義的な風潮を支持しているはずの社会や人びと(一般市民だけでなく知識人や有識者含む)が、とたんに旧弊な「ムラ」の理屈を突きつけて小室氏にバッシングを展開した挙句、眞子さまと小室氏を実質的に日本で暮らせなくするという結末に終わったのだ。小室氏に向けられていた「ダブスタ」「矛盾」「言行不一致」の嵐は、たまたまそのターゲットが彼だったから向けられていたわけではないと、私は予感していた。むしろ、これらこそが日本の市民社会に広く浸透している本音であり、今後なにか別のトリガーがあれば、他のさまざまな人物や事物に、彼が向けられたのと同じ言動やまなざしが向けられることになるだろう――と、当時から考えていた。――その予感は現在、完全に的中していたと言わざるを得ないだろう。世間の人びとは、口先では自由の大切さを語って見せるが、いざ自分の気に入らない人間の自由、あるいは気に入らないタイプの自由の行使の仕方を見かけたら、直前までの態度をあっさりと放棄して、まるで憲兵にでもなったつもりで「お前には自由は相応しくない」と詰め寄り、あるいは「このような自由の行使をゆるしてもよいのか」と政治権力に告発する。社会的生命を絶って「キャンセル」するべくあらゆる手を尽くす。 「社会的に望ましい者だけが、自由を付与されるべきだ」と自由主義者が平然と語る。「悪人にはわれわれ善良な市民と等しい人権や尊厳を与えるべきではない。即刻社会から追い出すべきだ」と人権活動家が声をあげる。「罪刑法定主義など男性優位社会の象徴なのだから潰してしまえ」と法律家が開陳する。「心無い誹謗中傷は人を追いつめるが、こんなクズは死んで当然だ、徹底的に追い込め」とインターネットで自警団が跳梁跋扈する。――そんな時代にわれわれは生きている。小室氏が味わってきた3年間は、いま私たちの暮らす社会を覆いつくす暗雲の小さな予告編に過ぎなかった。小室氏はこの国を離れて当然だろう。私は小室氏と眞子さまの旅立ちを心から祝福したい。「自由」の国アメリカで、どうか幸せな家庭を築いてほしい。本記事と以前の小室氏をテーマにした記事でいただいた原稿料を、それぞれ小室氏にご祝儀としてお渡ししたい。冗談ではなく、本気で言っているので、小室氏からのご連絡をお待ちしております。
世間の多くの人は都合よく忘却しているようだが、彼は交際相手がたまたま皇族であっただけの「私人」である。私のように言論を生業にして世間にもの申す仕事をしている者でもなければ、なかば「公人」のごとき扱いを受けるタレントでも、ましてや政治家でもないので、これほどまでの誹謗中傷を甘受するべき道理などありえない。小室氏を「いくら誹謗中傷しても問題にならないサンドバッグ」にしてきた世間やメディアが、同じ口で「誹謗中傷は人を殺しかねないんだ! やめていかなければならないんだ!」などと連帯を示す光景には鼻白む思いであった。綺麗ごとを並べたてるかれらはみな、小室氏のメンタル・タフネスが並外れて強靭であることに甘えきっていたのではないか。「能力差別はいけないこと」また小室氏を「能力が低い」とか「収入が低い」「頭が悪い」などと嘲笑する向きもそうだ。小室氏はアメリカのロースクールに通い、そこで英語の論文を執筆している。私はその論文を実際に読んだが、内容的に拙劣であるとは感じなかった(そもそも専門誌の誌面に論文が掲載されること自体、並大抵のことではないのだが)。現在の小室氏をどう過小に評価しても「無能」でもなんでもないだろう。そもそも論として、かりに「無能」だったとして、それがなんだというのか。たしかに最初の報道がなされた当時には、某メガバンクを早期退職したばかりで、まだ社会人としての経験が浅かったことは否めない。そのため、過去に皇族の女性を妻として迎えてきた人々に比べれば多少は「見劣り」する部分があったかもしれない。だが人間は成長するものだ。この期に及んでなお小室氏の能力を云々することには、さすがに正当性を感じない。 つい先日、メンタリストDaiGoの「ホームレス者・生活保護受給者差別」に、「能力主義的な差別」だとか「優生思想」だとか声を挙げてあれほど糾弾しておきながら 、小室氏に対しては能力主義丸出しのコメントを向ける人びとが大量にいる。小室氏に向けられるこうした能力差別をもとにした侮蔑的な論調には、世間一般の人びとだけでなく一部の知識人や文化人もカジュアルに便乗していた。これを批判してこなかったような人びとに、メンタリストDaiGo氏や彼の言説に対する「正義の怒り」を向ける資格など本来はないだろう。三笠宮さまの意見書まだ書いておくべきことはある。「眞子さまは、こんな身元の怪しい/危うい奴と結婚するべきではない」といった声も、平時の世間の論調とはまったく逆行するものだ。ましてや「親の素性が怪しい者はダメだ」「母子家庭の者はダメだ」などといった言動は、まぎれもない差別であり言語道断だ。つねづね自由恋愛を称賛し、婚姻に関する親からの支配的な口出しを疎んじて「当人同士が決めて幸せならそれでよいのだ!」と突き返す個人主義的な自由恋愛の風潮を礼賛しておきながら、いざ小室氏のことになれば手のひらを反して、氏の母親の「素行不良」を持ち出し、結婚相手に相応しくないなどと言い出す。これをダブルスタンダードと言わずしてなんであるか。 「自由恋愛や結婚に親は介入する権利はない。当人同士の自己決定権の問題だ。法律にもそう記述されている」とか「加害者の家族や親類はその行為とは無関係なのだから、連帯責任のようなムラ的な差別は許されない」などと威勢の良かった人びとはいったいどこにいったのか。いまこそ出番ではないか。「市民社会が個人主義に基づく自由恋愛を肯定していたとしても、それは一般市民の話であって皇族は別だ」とするよくある反論があるが、これについては故・三笠宮さまの意見書がすべてだろう。自由主義・民主主義・人権思想が肯定される現代日本において皇族にだけ、市民社会に当然に付与されているような権利や尊厳が与えられないのは、それこそ皇族に対する人権侵害なのである――と。〈私は皇族の婚姻を皇室会議にかける案には抗議を申込む。勅許も削除したい。新民法(案)では婚姻に親の同意さへ必要としなくなつた。当然皇族も同様に取扱はるべきである。皇族だけこの自由を認めないのは皇族の人格に対する侮辱である。(中略)愛といふものは絶対に第三者には理解出来ないし、又理論でも片付けられないものである。婚姻が不成立の場合でもその原因が当事者のどちらか一方の反対による時には仮令片方の愛が強くても「愛する相手の自由意志を尊重することこそ、即ち相手を最も愛することだ」といつたあきらめも出来るが、それが第三者の而も会議といふ甚だ冷い無情な方法で否決されたら決して承知出来るものではなく、寧(むし)ろ反抗心を燃え立たすばかりで、下手をすると其の本人の一生をあやまらせる原因となるかもしれない。さういふと「でも其の婚姻の相手が皇族たるにふさはしくない者だつたら困る」といふ人が出てくるであらうが私はそれはその皇族に対する小さい時からの性問題に関する教育なり指導なりが悪かつた最後の結果で、そこ迄に立至つてから結婚して悪いの何のと言ふのは既に手遅れであることを強調したい〉(日本経済新聞「三笠宮さまの意見書全文」[2016年11月3日]より引用、※太字は御田寺による) 基本的人権や自由主義を全否定する真正の保守主義者や尊王論者ならば、小室氏と眞子さまの交際や結婚について批判する筋合いもあるだろう。だが、平時においては個々人の自由や人権を擁護するリベラリズムを支持しておきながら、小室氏と眞子さまの私的選択の自由を尊王論者よろしくバッシングしていた者たちは、自分の言行不一致を反省してもらいたい。ネットの有象無象にかぎらず、テレビの知識人やコメンテーターでも文化人やオピニオンリーダーでも、そうした者は大勢いた。恥を知るべきだろう。ある人間のパートナーシップが親の意志によって支配されることを否定する「自由恋愛社会」を支持しているのであれば、小室圭氏と眞子さまの結婚もその社会で生じる当然の帰結のひとつである。これを批判するのは「女性をパートナーに迎える男は、女性以上にすぐれた男でなければならない」という規範意識の表れである。 「彼は例外」と言えるのか、言っていいのかこの3年近くに及ぶ一連の騒動は、普段は自由で個人主義的な風潮を支持しているはずの社会や人びと(一般市民だけでなく知識人や有識者含む)が、とたんに旧弊な「ムラ」の理屈を突きつけて小室氏にバッシングを展開した挙句、眞子さまと小室氏を実質的に日本で暮らせなくするという結末に終わったのだ。小室氏に向けられていた「ダブスタ」「矛盾」「言行不一致」の嵐は、たまたまそのターゲットが彼だったから向けられていたわけではないと、私は予感していた。むしろ、これらこそが日本の市民社会に広く浸透している本音であり、今後なにか別のトリガーがあれば、他のさまざまな人物や事物に、彼が向けられたのと同じ言動やまなざしが向けられることになるだろう――と、当時から考えていた。――その予感は現在、完全に的中していたと言わざるを得ないだろう。世間の人びとは、口先では自由の大切さを語って見せるが、いざ自分の気に入らない人間の自由、あるいは気に入らないタイプの自由の行使の仕方を見かけたら、直前までの態度をあっさりと放棄して、まるで憲兵にでもなったつもりで「お前には自由は相応しくない」と詰め寄り、あるいは「このような自由の行使をゆるしてもよいのか」と政治権力に告発する。社会的生命を絶って「キャンセル」するべくあらゆる手を尽くす。 「社会的に望ましい者だけが、自由を付与されるべきだ」と自由主義者が平然と語る。「悪人にはわれわれ善良な市民と等しい人権や尊厳を与えるべきではない。即刻社会から追い出すべきだ」と人権活動家が声をあげる。「罪刑法定主義など男性優位社会の象徴なのだから潰してしまえ」と法律家が開陳する。「心無い誹謗中傷は人を追いつめるが、こんなクズは死んで当然だ、徹底的に追い込め」とインターネットで自警団が跳梁跋扈する。――そんな時代にわれわれは生きている。小室氏が味わってきた3年間は、いま私たちの暮らす社会を覆いつくす暗雲の小さな予告編に過ぎなかった。小室氏はこの国を離れて当然だろう。私は小室氏と眞子さまの旅立ちを心から祝福したい。「自由」の国アメリカで、どうか幸せな家庭を築いてほしい。本記事と以前の小室氏をテーマにした記事でいただいた原稿料を、それぞれ小室氏にご祝儀としてお渡ししたい。冗談ではなく、本気で言っているので、小室氏からのご連絡をお待ちしております。
小室氏を「いくら誹謗中傷しても問題にならないサンドバッグ」にしてきた世間やメディアが、同じ口で「誹謗中傷は人を殺しかねないんだ! やめていかなければならないんだ!」などと連帯を示す光景には鼻白む思いであった。綺麗ごとを並べたてるかれらはみな、小室氏のメンタル・タフネスが並外れて強靭であることに甘えきっていたのではないか。「能力差別はいけないこと」また小室氏を「能力が低い」とか「収入が低い」「頭が悪い」などと嘲笑する向きもそうだ。小室氏はアメリカのロースクールに通い、そこで英語の論文を執筆している。私はその論文を実際に読んだが、内容的に拙劣であるとは感じなかった(そもそも専門誌の誌面に論文が掲載されること自体、並大抵のことではないのだが)。現在の小室氏をどう過小に評価しても「無能」でもなんでもないだろう。そもそも論として、かりに「無能」だったとして、それがなんだというのか。たしかに最初の報道がなされた当時には、某メガバンクを早期退職したばかりで、まだ社会人としての経験が浅かったことは否めない。そのため、過去に皇族の女性を妻として迎えてきた人々に比べれば多少は「見劣り」する部分があったかもしれない。だが人間は成長するものだ。この期に及んでなお小室氏の能力を云々することには、さすがに正当性を感じない。 つい先日、メンタリストDaiGoの「ホームレス者・生活保護受給者差別」に、「能力主義的な差別」だとか「優生思想」だとか声を挙げてあれほど糾弾しておきながら 、小室氏に対しては能力主義丸出しのコメントを向ける人びとが大量にいる。小室氏に向けられるこうした能力差別をもとにした侮蔑的な論調には、世間一般の人びとだけでなく一部の知識人や文化人もカジュアルに便乗していた。これを批判してこなかったような人びとに、メンタリストDaiGo氏や彼の言説に対する「正義の怒り」を向ける資格など本来はないだろう。三笠宮さまの意見書まだ書いておくべきことはある。「眞子さまは、こんな身元の怪しい/危うい奴と結婚するべきではない」といった声も、平時の世間の論調とはまったく逆行するものだ。ましてや「親の素性が怪しい者はダメだ」「母子家庭の者はダメだ」などといった言動は、まぎれもない差別であり言語道断だ。つねづね自由恋愛を称賛し、婚姻に関する親からの支配的な口出しを疎んじて「当人同士が決めて幸せならそれでよいのだ!」と突き返す個人主義的な自由恋愛の風潮を礼賛しておきながら、いざ小室氏のことになれば手のひらを反して、氏の母親の「素行不良」を持ち出し、結婚相手に相応しくないなどと言い出す。これをダブルスタンダードと言わずしてなんであるか。 「自由恋愛や結婚に親は介入する権利はない。当人同士の自己決定権の問題だ。法律にもそう記述されている」とか「加害者の家族や親類はその行為とは無関係なのだから、連帯責任のようなムラ的な差別は許されない」などと威勢の良かった人びとはいったいどこにいったのか。いまこそ出番ではないか。「市民社会が個人主義に基づく自由恋愛を肯定していたとしても、それは一般市民の話であって皇族は別だ」とするよくある反論があるが、これについては故・三笠宮さまの意見書がすべてだろう。自由主義・民主主義・人権思想が肯定される現代日本において皇族にだけ、市民社会に当然に付与されているような権利や尊厳が与えられないのは、それこそ皇族に対する人権侵害なのである――と。〈私は皇族の婚姻を皇室会議にかける案には抗議を申込む。勅許も削除したい。新民法(案)では婚姻に親の同意さへ必要としなくなつた。当然皇族も同様に取扱はるべきである。皇族だけこの自由を認めないのは皇族の人格に対する侮辱である。(中略)愛といふものは絶対に第三者には理解出来ないし、又理論でも片付けられないものである。婚姻が不成立の場合でもその原因が当事者のどちらか一方の反対による時には仮令片方の愛が強くても「愛する相手の自由意志を尊重することこそ、即ち相手を最も愛することだ」といつたあきらめも出来るが、それが第三者の而も会議といふ甚だ冷い無情な方法で否決されたら決して承知出来るものではなく、寧(むし)ろ反抗心を燃え立たすばかりで、下手をすると其の本人の一生をあやまらせる原因となるかもしれない。さういふと「でも其の婚姻の相手が皇族たるにふさはしくない者だつたら困る」といふ人が出てくるであらうが私はそれはその皇族に対する小さい時からの性問題に関する教育なり指導なりが悪かつた最後の結果で、そこ迄に立至つてから結婚して悪いの何のと言ふのは既に手遅れであることを強調したい〉(日本経済新聞「三笠宮さまの意見書全文」[2016年11月3日]より引用、※太字は御田寺による) 基本的人権や自由主義を全否定する真正の保守主義者や尊王論者ならば、小室氏と眞子さまの交際や結婚について批判する筋合いもあるだろう。だが、平時においては個々人の自由や人権を擁護するリベラリズムを支持しておきながら、小室氏と眞子さまの私的選択の自由を尊王論者よろしくバッシングしていた者たちは、自分の言行不一致を反省してもらいたい。