「テストで100点を連発するのはかなりマズい」現役東大生がそう考える納得の理由

みなさんは、テストで100点を取ったことはあるでしょうか。『ドラえもん』のようなフィクションの中ならいざ知らず、意外と現実で目にする機会は少ないのではないでしょうか。
かくいう僕自身も、「テストで100点をとる」なんてほとんどありませんでした。小学生の頃はいざ知らず、中学生以降になると勉強も難しくなってきます。100点なんて夢のまた夢といったありさまでした。
では、「100点のテスト」は、本当に価値があるのでしょうか。むかしの僕はテストが返ってくると「いい点かどうか」で一喜一憂していました。もちろん返ってきた答案が100点だったなら、狂喜乱舞していたことでしょう。
ですが、いまの僕からすれば、そこまで喜ぶべきことではないように思えます。むしろ、「テストで100点を連発する」ような状況があったなら、かなりまずいのではないかと思うのです。
それは、テストの目的は「いい点を取ること」ではないからです。ここの目的意識をはき違えてしまうと、知らず知らずのうちにさまざまな大事なことを失ってしまうかもしれません。
今回は「100点のテスト」に隠された目的意識の必要性についてお伝えします。
どうして、たかがテストを受けるのにも目的意識を持たなくてはいけないのでしょうか。それは、「いま自分は何のためにこれを行っているのか」がハッキリしているのかどうかで、とるべき行動や下すべき判断の方向性が大きく変わってくるからです。
この方向性の違いが、後々大きな差異を生みます。計画段階ならともかく、実際に実行に移す段階として、目の前の一つひとつの仕事をこなすときには、ついつい「その仕事をこなすこと」それ自体が目的になってしまいがちです。
そうではなくて、具体的かつ細かい仕事をこなすときにこそ「自分が持っている最終的な目的」を意識しなくてはならないのです。
例えば、先ほどの「100点テスト」の例で考えてみましょう。あなたは高校3年生です。大学受験を本格的に意識する年になったあなたは、第一志望の大学に合格することを目標として、勉強を頑張る「受験モード」になることにしました。
さて、そんなあなたが布施川予備校の主催する模試(ここでは布施川模試とします)を受けたところ、なんと100点満点でした。もちろんすべてがすべて100点満点というわけではありませんが、100点を取った科目以外も90点以上の高水準にまとまっています。
では、ここで質問です。あなたは、次回もこの布施川模試を受け続けますか?
「もちろん受ける!」という方は、残念ながら落ちるタイプの受験生です。それは、目の前の些事に気を取られてしまい、最終的な目的地が見えていないからです。
どうして、この模試を受け続けてはいけないのでしょうか。それは、「布施川模試を受ける」という行動が、「第一志望の学校に合格する」という目的と、全くつながっていないからです。それは、模試を受ける理由が自分自身の実力の判別にあるためです。
「おいおい、模試の意義は実力の判別なら、布施川模試とやらを受けて自分の実力を確認できるのだから、いいじゃないか」と思われた方もいらっしゃるかもしれません。確かに、最初の一回目の受験は意義があるものでした。
しかし、この状況で二回目以降も同じ模試を受けることは、自己満足を満たす以外に全く意義のない、大変無駄にあふれた非生産的な行為だと僕は考えています。最終的な目的地が見えていないと、この事実に気付くことができません。
もし仮に、この布施川模試が第一志望校の入試問題と同じレベルの問題を出題してくるというのなら、次回以降も受験していいと思います。ですが、そうでないのなら、やはり受験は避けるべきです。全くの時間の無駄にしかなりません。
受験勉強の話に限らず、自分が成長していくためには、「自分のできていないところ」を見つけては、そこの軌道修正を行うという作業が必須になります。自分の足りないところを見つけては、その弱点を補うように勉強や練習を積むことで、レベルアップすることができるのです。
ですが、自分自身に見える範囲というものは案外狭いものです。「自分は全くの苦手だと思っていたことが、実はそこまで劣っているわけではなかった」なんてことも多々あります。
「これは得意」や「これは苦手」のような主観に偏った判断では、自分の実力を正確に判断することができません。だからこそ、客観的に判定してくれる目が必要となります。受験勉強で言えば、模試がこれに当たります。
模試とは、自分自身の実力や、予期せぬ弱点がないかどうかをチェックする「健康診断」のような場所です。ここでは、さまざまな実力の人が一堂に会し、テストを受験することによって、2つの評価を得ることができます。1つは偏差値という相対的な評価、もう1つは点数という(一見)絶対的な評価です。
偏差値とは、ある集団の平均を偏差値50としたときに、その集団内で自分がどれくらいの立ち位置にいるのかを知るための指標です。ですから、ある集団の中では偏差値80をとれるのに、別の集団に行くと偏差値50もとれないなんて事態も十分あり得ます。
実際、僕が高校生の頃に受けたある模試では、全国偏差値では60程度だったにもかかわらず、校内偏差値が100を突破していました。これは、「全国的に見るとちょっと良い程度の成績だが、学校内ではとびぬけていい成績」ということを表します。