ネットの有象無象にかぎらず、テレビの知識人やコメンテーターでも文化人やオピニオンリーダーでも、そうした者は大勢いた。恥を知るべきだろう。ある人間のパートナーシップが親の意志によって支配されることを否定する「自由恋愛社会」を支持しているのであれば、小室圭氏と眞子さまの結婚もその社会で生じる当然の帰結のひとつである。これを批判するのは「女性をパートナーに迎える男は、女性以上にすぐれた男でなければならない」という規範意識の表れである。 「彼は例外」と言えるのか、言っていいのかこの3年近くに及ぶ一連の騒動は、普段は自由で個人主義的な風潮を支持しているはずの社会や人びと(一般市民だけでなく知識人や有識者含む)が、とたんに旧弊な「ムラ」の理屈を突きつけて小室氏にバッシングを展開した挙句、眞子さまと小室氏を実質的に日本で暮らせなくするという結末に終わったのだ。小室氏に向けられていた「ダブスタ」「矛盾」「言行不一致」の嵐は、たまたまそのターゲットが彼だったから向けられていたわけではないと、私は予感していた。むしろ、これらこそが日本の市民社会に広く浸透している本音であり、今後なにか別のトリガーがあれば、他のさまざまな人物や事物に、彼が向けられたのと同じ言動やまなざしが向けられることになるだろう――と、当時から考えていた。――その予感は現在、完全に的中していたと言わざるを得ないだろう。世間の人びとは、口先では自由の大切さを語って見せるが、いざ自分の気に入らない人間の自由、あるいは気に入らないタイプの自由の行使の仕方を見かけたら、直前までの態度をあっさりと放棄して、まるで憲兵にでもなったつもりで「お前には自由は相応しくない」と詰め寄り、あるいは「このような自由の行使をゆるしてもよいのか」と政治権力に告発する。社会的生命を絶って「キャンセル」するべくあらゆる手を尽くす。 「社会的に望ましい者だけが、自由を付与されるべきだ」と自由主義者が平然と語る。「悪人にはわれわれ善良な市民と等しい人権や尊厳を与えるべきではない。即刻社会から追い出すべきだ」と人権活動家が声をあげる。「罪刑法定主義など男性優位社会の象徴なのだから潰してしまえ」と法律家が開陳する。「心無い誹謗中傷は人を追いつめるが、こんなクズは死んで当然だ、徹底的に追い込め」とインターネットで自警団が跳梁跋扈する。――そんな時代にわれわれは生きている。小室氏が味わってきた3年間は、いま私たちの暮らす社会を覆いつくす暗雲の小さな予告編に過ぎなかった。小室氏はこの国を離れて当然だろう。私は小室氏と眞子さまの旅立ちを心から祝福したい。「自由」の国アメリカで、どうか幸せな家庭を築いてほしい。本記事と以前の小室氏をテーマにした記事でいただいた原稿料を、それぞれ小室氏にご祝儀としてお渡ししたい。冗談ではなく、本気で言っているので、小室氏からのご連絡をお待ちしております。
また小室氏を「能力が低い」とか「収入が低い」「頭が悪い」などと嘲笑する向きもそうだ。小室氏はアメリカのロースクールに通い、そこで英語の論文を執筆している。私はその論文を実際に読んだが、内容的に拙劣であるとは感じなかった(そもそも専門誌の誌面に論文が掲載されること自体、並大抵のことではないのだが)。現在の小室氏をどう過小に評価しても「無能」でもなんでもないだろう。そもそも論として、かりに「無能」だったとして、それがなんだというのか。たしかに最初の報道がなされた当時には、某メガバンクを早期退職したばかりで、まだ社会人としての経験が浅かったことは否めない。そのため、過去に皇族の女性を妻として迎えてきた人々に比べれば多少は「見劣り」する部分があったかもしれない。だが人間は成長するものだ。この期に及んでなお小室氏の能力を云々することには、さすがに正当性を感じない。 つい先日、メンタリストDaiGoの「ホームレス者・生活保護受給者差別」に、「能力主義的な差別」だとか「優生思想」だとか声を挙げてあれほど糾弾しておきながら 、小室氏に対しては能力主義丸出しのコメントを向ける人びとが大量にいる。小室氏に向けられるこうした能力差別をもとにした侮蔑的な論調には、世間一般の人びとだけでなく一部の知識人や文化人もカジュアルに便乗していた。これを批判してこなかったような人びとに、メンタリストDaiGo氏や彼の言説に対する「正義の怒り」を向ける資格など本来はないだろう。三笠宮さまの意見書まだ書いておくべきことはある。「眞子さまは、こんな身元の怪しい/危うい奴と結婚するべきではない」といった声も、平時の世間の論調とはまったく逆行するものだ。ましてや「親の素性が怪しい者はダメだ」「母子家庭の者はダメだ」などといった言動は、まぎれもない差別であり言語道断だ。つねづね自由恋愛を称賛し、婚姻に関する親からの支配的な口出しを疎んじて「当人同士が決めて幸せならそれでよいのだ!」と突き返す個人主義的な自由恋愛の風潮を礼賛しておきながら、いざ小室氏のことになれば手のひらを反して、氏の母親の「素行不良」を持ち出し、結婚相手に相応しくないなどと言い出す。これをダブルスタンダードと言わずしてなんであるか。 「自由恋愛や結婚に親は介入する権利はない。当人同士の自己決定権の問題だ。法律にもそう記述されている」とか「加害者の家族や親類はその行為とは無関係なのだから、連帯責任のようなムラ的な差別は許されない」などと威勢の良かった人びとはいったいどこにいったのか。いまこそ出番ではないか。「市民社会が個人主義に基づく自由恋愛を肯定していたとしても、それは一般市民の話であって皇族は別だ」とするよくある反論があるが、これについては故・三笠宮さまの意見書がすべてだろう。自由主義・民主主義・人権思想が肯定される現代日本において皇族にだけ、市民社会に当然に付与されているような権利や尊厳が与えられないのは、それこそ皇族に対する人権侵害なのである――と。〈私は皇族の婚姻を皇室会議にかける案には抗議を申込む。勅許も削除したい。新民法(案)では婚姻に親の同意さへ必要としなくなつた。当然皇族も同様に取扱はるべきである。皇族だけこの自由を認めないのは皇族の人格に対する侮辱である。(中略)愛といふものは絶対に第三者には理解出来ないし、又理論でも片付けられないものである。婚姻が不成立の場合でもその原因が当事者のどちらか一方の反対による時には仮令片方の愛が強くても「愛する相手の自由意志を尊重することこそ、即ち相手を最も愛することだ」といつたあきらめも出来るが、それが第三者の而も会議といふ甚だ冷い無情な方法で否決されたら決して承知出来るものではなく、寧(むし)ろ反抗心を燃え立たすばかりで、下手をすると其の本人の一生をあやまらせる原因となるかもしれない。さういふと「でも其の婚姻の相手が皇族たるにふさはしくない者だつたら困る」といふ人が出てくるであらうが私はそれはその皇族に対する小さい時からの性問題に関する教育なり指導なりが悪かつた最後の結果で、そこ迄に立至つてから結婚して悪いの何のと言ふのは既に手遅れであることを強調したい〉(日本経済新聞「三笠宮さまの意見書全文」[2016年11月3日]より引用、※太字は御田寺による) 基本的人権や自由主義を全否定する真正の保守主義者や尊王論者ならば、小室氏と眞子さまの交際や結婚について批判する筋合いもあるだろう。だが、平時においては個々人の自由や人権を擁護するリベラリズムを支持しておきながら、小室氏と眞子さまの私的選択の自由を尊王論者よろしくバッシングしていた者たちは、自分の言行不一致を反省してもらいたい。ネットの有象無象にかぎらず、テレビの知識人やコメンテーターでも文化人やオピニオンリーダーでも、そうした者は大勢いた。恥を知るべきだろう。ある人間のパートナーシップが親の意志によって支配されることを否定する「自由恋愛社会」を支持しているのであれば、小室圭氏と眞子さまの結婚もその社会で生じる当然の帰結のひとつである。これを批判するのは「女性をパートナーに迎える男は、女性以上にすぐれた男でなければならない」という規範意識の表れである。 「彼は例外」と言えるのか、言っていいのかこの3年近くに及ぶ一連の騒動は、普段は自由で個人主義的な風潮を支持しているはずの社会や人びと(一般市民だけでなく知識人や有識者含む)が、とたんに旧弊な「ムラ」の理屈を突きつけて小室氏にバッシングを展開した挙句、眞子さまと小室氏を実質的に日本で暮らせなくするという結末に終わったのだ。小室氏に向けられていた「ダブスタ」「矛盾」「言行不一致」の嵐は、たまたまそのターゲットが彼だったから向けられていたわけではないと、私は予感していた。むしろ、これらこそが日本の市民社会に広く浸透している本音であり、今後なにか別のトリガーがあれば、他のさまざまな人物や事物に、彼が向けられたのと同じ言動やまなざしが向けられることになるだろう――と、当時から考えていた。――その予感は現在、完全に的中していたと言わざるを得ないだろう。世間の人びとは、口先では自由の大切さを語って見せるが、いざ自分の気に入らない人間の自由、あるいは気に入らないタイプの自由の行使の仕方を見かけたら、直前までの態度をあっさりと放棄して、まるで憲兵にでもなったつもりで「お前には自由は相応しくない」と詰め寄り、あるいは「このような自由の行使をゆるしてもよいのか」と政治権力に告発する。社会的生命を絶って「キャンセル」するべくあらゆる手を尽くす。 「社会的に望ましい者だけが、自由を付与されるべきだ」と自由主義者が平然と語る。「悪人にはわれわれ善良な市民と等しい人権や尊厳を与えるべきではない。即刻社会から追い出すべきだ」と人権活動家が声をあげる。「罪刑法定主義など男性優位社会の象徴なのだから潰してしまえ」と法律家が開陳する。「心無い誹謗中傷は人を追いつめるが、こんなクズは死んで当然だ、徹底的に追い込め」とインターネットで自警団が跳梁跋扈する。――そんな時代にわれわれは生きている。小室氏が味わってきた3年間は、いま私たちの暮らす社会を覆いつくす暗雲の小さな予告編に過ぎなかった。小室氏はこの国を離れて当然だろう。私は小室氏と眞子さまの旅立ちを心から祝福したい。「自由」の国アメリカで、どうか幸せな家庭を築いてほしい。本記事と以前の小室氏をテーマにした記事でいただいた原稿料を、それぞれ小室氏にご祝儀としてお渡ししたい。冗談ではなく、本気で言っているので、小室氏からのご連絡をお待ちしております。
小室氏はアメリカのロースクールに通い、そこで英語の論文を執筆している。私はその論文を実際に読んだが、内容的に拙劣であるとは感じなかった(そもそも専門誌の誌面に論文が掲載されること自体、並大抵のことではないのだが)。現在の小室氏をどう過小に評価しても「無能」でもなんでもないだろう。そもそも論として、かりに「無能」だったとして、それがなんだというのか。たしかに最初の報道がなされた当時には、某メガバンクを早期退職したばかりで、まだ社会人としての経験が浅かったことは否めない。そのため、過去に皇族の女性を妻として迎えてきた人々に比べれば多少は「見劣り」する部分があったかもしれない。だが人間は成長するものだ。この期に及んでなお小室氏の能力を云々することには、さすがに正当性を感じない。 つい先日、メンタリストDaiGoの「ホームレス者・生活保護受給者差別」に、「能力主義的な差別」だとか「優生思想」だとか声を挙げてあれほど糾弾しておきながら 、小室氏に対しては能力主義丸出しのコメントを向ける人びとが大量にいる。小室氏に向けられるこうした能力差別をもとにした侮蔑的な論調には、世間一般の人びとだけでなく一部の知識人や文化人もカジュアルに便乗していた。これを批判してこなかったような人びとに、メンタリストDaiGo氏や彼の言説に対する「正義の怒り」を向ける資格など本来はないだろう。三笠宮さまの意見書まだ書いておくべきことはある。「眞子さまは、こんな身元の怪しい/危うい奴と結婚するべきではない」といった声も、平時の世間の論調とはまったく逆行するものだ。ましてや「親の素性が怪しい者はダメだ」「母子家庭の者はダメだ」などといった言動は、まぎれもない差別であり言語道断だ。つねづね自由恋愛を称賛し、婚姻に関する親からの支配的な口出しを疎んじて「当人同士が決めて幸せならそれでよいのだ!」と突き返す個人主義的な自由恋愛の風潮を礼賛しておきながら、いざ小室氏のことになれば手のひらを反して、氏の母親の「素行不良」を持ち出し、結婚相手に相応しくないなどと言い出す。これをダブルスタンダードと言わずしてなんであるか。 「自由恋愛や結婚に親は介入する権利はない。当人同士の自己決定権の問題だ。法律にもそう記述されている」とか「加害者の家族や親類はその行為とは無関係なのだから、連帯責任のようなムラ的な差別は許されない」などと威勢の良かった人びとはいったいどこにいったのか。いまこそ出番ではないか。「市民社会が個人主義に基づく自由恋愛を肯定していたとしても、それは一般市民の話であって皇族は別だ」とするよくある反論があるが、これについては故・三笠宮さまの意見書がすべてだろう。自由主義・民主主義・人権思想が肯定される現代日本において皇族にだけ、市民社会に当然に付与されているような権利や尊厳が与えられないのは、それこそ皇族に対する人権侵害なのである――と。〈私は皇族の婚姻を皇室会議にかける案には抗議を申込む。勅許も削除したい。新民法(案)では婚姻に親の同意さへ必要としなくなつた。当然皇族も同様に取扱はるべきである。皇族だけこの自由を認めないのは皇族の人格に対する侮辱である。(中略)愛といふものは絶対に第三者には理解出来ないし、又理論でも片付けられないものである。婚姻が不成立の場合でもその原因が当事者のどちらか一方の反対による時には仮令片方の愛が強くても「愛する相手の自由意志を尊重することこそ、即ち相手を最も愛することだ」といつたあきらめも出来るが、それが第三者の而も会議といふ甚だ冷い無情な方法で否決されたら決して承知出来るものではなく、寧(むし)ろ反抗心を燃え立たすばかりで、下手をすると其の本人の一生をあやまらせる原因となるかもしれない。さういふと「でも其の婚姻の相手が皇族たるにふさはしくない者だつたら困る」といふ人が出てくるであらうが私はそれはその皇族に対する小さい時からの性問題に関する教育なり指導なりが悪かつた最後の結果で、そこ迄に立至つてから結婚して悪いの何のと言ふのは既に手遅れであることを強調したい〉(日本経済新聞「三笠宮さまの意見書全文」[2016年11月3日]より引用、※太字は御田寺による) 基本的人権や自由主義を全否定する真正の保守主義者や尊王論者ならば、小室氏と眞子さまの交際や結婚について批判する筋合いもあるだろう。だが、平時においては個々人の自由や人権を擁護するリベラリズムを支持しておきながら、小室氏と眞子さまの私的選択の自由を尊王論者よろしくバッシングしていた者たちは、自分の言行不一致を反省してもらいたい。ネットの有象無象にかぎらず、テレビの知識人やコメンテーターでも文化人やオピニオンリーダーでも、そうした者は大勢いた。恥を知るべきだろう。ある人間のパートナーシップが親の意志によって支配されることを否定する「自由恋愛社会」を支持しているのであれば、小室圭氏と眞子さまの結婚もその社会で生じる当然の帰結のひとつである。これを批判するのは「女性をパートナーに迎える男は、女性以上にすぐれた男でなければならない」という規範意識の表れである。 「彼は例外」と言えるのか、言っていいのかこの3年近くに及ぶ一連の騒動は、普段は自由で個人主義的な風潮を支持しているはずの社会や人びと(一般市民だけでなく知識人や有識者含む)が、とたんに旧弊な「ムラ」の理屈を突きつけて小室氏にバッシングを展開した挙句、眞子さまと小室氏を実質的に日本で暮らせなくするという結末に終わったのだ。小室氏に向けられていた「ダブスタ」「矛盾」「言行不一致」の嵐は、たまたまそのターゲットが彼だったから向けられていたわけではないと、私は予感していた。むしろ、これらこそが日本の市民社会に広く浸透している本音であり、今後なにか別のトリガーがあれば、他のさまざまな人物や事物に、彼が向けられたのと同じ言動やまなざしが向けられることになるだろう――と、当時から考えていた。――その予感は現在、完全に的中していたと言わざるを得ないだろう。世間の人びとは、口先では自由の大切さを語って見せるが、いざ自分の気に入らない人間の自由、あるいは気に入らないタイプの自由の行使の仕方を見かけたら、直前までの態度をあっさりと放棄して、まるで憲兵にでもなったつもりで「お前には自由は相応しくない」と詰め寄り、あるいは「このような自由の行使をゆるしてもよいのか」と政治権力に告発する。社会的生命を絶って「キャンセル」するべくあらゆる手を尽くす。 「社会的に望ましい者だけが、自由を付与されるべきだ」と自由主義者が平然と語る。「悪人にはわれわれ善良な市民と等しい人権や尊厳を与えるべきではない。即刻社会から追い出すべきだ」と人権活動家が声をあげる。「罪刑法定主義など男性優位社会の象徴なのだから潰してしまえ」と法律家が開陳する。「心無い誹謗中傷は人を追いつめるが、こんなクズは死んで当然だ、徹底的に追い込め」とインターネットで自警団が跳梁跋扈する。――そんな時代にわれわれは生きている。小室氏が味わってきた3年間は、いま私たちの暮らす社会を覆いつくす暗雲の小さな予告編に過ぎなかった。小室氏はこの国を離れて当然だろう。私は小室氏と眞子さまの旅立ちを心から祝福したい。「自由」の国アメリカで、どうか幸せな家庭を築いてほしい。本記事と以前の小室氏をテーマにした記事でいただいた原稿料を、それぞれ小室氏にご祝儀としてお渡ししたい。冗談ではなく、本気で言っているので、小室氏からのご連絡をお待ちしております。
現在の小室氏をどう過小に評価しても「無能」でもなんでもないだろう。そもそも論として、かりに「無能」だったとして、それがなんだというのか。たしかに最初の報道がなされた当時には、某メガバンクを早期退職したばかりで、まだ社会人としての経験が浅かったことは否めない。そのため、過去に皇族の女性を妻として迎えてきた人々に比べれば多少は「見劣り」する部分があったかもしれない。だが人間は成長するものだ。この期に及んでなお小室氏の能力を云々することには、さすがに正当性を感じない。 つい先日、メンタリストDaiGoの「ホームレス者・生活保護受給者差別」に、「能力主義的な差別」だとか「優生思想」だとか声を挙げてあれほど糾弾しておきながら 、小室氏に対しては能力主義丸出しのコメントを向ける人びとが大量にいる。小室氏に向けられるこうした能力差別をもとにした侮蔑的な論調には、世間一般の人びとだけでなく一部の知識人や文化人もカジュアルに便乗していた。これを批判してこなかったような人びとに、メンタリストDaiGo氏や彼の言説に対する「正義の怒り」を向ける資格など本来はないだろう。三笠宮さまの意見書まだ書いておくべきことはある。「眞子さまは、こんな身元の怪しい/危うい奴と結婚するべきではない」といった声も、平時の世間の論調とはまったく逆行するものだ。ましてや「親の素性が怪しい者はダメだ」「母子家庭の者はダメだ」などといった言動は、まぎれもない差別であり言語道断だ。つねづね自由恋愛を称賛し、婚姻に関する親からの支配的な口出しを疎んじて「当人同士が決めて幸せならそれでよいのだ!」と突き返す個人主義的な自由恋愛の風潮を礼賛しておきながら、いざ小室氏のことになれば手のひらを反して、氏の母親の「素行不良」を持ち出し、結婚相手に相応しくないなどと言い出す。これをダブルスタンダードと言わずしてなんであるか。 「自由恋愛や結婚に親は介入する権利はない。当人同士の自己決定権の問題だ。法律にもそう記述されている」とか「加害者の家族や親類はその行為とは無関係なのだから、連帯責任のようなムラ的な差別は許されない」などと威勢の良かった人びとはいったいどこにいったのか。いまこそ出番ではないか。「市民社会が個人主義に基づく自由恋愛を肯定していたとしても、それは一般市民の話であって皇族は別だ」とするよくある反論があるが、これについては故・三笠宮さまの意見書がすべてだろう。自由主義・民主主義・人権思想が肯定される現代日本において皇族にだけ、市民社会に当然に付与されているような権利や尊厳が与えられないのは、それこそ皇族に対する人権侵害なのである――と。〈私は皇族の婚姻を皇室会議にかける案には抗議を申込む。勅許も削除したい。新民法(案)では婚姻に親の同意さへ必要としなくなつた。当然皇族も同様に取扱はるべきである。皇族だけこの自由を認めないのは皇族の人格に対する侮辱である。(中略)愛といふものは絶対に第三者には理解出来ないし、又理論でも片付けられないものである。婚姻が不成立の場合でもその原因が当事者のどちらか一方の反対による時には仮令片方の愛が強くても「愛する相手の自由意志を尊重することこそ、即ち相手を最も愛することだ」といつたあきらめも出来るが、それが第三者の而も会議といふ甚だ冷い無情な方法で否決されたら決して承知出来るものではなく、寧(むし)ろ反抗心を燃え立たすばかりで、下手をすると其の本人の一生をあやまらせる原因となるかもしれない。さういふと「でも其の婚姻の相手が皇族たるにふさはしくない者だつたら困る」といふ人が出てくるであらうが私はそれはその皇族に対する小さい時からの性問題に関する教育なり指導なりが悪かつた最後の結果で、そこ迄に立至つてから結婚して悪いの何のと言ふのは既に手遅れであることを強調したい〉(日本経済新聞「三笠宮さまの意見書全文」[2016年11月3日]より引用、※太字は御田寺による) 基本的人権や自由主義を全否定する真正の保守主義者や尊王論者ならば、小室氏と眞子さまの交際や結婚について批判する筋合いもあるだろう。だが、平時においては個々人の自由や人権を擁護するリベラリズムを支持しておきながら、小室氏と眞子さまの私的選択の自由を尊王論者よろしくバッシングしていた者たちは、自分の言行不一致を反省してもらいたい。ネットの有象無象にかぎらず、テレビの知識人やコメンテーターでも文化人やオピニオンリーダーでも、そうした者は大勢いた。恥を知るべきだろう。ある人間のパートナーシップが親の意志によって支配されることを否定する「自由恋愛社会」を支持しているのであれば、小室圭氏と眞子さまの結婚もその社会で生じる当然の帰結のひとつである。これを批判するのは「女性をパートナーに迎える男は、女性以上にすぐれた男でなければならない」という規範意識の表れである。 「彼は例外」と言えるのか、言っていいのかこの3年近くに及ぶ一連の騒動は、普段は自由で個人主義的な風潮を支持しているはずの社会や人びと(一般市民だけでなく知識人や有識者含む)が、とたんに旧弊な「ムラ」の理屈を突きつけて小室氏にバッシングを展開した挙句、眞子さまと小室氏を実質的に日本で暮らせなくするという結末に終わったのだ。小室氏に向けられていた「ダブスタ」「矛盾」「言行不一致」の嵐は、たまたまそのターゲットが彼だったから向けられていたわけではないと、私は予感していた。むしろ、これらこそが日本の市民社会に広く浸透している本音であり、今後なにか別のトリガーがあれば、他のさまざまな人物や事物に、彼が向けられたのと同じ言動やまなざしが向けられることになるだろう――と、当時から考えていた。――その予感は現在、完全に的中していたと言わざるを得ないだろう。世間の人びとは、口先では自由の大切さを語って見せるが、いざ自分の気に入らない人間の自由、あるいは気に入らないタイプの自由の行使の仕方を見かけたら、直前までの態度をあっさりと放棄して、まるで憲兵にでもなったつもりで「お前には自由は相応しくない」と詰め寄り、あるいは「このような自由の行使をゆるしてもよいのか」と政治権力に告発する。社会的生命を絶って「キャンセル」するべくあらゆる手を尽くす。 「社会的に望ましい者だけが、自由を付与されるべきだ」と自由主義者が平然と語る。「悪人にはわれわれ善良な市民と等しい人権や尊厳を与えるべきではない。即刻社会から追い出すべきだ」と人権活動家が声をあげる。「罪刑法定主義など男性優位社会の象徴なのだから潰してしまえ」と法律家が開陳する。「心無い誹謗中傷は人を追いつめるが、こんなクズは死んで当然だ、徹底的に追い込め」とインターネットで自警団が跳梁跋扈する。――そんな時代にわれわれは生きている。小室氏が味わってきた3年間は、いま私たちの暮らす社会を覆いつくす暗雲の小さな予告編に過ぎなかった。小室氏はこの国を離れて当然だろう。私は小室氏と眞子さまの旅立ちを心から祝福したい。「自由」の国アメリカで、どうか幸せな家庭を築いてほしい。本記事と以前の小室氏をテーマにした記事でいただいた原稿料を、それぞれ小室氏にご祝儀としてお渡ししたい。冗談ではなく、本気で言っているので、小室氏からのご連絡をお待ちしております。
たしかに最初の報道がなされた当時には、某メガバンクを早期退職したばかりで、まだ社会人としての経験が浅かったことは否めない。そのため、過去に皇族の女性を妻として迎えてきた人々に比べれば多少は「見劣り」する部分があったかもしれない。だが人間は成長するものだ。この期に及んでなお小室氏の能力を云々することには、さすがに正当性を感じない。 つい先日、メンタリストDaiGoの「ホームレス者・生活保護受給者差別」に、「能力主義的な差別」だとか「優生思想」だとか声を挙げてあれほど糾弾しておきながら 、小室氏に対しては能力主義丸出しのコメントを向ける人びとが大量にいる。小室氏に向けられるこうした能力差別をもとにした侮蔑的な論調には、世間一般の人びとだけでなく一部の知識人や文化人もカジュアルに便乗していた。これを批判してこなかったような人びとに、メンタリストDaiGo氏や彼の言説に対する「正義の怒り」を向ける資格など本来はないだろう。三笠宮さまの意見書まだ書いておくべきことはある。「眞子さまは、こんな身元の怪しい/危うい奴と結婚するべきではない」といった声も、平時の世間の論調とはまったく逆行するものだ。ましてや「親の素性が怪しい者はダメだ」「母子家庭の者はダメだ」などといった言動は、まぎれもない差別であり言語道断だ。つねづね自由恋愛を称賛し、婚姻に関する親からの支配的な口出しを疎んじて「当人同士が決めて幸せならそれでよいのだ!」と突き返す個人主義的な自由恋愛の風潮を礼賛しておきながら、いざ小室氏のことになれば手のひらを反して、氏の母親の「素行不良」を持ち出し、結婚相手に相応しくないなどと言い出す。これをダブルスタンダードと言わずしてなんであるか。 「自由恋愛や結婚に親は介入する権利はない。当人同士の自己決定権の問題だ。法律にもそう記述されている」とか「加害者の家族や親類はその行為とは無関係なのだから、連帯責任のようなムラ的な差別は許されない」などと威勢の良かった人びとはいったいどこにいったのか。いまこそ出番ではないか。「市民社会が個人主義に基づく自由恋愛を肯定していたとしても、それは一般市民の話であって皇族は別だ」とするよくある反論があるが、これについては故・三笠宮さまの意見書がすべてだろう。自由主義・民主主義・人権思想が肯定される現代日本において皇族にだけ、市民社会に当然に付与されているような権利や尊厳が与えられないのは、それこそ皇族に対する人権侵害なのである――と。〈私は皇族の婚姻を皇室会議にかける案には抗議を申込む。勅許も削除したい。新民法(案)では婚姻に親の同意さへ必要としなくなつた。当然皇族も同様に取扱はるべきである。皇族だけこの自由を認めないのは皇族の人格に対する侮辱である。(中略)愛といふものは絶対に第三者には理解出来ないし、又理論でも片付けられないものである。婚姻が不成立の場合でもその原因が当事者のどちらか一方の反対による時には仮令片方の愛が強くても「愛する相手の自由意志を尊重することこそ、即ち相手を最も愛することだ」といつたあきらめも出来るが、それが第三者の而も会議といふ甚だ冷い無情な方法で否決されたら決して承知出来るものではなく、寧(むし)ろ反抗心を燃え立たすばかりで、下手をすると其の本人の一生をあやまらせる原因となるかもしれない。さういふと「でも其の婚姻の相手が皇族たるにふさはしくない者だつたら困る」といふ人が出てくるであらうが私はそれはその皇族に対する小さい時からの性問題に関する教育なり指導なりが悪かつた最後の結果で、そこ迄に立至つてから結婚して悪いの何のと言ふのは既に手遅れであることを強調したい〉(日本経済新聞「三笠宮さまの意見書全文」[2016年11月3日]より引用、※太字は御田寺による) 基本的人権や自由主義を全否定する真正の保守主義者や尊王論者ならば、小室氏と眞子さまの交際や結婚について批判する筋合いもあるだろう。だが、平時においては個々人の自由や人権を擁護するリベラリズムを支持しておきながら、小室氏と眞子さまの私的選択の自由を尊王論者よろしくバッシングしていた者たちは、自分の言行不一致を反省してもらいたい。ネットの有象無象にかぎらず、テレビの知識人やコメンテーターでも文化人やオピニオンリーダーでも、そうした者は大勢いた。恥を知るべきだろう。ある人間のパートナーシップが親の意志によって支配されることを否定する「自由恋愛社会」を支持しているのであれば、小室圭氏と眞子さまの結婚もその社会で生じる当然の帰結のひとつである。これを批判するのは「女性をパートナーに迎える男は、女性以上にすぐれた男でなければならない」という規範意識の表れである。 「彼は例外」と言えるのか、言っていいのかこの3年近くに及ぶ一連の騒動は、普段は自由で個人主義的な風潮を支持しているはずの社会や人びと(一般市民だけでなく知識人や有識者含む)が、とたんに旧弊な「ムラ」の理屈を突きつけて小室氏にバッシングを展開した挙句、眞子さまと小室氏を実質的に日本で暮らせなくするという結末に終わったのだ。小室氏に向けられていた「ダブスタ」「矛盾」「言行不一致」の嵐は、たまたまそのターゲットが彼だったから向けられていたわけではないと、私は予感していた。むしろ、これらこそが日本の市民社会に広く浸透している本音であり、今後なにか別のトリガーがあれば、他のさまざまな人物や事物に、彼が向けられたのと同じ言動やまなざしが向けられることになるだろう――と、当時から考えていた。――その予感は現在、完全に的中していたと言わざるを得ないだろう。世間の人びとは、口先では自由の大切さを語って見せるが、いざ自分の気に入らない人間の自由、あるいは気に入らないタイプの自由の行使の仕方を見かけたら、直前までの態度をあっさりと放棄して、まるで憲兵にでもなったつもりで「お前には自由は相応しくない」と詰め寄り、あるいは「このような自由の行使をゆるしてもよいのか」と政治権力に告発する。社会的生命を絶って「キャンセル」するべくあらゆる手を尽くす。 「社会的に望ましい者だけが、自由を付与されるべきだ」と自由主義者が平然と語る。「悪人にはわれわれ善良な市民と等しい人権や尊厳を与えるべきではない。即刻社会から追い出すべきだ」と人権活動家が声をあげる。「罪刑法定主義など男性優位社会の象徴なのだから潰してしまえ」と法律家が開陳する。「心無い誹謗中傷は人を追いつめるが、こんなクズは死んで当然だ、徹底的に追い込め」とインターネットで自警団が跳梁跋扈する。――そんな時代にわれわれは生きている。小室氏が味わってきた3年間は、いま私たちの暮らす社会を覆いつくす暗雲の小さな予告編に過ぎなかった。小室氏はこの国を離れて当然だろう。私は小室氏と眞子さまの旅立ちを心から祝福したい。「自由」の国アメリカで、どうか幸せな家庭を築いてほしい。本記事と以前の小室氏をテーマにした記事でいただいた原稿料を、それぞれ小室氏にご祝儀としてお渡ししたい。冗談ではなく、本気で言っているので、小室氏からのご連絡をお待ちしております。