よくテレビで言われる「偏差値○○」ですが、結局どんな集団の中で測った偏差値なのかが重要なのです。簡単な場所でとった高偏差値は、結局見掛け倒しにしかすぎず、中身が伴うものではありません。
一方で、点数はどうか。これは確かに数字という絶対的な評価で下るスコアです。模試Aと模試Bでそれぞれ100点を取ったなら、それらは一見すると等価値に見えます。
でもこれは大きな勘違いです。同じ100点でも、競う場所が異なると大きく意味合いが変わってきます。小学校の算数のテストで50点を取るのと、東大入試の数学で50点を取るのとでは全く難易度が異なるように、どこで争うかによって、やはり点数の重みも大きく変わってくるのです。
東大生が、小学生に交じりながら「今度の九九のテスト、絶対100点取るぞ!」と息巻くのは、ちょっと格好悪く思えませんか。同じように、模試を受ける際にも、その難易度が自分にあっているものかどうかを確認しなくてはいけません。
そのために求められる態度は「100点を取ってやろう」ではなく「自分に足りないところがないか、いま一度確認しよう」です。「100点」という与えられた点数ではなく、その点数が意味するところは何かを気にするべきでしょう。
ですから、実は「100点のテスト答案」というものは、それほど価値がありません。先ほども言ったように、一度100点を取ったテストを再度受け続けるのは、小学校のテストに東大生が参加するようなものになっている場合があるからです。
一回1位を取れたなら、もうそこは戦うべきフィールドではありません。自分にとって簡単すぎるフィールドで戦っても、何も得るものなんてないからです。最初から勝つと分かっている勝負をするなんて、時間の無駄以外の何物でもないでしょう。
そんな恥ずかしいことをしている暇があるなら、もっと上のレベルへ登っていく方がずっと生産的です。そこでは、なかなか苦戦を強いられるかもしれませんが、一方で「自分にできていないところ」がどんどん提示されるので、成長の機会に富んでいるということでもあるからです。
それでは、どこまで上がっていけばいいのか。自分の弱点を見極めるというなら、「0点の答案が返ってくるテスト」が最高なのでしょうか。
結論から言うと、「0点のテスト」についても、やはりあまり価値がありません。テストで0点やそれに近しい点数を取るということは、「あなたはまだこのテストを受けられるような段階にいませんよ」ということを表しているからです。
実際、僕が高校3年生の夏に東大の冠模試を受験したとき、数学の点数が3点しか取れませんでした。もちろん全力で取り組んではいたのですが、問題文の1文目から全くわからなかったので、結局試験時間中ずっと寝てしまったのでした。
つまり、100点答案が「このテストは自分にとって簡単すぎる」ことのみを表したように、0点答案は「このテストは自分にとって難しすぎる」ことのみを表すのです。レベルアップしたと確信があるならともかく、次回も受ける価値があるとは言えません。
一番価値があるのは、意外なようですが「40点から80点くらいのテスト」です。つまり、「そこそこ戦えているけれど、まだまだ完璧には程遠い」くらいの答案が返ってくる方が、自分の成長という観点から見れば、ずっとうれしいのです。
今日は、ここまで「100点のテスト」は喜ばしいことではないということをお伝えしてきました。自分の実力を判断するうえで、「このレベルなら全く問題がない」と判定が下るのは、やはりうれしいことです。
しかし、そのうれしさに負けてしまい、次回以降もそのぬるま湯につかり続けてしまうと、それ以上のレベルに上がることができなくなってしまいます。自分が気持ちよくなるためだけに、無駄な時間とお金をかけるなんて娯楽でしかありません。
「100点のテスト」を連発するのも、娯楽だと思えば、それはそれで結構です。しかし、この場合「このテストを受けているのは勉強のためだ」なんて思ってはいけません。勉強のために受けているなら、もっとマシなレベルのテストを受けた方が、本人にとっても、周りの受験生にとっても、ためになります。
最終的に、自分は何をすべきなのか。そのためには、何を意識しながら目の前のことをこなすべきなのか。これらの意識があるかどうかで、時間や作業の効率が大きく変わってきます。
例えば、自分に合った難易度のフィールドで戦っているかどうか。点数のような一見絶対的に見える評価に頼ってしまうと、これを見極める目が曇ってしまいます。すると、大きな目的を持っていたとしても、つい目の前の些事に集中してしまうなんてことになりかねません。
そんな時こそ立ち止まって、「どうして自分はこんなことをしているのだろう」と考える時間を取ることをお勧めします。「自分は100点が欲しかったのではなく、もっと頭が良くなりたかったんだ」というところに気付くきっかけを得ることで、逆に効率よく物事を進めることができるかもしれません。
———-布施川 天馬(ふせがわ・てんま)現役東大生ライター世帯年収300万円台の家庭に生まれ、金銭的余裕がない中で東京大学文科三類に合格した経験を書いた『東大式節約勉強法 世帯年収300万円台で東大に合格できた理由』の著者。最新刊は『東大式時間術』。———-
(現役東大生ライター 布施川 天馬)