つい先日、メンタリストDaiGoの「ホームレス者・生活保護受給者差別」に、「能力主義的な差別」だとか「優生思想」だとか声を挙げてあれほど糾弾しておきながら 、小室氏に対しては能力主義丸出しのコメントを向ける人びとが大量にいる。小室氏に向けられるこうした能力差別をもとにした侮蔑的な論調には、世間一般の人びとだけでなく一部の知識人や文化人もカジュアルに便乗していた。これを批判してこなかったような人びとに、メンタリストDaiGo氏や彼の言説に対する「正義の怒り」を向ける資格など本来はないだろう。三笠宮さまの意見書まだ書いておくべきことはある。「眞子さまは、こんな身元の怪しい/危うい奴と結婚するべきではない」といった声も、平時の世間の論調とはまったく逆行するものだ。ましてや「親の素性が怪しい者はダメだ」「母子家庭の者はダメだ」などといった言動は、まぎれもない差別であり言語道断だ。つねづね自由恋愛を称賛し、婚姻に関する親からの支配的な口出しを疎んじて「当人同士が決めて幸せならそれでよいのだ!」と突き返す個人主義的な自由恋愛の風潮を礼賛しておきながら、いざ小室氏のことになれば手のひらを反して、氏の母親の「素行不良」を持ち出し、結婚相手に相応しくないなどと言い出す。これをダブルスタンダードと言わずしてなんであるか。 「自由恋愛や結婚に親は介入する権利はない。当人同士の自己決定権の問題だ。法律にもそう記述されている」とか「加害者の家族や親類はその行為とは無関係なのだから、連帯責任のようなムラ的な差別は許されない」などと威勢の良かった人びとはいったいどこにいったのか。いまこそ出番ではないか。「市民社会が個人主義に基づく自由恋愛を肯定していたとしても、それは一般市民の話であって皇族は別だ」とするよくある反論があるが、これについては故・三笠宮さまの意見書がすべてだろう。自由主義・民主主義・人権思想が肯定される現代日本において皇族にだけ、市民社会に当然に付与されているような権利や尊厳が与えられないのは、それこそ皇族に対する人権侵害なのである――と。〈私は皇族の婚姻を皇室会議にかける案には抗議を申込む。勅許も削除したい。新民法(案)では婚姻に親の同意さへ必要としなくなつた。当然皇族も同様に取扱はるべきである。皇族だけこの自由を認めないのは皇族の人格に対する侮辱である。(中略)愛といふものは絶対に第三者には理解出来ないし、又理論でも片付けられないものである。婚姻が不成立の場合でもその原因が当事者のどちらか一方の反対による時には仮令片方の愛が強くても「愛する相手の自由意志を尊重することこそ、即ち相手を最も愛することだ」といつたあきらめも出来るが、それが第三者の而も会議といふ甚だ冷い無情な方法で否決されたら決して承知出来るものではなく、寧(むし)ろ反抗心を燃え立たすばかりで、下手をすると其の本人の一生をあやまらせる原因となるかもしれない。さういふと「でも其の婚姻の相手が皇族たるにふさはしくない者だつたら困る」といふ人が出てくるであらうが私はそれはその皇族に対する小さい時からの性問題に関する教育なり指導なりが悪かつた最後の結果で、そこ迄に立至つてから結婚して悪いの何のと言ふのは既に手遅れであることを強調したい〉(日本経済新聞「三笠宮さまの意見書全文」[2016年11月3日]より引用、※太字は御田寺による) 基本的人権や自由主義を全否定する真正の保守主義者や尊王論者ならば、小室氏と眞子さまの交際や結婚について批判する筋合いもあるだろう。だが、平時においては個々人の自由や人権を擁護するリベラリズムを支持しておきながら、小室氏と眞子さまの私的選択の自由を尊王論者よろしくバッシングしていた者たちは、自分の言行不一致を反省してもらいたい。ネットの有象無象にかぎらず、テレビの知識人やコメンテーターでも文化人やオピニオンリーダーでも、そうした者は大勢いた。恥を知るべきだろう。ある人間のパートナーシップが親の意志によって支配されることを否定する「自由恋愛社会」を支持しているのであれば、小室圭氏と眞子さまの結婚もその社会で生じる当然の帰結のひとつである。これを批判するのは「女性をパートナーに迎える男は、女性以上にすぐれた男でなければならない」という規範意識の表れである。 「彼は例外」と言えるのか、言っていいのかこの3年近くに及ぶ一連の騒動は、普段は自由で個人主義的な風潮を支持しているはずの社会や人びと(一般市民だけでなく知識人や有識者含む)が、とたんに旧弊な「ムラ」の理屈を突きつけて小室氏にバッシングを展開した挙句、眞子さまと小室氏を実質的に日本で暮らせなくするという結末に終わったのだ。小室氏に向けられていた「ダブスタ」「矛盾」「言行不一致」の嵐は、たまたまそのターゲットが彼だったから向けられていたわけではないと、私は予感していた。むしろ、これらこそが日本の市民社会に広く浸透している本音であり、今後なにか別のトリガーがあれば、他のさまざまな人物や事物に、彼が向けられたのと同じ言動やまなざしが向けられることになるだろう――と、当時から考えていた。――その予感は現在、完全に的中していたと言わざるを得ないだろう。世間の人びとは、口先では自由の大切さを語って見せるが、いざ自分の気に入らない人間の自由、あるいは気に入らないタイプの自由の行使の仕方を見かけたら、直前までの態度をあっさりと放棄して、まるで憲兵にでもなったつもりで「お前には自由は相応しくない」と詰め寄り、あるいは「このような自由の行使をゆるしてもよいのか」と政治権力に告発する。社会的生命を絶って「キャンセル」するべくあらゆる手を尽くす。 「社会的に望ましい者だけが、自由を付与されるべきだ」と自由主義者が平然と語る。「悪人にはわれわれ善良な市民と等しい人権や尊厳を与えるべきではない。即刻社会から追い出すべきだ」と人権活動家が声をあげる。「罪刑法定主義など男性優位社会の象徴なのだから潰してしまえ」と法律家が開陳する。「心無い誹謗中傷は人を追いつめるが、こんなクズは死んで当然だ、徹底的に追い込め」とインターネットで自警団が跳梁跋扈する。――そんな時代にわれわれは生きている。小室氏が味わってきた3年間は、いま私たちの暮らす社会を覆いつくす暗雲の小さな予告編に過ぎなかった。小室氏はこの国を離れて当然だろう。私は小室氏と眞子さまの旅立ちを心から祝福したい。「自由」の国アメリカで、どうか幸せな家庭を築いてほしい。本記事と以前の小室氏をテーマにした記事でいただいた原稿料を、それぞれ小室氏にご祝儀としてお渡ししたい。冗談ではなく、本気で言っているので、小室氏からのご連絡をお待ちしております。
つい先日、メンタリストDaiGoの「ホームレス者・生活保護受給者差別」に、「能力主義的な差別」だとか「優生思想」だとか声を挙げてあれほど糾弾しておきながら 、小室氏に対しては能力主義丸出しのコメントを向ける人びとが大量にいる。小室氏に向けられるこうした能力差別をもとにした侮蔑的な論調には、世間一般の人びとだけでなく一部の知識人や文化人もカジュアルに便乗していた。これを批判してこなかったような人びとに、メンタリストDaiGo氏や彼の言説に対する「正義の怒り」を向ける資格など本来はないだろう。三笠宮さまの意見書まだ書いておくべきことはある。「眞子さまは、こんな身元の怪しい/危うい奴と結婚するべきではない」といった声も、平時の世間の論調とはまったく逆行するものだ。ましてや「親の素性が怪しい者はダメだ」「母子家庭の者はダメだ」などといった言動は、まぎれもない差別であり言語道断だ。つねづね自由恋愛を称賛し、婚姻に関する親からの支配的な口出しを疎んじて「当人同士が決めて幸せならそれでよいのだ!」と突き返す個人主義的な自由恋愛の風潮を礼賛しておきながら、いざ小室氏のことになれば手のひらを反して、氏の母親の「素行不良」を持ち出し、結婚相手に相応しくないなどと言い出す。これをダブルスタンダードと言わずしてなんであるか。 「自由恋愛や結婚に親は介入する権利はない。当人同士の自己決定権の問題だ。法律にもそう記述されている」とか「加害者の家族や親類はその行為とは無関係なのだから、連帯責任のようなムラ的な差別は許されない」などと威勢の良かった人びとはいったいどこにいったのか。いまこそ出番ではないか。「市民社会が個人主義に基づく自由恋愛を肯定していたとしても、それは一般市民の話であって皇族は別だ」とするよくある反論があるが、これについては故・三笠宮さまの意見書がすべてだろう。自由主義・民主主義・人権思想が肯定される現代日本において皇族にだけ、市民社会に当然に付与されているような権利や尊厳が与えられないのは、それこそ皇族に対する人権侵害なのである――と。〈私は皇族の婚姻を皇室会議にかける案には抗議を申込む。勅許も削除したい。新民法(案)では婚姻に親の同意さへ必要としなくなつた。当然皇族も同様に取扱はるべきである。皇族だけこの自由を認めないのは皇族の人格に対する侮辱である。(中略)愛といふものは絶対に第三者には理解出来ないし、又理論でも片付けられないものである。婚姻が不成立の場合でもその原因が当事者のどちらか一方の反対による時には仮令片方の愛が強くても「愛する相手の自由意志を尊重することこそ、即ち相手を最も愛することだ」といつたあきらめも出来るが、それが第三者の而も会議といふ甚だ冷い無情な方法で否決されたら決して承知出来るものではなく、寧(むし)ろ反抗心を燃え立たすばかりで、下手をすると其の本人の一生をあやまらせる原因となるかもしれない。さういふと「でも其の婚姻の相手が皇族たるにふさはしくない者だつたら困る」といふ人が出てくるであらうが私はそれはその皇族に対する小さい時からの性問題に関する教育なり指導なりが悪かつた最後の結果で、そこ迄に立至つてから結婚して悪いの何のと言ふのは既に手遅れであることを強調したい〉(日本経済新聞「三笠宮さまの意見書全文」[2016年11月3日]より引用、※太字は御田寺による) 基本的人権や自由主義を全否定する真正の保守主義者や尊王論者ならば、小室氏と眞子さまの交際や結婚について批判する筋合いもあるだろう。だが、平時においては個々人の自由や人権を擁護するリベラリズムを支持しておきながら、小室氏と眞子さまの私的選択の自由を尊王論者よろしくバッシングしていた者たちは、自分の言行不一致を反省してもらいたい。ネットの有象無象にかぎらず、テレビの知識人やコメンテーターでも文化人やオピニオンリーダーでも、そうした者は大勢いた。恥を知るべきだろう。ある人間のパートナーシップが親の意志によって支配されることを否定する「自由恋愛社会」を支持しているのであれば、小室圭氏と眞子さまの結婚もその社会で生じる当然の帰結のひとつである。これを批判するのは「女性をパートナーに迎える男は、女性以上にすぐれた男でなければならない」という規範意識の表れである。 「彼は例外」と言えるのか、言っていいのかこの3年近くに及ぶ一連の騒動は、普段は自由で個人主義的な風潮を支持しているはずの社会や人びと(一般市民だけでなく知識人や有識者含む)が、とたんに旧弊な「ムラ」の理屈を突きつけて小室氏にバッシングを展開した挙句、眞子さまと小室氏を実質的に日本で暮らせなくするという結末に終わったのだ。小室氏に向けられていた「ダブスタ」「矛盾」「言行不一致」の嵐は、たまたまそのターゲットが彼だったから向けられていたわけではないと、私は予感していた。むしろ、これらこそが日本の市民社会に広く浸透している本音であり、今後なにか別のトリガーがあれば、他のさまざまな人物や事物に、彼が向けられたのと同じ言動やまなざしが向けられることになるだろう――と、当時から考えていた。――その予感は現在、完全に的中していたと言わざるを得ないだろう。世間の人びとは、口先では自由の大切さを語って見せるが、いざ自分の気に入らない人間の自由、あるいは気に入らないタイプの自由の行使の仕方を見かけたら、直前までの態度をあっさりと放棄して、まるで憲兵にでもなったつもりで「お前には自由は相応しくない」と詰め寄り、あるいは「このような自由の行使をゆるしてもよいのか」と政治権力に告発する。社会的生命を絶って「キャンセル」するべくあらゆる手を尽くす。 「社会的に望ましい者だけが、自由を付与されるべきだ」と自由主義者が平然と語る。「悪人にはわれわれ善良な市民と等しい人権や尊厳を与えるべきではない。即刻社会から追い出すべきだ」と人権活動家が声をあげる。「罪刑法定主義など男性優位社会の象徴なのだから潰してしまえ」と法律家が開陳する。「心無い誹謗中傷は人を追いつめるが、こんなクズは死んで当然だ、徹底的に追い込め」とインターネットで自警団が跳梁跋扈する。――そんな時代にわれわれは生きている。小室氏が味わってきた3年間は、いま私たちの暮らす社会を覆いつくす暗雲の小さな予告編に過ぎなかった。小室氏はこの国を離れて当然だろう。私は小室氏と眞子さまの旅立ちを心から祝福したい。「自由」の国アメリカで、どうか幸せな家庭を築いてほしい。本記事と以前の小室氏をテーマにした記事でいただいた原稿料を、それぞれ小室氏にご祝儀としてお渡ししたい。冗談ではなく、本気で言っているので、小室氏からのご連絡をお待ちしております。
これを批判してこなかったような人びとに、メンタリストDaiGo氏や彼の言説に対する「正義の怒り」を向ける資格など本来はないだろう。三笠宮さまの意見書まだ書いておくべきことはある。「眞子さまは、こんな身元の怪しい/危うい奴と結婚するべきではない」といった声も、平時の世間の論調とはまったく逆行するものだ。ましてや「親の素性が怪しい者はダメだ」「母子家庭の者はダメだ」などといった言動は、まぎれもない差別であり言語道断だ。つねづね自由恋愛を称賛し、婚姻に関する親からの支配的な口出しを疎んじて「当人同士が決めて幸せならそれでよいのだ!」と突き返す個人主義的な自由恋愛の風潮を礼賛しておきながら、いざ小室氏のことになれば手のひらを反して、氏の母親の「素行不良」を持ち出し、結婚相手に相応しくないなどと言い出す。これをダブルスタンダードと言わずしてなんであるか。 「自由恋愛や結婚に親は介入する権利はない。当人同士の自己決定権の問題だ。法律にもそう記述されている」とか「加害者の家族や親類はその行為とは無関係なのだから、連帯責任のようなムラ的な差別は許されない」などと威勢の良かった人びとはいったいどこにいったのか。いまこそ出番ではないか。「市民社会が個人主義に基づく自由恋愛を肯定していたとしても、それは一般市民の話であって皇族は別だ」とするよくある反論があるが、これについては故・三笠宮さまの意見書がすべてだろう。自由主義・民主主義・人権思想が肯定される現代日本において皇族にだけ、市民社会に当然に付与されているような権利や尊厳が与えられないのは、それこそ皇族に対する人権侵害なのである――と。〈私は皇族の婚姻を皇室会議にかける案には抗議を申込む。勅許も削除したい。新民法(案)では婚姻に親の同意さへ必要としなくなつた。当然皇族も同様に取扱はるべきである。皇族だけこの自由を認めないのは皇族の人格に対する侮辱である。(中略)愛といふものは絶対に第三者には理解出来ないし、又理論でも片付けられないものである。婚姻が不成立の場合でもその原因が当事者のどちらか一方の反対による時には仮令片方の愛が強くても「愛する相手の自由意志を尊重することこそ、即ち相手を最も愛することだ」といつたあきらめも出来るが、それが第三者の而も会議といふ甚だ冷い無情な方法で否決されたら決して承知出来るものではなく、寧(むし)ろ反抗心を燃え立たすばかりで、下手をすると其の本人の一生をあやまらせる原因となるかもしれない。さういふと「でも其の婚姻の相手が皇族たるにふさはしくない者だつたら困る」といふ人が出てくるであらうが私はそれはその皇族に対する小さい時からの性問題に関する教育なり指導なりが悪かつた最後の結果で、そこ迄に立至つてから結婚して悪いの何のと言ふのは既に手遅れであることを強調したい〉(日本経済新聞「三笠宮さまの意見書全文」[2016年11月3日]より引用、※太字は御田寺による) 基本的人権や自由主義を全否定する真正の保守主義者や尊王論者ならば、小室氏と眞子さまの交際や結婚について批判する筋合いもあるだろう。だが、平時においては個々人の自由や人権を擁護するリベラリズムを支持しておきながら、小室氏と眞子さまの私的選択の自由を尊王論者よろしくバッシングしていた者たちは、自分の言行不一致を反省してもらいたい。ネットの有象無象にかぎらず、テレビの知識人やコメンテーターでも文化人やオピニオンリーダーでも、そうした者は大勢いた。恥を知るべきだろう。ある人間のパートナーシップが親の意志によって支配されることを否定する「自由恋愛社会」を支持しているのであれば、小室圭氏と眞子さまの結婚もその社会で生じる当然の帰結のひとつである。これを批判するのは「女性をパートナーに迎える男は、女性以上にすぐれた男でなければならない」という規範意識の表れである。 「彼は例外」と言えるのか、言っていいのかこの3年近くに及ぶ一連の騒動は、普段は自由で個人主義的な風潮を支持しているはずの社会や人びと(一般市民だけでなく知識人や有識者含む)が、とたんに旧弊な「ムラ」の理屈を突きつけて小室氏にバッシングを展開した挙句、眞子さまと小室氏を実質的に日本で暮らせなくするという結末に終わったのだ。小室氏に向けられていた「ダブスタ」「矛盾」「言行不一致」の嵐は、たまたまそのターゲットが彼だったから向けられていたわけではないと、私は予感していた。むしろ、これらこそが日本の市民社会に広く浸透している本音であり、今後なにか別のトリガーがあれば、他のさまざまな人物や事物に、彼が向けられたのと同じ言動やまなざしが向けられることになるだろう――と、当時から考えていた。――その予感は現在、完全に的中していたと言わざるを得ないだろう。世間の人びとは、口先では自由の大切さを語って見せるが、いざ自分の気に入らない人間の自由、あるいは気に入らないタイプの自由の行使の仕方を見かけたら、直前までの態度をあっさりと放棄して、まるで憲兵にでもなったつもりで「お前には自由は相応しくない」と詰め寄り、あるいは「このような自由の行使をゆるしてもよいのか」と政治権力に告発する。社会的生命を絶って「キャンセル」するべくあらゆる手を尽くす。 「社会的に望ましい者だけが、自由を付与されるべきだ」と自由主義者が平然と語る。「悪人にはわれわれ善良な市民と等しい人権や尊厳を与えるべきではない。即刻社会から追い出すべきだ」と人権活動家が声をあげる。「罪刑法定主義など男性優位社会の象徴なのだから潰してしまえ」と法律家が開陳する。「心無い誹謗中傷は人を追いつめるが、こんなクズは死んで当然だ、徹底的に追い込め」とインターネットで自警団が跳梁跋扈する。――そんな時代にわれわれは生きている。小室氏が味わってきた3年間は、いま私たちの暮らす社会を覆いつくす暗雲の小さな予告編に過ぎなかった。小室氏はこの国を離れて当然だろう。私は小室氏と眞子さまの旅立ちを心から祝福したい。「自由」の国アメリカで、どうか幸せな家庭を築いてほしい。本記事と以前の小室氏をテーマにした記事でいただいた原稿料を、それぞれ小室氏にご祝儀としてお渡ししたい。冗談ではなく、本気で言っているので、小室氏からのご連絡をお待ちしております。
まだ書いておくべきことはある。「眞子さまは、こんな身元の怪しい/危うい奴と結婚するべきではない」といった声も、平時の世間の論調とはまったく逆行するものだ。ましてや「親の素性が怪しい者はダメだ」「母子家庭の者はダメだ」などといった言動は、まぎれもない差別であり言語道断だ。つねづね自由恋愛を称賛し、婚姻に関する親からの支配的な口出しを疎んじて「当人同士が決めて幸せならそれでよいのだ!」と突き返す個人主義的な自由恋愛の風潮を礼賛しておきながら、いざ小室氏のことになれば手のひらを反して、氏の母親の「素行不良」を持ち出し、結婚相手に相応しくないなどと言い出す。これをダブルスタンダードと言わずしてなんであるか。 「自由恋愛や結婚に親は介入する権利はない。当人同士の自己決定権の問題だ。法律にもそう記述されている」とか「加害者の家族や親類はその行為とは無関係なのだから、連帯責任のようなムラ的な差別は許されない」などと威勢の良かった人びとはいったいどこにいったのか。いまこそ出番ではないか。「市民社会が個人主義に基づく自由恋愛を肯定していたとしても、それは一般市民の話であって皇族は別だ」とするよくある反論があるが、これについては故・三笠宮さまの意見書がすべてだろう。自由主義・民主主義・人権思想が肯定される現代日本において皇族にだけ、市民社会に当然に付与されているような権利や尊厳が与えられないのは、それこそ皇族に対する人権侵害なのである――と。〈私は皇族の婚姻を皇室会議にかける案には抗議を申込む。勅許も削除したい。新民法(案)では婚姻に親の同意さへ必要としなくなつた。当然皇族も同様に取扱はるべきである。皇族だけこの自由を認めないのは皇族の人格に対する侮辱である。(中略)愛といふものは絶対に第三者には理解出来ないし、又理論でも片付けられないものである。婚姻が不成立の場合でもその原因が当事者のどちらか一方の反対による時には仮令片方の愛が強くても「愛する相手の自由意志を尊重することこそ、即ち相手を最も愛することだ」といつたあきらめも出来るが、それが第三者の而も会議といふ甚だ冷い無情な方法で否決されたら決して承知出来るものではなく、寧(むし)ろ反抗心を燃え立たすばかりで、下手をすると其の本人の一生をあやまらせる原因となるかもしれない。さういふと「でも其の婚姻の相手が皇族たるにふさはしくない者だつたら困る」といふ人が出てくるであらうが私はそれはその皇族に対する小さい時からの性問題に関する教育なり指導なりが悪かつた最後の結果で、そこ迄に立至つてから結婚して悪いの何のと言ふのは既に手遅れであることを強調したい〉(日本経済新聞「三笠宮さまの意見書全文」[2016年11月3日]より引用、※太字は御田寺による) 基本的人権や自由主義を全否定する真正の保守主義者や尊王論者ならば、小室氏と眞子さまの交際や結婚について批判する筋合いもあるだろう。だが、平時においては個々人の自由や人権を擁護するリベラリズムを支持しておきながら、小室氏と眞子さまの私的選択の自由を尊王論者よろしくバッシングしていた者たちは、自分の言行不一致を反省してもらいたい。ネットの有象無象にかぎらず、テレビの知識人やコメンテーターでも文化人やオピニオンリーダーでも、そうした者は大勢いた。恥を知るべきだろう。ある人間のパートナーシップが親の意志によって支配されることを否定する「自由恋愛社会」を支持しているのであれば、小室圭氏と眞子さまの結婚もその社会で生じる当然の帰結のひとつである。これを批判するのは「女性をパートナーに迎える男は、女性以上にすぐれた男でなければならない」という規範意識の表れである。 「彼は例外」と言えるのか、言っていいのかこの3年近くに及ぶ一連の騒動は、普段は自由で個人主義的な風潮を支持しているはずの社会や人びと(一般市民だけでなく知識人や有識者含む)が、とたんに旧弊な「ムラ」の理屈を突きつけて小室氏にバッシングを展開した挙句、眞子さまと小室氏を実質的に日本で暮らせなくするという結末に終わったのだ。小室氏に向けられていた「ダブスタ」「矛盾」「言行不一致」の嵐は、たまたまそのターゲットが彼だったから向けられていたわけではないと、私は予感していた。むしろ、これらこそが日本の市民社会に広く浸透している本音であり、今後なにか別のトリガーがあれば、他のさまざまな人物や事物に、彼が向けられたのと同じ言動やまなざしが向けられることになるだろう――と、当時から考えていた。――その予感は現在、完全に的中していたと言わざるを得ないだろう。世間の人びとは、口先では自由の大切さを語って見せるが、いざ自分の気に入らない人間の自由、あるいは気に入らないタイプの自由の行使の仕方を見かけたら、直前までの態度をあっさりと放棄して、まるで憲兵にでもなったつもりで「お前には自由は相応しくない」と詰め寄り、あるいは「このような自由の行使をゆるしてもよいのか」と政治権力に告発する。社会的生命を絶って「キャンセル」するべくあらゆる手を尽くす。 「社会的に望ましい者だけが、自由を付与されるべきだ」と自由主義者が平然と語る。「悪人にはわれわれ善良な市民と等しい人権や尊厳を与えるべきではない。即刻社会から追い出すべきだ」と人権活動家が声をあげる。「罪刑法定主義など男性優位社会の象徴なのだから潰してしまえ」と法律家が開陳する。「心無い誹謗中傷は人を追いつめるが、こんなクズは死んで当然だ、徹底的に追い込め」とインターネットで自警団が跳梁跋扈する。――そんな時代にわれわれは生きている。小室氏が味わってきた3年間は、いま私たちの暮らす社会を覆いつくす暗雲の小さな予告編に過ぎなかった。小室氏はこの国を離れて当然だろう。私は小室氏と眞子さまの旅立ちを心から祝福したい。「自由」の国アメリカで、どうか幸せな家庭を築いてほしい。本記事と以前の小室氏をテーマにした記事でいただいた原稿料を、それぞれ小室氏にご祝儀としてお渡ししたい。冗談ではなく、本気で言っているので、小室氏からのご連絡をお待ちしております。
つねづね自由恋愛を称賛し、婚姻に関する親からの支配的な口出しを疎んじて「当人同士が決めて幸せならそれでよいのだ!」と突き返す個人主義的な自由恋愛の風潮を礼賛しておきながら、いざ小室氏のことになれば手のひらを反して、氏の母親の「素行不良」を持ち出し、結婚相手に相応しくないなどと言い出す。これをダブルスタンダードと言わずしてなんであるか。 「自由恋愛や結婚に親は介入する権利はない。当人同士の自己決定権の問題だ。法律にもそう記述されている」とか「加害者の家族や親類はその行為とは無関係なのだから、連帯責任のようなムラ的な差別は許されない」などと威勢の良かった人びとはいったいどこにいったのか。いまこそ出番ではないか。「市民社会が個人主義に基づく自由恋愛を肯定していたとしても、それは一般市民の話であって皇族は別だ」とするよくある反論があるが、これについては故・三笠宮さまの意見書がすべてだろう。自由主義・民主主義・人権思想が肯定される現代日本において皇族にだけ、市民社会に当然に付与されているような権利や尊厳が与えられないのは、それこそ皇族に対する人権侵害なのである――と。〈私は皇族の婚姻を皇室会議にかける案には抗議を申込む。勅許も削除したい。新民法(案)では婚姻に親の同意さへ必要としなくなつた。当然皇族も同様に取扱はるべきである。皇族だけこの自由を認めないのは皇族の人格に対する侮辱である。(中略)愛といふものは絶対に第三者には理解出来ないし、又理論でも片付けられないものである。婚姻が不成立の場合でもその原因が当事者のどちらか一方の反対による時には仮令片方の愛が強くても「愛する相手の自由意志を尊重することこそ、即ち相手を最も愛することだ」といつたあきらめも出来るが、それが第三者の而も会議といふ甚だ冷い無情な方法で否決されたら決して承知出来るものではなく、寧(むし)ろ反抗心を燃え立たすばかりで、下手をすると其の本人の一生をあやまらせる原因となるかもしれない。さういふと「でも其の婚姻の相手が皇族たるにふさはしくない者だつたら困る」といふ人が出てくるであらうが私はそれはその皇族に対する小さい時からの性問題に関する教育なり指導なりが悪かつた最後の結果で、そこ迄に立至つてから結婚して悪いの何のと言ふのは既に手遅れであることを強調したい〉(日本経済新聞「三笠宮さまの意見書全文」[2016年11月3日]より引用、※太字は御田寺による) 基本的人権や自由主義を全否定する真正の保守主義者や尊王論者ならば、小室氏と眞子さまの交際や結婚について批判する筋合いもあるだろう。だが、平時においては個々人の自由や人権を擁護するリベラリズムを支持しておきながら、小室氏と眞子さまの私的選択の自由を尊王論者よろしくバッシングしていた者たちは、自分の言行不一致を反省してもらいたい。ネットの有象無象にかぎらず、テレビの知識人やコメンテーターでも文化人やオピニオンリーダーでも、そうした者は大勢いた。恥を知るべきだろう。ある人間のパートナーシップが親の意志によって支配されることを否定する「自由恋愛社会」を支持しているのであれば、小室圭氏と眞子さまの結婚もその社会で生じる当然の帰結のひとつである。これを批判するのは「女性をパートナーに迎える男は、女性以上にすぐれた男でなければならない」という規範意識の表れである。 「彼は例外」と言えるのか、言っていいのかこの3年近くに及ぶ一連の騒動は、普段は自由で個人主義的な風潮を支持しているはずの社会や人びと(一般市民だけでなく知識人や有識者含む)が、とたんに旧弊な「ムラ」の理屈を突きつけて小室氏にバッシングを展開した挙句、眞子さまと小室氏を実質的に日本で暮らせなくするという結末に終わったのだ。小室氏に向けられていた「ダブスタ」「矛盾」「言行不一致」の嵐は、たまたまそのターゲットが彼だったから向けられていたわけではないと、私は予感していた。むしろ、これらこそが日本の市民社会に広く浸透している本音であり、今後なにか別のトリガーがあれば、他のさまざまな人物や事物に、彼が向けられたのと同じ言動やまなざしが向けられることになるだろう――と、当時から考えていた。――その予感は現在、完全に的中していたと言わざるを得ないだろう。世間の人びとは、口先では自由の大切さを語って見せるが、いざ自分の気に入らない人間の自由、あるいは気に入らないタイプの自由の行使の仕方を見かけたら、直前までの態度をあっさりと放棄して、まるで憲兵にでもなったつもりで「お前には自由は相応しくない」と詰め寄り、あるいは「このような自由の行使をゆるしてもよいのか」と政治権力に告発する。社会的生命を絶って「キャンセル」するべくあらゆる手を尽くす。 「社会的に望ましい者だけが、自由を付与されるべきだ」と自由主義者が平然と語る。「悪人にはわれわれ善良な市民と等しい人権や尊厳を与えるべきではない。即刻社会から追い出すべきだ」と人権活動家が声をあげる。「罪刑法定主義など男性優位社会の象徴なのだから潰してしまえ」と法律家が開陳する。「心無い誹謗中傷は人を追いつめるが、こんなクズは死んで当然だ、徹底的に追い込め」とインターネットで自警団が跳梁跋扈する。――そんな時代にわれわれは生きている。小室氏が味わってきた3年間は、いま私たちの暮らす社会を覆いつくす暗雲の小さな予告編に過ぎなかった。小室氏はこの国を離れて当然だろう。私は小室氏と眞子さまの旅立ちを心から祝福したい。「自由」の国アメリカで、どうか幸せな家庭を築いてほしい。本記事と以前の小室氏をテーマにした記事でいただいた原稿料を、それぞれ小室氏にご祝儀としてお渡ししたい。冗談ではなく、本気で言っているので、小室氏からのご連絡をお待ちしております。
「自由恋愛や結婚に親は介入する権利はない。当人同士の自己決定権の問題だ。法律にもそう記述されている」とか「加害者の家族や親類はその行為とは無関係なのだから、連帯責任のようなムラ的な差別は許されない」などと威勢の良かった人びとはいったいどこにいったのか。いまこそ出番ではないか。「市民社会が個人主義に基づく自由恋愛を肯定していたとしても、それは一般市民の話であって皇族は別だ」とするよくある反論があるが、これについては故・三笠宮さまの意見書がすべてだろう。自由主義・民主主義・人権思想が肯定される現代日本において皇族にだけ、市民社会に当然に付与されているような権利や尊厳が与えられないのは、それこそ皇族に対する人権侵害なのである――と。〈私は皇族の婚姻を皇室会議にかける案には抗議を申込む。勅許も削除したい。新民法(案)では婚姻に親の同意さへ必要としなくなつた。当然皇族も同様に取扱はるべきである。皇族だけこの自由を認めないのは皇族の人格に対する侮辱である。(中略)愛といふものは絶対に第三者には理解出来ないし、又理論でも片付けられないものである。婚姻が不成立の場合でもその原因が当事者のどちらか一方の反対による時には仮令片方の愛が強くても「愛する相手の自由意志を尊重することこそ、即ち相手を最も愛することだ」といつたあきらめも出来るが、それが第三者の而も会議といふ甚だ冷い無情な方法で否決されたら決して承知出来るものではなく、寧(むし)ろ反抗心を燃え立たすばかりで、下手をすると其の本人の一生をあやまらせる原因となるかもしれない。さういふと「でも其の婚姻の相手が皇族たるにふさはしくない者だつたら困る」といふ人が出てくるであらうが私はそれはその皇族に対する小さい時からの性問題に関する教育なり指導なりが悪かつた最後の結果で、そこ迄に立至つてから結婚して悪いの何のと言ふのは既に手遅れであることを強調したい〉(日本経済新聞「三笠宮さまの意見書全文」[2016年11月3日]より引用、※太字は御田寺による) 基本的人権や自由主義を全否定する真正の保守主義者や尊王論者ならば、小室氏と眞子さまの交際や結婚について批判する筋合いもあるだろう。だが、平時においては個々人の自由や人権を擁護するリベラリズムを支持しておきながら、小室氏と眞子さまの私的選択の自由を尊王論者よろしくバッシングしていた者たちは、自分の言行不一致を反省してもらいたい。ネットの有象無象にかぎらず、テレビの知識人やコメンテーターでも文化人やオピニオンリーダーでも、そうした者は大勢いた。恥を知るべきだろう。ある人間のパートナーシップが親の意志によって支配されることを否定する「自由恋愛社会」を支持しているのであれば、小室圭氏と眞子さまの結婚もその社会で生じる当然の帰結のひとつである。これを批判するのは「女性をパートナーに迎える男は、女性以上にすぐれた男でなければならない」という規範意識の表れである。 「彼は例外」と言えるのか、言っていいのかこの3年近くに及ぶ一連の騒動は、普段は自由で個人主義的な風潮を支持しているはずの社会や人びと(一般市民だけでなく知識人や有識者含む)が、とたんに旧弊な「ムラ」の理屈を突きつけて小室氏にバッシングを展開した挙句、眞子さまと小室氏を実質的に日本で暮らせなくするという結末に終わったのだ。小室氏に向けられていた「ダブスタ」「矛盾」「言行不一致」の嵐は、たまたまそのターゲットが彼だったから向けられていたわけではないと、私は予感していた。むしろ、これらこそが日本の市民社会に広く浸透している本音であり、今後なにか別のトリガーがあれば、他のさまざまな人物や事物に、彼が向けられたのと同じ言動やまなざしが向けられることになるだろう――と、当時から考えていた。――その予感は現在、完全に的中していたと言わざるを得ないだろう。世間の人びとは、口先では自由の大切さを語って見せるが、いざ自分の気に入らない人間の自由、あるいは気に入らないタイプの自由の行使の仕方を見かけたら、直前までの態度をあっさりと放棄して、まるで憲兵にでもなったつもりで「お前には自由は相応しくない」と詰め寄り、あるいは「このような自由の行使をゆるしてもよいのか」と政治権力に告発する。社会的生命を絶って「キャンセル」するべくあらゆる手を尽くす。 「社会的に望ましい者だけが、自由を付与されるべきだ」と自由主義者が平然と語る。「悪人にはわれわれ善良な市民と等しい人権や尊厳を与えるべきではない。即刻社会から追い出すべきだ」と人権活動家が声をあげる。「罪刑法定主義など男性優位社会の象徴なのだから潰してしまえ」と法律家が開陳する。「心無い誹謗中傷は人を追いつめるが、こんなクズは死んで当然だ、徹底的に追い込め」とインターネットで自警団が跳梁跋扈する。――そんな時代にわれわれは生きている。小室氏が味わってきた3年間は、いま私たちの暮らす社会を覆いつくす暗雲の小さな予告編に過ぎなかった。小室氏はこの国を離れて当然だろう。私は小室氏と眞子さまの旅立ちを心から祝福したい。「自由」の国アメリカで、どうか幸せな家庭を築いてほしい。本記事と以前の小室氏をテーマにした記事でいただいた原稿料を、それぞれ小室氏にご祝儀としてお渡ししたい。冗談ではなく、本気で言っているので、小室氏からのご連絡をお待ちしております。
「自由恋愛や結婚に親は介入する権利はない。当人同士の自己決定権の問題だ。法律にもそう記述されている」とか「加害者の家族や親類はその行為とは無関係なのだから、連帯責任のようなムラ的な差別は許されない」などと威勢の良かった人びとはいったいどこにいったのか。いまこそ出番ではないか。「市民社会が個人主義に基づく自由恋愛を肯定していたとしても、それは一般市民の話であって皇族は別だ」とするよくある反論があるが、これについては故・三笠宮さまの意見書がすべてだろう。自由主義・民主主義・人権思想が肯定される現代日本において皇族にだけ、市民社会に当然に付与されているような権利や尊厳が与えられないのは、それこそ皇族に対する人権侵害なのである――と。〈私は皇族の婚姻を皇室会議にかける案には抗議を申込む。勅許も削除したい。新民法(案)では婚姻に親の同意さへ必要としなくなつた。当然皇族も同様に取扱はるべきである。皇族だけこの自由を認めないのは皇族の人格に対する侮辱である。(中略)愛といふものは絶対に第三者には理解出来ないし、又理論でも片付けられないものである。婚姻が不成立の場合でもその原因が当事者のどちらか一方の反対による時には仮令片方の愛が強くても「愛する相手の自由意志を尊重することこそ、即ち相手を最も愛することだ」といつたあきらめも出来るが、それが第三者の而も会議といふ甚だ冷い無情な方法で否決されたら決して承知出来るものではなく、寧(むし)ろ反抗心を燃え立たすばかりで、下手をすると其の本人の一生をあやまらせる原因となるかもしれない。さういふと「でも其の婚姻の相手が皇族たるにふさはしくない者だつたら困る」といふ人が出てくるであらうが私はそれはその皇族に対する小さい時からの性問題に関する教育なり指導なりが悪かつた最後の結果で、そこ迄に立至つてから結婚して悪いの何のと言ふのは既に手遅れであることを強調したい〉(日本経済新聞「三笠宮さまの意見書全文」[2016年11月3日]より引用、※太字は御田寺による) 基本的人権や自由主義を全否定する真正の保守主義者や尊王論者ならば、小室氏と眞子さまの交際や結婚について批判する筋合いもあるだろう。だが、平時においては個々人の自由や人権を擁護するリベラリズムを支持しておきながら、小室氏と眞子さまの私的選択の自由を尊王論者よろしくバッシングしていた者たちは、自分の言行不一致を反省してもらいたい。ネットの有象無象にかぎらず、テレビの知識人やコメンテーターでも文化人やオピニオンリーダーでも、そうした者は大勢いた。恥を知るべきだろう。ある人間のパートナーシップが親の意志によって支配されることを否定する「自由恋愛社会」を支持しているのであれば、小室圭氏と眞子さまの結婚もその社会で生じる当然の帰結のひとつである。これを批判するのは「女性をパートナーに迎える男は、女性以上にすぐれた男でなければならない」という規範意識の表れである。 「彼は例外」と言えるのか、言っていいのかこの3年近くに及ぶ一連の騒動は、普段は自由で個人主義的な風潮を支持しているはずの社会や人びと(一般市民だけでなく知識人や有識者含む)が、とたんに旧弊な「ムラ」の理屈を突きつけて小室氏にバッシングを展開した挙句、眞子さまと小室氏を実質的に日本で暮らせなくするという結末に終わったのだ。小室氏に向けられていた「ダブスタ」「矛盾」「言行不一致」の嵐は、たまたまそのターゲットが彼だったから向けられていたわけではないと、私は予感していた。むしろ、これらこそが日本の市民社会に広く浸透している本音であり、今後なにか別のトリガーがあれば、他のさまざまな人物や事物に、彼が向けられたのと同じ言動やまなざしが向けられることになるだろう――と、当時から考えていた。――その予感は現在、完全に的中していたと言わざるを得ないだろう。世間の人びとは、口先では自由の大切さを語って見せるが、いざ自分の気に入らない人間の自由、あるいは気に入らないタイプの自由の行使の仕方を見かけたら、直前までの態度をあっさりと放棄して、まるで憲兵にでもなったつもりで「お前には自由は相応しくない」と詰め寄り、あるいは「このような自由の行使をゆるしてもよいのか」と政治権力に告発する。社会的生命を絶って「キャンセル」するべくあらゆる手を尽くす。 「社会的に望ましい者だけが、自由を付与されるべきだ」と自由主義者が平然と語る。「悪人にはわれわれ善良な市民と等しい人権や尊厳を与えるべきではない。即刻社会から追い出すべきだ」と人権活動家が声をあげる。「罪刑法定主義など男性優位社会の象徴なのだから潰してしまえ」と法律家が開陳する。「心無い誹謗中傷は人を追いつめるが、こんなクズは死んで当然だ、徹底的に追い込め」とインターネットで自警団が跳梁跋扈する。――そんな時代にわれわれは生きている。小室氏が味わってきた3年間は、いま私たちの暮らす社会を覆いつくす暗雲の小さな予告編に過ぎなかった。小室氏はこの国を離れて当然だろう。私は小室氏と眞子さまの旅立ちを心から祝福したい。「自由」の国アメリカで、どうか幸せな家庭を築いてほしい。本記事と以前の小室氏をテーマにした記事でいただいた原稿料を、それぞれ小室氏にご祝儀としてお渡ししたい。冗談ではなく、本気で言っているので、小室氏からのご連絡をお待ちしております。
「市民社会が個人主義に基づく自由恋愛を肯定していたとしても、それは一般市民の話であって皇族は別だ」とするよくある反論があるが、これについては故・三笠宮さまの意見書がすべてだろう。自由主義・民主主義・人権思想が肯定される現代日本において皇族にだけ、市民社会に当然に付与されているような権利や尊厳が与えられないのは、それこそ皇族に対する人権侵害なのである――と。〈私は皇族の婚姻を皇室会議にかける案には抗議を申込む。勅許も削除したい。新民法(案)では婚姻に親の同意さへ必要としなくなつた。当然皇族も同様に取扱はるべきである。皇族だけこの自由を認めないのは皇族の人格に対する侮辱である。(中略)愛といふものは絶対に第三者には理解出来ないし、又理論でも片付けられないものである。婚姻が不成立の場合でもその原因が当事者のどちらか一方の反対による時には仮令片方の愛が強くても「愛する相手の自由意志を尊重することこそ、即ち相手を最も愛することだ」といつたあきらめも出来るが、それが第三者の而も会議といふ甚だ冷い無情な方法で否決されたら決して承知出来るものではなく、寧(むし)ろ反抗心を燃え立たすばかりで、下手をすると其の本人の一生をあやまらせる原因となるかもしれない。さういふと「でも其の婚姻の相手が皇族たるにふさはしくない者だつたら困る」といふ人が出てくるであらうが私はそれはその皇族に対する小さい時からの性問題に関する教育なり指導なりが悪かつた最後の結果で、そこ迄に立至つてから結婚して悪いの何のと言ふのは既に手遅れであることを強調したい〉(日本経済新聞「三笠宮さまの意見書全文」[2016年11月3日]より引用、※太字は御田寺による) 基本的人権や自由主義を全否定する真正の保守主義者や尊王論者ならば、小室氏と眞子さまの交際や結婚について批判する筋合いもあるだろう。だが、平時においては個々人の自由や人権を擁護するリベラリズムを支持しておきながら、小室氏と眞子さまの私的選択の自由を尊王論者よろしくバッシングしていた者たちは、自分の言行不一致を反省してもらいたい。ネットの有象無象にかぎらず、テレビの知識人やコメンテーターでも文化人やオピニオンリーダーでも、そうした者は大勢いた。恥を知るべきだろう。ある人間のパートナーシップが親の意志によって支配されることを否定する「自由恋愛社会」を支持しているのであれば、小室圭氏と眞子さまの結婚もその社会で生じる当然の帰結のひとつである。これを批判するのは「女性をパートナーに迎える男は、女性以上にすぐれた男でなければならない」という規範意識の表れである。 「彼は例外」と言えるのか、言っていいのかこの3年近くに及ぶ一連の騒動は、普段は自由で個人主義的な風潮を支持しているはずの社会や人びと(一般市民だけでなく知識人や有識者含む)が、とたんに旧弊な「ムラ」の理屈を突きつけて小室氏にバッシングを展開した挙句、眞子さまと小室氏を実質的に日本で暮らせなくするという結末に終わったのだ。小室氏に向けられていた「ダブスタ」「矛盾」「言行不一致」の嵐は、たまたまそのターゲットが彼だったから向けられていたわけではないと、私は予感していた。むしろ、これらこそが日本の市民社会に広く浸透している本音であり、今後なにか別のトリガーがあれば、他のさまざまな人物や事物に、彼が向けられたのと同じ言動やまなざしが向けられることになるだろう――と、当時から考えていた。――その予感は現在、完全に的中していたと言わざるを得ないだろう。世間の人びとは、口先では自由の大切さを語って見せるが、いざ自分の気に入らない人間の自由、あるいは気に入らないタイプの自由の行使の仕方を見かけたら、直前までの態度をあっさりと放棄して、まるで憲兵にでもなったつもりで「お前には自由は相応しくない」と詰め寄り、あるいは「このような自由の行使をゆるしてもよいのか」と政治権力に告発する。社会的生命を絶って「キャンセル」するべくあらゆる手を尽くす。 「社会的に望ましい者だけが、自由を付与されるべきだ」と自由主義者が平然と語る。「悪人にはわれわれ善良な市民と等しい人権や尊厳を与えるべきではない。即刻社会から追い出すべきだ」と人権活動家が声をあげる。「罪刑法定主義など男性優位社会の象徴なのだから潰してしまえ」と法律家が開陳する。「心無い誹謗中傷は人を追いつめるが、こんなクズは死んで当然だ、徹底的に追い込め」とインターネットで自警団が跳梁跋扈する。――そんな時代にわれわれは生きている。小室氏が味わってきた3年間は、いま私たちの暮らす社会を覆いつくす暗雲の小さな予告編に過ぎなかった。小室氏はこの国を離れて当然だろう。私は小室氏と眞子さまの旅立ちを心から祝福したい。「自由」の国アメリカで、どうか幸せな家庭を築いてほしい。本記事と以前の小室氏をテーマにした記事でいただいた原稿料を、それぞれ小室氏にご祝儀としてお渡ししたい。冗談ではなく、本気で言っているので、小室氏からのご連絡をお待ちしております。
〈私は皇族の婚姻を皇室会議にかける案には抗議を申込む。勅許も削除したい。新民法(案)では婚姻に親の同意さへ必要としなくなつた。当然皇族も同様に取扱はるべきである。皇族だけこの自由を認めないのは皇族の人格に対する侮辱である。(中略)愛といふものは絶対に第三者には理解出来ないし、又理論でも片付けられないものである。婚姻が不成立の場合でもその原因が当事者のどちらか一方の反対による時には仮令片方の愛が強くても「愛する相手の自由意志を尊重することこそ、即ち相手を最も愛することだ」といつたあきらめも出来るが、それが第三者の而も会議といふ甚だ冷い無情な方法で否決されたら決して承知出来るものではなく、寧(むし)ろ反抗心を燃え立たすばかりで、下手をすると其の本人の一生をあやまらせる原因となるかもしれない。さういふと「でも其の婚姻の相手が皇族たるにふさはしくない者だつたら困る」といふ人が出てくるであらうが私はそれはその皇族に対する小さい時からの性問題に関する教育なり指導なりが悪かつた最後の結果で、そこ迄に立至つてから結婚して悪いの何のと言ふのは既に手遅れであることを強調したい〉(日本経済新聞「三笠宮さまの意見書全文」[2016年11月3日]より引用、※太字は御田寺による) 基本的人権や自由主義を全否定する真正の保守主義者や尊王論者ならば、小室氏と眞子さまの交際や結婚について批判する筋合いもあるだろう。だが、平時においては個々人の自由や人権を擁護するリベラリズムを支持しておきながら、小室氏と眞子さまの私的選択の自由を尊王論者よろしくバッシングしていた者たちは、自分の言行不一致を反省してもらいたい。ネットの有象無象にかぎらず、テレビの知識人やコメンテーターでも文化人やオピニオンリーダーでも、そうした者は大勢いた。恥を知るべきだろう。ある人間のパートナーシップが親の意志によって支配されることを否定する「自由恋愛社会」を支持しているのであれば、小室圭氏と眞子さまの結婚もその社会で生じる当然の帰結のひとつである。これを批判するのは「女性をパートナーに迎える男は、女性以上にすぐれた男でなければならない」という規範意識の表れである。 「彼は例外」と言えるのか、言っていいのかこの3年近くに及ぶ一連の騒動は、普段は自由で個人主義的な風潮を支持しているはずの社会や人びと(一般市民だけでなく知識人や有識者含む)が、とたんに旧弊な「ムラ」の理屈を突きつけて小室氏にバッシングを展開した挙句、眞子さまと小室氏を実質的に日本で暮らせなくするという結末に終わったのだ。小室氏に向けられていた「ダブスタ」「矛盾」「言行不一致」の嵐は、たまたまそのターゲットが彼だったから向けられていたわけではないと、私は予感していた。むしろ、これらこそが日本の市民社会に広く浸透している本音であり、今後なにか別のトリガーがあれば、他のさまざまな人物や事物に、彼が向けられたのと同じ言動やまなざしが向けられることになるだろう――と、当時から考えていた。――その予感は現在、完全に的中していたと言わざるを得ないだろう。世間の人びとは、口先では自由の大切さを語って見せるが、いざ自分の気に入らない人間の自由、あるいは気に入らないタイプの自由の行使の仕方を見かけたら、直前までの態度をあっさりと放棄して、まるで憲兵にでもなったつもりで「お前には自由は相応しくない」と詰め寄り、あるいは「このような自由の行使をゆるしてもよいのか」と政治権力に告発する。社会的生命を絶って「キャンセル」するべくあらゆる手を尽くす。 「社会的に望ましい者だけが、自由を付与されるべきだ」と自由主義者が平然と語る。「悪人にはわれわれ善良な市民と等しい人権や尊厳を与えるべきではない。即刻社会から追い出すべきだ」と人権活動家が声をあげる。「罪刑法定主義など男性優位社会の象徴なのだから潰してしまえ」と法律家が開陳する。「心無い誹謗中傷は人を追いつめるが、こんなクズは死んで当然だ、徹底的に追い込め」とインターネットで自警団が跳梁跋扈する。――そんな時代にわれわれは生きている。小室氏が味わってきた3年間は、いま私たちの暮らす社会を覆いつくす暗雲の小さな予告編に過ぎなかった。小室氏はこの国を離れて当然だろう。私は小室氏と眞子さまの旅立ちを心から祝福したい。「自由」の国アメリカで、どうか幸せな家庭を築いてほしい。本記事と以前の小室氏をテーマにした記事でいただいた原稿料を、それぞれ小室氏にご祝儀としてお渡ししたい。冗談ではなく、本気で言っているので、小室氏からのご連絡をお待ちしております。
愛といふものは絶対に第三者には理解出来ないし、又理論でも片付けられないものである。婚姻が不成立の場合でもその原因が当事者のどちらか一方の反対による時には仮令片方の愛が強くても「愛する相手の自由意志を尊重することこそ、即ち相手を最も愛することだ」といつたあきらめも出来るが、それが第三者の而も会議といふ甚だ冷い無情な方法で否決されたら決して承知出来るものではなく、寧(むし)ろ反抗心を燃え立たすばかりで、下手をすると其の本人の一生をあやまらせる原因となるかもしれない。さういふと「でも其の婚姻の相手が皇族たるにふさはしくない者だつたら困る」といふ人が出てくるであらうが私はそれはその皇族に対する小さい時からの性問題に関する教育なり指導なりが悪かつた最後の結果で、そこ迄に立至つてから結婚して悪いの何のと言ふのは既に手遅れであることを強調したい〉(日本経済新聞「三笠宮さまの意見書全文」[2016年11月3日]より引用、※太字は御田寺による) 基本的人権や自由主義を全否定する真正の保守主義者や尊王論者ならば、小室氏と眞子さまの交際や結婚について批判する筋合いもあるだろう。だが、平時においては個々人の自由や人権を擁護するリベラリズムを支持しておきながら、小室氏と眞子さまの私的選択の自由を尊王論者よろしくバッシングしていた者たちは、自分の言行不一致を反省してもらいたい。ネットの有象無象にかぎらず、テレビの知識人やコメンテーターでも文化人やオピニオンリーダーでも、そうした者は大勢いた。恥を知るべきだろう。ある人間のパートナーシップが親の意志によって支配されることを否定する「自由恋愛社会」を支持しているのであれば、小室圭氏と眞子さまの結婚もその社会で生じる当然の帰結のひとつである。これを批判するのは「女性をパートナーに迎える男は、女性以上にすぐれた男でなければならない」という規範意識の表れである。 「彼は例外」と言えるのか、言っていいのかこの3年近くに及ぶ一連の騒動は、普段は自由で個人主義的な風潮を支持しているはずの社会や人びと(一般市民だけでなく知識人や有識者含む)が、とたんに旧弊な「ムラ」の理屈を突きつけて小室氏にバッシングを展開した挙句、眞子さまと小室氏を実質的に日本で暮らせなくするという結末に終わったのだ。小室氏に向けられていた「ダブスタ」「矛盾」「言行不一致」の嵐は、たまたまそのターゲットが彼だったから向けられていたわけではないと、私は予感していた。むしろ、これらこそが日本の市民社会に広く浸透している本音であり、今後なにか別のトリガーがあれば、他のさまざまな人物や事物に、彼が向けられたのと同じ言動やまなざしが向けられることになるだろう――と、当時から考えていた。――その予感は現在、完全に的中していたと言わざるを得ないだろう。世間の人びとは、口先では自由の大切さを語って見せるが、いざ自分の気に入らない人間の自由、あるいは気に入らないタイプの自由の行使の仕方を見かけたら、直前までの態度をあっさりと放棄して、まるで憲兵にでもなったつもりで「お前には自由は相応しくない」と詰め寄り、あるいは「このような自由の行使をゆるしてもよいのか」と政治権力に告発する。社会的生命を絶って「キャンセル」するべくあらゆる手を尽くす。 「社会的に望ましい者だけが、自由を付与されるべきだ」と自由主義者が平然と語る。「悪人にはわれわれ善良な市民と等しい人権や尊厳を与えるべきではない。即刻社会から追い出すべきだ」と人権活動家が声をあげる。「罪刑法定主義など男性優位社会の象徴なのだから潰してしまえ」と法律家が開陳する。「心無い誹謗中傷は人を追いつめるが、こんなクズは死んで当然だ、徹底的に追い込め」とインターネットで自警団が跳梁跋扈する。――そんな時代にわれわれは生きている。小室氏が味わってきた3年間は、いま私たちの暮らす社会を覆いつくす暗雲の小さな予告編に過ぎなかった。小室氏はこの国を離れて当然だろう。私は小室氏と眞子さまの旅立ちを心から祝福したい。「自由」の国アメリカで、どうか幸せな家庭を築いてほしい。本記事と以前の小室氏をテーマにした記事でいただいた原稿料を、それぞれ小室氏にご祝儀としてお渡ししたい。冗談ではなく、本気で言っているので、小室氏からのご連絡をお待ちしております。
基本的人権や自由主義を全否定する真正の保守主義者や尊王論者ならば、小室氏と眞子さまの交際や結婚について批判する筋合いもあるだろう。だが、平時においては個々人の自由や人権を擁護するリベラリズムを支持しておきながら、小室氏と眞子さまの私的選択の自由を尊王論者よろしくバッシングしていた者たちは、自分の言行不一致を反省してもらいたい。ネットの有象無象にかぎらず、テレビの知識人やコメンテーターでも文化人やオピニオンリーダーでも、そうした者は大勢いた。恥を知るべきだろう。ある人間のパートナーシップが親の意志によって支配されることを否定する「自由恋愛社会」を支持しているのであれば、小室圭氏と眞子さまの結婚もその社会で生じる当然の帰結のひとつである。これを批判するのは「女性をパートナーに迎える男は、女性以上にすぐれた男でなければならない」という規範意識の表れである。 「彼は例外」と言えるのか、言っていいのかこの3年近くに及ぶ一連の騒動は、普段は自由で個人主義的な風潮を支持しているはずの社会や人びと(一般市民だけでなく知識人や有識者含む)が、とたんに旧弊な「ムラ」の理屈を突きつけて小室氏にバッシングを展開した挙句、眞子さまと小室氏を実質的に日本で暮らせなくするという結末に終わったのだ。小室氏に向けられていた「ダブスタ」「矛盾」「言行不一致」の嵐は、たまたまそのターゲットが彼だったから向けられていたわけではないと、私は予感していた。むしろ、これらこそが日本の市民社会に広く浸透している本音であり、今後なにか別のトリガーがあれば、他のさまざまな人物や事物に、彼が向けられたのと同じ言動やまなざしが向けられることになるだろう――と、当時から考えていた。――その予感は現在、完全に的中していたと言わざるを得ないだろう。世間の人びとは、口先では自由の大切さを語って見せるが、いざ自分の気に入らない人間の自由、あるいは気に入らないタイプの自由の行使の仕方を見かけたら、直前までの態度をあっさりと放棄して、まるで憲兵にでもなったつもりで「お前には自由は相応しくない」と詰め寄り、あるいは「このような自由の行使をゆるしてもよいのか」と政治権力に告発する。社会的生命を絶って「キャンセル」するべくあらゆる手を尽くす。 「社会的に望ましい者だけが、自由を付与されるべきだ」と自由主義者が平然と語る。「悪人にはわれわれ善良な市民と等しい人権や尊厳を与えるべきではない。即刻社会から追い出すべきだ」と人権活動家が声をあげる。「罪刑法定主義など男性優位社会の象徴なのだから潰してしまえ」と法律家が開陳する。「心無い誹謗中傷は人を追いつめるが、こんなクズは死んで当然だ、徹底的に追い込め」とインターネットで自警団が跳梁跋扈する。――そんな時代にわれわれは生きている。小室氏が味わってきた3年間は、いま私たちの暮らす社会を覆いつくす暗雲の小さな予告編に過ぎなかった。小室氏はこの国を離れて当然だろう。私は小室氏と眞子さまの旅立ちを心から祝福したい。「自由」の国アメリカで、どうか幸せな家庭を築いてほしい。本記事と以前の小室氏をテーマにした記事でいただいた原稿料を、それぞれ小室氏にご祝儀としてお渡ししたい。冗談ではなく、本気で言っているので、小室氏からのご連絡をお待ちしております。
だが、平時においては個々人の自由や人権を擁護するリベラリズムを支持しておきながら、小室氏と眞子さまの私的選択の自由を尊王論者よろしくバッシングしていた者たちは、自分の言行不一致を反省してもらいたい。ネットの有象無象にかぎらず、テレビの知識人やコメンテーターでも文化人やオピニオンリーダーでも、そうした者は大勢いた。恥を知るべきだろう。ある人間のパートナーシップが親の意志によって支配されることを否定する「自由恋愛社会」を支持しているのであれば、小室圭氏と眞子さまの結婚もその社会で生じる当然の帰結のひとつである。これを批判するのは「女性をパートナーに迎える男は、女性以上にすぐれた男でなければならない」という規範意識の表れである。 「彼は例外」と言えるのか、言っていいのかこの3年近くに及ぶ一連の騒動は、普段は自由で個人主義的な風潮を支持しているはずの社会や人びと(一般市民だけでなく知識人や有識者含む)が、とたんに旧弊な「ムラ」の理屈を突きつけて小室氏にバッシングを展開した挙句、眞子さまと小室氏を実質的に日本で暮らせなくするという結末に終わったのだ。小室氏に向けられていた「ダブスタ」「矛盾」「言行不一致」の嵐は、たまたまそのターゲットが彼だったから向けられていたわけではないと、私は予感していた。むしろ、これらこそが日本の市民社会に広く浸透している本音であり、今後なにか別のトリガーがあれば、他のさまざまな人物や事物に、彼が向けられたのと同じ言動やまなざしが向けられることになるだろう――と、当時から考えていた。――その予感は現在、完全に的中していたと言わざるを得ないだろう。世間の人びとは、口先では自由の大切さを語って見せるが、いざ自分の気に入らない人間の自由、あるいは気に入らないタイプの自由の行使の仕方を見かけたら、直前までの態度をあっさりと放棄して、まるで憲兵にでもなったつもりで「お前には自由は相応しくない」と詰め寄り、あるいは「このような自由の行使をゆるしてもよいのか」と政治権力に告発する。社会的生命を絶って「キャンセル」するべくあらゆる手を尽くす。 「社会的に望ましい者だけが、自由を付与されるべきだ」と自由主義者が平然と語る。「悪人にはわれわれ善良な市民と等しい人権や尊厳を与えるべきではない。即刻社会から追い出すべきだ」と人権活動家が声をあげる。「罪刑法定主義など男性優位社会の象徴なのだから潰してしまえ」と法律家が開陳する。「心無い誹謗中傷は人を追いつめるが、こんなクズは死んで当然だ、徹底的に追い込め」とインターネットで自警団が跳梁跋扈する。――そんな時代にわれわれは生きている。小室氏が味わってきた3年間は、いま私たちの暮らす社会を覆いつくす暗雲の小さな予告編に過ぎなかった。小室氏はこの国を離れて当然だろう。私は小室氏と眞子さまの旅立ちを心から祝福したい。「自由」の国アメリカで、どうか幸せな家庭を築いてほしい。本記事と以前の小室氏をテーマにした記事でいただいた原稿料を、それぞれ小室氏にご祝儀としてお渡ししたい。冗談ではなく、本気で言っているので、小室氏からのご連絡をお待ちしております。
ある人間のパートナーシップが親の意志によって支配されることを否定する「自由恋愛社会」を支持しているのであれば、小室圭氏と眞子さまの結婚もその社会で生じる当然の帰結のひとつである。これを批判するのは「女性をパートナーに迎える男は、女性以上にすぐれた男でなければならない」という規範意識の表れである。 「彼は例外」と言えるのか、言っていいのかこの3年近くに及ぶ一連の騒動は、普段は自由で個人主義的な風潮を支持しているはずの社会や人びと(一般市民だけでなく知識人や有識者含む)が、とたんに旧弊な「ムラ」の理屈を突きつけて小室氏にバッシングを展開した挙句、眞子さまと小室氏を実質的に日本で暮らせなくするという結末に終わったのだ。小室氏に向けられていた「ダブスタ」「矛盾」「言行不一致」の嵐は、たまたまそのターゲットが彼だったから向けられていたわけではないと、私は予感していた。むしろ、これらこそが日本の市民社会に広く浸透している本音であり、今後なにか別のトリガーがあれば、他のさまざまな人物や事物に、彼が向けられたのと同じ言動やまなざしが向けられることになるだろう――と、当時から考えていた。――その予感は現在、完全に的中していたと言わざるを得ないだろう。世間の人びとは、口先では自由の大切さを語って見せるが、いざ自分の気に入らない人間の自由、あるいは気に入らないタイプの自由の行使の仕方を見かけたら、直前までの態度をあっさりと放棄して、まるで憲兵にでもなったつもりで「お前には自由は相応しくない」と詰め寄り、あるいは「このような自由の行使をゆるしてもよいのか」と政治権力に告発する。社会的生命を絶って「キャンセル」するべくあらゆる手を尽くす。 「社会的に望ましい者だけが、自由を付与されるべきだ」と自由主義者が平然と語る。「悪人にはわれわれ善良な市民と等しい人権や尊厳を与えるべきではない。即刻社会から追い出すべきだ」と人権活動家が声をあげる。「罪刑法定主義など男性優位社会の象徴なのだから潰してしまえ」と法律家が開陳する。「心無い誹謗中傷は人を追いつめるが、こんなクズは死んで当然だ、徹底的に追い込め」とインターネットで自警団が跳梁跋扈する。――そんな時代にわれわれは生きている。小室氏が味わってきた3年間は、いま私たちの暮らす社会を覆いつくす暗雲の小さな予告編に過ぎなかった。小室氏はこの国を離れて当然だろう。私は小室氏と眞子さまの旅立ちを心から祝福したい。「自由」の国アメリカで、どうか幸せな家庭を築いてほしい。本記事と以前の小室氏をテーマにした記事でいただいた原稿料を、それぞれ小室氏にご祝儀としてお渡ししたい。冗談ではなく、本気で言っているので、小室氏からのご連絡をお待ちしております。
「彼は例外」と言えるのか、言っていいのかこの3年近くに及ぶ一連の騒動は、普段は自由で個人主義的な風潮を支持しているはずの社会や人びと(一般市民だけでなく知識人や有識者含む)が、とたんに旧弊な「ムラ」の理屈を突きつけて小室氏にバッシングを展開した挙句、眞子さまと小室氏を実質的に日本で暮らせなくするという結末に終わったのだ。小室氏に向けられていた「ダブスタ」「矛盾」「言行不一致」の嵐は、たまたまそのターゲットが彼だったから向けられていたわけではないと、私は予感していた。むしろ、これらこそが日本の市民社会に広く浸透している本音であり、今後なにか別のトリガーがあれば、他のさまざまな人物や事物に、彼が向けられたのと同じ言動やまなざしが向けられることになるだろう――と、当時から考えていた。――その予感は現在、完全に的中していたと言わざるを得ないだろう。世間の人びとは、口先では自由の大切さを語って見せるが、いざ自分の気に入らない人間の自由、あるいは気に入らないタイプの自由の行使の仕方を見かけたら、直前までの態度をあっさりと放棄して、まるで憲兵にでもなったつもりで「お前には自由は相応しくない」と詰め寄り、あるいは「このような自由の行使をゆるしてもよいのか」と政治権力に告発する。社会的生命を絶って「キャンセル」するべくあらゆる手を尽くす。 「社会的に望ましい者だけが、自由を付与されるべきだ」と自由主義者が平然と語る。「悪人にはわれわれ善良な市民と等しい人権や尊厳を与えるべきではない。即刻社会から追い出すべきだ」と人権活動家が声をあげる。「罪刑法定主義など男性優位社会の象徴なのだから潰してしまえ」と法律家が開陳する。「心無い誹謗中傷は人を追いつめるが、こんなクズは死んで当然だ、徹底的に追い込め」とインターネットで自警団が跳梁跋扈する。――そんな時代にわれわれは生きている。小室氏が味わってきた3年間は、いま私たちの暮らす社会を覆いつくす暗雲の小さな予告編に過ぎなかった。小室氏はこの国を離れて当然だろう。私は小室氏と眞子さまの旅立ちを心から祝福したい。「自由」の国アメリカで、どうか幸せな家庭を築いてほしい。本記事と以前の小室氏をテーマにした記事でいただいた原稿料を、それぞれ小室氏にご祝儀としてお渡ししたい。冗談ではなく、本気で言っているので、小室氏からのご連絡をお待ちしております。
この3年近くに及ぶ一連の騒動は、普段は自由で個人主義的な風潮を支持しているはずの社会や人びと(一般市民だけでなく知識人や有識者含む)が、とたんに旧弊な「ムラ」の理屈を突きつけて小室氏にバッシングを展開した挙句、眞子さまと小室氏を実質的に日本で暮らせなくするという結末に終わったのだ。小室氏に向けられていた「ダブスタ」「矛盾」「言行不一致」の嵐は、たまたまそのターゲットが彼だったから向けられていたわけではないと、私は予感していた。むしろ、これらこそが日本の市民社会に広く浸透している本音であり、今後なにか別のトリガーがあれば、他のさまざまな人物や事物に、彼が向けられたのと同じ言動やまなざしが向けられることになるだろう――と、当時から考えていた。――その予感は現在、完全に的中していたと言わざるを得ないだろう。世間の人びとは、口先では自由の大切さを語って見せるが、いざ自分の気に入らない人間の自由、あるいは気に入らないタイプの自由の行使の仕方を見かけたら、直前までの態度をあっさりと放棄して、まるで憲兵にでもなったつもりで「お前には自由は相応しくない」と詰め寄り、あるいは「このような自由の行使をゆるしてもよいのか」と政治権力に告発する。社会的生命を絶って「キャンセル」するべくあらゆる手を尽くす。 「社会的に望ましい者だけが、自由を付与されるべきだ」と自由主義者が平然と語る。「悪人にはわれわれ善良な市民と等しい人権や尊厳を与えるべきではない。即刻社会から追い出すべきだ」と人権活動家が声をあげる。「罪刑法定主義など男性優位社会の象徴なのだから潰してしまえ」と法律家が開陳する。「心無い誹謗中傷は人を追いつめるが、こんなクズは死んで当然だ、徹底的に追い込め」とインターネットで自警団が跳梁跋扈する。――そんな時代にわれわれは生きている。小室氏が味わってきた3年間は、いま私たちの暮らす社会を覆いつくす暗雲の小さな予告編に過ぎなかった。小室氏はこの国を離れて当然だろう。私は小室氏と眞子さまの旅立ちを心から祝福したい。「自由」の国アメリカで、どうか幸せな家庭を築いてほしい。本記事と以前の小室氏をテーマにした記事でいただいた原稿料を、それぞれ小室氏にご祝儀としてお渡ししたい。冗談ではなく、本気で言っているので、小室氏からのご連絡をお待ちしております。
小室氏に向けられていた「ダブスタ」「矛盾」「言行不一致」の嵐は、たまたまそのターゲットが彼だったから向けられていたわけではないと、私は予感していた。むしろ、これらこそが日本の市民社会に広く浸透している本音であり、今後なにか別のトリガーがあれば、他のさまざまな人物や事物に、彼が向けられたのと同じ言動やまなざしが向けられることになるだろう――と、当時から考えていた。――その予感は現在、完全に的中していたと言わざるを得ないだろう。世間の人びとは、口先では自由の大切さを語って見せるが、いざ自分の気に入らない人間の自由、あるいは気に入らないタイプの自由の行使の仕方を見かけたら、直前までの態度をあっさりと放棄して、まるで憲兵にでもなったつもりで「お前には自由は相応しくない」と詰め寄り、あるいは「このような自由の行使をゆるしてもよいのか」と政治権力に告発する。社会的生命を絶って「キャンセル」するべくあらゆる手を尽くす。 「社会的に望ましい者だけが、自由を付与されるべきだ」と自由主義者が平然と語る。「悪人にはわれわれ善良な市民と等しい人権や尊厳を与えるべきではない。即刻社会から追い出すべきだ」と人権活動家が声をあげる。「罪刑法定主義など男性優位社会の象徴なのだから潰してしまえ」と法律家が開陳する。「心無い誹謗中傷は人を追いつめるが、こんなクズは死んで当然だ、徹底的に追い込め」とインターネットで自警団が跳梁跋扈する。――そんな時代にわれわれは生きている。小室氏が味わってきた3年間は、いま私たちの暮らす社会を覆いつくす暗雲の小さな予告編に過ぎなかった。小室氏はこの国を離れて当然だろう。私は小室氏と眞子さまの旅立ちを心から祝福したい。「自由」の国アメリカで、どうか幸せな家庭を築いてほしい。本記事と以前の小室氏をテーマにした記事でいただいた原稿料を、それぞれ小室氏にご祝儀としてお渡ししたい。冗談ではなく、本気で言っているので、小室氏からのご連絡をお待ちしております。
――その予感は現在、完全に的中していたと言わざるを得ないだろう。世間の人びとは、口先では自由の大切さを語って見せるが、いざ自分の気に入らない人間の自由、あるいは気に入らないタイプの自由の行使の仕方を見かけたら、直前までの態度をあっさりと放棄して、まるで憲兵にでもなったつもりで「お前には自由は相応しくない」と詰め寄り、あるいは「このような自由の行使をゆるしてもよいのか」と政治権力に告発する。社会的生命を絶って「キャンセル」するべくあらゆる手を尽くす。 「社会的に望ましい者だけが、自由を付与されるべきだ」と自由主義者が平然と語る。「悪人にはわれわれ善良な市民と等しい人権や尊厳を与えるべきではない。即刻社会から追い出すべきだ」と人権活動家が声をあげる。「罪刑法定主義など男性優位社会の象徴なのだから潰してしまえ」と法律家が開陳する。「心無い誹謗中傷は人を追いつめるが、こんなクズは死んで当然だ、徹底的に追い込め」とインターネットで自警団が跳梁跋扈する。――そんな時代にわれわれは生きている。小室氏が味わってきた3年間は、いま私たちの暮らす社会を覆いつくす暗雲の小さな予告編に過ぎなかった。小室氏はこの国を離れて当然だろう。私は小室氏と眞子さまの旅立ちを心から祝福したい。「自由」の国アメリカで、どうか幸せな家庭を築いてほしい。本記事と以前の小室氏をテーマにした記事でいただいた原稿料を、それぞれ小室氏にご祝儀としてお渡ししたい。冗談ではなく、本気で言っているので、小室氏からのご連絡をお待ちしております。
世間の人びとは、口先では自由の大切さを語って見せるが、いざ自分の気に入らない人間の自由、あるいは気に入らないタイプの自由の行使の仕方を見かけたら、直前までの態度をあっさりと放棄して、まるで憲兵にでもなったつもりで「お前には自由は相応しくない」と詰め寄り、あるいは「このような自由の行使をゆるしてもよいのか」と政治権力に告発する。社会的生命を絶って「キャンセル」するべくあらゆる手を尽くす。 「社会的に望ましい者だけが、自由を付与されるべきだ」と自由主義者が平然と語る。「悪人にはわれわれ善良な市民と等しい人権や尊厳を与えるべきではない。即刻社会から追い出すべきだ」と人権活動家が声をあげる。「罪刑法定主義など男性優位社会の象徴なのだから潰してしまえ」と法律家が開陳する。「心無い誹謗中傷は人を追いつめるが、こんなクズは死んで当然だ、徹底的に追い込め」とインターネットで自警団が跳梁跋扈する。――そんな時代にわれわれは生きている。小室氏が味わってきた3年間は、いま私たちの暮らす社会を覆いつくす暗雲の小さな予告編に過ぎなかった。小室氏はこの国を離れて当然だろう。私は小室氏と眞子さまの旅立ちを心から祝福したい。「自由」の国アメリカで、どうか幸せな家庭を築いてほしい。本記事と以前の小室氏をテーマにした記事でいただいた原稿料を、それぞれ小室氏にご祝儀としてお渡ししたい。冗談ではなく、本気で言っているので、小室氏からのご連絡をお待ちしております。
「社会的に望ましい者だけが、自由を付与されるべきだ」と自由主義者が平然と語る。「悪人にはわれわれ善良な市民と等しい人権や尊厳を与えるべきではない。即刻社会から追い出すべきだ」と人権活動家が声をあげる。「罪刑法定主義など男性優位社会の象徴なのだから潰してしまえ」と法律家が開陳する。「心無い誹謗中傷は人を追いつめるが、こんなクズは死んで当然だ、徹底的に追い込め」とインターネットで自警団が跳梁跋扈する。――そんな時代にわれわれは生きている。小室氏が味わってきた3年間は、いま私たちの暮らす社会を覆いつくす暗雲の小さな予告編に過ぎなかった。小室氏はこの国を離れて当然だろう。私は小室氏と眞子さまの旅立ちを心から祝福したい。「自由」の国アメリカで、どうか幸せな家庭を築いてほしい。本記事と以前の小室氏をテーマにした記事でいただいた原稿料を、それぞれ小室氏にご祝儀としてお渡ししたい。冗談ではなく、本気で言っているので、小室氏からのご連絡をお待ちしております。
「社会的に望ましい者だけが、自由を付与されるべきだ」と自由主義者が平然と語る。「悪人にはわれわれ善良な市民と等しい人権や尊厳を与えるべきではない。即刻社会から追い出すべきだ」と人権活動家が声をあげる。「罪刑法定主義など男性優位社会の象徴なのだから潰してしまえ」と法律家が開陳する。「心無い誹謗中傷は人を追いつめるが、こんなクズは死んで当然だ、徹底的に追い込め」とインターネットで自警団が跳梁跋扈する。――そんな時代にわれわれは生きている。小室氏が味わってきた3年間は、いま私たちの暮らす社会を覆いつくす暗雲の小さな予告編に過ぎなかった。小室氏はこの国を離れて当然だろう。私は小室氏と眞子さまの旅立ちを心から祝福したい。「自由」の国アメリカで、どうか幸せな家庭を築いてほしい。本記事と以前の小室氏をテーマにした記事でいただいた原稿料を、それぞれ小室氏にご祝儀としてお渡ししたい。冗談ではなく、本気で言っているので、小室氏からのご連絡をお待ちしております。
小室氏が味わってきた3年間は、いま私たちの暮らす社会を覆いつくす暗雲の小さな予告編に過ぎなかった。小室氏はこの国を離れて当然だろう。私は小室氏と眞子さまの旅立ちを心から祝福したい。「自由」の国アメリカで、どうか幸せな家庭を築いてほしい。本記事と以前の小室氏をテーマにした記事でいただいた原稿料を、それぞれ小室氏にご祝儀としてお渡ししたい。冗談ではなく、本気で言っているので、小室氏からのご連絡をお待ちしております。
小室氏はこの国を離れて当然だろう。私は小室氏と眞子さまの旅立ちを心から祝福したい。「自由」の国アメリカで、どうか幸せな家庭を築いてほしい。本記事と以前の小室氏をテーマにした記事でいただいた原稿料を、それぞれ小室氏にご祝儀としてお渡ししたい。冗談ではなく、本気で言っているので、小室氏からのご連絡をお待ちしております。